友人たちの証言
 

● 早田武氏(故人)
● 奥田英夫氏
● 大川純司氏
● 津川芳博氏
 
 


● 早田武氏

 4年で丸亀中学校(丸中)から六高へ。阪大、工学部造船科。のち善通寺一高、高松西高校長。1983年高松西高校長のとき、三木を招き「胎児の世界」に近い内容で講演をしてもらう。「早田武作品集」全二巻。1999年逝去。
 
 《2002年6月8日、「三木の会」学習会に参加された早田志乃富夫人からお借りした原稿より。同窓会誌のようなものに発表されたものらしい》
 
   「三木成夫君の思い出」

 三木は丸亀中学校以来の友人である。
 中学校に入学したとき、彼は入学式で宣誓をしたので、彼の存在は中学入学の最初から知っていたが、彼と直接付き合うようになったのは、中学三年で同じクラスになったときからであったと思う。
 教練の時間は彼と並んで整列していた。教官はゴリポンと呼ばれていた特務曹長で、よく二人一緒に叱られたものである。そんなことで、彼とは急速に親しくなった。
 学校からの帰り道、たびたび彼の家に寄った。彼の長兄の三高時代のアルバムなどを見せてもらいながら、わたしどもは次第に高校への夢をふくらませていった。相談して決めたわけではないが、二人とも六高に進学した。六高では水泳部に入り、一緒に平泳ぎを泳いだ。水泳部に入るように誘ったのは、わたしなのであるが、彼の方がずっといいタイムで泳げるようになった。
 昭和三十五・六年頃だったと思う。彼のアパートに一週間ばかり転がり込んだことがあった。たまたま少し長い日数の出張で上京し、会場が大泉で彼のアパートから比較的近かったものだから宿を頼んだのである。東京駅に出迎えてくれた彼と、駅のホームで固く手を握り合った。高校以来十数年ぶりのことであったが、彼は昔と少しも変わらないように見えた。
 アパートは石神井にあった。三十も半ばを過ぎていたが、彼はまだ独身であった。アパートの二部屋を借りて一つのまとまった構造に造り変えて住んでいた。当時はマンションと呼ばれるものはほとんどなく、世の中がまだ貧しかった時代であった。
 そのころ彼は東京医科歯科大学の助教授をしていて、他に二・三の大学の講師も兼務していた。最後の落ち着き場所になった東京芸術大学も、そのころから講師をしていた大学である。
 いつまでたっても讃岐の方言が抜けないので、学生たちが戸惑うことがあると、彼は話していた。それもあげくの果てには、方言礼賛というたわいのない話になってしまうのだが、最近ゲーテと論語を興味をもって読むようになったという真面目な話も彼はした。そして「論語のおもしろさは、落語のおもしろさと一緒や」と話していた。
 昔、高校時代、自己紹介のときに、「ゲーテ研究をしています」「シェークスピアを研究しています」という冗談をよく聞いたが、彼の話を聞きながらそんな昔のことを思い出した。三木のからだの中には、高校時代の夢がいつまでも失われずに、夢が現実のものとなって生きている。それはすばらしいことだと思った。
 彼は、最高の牛肉のロースをたっぷり買ってきてもてなしてくれた。フライパンであぶる程度に軽く肉を焼いて、まだ赤身が残っているのを、いろいろな薬味を入れた生醤油につけて食うのである。それを三木焼きと称していた。それ以来三木焼きは、わが家の料理の一つにもなった。
 それから何年か経って、彼は医科歯科大学から東京芸術大学の保健センターに移った。その間に結婚もし、子供もできた。彼が芸術大学に移ったころから、わたしは上京して時間の余裕があれば、上野の森を訪ねるようになった。学生たちを相手にしているだけで、わずらわしいことは一切なく、彼は自由に好きなことを考えたり調べたりしているように見えた。ときには池袋まで出かけていって、夕食をともにした。彼はいつもたいへん幸せそうに見えた。芸大の保健センターというところに、安住の地を見つけているようだった。
 昭和58年の秋、わたしが勤めている高校に彼を招いて、千三百人の高校生を相手に話をしてもらった。ちょうどそのころ、彼は、「内臓のはたらきと子どものこころ」と「胎児の世界」という二冊の本を出していた。この本からは、子どもへの深い愛情が感じられた。そして、ユニークな発想があった。この話を生徒にしてもらいたいと思い、講演を依頼したら快く引き受けてくれた。
 演題は「生命の誕生」、スライドを使いながら、たっぷり二時間の話であった。
 人間の胎児は、母親の体内で、生命といわれるものがはじめて地球上に誕生してから今日までの、三十億年にわたる生物進化の歴史を経験する。その経験が生命記憶として胎児のからだの中にたくわえられて、人間特有の感情をつくりだしているのだという。それは壮大な話であった。そしておおぜいの高校生の心を掴んだ。
 話し終わったあと、千人を超える人間を相手に話をしたことははじめての経験で、随分緊張したあと話していたが、心から満足気であった。
 一昨年の春、わたしは定年退職して、それ以来上京していない。したがってこの二年間は、ただ年賀状が届くだけで彼と会う機会はなかった。そして、昭和六十二年八月十三日三木は死んだ。
 去年もらった年賀状には、「賀春」の文字のあとに、筆書きで次のような言葉が書いてあった。
 「高松西高校での講演は、今から思えば最大級の出来事でした。人類に新旧はありません」
 さらにそのあと、ペン書きで、次のような添え書きがあった。
 「サンケイ〈正論〉に連載中、ご笑覧ください」
 これが、わたしへの最後のことばになった。〈正論〉への連載は、彼の三冊目の本になる予定のものではなかったかと思う。その後それが出版されたという話は聞いていないが彼の文章には、人間への切々たる愛の気持ちが込められているにちがいない。




