88. 三木成夫先生の想い出
 
櫻井 洽
 
 三木成夫先生に私が初めてお会いしたのは、確か昭和三十一年春頃、河田町の女子医大病院の医局でした。高等学校以来の友人郷古欣五君が入院していて、見舞いに行った折、回診の千谷七郎先生から、帰りに医局に寄るようにとのお誘いを受け、立ち寄ったところ、たまたま三木先生が居られました。その時は、千谷先生から少し前に戴いた「釈迦仏陀本紀」のお礼や感想を申し上げ、釈尊や仏典のお話を中心に三木先生と聴かせて頂いたように覚えております。その間、三木さんは時折、私には未だよく判らない仏典の語彙などについて質問され、お答に丁寧に頷いておられたのが印象的でした。ただ、それ以前より郷古君から度々三木さんについて聴いていたので、何故か初対面という感じがしませんでした。この日は、その後千谷先生に水道橋の寿司屋で御馳走になりその頃郷古君等と始めたばかりの同人雑誌のことや文学、文士などについて話したように記憶しております。それから二、三日後、三木さんから千谷先生の論文の載っている雑誌「国文学」が送られてきました。早速のお心遣いに感激すると共に、既に珍しくなっていた毛筆の宛名書きに驚き、穏やかで優しい書体に人柄が偲ばれました。
 以来私は、すっかり三木ファンとなり、折あるごとに、郷古君が三木さんと会うときには割り込ませて貰い、結婚してからは家内も何度かお目にかかり、同じく熱烈なファンとなりました。
 お会いする時は大抵私の勤め先のニュー・トーキョーの何処かの店でした。晩年の三木さんとは忘年会を郷古君と三人で催すのが定例化しつつありましたが、以前は夫婦同伴で集まったことも、幼いさやかちゃんが参加したこともありました。三木さんは、あまりアルコールに強くなかったようですが、生ビールの容器は、小振りの脚付きの薄いガラス製のゴブレットを特に好んでおられました。三木美学によれば、先ず視覚的にビールの琥珀色が映え、薄いガラスの唇への感触が何とも云えぬというのがその理由でした。私達は飲食より三木さんの話に期待し、また、その企まざる巧みな話術に魅せられるのが常でした。三木先生の講義はとても面白く有益であったと学生達が評価していたのを聞きましたが、座談は格別の趣がありました。むかし森繁劇団が結成され、有楽座で夫婦善哉が上演されたのを三人で観たことがあります。数日後、本郷の小さなカウンターの居酒屋に再び集まると、その芝居の話になりました。すると三木さんは、やおら椅子を離れ、床の上にしゃがみ込んで森繁の演ずる柳吉がコンロで秋刀魚を焼く体をそこで再現されたのです。新聞紙か何かを渋団扇代わりにバタバタと音立てて、御自分でも悦に入った様子に他の客達も一緒に大笑いしたものでした。
 近年は特に哲学的生物学、哲学的解剖学とでも呼ぶべき三木学の領域の話題が多くなったように思います。私達はこれ等の学問の門外漢でしたが、気のおけぬ仲間として、三木さんも、より自由に熱っぽく、丁寧に説明して下さいました。時には、学説そのものだけでなく、三木学説に反応する様々な人々との交流についても楽しく聴かせて頂きました。
 先年、長男が大学の卒業を控え、進路について迷ったことがありました。工学部から文化系に転科して歴史の勉強をやり直したいというのが彼の意志でしたが、親や指導教授の同意が得られず呻吟していました。その時、家内が三木先生に御相談してはと推め、本人も助けを求め芸大に伺いました。相当吹っきれた顔つきで戻り、「先生は自分の志に反したことはやらない方がよい。世間に妥協して無理をしても結局挫折するだろう。時間をかけても自分の志を育てることの方が大切だ」と云われ、伜もやっと自分を理解して頂けたという感慨があったと云っておりました。伜を勇気づけるためでもあったのでしょうが、「私は音楽をやりたくて上京したが、果たせず、今やっと芸大で学生達を相手に芸術に接し、とても楽しい日々を送っている」と云われたそうです。三木さんとは最後の会合となった昭和六十一年の三人の忘年会の時、転向を決心し、勉強のやり直しを始めた息子のことを改めて御報告したところ、我が事のように喜んで下さいました。
 三木さんが亡くなられる数日前、郷古君宛てに「梅雨明けにはビールパーティをやりませう」という便りを寄せられ、私が三木さんの御都合を伺い設営することになっていました。その電話をしようとしていた矢先に郷古君から三木さんが倒れられたという知らせを受けました。
 昨年の暮、本来なら三木さんも一緒であるはずの忘年会は、家内と伜も郷古邸に招かれ、先生秘伝の三木鍋をつつき、三木成夫さんを偲ぶ一夕となりました。
 
(株式会社 新星苑 常務取締役)