超ミーハー的ハン・ヒョジュ論
小阪清行
 
                             頭と心がぶんぶん唸っているなら
                             それ以上望むことはあるまい
                             もはや愛することも、迷うこともない人間は
                             さっさと埋葬されるがよかろう
J.W. von Goethe [拙訳]
 
 
 一年ほど前に、「風跡」同人のNさんから『サメ』と『千日の約束』という二つの韓流ドラマに感動したというメールをもらいました。これが、ことの始まりです。
 実は、韓流には何年か前にも、はまったことがありました。家内の勧めで『がんばれ!クムスン』というドラマを観ていたときのことです。あまりにエキサイティングで、夜中にもかかわらず続きを見たい気持ちを抑えきれず、深夜2時頃にレンタルショップへ続編を借りに行って、朝方まで観たことがあります。その頃、やはり家内の勧めで、キム・ギドク監督の『悪い男』という映画も観ました。「韓国の北野武」と言われるこの監督の凄さに圧倒され、DVD化されている彼の作品はほとんど観ました。
 岡山のミニ・シアターで観た『息もできない』(原題の『トンパリ』は糞バエを意味する罵倒語)も圧巻でした。若い俳優ヤン・イクチュンの、監督としてのデビュー作ですが、製作費捻出のため、親戚中から借金しまくり、家を引き払ってその保証金を充ててまで完成させた意気込みが、作品から滲み出ています。取立て屋をやっているヤクザ(監督自身が主演)と物怖じしない女子高生の物語ですが、「優しさ」だけが記憶に残る名作でした。
 しかしそのときは、韓流の良質の作品も、もうこれくらいだろうと思い、しばらく韓流から離れていたのです。
 『サメ』と『千日の約束』で再びこの韓流熱に火が付きました。この一年間、わが家のDVDプレーヤーの前にレンタルショップの黒い袋が置かれていないことは、ほとんどなかったでしょう。日本の映画やドラマなど、全く観る気がしなくなりました。CGを使ったド派手なアメリカ映画など、観た後に虚しさしか残りません。
 よく言われるように、特に中老年の女性が韓流中毒になるのは、間違いなく、韓国男性の巧みな言葉遣い、言い訳をしない潔さ、男らしさ、優しさゆえでしょう。おまけに、ほとんどの男優のマスクが甘く、上半身は鍛え上げられた鋼の逆三角形。倦怠期の欲求不満解消にはもってこいなのかも(笑)。
 「でも、男の俺がなんでだろう。何がこれほど夢中にさせるのだろう。この迫力はどこからくるんだろう」 ― そう思って、自分なりに理屈をつけてみたくなったことがあります。
 韓国は伝統的に、芸能やスポーツを国を挙げて後押しする傾向があり、かなりの資金が国庫から流れています。特にアジア通貨危機の後、金大中政権下で、経済再建戦略の一つとして(つまり外貨獲得を目的として)文化産業の振興が謳われ、国策として経済支援に乗り出します。そうでなければ、あれほど多くの大学や専門学校に映画・演劇関係の学科が設置されなかったでしょうし、またあれほど大規模な作品群を作るだけの制作費捻出も困難だったに違いありません。作品に安定感が感じられるのは、ほとんどの俳優・スタッフが、大学や専門学校で高い演技・技術をたたき込まれているせいでしょう。何事も同じで、層が厚くなれば、相互刺激やライバル意識などが生まれ、作品のクオリティー向上のための相乗効果も高まると想像されます。
 しかし、制度や資金が整っていても、内的・社会的「ドライブ」がなければ、良い映画やドラマは生まれないでしょう。国家分断という政治的・歴史的背景があり、その危機感が映像に迫力を与えていることは間違ありません。俳優たちの多くが兵役を終えている、もしくはそれを間近に控えていることも、作品と役者に緊迫感や存在感を与えていると思われます。さらに、朝鮮半島のほぼ全歴史を通じて、中国や日本など異民族によって、攻撃・占領・抑圧を受けていたこと、そしてそこから生じた「恨の文化」も深く関係しているに違いありません。
