雪に立つ墓標
小阪清行
僕が毎日座る机のすぐ上に、一枚の水彩画が掛かっている。八つ切り画用紙に描かれた、森と池を背景に立つ一本のケヤキの水彩画である。こんな稚拙な絵にしては額縁が立派すぎてアンバランスじゃないか、と言って笑う人もいる。確かに美術に対して盲目の僕でさえ下手であると断言できるほど子供っぽい出来である。しかし、ヘッセの水彩画を想わせるその淡く瑞々しい緑の色調は、名状しがたい優しさを僕に感じさせないではいない。ともかく、金さんの描いたこの絵を僕はいつまでも、あたう限り豪華に飾っておきたいと思っている。
金さんは鳶だった。僕が彼と出会ったのは、宗教改革で有名なヴィッテンベルク市の郊外、ビルケンヴァルトという東ドイツの村でのことだった。村とはいえ、そこには約一万人に職を提供する東ドイツ有数の化学コンビナートが存在していた(最近同地を再訪した友人の話では、コンビナートは統一後劣悪なる環境汚染源として閉鎖され、現在は雑草の原と化しているとのことである。)二十数年前西ドイツに留学していた僕は、縁あってこのコンビナートの一角に新設されるアンモニア・プラントの建設現場で通訳として働くことになった。日本のエンジニアリング会社が建設を進めるこの現場には、日本から約四百人の労働者と五十人あまりのエンジニアや事務屋が来て、ドイツ人と一緒に働いていた。僕がそこに行った73年の1月には、工事は二期目に入り、完成した第一期プラントではすでに試運転が行われていた。現場に初めて入って日、鉛色の雲が重くのしかかっていたが、パイロットバーナーの炎だけが威勢よく、みぞれ混じりの雨を落としてくる冬空に向かって、《バァーー》という燃焼音をたてて挑みかかっていた。
当時すでに計画経済は行き詰まっていた。七一年にウルブリヒトの後を継いで社会主義統一党第一書記の座についたホーネッカーは、経済不振打開のため、ブラントの東方外交を巧みに利用して西側との交易を強力に推進せんと目論んでいた。日本との国交樹立を前にして、すでに数年前から経済レベルの接触が始まっていたものの、大規模な取引としては、このアンモニア・プラントが両国間で初めてのものだった。試運転に先立って、シベリアからビルケンヴァルトに至る全長千キロメートルを越えるパイプラインの敷設も完了し、天然ガスも順調に供給されていた。
広大な建設現場は、全体が有刺鉄線の柵で囲まれ、検問所には終日、肩に小銃をぶら下げた若い兵士が物憂げな顔付きで歩哨に立っていた。巨大なパイプラックの周囲には、高さが数十メートルもある熱交換機など銀色のタワーが林立し、何十台ものクレーン車がパイプや鉄骨を吊り下げている。ラックのあちこちに白いヘルメットが点在し、溶接の火花が飛び散っていた。傍らにいろいろの資材の散らばった未舗装の道路を、器材を乗せたトラックやレッカーやジープなどが泥水をはね散らしながら走り、その横を日本人やドイツ人の作業員たちが忙しそうに歩いていた。風向きによっては、コンビナートの古いアンモニア工場や尿素工場などから、強烈な悪臭が流れてくることがあった。
僕は、メインラックから二百メートルばかり離れた所に立つ三つのプレハブ事務所に一つ、第一建設事務所に配置された。
元請けであるPエンジニアリングの社員たちは、隣村の宿舎からマイクロバスやフォルクスワーゲンなどに乗って現場にやってきていた。それに対して、四百名を越える下請けの労働者たちは、現場から約半キロ離れた「日本人村」とよばれるキャンプ内の、数十棟並ぶ大きなプレハブのバンガローに住んでいた。そこから毎朝現場まで歩いて通うのだった。桑原さんというプロの通訳兼翻訳家を除いて、西ドイツから応募してやって来た現地採用の通訳八人はキャンプで労働者たちと暮らしを共にしていた。
僕の同室の、人はいいけれどちょっと頼りない先輩田口君は、ハイデルベルク大学で三年間の留学生活を送っていたが、お世辞にも優秀な通訳とは言えなかった。彼に限らず、桑原さん以外の通訳は、西ドイツの大学に入学したものの講義についていけず、留学の目標を見失った者がほとんどで、キャンプの一角はあたかも留学生の吹き溜まりの様相を呈していた。僕もそんな中の一人だった。
金さんは、僕たちと同じバンガローの住人で、四十がらみの精悍な顔をした痩せぎすの小男だった。ぎょろりとした目は爬虫類のそれを思い起こさせた。Pエンジニアリングの傘下には何十もの下請けが寄り集まっていたが、金さんもそういう鳶の組の一員として、十数人の鳶仲間とともにビルケンヴァルトにやってきていた。僕はすぐに金さんと仲良くなった。僕には幼いときから、人のよさそうな肉体労働者風の人間に惹かれる傾向があった(そのため父親から「あななごくとれと付き合いよったら、ろくな人間になれへんのじゃ!」とよく怒鳴られたものだ)。キャンプに入った最初の日の夕方、僕は田口君から金さんに紹介された。
「ほんだら後で、田口と一緒にわしの部屋へおいでえ。日本料理で歓迎会やっちゃるけん。ドルメッチャーには世話になるさかい、大事にしとかないかんけんの」
