77. 芸術家の想像的飛躍
 
ヨシダ・ヨシエ
 
 食事をしながら、三木先生の『排泄に関する試論』をあらためて読む。
 
 もうすこし正確にいえば、食事というほどではなく、ハモの三杯酢をつつきながら、バーボン・ウイスキーを喉にながしこんで、三木先生の論文を読んでいたのである。三木先生流にいえば、“内臓系の切迫”の情況を一挙に解釈するには、なにか喰べながら、排泄について考えるのが望ましいのではないかと、漠然と考えたからである。その上、これも三木先生ふうにいえば、もともと、まっ昼間からバーボンなどを飲んでいるのは、これはわたしが「無明界」の住人である証しであって、それゆえに、「入」と「出」とのバランスに敏感でなければなるまいとおもうのである。
 
 そういえば、やはりまっ昼間からウイスキーをながしこんでいたのは、三木先生が亡くなる前の年の初夏のころだった。上野の森は、つややかにして新緑の毒素、地に充つ季節だったが、わたしは先生を讃仰してやまぬ妙齢の女性アーティストのお供をして、フォルマリン漬の胎児の標本とウイスキー(ただし、これは下の戸棚に隠匿しておられる風情であったが)を雑居させた空間で、ときに地球の造陸・造山運動の巨大な搏動のさなかに翻弄されながら、徐々に形態がつくられてゆく生命の遠いルーツに想いを馳せ、ときに魚から両生類→爬虫類そして哺乳類へと数億年もの「生命記憶」を子宮内で再現しながら、羊水をとび散らして螺旋状にまわりながら、母なる海と訣別して誕生する嬰児のドラマを標本瓶のかなたに凝視し、三木先生の博引傍証談論風発のスパイラル・エクスタシーに達したことであった。アルコール漬とフオルマリン漬の織りなす渦状星雲のなかにいたわけだ。そのネプラやギャラクシイのとび交うなかで、しがない美術評論まがいの雑文を書いているわたしにむかって、三木先生は断乎として宣言されたのである。わたしは美術評論家など、一切信用しておりませんよ。そこはいうまでもなく、芸大の保健センターのなかであり、先生は、いうまでもなく、芸大教授であった。先生の周囲には、勿体ぶった芸術の評論家ふうの輩がウイルスのようにうようよしている現場であった。そして三木先生の宣言は、評論家の高飛車な権力的党首ではなくして、まさに真の芸術家の切迫したそれであったのだ。上野の森に徘徊する受験競争できれいに洗い浄められ解毒されたエリート芸術家志望者と異なって、はげしい想像力の作用に苦悶しながら、「表現」に出遭っているひとの婆がそこにあったのである。空想というものは、なにやらフワフワ空中にうかんだ風船のようなところがあるけれども、想像力というのは、実証と分析の踏み台に立って、一挙に飛躍する知の筋力を必要とする。『空想より科学へ』というのはエンゲルスのいい分であったが、先生は科学を想像力でよみがえらせようとされたようにみえる。それは、時代が単純な権力形態で抑圧されていた時代には、死を賭してもそれをはねのけて発明発見や学問の進歩に立ちむかう天才が出る気配もあるが、今日のようにおびただしいスペシャリストやプロフェッショナルが、細分化された世界に住み、十重二十重の概念の層がとり囲んでいるような時代には、余程強靭な想像的飛躍力を持たなければ、それを越えることにはならないであろう。それは、まったく芸術家のほんのわずかのひとに恵まれた天啓であって、それは他人に衝撃を與えずにはおかないものである。
 そのショックの後遺症の発展的段階を、自分の宣伝を兼ねて報告させていただけば、じつはこれを機会に、長年わたしの大脳皮膜のあたりに影を落としていた命題、蛇に関する論文を書こうとおもいいたったのである。蛇が何故、人類の人種、国籍、性別、年齢、職業を越えて、わたしたちの意識下の緊張にみちたコムプレックスとして存在するのかを、考えるきっかけになったのである。神話、伝説、民間伝承、生物学、動物行動学、地質学、美術史および美学、宇宙論、その他なんでも、手あたり次第、ジャンルを越えて、「生命記憶」としての渦状の問題を渦状に思考する渦中に墜ちた、といってもいいかもしれない。このようにエリアをわきまえぬ発言には、言うもおこがましいが、多少の予言者的飛躍と、多分の狂気とを必要とするので、それには三木先生の想像的発条力と発情力を必要としなければならないのである。現在、あまり大言壮語できる状態ではなく、三木先生のインタビユーも出版したところの催促をうけながら、ラビリンスを彷徨する態であるが、この書、『蛇の黙示録(アホカリプス)』は、人間の表現営為というエロス世界を考える、わたしの今後の果てぬ課題を多少引きだすことになってしまうだろう。いまさら三木先生の、わたしに提起された核融合なみの衝撃の大きさを噛みしめている次第だが、これは「排泄」可能であろうか。
 三木先生を一緒に訪ねた折の、妙齢のアーティストは、その後、結婚して、おなかのなかで数億年の生物史を復習し、ご本人が意識したかどうかは知らぬが、胎内に造陸・造山運動の余韻をひびかせたことであろうが、わたしの方は「無明界」にあって、アルコールのなかに、なつかしいフォルマリンのにおいを嗅ぎつづけているにちがいない。
                                    (美術評論家)