 韓国社会は、日本よりも未成熟だと感じることがあります。例えばサムスンや現代(ヒユンダイ)に代表される財閥の存在。日本から見れば、前近代的とも言える制度によって、極端な富の偏りがあるのは周知の通りです。韓国GDPは、財閥10社で8割近くを占めているそうです。当然、庶民の不満は膨らむ一方でしょう。
 先日、知人の韓国人教師が(僕に自分のiPhoneを見せながら)言ったところによれば、世界を席巻するギャラクシー・スマホではありますが、韓国本国でサムスン離れが進み、どんどんアップルに流れているとか。背景には、サムスンのやりたい放題の経営手法、倫理観の無さに嫌気をさした国民感情があるそうです。一種の不買運動でしょう。「ナッツ・リターン事件」に際しても、われわれは同様のことを感じさせられましたが。
 腐敗した政治や、闇の社会と結びついた警察・司法当局への憤り、賄賂の横行、富者への怨念、無力感。そしてそれと相矛盾するようですが、夢や希望。闇が深ければ深いほど、光を求める気持ちも強まるのでしょうか。 ― それらが無意識の世界に沈潜して、腹の底から吹き出してきたもの、それが韓流ドラマ・映画ではなかろうか、と僕は思っています。
 もちろん、視聴率や観客動員数など興行成績へのしたたかな計算は間違いなくあります。しかし、例えば『息もできない(糞バエ)』が「計算」だけから生まれたのでないことは確かです。この作品の監督は、インタヴューの中で次のように答えています。 (以下、引用文の傍点は、すべて引用者)
 演技という言葉は嫌いです。大切なのは、感情をぶつけることなんです。‥‥ 映画のストーリーを作り上げたところで、全て吐き出してしまった。‥‥(取立てヤクザと女子高生が惹かれ合う設定について訊かれて)意図はしていなくて、シナリオを書いていたらそうなったんですよ
 ちなみに、村上春樹も『職業としての小説家』の中で似たようなことを言っています。
 僕の場合、まず小説のアイデアがぽっと生まれます。そしてそのアイデアから物語が自然に自発的に広がっていきます。最初にも申し上げたように、そこにどんな人物が登場することになるか、それはあくまで物語自身が決めることです。僕が考えて決めることではありません。作家である僕は忠実な筆記者としてその指示に従うだけです。
 おもしろい類似だと思いませんか?作品の普遍性とは、そのような内的な必然性・自然性から生まれるものなのでしょうね。
 村上春樹の名前が出たところで少々脱線を。日本における韓流ブームは近年いくぶん低迷気味のようですが、「日流」は相変わらず元気だ、と新聞記事にありました。そう言えば、反日、嫌日、排日と言いながら、最近韓国からの観光客の数は(もちろん円安、ウォン高のせいもあるでしょうが)凄いらしいですね。日流とは、マンガ、アニメ、日本文学、日本ビール、日本酒、ラーメンなどを中心とした日本ブームのことで、なかでも文学における村上春樹の人気は、若者を中心に圧倒的らしいです。ちなみに韓国では、ほとんどの高校で生徒が第2外国語(第1外国語はもちろん英語)を選択するそうですが、第2外国語として日本語を選択する割合は49.8%で、これは中国語の約2倍だとか。
 
 さて、この文章のタイトルは『ハン・ヒョジュ論』です。ハン・ヒョジュと聞いて誰だかすぐ分かる人はかなりの韓流通でしょう。一般に、韓国・朝鮮人の名前は覚え辛いですからね(僕の家内など、ヒジョとか、ヒョジュンとか、言うたびに間違う始末。あまりに非道いので、ときに「女神の御名を汚すでない」と一喝してやります)。名前で分からなくても、『トンイ』で主演を務めた女優だと言えば、「ああ、あの役者なら知っている」という方は、かなり多いかもしれません。
 ご推察の通り、僕はハン・ヒョジュのファンなのです。「だからどうしたんだ」って言われそうですが ― 。
 あるインテリ老紳士から「最近はKポップにはまっています。『KARA』と『少女時代』が特にいいです」という年賀状をもらったときは、唖然としたものです。キモいとさえ感じました。このとき僕が感じたのと全く同じことを、読者のあなたも、今感じておられるのではないでしょうか(笑)。
