94. 三木成夫さんの想い出
 
国友 正
 
 「芥川君がなくなってから早一週年の忌日も間近くなったが、自分は此偉大なる友を憶ふ気持には、漸く鋭い情熱が日を経る毎に感じ出された。情熱は益々同君を純粋にも清浄にもし、同君を友人とする自分との間に距離を感じさせるのである。その距離は現世に存在しない彼が持つ縦横無尽な清浄さであり、その清浄さは無理にも現世にもがく自分を必然的に引き離して行かうとするのだ。」(原文のまま)
 室生犀星が「芥川龍之介氏を憶ふ」の冒頭の文ですが、その中で芥川君一週忌とをそれぞれ三木成夫さん三回忌と入れかえるのみでよいと思い拝借しました。成夫さんと私との「であい」は昭和初期で、彼がやっと小学生になったばかりのころでした。姉の主人で、当時地方の中学校ではまだ珍しい帝大出の教師を尊敬してくれたのでしょう。ときどき兄さん達のお伴で遊びにきましたが、二十年近く年令差があって記憶に残る程の会話はありませんでした。後年テレビコマーシャルで、マルコメ味噌の小坊さんが出ると何だか彼を思い出しました。白面の可愛い子供でしたが二、三年後には立派な力強い書を見せられて驚きました。学校の代表としてその地域で優勝したと聞きました。間もなく中学進学ですが、入試にトップ合格だったことを自分で驚いていました。その数年前に長兄は同中学首席で卒業しています。やはり賢兄賢弟なんです。僕は義理になりますが兄弟と言わせて貰うなら、こちらは正真正銘の愚兄賢弟です。
 昭和十四年ころ中国での事変が治まりそうもなく国情不安のうちに、私は大阪に転任しましたが、翌年成夫んが来阪して電気科学館のプラネタリウムを観て感慨深いものがあったようです。太平洋戦争の始まった頃、六高(岡山)に進学し、不自由な中にも、寮生活を楽しんだ様子が便りで伺えました。寮生活先輩の小生の名を名簿で発見して態々便りをくれたこともあります。ことに旭川の氾濫で六高が水浸しになり、大被害を受けた図書館の後始末に大奮闘の様子も報告されました。旭川の氾濫は七月梅雨末期の豪雨による年中行事のようなもので藩政時代から対策は出来ていました。学校周辺地区は調節の池に当てられた処でした。ここの埋立て地に建設された六高は、氾濫時島として残ることになっていたのですが、それが水没するという極めて稀な水害でした。間もなく戦時動員で工場生活を続けながら戦況不利のうちに卒業し、九大航空料に進みましたがしばらくで終戦、航空科廃止で大変なことでしたが、東大医学部を志して幸いに合格しました。この頃堺の焼跡に残った拙宅に立寄り、困苦窮乏の生活を味わされて気の毒でした。焼跡で手作りの野菜や自家製の木炭などを使った生活でした。その時小生我流のヴァイオリンの音色がお気に召して、ヴァイオリンを志すようなことを言い出して周囲の人も心配しましたが、趣味の程度でならとやっと落ち着きました。でもいい加減にはできない性分で、遂に江藤俊哉氏の弟子第一号となりました。
 お蔭で私達も先生にお目にかかる光栄を得ました。先生が大阪大丸で渡辺暁雄氏とリサイタルを開かれたおりシベリウスのコンツェルトやコレルリの主題によるメヌエットなどを拝聴し、あとで楽屋にお伺いして、「成夫の姉・兄」と言うことでご挨拶をしましたが、翌朝の新聞紙上でジンバリストの指導を受けられるため、渡米されると報告されて驚いたことを思い出します。あと植野豊子さんにおつきしたかと思います。また楽器制作にも興味をもちその大家菅沼さんのご教示を受けたりして、火つけ役の小生が教えられる立場に立ちました。同時に音楽会全般に医学部で世話役になったようで、当時一流の人々とも近づきを得た楽しい生活ぶりを伺わせました。近衛秀麿氏や山田一雄氏にも近づき、山田先生からは冗談を言われた様です。先生は「僕の臨終に立ち会って貰う積もりだったのに枕元でヴァイオリンをギーギーやられるのか?」と歎声をもらされたとか。
 解剖学専攻を決定づけたのは小川鼎三先生に心酔してのことでしょう。すべてに完全を耕する性格です。研究方向が定まると、特別の技術も必要となり、東北大学の浦先生のこ指導を受け特技の習得に成功したのでしょう。その自信のほどを熟のこもった話で察しました。種々の動物の発育過程での血液循環を視るため血管に墨汁注入の技術の自信に満ちた話し振りでした。ガラス管を可能な限り細く伸廷することでしょうか、そのデリケートさと器用さを持った反面、勇気決断力も先天的に備えていたのでしょう。少々古い話ですが、寮生活での友人の話です。誤ってトゲが指先それも爪と肉との間に深く刺さりました。長くて普通の方法では抜けないので結局自分で爪の表からトゲの処まで切り開いて抜き取りに成功したとのことです。解剖に挑え向きの器用さと決断力とを備えていたと思います。宝物らしいもののない小生に杉田玄白の「解体新書」がありましたが宝の持ち腐れになりますので成夫さんに進呈しました。また小生死後は解剖を願う積もりでした。或いは何か新しい骨でも発見して貰えるかと思いましたが、叶わぬ夢となりました。
 三十年代から四十年代にかけ、小生東京出張の折には下宿に或いは新居に厄介になりましたが「一穴庵」の客としてもてなしを受けたことや、小生の親しい友人、教え子などと銀ブラを楽しんだことが思い出されます。科学者であり、また芸術的鋭敏な直観の主でもあったのでしょうか、拙宅のジャングル然とした小庭にはメダカを入れた水溜があり、小鳥の水呑水浴場になっていますが、この水溜を見詰めて「ここにイモリを飼って見たら……」と言ったことがあります。小生はあまり好きな動物でもないので、そのままにしていましたが一ヶ月程後一尾の「イモリ」が住みついていました。何処から進入したのか見当もつきません。メダカを餌にされてはと外に出してしまいましたが、その後お目にかかりません。成夫さんが呼びよせたのかとさえ考えさせられることでした。