どこの土地の出身なのかさっぱり見当のつかないなまりで金さんは言った。ニンニクと酒とタバコで息が臭かった。
金さんの料理の腕は玄人はだしだった。それに彼の部屋には、お茶漬けのもと、鮭缶、塩辛、ラーメン、日本酒など、西ドイツでも入手しにくい日本食品が盛り上げられていた。キムチなどは自分で漬けていた。それらを惜しげなく僕たちに勧めながら、見返りというものを一切期待していないようだった。打算を知らないきっぷのよさが、僕にはとても新鮮だった。
「おまえら、若いうちによーぉベンキョしとかなあかんぞ。わしらみたいなアホになったらしまいやけんの」
金さんは酔っ払うとしょっちゅうそんなことを言った。しかし僕は金さんを「アホ」だと思ったことは一度もない。むしろときどき鋭い冴えに驚かされたりした。初対面の晩など、酔った金さんは僕に、こんなおれがイヤなら近寄ってくるな、とばかりに自分の暗い過去や、醜さや、愚かさをすべて曝け出したが(そのくせ、後にはほとんど自分の過去に触れることはなかった)、それは極めて要を得た鮮烈な自己紹介だった。
「わしゃの、いっぺんカーッときたら、もう自分が抑えられんけん。まわりでブラクじゃ、エタじゃぬかしよって――昔からそういう奴には、目こん玉えぐり取ってやりとうなるんじゃ。好きこのんでブラクに生まれた訳やないわい。いままで、なんべんケンカして豚箱ほりこまれたかわからへん。学校では教師と、仕事についたら現場のニンゲとケンカじゃあ。組にはいりゃあ、すぐに上とケンカして、このとおり指を二本落とされてしもた。凶暴なアホにつける薬はないわ」、そう言って小気味よく笑った。
背中の見事な唐獅子牡丹を見せてくれたのもそのときのことだった。それから――これは見せてもらわなかったけれど――ペニスには、プラスチックの玉が二十個ほど並んでいるという。ムショ暮らしのとき、暇に任せて歯ブラシの柄を砕き細工して埋め込んだそうである。
「あのときゃあ、えろー棹が燃えたでえ」
最初の二、三ヶ月は、現場の様子が掴めないうえに、建築、土木、機械、電気、化学などの技術用語が全く理解できずに赤面しどうしだったが、事務所の僕の机のすぐ前に桑原さんがいて親切に教えてくれたので、思ったよりは早く慣れることができた。桑原さんはもともとシュティフターを専門とする文学畑の人間だったが、「メシのため」にこの仕事をもう二十年以上やっていた。彼のドイツ語は、書いてもしゃべっても、正確無比だった。机の上にはシュレーゲル・ティーク訳の二巻本シェークスピア選集が乗っかっていて、仕事が途切れると、開けてちょくちょく読んでいた。
僕が働いていた第一建設事務所には建設部長を頭に二十人足らずのエンジニア、通訳が二人、それに設計係長の夫人が事務員として働いていた。エンジニアたちの間には、好人物もいたが、どちらかというと脂ぎった俗物が多かった。
ドイツ人技師たちには一般にコセコセしたところがあまり見られなかった。が、それも見方を変えれば、八時間のノルマをノンベンダラリとやり過ごしてしるだけのようにも感じられた。やる気のあるエンジニアがいないではなかったが、彼らはたいてい特権を与えられた「党員(ゲノッセ)」だった。
「ドイツ人っても、哀れなものだよ。電話するったってベルリンにつなげるのに、ここじゃ悪くすると一時間近くかかっちまう。こんな酷い話はないぜ、まったく。車にしてもさ、排ガスだけ一人前で故障ばっかの《トラバント》とくる。注文して十年も待たされたあげくに手に入れた車がこれだあ。日本人を見りぁ近寄って来て、西マルクと交換しろだの、デジタル時計を売れだの、鬱陶しくてかなわんよ、実際。紙くず同様の東マルクなんか誰が欲しがるもんかってんだ」
僕より三・四歳上の東工大出のエンジニアが、現場の食堂でカツ丼をつつきながら言った。ひどい貧乏ゆすりで食卓がガタガタ揺れていた。
「NH3の合成技術なんかでも、ドイツ人が発明しておきながら、今じゃ日本から技術を輸入しなきゃならないほど落ちぶれちゃったんだからなあ。だいたい、共産主義がダメだってのは、ここで十日も仕事してみりゃあ分かるさ。こっちのやった仕事に難癖つけるのだけは一人前だが、奴ら、骨の髄までレイジーになっちまってさ。共産圏の優等生とか言われてるそいだけど、これじゃあ三流国だよ。西とくらべりゃあ、雲泥の差だあ。ねえ、桑原さん」
桑原さんは僕の横で食べていた。
「あなたの言っていることは、確かに半分は当たっているよ。でも、相対化する視点も必要じゃないの。だって、西ドイツは戦後アメリカのマーシャル・プランで復興のケッカケを掴めたわけだけど、東は逆にソ連によって賠償金代わりに、工場の機械から機関車やレールまで、根こそぎ持っていかれた訳だからね。それにもともと西ドイツあたりは工業中心で戦前から裕福だったのに対して、東は昔から農業地帯で貧しかったんだから。さらに悪いことに、ここではウルブリヒトとかホーネッカーのようなソ連の言いなりになる二流の政治家しか権力の座につけない構造になっている」