 我ながら自分の心、行動に困惑しております。なにせ、コンピュータや携帯の待受画面はハン・ヒョジュ。鶴橋のコリアン・タウンに行ったときには、何十軒ものショップを探し回って、クリアファイル、カードケース、ハンカチ、眼鏡クロスなどのハン・ヒョジュ・グッズを買い漁りましたからね(汗)。実際には、勿体なくてあまり使っていないのですが。ネット上で彼女の写真集を見つけて、アマゾンから取り寄せるに際して、「注文確定」のアイコンをクリックした瞬間、さすがに自分自身、「俺はいったい何をやってるんだろう」と思ったものです。
 でも、結果的にはこの写真集は大正解でした。なぜならこの中に彼女のエッセイ集が載録されていて、後で引用しますが、彼女の気持ちがとてもよく表れているからです。写真はどうでもよかったのです、ホント。どっちみち、写真家からポーズを要求されて撮られた写真は、あまり好きじゃないですから。彼女の写真ならいくらでもネット上に転がっていますし、そんな写真は何となくよそよそしいのが多い。逆に、たぶんファンの一人が公園かどこかで偶然撮ったスナップ写真でしょうが、小犬を抱いた母親の肩に、甘えたように自分の頭の乗せて笑っている素顔のヒョジュ ― 僕としては、むしろこんなのが好ましいですね。スッピンに近い自然のままのヒョジュssi(さん)の方が彼女らしくて、ずっと魅力的に感じられます。
 ハン・ヒョジュの魅力に取り憑かれたのはいつからだろうか ― 思い出そうとしますが、はっきりしません。NHK-BSの『トンイ』は確かほとんど毎回観ていたはずですが、そのときはそれほど特別な感情は持ちませんでした。もちろんとても爽やかでイノセントな感じのする女性だとは思っていましたが。
 ユン・ソクホ監督の季節シリーズ四部作、『秋の童話』『冬のソナタ』『夏の香り』『春のワルツ』はすべて観ました。『冬のソナタ』が日本中でブームを巻き起こしていたとき、どうせくだらないメロドラマだろうから、決して観まいと思っていたこともありますが、実際観てみると、それほど悪くなかったです。と言うか、結構感動しました。恥も外聞もなく、偶然また偶然、奇跡また奇跡の連続で、よくもまあこれ程くだらないものを作るよなぁ、と感じながらも、最後まで観さされてしまうところが、韓流の凄さじゃないでしょうか(笑)。時代劇などは、ほぼすべて勧善懲悪仕立てのお伽噺ですが、それでもそこには多くの場合、日本のNHK大河ドラマなどにはない、壮大かつ壮絶な人間ドラマがあります。
 ついでながら、韓流がなぜ偶然や奇跡を敢えて多用するのか、ちょっと考えてみました。それによって物語がおもしろくなるから、また視聴率・観客動員数が上がるから、でしょう。しかし度を超した偶然や奇跡の連続は物語の自然な流れを壊し、違和感を覚えさせます。韓流の通俗性は、恐らくこの非自然性と視聴者・観客への迎合から来ているのだと思います。ですから観るに堪えない作品も多くて、DVDの始めの1、2巻で止めてしまった作品も随分あります。韓流でも、傑作と言える作品は、やはりほんの一握りです。(自分自身の「通俗性」については、もちろん自覚しているつもりでおります。僕が修論のテーマに選んだリルケこそ、通俗性を最も嫌った詩人でしたのに!)
 さて、ずいぶん本論から逸れました。話を元に戻します。上記四部作のうち、最後の作品『春のワルツ』でヒロインを演じたのがハン・ヒョジュでした。ユン・ソクホ監督の季節シリーズの中では、韓国での視聴率は最低だったとか。前3作と似ていて新鮮味に欠ける、主役が二人とも新人というキャスティングに問題があった、裏番組に視聴率を喰われた、などと色々言われているようですが。
 このドラマに出演したハン・ヒョジュは当時まだ18か19歳。大学の演劇映画科の学生として、多少の俳優経験はあったものの、無名の女優が長篇ドラマ(しかも有名監督の)に抜擢されるというのは、異例中の異例だったようです。彼女自身にも撮影中ずいぶん戸惑いがあり、自信をなくしてカメラの前に立つのが怖くなる状況が続いたり、対人恐怖症になった時期もあったとか。ファンである僕が観ても、演技はお世辞にも上手だとは言えません。ただ、彼女のピュアな印象だけが強く記憶に残ります。監督が彼女を大抜擢するにいたった経緯について、ネットの記事を読んだことがあります。形ばかりの演技テストのようなことはやったものの、予め彼女の写真などを見て、「子供のような純真さと神秘的な感受性が役にぴったりだと判断」し、オーディションの前にすでに、ほぼ起用を決めていたようです。
