95. 三木成夫の想い出
 
国友 房子
 
 成夫生前は諸先生方をはじめ皆々様のご厚情を賜り、又死去以来も遺族が一方ならずお世話様になりました事私よりも改めて御礼申上げます。この度は諸先生のご好意により追悼集まで出して下さり御多忙を煩わし何ともお礼の言葉もございません、亡き弟もさぞかし喜んでいる事と存じます。
 成夫は私達五人兄弟の末っ子で私の下は四人男ばかりで私とは一まわりも違います。誕生の時は今度こそどうぞ女の子でありますようにと祈りました。神様も私のねがいを少しだけ聞き届けて下さったのか、成夫は色白で線の細い、髪も伸ばしておりましたので女の子と間違われました。母の手編みの赤色の入ったセーターも似合い可愛がられました。
 私が結婚してからも四キロ離れた多度津の家へ遊びに来て、その頃私が食事の支度をしている時、御飯は水を入れて炊くのかと、さも大発見でもしたように云った事思い出されます。家が海岸の近くなので海水着のままで泳ぎに行ったり潮干狩りなどもしました。いよいよ丸亀中学へ入学が定った時、少し大き目の征服と帽子で遊びに来ましたが、その時の嬉しそうな瞳が今でも忘れられません。
 その後昭和十四年私達夫婦は転任先の大阪へ移りそして間もなく太平洋戦争になり、成夫も六高から東大へ、音信も途絶え勝ち、私達は大阪の堺で空襲に遭い、その後大阪の猪飼野から豊中へと住居をかえましたがどちらへも訪ねて来ました。私達がいよいよ京都へ落ち着いてからは時々泊まりがけで来て夜の更けるまで話込んだものです。
 忘れも致しません昭和六十二年八月九日の夜、しばらくご無沙汰をしましたので電話しました。私少し体調を悪くしていましたのでその事をたづねたかったのです。電話の中で、今まで一度も猫のなき声など聞かなかったのですが野良猫が居着いて仔猫を生み、そのなき声がきこえたのです。家族が猫好きなものですから、それで、よいお薬を明日速達で送ると約束して電話をきりました。ところがその翌日未明に昏睡状態になり急ぎ入院となりました。今にして思えばあの電話が、弟との最後の言葉となってしまい、あの仔猫のなき声も忘れられない想い出となりました。
 十一日のお昼頃、芸大の中尾先生から、成夫入院の事お知らせ頂きましたが、ご多用の中を、わざわざ御電話申しわけございませんでした。そして諸先生方、皆々様の懸命の治療の甲斐もなく六十一才の生涯を閉じました。
 残された家族も三人力を合わせ、桃子様も気丈に立ち直っている様子、住居も竹谷様のお好意で先ず安堵しました。亡き後の佛事、そして建築の事、引越し、成夫の書類等の整理等、皆々様のお力添えがあったればこそと、感謝すばかりでございます。どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます。