82. 三木成夫さんとの出会い
 
内田芳明
 
 三木成夫さんを知るようになったのは、志賀高原の石ノ湯山荘においてであった。そしてその出会いが私の生涯にとっての一つの出来事となるのは、一九七七年の八月のある一夜のことであった。
 私が石ノ湯山荘に毎夏のように長期滞在するようになったのは、一九六四年がどうやら最初らしい。石ノ湯の主人児玉貞雄さんと親しくしていた杉本さんが神奈川大学で物理学を教えていて、私と研究会などで親しくしていた関係で、私は石ノ湯に行くようになったのである。
 その頃は、熊ノ湯温泉から登って横手山の斜面を白根山、草津温泉にぬける道は、人が一人やっと通れるような細い道で、足をすべらせれば谷底に落ちるというような状態だった。(今は立派な自動車道路になっている)。そんな危ない道を通って、むろん徒歩で、山田峠や白根山の方までよくハイキングに出かけたりしたものだ。石ノ湯山荘の前には広場がある。その向こうの崖下に、熊ノ湯温泉の方から流れてくる川があって、水がまだきれいでヤマメなどが沢山住んでいた。ホタルも沢山いた。石ノ湯は、冬はスキー客でいっぱいになるが、夏はあまり泊り客はなく、ごく親しい客が毎夏のように幾日かづつ泊りに来るという程度であった。時には高校生などの合宿で満員となることがあって、そんな時には私など長期滞在者は臨時にどこかへ泊りにやらされるのであった。そんな時に、一夜、石ノ湯山荘の親類すじに当たる石ノ湯ホテルが、その頃建ってすぐ坂の上にあって、三泊ほど、私と三木さんが、そこに移されたので、一夜二人だけの夕食を共にする機会を持つことになったのだった。三木さんはその時は一人で石ノ湯に滞在していたのであった。
 三木さんは、それよりも二、三年前から毎夏に石ノ湯に来ていたはずで、いつもは家族と来ておられ、食事の時などに顔を合わせて、通り一篇の挨拶程度の話しかしなかったように思う。それが、二人だけで石ノ湯ホテルに泊まって、一つテーブルで夕食をとったのだから、自然とゆったりとした話が始まった、というわけなのである。ほかの客はほとんどいなかったように記憶している。
 その時、三木さんは何かの話の調子でいきなり、「精神」(Geist)というやつが、人間と文化に大きな禍をもたらすのです、というような、当時の私にとっては聴き捨てならぬ刺激的なことを口にされたのだった。私はむろん若い時から、ドイツ観念論哲学で育ってきた人間であるし、社会学の領域でも、トレルチやマイネッケやヴェーバーのような思想世界にずっと生きてきた者である。その思想世界のいわば核心にある 「精神」を頭から否定してかかるこの三木さんの唐突な発現にはいささか驚き、非常に抵抗を感じたことは言うまでもない。ドイツ精神史の深い世界に霊感をうけて育ってきた私のことであるから、この三木さんという人は、西洋の歴史的世界のことなど何も知らないで一体何を言うか、というような気持を腹の底に抱きながら、それでも私にとって全く不思議なこと、 「精神」を真っ向から否定するようなこと、を言うこの人は一体どういう人なのだろうか、という興味を感じたことも事実であった。
 三木さんは、そんな私の心の底の反応などはさも当然といわぬばかりに、例の物静かな調子で、しかしネバリっこく、じわりじわりと、三木さんお得意のあの「宗族発生と個体発生」についての話の方にぐんぐん入っていくのであった。人間の胎児は、それが生まれ出るまでには、胎内で億年の生物進化の諸段階をわずか一年足らずの月日の間に経過するのだ、というのであり、その胎児の初期のものを解剖学的に見れば、魚がエラで呼吸しているのと全く同じだと情熱的に強調してはばからなかった。この話が私をぐいぐいと引きづり込んでいってしまったらしいのである。
 そして、やがて、三木さんのその思想的背景について、つまりはクラーゲス的世界について、三木さんは私に語り始めるのであった。
 話は、三木さんをクラーゲスに導いた三木さんの先生千谷七郎教授のことになった。昔千谷七郎氏が東大医学部精神科で指導教官内村裕之の下で医学の研究をしていた頃、氏は、ヤスパース流の精神医学の研究に何か方法論的に行き詰まってしまって、内村裕之のところに行き、何かそれと違った方法の研究者はいないか、と問うたところ、内村は部屋の書棚から一冊の本を取り出して、これは私の立場とは違うけれども、ひとつ読んでみないか、とすすめてくれたという。その一冊の本がルートヴィッヒ・クラーゲスの本であった。クラーゲスを弟子に読ませる内村も偉かったけれども、これは劇的な瞬間であった、ということになる。なぜなら、ヤスパースはマックス ヴェーバーの弟子であって、合理的理解を精神病理学の中心に据えた人であるが、クラーゲスはヤスパースの立場からみれば非合理的立場とみられるはずの、心情学、正情学の立場に立ち、全く別の世界を切り開いていた人だからである。そしてその後千谷七郎氏はクラーゲスに沈潜することによって、益々クラーゲスに全身全霊を奪われるようになった。かくして一方では、後に千谷氏が奉職した東京女子医科大学精神科を中心としたいわばクラーゲス学派が形成され、他方では東大のヤスパースに立脚する内村裕之の研究の流派があって、対立する二つの学問的な流れがここに形成されるに至るからである。
 このようなことを語りながら三木さんは私に、「ガイスト」(精神)に対抗し敵対する「ゼーレ」(心)のクラーゲス的問題意識の異議について熱っぽく語り続けるのであった。半信半疑の気持を抱きながら私は三木氏の言説に興味を感じつつ次第に引きづり込まれていったようである。いま当時の日記をとり出してみてみると、一九七七年八月六日の日記にこんなことが書いてあった。
 