 子供のような純真さと神秘的な感受性 ― 加えて、やたらと元気で明るいのに、ときに背中に漂う深い闇、これこそがハン・ヒョジュの魅力でしょう。
 さて、ハン・ヒョジュを韓国の代表的女優の一人にまで押し上げたのは、何と言っても47%の視聴率をとった『華麗なる遺産』と、大河時代劇『トンイ』です。しかし、それらを観た後も、ハン・ヒョジュは僕にとって、それほど特別な俳優ではありませんでした。徐々にかつ自然に僕の中で、特別な存在となっていった気がします。
 それにしても、役者ハン・ヒョジュの成長には著しいものがあると思います。『トンイ』の中で王(粛宗)を演じたチ・ジニが、撮影終了後のインタヴューで語った言葉があります ― 「ドラマの見どころはトンイがいかに成長していくかですが、演じるヒョジュssi(さん)自身もこのドラマを通してどんどん成長して、素晴らしい女優さんに変身していきました」。
 『華麗なる遺産』と『トンイ』のハン・ヒョジュは、当時22、23歳ですが、もはや『春のワルツ』の頃の可愛くてイノセントなだけの女優ではありません。監督の求めに応じることができずに、ひとり不安に怯え、トイレで号泣する弱い役者でもありません。逞しい大女優の片鱗を見せる存在にまで成長していると思います。
 思うに、優れた役者には、憑依的な要素が備わっているのではないでしょうか。特にハン・ヒョジュは、その面で豊かな天分に恵まれているように思われます。『トンイ』に出演していた頃の思い出を綴った文章があります。が、その言葉をよく理解していただくためには、多少の予備知識が必要でしょう。時代劇の巨匠イ・ビョンフン監督の撮影現場が極めて過酷であることは有名です。一年近い撮影の間、睡眠が十分に取れないのは日常的で、厳寒の中で徹夜が続いたりすることさえあるそうです。けれども、66歳(当時)の監督が化け物のように元気でバリバリ引っ張っていくものですから、俳優たちも当然、自分自身に無理を強いながら、何事にも従っていかざるを得ない ― 以下は、そんな背景があっての発言です。
 でも、そのときは自分でもわからなかったんですが、どうやらトンイの性格が移ってしまっていたみたいで、トンイだから打ち勝たねば、頑張らないと!って無意識に思っていたみたい。大変なときでも笑っていたり、テンション高く頑張っていたみたいなんですよね。だからほかの俳優に「怖い」「なんで笑えるの?」とか言われたりして(笑)。「ほら、私、トンイだから!」って言って笑ったのを思い出します。
 以下はあるインタヴューでの発言。
 演じるたびに「自分に似ている」と思うんです。一度も自分とかけ離れた別人を演じていると感じたことはありません。私はもしかしたら、多重人格者かもしれません(笑)。
 また映画『ただ君だけ』(臭い翻訳タイトルですが)について彼女が語った文章の中にも、ハン・ヒョジュの同様の傾向を感じ取ることができます。その言葉を引用する前に、この映画について少し説明を加えておきます。
 この映画はチャップリンの『街の灯』へのオマージュだそうですので、この文章を書くにあたり、これも参考のために観てみました。浮浪者が盲人女性に恋をして、目の手術のためにボクシングの試合に出てお金を稼ごうとする純愛物語である点において、『ただ君だけ』はリメイクであると見ることも可能です。『街の灯』は天才チャップリンが製作に3年もかけただけあって、間違いなく素晴らしい作品なのですが、あまりにも大時代的すぎるためか、僕は『ただ君だけ』の方にずっと深い感銘を覚えました。
