78. 三木先生の思い出
 
若麻績 敏隆
 
 私が先生の許を初めて訪ねたのは、芸大時代、生物の授業の終わったある日の夕方であった。私は、その日、一本のカセットテープとテープレコーダーを携えて、保健管理センターの扉を叩いたのである。そのテープには、私の祖父と父とが双盤という直径四十センチほどの鐘を叩きながら念仏をしている状況が録音されていた。この双盤の念仏は、私たちの一族が代々伝えてきたものであるが、先生の生命記憶のお話に触発された私は、日頃言い知れぬ愛着を感じていたこの響きを、ぜひ先生に聞いて頂きたいと、この日の訪問を思いたったのであった。正直なところ、ずいぶん見当違いなものをお聞かせするのではないかという一抹の不安があったのも事実であった。
 私の危惧をよそに、先生は私をとてもあたたかく迎えてくださった。そして、大いにその響きがお気に召された御様子で、その録音テープをぜひ譲ってくれるようにと申し出られたのであった。私は、その日、先生と直かにお話できたことが嬉しくて、小躍りしたいような気分で家路についた。
 その後は、しばしば、先生をお部屋にお訪ねした。授業の後、十人ほどで集まって先生が奥から出してきてくださる、とっておきのウイスキーを飲みながら、生命の神秘についておおいに語り合ったこともあった。なにか、日頃飢えているものがそこにはあって、皆、それを求めてこの場に集まってきたようであった。先生は、それほどお酒にお強いほうではなかったようであったが、こんな日は、日頃に増してたいそう御機嫌であった。ほかの美術大学からも先生の評判を聞きつけて何人も学生が集まってきていた。
 先生の授業は、いつも独特の熱気に満ちていた。何よりもまず、先生ご自身が、感動されて、講義されているのがよくわかった。そうした、先生の感動はそのまま私たち学生の感動として伝播し、私たちは、ぐいぐいと先生の世界へ引き込まれていくのであった。植物的な形と動物的な形、内臓系と体壁系、そして遠観得的世界と近感覚的世界。私たちは、スクリーンに浮かび上がる様々な形象を、何かある種の秘儀にでも立ち会っているかのように見入ったものである。
 恐らく、かの釈尊が、その感覚器官を統御して菩提樹下で観たものも、三木先生のおっしゃる、遠観得的世界であったのではあるまいか。釈尊は、目先の動物的な感覚の高揚を抑えるため、本能的な行動を律することを勧められた。それは、人間が近感覚的世界に埋没するのを抑止するためであったのだろう。ただ、生物本来の本能的行動すべてを、単純にネガティブに評価した場合、人間存在を生物全体の生命リズムから隔絶したものとする、極めて観念的な思考に行き着く可能性をももっていた。灰身滅智とよばれる虚無的な境地や、欲しさえすれば永遠に生き続けることができるというような、超人的な釈尊観は、こうした思考の延長線上にある。これは、三木先生があり得ないと断言される、宗教的な無限に伸びる直線の観念に外ならない。
 生命の永遠とは、われわれが、個々の我からはなれ、宇宙の生命と不可分の生命を生きているという実感のなかにあるときはじめて実現するものであって、個我的な生存の永続性を言うのではなかろう。そしてそれは、まさしく三木先生のいわれる、遠観得的な世界と直接に繋がるものであると思われる。三木先生は、宗教の分野にも大変造詣が深かった。しかし、宗教を説くことは決してなかった。だが、先生の説かれたことは、宗教以上に宗教的であったように私は思う。
 先生とは、屋久島の千年スギを見に行こうとお約束していたけれど、その後、先生は屋久島をお訪ねになったであろうか。そういえば、いつも先生が夏休みにこもられた、志賀高原の奥には、カヤノ平と呼ばれるブナの原生林のひろがったところがあり、そこにもぜひ先生をお連れしたいと思っていたが、今はそれも果たせないこととなってしまった。
 先生は、あまりにも早く逝ってしまわれた。しかし、先生が伝えてくださった、遥かなる生命記憶の世界は、私にとって、本当にはかり知れないすばらしい贈物であった。そしてあの 『胎児の世界』をひもとけば、そこには、いまでもちゃんと先生がいらっしゃって、慈愛に満ちた、どこかしらおごそかな表情でゆっくりとうなづかれているように思われるのである。
 私は、ふと、その昔、命を賭してまでも遥かなる西天の地より東方へ経典を伝えた、三蔵法師のすがたを先生にかさね合わせてみたくなった。
 
(善光寺白蓮坊副住職 大正大学副手)