カール・フォークト
瀬戸武彦著: 「俘虜名簿」より
Vogt(フォークト),Dr. Karl(1878-1960):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備陸軍少尉。[弁護士・弁理士]。アンハルト公国のザーレ河畔のニーンブルクに生まれた。学校の校長を勤めていた父親の関係でデッサウのギムナジウムに学んだ。父親に勧められてベルリン大学の東洋語研究所で日本語を学び、また法律、音楽史や対位法も学んだ。1903年2月、東京のドイツ公使館勤務のために来日した。1907年、兵役実習義務を青島及び膠州で果たし、東京のドイツ大使館勤務に戻った。1910年10月、ドイツ人として最初の弁理士資格を得た。日本の民法、商法を独訳・紹介した本を数冊自費出版した。1914年1月に発覚した一大疑獄事件であるシーメンス事件の弁護人を務めた。1914年10月10日、フォークト法律特許事務所から俘虜情報局へ、俘虜氏名照会手続きについての問い合わせがあった。11月7日午後4時からモルトケ兵営で行われた青島開城交渉に、通訳として参加した。また11月10日にモルトケ兵営で行われた神尾青島攻囲軍司令官とヴァルデック総督の会見では、通訳の任に当たった。熊本収容所時代の1914年12月1日付け「九州日日」新聞の記事によると、フォークト予備少尉は金には不自由せず、金遣いが荒かったとのことである。日本語に堪能であったので、出入りの塩山呉服店に絹の綿入れ寝巻きと布団を注文し、物産陳列場見学の折には、座布団を買い込んだ【『新聞集成 大正編年史』大正三年度版下、787頁及び788頁より】。久留米収容所の音楽活動においてフォークトは、レーマン(Otto Lehmann)及びヘルトリング(Hertling)と並ぶ存在であった。久留米市民たちの「共鳴音楽会」はフォークトの指導を受けていた。日独戦争前、横浜市山下町75番地で法律特許事務所を開いていた【秘書を務めていたマルガレーテ・ハークマン(Margarethe Hagmann,?-1917)の兄弟グスタフ・ハークマン(Gustav Hagmann)は神戸の商会「Tait & Co.」に勤めていて、日本女性(旧姓雨宮)と結婚し娘が一人いた。大戦勃発により青島へ応召し、第3海兵大隊第7中隊伍長として第2歩兵堡塁で日独戦争を戦ったが、1914年11月5日戦死して、第2歩兵堡塁の後ろに埋葬された】。久留米時代の1915年11月5日、真崎甚三郎所長によるベーゼ(Boese)、フローリアン(Florian)両将校殴打事件が発生した際、日本通であることからスクリバ(Scriba)予備少尉とともに真崎所長とアンデルス(Anders)少佐の会談に列席し、事件打開に骨を折った。フォークトは真崎と幾度も面談協議し、また俘虜将校達に対しても日本の習慣等について説明した。1916年12月から収容所内の「交響楽団」の指揮を執り、更にヘルトリング(Hertling)やツァイス(Zeiss)とともに収容所の音楽教育にも携わった。1917年3月4日、収容所のオーケストラ・コンサート「ベートーヴェンの夕べ」では、「交響曲第5番〈運命〉」の指揮をした。また1918年7月9日には、ベートーヴェンの「第九」を第3楽章までではあるが演奏指揮した。【インターネットによる「『第九』事始め(中)」より】「カール・フォークトの四つの歌」(1919年)を作曲し、演奏指導等も行い、また自身が作曲した歌曲を歌うなど、久留米の音楽活動ではレーマンとともに大活躍した。解放後の1920年3月25日、南海丸でドイツに帰国し、5月27日に故国に着いた。1920年6月8日ドーラ=マリア(Dora-Maria Ostwald,1874-1941)と結婚した。1921年2月から再び東京及び横浜で弁護士・弁理士活動をした。また東京のドイツ大使館の法律顧問をするなど、法律家として日本におけるドイツ人の権利擁護、またドイツにおける日本の権利仲介にも重要な役割を果たした。『ある日本在住ドイツ人の人生記録から』(Aus der Lebenschronik eines Japandeutschen ,Tokyo,1962)の著書もある。後半生は、神奈川県二宮町の二宮駅前の相模湾を見下ろす4000坪の敷地に、中国的で日本風の寺のような邸宅に住んだ。昭和35年(1960年)5月14日、83歳で没した。ザーレ河畔のニーンブルク(Nienburg)出身。(3772:熊本→久留米)