 さて、僕はこの『ただ君だけ』を5回くらい、特に感動的な最終章「2年後」などはたぶん20回以上観ました。同じ場面を何回観ても見飽きないというのは僕にとって、未知でかつ新鮮な体験です。ヒョジュが演じるジョンファという盲人女性は、角膜移植で目が完治します。しかし逆に、その手術費を稼ぐために、違法かつ危険な格闘技を闘った相手役は、今や顔は醜く変形し、声帯が潰れ、松葉杖が必要な体になっています。そして、こんな惨めな自分が、彼女との以前の関係に戻っては彼女を不幸にすると思い込んで、彼女を避けています。「2年後」に偶然彼を見つけたジョンファが、ラストシーンで彼を抱きしめて言います、「アジョシの顔だけを見ていたかったのに‥‥。だのになぜ‥‥。会いたかった、アジョシ‥‥」(注:アジョシは、年上男性に対する呼称)。無茶苦茶「臭い」はずのセリフが、僕には全然そうは感じられず、ほとんど毎回切なくて、涙が溢れそうになるこの不思議。
 で、先ほど言及した『ただ君だけ』の撮影現場についてのハン・ヒョジュの言葉ですが、エッセイの中で次のように綴っています。
 演技をしていて難しかったのは、自分が想像して演じた(目が見えない)動きと、モニターに映る感じが違うこと。目が見えない役だけれど、実際には見えている訳なので、そこに微妙な差が出るというか‥‥。だから、役に入り込むまでは試行錯誤でした。でも、いったん役に入り込んでしまうと今度は視覚以外の感覚が鋭くなるというか。ちょっとの物音でもびっくりしたりして、家に帰ってもそういうことが抜けないので、ちょっと神経質になっていたかもしれないですね。
 よくファンの皆さんに「なんでそんなに上手に泣けるのですか?」とか、「どうやったら自然に泣けるんですか?」なんて質問をいただきます。今回の映画のなかでも泣くシーンはあるけれど、じつは泣くシーンよりも、笑うシーンの方が難しいって感じています。もちろん新人の頃は私もうまく泣けなくて、監督から怒られたりして。泣くって、なんて難しいの?って思ったときは何度もありましたけどね(笑)。でも、今では笑う演技の方が大変だなと感じています。『ただ君だけ』のなかのジョンファは悲しく苦しい状況にあるにも関わらず、それを感じさせないほど明るく純粋に笑うんです。役にはまっていればいるほど、つらい状況で笑うことの難しさを感じずにはいられませんでした。
 恋愛映画は、大きなスクリーンでふたりの表情が映し出されるので、ほんとうにはまっていないと嘘っぽく見えてしまう。だから監督と相手役のソ・ジソブさんと3人で、どうしたらリアルな表情を映し出せるか何度も議論を重ねました。結論は、やはりその環境のなかで、ふたりが本当に愛し合おうということになったんです。
 役にはまり込んだがために感覚まで影響を受ける、役のためなら相手の役者を本当に愛する‥‥「たかが映画、されど映画」。ここに彼女の役者魂を見る思いがします。しかもこのエッセイの文体が、全体を通して力が抜けて自然体であるのが、ファンとしては実に嬉しいです。
 
 もちろん、海千山千の芸能界のことですから、物事を額面通りに受け取ることはできないのかもしれません。
 韓国芸能界には、ハリウッド映画に出演したり、大河時代劇で主役を演じた大物俳優をも含めて、不倫、枕営業、果てはレイプ・ドラッグ使用の犯罪まで、どす黒いスキャンダルが山ほどあることは百も承知しています(俳優になりたいというヒョジュに、厳格で保守的な彼女の父親が、烈火のごとく怒ったとされているのも、当然と言えば当然)。でもそれは、程度の差こそあれ、どこの国でもあることでしょうし、またすべての俳優に当てはまる訳でもないでしょう。疑えばすべてを疑うことが可能です。しかしすべてを知ることは、そもそも不可能 ― 自分自身を知ることさえ不可能なのですから。
 北野武監督に『Dolls』という映画があって、その中でトップアイドルの春奈という役を深田恭子が演じています。ある日、人気絶頂の春奈は交通事故で片目を失い、心身とも深く傷つき、ファンの前から姿を消します。春奈の熱烈なファンに温井という青年がいます。彼は、どうすれば醜い顔を人目にさらしたくない春奈が自分に会ってくれるかと考え、自らの手で両目をつぶしました。(『春琴抄』が思い出されるような、凄みのある場面です。余談ですが、火傷で爛れた春琴の顔を見まいと、自分の両目に縫針を突き刺した佐助の苗字が「温井」でした。しかもアイドルの名前が「春」奈なのは、果たして偶然?)