「それにしても、同じドイツ人でも、西と東じゃあ、人間の生気まで違うと思いません?西の人間なんか、ベンツやポルシェに乗って、颯爽たるもんじゃないですか。この間西でカジノへ行ったときなんか、目の前でベンツを買える金が行ったり来たり。それにひきかえ、こっちの連中のみみっちさときたらないっすよ」
桑原さんはそれ以上相手にしなかった。
僕は事務所でプロトコルや作業日誌などを翻訳するよりも、現場での通訳の仕事の方が好きだった。現場には、事務所と違って狡っ辛い空気が希薄だった。労働者たちの間には卑猥極まる冗談が充満し、口げんかなども絶えることがなかったが、事務所では決して聞かれない爽やかな笑いがあった。
キャンプ内に和食もどきを食べさせる食堂があったけれども、僕はほとんど毎晩のように金さんの部屋でご馳走になっていたように思う。結構な支出を強いていたわけだが、どういう手段で彼に対してその埋め合わせをしていたのか、あるいはそんなことは全くしなかったのか、思い出すことができない。
性教育の方面でも金さんから得るところは多かった。まだウブだった僕に、「いちフト、にマガリ、さんナガサ」とか、「サンジュウ刺しごろ、シジュウしごろ」などの「名句」に関して、微に入り細を穿った講釈を垂れた。
「ベベ、チャンコ、カンコ、ベッタ、ナベ、ベッチョ、生貝、赤貝、汐吹貝、ほら貝、めめっこ、提灯入れ、あわび、桃源、磯巾着、岩戸、おしゃんす、ももんがあ、玉門、奥の院、御殿門、ヴァルヴァ、プッシー……おい藤野、おまえ、オマンコのことドイツ語でどない言うか知っとるか?」
「ドイツ語にMankoという単語があって『赤字』という意味だってことなら聞いたことがあります」
「何じゃ、それは。要するに、おまえドルメッチャーのくせして、ムッシーもメーゼも知らんのやな」
「ほんだけどの、《ムッシー》は、ありゃいかんぞ。やっぱ、日本のおなごの『オマンコ』がいっちゃんええ。こないだベルリンで買(こ)おたおなごのあそこは、オマエ、海辺の洞窟みたいやった。洞窟でゴボウ洗いよるようなもんじゃあ。ほれに第一、こっちのおなごには『情(じょう)』っちゅうもんが無いけんいかんわい。わしらオマンコ買(こ)おとっても、ほんまは、その奥の『情』を買(こ)おとんじゃ。わかるか。大学で読む本に、こななフカーイこと書いとれへんじゃろが、エエ?」
金さんは自分のことを本気で「どうしようもないアホ」だと信じていたが、それと同時に何人を前にしても微動だにしない自己への信頼を秘めていたような気がする。その調和した矛盾が僕には魅力的だった。
とはいえ、西ベルリンの歓楽街へはその後もこりることなく足を運んでいた。鳶職というのは、特に金さんのように腕がよくて危険を厭わない鳶の場合には、僕らとは比較にならないほどの稼ぎがあったらしいが、彼はそのほとんどを「飲む打つ買う」に費やしていた。いつだったか「ドイツ連邦共和国国営」の『喜びの家』から帰ってきた日の晩、金さんは言った。
「今日は、オマエ、丸裸の金髪や栗毛を十人ほど四つん這いに並べさせといて、右から左へズボッ・ズボッ・ズボッと抜いたった。女のアソコいうのはおもろいもんやぞ、藤野。色・形や大きさ・深さだけやのうて、一つ一つが違う『味』を持っとる。十も並べるとそれがよーぉ分かる。ソーラええもんやで。浮世を超越した境地じゃわの、カッカッカ」
僕は生唾を飲みながら聴いていた。しかし、そんな話を聞きながら、僕には、金さんの顔がたまらなく寂しそうに見えることがあった。そんな彼の心に荒涼としたドイツの冬空のような「虚無」を感じたのは、僕の先入観によるものだったろうか。
数ヶ月後の日曜日の晩、西ベルリンから帰ってきた金さんが、意味ありげな顔をして僕を部屋に招いた。塗装屋の親方ノムさん、その下で働く白痴のように人のいい鉄っちゃん、それに田口君など、なじみの顔がいくつか揃っていた。テーブルの上には、日本人村の村長から借りてきた西ドイツ製の映写機がおかれていた。
「おい藤野、今日はええもん見せたる」
西ベルリンから仕入れてきたスウェーデン製のブルーフィルムで、カラーの画像は陰毛のウェーブまで識別できるほど鮮明だった。
砂浜を全裸の金髪とブルネットの美女が二人、豊饒な乳房を揺らせながら駆け寄ってくる。抱き合ってキスしていた二人は、やがて互いに乳房を吸い合い、砂の上に寝転がって、指でおし広げられた性器を舐めあった。あげくの果てに、両端がペニスの格好をした黒い棒を自分たちのジットリ濡れた性器につっこんだりした。そこに船乗り風の二人の男が現れる……そんなシーンが小一時間も続いたろうか。終わると、ノムさんと鉄っちゃんが拍手しながら「アンコール!」と連呼する。金さんは呵々と笑ってそれに答えた。
