神の魚(カムイチェプ)
小阪清行
激流を憑かれて遡(のぼ)る鼻曲がり
果ててカムイの国に回帰す
ヤ ミ
チ ン モ ク
沈黙 そして 闇
トクッ トクッ
トクッ トクッ ピク
ときおり動く俺(わし)らの体を
薄い透明の膜だけが覆っていた
古い記憶が命じた
「光へ!」
膜を突き破り
砂と砂利を蹴って
冷たい水の中に泳ぎ出たとき
淡い光が優しかった
俺(わし)らを庇護するものは しかし
疾うに存在しなかった
冴え渡る清流 その底の
滾々とわき出る湧水のそばに
卵床はあった
連れの多くがイワナやヤマベの餌となるなか
岩や小石の藻を食って俺らは育った
「食いつつ 食われつつ 調和する」
これこそ そうだ
これのみが 生命(いのち)の掟なのだ
雪解けの渓流を下り
河口近くで遊んだ俺らは
引き締まってくる筋肉と
ムクムクと内から湧き上がってくる力とに
自ら 驚かされながら
より深く より冷たく より暗い
北の海へと引かれていった
アリューシャン列島の無辺の海原
ベーリング海の流氷の下を
宇宙を遊泳するごとく自由に 無碍に
幾年月漂うあいだ
オキアミを食らった俺らの体は
一層逞しさを増していった
背の青灰色 腹の銀白色に
紅色の斑紋があらわれるころ
俺らの雄は 吻が突き出て精悍に曲がり
雌どもの腹腔(はら)は子種ではち切れんばかりとなる
そのとき
銛のごとく 俺らを
脳天から刺し貫く この
不思議の力は 何なのだ 一体
飢えたシャチもアザラシの群れも
いまや俺らを恐怖させることがない
幾百億光年の彼方の
星の光に導かれる如く
抗い難い微かな匂いに魅せられて
母たちの川を
親潮に乗って 俺らはめざす
一切の食を断った群れは
浅瀬や河原を腹ばっては
鱗を剥がし
岩や滝に
頭をぶっつけ
肉を裂き
血を垂らしながら
激流を遡り
産卵場所へと突き進む
おお やせ細った雌鮭たちよ
五日もかけて尾で掘った溝に
おまえたちが生みつけた
琥珀よりも美しい数千個の卵の上に
俺らは乳白色の精液を振りかける
三十億年前の原初の記憶のまま
生命(いのち)の最後の力を振り絞って
力果てた俺らの中に
もはや 何物も残されてはいない
今はもう
命懸けで遡上してきた川を
流れのままに海へと流され
ふやけ肉として
小魚や虫の餌となり
早晩白骨と化し 土に戻るのを待つのみ
太古の記憶は しかし 今
夢として
死を貫いて流れゆく
物と
生命と
記憶と
夢とは
もともと一つの流れなのだから──
おお 海の変容の力よ
今こそ 俺らは
カムイの世界(くに)に回帰する
[付記]
三木成夫の『海・呼吸・古代形象』を読んで。「風跡」第20号(1994年4月) 発表