 「たかが」アイドルのために、そこまでできる人間 ― 実際にいるでしょう、キット ― そんな「人間」という存在の不思議。こっちの側から見る方が、芸能ニュース的な側面から見るよりも、物事の本当の姿が見えそうに僕には思えます。
 ちなみに、ハン・ヒョジュにもスキャンダルはありました。数年前、空軍の中尉であるハン・ヒョジュの弟が部下をしごき、そのために自殺に至らしめた(可能性がある)という事件が発生しました。当然「清純派女優」である彼女に対しても、かなりのバッシングがあったようです。仮にそれが事実だったとして ― 事実に近いのでしょうが ― 、弟の行為に姉がどこまで責任を持つべきなのか、僕にはよく分かりません。
 以下は単なる憶測に過ぎませんが‥‥。心理学に「虐待関係の反復傾向」というのがあるそうで、ひょっとするとヒョジュの弟は、厳格な父親(空軍少佐)から極めて厳しい躾を受けて育ったのかもしれません。ときにヒョジュが見せる暗い陰も、もしかすると父親との関係に由来するのでは、と勘ぐりたくなることがあります。ともかく母親(小学校教師)に対しては愛情と尊敬の気持ちが強く、母親の職業に憧れるほどだったようですが、逆に父親への言及は、演劇映画科に進学することに猛反対されたこと以外、皆無です。
 
 「『韓流の天使』とか『愛されるためだけに生まれてきた女優』とか、歯が浮きそうなコピーがあるそうだけど、まあ、女優なんかそのうち老けて、しわくちゃになって、何の魅力もなくなると決まってるのよ。特に韓国の女優はほとんど全員が整形してんだから、崩れ出すと酷いぜ。そのうち汚れ役くらいしか回ってこなくなるんじゃないの」なんて声も聞こえてきそうです。どうでもいい話ですが、ヒョジュssiの名誉のために書き添えておきますと、韓国のネット上には「整形していない美女ランキング」というのがあって、彼女は第3位。でもまあ、整形してなくったって、25歳はお肌の曲がり角。それを越えると普通の女性は ― 男性も ― 悲しいかな内も外もどんどん老けて醜くなっていきますねぇ。「百人のうち九十九人まではとしをとるとむごたらしい瞳になってゆきます」(八木重吉)。
 ところで、ハン・ヒョジュの最新の映画は『ビューティー・インサイド』と言います。つい数日前に東京で公開されたばかりなので、僕はまだ観ておりませんが、予告編などからストーリーは承知しております。ハン・ヒョジュが扮するイスという女性に彼氏がいて、その彼が毎日、朝起きるごとに別人になっているという奇想天外な物語です。一日ごとに、イケメンになったり、禿げた中年醜(ぶ)(おとこ)になったり、あるときは子供、そして若い日本人女性、はたまた白人老紳士 ― 彼氏を演じる役者は実に123人。イスが愛しているのは、彼の表面なのか、それともinsideなのか‥‥そんな設定です。
 戯れに、この話を僕とヒョジュssiとの関係 ― もちろん「関係」というほどの関係ではありませんが(笑) ― に当てはめて、設定をほぼ真逆に置き換えます。つまり僕自身は今のままのおっさん(じじい?)ですが、相手のヒョジュssiが(別人になるのではなく)毎日10歳ずつ老いていくことにしましょう。彼女の心の美しさ(beauty inside)はそのまま残っているけれども、現在28歳の彼女が日毎に30代、40代、50代、60代、70代とどんどん年取っていくと仮定します。すると、瑞々しさを失って醜女になった彼女を(insideにのみに心を向けて)同じ愛で愛し続けることができるのか、あるいはもはや愛さないのか、そんな問題に置き換えることができそうです。
 「ファン」とは一過性のもの。所詮、恋愛も同じようなもの(ブラウニング夫妻のような例外もあるかもしれませんが)。「ウェルテル」のような恋愛小説が古典となりうるのは、恋愛を通してでも、あるいは恋愛を通してこそ、極めて明瞭に普遍的な「人間」のあり方が表現されうるからだ、と誰だったか有名な作家が言っていましたっけ。
 
 ここで突如として、次々と若い別の女性を愛したゲーテが思い浮かんできます(以下、恋愛関係にあったゲーテと女性の年齢です。カッコ内の前がゲーテ、後ろが女性)。牧師の娘フリーデリーケ(21-18)、「ウェルテル」が愛したロッテ(22-19)、女流作家ラ・ロッシュの娘マクセ(22-16)、婚約者リリー(後にゲーテの方から破談に)(25-17)、人妻シュタイン夫人(26-33)、妻となったクリスティアーネ(38-23)、印刷会社の養女ミンナ(58-18)、友人の妻マリアンネ(65-30)、晩年に結婚を申込んで断られたウルリーケ(74-19)。さてもさても、統計的にもゲーテは(ゲーテも)お若い女性が好きだったことが鮮明に相成った次第です。
