修羅の花
                        小阪清行
 
 
 正月二日、信彦は妻と三人の子供と一緒に瀬戸大橋線で岡山のデパートに初買いに出かけた。久しぶりに裕子の顔に明るさが戻っていた。往きの混んだ列車の中でも、彼女は夫が恥ずかしくなるほどのはしゃぎようで、ほとんど長男の直哉にばかり話しかけていた。中学一年のわりに背丈もあり、ませている息子は、クールに時々ひと言ふた言ことばを返すにすぎなかった。が、裕子の方は一年も前からほとんど家族と行動を共にしようとしなくなった息子が、ほんの数時間でも自分と一緒にいるという、ただそれだけの幸福に酔っているように見えた。
 
 裕子の暗さは、偏に直哉についての心配と不安からきていた。直哉は小学時代、クラスで一・二番の優等生で通し、生徒会長になったり、走り高跳びでは県大会で準優勝、絵や書を提出すればたいてい表彰され、発明工夫展では本人と作品がテレビにアップで映されたこともある。小学六年の前半まで裕子は得意の絶頂にあった。近所や同じクラスの母親たちから、「どんな風に育てよん、藤野さん」こう訊かれたときほど彼女の虚栄心が満たされることはなかった。しかもそれはまれなことではなかった。
 直哉を中学高校一貫教育で知られる私立のS学園に入れ、そこである程度がんばらせれば、一流大学も夢ではなかろう、いくら悪くても地方の国立大学ぐらいには入学させられるだろう。そして、一流企業か、そうでなくてもともかく安定した職業につかせたい。これが彼女の皮算用であった。彼女は、今まで何度も職を変え、そのたびに失敗を繰り返す夫の生活能力を信用していなかった。しかも、四十代という働き盛りにありながら、相続した財産はどんどん減っていた。非常勤講師という夫の今の職業にも彼女は辟易していた。夏休み中など、仕事もせず本ばかり読んでいる夫を見るたびに苛立たしく思い、ボーナス時や、友人、知人の主人の年収がいくらだという話を聞いてくるたびに、そのいらいらを爆発させて夫に当たり散らした。昔は造り酒屋として結構裕福だった家から嫁いでいる裕子には、かなりの浪費癖があり、信彦がそれについて文句を言うたびに、逆に夫の稼ぎの悪さを詰るのだった。 信彦は自分の稼ぎの悪さを恥じてはいなかった。いやしくも文学や宗教に関心を持つ人間として、むしろ富めることの方が恥ずべきことであると彼は考えていた。しかし考えることと感じることはしばしば一致しなかった。定期預金などが満期になってずっしりと重い札束を手にしたとき、名状しがたい快感が自分のうちに湧き上がってくるのを信彦は知っていた。「おまえは非文学的人間だ、まして宗教的でなぞありうるものか」、自分の中からそう語りかけてものがあると、そういう思いを押し殺そうとしながら、しかもその罪悪感といちゃつき戯れるのを悦楽するような、倒錯した性格を彼は隠し持っていた。そして時に、「外見は欲がなさそうで、本当は私よりずっと欲が深いんよ、あんたは」などと妻から言われると、にやっとした作り笑いを妻に向けながら、何よりもそれが彼を不快にした。そういう信彦であったから、妻が自分に愛想をつかして、子供の教育に邁進しはじめたとき、口ではいい加減にしとけ、と言いながら、あまり強く文句は言えなかったのである。いやむしろ、息子の示す様々の輝かしい成績は、信彦の無能の補償として働き、密かに笑壺に入ることが彼にはよくあった。
 要するに藤野家では、母は見栄も外聞もなく息子の受験勉強に没頭し、父は外見上批判的な態度をとりながら、内ではそのやり方を肯定していたのである。
 しかし乳搾りの女は躓いた。牛乳は土に吸われて路傍の草の肥やしとなった。直哉が入試に失敗したのである。原因は彼の能力よりも、むしろ意欲にあった。
 「S学園へは行きとない」
 試験をあと二ヶ月後に控えて、裕子はこの一言に気が動転した。
 「なんでな!」
 「おもっしょない。友だち一人もS学園なんか行けへん」
 「入ったらなんぼでもええ友だちできるがな。松田なんかと付き合うけん、そなんこと考えるんや。あなな子とは遊ぶないうて何べん言うたら分かるんや。お父さんも何か言うて。子供の一生が駄目になってしまうかどうかの大事なときに、きれい事ばっかり言わんと、あなな子との付き合い、はよやめさせて。何ぞ言うて!」
 「それほど気に入っとんやったら、松田にもええとこあるんやろ」信彦は理念と底意の間で揺れながら苦しそうにそう言った。
 松田というのは父親が以前組に入っていて、指が七本しかなく、しかも背中いっぱいに女郎蜘蛛が彫られている。今ではすっかり堅気に戻って、土建屋に勤めている。信彦の目には、松田の親は普通の人間よりもよほど立派に見えた。
 「あんなこと私には到底できへん。あんたやったら私の口うるさい母親、一ヶ月も辛抱できんやろな?」
 妻の連れ子をわが子同様に可愛がるばかりでなく、病気がちの妻の母親を引き取り、親身になって面倒を見ている姿は涙ぐましいほどである、とは裕子自身から聞いた言葉だった。根の優しい裕子は、それが解っていながら、しかし自分の虚栄心をどうにも処理できない弱さがあった。
 「見ててちょっとはらはらするけど、別に悪い子やないやないか」
 裕子の心配は的中した。S学園に行きたくない、と言いだした日から、直哉は塾へ行くのを嫌がりはじめた。塾の時間が近づいてもなかなか学校から帰らず、裕子の苛々する日が続いた。そのたび彼女は夫に同じ言葉を繰り返した――「あの子の一生が台無しになったら、あんたのせいや。あんたと松田のせいや」。塾の教師からも、やる気のなさを指摘されるようになり、模擬テストの成績はどんどん下がっていった。
 S学園から不合格の通知が来た日から、裕子の性格は、精神に異常をきたしたごとく陰湿なものになっていった。放心状態とヒステリックに怒鳴り散らす状態が大波のように、退いてはまた押し寄せてきた。歯をかみしめて公立のM中の入学式には絶対に出ないと言い張る妻を説得するのに、信彦は往生した。
 入学後、なんとなく素振りの不自然な直哉の机の中から、裕子はオーデコロン、スプレー、ムースなど二万円相当の化粧品を見つけ、血相を変えて信彦の部屋に駆け込んできた。松田の母親に電話すると、松田の部屋からも同様のものが出てきた。信彦は自分の子と松田、そしてその母親を連れて何軒かのスーパーを車でまわり、代金を払い、店長の前で何度も頭をさげた。「二度とするな」とだけ言って、きつく咎めることはしなかった。彼にも小学時代、通学途中の運送屋のトラックから、ボンネットの頭についていたきれいな金色の城の飾りを盗んだおぼえがあった。
 「一度やったら、そのくだらなさが分かる」、そう言う夫の煮え切らない態度に、裕子は腸が煮えくり返る思いで叫んだ、
 「あの時引き離しとけば、こななことにはならなんだわな!」
 中一の夏休みは大した事件もなく過ぎた。
 ただ直哉の部屋のゴミ箱の臭いがおかしいという言葉に信彦が嗅いでみると、たしかにそれはティッシュに沁みた精液の臭いだった。
 「もうそんな年か」笑いながら彼は言った。
 数日後、息子の部屋を掃除していた裕子は、ソファーの下にポルノ本を見つけた。ほとんどがフェラチオやクンニリングス、それに女性器に器具を挿入しているような写真で、ボカシはなかった。その上その本にはスキンまではさんであった。
 二学期になると、ときどき担任の教師から、授業が始まっているのに学校に来ていないという電話がかかりだした。そのたびに信彦は車で、松田や、そのグループの家を探してまわった。たいていは両親が仕事で出ている家にたむろして、四、五人でタバコを吸っていた。「学校に行けよ」と、彼が声をかけると、自分の家にいるとき決して見せたことのない厳しい顔付きで、「うるさい!分かっとんや」と怒鳴ってドアをドタッと閉めた。信彦は教師に叱られた小学生のごとく縮かんだ。物陰に隠れて部屋を出るかどうか様子を窺っていると、一応自転車で外に出るには出るが、学校には行かず、公園かどこかで落ち合ってタバコを吸いはじめる。そんなことの繰り返しであった。
 希望の星、虚栄の花であった長男の変化に、裕子は気も狂わんばかりであった。直哉の顔の相もみるみる厳しく冷たいものに変わっていった。信彦もうろたえることがないではなかった。しかし、彼自身振り返ってみると、姉が卒業し兄が通っていたS学園の受験に失敗し、その学園と高さ一・五メートルの塀だけで仕切られたM中で、屈折した三年間を過ごしていた。中一中二時代には結構教師にも反抗した。それでも中三になると普通に戻っていた。
 この体験が彼自身を支えていた。
 
