89. 最後の自然哲学者
――今は亡き三木成夫先生を偲んで――
 
高橋 義人
 
 今、私の手許に三木先生の講演を収録したテープがある。一九七九年十一月四日、ゲーテ自然科学の集いで行われた講演で、「ゲーテ『植物のメタモルフォーゼ』に学ぶ」と題されている。この講演テープから聞こえてくる三木先生の温かみのある渋い声音に耳を傾けていると、先生が私の眼の前で私に向かってやさしく話しかけておられるような幻覚に襲われる。先生の話し方はいつも穏やかだが、しかし話に熱が入ってくると、聞いている私自身もいつしか先生の独特の世界のなかへひきずりこまれてしまう。
 そんな先生の独特な語り口に魅了された人は多いだろう。一九七九年十一月四日の東京での講演でもそうだった。先生はその日、胎児が母親の胎内で聞く音を録音したテープを持参してこられた。この音を聞かせると、それまで激しく泣いていた子供も不思議とぴたっと泣きやんでしまう。それは子供のなかに胎児のときの記憶がまだ保持されているからである。いや、子供ばかりではない。その記憶は大人のなかにもかすかに残されていて、たとえば、ブラームスの第一交響曲の冒頭部分でティンパニーが叩く規則正しい低音に、この胎内母心音が再現されていると先生は説かれ、その部分を口ずさまれた。それ以来、ブラームスのこの交響曲を聞くたびに、三木先生のこの日の話が思い出されてならない。
 三木先生の講演を聞いていないと、ブラームスの第一交響曲と胎内母心音とのあいだには何の関係もない、と思われるかもしれない。しかし三木先生の話には、その場に居あわせた人にしか分からない一種の魔力があった。「魔力」といったのは、先生に対して失礼になるかもしれない。先生は別に魔術師ではなく、つねに「科学的」であろうと心がけられていたのだから。しかし話が佳境に入り、熱を帯びて来るとき、先生ははならず何ものかをはっきり掴み、見ておられた。そうして掴み、見てとられたものが聞く者の心に伝わっていったとき、人はそこに「魔力」を感じた。要は、「見られたもの」をいかに人に伝えるかにかかっていたのだ。先生が遅筆であった理由の一つもまたそこにあるにちがいない。先生は、自分が見たものをいかに文字にして書き表わすかに心を砕いておられた。先生は動物や植物の本質的な「かたち」を見、それらがメタモルフォーゼする根源的な「すがた」を見ておられた。しかし「かたち」や「すがた」に関する先生の学説は、それを同じく見た人にしか分からないという宿命を有していた。ゲーテの形態学を今の時代に甦らせたと思われる先生の学問的な仕事が、一部の自然科学者の理解しか得られなかったのはそのためであったろう。先生はゲーテと同じく、近代自然科学の歴史のなかでやはり異端者だったのである。
 先生の仕事をよりよく理解したのは、先生が勤められていた東京芸術大学の学生たちだった。個々の植物のなかにすべての植物を包摂する植物の本質的な「かたち」を見、ヒトの胎児の成長過程のなかに魚の「おもかげ」を、爬虫類の「おもかげ」を、そして原始哺乳類の「おもかげ」を見てとるという三木先生の講義の要諦を芸大の学生は何の苦もなく把握し、それどころかその卒業作品として胎児の顔を油絵や彫刻にいきいきと描きさえした。芸大の学生の方が自然科学者よりも的確に三木先生の話を理解しえた理由は明白であろう。彼らが造形美術の世界で表現しようとしているものも、写真のように精確に写しとられた個々の花の表面的なかたちではなく、個々の花のなかに見てとられた花の普遍的な「かたち」や「すがた」だからである。
 言うまでもなく、このような普遍的な「かたち」や「すがた」は計測することができない。芸術家の眼にとっては明らかであっても、万人の眼にとって明らかではないものを相手にする三木先生の仕事は、計測可能なものしか信じようとはしない今日の自然科学界の風潮にはむろん合わなかった。多くの科学者は先生の仕事を、前世紀の自然哲学の遺物と見なした。しかし先生の本意は、自然科学と自然哲学を今日のように切り離して考えるのではなく、自然科学と自然哲学とを架橋するような、より総合的な「自然学」を構築することでにあった。先生の学問の具体的な目標は、ゲーテの形態学やヘッケルの反復説を継承し完成させることにあったが、この総合的な学の構築という点に関しても、先生の仕事は、これらドイツの巨匠たちの衣鉢を継いでいた。
 当然のことながら、この困難な道を深く進まれれば進まれるほど、先生はゲーテやヘッケルと同じく、西欧近代の必然的趨勢と闘わざるをえなかった。この闘いの過程で、先生は幾度自分の無力なことを感じ、わが身の孤独を託たれたことであろうか。しかしじつは先生は、ご自身が思っておられたほど孤独ではなかった。急逝される十年ほど前から、先生の仕事はその著書、論文、講演を通して、自然科学者のあいだにおいてよりも市井の人々のあいだで高く評価されるようになってきた。社会の近代化、工業化が行きつくところまで行きついたところで、少なからぬ数の人々が計測万能という現代社会の風潮に疑問を覚え、これまでの自然科学とは違った「別の自然科学」の必要性を感じるようになっていたのである。三木先生の仕事は、そのような新しい自然科学の道を切り拓くものとして注目され始めた。私の知っている或る雑誌の編集者は、「三木先生という方は天才なんじゃないかと思うんです」と語って、私を喜ばせた。しかしそうしてようやくにして先生の仕事が広く世間に認められ始めたとき、先生は惜しくも急逝された。
 私が三木先生の訃報に接したのは、ドイツ滞在中のことであった。一九八六年八月二十五日、私がドイツ留学に発つまさにその日に、ゲーテ自然科学の集いの会長的存在であった菊池栄一先生が亡くなられたが、そらから一年後に、今度はゲーテ自然科学の集いの生みの親ともいうべき三木成夫先生が六十一歳の若さで他界されるとは、思ってもいないことだった。驚きと嘆きと困惑とが交錯するなか、ああ、これで日本最後の自然哲学者が亡くなった、と私は、思わず独り言ちた。たしかに三木先生は自然科学者でありながら自然哲学の世界にも深い関心を示す古きよき教養人の最後の世代に属していた。その世代のなかでも先生の存在は格別に大きかったから、私は深い慨嘆のなか、日本の自然哲学の伝統の火がこれで消えてしまったかのように感じたのである。
 しかしおそらくその火は消えていないであろう。先生が播いた種は今、確実に広がりつつある。そしていつの日か、自然科学と自然哲学とが手を結ぶという先生の宿願が何らかの形でこの世に叶えられるとき、近代化を目指して永いこと辛苦しつづけてきた日本は、ようやく真の夜明けを迎えるにちがいないのである。
 
(独文学・思想 京都大学)