そもそも僕は西ドイツでは神学部に籍を置いて「若きルターにおける神学形成」というテーマで勉強していた。当時は、小説も読まず映画も見ず、学生クリスチャンのグループに加わって、せっせと聖書研究会や祈祷会に参加していた。このような、性的刺激の完全にシャットアウトされた世界の住人であった僕にとって、このポルノはあまりに強烈だった。実際、その夜、右手が股間の硬直しきった肉塊に引き寄せられるのを、制することができなかった。それどころか、その後一週間ほど、ほとんど毎夜のようにあのシーンを回想しては、マスターベーションに耽っていた。
ある晩、金さんの部屋で飲んでいると、Pエンジニアリングの仰木所長がやって来た。仰木さんは、背が低く痩せていて、ちょうど金さんと同じような対格をしていたが、年は彼より二十歳も年上だったろうか。いずれ定年の近い年齢だった。三井三池争議当時には胃にあけながら労務の修羅場をくぐり抜けてきた苦労人で、下請けの痛みも理解できる人格者である、そんな噂を何度か聞いたことがある。キャンプ内での受けも極めて良かった。一部上場企業P社の取締役でもあるとのことだったが、豪放磊落な人柄といい、謙虚さといい、風貌といい、ノムさんなどのような下請けの親方連中とちっとも変わることろがない。金さんとは十年ほど前にブラジルの同じ現場で働いて以来、特に馬が合うらしく、「金ちゃん」とか「キンノスケ」とか言って可愛がっていた。そして暇を見つけては隣村の宿舎を抜け出して、キャンプの金さんの部屋に日本料理を食べにきていた。しかしその夜はいつもと様子が違っていた。部屋に入ってくるなり、
「馬鹿モン!本当にヤッてたらどうするつもりだったんか。ひとつ間違えたら外交問題になるところだったぞ。そこいらじゅうで公安がうろちょろしとるのを、おまえも知っとろうが」と怒鳴った。
「いやー、スミマセン。もう金輪際ああいうアホなことはやりませんけん、かんべんしてやってくださいよ、仰木さん」
金さんの声には、ちょっと甘えるような響きがあった。
「こんだあんなことを仕出かしたら、もうワシの手には負えんから、よう覚えとけ」
温厚な仰木さんがまるで本気で怒っているようで、金さんは珍しく神妙に頭を下げていた。いったい彼には事の分かった人間に対してはいたって従順な面があった。
事件は前日の晩に起こっていた。僕が金さんの部屋でご馳走になってから自分の部屋に戻り、ほろ酔いかげんで田口君と話しているときだった。急にバンガローの端のキッチンの方から甲高い男の悲鳴が聞こえてきた。と同時に、すごい速さで長い廊下を僕たちの部屋の方に走ってくる者がいる。僕はあわててドアを開けた。コック長のエッカートを包丁を持った金さんが追いかけていた。
「コノッー!!!!」
追いつくや、即、刺し殺しかねないような雰囲気だった。僕は咄嗟にエッカートを僕たちの部屋に押しやって、田口君に内側からロックするように言った。
「おまえなんか関係ないんじゃ。余計なことするなっ!エッカート、出てこい!この馬鹿野郎!シャイセー!!!!」
ドアが破れるほど強く叩いたり蹴ったりしながらがなり立てていたが、挙げ句の果てに包丁をドアに突き立てた。慌てて何十人もが集まってきてわれわれを取り囲んだ。息急き切りながらもやっと少し落ち着きを見せた金さんと、恐る恐る部屋から出てきたエッカートの言い分を聞き較べてみると、何のことはない。キッチンに肉切り包丁を返しにいった金さんが、些細なことからエッカートの態度を日本人を馬鹿にするものだと勘違いしただけのことに過ぎなかった。これが僕の遭遇した初めての金さんの狂暴さだった。
仰木さんとしても、金さんのそういう気性は重々承知で、「ひとつ事が起こった場合、オマエがおらんようになったのでは寂しくてたまらんだろうが」、そんな風なことを結局のところ諭しているらしいのが僕にもよく解った。
一通りの説教が終わったあとは、ケロッとして、いつものごとく和やかに飲んだ。とんなとき、金さんと仰木所長との間は、はた目にはどう見ても、意気投合した鳶職人とその親方だった。二人はやがて前日の事件をダシにして冗談さえ言って爆笑したかと思うと、いつものように、楽しかった踊りと音楽の国ブラジルを懐かしんでした。
工事はやや遅れながらも順調に進んでいた。七三年五月、日本と東ドイツの間に国交が樹立され、ヴィッテンベルク市内でも盛大な記念パーティーが催された。桑原さんの通訳で、党や大使館のお偉方による、「日独両国の友好関係のますますの発展」云々の挨拶が続いたが、会場は白けていた。両国のエンジニアたちは、現場ではお互いに陰口をたたき罵りあってばかりいたのだから。
キャンプの日本人たちは、日曜日にはたいてい、ヴィッテンベルクの市街地にくりだし、酒場でビールを飲んだりダンスホールで踊ったりしていた。若いワーカーたちの間には、札びらを切ってあわよくば金髪の可愛い女の子をひっかけようという手合いも少なくなかった。それでも、ヴィッテンベルク一般市民の間で、日本人の評判は概して悪くなかった。それは、軍用トラックや装甲車でこれ見よがしに市内を疾駆する憎々しいソ連兵への面当ての意味もあったであろうし、西側世界への強烈な憧れの気持ちゆえだったかもしれない。