 こういう状態が一年近く続いていたから、岡山へ一緒に行こうという誘いにまさか直哉がのってくるとは予期していなかった。それだけに裕子の喜びはひとしおだった。一年前と同じように、家族揃って出かける楽しみ、それを味わえば元に戻るきっかけになるかもしれない――そんな期待が彼女の胸の中にあった。彼女は気前よく子供たちに服や本やゲームやCDなどを買ってやった。一年ぶりの幸せを独り占めするように味わいながら。
 帰りの列車は往きよりも一層混んでいた。信彦はまだ幼稚園へ行っている娘の伶子を抱いて車両の中ほどに座っていたが、他の三人は席がなくドアの近くに立っていた。マリンライナーが瀬戸大橋線を渡りきって、車内アナウンスであと数分で坂出駅に着くと知らされた直後、その出来事は起こった。
 「お父さん、お母さんが倒れとるで」
 次男の郁夫が人を押し退けながらやってきて言った。裕子はだらしなく地べたに座りこんで座席に頭をもたせかけていた。信彦は妻が楽な姿勢になるように抱きかかえて坂出に着くのを待った。目はひっくり返って、数秒おきに瞼が痙攣していた。意識は完全に失われていた。彼は死を覚悟した。少なくとも意識は戻るまい。かりに戻ったとしても何十年もの入院生活……彼は両親をともに脳軟化で亡くしていたため、これから何が起ころうとしているのかおおむねその見当はついた。
 涙は出なかった。ただ頭の中は空っぽだった。胸が苦しかった。まわりの空間も同じように虚ろに感じられた。何ものかによって、突然深淵に突き落とされたような不安の中に彼はいた。
 坂出に着くと、すでにドアのところに数人の駅員が担架を用意して待っていた。駅の応接室のソファーにしばらく横になっているうちに救急車が着いた。病院に着く前に意識はもどっていた。点滴が二本注射された。診察の結果、別に異常はなく、もし何度もこんなことがあるようだと、脳波を調べてもらった方がよかろうと医者は言った。信彦は胸をなでおろした。何ヶ月にもわたる心痛でろくろく熟睡できていないところへ、久しぶりにデパートや往復の列車の混雑に揉まれ、疲労が一遍に吹き出したのだろう、信彦はそう考えた。
 「あんまりお母さんに心配かけるなよ」
 「うん」
 さすがにこの時ばかりは神妙な顔で直哉は答えた。
 マリンライナーの事件以来、裕子はしばしば風呂場で倒れるようになった。風呂場から二階の寝室までバスタオルで覆われた裸形の女を父子で運んでいく様は異様であった。脳波にも心臓にも、異常は何も確認されなかった。医者も原因が分からず、精神安定剤のようなものを処方するのみであった。
 この出来事の少し前に、松田の母親がやはり原因不明の白血病にかかっていた。毎日点滴ばかりで髪の毛も抜け、一時は医者から引導を渡され親戚まで枕元に集めていた。裕子は見舞いから帰って、「あの人も息子に殺されるようなもんやわ」と、あたかも医者よりも病因をはっきり知っているような口振りで言った。その後松田の母親は、これもまた原因が分からぬまま快復に向かい、退院後は全く以前と同じように元気な生活を送っていた。
 信彦は、自分の妻の病も心因性のものであろうと思っていた。以前心理学の本で心臓神経症について読んだことがあるが、これなら決して死に至ることはない、そう思った彼は鎌を掛けた。
 「裕子、先生は心臓神経症や言よったで。何も悪いとこないのに、自分で悪いと思ったら、ほんまに悪なるんや。この病気で死ぬことは絶対ない言よったで。松田のおふくろさんやって見てみ、葬式の用意までしそうな雰囲気やったんが、今はどうもないやないか。死にそうになったら、息子の気を惹くことができる。気を惹いて子供を元に引き戻そう、とあんたの無意識がそう思とんかしれんけど、無駄や。直哉もそれが嘘やゆうん知っとんやで、たぶん。あんたが無意識で死を演じとんやったら、むこも無意識でその嘘を見抜いとる」
 実際この話をしてから、裕子は二度と倒れることがなかった。信彦は自分の心理療法家としての才能に驚き、教師などやめていっそのこと心理学を勉強してその道に進もうかとも冗談半分に考えたのだったが、彼にとってそれよりも更に大きな驚嘆は、母親という動物の本能的愛の強さだった。
 
