92. 三木さんから与えられたもの
 
三輪 正弘
 
 私はいま「環境への接近」と題したエッセイ風の小論文を書いています。その第一節の「触知の世界」をこんなふうにはじめたところです。
 
 万物の霊長といわれる人間だが、この世に生みだされたばかりの嬰児は、ほとんど未熟児と呼ぶほかない頼りない存在である。魚鳥の類はいざしらず、人間に近い哺乳類のいずれをとってみても、そんな危険きわまりない状態で出産をあえてする動物はいない。鹿などの例をみても、母体から地上にどさりと文字どおり産み落とされるや、しばらくするとよろよろと立ちあがり、したたる羊水を母に舐めてもらいながら、はやくも首をもたげて乳房をさぐりにゆく。やがて腹を満たした仔鹿は、もうあたりを歩きまわるというけなげさしたたかさ。これを本能という先見的にプログラムされた行動指示によるのだと説明され、またその要因は自然界の生存競争率の厳しさであると説かれて一応なっとくしてはいるものの、やはりこれは生命の不思議として、理屈を超えたところにおいておいたほうがいいような気がする。
 未熟児であるために手厚い保護をする嬰児は、生まれてきた環境にどのように適合していくのだろうか。親たちのさまざまな刺激と誘導によるとはいえ、それは触覚からはじまっていく。
 生まれたばかりの子どもの握力はとても強く、水平にわたした握り棒につかませると驚くほど長時間ぶら下がっていることができる。これは何を意味するのだろう。猿の時代の進化過程がここにちゃんと残されているからだという説明に一応なっとくするほかはないのだが、……そうするとこれがいとぐちになって、胎児の生態変化の様相が姿を現してくるのを抑えるわけにはいかない。
 
 ここで私は三木成夫の医学者としての考察を思い浮かべるのです。彼は若かりしインターン時代の産科での体験とそれに触発されたその後の研究のなかで、生命の誕生の、神秘というよりももっとどぎつい醜悪さをもって変態する胎児の姿にとらわれていくのでした。のちに「胎児の世界」(中公新書)にまとめた考察は、とうてい医学者の論文といった枠組におさまらず、詩人の筆というにはいささか生臭い熱情にあふれた生命の書となっているようにわたしは思うのです。
 海水に太陽の高熱が作用して発生したという命が、原生動物から軟体動物へ、魚類から両棲類そして爬虫類や鳥類へ、さらには哺乳類へと進化し続けてきた三〇億年の歩みのなかで、両棲類が海から上陸して哺乳類にいたる一億年のドラマチックな変遷の姿を、あらかじめ、にわとりの孵化過程で見てしまっていた彼は、ついには避け難い標的として、ひとの胎児にせまらざるを得ないことを予感していたのです。このあたりの、抑止と昂揚とが彼の中につくり出す切迫感は、まるで三木さん自身の心臓の鼓動がきこえてくるほどではありませんか。著書の行間からそれを読み取ってみます。
 《胎児の標本は、しかし、研究室の人たちの温かい陰の力で地道に集められていた。それは、ただフォルマリン溶液で固定され、棚の奥の方にそっと置かれる。それだけであった。わたしはしかし、その見え隠れする胎児の横顔から、上陸のおもかげをいつしか見定めていた。
 まず間違いなく、胎児三十日あたりから四十日あたりまでの、だいたい十日であろうと、そう狙いをつけながらも、しかしそれ以上の検討のために、標本瓶から中身をとり出して白日のもとに曝け出す、といったことは、やりもしなかったし、またやろうともしなかった。》
 
 そしてわたしが、それにふれたとき慄然と身をふるわせた数行がやってくるのです。
 
 《人間の胎児は、母の胎内にいる間に一つの夢をみている……、胎児はこうして進化の夢をおのれの体で示しながら見続けていく。三二日前後は、バリスカン造山運動の巨大なうねりに身をまかせながら、行くべきか退くべきか、来る日も来る日も迷い続けた、そんな夢だったのか》。
 
 わたしたちのような建築家やデザイナーは、日頃コンセプトという言葉を口にします。概念という意味をもった哲学用語であるconceptを、造形の領域では、基本の考え方、アイデア、イメージ、そして多くの場合、《そのデザインの要点》というふうに使われます。しかしこの言葉に最も近いconceptionは概念という意味もありますが、第一義として妊娠または懐胎をあげています。
 多くの泰西画家が描き続けてきた宗教画に、コンセプションというたいへんポピュラーなテーマがあります。懐胎、受胎、妊娠を原義とするconceptionでありますが、ここでは特別の意味すなわちマリアにキリストの誕生を告げる《受胎告知》の場面を指しているのです。
 こうしたことを理解してくると、そう気易くはコンセプトという言葉を使えなくなってきます。《デザインの発想》ということも、生命の誕生の前提となる受胎にほかならず、いったん生み出された生命の端緒は、あくまでも育て上げねばならない責任を、その制作者が負わなければならないのですから。
 わたしは三木さんの考察から多くのことを学んだ、というよりも、たったひとつの深いものを与えられたように思うのです。それは、ものを創ることに具わっていなければならない生命感でありましょう。三木さんは能筆家で絵を描くことにも若いときから堪能でしたが、あの点描法で克明に示された胎児の相貌に秘められた力を、わたしはその本の頁をときどきひらいてはたしかめるのです。三木さん、あなたの生命がちゃんとここにもいるね……、と。
 
(武蔵野美術大学教授・三輪環境計画代表)