96. 気恥ずかしく嬉しい一枚の写真
 
竹谷 俊雄
 
 義兄のことを思う時、私の頭の中には必ず一枚の古い写真がよみがえってくる。あぐらをかいた義兄の胸に頭を押しつけるようにして、私が寝そべっているという図柄だ。
 当時、私は中学生。だから義兄は三十代の中頃に近かったはずだ。
 中学生といっても私の身長は百八十センチ近くあった。大柄な私が、さほど大きくはない義兄の胸に寄りかかっているのだから、誰が見ても大甘に甘えているとしか言いようがない図柄である。
 その写真のことを思い出すたびに、決まって気恥ずかしい思いと嬉しい思いがミックスして浮かんでくる。私の父親は私が小学校三年生の時に他界した。私は父親に甘えるような気持ちでいたに違いない。
 高校や大学時代になると、私はこれという大事な友達を義兄のもとに好んで連れていくようになった。
 友人の誰もが義兄と話をすると目を輝かせる。帰り道では皆、酔ったような魅了された表情になる。そうした経験を友人に与えることが出来るのを、私は内心で自慢し時には優越感に浸っていたように思う。
 勢い、訪問の頻度は高くなる。義兄にとっては迷惑な話だったろう。だが、ただの一度も嫌な顔をするのを見たことはない。いつも穏やかに若者の話に耳を傾けてくれた。
 義兄が他界してから、親しく御交際頂いた諸先生や友人の皆さんのお話を聞かせて頂く機会があった。故人は何が好きだったかというテーマになったら、どの皆さんも「人間以外にない」という答で一致した。私は密かに納得した。
 突然の訃報を、私はロンドンで聞いた。直ぐ帰国の手配をしたが、葬儀には間に合わなかった。だから私には今でも義兄が他界したという実感はない。公務員官舎のドアをたたけば、懐かしいあの顔と穏やかな声が聞こえてくるような気がしてならない。