 
 信彦は大のうどん好きだった。おもしろいうどん屋があるという噂を聞いて彼は妻を連れて車で出かけた。およそ商売などやれそうもない辺鄙な場所の舗装もしていない細い道を入っていった。まわりは田圃で、少し先に運送屋の倉庫が一つあるだけである。農家の納屋のようなものがどうやらそのうどん屋らしかった。少し道幅の広くなったことろに、それでも何台もの車がとめられていた。実際それは納屋にほんの少し手を加えただけの店で、必要最少限のものしか置いていない。壁に窓を取って、水道・ガス・電気を引き、うどんを捏ねる台や釜を据え、古い大きなテーブルが中央に一つ置いているくらいのもので、看板、のれん、カウンター、レジ、電話、テレビ、飾りや置物など余分な物は一切無い。全体が古いのに不思議な清潔感があった。客はテーブルに置いてあるセイロから鉢にうどん玉を取り、横の釜で温めてポットのダシをかけ、立ったまま食べていた。バットのテンプラを取って乗せている者もいる。ネギは自分で切らなければならないが、ネギがなくなれば、奥でうどんを打っている初老の小男が、外の畑に生えているネギを自分で千切ってきて、切るように教えていた。食べ終えた客は壁に貼られた値段表を見ながら自分で計算して、菓子箱にお金を入れ、自分で釣り銭を取って帰ってきく。男のほかに働き手はなく、うどん玉が売り切れれば、その日の商売はそれで終わりである。うまくて安いという評判を聞いて、遠くからも客がやってくる。なかには、赤字になってつぶれてもらっては困ると思ってか、釣り銭を取らずに帰っていく者もいるらしい。味の方はともかく、信彦はその経営に哲学を感じて、爽快な気分で店を出た。
 
 それから何週間かたったある日、藤野家の風呂釜が壊れ、一家は車で風呂屋に出かけた。久しぶりの風呂屋に子供たちは喜び、男湯では直哉と郁夫の仲の良さそうな会話と笑い声が反響していた。絶えて久しかった兄弟の笑いは、湯につかった信彦の気持ちをさらに寛いだものにさせていた。同じ浴槽で彼の近くにつかっていた白髪の男が、そっと口笛を吹き始めた。信彦にも懐かしい「水車小屋の娘」の一節だった。
 
   Wir saßen so traulich beisammen
   Im kühlen Erlendach……
 
 湯煙の中で見る山羊髯の男に信彦は見覚えがあった。思わずつられて口笛を吹き出した信彦の顔を相手も見返し、互いに微笑(わらい)を交わした。バスタオルで体を拭きながら「どこかでお目にかかったことがあるような気がしますが」と言うと、相手は首をかしげて「さあ」というような顔をしたが、その瞬間、例のうどん屋の主人だったことに信彦は気づいた。この近くの寺に住んでいて、自転車であの遠い店まで通っているのだという。うどん屋、シューベルト、寺……この三つのつながりが信彦にはあまりしっくりこなかったが、それよりも彼には、彫りの深く弛みのない鬼瓦のような顔が印象的だった。
 その週末、郁夫の中学の入学祝いを用意してあるからとの電話が、裕子の実家からあった。彼女は、夜遅くならないと帰ってこない長男を置いて、郁夫と伶子を連れて観音寺の実家へ泊まりに行った。一人になった信彦はまた風呂屋にでかけた。そして今度もまた例のうどん屋に会った。湯から上がると信彦は腰掛けてゆっくり男と話す機会を得た。
 「おもしろい商売のやり方してるんですね」
 「自分のやりよいようにやっとるだけや」
 「失礼ですが、そのお年でシューベルトを歌う人はこの辺では珍しいというか……」
 「死んだ家内がよう歌(うと)とったさかい、時々ひょっと出てきよる」
 一緒に風呂屋を出ると、そのすぐ斜め前にある寺が彼の住処だという。
 「盤珪ちゅう坊さん知らんかな」
 「いえ」
 「不生禅いうのを唱えた坊さんで、その人がこの寺の開山や」
 「ちょっと見せてもろていいですか」
 小さな寺だった。お堂があって、その左手にそのお堂をさらに半分くらいの平屋があるのみだった。信彦はまずお堂に通された。
 「ほれ、そこに木像があるやろ。盤珪さんが自分自身の姿を彫ったもんや。もっとも、達磨さんを彫った言う人もいるけどな」
 二人はそちらに近づいていった。
 「腰から上がこのように取り外しでけて、ほれ、ここに『盤珪是を作る』と書いたる」
 「有名な僧なんですか」
 「今では丸亀の人間でも知っとる人ほとんどおれへんけどな、鈴木大拙みたいに日本の禅の流れを、座禅、不生(ふしょう)、公案ちゅう三つの特徴にしたごうて、道元禅、盤珪禅、白隠禅いう分け方しとる人もおるくらいや。道元や白隠は知っとるやろ」
 「『随聞記』と『坐禅和讃』は読んだことがあります」
 「盤珪があまり知られとらんのは、その門流が三代で亡んでしもたからなんや。禅師の存命中はその弟子が五万人を越えておったといわれとる。この寺も今はこなな庵寺みたいなけど、往時は京極高豊が帰依して、隆盛を極めとった。隣の小学校も昔はほとんどこの宝津寺(ほうしんじ)の境内やったけど、弘化四年に焼けて、この観音堂しか残らなんだ」
 「さきほどから言われる『不生』って何ですか」
 「『不生不滅のこの心(しん)なれば地水火風はかりの宿』『来るがごとくに心(こころ)をもてば直(じき)にこの身が活(かつ)如来』」
 「?」
 「盤珪さんは若いころ、七日間不眠不食や数ヶ月川に立ったままの修業とか、乞食の生活をして癩病の乞食と食い物を分けおうたり、尻の皮が破れるまでの坐禅したりの荒行を続け、あげくのはてに喀血して死を覚悟した。そのとき、『ひょっと、一切の事は不生で調(ととの)ふ』ちゅうことに気づいたんや」
 「その上の額は?」
 「やはり盤珪の書で、碧巌録の有名な句やけど、知らんかな」
 草書で書かれているため、信彦には「帰一」の二字しか読み取れなかった。
 「ある僧が師の趙州に問うと『万法は一に帰す』と答えた。すると僧はまた『一は、何処(いずれ)のところにか帰す』とたずねた。すると趙州が『わしが青州におったとき、一枚のひとえ着物を作ったが、その重さが七斤あった』と答えた」
 「さっぱり分かりません」
 「禅家では、冷暖自知いうて、おなじ冷たい言うても、水・氷・鉄それぞれの冷たさがあって、実際の冷たさに触れてみんと分からんいうこっちゃ」
 「……」 
 「分からんのも無理はない。一遍で分かる方がどないぞしとんで、この句の意味を真に体感しようと、何十年も修業した僧が昔からぎょうさんおる」、そう言って堂守は小気味よく腹から笑った。
 そのあと信彦は茶を振る舞われた。お堂の横の彼の住処は、外から見るとみすぼらしく見えたが、内部は整然としており、チリ一つなかった。しかし何よりも彼を驚かせたのは堂守の蔵書だった。仏教書と並んで、ドイツ語・英語の文学・思想書、岩波文庫など……とりわけゲーテとリルケの古い全集、それにトリューブナーの辞書八巻の重々しさが、ドイツ語教師の信彦をまごつかせた。数は極端に多くなかったが、ともかくそれはうどん屋の亭主の部屋ではなかった。
 白石という大阪生まれのこの男は、中学時代京都の愛宕山にある母親の実家に疎開しているとき、暇つぶしに叔父の文学全集の大半を読破していた。戦後『マルテの手記』の暗い真実に打たれ、またその訳者大山定一の『リルケ雑記』を読んで、大山に師事するため京大の独文科に進んだ。彼と仏教のつながりは、学生時代の四年間、大山の紹介で小さな臨済宗の禅寺に下宿したことに始まっている。卒業後学友の多くが進学したり教職に就いていくなかで、彼だけは大手商社に入社し、結婚して一見平凡なサラリーマン生活を送っていた。三十四歳のときその語学力が買われて、奇跡の経済復興をとげつつあった西ドイツのデュッセルドルフに赴任した。そして三ヶ月後、妻と、五歳と二歳になる二人の娘、それに自分の母親をドイツに呼び寄せようとしたが、その飛行機がインド洋に墜落した。天涯孤独の身となった彼は、なお数年かの地で勤めを果たしたが、突然退職し、十年近くヨーロッパやインド・ネパール等を遊行僧のごとくさまよった。
 白石はしかし、自分の過去をあまり語らなかった。信彦が聞かされたのは、彼が盤珪が好きで、そのゆかりの地播州網干や伊予大洲などを巡っているうち丸亀にきて、盤珪が開基した宝津寺に十年程前から堂守を兼ねて住むようになった経緯だけだった。
 信彦はこの日の一時間近い訪問をきっかけに、ちょくちょく寺に出入りし始めた。
 ある夜信彦が庵を尋ねると、白石はマルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』を読んでいた。
 「こんなものも読むんですか」
 「なかなかおもしろいこと書いとるがな」
 信彦が覗き込むと、そこには次のように書かれていた。
 
