巻頭言


                                    小阪清行
 

 週に一度鳥取に通う列車のなかでは、図書館で借りたカセットをウォークマンで聴くことにしている。中野好夫など文化人の講演、作家が作家を語る(たとえば遠藤周作が芥川龍之介)シリーズ、落語、それに最近楽しく拝聴している「小沢昭一の小沢昭一的こころ」シリーズなどなど色々あるが、その中で一番たくさん聴いたのは近代文学の朗読である。
 なかでも「野菊の墓」などは三度聴いた。民子の死を知った政夫が民子の実家に行くところは、三度とも、まわりの乗客に気づかれないように目にハンカチをあてて、泣きながら聴いた。泣いたあと、なんだか自分が美しい人間であるような気がして、しばらくはすがすがしい気分であった。車窓の外の中国山地の木々も、心なしか輝いて見えた。
 涙って一体なんなんだろう。「知ってるつもり」を見ていると大空真弓なんかぼろぼろ涙を流している。うちの家内もメロドラマを見ながらしょっちゅう泣く。かく申すわたくしめも作品のなかで実によく泣いている。あたかも、泣くことのできる自分が誇らしくあるかのごとくに。
 思い起こせば、高校時代にトルストイの倫理色の強い思想にであって以来、長い間それに呪縛されていたような気がする(トルストイが倫理だけでないことは、最近やっと解りだした)。理念に縛られていた者が放たれたとき、彼を捕らえるのはさしあたり情念であろう。最近はこの情念も極めていかがわしいもののように思われてきた。涙だって、涙のあとのあの輝きをも含めて、結局のところは単なる感傷にすぎないだろう。「わめくだけなら猿にもできる」。死に直面して、かいま見ることもあるというあの光、あれもやはり単なる生理現象にすぎないだろう。そうすると、宗教とはやはり幻想なのか。
 昔から、思考回路が欠落しているため、物事を感覚的、直感的に捕らえる癖がある。だが、この感覚、直感までが怪しく感じられ始めたとき、その果てには結局、「無」か「信」しか残されていない。
 イエスは言った、「風(プニューマ)は心のままに吹く。その音は聞こえるが、どこから来てどこへ行くか、あなたは知らない」と。この風は恐らく「信」によってしか、受けとめられることはないだろう。
 『風跡』を流れるぼくの風も、いかにささやかであろうとも、このプニューマのようなものであって欲しいと、念願だけはしている。


           (「風跡」第19号 1993年3月 発表)