名古屋俘虜収容所にいた
ヘルマン・リンデマイヤーの証明書についての推測
シュミットさんの名簿で見ると、リンデマイヤーは大正8年12月に解放されたとされている。一方シュミットさんから送られてきた証明書には大正9年1月26日解放したと書いてある。この解放年月のズレはどう理解すればよいか?どういう理由で彼に証明書が発行されたのか。
最近シュミットさんはこの証明書の事実を知ったということであるが、シュミットさんの名簿で「ヘルマン・リンデマイヤー」をみると、一般の俘虜の解放と同年月に解放されたと書いてある。他に例えば脱走罪で拘留されていた俘虜が遅れて特赦で解放された事実がある。こういう事例はシュミットさんの名簿にも詳しく出ており、瀬戸先生の翻訳でも確認できる。
一般的に帰国が遅れた理由には、犯罪で拘留されていた、病気で入院していた、内地就業予定者だったなどが考えられる。もう一つ理由がある。それはドイツ以外の別の目的地へ移動する事例である。
彼の証明書には「蘭領印度に渡航」と書いてある。名古屋俘虜収容所で蘭領印度へ渡航した人員の記録は、下士官16名、兵卒6名 計22名 となっており意外に多い。あと青島5名、朝鮮5名、中国4名、アルゼンチン2名である。
例えばスイス公使発の外務大臣宛の1920年1月31日付の文書には、「・・・左記ノ者ハ和蘭官憲ニ雇ワレ蘭領印度ニ赴ク為乗船ヲ待居候右ハ何レモ東京和蘭公使ノ査証セル必要ノ書類ヲ携帯シ居候・・・」という記録がある。リンデマイヤーの証明書の「蘭領印度ニ渡航スルタメ」という文言と一致する。
情報を総合して推測すると、証明書はリンデマイヤーの「官費旅行」の証明書で乗車券、乗船券や宿賃など、蘭領印度へ渡るまでの身分証明書だったのではないかと思われる。そしておそらく渡航のための必要経費は、日本政府からの出費ではなかったかと推測される。
現時点での結論をいえば「将校など責任者が引率する多数者の団体渡航者には証明書は不必要であるが、それ以外の個々の事例については、証明書を発行して「身分証明を兼ねて渡航の安全を保障」していたのではないか。これが私の推論である。