  三番目の男は、片足によって犠牲者を吊しておりました。こんな風にぶら下げられた人間を眺めるくらい、愉快なことはありません。彼女は十八歳ほどで、見事な肉体の持ち主でした。こんな恰好にすると、玉門が大きく開かれるものですが、男は鉄の棘のある棒をそのなかに突込んでおりました。あたしたちを見ると、男はぶらさがった娘の片足を引っ張ってくれと頼みました。こうすると局所がいよいよ開くのだそうです……またたく間に、あたしたちはふたりとも犠牲者の零す血に、全身しとど覆われてしまいました。
 
 「でもサドは宗教を否定していませんか。彼の思想が、仏教の説く倫理とどう関係してくるんですか」
 「倫理?そななもん仏教は説いとれへんがな。仏教はあくまで己事究明――個の問題や」
 「でも、諸悪莫作、衆善奉行――これ仏教の根本義でしょ。ぼくも親鸞は少し読んだことがあるんです。『善人なおもて……』ってやつ。でも善悪を越えた親鸞でさえ、その一番底の底には善を支えているものがあるでしょ。だいたい善人だの悪人だのって言葉を使うこと自体その証拠だし……。つまり、親鸞の場合、『しかし、悪を憎み、救いを求めて、南無阿弥陀仏を称えるようになった人間が、好んで悪をなすことがあろうか』という絶対動かない考えが一番深いところにあって、この深い意味での倫理が根底で親鸞の信心全体を支えているというか、それこそが親鸞の健全さであり魅力だとぼくは思うんですけど」
 「それはちゃうやろ。少なくともわしはそうは捉えへん」
 「というと」
 「善悪の彼岸や」
 「なるほど。ルターにもそういうとこありますわね。『善き業について』って説教があるんですよ。その中でね、信じる者にとっては、一本の藁を拾い上げる行為も、川で溺れている人間を助ける行為も等価だと言っています。行いに価値があるんじゃなくて、信仰そのもの、つまり神の愛につつまれることのみに価値がある――まあ、ここまではぼくにも理解でる気がします。しかし農民戦争が起こり、『あの豚どもを殺してしまいなさい』なんてことを自分の君主に向かって言い出すと、もうついて行けなくなっちゃって」
 「それは、あんたの中に人殺しは悪やいう価値の体系の雑滓が残っとるからやろ」
 「でも人殺しが悪だという一線を越えてしまったら、ヒトラーの行為も肯定される危険性が生じませんか。実際ヒトラーの思想は『善悪の彼岸』の作者によって支えられている面があるでしょ」
 「あんたの論法でいったら、ヒトラー暗殺計画に関与したボンヘーファーの思想も肯定できんよになるのちがう。どういうときやったら人を殺してもようて、どういうときは駄目なのか、その境目なんてあるのやろか。もしあるとして、どないな根拠があって、いったいどこにその境目を設定できるんな」
 「そこなんですよ。要するに、ぼくには自分の思想全体を支える根拠がないんです。ふらふらふらふらしとんです。色々本を読んでも、これも正しい、あれもいいこと言っている。かといってこれが絶対だという思想にも出会わない。白石さんにとって絶対的な価値ってなんですか。白石さんを支えている思想ってたとえば誰の思想ですか」
 「そななもんあらへん」
 「でも人間、価値観なしに生きられますか」
 「ほんなら、あんたにとっての絶対的価値ってなんやの」
 「それが分からんからこうやって」
 「それみてみな、あんたも絶対的価値なしにちゃんと生きとんのやがな。わしかてそうや」
 「しかしそれでぼくは苦しんでますけど、白石さんはぼくの見たところ……」
 「いやいや、そないに買い被らんといて。こうみえてもわしもひどう苦しんどんやがな」、そう言って堂守は呵々と笑った。
 