 そこで同時に思い出されるのは、学生時代の恩師K先生です(僕がお世話になっていた当時で60代後半)。無教会出身のキリスト者でしたが、同時にゲーテの研究者でもあり、女性に関してはゲーテを地で行く無碍自在さ。学生もみんな心得たもので、ゼミのコンパなどに際して、先生の両サイドに、美形の、あるいは先生好みの女子学生(授業中の態度で分かります)を侍らせることが慣例となっておりました。後に、岡本三夫先生との間でたまたまK先生が話題に上ったことがあります。ある学会の折に、同じテーブルで一緒に食事をしたことがあるとか。そのときの忘れられないK先生の言葉というのが、「いや〜君、クラスに一人や二人は必ず美人がいるもんですよ」。岡本先生曰く、それ以来よく注意して見てみると、実際その通りだったと。独文学会だろうが、キリスト教学会だろうが、たぶんあの調子だったんでしょう。なにせ授業中でさえ、「神様が創造されたものの中で、一番美しいのは、女性の裸体だからねぇ」とのご託宣。いやはや、羨ましくなるほどの大らかさでした。
 
 本質的で純粋な(普遍的な)古典世界と、うさんくさくてミーハー的(通俗的)俗世間 ― この問題に関連して、遠藤周作がある英文学者との対談の中で語った言葉が特に好きなので、長文ですが引用させていただきましょう。
 復活祭のまえ、ローマに行ったことがあるんだけれど、裏道を歩いていたら娼婦に誘われました。それを断って、しばらくして復活祭のベネディクションを見ようと教会に入ったんですよ。そしたら、さっきの娼婦がいちばん前の席でいっしょうけんめいお祈りしているじゃないですか。これなんか私にはとてもうれしかった。カトリックって清濁併せのむ感じでいいと思いました。プロテスタントには、あまりないでしょう。(引用者注:プロテスタントのK先生は例外か?)
 それからやはりローマですが、例のイエスの傷口に触れた聖トマの指をもっている教会があると聞きましてね。ぼくは好奇心が強いんでさっそく見に行ったんですよ。そしたら見るからに強欲そうな神父さまがお出になりまして(笑い)、いや、ぼくはそういう神父さま嫌いじゃない。日本の神父たちはあまりに誠実を誓った個性のない顔をしているからな。(笑い)その神父がうやうやしく箱を出して見せた。脱脂綿が詰まった箱の中に、明らかにサルかネコの手の骨が入っとる。そして、片手を出して金よこせと片目をつぶるんです。こりゃもう淫祠邪教に近いが、だと言ってばかにすることができない。それすらある種の信者にとって一つのシンボル、あるいはイメージでありますからね。私だってひょっとすると、何かほかのシンボルを後生大事に抱えているかもしれない。こうしたうさんくささみたいなものを抜きにして、いったい信仰というのは成立するのかどうか。まったくいかがわしくない、これぞ純粋ということの裏付けはいったい何でなされるのか、といった疑問が、あるな。 ‥‥
 インチキのトマの指でもよろしい。しゃぶり抜けば神さまのところに行ってしまう。これは二つ意味がありましてね。うさんくさいものと純粋なものは構造が同じものが背中合わせになっているという考え方に私はなってきたわけ。相似の、アナロジー(類推)なんだ。それがどこで転化されるかということだけが私にとって問題なんでね。
 そして、転化のメソッドは、自分の意志でどうにでもなるものではない。神さまみたいな手品師が、うさんくさいものを光り輝くものに一瞬のうちに変えてくれるわけ。これは長いこと小説書いてきたうちにだんだん分かってきたことです。手品とか魔術とかいうのはなぜかと言うと、自分を意識していないからですよ。
 ゲーテは、彼自身が意識していたか否かは別として、一体何人の女性を絶望の淵に突き落としたことか。なかでも一番泣かされたのは、グレートヒェンのモデルと言われるフリーデリーケでしょう。互いに愛し合っていながら、訳も分からず突如彼女は捨てられ、あまりの悲しさに食べ物が喉を通らず、病にたおれて死線を彷徨う。結果、一生を独身で兄弟姉妹(きようだい)たちの世話になりながら死んでいきました。ゲーテに「しゃぶり抜」かれて文学の肥やしとなった訳です。