が、なかには、酔っ払ってドイツ人と喧嘩する者や、ドイツ人女性を妊娠させる者も何人かでてきていた。僕は週に一度、二十人足らずのキャンプの若い住人たちにドイツ語会話を教えていたが、妊娠事件を起こした者のうち二人がその会話クラスの参加者だった。薄ぼんやりとではあるが、公安当局の気配も感じられた。特にわれわれ通訳は、無闇にドイツ人に接近するとスパイと見做される恐れのある旨、再三の注意を人事課から受けていた。
しかし、なにはともあれ、時は五月である。「すべての蕾が開き、すべての小鳥たちが歌う、すばらしく美しい月、五月」。冬の間中、泥炭混じりの石炭を暖炉で燃やし続けた東ドイツにも、春ともなればやはり野には緑が萌える。化学コンビナートの周辺でさえ、色とりどりの花が一斉に開花する。僕は、西ドイツにいた時分から、休みの日などには森を散歩する習慣が身についていた。キャンプの前の道を二十分ほどまっすぐ南に向かって歩けば、草原や林や森を横切る小径に通じていた。
ところどころ道端の木の幹に「危険!地雷設置区域につき道から逸れるべからず」と丸いプレートが打ち付けてあった。ヴィッテンベルクは重要な軍事拠点であったし、またビルケンヴァルト化学コンビナートを守るためにも、脅しではなく実際にこのあたりに地雷が埋設されてている可能性は十分にあったはずである。小さな子供や日本人など、字の読めない人間が入ってきたらどうなるのだろう。僕は、札を見るたびに腹立たしさを覚えながらも、決して道を逸れることがないようにしていた。
ところが、五月のある日曜日の午後、森のほとりを散歩していると、道からかなり逸れた草むらの中で、日本人らしい小男が切り株に腰掛けて何かしているではないか。僕は崖っぷちを歩くように恐る恐る近寄っていった。金さんだった。スケッチブックを片手に、池の手前に立つケヤキを水彩で描いていた。
「この辺、地雷が埋まっているんですよ。知らなかったんですか」
「なんや、おまえか」、振り向いてそう言ったなり僕を無視するように描き続けた。僕は横に寝そべって、彼の描いている見事なケヤキを眺めていた。あたり一面は白や黄色の可憐な鐘状花で覆われていた。僕の顔や腕を柔らかな葉っぱがチクチク刺すのが心地よかった。木々に止まった小鳥たちが囀っていた。自然と自分を隔てているものが徐々に消え去って、大地の呼吸さえ感じられるような幸福感に僕は浸っていた。
「ムショに入っとった時分にやり始めたんよ。ずっと壁に囲まれとると、時々発狂しそうなほど滅入ることがある。滅入らんようにするには、樹を眺めるのが一番や」、三十分もたったころ僕の存在を思い出したかのようにそう言って、またそのまま黙々と描き続けた。
さらに一時間ほど過ぎ去ったころ、再び独り言のように「樹いうもんは、エライもんやのう、藤野」と言った。
冬の間死んでいたケヤキは、いま奇跡のごとく甦って若葉をつけている。亭々と伸びるその姿は、惚れ惚れするほど瑞々しく、そして美しかった。その樹の上空を鷹がぐるぐると旋回していた。まるで神話の世界をまじない出そうとでもしているかのようだった。地球上のすべての醜悪を養分として吸い取った巨木は、その新緑の梢を果てしなく広げていって青空を包み込んでしまいそうだった。僕はそっと金さんの横顔を見つめた。愁いを湛えた実にいい顔だった。彼がときどき見せたあの暗い表情は、はたして単なる「虚無」の表れにすぎなかったのだろうか。それともそれは、自我の根底が抜け落ちて、永遠に生成循環する自然の流れと渾然一体となった、もっと根源的なものだったのだろうか――今でも彼のことを思うとき、僕は自分に問いかける。
彼が腰を上げたとき、空はもう赤く染まりかけていた。
ヴィッテンベルクについた最初の日曜日、ルターがしばしば説教したシュタット・キルヒェの礼拝を覗いてみた。有名なクラナッハの磔刑図が正面祭壇に掲げられていたが、その前で去勢されたような会衆が、気の抜けた説教に耳を傾けていた。ほかの教会もいくつか覗いてみたものの、どこもおんなじようなものだった。かつてヨーロッパ中を宗教改革のるつぼに巻き込んだあの宗教的熱狂は、もはや町のどこにも感じられない。ヴィッテンベルク大学も、ナポレオン軍の侵攻と同時に閉鎖されそのままになっていた。
結局、市内にある病院の入院患者用チャペルに通うことにした。かつてこの地で学んだ讃美歌作者パウル・ゲルハルトの名前を戴いた大きな病院だった。そのチャペルの正面には壁画が施されており、その上部にゲルハルトの讃美歌の歌詞が亀甲文字で書かれていた。
《血潮したたる主の御頭、棘に刺されし主の御頭》