 
 中二になっても直哉はひどくなる一方だった。隠れて吸っていたタバコは、いつしか自分の部屋でおおっぴらに吹かすようになっていた。たび重なる無言電話、深夜の外出、変形した制服、パーマ……どんどん理性を失って、野生に帰っていった。
 相性も何も関係なく見合いで結ばれた信彦と裕子は、結婚以来十五年の間に数え切れないほど夫婦喧嘩を繰り返していたが、夫婦別れもせずなんとかやってこれたのは、翌日までそのしこりを残さない裕子のさっぱりした気性のお陰だった。しかし直哉がコースを踏み外してからこの方、裕子の明るい性格にも変化が見られた。鬱やヒステリックな状態が何日も、時には何週間も続いた。時折晴れ間がみえても、それはほんの束の間で、すぐにまた重苦しい日々が続いた。夫婦生活も裕子が拒否することが多くなったため、それが二人の間を更にぎくしゃくしたものにしていた。
 ただ、小学六年のとき万引きや喝上げをして、長男と同じ道を行くかにみえた郁夫が、中学に入ってから一応の落ち着きを見せていたことと、伶子の明るく無邪気な笑い声だけが、二人の救いであった。
 夏も近づいたある日、信彦が仕事から帰るとまた裕子の姿が見えなかった。その頃、長男のことで嫌なことがあると、裕子は昼間から布団に潜り込むことが多くなっていた。眠りもせず、体を硬直させ歯を噛みしめて、何かに押し潰されるのを耐えていた。そのような日には、家事はいっさいせず、夜の九時か十時頃になってようやく険しい目をして階下に降りてくるのが常だった。
 この日も信彦は家での夕食をあきらめ、郁夫と伶子を連れて中華料理を食べに行き、妻と直哉には持ち帰りの焼きソバを詰めてもらって帰宅した。伶子を風呂に入れる時間が過ぎても、裕子は降りて来なかった。信彦は癇癪を起こし、つかつかと寝室に入っていった。空になった睡眠薬のビンと、まるめてしわくちゃの葉書が枕元に置いてあった。青白い顔はきつくゆがんでいた。信彦は一一九をまわしながら、手に掴んだ葉書を見た。「不良の子供をもって、ぬけぬけと生きてゆくな」。左手で書いたと思われる大きな読みづらい字だった。
 薬の量が少なかったせいか、命に別状はなかった。しかしこの事件のあと、裕子も信彦も、神経を磨り減らしてしまっていた。裕子の鬱とヒステリーはさらに昂じ、何かにつけて一番弱い伶子にあたりちらした。伶子は泣くと必ず信彦の部屋に逃げ込んでくる。信彦は一ヶ月くらいの間は、妻の命のことを考えると、すべてを耐えることができた。しかししばらくすると、あの自殺未遂も直哉の注意を惹こうとするただの狂言だったのではないか、という疑いも頭に浮かぶようになっていた。そのため、論文の〆切日が近づいてくると、伶子が部屋に逃げ込んで来るたびに裕子に怒鳴りつけた。郁夫は暗い自分の家に寄りつかず友だちの家に寄って、夜遅くならないと学校から帰らない。それをまた裕子が、夕食が一度に片づかないと言って叱りつける……。
 直哉は学校をさぼりながらも、一応英語と数学の塾には休まず通っていた。親たちはそこに一種の安堵感をおぼえ、いつかは必ず元に戻るという希望をまだ捨てていなかった。ところがそんなある日、塾へ行く時間が過ぎても直哉が帰ってこない。裕子は直哉の行動に特に敏感に反応するので、自殺事件のあと、信彦は拝むようにして、せめてしばらくの間はお母さんに心配をかけるな、と言いきかせておいた。その日も朝出かけるときに、塾に遅れないように念を押しておいたのだった。
 信彦は、夕食を食べながら裕子の顔を盗み見ていた。塾の時間が十分二十分と過ぎてゆくにつれ、顔付きが厳しくなっていくのがはっきりと感じとれる。伶子が、まだ牛乳のいっぱいはいったコップをテーブルから落としたとき、裕子のヒステリーは爆発した。伶子はパチンパチンと手の甲を打たれながら「おとうさん!おとうさん!助けて、お父さん」と涙と鼻汁を流しながら叫び、ついに信彦の膝の上に食べたものをもどしてしまった。ちょうどその時直哉が帰ってきた。そのふてぶてしい顔を見て信彦は激昂した――
 「お母さんの体の調子が悪い言うとるのが分からんのか、おまえは。あれほど早う帰れと言ってあったろうが」、そう言って彼は息子に殴りかかった。息子はサッと身をかわした。逆に息子のパンチを受け、信彦の眼鏡は飛んで割れた。
 「出て行け!!おまえみたいな奴はもう帰ってくるな!!」
 さっと自転車で飛び出した息子を茫然と見送っている信彦に、今度は裕子が罵りの言葉を浴びせかけた。
 「その言葉だけは死んでも言うたらいかん言うたやろ。あれだけは絶対に言うたらいかんいうて何度も言うたやろ。アホや、あんたは。馬鹿やわ、ほんまに。何がキョーシや。何が文学や。何が論文や。そななもん、嘘ばっかしやわ。あんたが出ていったらええんや!あんたが死んだらえんや!もうええわ、こなな生活!救急車や呼ばんといてよ。せっかく静かに死ねよったのに」
 半狂乱状態でその場に泣き崩れた裕子にかまわず、信彦は二階に上がった。バタンと部屋のドアを閉めて、〆切があと五日に迫った論文に向かった――『レッシングの戯曲に見られる二人称代名詞についての考察』。糞ったれ!こんな毒にも薬にもならんくだらん論文!焦る気持ちと胸のむかつきで、三十分座っても一行も進まなかった。寝っ転がって、ぼんやりと天井を見つめた。ひびの入った眼鏡と反吐の臭いが彼の思いを一層陰惨なものにしていた。涙はとめどなく流れていた。そして頭の中には様々の思いが去来していた。
 