● 奥田英夫氏

 元大分県土木部長、元大分県道路公社理事長。三木とは城乾尋常高等小学校と丸亀中学校で同級。
 《平成七年十月発行の『古希記念文集』(丸亀市立城乾尋常高等小学校 昭和13年尋常科卒)中の『城乾小同窓会と少年時代の思い出―奥田英夫』より抜粋。(ご本人の同意を得て二カ所訂正)
 
三木成夫君のこと
 三木成夫君は地方(じかた、西本町のこと)も東の端、大神宮さんの筋向かいにあった「三木産婦人科医院」の御曹司である。ご父君の先生も美髯をたくわえた端正な方だったと記憶しているが、成夫君も少年時代は容姿も性格も典型的なお坊ちゃんタイプの「医者の息子」であったが、「性」に知識となると秀麗なマスクに似合わないませた知識を披露し、その点有田ドラッグの広田純君とは双璧で、私を含めたうぶな少年たちは彼のリアルな解説に未知の世界を想像して目を輝かしたものであった。
 丸中から六高を経て九州大学の航空に進んだものの終戦となったため翌年東大の医学部に入り直した。学生時代は本職はそっちのけで音楽にのめり込んでいたようで、私が下宿を訪ねたときなど雑然とした部屋の中で話をしながらもバイオリンをかかえていた記憶がある。東大の教室時代を経て東京医科歯科大学の助教授から東京芸術大学の教授になった。夫人との間につくった遅い一男一女を目に入れても痛くないような可愛いがりようだったという。
 私は社会人となってからは彼とは先に述べた三谷先生(城乾小時代の担任)ご夫妻を椿山荘でお迎えした時に逢ったきりであったが、私が城乾小の名簿づくりに励んでいた昭和六十二年の八月十三日脳溢血のため帰らぬ人となった。葬儀は本郷の赤門のすぐ筋向かいの「喜福寺」であり、城乾からは広田純、川井哲也、竹田充そして私の四人が参列した。真夏の炎天下ではあったが、葬儀は東大と医科歯科と芸術大の若い人たちで埋まり、それは盛大であった。
 専門の医学の方でも威力な存在だったようで幾つかの著書もあるが、専門外の私には評価しようもない。それよりも芸術大学時代は心の医者として芸術を志すデリケートな若者たちのまたとない相談相手だったらしく、彼の死後音楽部門による「追悼音楽祭」とまた日を変えて美術部門による「追悼作品展」が行われたばかりでなく「追悼文集」までが発刊された。私は「追悼音楽祭」にも「追悼作品展」への参加もさせてもらったが、実に心に残る催しであった。先生だったからといって誰にでもある話ではなく、若者たちにこんなにも慕われる存在だったことを知り、私などとてもとても足下にも寄れないすばらしい生きざまだったことを羨ましくさえ思っている。
 