説教に耳を傾ける日本人が珍しいのか、礼拝が終わると牧師(毎週違った説教者が外部からやってきていた)や患者がよく話しかけてきた。ある日曜日の礼拝のあと、老牧師が自宅に招いてくれたことがあった。古色蒼然たる牧師館の入り口に銅板が埋め込まれていた――《ルターの友人たりし宗教改革者ブーゲンハーゲン牧師、ここに一五XX年より一五XX年まで居住せり》。ブーゲンハーゲンの名前を知っていたことと、ルター神学の権威ボス教授のプロゼミに参加していたことが、いたく牧師を喜ばせたようだった。天井の高い暗い部屋の中で、夫人の入れてくれたコーヒーを飲みながら、僕たちは話した。ヴィッテンベルクの歴史、西ドイツでの学生生活、ビルケンヴァルトの日本人のことなど……
牧師館の裏の家庭菜園の手入れをしたり、そこで採れるイチゴやリンゴを使って、毎日曜日の午後やってくる孫たちにケーキを作ってやるのが唯一の楽しみであるらしかった。ケーキを食べながら、二人は僕にいろいろな質問をした。日本にはクリスチャンが何人くらいいるのか、とういう経緯で神学を勉強するようになったのか、将来どんな職業につきたいのか、仏教や神道にどのような姿勢で対決していくつもりなのか、等など。ドイツのクリスチャンたちによって何十回も繰り返された問である。僕はうんざりしながら一つ一つの問に、適当な返事を返していた。
期待したような答が返ってこなかったためか、牧師は話題を変えた。
「いや、うちの孫を大変です。十四歳の孫娘は中学で主席であるにもかかわらず、マルクス主義的世界観を受け入れる宣誓書に署名を拒否したため高校進学の道を絶たれました。党員の子供たちは、あまり出来が良くなくても大学に進学できるのに……酷い制度です。しかし私はいつも孫に言っているのです。私たちはおまえを誇りに思っている。神様はそんなおまえを、最前の道に導いてくださるに違いない、と」
コーヒーのおかわりを入れながら、牧師夫人が言葉を継いだ。
「孫ばかりではありません。私たちも、日々、ロシア人たちや彼らに言いなりの党員たちの傲岸不遜な態度に悩まされ続けているのです。戦前は、私たちはそれはそれは恵まれた生活が与えられておりました。その恵まれた土地や財産も、ロシア人たちのお陰で、全部シュレージェンに残してこなければなりませんでした。雪の中を不眠不休で、命からがら馬車に乗ってここヴィッテンベルクまで逃れてきたのです。神様はいつの日か、彼らの頭の上に燃えさかる炭火を積まれるにちがいありません」
聞きながら僕は、なぜだか解らないままに、キリスト教というシステムに(いや恐らく「システム」そのものに)嫌気がさしていた。そして、それ以上に、惰性的に教会通いを続けている自分自身を疎ましく感じていた。しばらくして、礼拝からは遠ざかっていった。
「ルターの町」で僕が求め続けていたものはいったい何だったのだろう。結局僕は、礼拝における牧師たちの言葉よりも、また西ドイツ時代の神学教授や学生クリスチャンたちよりも、愚痴を漏らさず黙々と働きワイワイ飲む金さんの存在のほうに、はるかに重みや真実を感じていた。
工事は四年目に入ろうとしていた。ドイツ人の死亡者はゼロだったが、日本側はすでに転落事故などによる死亡者をすでに四人もだしていた。日本側とドイツ側の安全担当者が週に一度、現場全体を巡視して回り、安全ベルトなどについて作業員に注意していた。その巡視に同行することも僕の役割の一つだった。しかし、絶えずちょこちょこ移動しなくてはならぬ仕事の場合、いちいち安全ベルトなどに気を配っていては仕事にならぬという気持ちが作業員の間には強かった。いくら安全担当者に怒鳴られても、その場限りのことであった。もちろん、当事者としても自らの身を守りたい気持ちがあるのは当然である。が、実際は親方から急かされ、親方はと言えば、そもそも元請けであるP社から、くる日もくる日も脅され賺されながらケツをひっぱたかれていた訳だから、誰もが「矛盾したことを要求しやがらあ」と腹では思っていた。
大陸からの寒波の襲来とともに、防寒帽の中の耳も千切れそうなほど厳しい冷え込みが続いた。現場では誰もが体を強ばらせて作業していた。そんなある日、金さんの一番可愛がっていた塗装屋の鉄っちゃんが、凍てついた足場から滑り落ちた。救急車でパウル・ゲルハルト病院に運ばれたが、ひどい内臓破裂で、医者も酸素マスクをつけ点滴を打つよりほか手の施しようがなかった。ノムさんと金さんそれに僕が見守るなか、十三時間後に息をひきとった。
夜遅く病院からタクシーで帰り、僕たち三人は鉄っちゃんの部屋で明け方まで飲んだ。もともと鉄っちゃんは存在感が希薄だった。誰に対しても、年下の者にさえ、ニコニコしながら「ハイッ」と言って言いなりだった。そのため、金さんを除く誰からも軽く見られていた。その鉄っちゃんが居なくなった今、その不在が信じられないくらい重々しく僕の心にのしかかっていた。まるで空気がなくなったみたいに……時々、金さんと歯の軋む音が聞こえてきた。もともと涙もろいノムさんは引きも切らずにすすり泣いていた。にがい酒だった。
翌日、塗装屋や溶接工などはパイプラックやタワーに昇ることを拒否した。事故があるといつものことだが、現場全体が重苦しい空気で覆われた。