 あれはたしか直哉の初めての誕生日だった。信彦は裕子と二人で直哉の手を引いてお城の坂を登っていた――一年前の誕生のときのことを話しながら。はじめての経験のため苛々した裕子が知人から、医者に勧められてお城の坂を登ったとたんに陣痛が起こったという話を聞いてきた。大きなおなかをした妻の手を引いて、真夏の晩、その真似をして坂を登った。すると本当にその夜のうちに陣痛がきた……そんな想い出話をしながら、二人が交互に子供を抱いたり、おんぶしたり、二人で両側から手を握ってブランコさせたりして、天守閣のところに着いたときには、もう黄昏が近づいていた。高見島あたりに沈んでゆくマグマのような太陽に目を向け、抱いた子供に頬擦りしながら、裕子は涙を流していた……。
 それから、あれは信彦の父の脳の手術から四ヶ月くらいたった頃、五年前のことだった。鼻には酸素の管と、注入食の管が差し込まれていた。少しだけ意識が戻りつつあった。直哉は母親に「おじいちゃんって呼びかけてごらん」と言われて、大きな声で呼んだ。反応はまったくなかった。郁夫も促されて、「おじいちゃん」と呼んだ。病人は、かすれていたがはっきり聞き取れる声で、「ハーイ」と答えた。信彦は針で刺されるような胸の痛みを感じた。敏感な直哉は、その日一日暗かった。
 直哉が生まれたとき、信彦の父は跡取りができたといって、会う人間みんなに自慢していた。あの孫の可愛がり様は尋常ではなかった。毎日ベビーカーに乗せて連れて歩いた。ところが、一年半後に郁夫が生まれると、少々無理を言いだした直哉から、愛情が完全に弟の方に移ってしまった。それどころか直哉がわがままを言うと、かつての愛情と同じくらいの憎しみを幼い子供に向かって剥きだしにした。
 裕子はその分直哉をかばった。直哉は直哉で母親の愛情を自分につなぎ止めようと、精一杯その期待に応えようとした。保育園の運動会の駆けっこでも、異常なほどの闘志を見せた。母親は自分の自尊心を満足させてくれた子供に、運動会が終わると早速おもちゃを買い与えた。小学校に入っても、一事が万事こうだった。
 信彦は心理学の本に書かれていたことを思い出していた。こういう育ち方をした子供が思春期を迎えると、母親の期待に応えようとする努力が、耐え難い重圧と感じられるようになることがある。その場合、今度は全く逆の方向で母親の愛情を自分につなぎ止めようとする意志が、無意識のうちに働く。そして非行に走る……信彦は今、母と息子の無意識の構造が読み取れたような気がした。二人の間の凄まじい愛の懸け引き――そう思い到ったとき、彼はまた、直哉がどんどん落ちてゆき、あれほど母親に反抗し、きつい言葉を浴びせながらも、ここ半年来、暇を見つけては母親の布団に潜り込んで昼寝するという不可解な行動の謎が、解けたような気がした。
 涙はいつしか乾いていた。彼はまた、今はじめて息子をここまで追いやった自分の責任の大きさに気づいた。
 彼は子供を塾にやることには批判的だった。勉強なんてものは、自分から好きになってやらんことには、何の役にも立つものではない、そう彼は思っていた。だから彼はまず勉強を好きにさせようとした。かれの経験からして、それには本を好きにさせることが一番だった。子供の好きになりそうな本をいくらでも買い与えた。しかし塾で疲れた二人の息子たちはテレビにばかり興味を示し、せっかく彼が買ってきた本をあまり読もうとしなかった。沢山あればその中から、自分で好きなものを発見するだろうと、ますます多くの本を彼は買い与えた。しかし子供たちの関心は一層本から離れていった。
 彼は子供たちが興味を示す低俗な番組を嫌悪していた。くだらないテレビばかり見ないで、もっとましな番組を見ろと怒鳴り散らすこともあった。そのたびに書物から得られる厖大な量の知識と精神的富についてもっともらしく説いた。それでも彼らにとっては、テレビの魅力の方がはるかに強かった。ついに彼は表を作って、テレビの横に貼りつけた。
 「お父さんも妥協するから、テレビを見たかったら、本を読め。本を読んだ時間だけ印をつけなさい。その時間と同じだけテレビを見てもいいことにする」
 それでも子供たちは、五分でも十分でも本を読む時間を少なくし、五分でも十分でもテレビを多く見ようとした。父親のいない時には時間を騙すようなことさえした。
 「おまえたちは親を騙すんか!」
 彼は怒鳴って、スイッチを切った。子供たちはテレビに対して神経質になり、テレビを見るときには父親の顔色を窺っていた。
 信彦は自分の行為の行き過ぎを十分知っていた。テレビも好きなだけ見せてやりたかった。なにもかも好き放題にさせてやりたかった。しかし、一定のけじめがなくなると一切歯止めがきかなくなり、ズルズルいってしまうのではないかという不安が先立った。
 子供たちにとって、父の言うことは理屈上正しいと思われた。感情的な母親に対しては感情的に反発できた。しかし父親の理論に対しては、口で反論することは彼らにはできなかった。それゆえ不満と反感は――そして恐らくは一種の自己嫌悪も――腹の中に堆積されていった……そう思うと、信彦の心は自分自身への嫌悪感と辱ずかしさで満たされた。親のエゴの犠牲者、それ以外の何ものでもないのだ……。
 
 
 電話しても友人たちの家にはいなかった。
 松田の家のまわり、コンビニ、レンタルショップ、ゲームセンター、本屋、駅、公園……信彦は八方探してまわった。
 探しながら、彼の頭の中には直哉の名前がエコーしていた。子供のときから直哉は信彦に一番なついていた。泣くときはいつも「おとうさん」と言って泣いた。寝るときも、添い寝をする父親の襟をつかまえていないと眠れない子供だった。保育所の送り迎えも、帰ってからの遊び相手も、本を読んでやるのも、すべて信彦だった。直哉が信彦の生活の中心だった。二歳のとき直哉が引き付けを起こしたことがあった。そのときも信彦は救急車の中で、泡を吹いている息子の名前を、ずっと叫ぶように呼び続けていた、「ナオヤー、ナオヤー、お父さんがついとるから大丈夫やど。ナオヤー」
 万一身投げしているのではないかと、海岸に息子の自転車がないか見てまわった。行き止まりは赤灯台だった。子供時代よく釣りをしたこの場所に、夜十二時を過ぎて来たのは初めてだった。
 瀬戸大橋のライトに照らされ右手はやや明るかったが、左手の高見島あたりは真っ暗で不気味だった。その暗闇の中を大小の船の明かりがゆっくりと左右に移動していた。船のエンジンの音は異様なほど大きく響き、星の見えない夜空全体が鼓動しているようだった。宇宙が無機質ではなく、何か生命あるもののように思われた。波が防波堤に打ち寄せる音は、遠い幼年期の想い出を呼び覚ました。昼間は結構楽しいのに、夜になると自分を支えている一切のものが消えてしまい、無根拠な存在の深淵の中に投げ込まれたような妙な不安や恐怖に襲われることがよくあった。しかし今、彼は思った。この深淵は恐怖であると同時に救いでもあるのではないか、この深淵にわが身を任せきることができれば、それは救いでもありうるのではないか。この波の音は俺の子供時代も同じだった。何千、何万、何億年昔も同じだったろう。そして何千、何万、何億年先も、未来永劫同じことを繰り返しているだろう。この流れに身を任せることができれば、きっとそれは救いなんだ……。
 信彦はリルケがイタリアの牧場(まきば)で見たアネモネを想った。それは昼の間ずっと開いていたものだから、夜になってももはや閉じることができなくなっていた。闇の中に花びらを開いたまま、なおも狂おしく押し広げられた萼(うてな)の中に一切を受け入れながら、終わることのないあまりにも宏大な夜を空にいただいて咲いているアネモネ――それを見てリルケは恐怖を感じた。恐らくそれは自我喪失の恐怖だった。しかし八年後、詩人がミュゾットでこのアネモネを想い出して歌ったとき、この花の中に何と明るく純粋な光が射し込んでいたことだろう。
 
