90. 鳥か花か、それとも人か
 
塚本 庸夫
 
 先生との出会いは、現代社という小さな出版社に入社した昭和四十五年の春でした。ちょうど、「解剖学総論」を本格的に書き始められた頃にあたります。書きあげたばかりの原稿を、先生は編集者のわれわれにも、いつもていねいに説明してくださいました。ただ、当時うかがった話の内容は、あの語り口から受けた鮮明な印象ほどには覚えていません。しかし、今も様々に蘇るイメージの種子は、この頃、確実に植えつけられたようです。人知れず黙々と拍動し続け、しかも自らのかたちを心憎いほど自在に、時と場に応じ肺や胃袋などに変身させ続けていく奇妙な原腸管の話とか、骨は最後に空所を埋めるように出来るという、それだけで理由なく感動してしまう、妙に残る話などです。これが脊椎骨(バックボーン)で負の構造と表現されているのを知り、それなら正の構造とは、というふうに考えはじめたのも、その際に、いつもかたちをその発生・分節・極性として見ていくことや、たえず渦巻く自然、地・水・火・風の、動物・人間固有な反影であり、生命有機現象である体調・気分(息吹)が基調になっているのを知ったのも、ずっと後になってからです。
 夏には毎年、志賀高原で「解剖学総論」のための合宿がありました。昭和五十年の夏は、戸隠でも宿坊に泊まり込んで合宿しました。夕方、俄雨と共に物凄い雷神が遠くから聞こえだし、しだいに近づき半時間ぐらいにわたって鳴り響いたことがあります。ひんやりとさわやかになり、先生は、「これが古代形象だ」とつぶやかれました。昼はたいてい散歩がてら蕎麦を食べに出ました。蕎麦屋から、炎天下の大杉をしばらく眺めていて、突然「あれを輪切りにして時代との関係を見極めたいなあ」と言われ、ぼくがあきれ顔をしたからか、「これが解剖学者の業というものだよ」とも言われました。寝る前はまるで修学旅行の夜のようでした。ふたりして仮想の相撲をやるのです。これは共通の知人を片端から登場させて組み合わせ、特徴を浮き彫りにして楽しむゲームです。ただそれだけのことですが、一端これを始めると相乗作用も手伝ってか、時にルールがなくなるほどエスカレートしていきました。双極性自然誌面影体調性格学!の実習を受けたようなものです。別れ際に、あの独特の含み笑いで一言「今回は必要にして十二分な話をしたなあ」と言われた時の姿が忘れられません。
 まあ、この頃の思い出はこんなことばかりで、仕事の記憶はほとんどないのですが、かろうじて仕事らしいことをしたのが「生命の形態学」の連載をしはじめた頃からです。先生がご自分の本づくりに凝り性であったことは今や伝説にまでなっているぐらいですし、ぼくも今なら、あれは大変なものだった、と分別臭く言えますが、当時は、大脳皮質ではなく鰓脳だけで反応していたというか、いつも、不器用に共鳴するままに、身や心は軽々と、とことんつきあいました。
 前の晩遅くまでかかって書き上げたシェーマを、朝、池袋のホームで待ち合わせ山手線に一緒に乗って(混んでいたはずなのになぜかいつも座った)打ち合わせる。この冒険にみちた原図の学問的価値は猫に小判でも、ながく育んできたものがかたちになっていく興奮は、ひしひしと伝わってきました。この原図の手直しは版下、時には製版された後にまでおよびました。文章の方も、もちろん、初校、再校を問わず赤は入っていきました。ぼくもどんな意見でもと言われ、先生のテンポに巻き込まれるままに、身の程知らずにも調子にのり、時どき言わせていただきました。いつだったか、「遠」と「近」のところでした、どうしても気になり、しかしうまく言えないまま一緒にタクシーに乗ったことがあります。下りる段になってゲラ刷りが道路に落ち、しかもそれを先生が踏みつけたのです。よく見るとそこが問題の箇所でした。
 「生命の形態学」ができ、初めて雑誌を手渡した時、「ありがとう、楽にしてくれて…」と言われ、すこし涙ぐまれました。ぼくにはその意味が分からずとまどったのを覚えています。今ならよく分かります。先生の背には、われわれの想像を絶する途轍もない重みがかかっていたのです。それは、先生が身をもって体験してきた、伝統仏教批判としての「原始仏教」と、「比較解剖学」の伝統の重みです。この二つの伝統の重みを、共どもに、軽々と荷うのが先生の夢だったのではないか。かつて上陸前、重力から自由に漂い、游いでいた魚のように…、鳥のように…。今、そんな気がしています。その荷とは、言うまでもなく、先生にしか書き上げられない「解剖学総論」であり、夢は、そのごく自然な完成です。
 よく聞かされていたのは、人の神経系の発生が解けるまでは書き上げられないという話でした。
 ひとつは個体の維持調整作用としてだけではなく、哺乳動物の人で開花した、遠との共振としての植物神経系です。樹木の、地球規模の紅葉、落葉による端的な表現、これが遠受容性、気分として現象する、この時の解剖・生理です。部屋の中にいて、ふと気分の変化を覚え、障子を開けると、雪が降っている、また、すっかり変わった銀世界を眺めて、有頂天になる、氷河時代の生命記憶の蘇生そのままに…、さらに、ふと春の予感すら覚える、目前の現実によび戻されながらも…。
 もうひとつは動物神経系で、その中で特に、狙いをつけ的を絞っていく、また道筋・輪郭をつけていく意志の作用過程のそれです。卑近な例で言えば、腹を下し嫌な予感のまま出かけ、やはり途中で催してきた時のまわりを無視しても無事に辿りつくまで、周期的に襲う波を、増幅ではなく鎮めるようにタクトを入れつづける作用です。想い出すまま言えば、動物のけもの道や棲み分けにも見られる「感」覚器官・筋肉運「動」の同時可動性による“輪郭運動表現”、そして、歴史人の文字による“筆跡”、さらに、鳥になれなかった!ヒトの鳥瞰と境界線を引く能力(知恵袋)による“地図”にいたるまで、これらすべてを重ね含む“かたち”を造り上げていく、人間独自の分節・精神作用の解剖・生理です。また、破壊をもたらす「打」ではなく、相手を生かす「拍」による“喝”とか、ものを生きいきと再生させる輪郭線、あるいは、修行僧が、天然・自然のあるがままであろう、と発心する、この時の宇宙を切り取っていくような、矛盾を孕んだ精神作用といった話でした。
 これら人間の双極をなす植物・動物神経系の問題は、時がたてば、生物形態のフィロゲニーから、いつかきれいに解けるかもしれん、それは分からぁんが……、と言っておられました。
 息をひきとられた直後、半時間ほどでどんどん変わっていかれ、中国の石仏の古拙笑のような顔になられました。生まれる時には、植物、動物と数十億年かかってこの世に出てくるのに、死ぬ時はいきなり宇宙に帰る、と言っておられたのを思い出します。
 
(うぶすな書院)