第一事務所では、工事の遅れを心配していた。契約による第二期工事の引き渡し期限が迫っていたからだ。技術査察局ドクター・ブルーメンタールによる最終チェックは、一週間後に迫っていた。遅れるとP社は東ドイツ政府に対して巨額のペナルティーを支払わなくてはならなくなる。それは、せっかく残業に残業を重ねてきた日本人四百五十人の努力がすべて水泡に帰すことを意味していた。
そもそも、西ドイツやアメリカをさしおいて日本がこのプラントを受注できたのは、日本の技術がとりわけ優れているとか、特に低コストであるという理由からではなかった。日本人ならよく働き残業も厭わないから、他の国のプラント会社よりも二年早く完成する。東ドイツ側からすれば、耐用年数が二年プラスされるというメリットがあったからなのである。日本人はみんな三ヶ月ほどまえから残業時間が急激に増えて、睡眠時間以外は仕事という日が、週に何回もあった。現場やキャンプにはP社の監督技師たちに対する陰口と愚痴が充満していた。
よりによってそんなとき、3号タンクの内部塗装に重大な欠陥があることを日本側のエンジニアが発見した。天井周辺部の塗装がペロリと剥げてしまったのだ。錆取り作業が十分に行われず、しかも錆止めの乾燥が不十分であったためである。しかしその責任の大半はむしろ、工費削減と工期短縮のため、少人数による突貫作業を強いてきたP社の側にあったはずである。
第一事務所にノムさんが呼ばれ、仰木所長、建設部長、オペレーション部長をはじめ設計課長など主だった面々が彼を取り囲んだ。建設部長は立ち上がって、旧日本陸軍の将校もかくあったであろうと思われる威丈高な態度で、抑えていた憤懣を一挙に爆発させた。
「系列の関係で使ってやっておったが、いったい、おまえのところは、なんちゅう仕事をやっとるんか!」
部長の罵声は、ノムさんを文字通り震え上がらせた。
「それで、いったい何日で修復できるのか、言うてみい」
ただでさえ涙もろいノムさんの顔は、濡れてクシャクシャに歪んでいた。熱病人のような絶え入る声で、彼は言った。
「……足場を組みなおすのに、どない急いでも二日はかかります。ペンキを完全に落とすのに二、三日……錆止めに、一日……ほれから、タンクの中で、しかも冬ですけん、乾燥に四、五日いります。ペンキにまた……」
建設部長は、「カッー!」と吐くように言ったなり、ドカッと椅子に腰を落として頭を抱え込んだ。無理もない。彼は、ここ数ヶ月、週五十時間を越す限界ぎりぎりの残業をこなしてきていた。下請けの人間でもそれを知らない者は誰一人いなかった。六十を過ぎたノムさんの嗚咽さえ聞こえてきた。
永遠が凝縮されたような一分ほどの沈黙を破ったのは仰木所長だった。
「今から塗り直すんでは到底間にあわん。期限に遅れた場合大変なことになる……ドクター・ブルーメンタールは、あの肥満体じゃから、たぶんタンクの上の方に上がってまでは見んじゃろう。それにあの場所は暗くて気づかれにくい。万に一つ見つかった場合には、知らんかったで通すしかあるまい」
仰木所長のこの鶴の一声で一同は解散した。
聞いていた僕は、これが本当に仰木さんの言葉かと、自分の耳を疑った。もし見つからなかった場合、数週間のうちにその欠陥タンクにアンモニアが貯蔵されることになる。タンクは徐々に腐食していって、いつの日か「ルターの町」全体が妙なるアンモニア臭で覆われるのは目に見えていた。
その晩、3号タンクの件に及ぶと、金さんは顔をしかめ、急に不機嫌になった。コップ酒を何杯もあろり、飲んでもいつものように陽気にはならず、逆に貝のように口を閉ざしてしまった。僕は言ってはならぬことを口にしてしまったようで、妙な気詰まりを感じていた。
「藤野、悪いが、またあしたきてくれ」、そう言われて、僕はいつもより早く彼の部屋を出た。バンガローの外では吹雪が白樺の葉を引き千切っていた。
翌日の午前、巡視があった。二時ちょっと過ぎのことだったと思う。僕は日独の安全担当者と一緒に、メインラックの四階に至る凍りついた階段を上っていた。巡視の後で飲む熱いコーヒーのことを考えながら。その時、異様な声が聞こえ、血を凍らせるような衝撃が僕の背筋を走った。タワー群の付近から、怒号、ざわめきが続いた。
「落ちたぞ!」
「金さんや!金さんが落ちたぞ!」
安全担当者たちは、素早く階段を駈け降りていった。一瞬自失した僕も数秒後それに続いた。五十メートルタワーの頂上付近から落ちた金さんの体は、太いボルトが何本も突き出たコンクリートアンカーに叩きつけられていた。ボルトに突き刺さった胴体から腸(はらわた)が露出し、雪に沈み込んだ血模様の回りに脳みそが散乱していた。それを見た僕は、わなわなとその場にしゃがみ込んで激しく嘔吐した。昼に食べたスパゲッティが回虫のように地面を這っていた。脂汗に濡れた全身が震え、激烈な頭痛に襲われた。