  アネモネの牧場の朝をつぎつぎに
  開いてゆく花の筋肉よ
  やがて高鳴る空の多音(ポリフォニッシュ)な光が
  その懐にそそぎこむ
 
 宝津寺の前を通りかかったとき、一時を過ぎているのに、まだ明かりが灯っていた。
 「お勉強ですか」
 「どないした、こないおそうに」
 「家出した息子を探して前を通ったら明かりがついていましたから」
 「ほおう、まあ入らんかいな」
 話を聞き終えた白石は例の腹から出る声で大笑いしたが、信彦は不思議と不快なものを感じなかった。
 「ようある話や、ほっといたら自然に直りよる。人間みいんな生まれて、大きゅうなって、病気して死んでいきよる。その間、あっち行ったり、こっち行ったり、色々あるわいな」
 「しかし親としては、やはりこのまま行ってしまうんではないかという不安が残ります」
 「このままどこへいくんな」
 「たとえば中卒で終わったり、悪くすればヤクザの世界に入るんではないかとか」
 「そうなったらなったで、それはなるべくしてなるんで、はたからああやこうや言うて、それをどうこうできるもんやないで。『災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候』じゃわな」
 「そうでしょうか。人事を尽くしたのち天命を待つ、というなら理解できますが」
 「そらそうや。ほんだけどな、藤野はん、何が人事で何が天命か、これはよう考えんとあきまへんな。高校や大学へやることが、なすべき人事であったり、あるいは待つべき天命やったら、そら大きなまちがいでっせ。人間の願い求めることには、欲念がまじっとるのが常や。究極のところで話させてもろたら、なすべき人事なんてもん、一つもあらしまへん」
 「でもそれでは文化全体の否定に到りませんか」
 「わし文化いうもん、はなからあんまり信用しとれへん。その根底に打算があるわな」
 「でも文化を否定してしまったら、一体人間生活そのものが成り立ち得るんでしょうか。文化を否定するということは、教育も否定しなければならなくなります。教育を否定すると、人間は野獣に帰りませんか」
 「別次元の話や」
 「といいますと」
 「どない未開な世界いたかて、言葉のない人間社会は存在せえへん。言葉があれば必ずそこに文化が生まれよる。あるもんはあるもんとしてほっとくよりしゃあない。そやけどそれがどないな文化であるにせよ、最高の文化やろが、最低の文化やろが、そこにとどまっとる限り、人間のほんまの自由はないやろ」
 「しかしそのことと、和尚自身夜遅くまでこうして勉強していることと、どう関係してきますか」
 「まあ時間つぶしにやっとるけど、本に書いたることは最終的にはみいんなうそや」
 「この前の話に戻りますが、じゃあ、嘘じゃあないものって、白石さんにとって何なんですか」
 「みいんな嘘やいうことは、ほんまか分からんな」と言ってまた笑った。
 「しかし、『みんな嘘だということは本当だ』ということも嘘だということになりませんか」
 「理屈ではそうなるわな。けどそれは屁理屈かもしれん」
 「和尚は屁理屈じゃないと思ってますか」
 「その和尚はやめといてくれ。まあ、理屈やないもんもこの世の中にはあるやろ」
 「それは何ですか」
 「そななもん口で言うたかて分かるかいな。まあ強いて言うたらこういうこっちゃ。あんたがこないだ言うとった親鸞の根底云々いう話な、あの解釈はそやないと思うで。さっき言うとった文化な、――つまり言葉つこて教えられたもん全部。因襲やら、善悪の判断やらはもちろんのこと、美醜の判断かてつきつめたらこれや。言葉ちゅうやつはもっともっと深く、人間の五感さえ支配しとる――これら全部を風船みたいにどんどんふくらましていって、パーンとはじけたとき見えてくるもん、親鸞はそれを見つめとったんとちゃうやろか」
 「五感さえ超越するということは、物凄いことのように思えます。――このあいだテレビのある番組で、地中海のある島に伝わる最高の珍味を紹介してました。チーズに蛆虫を湧かせて、それを生で食べるんです。悟ったら、そんなものも平気で喰えるようになるってことですか」
 「それは全然角度がそれとるけどな――しかしまあ、慣れも悟りの一種ではあるやろ」
 信彦の少し意地悪い訊き方に対して、白石はさらりと言ってのけた。
 