 
 三木さんが間もなく志賀高原を去ってから、直ちにその八月に私は石ノ湯山荘でクラーゲスを読み出している。それから一、二年すぎてからだったと思うが、私は借用していた『表現学の基礎理論』のドイツ語原本を返しに芸大に訪ねたことがある。その時、東大の神経内科の岩田誠さんを交えて三人で芸大の三木さんの研究室で酒を飲みながら心ゆくばかり語り合った。岩田誠さんと知るようになったのはそのような偶然の会合の時だった。いつか又飲んで語りましょう、と言って別れた、あの楽しい一時のことが今も目に浮かぶ。
 ところで、三木さんのお陰でクラーゲスに沈潜し始めた時期と私が幾度かヨーロッパに短い期間ではあったが滞在し、ヨーロッパ各地の旅をする機会を持った時期とが重なっていた。たぶんそんなことのためであろう。私がヨーロッパの旅の印象体験について、大胆な発想でエッセーを書き、『風景の現象学』(一九八五年、中公新書)、『風景と都市の美学』(一九八七年、朝日選書)などの書物を公刊するに至ったのは、実を言えばクラーゲスへの沈潜なしには考えられないことなのである。
 そればかりでなく、現象学的世界への開眼は、従来私が立脚していた経験科学の事象の世界とは、ある意味で対立する世界なのであって、その二つの世界を私の思想的世界において、又社会科学の方法世界において、深く統合する課題を私は自らに課することにもなったのである。むろんここで現象学的世界とは、フッサールやハイデガーたちの言う現象学とは異質であり、ある意味では対立する。日本でも現象学と言えばフッサールとその影響の流れのことを言うのであるから、そういう事情を考慮してクラーゲス自身は、すでに注意深く「現象学」という表現をわざわざ避けて、自らの立場を「表現学」と規定して、そこに自らおさまっているのである。しかし私自身は、そういうことにはおかまいなしに、自分なりに把握したクラーゲス哲学の方法的立場を、それこそを真の「現象学」として理解し、展開していくつもりでいるのである。
 いずれにしても、私の晩年(と言ってさしつかえない年齢になってしまっているが)において、私の新しい思想世界の地平を開いてくれたのはクラーゲスであり、そのクラーゲスとの出会いは、三木さんとの石ノ湯ホテルでの一夜がなかったら、おそらくありえなかったことなのである。
 三木さんが中公新書の一冊に『胎児の世界――胎児の生命記憶――』を書かれて私に一冊送って下さった時に、私に書き送ってくれたハガキをみると、次のように記されている。
 
 
 その千谷先生を三木さんと一緒に訪ねておけばよかった、と今はつくづく思う。それは私の怠慢であったが、深く悔やまれてならない。善事は急いで決行すべきなのである。私の方では電話などで話すことがあると、いつも私は、岩田さんと三人で又飲もう、などと時々言っていたのだが、それも果たさないで終わってしまった。今はただ、三木さんとの山荘の一夜が私の生涯にとっても幾つかの最も重要な出来事の一つとして、心の記念碑に刻み込まれている、ということだけを、感謝の思いをこめてここに記すことにしたい。
(一九八九年三月一日)
(横浜国大教授)