夜田口君から聞いたところによれば、その朝、金さんは仰木所長のいる第二事務所に赴いたそうである。いかに個人的に親しいといっても、一介の鳶が勤務時間中に所長に面談を申し込むなどということは、本来ありえないことだった。その辺のけじめは、金さんは人一倍心得ているはずだった。しかしその日の金さんは違っていた。所長にズケズケと随分な言葉を吐いたそうだ。「鉄の死は犬死か」とか、「鉄を返せ」だの、やれ「食い逃げ」がどうの、「日本の恥」、「儲け主義の人殺し企業」が何のかんのと、散々なことを泡を吹きながらまくしたてて出て行った。仰木さんは終始、一言の弁解をするでもなく、頭を垂れておとなしく金さんの言葉を聞いていたとのことだった。
その夜、僕は一睡もできなかった。真っ暗な部屋に、田口君の寝息だけが聞こえていたが、それも外の強風にかき消されがちだった。宇宙全体が失われてしまったような、鉛より重たい喪失感に胸が締め付けられ、拭っても拭っても涙が止まらなかった。時々金さんと鉄っちゃんの顔が浮かんだ。二人とも優しく笑っていた。その笑いが一層切なさをかき立てた。
翌日、初めて僕は仕事を休んだ。誰もいないバンガローで腑抜けになって横たわっていたが、昼前にふらふらと金さんの部屋に入ってみた。主を失った部屋は、虚ろで寂寥としており、悲しみの粒子が漂っているようだった。僕は胸に何かが突き刺さったような痛みを覚えた。同時に軽い耳鳴りを感じた。
「藤野、何やってんだ。もっと飲めよ」
僕は例のケヤキの絵の描かれたスケッチブックを手に取った。そこに描かれていたのはほとんど樹の絵ばかりだった。僕はそれを自分の部屋に持ち帰った。
午後から事故現場に行った。ボルトにはまだ肉片がサラミのようにへばり付いていた。その肉を剥がして紙に包んだ。それからあたりに落ちていた梱包用の板切れを拾った。
キャンプに帰ってヘルメットと作業服を脱ぎ、雪の森に入って行った。常緑のモミが薄い雪化粧をまとっていた。……去年のクリスマスには学生クリスチャンたちと一緒にシュヴァルツヴァルトを散歩していた。燃えるような笑みを浮かべて『モミの木』を一緒に歌ったり、雪を投げあったり、笑い転げながら……池には氷が張っていた。その手前でケヤキはすっかり葉を落として、巨大な黒い骸骨のように幹と枝だけを冬空に晒していた。その姿が僕の心をいっそう陰惨なものにした。……だが、春が来れば、樹は必ず甦り、また瑞々しい新芽を吹くだろう……凍えた手でケヤキの根元に穴を掘り、金さんの体の片割れを埋めた。その前に笏ほどの大きさの板切れを墓標として立てた。板には『ファウスト』の一句を書き込んでおいた。
おまえの見たものは
たとえ何がどうあろうとも
やはり一切が美しかった
次の日の夜、僕は夢を見た。どれも陳腐な夢ばかりだった。小学時代、一番憧れていた女の子に対して、嫌われるのを覚悟のうえで、あるいはむしろ嫌われるために、スカートをめくった夢……友人たちの前でポルノ映画の看板の女にキッスして見せた夢……高校の英語のテストで最高点を取った夢……金さんはしかし一度も夢に出てこなかった。ライオンに仲間が喰われるすぐ側で、平和なサバンナの風景を目に映しながら草を食むインパラのように、夢の中の僕は冷酷でしたたかだった。
バラバラになった金さんの体は腐らないように亜鉛詰めにして日本に空輸された。誰が遺体の引き取り手なのか、僕はついぞ聞かなかった。遺体が日本に発った翌々日、僕はP社を辞した。神学の勉強を続ける気はもうなくなっていた。日本に帰って家業を継ぐつもりだった。
第一事務所で、桑原さんや世話になった人たちに挨拶を終え、第二事務所に作業服やヘルメットを返しに行ったとき、仰木さんが僕を所長室に招いた。何日も不眠が続いていたのだろう。やつれた顔に深い苦渋の色が窺えた。地ならし機でも引きずるような口調で言った。
「結局、ここではどのくらいいたことになるかね」
「ちょうど一年です」
「そうか。長い間ごくろうだった。君とはキンノスケの所で一緒によく飲んだ……………ワシもあいつのあとを追って、早く日本に帰りたい気がするよ…………アレにあんな死に方させてしもて……これまでのワシの人生に一体何の意味があったんか……」
返す言葉が出てこなかった。仰木さんの前で僕は自分が敵前逃亡者であるかのような疚しさを感じていた。際限のない無力感とやる瀬なさに押し潰されそうになって、ただ軽く頭を下げて、所長室を出た。
小銃を肩にひっかけた検問所の兵士にサヨナラを言って現場を後にした。振り返ると、まるで何事もなかったかのように、パイプラックに溶接の火花が散り、クレーンは鉄骨を吊り上げ、トラックやジープが忙しそうに走っていた。そして、すでに完成した第一期プラントでは、パイロットバーナーが《バァーー》という燃焼音をたてて炎を吐き出し、隣の煙突は鉛色の冬空に、焼場のような煙を昇らせていた。
[付記]
「風跡」第22号(1996年4月)発表
この話はすべてフィクションであり、登場する人物、場所などは実在いたしません。