 
 直哉は四夜帰ってこなかった。野宿したり、松田の家に夜中忍び込み、押入で寝たりしていた。家出を境に彼はますます荒んでいった。赤く染められた頭には剃り込みが入れられた。外泊は日常的となり、学校にはほとんど行かず、塾もやめてしまった。所有の意識はうすれ、やることがジプシーと変わらなくなっていた。自分の自転車が四台も盗まれて平気でいるかと思えば、放置されている自転車やバイクを平気で使いはじめた。信彦自身も警察の世話になることに慣らされてしまった。果ては暴走族に入り、亡霊のごとく夜の街を彷徨した。二人の親は深夜バイクの爆音を聞くたびに浅い眠りから覚め、再び眠りについては事故を起こすのではないかという不安にうなされたりした。実際小さな事故を起こして足に怪我をしてからは、ぴたっと外出をやめ一日中家にいるようになった。しかし一日の三分の二は寝て、それ以外はテレビとビデオを見るという生活で、昼と夜は完全にひっくり返っていた。しばらくするとパチンコに通い始めた。親にはどこからお金が入るのか見当もつかない。名古屋から中古のパチスロを通信販売で取り寄せ、深夜にガチャガチャ練習をやりだし、近所から苦情が殺到した。
 かつて整理整頓され、裕子が家庭訪問の教師に誇らしげに見せた部屋は、勉強に関係するものすべてがゴミ箱に捨て去られていた――一切の過去を葬り去ろうとするごとく。残ったものは、布団、ステレオ、ソファー、パチスロ、天井に貼られた畳一枚よりも大きな旭日旗、暴走族やパチンコファン用の雑誌、マンガ、ジュースの空き缶、灰皿、ライター、ラッキーストライク。雑然とした部屋にはタバコの臭いが泌み込み、何日も帰らないときでさえ、前を通ると臭かった。
 裕子は家出騒動以来、息子の堕落のすべてを信彦のあの一言のせいにした。信彦は自分に疚しい点があるだけに、余計それが癇にさわり、それを言われるたびに不機嫌になり、しばらくは妻と口をきこうとしなかった。
 裕子は事あるたびに「死」を口走った。「松田とあんたを呪って死んでやる」、そんな烈しい言葉をなんどか吐いたが、それを実行しなかったのは、自分と全く同じ境遇にいる小川夫人の力が大きかった。小川の息子も小学時代は多方面に抜群の能力を示したが、ある交友関係をきっかけに直哉と同じような生活を送っていた。裕子に対する夫人の助言は、その息子が一歳年上で、やることも一年先行していただけに極めて適切だった。二人は一緒に児童心理学者、宗教家、教育者、実際問題児をかかえた親などを尋ね、結局、親が動揺してはならず、冷静かつ自然に振る舞い、待つ姿勢に徹すること、どのようなことがあろうとも――学校や警察を向こうに回してでも――子供の側に立ち、子供の避難所を用意しておくことの大切さを学んできた。とかくするうちに、慣れも手伝ってか、裕子の動揺も以前ほどではなくなっていった。
 ある深夜裕子が階下に降りてみると、直哉は一人でテレビを見ていた。夜食を作ってやり、それとなく語りかけると、いつになく話に乗ってきた。
 「こななことばっかりしとって苦しないんな」
 「そら苦しいわ」
 「元に戻ろいう気はないんな」
 「ない。――元の方が苦しかった」
 裕子は突然泣き出した。
 「ごめんな、ごめんなぁ、ごめんなぁ、直ちゃん。お母さんが悪かったんや。全部お母さんが悪いんや」
 直哉も一緒に涙ぐんだ。裕子はさらに泣きじゃくった。
 二・三日は平穏だった。しかし嵐はまた吹き荒んだ。一段エスカレートするごとに家庭内に一悶着あった。
 信彦はすべてを自然の力にまかせようとした。直哉にはすべて好きなようにさせ、何一つ説教がましいことも言わなくなった。言っても、どの道きかれはしないし、言わないことによってかりに社会的常識から見て悪い方へ行ったとしても、善悪の基準が以前にもましてあやしくなり始めた今、彼にとってそれはもはや嘆くべきことではないように思われた。結局今まで息子のための最前の道と思っていたものが、別の視点から見ると最悪の道だったかもしれない。そして今最悪の状態と思われるものも、もう一つ別の視点から見ると、ちっとも悪いことではないかもしれない。要するに、直哉の内から発する力を信じてやろう。人間の計らいを捨てることが、結果がどうであれ、最も貴いことなのだ。しかしそれは同時に、社会全体の内なる力を信頼することにもなろう。そうするとどうだろう。この世の中のことは、全てこのまんまでいいということになるのだろうか……。
 そんな疑問を抱いて、彼はまた宝津寺へ行った。白石は観音堂の掃除をしていた。
 「なるがままに任せるということは、何でもあるがままほおっておくことと同じなんですか」
 「ほんまになるがままに任せとる人間には恐らく、なるがままになっとらんもんが見えて、それをなるがままにさせんとあかんちゅう気持ちが起こりまっしゃろな」
 「そうすると、また別の疑問――つまりどうすればほんまになるがままに任せきれる人間になれるのか、いかにすればそういう境地にとどまれるのかという大きな疑問が生じます。クリスチャンなら絶えず祈りましょうね。念仏者なら絶えず念仏を称えましょう。禅者なら空を観じるんじゃないんですか。しかし人間というものは絶えず――仕事中も、めしを喰ってるときも、セックスのときも、あるいは眠っているときも――絶えず祈れましょうか、称名できましょうか、定に入った状態でおれましょうか。白石さんは常に何を考えていますか。うどんを打ちながら、本を読みながら、風呂に入りながら――何を念じておられますか」
 「なんちゃ念じとれへん。うどん打つときはうどんのこと考えるし、家に帰って時間があったら本読むし、夜になったら、さあそろそろ風呂に入ってさっぱりして寝るかいうぐらいのもんや」
 「じゃあ質問の方向を変えます。以前風船が割れて見えてくる光のようなものという話をされたことがありましたけど、一体いかにすれば常にそのような光に浴していることができるんですか。ぼくなんかでも時にひょっとそういうさっぱりした気持ちになることがありますけど、すぐにまた曇ってしまいます。ひと言で言えば、悟って悟りっぱなしという状態が可能だとはぼくにはどうしても思えませんが。煩悩ってものがあとからあとから湧いてくるでしょ。ファウストも燃える思いで、世界をその一番深いところで束ねているもの、天の一番美しい星を得ようと努めても、もう一方の思いは章魚(たこ)の足みたいに下界にぴたりとくっついている、そういう苦しみを訴えていますよね。バッタみたいにピョンと跳びはねちゃあ下に落ちてくる――そんな風に上昇と下降を繰り返している哀れむべき存在じゃあないんですか、人間は」
 「下降も上昇の一部やと考えることもできるやろ。というより、ほんまは上昇も下降もあれへんのやないかい。全体や。煩悩もええやないか、そこから自由になること、わしには考えられへん。わしみたいに還暦迎えよかいうこの年になっても、きれいな女人みたら劣情おぼえよるし、わしの作ったうどんを、『こななもん不味うて喰えん』ちゅう客の文句聞いたら、カッとなる。枯れてしもて煩悩の全く起こらんようになった人間もおるかもしれんが、わしは悟りすました人間より煩悩のある人間の方が好きや。そやけどな、藤野はん、煩悩に翻弄されるのと、視点ずらしてちゅうか、自分自身から距離を置いてちゅうか、自分の煩悩を自然を眺めるように見るんとは、大きな違いやと思うけどな。そこから見たら、悲劇も悲劇的であることをやめるような、そんな視点があるはずなんや。今までの自分からちょっと離れて、自分の煩悩も肯定してやったらどお。自分の悪も、愚かさも、醜さも、いっぺんとことん肯定せなんだら、他人を肯定できんの違うんな。あんたも好きなリルケかて言うてるやないか――生と死の肯定や。ゲーテかて最終的には万有の肯定、これ一つに尽きるんとちがうな」
 「しかし和尚、その肯定的世界観をいかに獲得するかということが、まさにぼくの一番の……」という問を口にしかけたとき、信彦は自分の問の、そして問うことそれ自体の愚かさに気づいていた。
 二人のすぐ前に、赤い衣をつけた盤珪の座像があった。信彦には今、その五十センチばかりの像が非常に大きく見えた。ひきしまった顔、吊り上がった太い眉、大きく開かれた丸い目、下顎に並びそうなほど下に延びた長い両耳……。彼は、やはり木像を見つめている白石の顔を横から眺めた。それからまた像の方に目を移した。盤珪の頭上の額の書は、今では彼にも読み取れるようになっていた。
 
  僧問趙州萬法
  帰一々帰何
  処師云我在
  青州作一領
  布衫重七斤
    盤珪書
 
 「……和尚……そろそろ帰ります。修羅の花咲くわが家へ」
 堂守はにこっと微笑(わら)って、座したまま信彦を見送った。
 寺の外に出た信彦は停めてある車のところまで歩いた。遠くからバリバリという暴走族のバイクの音が聞こえていた。秋の夜の静寂を引き裂くその爆音が、彼の耳に小気味よく響いていた。
 
 
[参考文献]
  『リルケ全集3』 彌生書房 
  『悪徳の栄え』 マルキ・ド・サド 澁澤龍彦訳  現代思潮社 
 
[付記] 
  「風跡」18号 1992年5月 発表
  この物語はフィクションであり、登場する人物、場所などは実在いたしません。