俘虜クロパチェック H.W.Kropatscheckの手紙
1919年1月27日 似の島
閣下は天津にいたペチェル将軍のことはご記憶があるでしょう。1905年私達が天津で結婚式を挙げたこともご記憶にあるでしょう。私は俘虜生活の間閣下にご迷惑をかけるようなことはしなかったと思います。同封した子供の写真にはおそらくご関心をおよせ頂いていると思いますが、妻は子供と一緒に青島におります。義父のLt.v. Petzel は1915年マゼラン会戦の際、行軍の疲労のため死亡しました。私の妹はまだドレスデンにいます。
決められた日常の行動には不満はもっておりません。妹は今も青島におります。日本の加護のもとに満足に暮らしております。勿論私達の別居生活は長かったのですが、今は家族一緒に暮らしたいとお願をしているところです。
申し上げた通り私は青島へ帰る許可をえたいと期待を込めて申請をしております。私は戦前ロシア領事でした。そのために関係のある仕事をしなくてはなりません。もし閣下がこの私の請願を帝国陸軍省に働きかけて頂いて審査がうまくいくようにご援助下されば、私達は感謝の気持で一杯になります。青島への休暇や釈放はありえないとしても、そうかといってドイツへの帰国は考えておりません。というのも私達の故郷はこの東アジアですから。私はここに19年間暮らしております。しかし我々二人はまだ日本にやっと1年間暮しただけですので、まだ日本のことはよく知りません。必要な生活資金は日本の貯蓄銀行に預けております。
閣下のご健康を祈念し先年来のご親切なお付合いに感謝しながら思い出している次第です。
H.W.クロパチェック(プロイセン帝国 予備役少尉)