 



● 大川純司氏 

 元多度津水産高校校長。三木とは城乾尋常高等小学校と丸亀中学校で同級。
  《談 2000年10月30日夕方 丸亀駅前喫茶「かまど」にて》
 
 小学時代から字を先生について習っていた。ともかく字が伝説的に上手だったし、絵も上手だった。コンテストなどでよく賞をもらっていた。
 三木、大川、米本の三人で学芸会で唱歌を歌った想い出がある。米本というのは「厚仁病院」院長の兄で、非常に優秀であったが、軍隊にとられ、戦後今の大手前あたりにあった兵舎の片付けをしていたとき、砲弾に触れて暴発のため事故死。
 三木成夫の交友関係について。城乾尋常高等小学校、丸亀中学校と同級で仲のよかった人たち。
 広田純: 飛び級で1年早く一高へ。東大。元立教教授。統計学。埼玉県所沢市在住。
 奥田英夫: 父親は銀行マン。父親の転勤で小学5年のとき朝鮮から転校してきた。三高から京大へ。大分県土木部長。元大分県道路公社理事長。
 丸亀中学校からの同級生では−
 早田武: 4年で六高へ。阪大。工学部造船科。のち善通寺一高、高松西高校長。高松西高校長のとき、三木を招き「胎児の世界」に近い内容で講演をしてもらう。1999年逝去。
 丸中では、三木、広田、奥田、早田あたりが優秀で切磋琢磨していた。特に三木と広田は仲がよかった。
 丸中は当時一学年200名。東西南北、4つのクラス(1クラス50名)に別れていたが、三木は入学年度に東組の正級長になった。これは当時の慣例から、一番で丸中に入学したことを意味している。
 大川氏は、元京大教授宮武義郎氏(東京の「三木成夫記念シンポジウム」で三木について講演−「三木君と私」)とは幼稚園も一緒。丸中も一緒だった。もっとも向こうは1年上。宮武氏は小学校は城北だった。
 昭和59年か60年頃、全国校長会で上京したおり、三木、早田、広田、大川の4人で食事したことがある。

 
 


● 津川芳博氏

 現在、坂出の看護学校で国語教師。三木とは城乾尋常高等小学校と丸亀中学校で同級。
  《談 2000年10月29日 電話にて》
 三木は城乾小では級長を務める。ただし、このクラスは優秀な生徒が多く、ずっとではない。同じクラスから3人東大へ。
 ともかく、字が上手だった。書くとき独特の顔つきをするので、同じ顔をすれば上手く書けるかと思い、やってみたことがあるほど、三木の字の上手いのに憧れていた。
 教師をしだして、15年くらいたったころ、今の天皇が皇太子で、まだ多分浩宮が生まれていなかった頃、私の教え子が読書感想文を書いて、皇太子から賞状などを授与された。そのとき上京したついでに、当時東京医科歯科で教えていた三木を訪ねた。「一緒に歩いていて、田舎からきた私の背中に手を回し、『津川、東京は車が多くて危ないから気をつけろよ』と言ってくれたのが印象に残っている。優しい男でした」。