 シャルロッテ・ブッフ(愛称:ロッテ)も大迷惑を蒙った一人です。なぜなら『若きウェルテルの悩み』は空前のベストセラーとなり、当時ヨーロッパ中で読まれましたが(ナポレオンが7回も読んだ話は有名)、ウェルテルの死以外は実際に起こったことがほぼそのままに描かれており(友人イェルーザレムが失恋して自殺したことを脚色)、舞台となった地名もそのままで、ロッテやその婚約者の名前は実名を使用。人物特定が容易だったため、ロッテと後に夫となったケストナーは、死ぬまで世間から好奇の目を向けられる羽目に陥ったのですから。しかも一方のゲーテはと言えば、あろうことかロッテの元を去った直後にはもう、マクセという16歳の少女(詩人ブレンターノの母親)に色目を使っているのです。『ウェルテル』に描かれた「ロッテ」には、マクセの面影も忍び込んでいるとか。
 傍若無人とも言えるゲーテの女性へのこの態度は、あたかも湯浴みする人妻レダを、白鳥に変身して犯したゼウス神のように見えないでしょうか。しかし、仮にゲーテ神が好色だったことは間違いないとしても(信頼できる伝記に、友にして君主であるカール・アウグスト大公と、ある女性を交えた3人でいかがわしい行為に耽ったとの記述)、彼は決して単なる好色漢ではありませんでした。小説『ワイマールのロッテ』の中でトマス・マンは、数十年ぶりにロッテの前に立ったゲーテを、神秘の衣をまとった神のごとく描いています。実際、ヴァイマールのゲーテを詣でた文学者たちは、こぞって晩年のゲーテを「自然そのもの」の如く、神性に包まれた存在として描いています。(この「自然」の猛威に晒されて犠牲となった女性たちこそ、不幸なるかな!されど、「自然」に対しては畏敬あるのみ!)
 ゲーテの場合、必ず女性のinsideにbeauty divineを見ている、あるいはゲーテ自身の言葉で言えば「永遠に女性的なるもの」(das Ewig-Weibliche)あるいは「神的なるもの」(das Göttliche)を見ている ― これだけは、彼にどれほどの悪意を持った人間も、疑いを容れることができないでしょう。つまりグレートヒェンという生身の女性を魔術によって光り輝くものに変えた存在が、ファウスト(=ゲーテ)を天上に引き上げる役割を果たした、そう言えます。
 
 はてさて僕の場合、ハン・ヒョジュという花を通して天を見ているのか、それとも単なる通俗的「ファン」に過ぎないのか ― 自分でもどちらかよく分かりません。ですが、狐狸庵先生から勇気をいただいて、「なんで通俗的じゃあイケナイの?」と開き直ってみたい気がします。
 先ほどリルケの名前を挙げました。僕が彼の文学に惹かれているのは当然至極ですが、彼の貴族趣味はどうしても好きになれないのです。思うに、リルケや彼が崇めたヘルダーリンの詩世界は、あまりにも強く「俗」が否定されているのではないでしょうか。ヘルダーリンが若くして狂い、リルケがスイスの山岳地帯の城に住み着いて隠者の如く暮さざるをえなかったのは、そのことと関連しているような気がします。比較的多くの人間が、若くて純粋な時期には彼らに惹かれるけれども、それなりの年齢を重ねると、かつて敬遠していた強(したた)かなゲーテ、性的卑俗ささえ秘めたゲーテに向かうようになる、とはよく言われることです。
 俗と聖、「うさんくさいもの」と「純粋なもの」の共存 ― ポップな作家とされる村上春樹が「相反的なるものの同時存在の中にこそ、我々の偉大なる『普通性』がある」と表現したのは、ひょっとしてこのことなりや?また、狐狸庵先生もよく引き合いに出す親鸞の言葉を借りれば、「俗人正機」。違いましたっけ?
 ともあれ、後生大事に抱え込んでいるハン・ヒョジュという淫祠邪教的シンボルが、いつ僕の中で「転化」するのか ― 自然に任せて待つといたしましょう。わがシンボルを想えば、すでに ― 幼心への目覚めゆえか、はたまたかくある自分への愛おしさゆえか ― 邪(よこしま)な思いは去り、少しだけ頭と心がぶんぶん唸っているような気がします。これが真に「光り輝き」だすことはあるのか、ないのか。あるとすれば、それはいつのことなのか‥‥楽しみ、楽しみ。いざ、物語(ドラマ)の中へ、生命(いのち)の多様性の中へ!