79. 三木先生の思い出
 
板垣 悟
 
 私が初めて三木先生にお会いしたのは高崎市の哲学堂で行われた先生の講演会でのことでした。一九七五年の秋のことだったと思います。当時高校生だった私たちは、解剖学者で芸大の先生であり、ゲーテのファウストやクラーゲスという哲学者とも関係があるらしいということで、いったいどんな先生なのだろうと待ちかまえていました。「原形に関する試論」など、いくつかの先生の論文を読んで、私たちはいよいよその思いを強くしていました。
 「“こころ”と“あたま”―人類の生物史的考察―」と題する当日の講演は、私は一解剖学者にすぎませんと静かな口調で始まり、緊張感をおびた迫力のあるものでした。しかけしくみのあたまの世界に対して、すがたかたちのこころの世界があり、私たち人間の生も生命のリズムの一環として大宇宙に連なるという壮大な世界について、お話は二時間余りにわたりました。私は漠然と予感していたものが静かに形を成していくような不思議な思いにとらえられ、身体中に興奮が湧き上がるのを覚えました。
 その後、芸大の生物の授業を聴講させていただき、その頃ちょうど連載が始まった「生命の形態学」の原稿の清書をする機会に恵まれた私は、先生の専門とする比較解剖学はゲーテの形態学に深く関わることをしって、ゲーテを学ぼうとドイツ文学に進みました。それからもときどき保健センターに先生をたずね、いろいろとお話をうかがいました。
 ある秋の夕暮れ、上野公園を歩きながら、先生に卒論のことをきかれ、構想もまとまっていなかった私は、ゲーテの植物メタモルフォーゼを稲の成長過程の観察を通して実習したいと思うと答えました。先生は立ちどまって大きくうなずかれ、西洋の自然科学の中で本当に大和民族に合うのは結局、ゲーテの形態学だけであり、ゲーテとクラーゲスと自分だけで、しかけしくみの自然科学的思考の世界に対する天秤をささえているんだとおっしゃっていました。
 またゲーテのメタモルフォーゼの概念に時間はどのように意識されているのかと、メタモルフォーゼの歴史性の問題についておききしたときには、自分のフィロゲニーの図は先ずゲーテに見せたかったとおっしゃっていました。
 色彩論は定年後にとっておくと言っておられた先生は、ファウストの完成に心を砕きながら自然研究にうむことのなかった晩年のゲーテのように、深い思索の中に人間について生命について実り豊かな思想を熟成させていかれるのだろうと、私たちは先生の今後の展開を期待していました。それだけに先生の突然の死はなんとも残念でなりません。
 先生と出会ってゲーテを教えられた私は、ゲーテを通して三木先生の世界を模索しようとしていたようにおもいます。いま先生を亡くして一つの大きな世界が閉ざされてしまったような、何とも途方に暮れた虚脱感をどうすることもできません。