97. 少年の日のおもいで
 
三木 照也
 
 昭和十年七月も下旬の頃である。当時丸亀中学校は甲子園に於ける中等学校野球大会に出場の四国代表を決すべく松山商業との決勝戦に具えて城下町丸亀はわきにわき返っていたのである。私は野球部の新米一年生であった。用具類は勿論井戸水の頻繁な運搬、球拾いは勿論、上級生の下世話に忙しかった。予戦で丸亀商業、高松商業、志度商業、坂出商業をなでぎりにしての決勝戦出場である。松山商業の左翼手に千葉茂がいて八番を打っていた。二塁手亀井、三塁手伊賀上、遊撃手井筒井修、其の他猛者連の目白押しである。この松山商業と雌雄を決するというのである。ところが困ったことに夏休みの宿題の一つに毛筆による漢字の清書があったが野球部のことに追われている身にとって習字の清書など思いも寄らぬことであった。姿勢を正しくして硯を磨いたり、筆を持つことさえ容易ではなかった。宿題が恨めしかったのである。その頃小学校――丸亀市城乾尋常高等小学校の四年生に弟の成夫がいた。課外活動の書道部で毎日放課後に書道の先生から楷書と行書の特訓を受け五年や六年の者を抜いて全校の代表であった。
 悪いとは知りながら宿題の清書はこの弟にさせるしかなかった。八月三日、徳島西の丸球場の決戦は間近である。練習が終わると後援会の有志が氷に冷やした讃岐うどんを何杯も食べさせて呉れた。徳島の鳴門わかめの入った味噌汁を食べラムネやみかん水は部員に山のように呉れた。
 練習を終えて日が暮れて帰ると、机の上に一枚の半紙に書かれてある五文字の漢字を見た。後年になって軈て書論を学び、字も多少は書けるようになってから知ったことであるが、弟の字は初唐の虞世商の書法を何回も何回も練習した結果のそれである。一年生当時の私に分らう筈がない。たヾたヾ呆れてしまった。「これが小学生の書く字か。」 と。
 思うに人間のサンカーラ作用でアーユー的なものが希簿になった時点では思いもよらぬことが起こるといわれるように、時としてその人に古佛の心が宿るのではなからうか。人は概して年をとる程、業を重ねていやらしくなってくる。字にもそれがよく現われてくる。
 成夫の両の手はきめ細かく、しなやかであった。墨は何時も奈良古梅国の紅花墨の五つ星印であった。「これで宿題が一つ済んだぞ。」清書された半紙を二つに折るのがはヾかられて、絹の布でつつみ、九月に始業式のある朝持っていった。数日後それが返ってきた。朱墨にアラビヤ数字で、150点とある。百点満点で百五十点である。周りから悪友どもがわっときた。松山から来ている一人がいう。「どうしてこげな字が書けるぞなもし。」
 弟の渾身の書は私の引出しの奥に長くしまわれていたが、いつしか消失してしまった。
 私は晩年になってより般若心経と観音経を朝晩唱え、暇を見ては三十年余続けている魂晋唐の小揩――特に念を入れて臨書するのは、魏、鍾■と東晋王義之の黄庭経、楽毅論、東方朔、唐■西南の破邪論序である。本邦では江戸時代の貫名翁の細楷である。臨書すればする程、彼の字は向こうへするすると逃げて行くのである。十数年前、香川県三豊郡大野原巨■山 (きょごうざん)地蔵院萩原寺の宝物殿にある空海真跡急就章を始めて見たとき、不動の金縛りに遭った。千年の時空を超えて神韻縹渺たるものが霊気を帯びて迫ってくるのである。無明を超脱した者にしか出来ないことで、弟も生前、頻りに申していました。
 内容が前後して恐縮ですが対高松商戦は九回裏ランナー二人を置いて千葉の右中間を破る大二塁打で結局四対一で破れた。その松商は甲子園で優勝しています。昭和十年八月三日のことです。(徳島毎日新聞八月四日付、府中市井上博也氏寄贈によるもの)
 とりとめもない追憶談を記し諸兄諸賢の面前にて恥をさらし、赤面の至りでありますがどうかお笑い捨て下さいますように。
 末筆ですが御世話下さった大学の先生方、関係者の皆様に弟に代わり厚く御礼申しあげます。
  平成元年五月三十一日