85. 三木さんらしさ
              ――あの特異な研究のかげに――
小谷幸雄
 
 昭和二十年代の後半以来、三木さんは浦和の富永塾の先輩である。千谷七郎教授還暦記念論文集『うぶすな』(勁草書房 一九七二)に『「原形」に関する試論――人体解剖学の根底となるもの』を寄せられた時、筆者は不遜にも『「文明」の批判者――L・クラーゲスと富永半次郎』の一文を捧げた。それから数年後頂戴した次の手紙の「紹介」云々はそれを含めてのことである。
 「拝復 『ロータス』の別刷〈ヘーゲリンと連句手習〉を御恵送下さり有難うございました。何時も変わらぬ御精進に陰乍ら敬意を表しております。また富永先生の御紹介を恐らく貴兄が唯一人堂々と正面切って続けておられる様には頭が下がります。これには色々の見方があることでせうが……(後略)(昭和五十三年)五月九日
 追伸 小生の考え方に御共感戴きうれしく存じます。とくに誤植の御指摘は心から有難く御礼申上げます。小生欧文の世界は生来にが手にて上野へ来ましたのはそれが大きな原因とすら思っているような次第です。今後もどうかよろしく。
 造化の世界に滲み出る古代形象の問題は晩年の富永先生から強い共感を給わりましたものです。現代の小生を支えている恐らく唯一無二の支援でありませう。あの古代の顔貌の写真は誰よりも先生の霊に捧げ度いものです。そして同時にゲーテさらにクラーゲスに……。この二人の西欧の地に育った碩学には宗族発生の実感が非常に希薄というよりも、ほとんど缺如していたのではないか!と日増しに考えさせられている今日この頃です。それ位ユダヤ・キリスト教の業が根深かったといえばそれまでですが……(後略、原文のまま)」
 「強い共感」云々で思い出したのは富永先生の口から聞いた「何万年を一気にかけぬけた……」という三木書簡のことである。その内容を知るべく竹内俊雄氏に電話を入れたら、氏はまさにそれを中心に今回の追悼文を作成してゐるとのことであった。「(先生の脳出血以来)、古生代カンブリヤ紀から五億年一気にかけぬけ、心臓がハラハラしてなりません。生物発生以来悠久なる物語が終わりました。何だか頭がグラグラしてゐます。」(文責小谷)といふことらしいが、この症状(?)は欺らぬ報告であろう。「五億年一気にかけぬけ」にあらはれた遠心力と求心力、並外れて豊かな心情に支えられて外界の規整を自己の生のリズムへと熟(こな)す性能、いのちの波、いや津波の凄まじさである。ここに三木さんの真骨頂がある。今をときめくコンピュータ思考の対極である。
 それにしても江戸前の市隠にムカシトカゲ、何とも奇妙な取合わせだが、時空的に地球大視圏に立ち人間思考の円熟完成を釈尊の正覚に発見した富永師であってみればこの一文は説得力をもつ。いかにも三木さんらしい。因に同師の晩年の発病後の語録の一部は最近桜井保之助助教授『釈尊佛陀の宇宙観――五蘊観によって(上下)』(東京国際大学論叢)に公にされた。
 三木さんらしさといへばあの目の凝視と笑みそれに間をおき過ぎた語り口にあるが、あの発想にはさきに挙げられた東西の人間研究者の影響大である。巨視性と根源からの問――それはケチな専門の縄張りを越え、分科と理科の枠さへ取れてすぐれて全人的、極めて学際的である。大学の教養科目を真に教へる能力のある一パーセントゐるかいなゐかの教授であった。『胎児の世界』の一節が某大学の国語の入試問題に採られたのも頷ける。
 所が、宗族発生の実感を最も強く感じてゐたと思はれるゲーテ、クラーゲスですら、「それが缺如していた」と感じる三木さんの強さが元凶になるとは!前夜のTVの野球の試合を見ての興奮ときくが、人間的な余りに人間的な最後であった。エッカーマンに語ったゲーテの、天才に罠を仕掛ける魔の所為であらう。それにしても二十年は早かった。
 今から二十年前に菊池栄一、千谷七郎両先生を戴いてゲーテ自然科学の集ひを発足させたのも三木さんの隠れた手柄の一つである。その辺の事情を筆者は機関誌『モルフォロギア』\(一九八七)に菊池・三木両先生を偲ぶ一文の中で紹介した。(序ながら本稿三木書簡冒頭のヘーゲリンはL・レーザッツ発案のゲルマン小詩型、その作品を紹介した『クラーゲス思想の詩的展開』と前記『「文明」の批判者――L・クラーゲスと富永半次郎』ほかを最近拙著『遠心と求心――私の比較文学修業』(校倉書房 一九八九)に収めたばかりである。)
 三木とは讃岐と播磨の地名である。三木さんは香川県の産と承ったが、筆者の生地は後者の三木で、この方でも御縁があった。
 
 昨秋、ゲーテ自然科学の集ひ(於大谷大)で養老孟司教授の講演を聴いての帰るさ(ママ)、足は自づと伊良子岬に向かった。風の強い正午すぎ、伊勢を遠望する岬の渚の水は素足に心地よかった。そのときふと浮かんだ一句――
    胎児きく音波の音秋日和         参木
 
(こたにゆきを 立正大学教養部教授)