著名人、三木成夫を語る
 
 
           目次
● 吉本隆明氏、三木を語る(文芸評論家)
       『海・呼吸・古代形象』解説より
       『詩人・評論家・作家のための言語論』より
       『超「20世紀論」』より
       『ヒトのからだ』解説より
● 養老孟司氏、三木を語る(解剖学者)
● 中村雄二郎氏、三木を語る(哲学者)
● 市川浩氏、三木と語る(哲学者)
● 赤瀬川原平氏、三木の本について(作家)
● 芹沢俊介氏、三木を語る(評論家)
● 内田芳明氏、三木を語る(社会学者)
● 丹生谷貴志氏、三木を語る(美術評論家)
 
 

吉本隆明氏、三木成夫を語る
 
*** 『海・呼吸・古代形象』解説より ***

 三木成夫の著書にであったのは、ここ数年のわたしにひとつの事件だった。・・・それから公けにされた三木成夫の論文や、講演や、座談の発言を読みあさるようになった。すると知らぬはわたしばかりといった事態もすこし呑みこめてきた。すでに一部には高い評価と深い影響をあたえていることがわかってきた。・・・この指摘と洞察は、とりわけわたしには眼から鱗がおちる気分だった。つまりわたしははじめて、長いあいだもやもや膜を隔てているようだった〈こころ〉とその働きがわかったとおもえたのだ。・・・この著者への頌辞になるかどうかわからないが、知識に目覚めたはじめの時期に、もっとはやくこの著者の仕事に出あっていたら、いまよりましな仕事ができていただろうに、そんなすべのない後悔をしてみることがある。 
  [注] 以下のアドレスでもっと詳しく見られます。
      http://www3.coara.or.jp/~nobu5591/dokusho/yosimoto.htm

 
*** 『詩人・評論家・作家のための言語論』より ***

 三木成夫さんの著作をはじめて読んだときには、ほんとうに驚きました。なぜかといえば、三木さんの方法論が、価値形態論におけるカール・マルクス、国文学研究における折口信夫と同じだと感じたからです。そして三木さんの書いた『胎児の世界』を読んでいるうちに、この人の考え方とぼくの言語論とを対応させることができるんじゃないか、と気づいたのです。
 やや乱暴にまとめますと、三木さんは人間について、大腸、肺、心臓など植物神経系の内臓の内なる動きと、人間の心情という外なる表現は対応し、また動物神経系の感覚器官と脳の働きは対応しているとかんがえています。そのうえで三木さんは、植物神経系の内臓のなかにも動物神経の系統が侵入していくし、逆に血管のような植物神経系の臓器も動物神経系の感覚器官の周辺に介入しているといっています。ですから、内臓も脳とのつながりをもっていることになります。何らかの精神的なショックを受けて、胃が痛くなるとか、心臓がドキドキするということがあるのはそのためです。
 ・・・・・ぼくが言語論をはじめたのは三十代の前半でしたが、もしもそのころに三木さんの本を読んでいたら、もしかするとおれもソシュールぐらいになれたんじゃないかとおもえるくらいで、ああ、遅かったなというのが本音のところです。 
 


*** 『超「20世紀論」』より ***

 人間の心の動きは、脳ではなく、基本的には内臓の動きにのっとっているんです。これは、解剖学を専門とする医学者の三木成夫が明らかにしたことです。人間の身体は、大きく分けて、感覚や運動を司る「動物器官」と、栄養や生殖を司る「植物器官」からなります。人間の体は、動物系と植物系からできているわけですが、動物系は、身体の壁をつくるので「体壁系」とも呼ばれます。「体壁系」に属するのは、脳を中枢とする神経系、筋肉系、外皮系などです。
 動物は植物と違い、いながらにして身体を養う栄養をとることができず、動きまわって食べ物を確保しなければいけません。人間をはじめとする動物において、「動物系」(体壁系)が発達したのは、そのためだといわれています。
 一方、植物系は、身体の内部に蔵されるので「内臓系」とも呼ばれます。腸管系や心臓を中心とする血管系などは「内臓系」に属しています。
 三木成夫は、内臓の発生や機能、動きは腸管系の植物神経に、そして、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚といったいわゆる五感と呼ばれる感覚の作用は体壁系の動物神経に、ハッキリと結びつけて論じています。
 そして、腸管系の入り口である口腔と、出口である肛門の両端は、「体壁系」の感覚に結びついているために脳の働きに依存しているけれど、その両端を除くと、脳との結びつきはぼやけてしまい、腸管系の内部――すなわち、肉体の奥には、脳の働きに第二義的にしか依存しない、うごめく無明の情感があるのだ、と述べています。
 そう指摘した上で、三木成夫は「内臓の不快が思考の不快に“化ける”ゆえんは、ここにあるのではなかろうか」「仏教でいうところの、煩悩をもたらす『無明』の世界は、実は、こうした内臓界のことをいったのではないか」とも述べています。
 これが「内臓感覚」というか、「臓器感覚」なんですよ。たとえば、お酒を飲み過ぎたとかで、胃腸の具合が悪いと、憂鬱になったりするでしょう。そういう心の動きは、基本的には内臓の動きにのっとっているんです。
 確かに、内臓にも多少の感覚はありますが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」というように、その感覚は第二義的であり、微弱であって、いわゆる五感とは違うんです。五感は、脳の働きに第一義的に依存した感覚ですからね。
 僕は、三木成夫が書いた本を読んで、こうしたことを教えられたわけですが、そのときは、まさに目からウロコが落ちるような気分になりました。
     
 


*** 『ヒトのからだ』の解説より ***

 わたしは歴史の哲学や、歴史の発展を分類する原理や、文学、芸術作品の歴史についてなら、マルクスや折口信夫の考え方から、それを知っていた。だが「ヒトのからだ」の成り立ちについて、植物や動物の「からだ」を含めて、生物の全般に流通できるおなじ考え方がありうることを披瀝している学問の哲学者が存在することを知ったのは、わずか数年まえ、三木成夫の本に接したときであった。こんな人が日本にいたのだということに、いたく感動させられた。学問は知識の拡大ではなく、自明なことを根拠のうえにのせる創造の作業だということを「ヒトのからだ」について方法的な明確さによって成就してみせている。これに驚かなかったらうそなのだ。これは三木成夫の思考法にどんな弱点があるとしてもくつがえることはないとおもう。
      


 ★ 吉本隆明 
 1924〜 昭和・平成期の詩人・評論家。東京生まれ、東京工業大学を卒業。戦後最大の思想家と評価されている。小説家吉本ばななの父親でもある。
 問題をぎりぎりのところまで追いつめる思想的営為には定評があり、戦後一貫して日本の思想界をリードしてきたことはよく知られている。いまもその知的膂力は衰えを知らない。
 主な著書に『吉本隆明詩集』、『言語にとって美とは何か』、『共同幻想論』、『心的現象論序説』、『マス・イメージ論』、『ハイ・イメージ論』、『最後の親鸞』。『吉本隆明全著作集』(勁草書房)、『吉本隆明全集撰』(大和書房)。
 
 
 

養老孟司氏、三木成夫を語る
 
 比較解剖学は、きわめて多様な動物の構造を、みごとに整理する。三木先生のお好きだった、腮弓血管の模式図がその典型である。この模式図は、現実にはどこにもない。われわれの頭の中にあるだけである。自然選択説を採るなら、進化とはすなわち、まったくバラバラ事実の寄せ集めである。そこになにかの原理を発見しようとするなら、それは頭の中を探って見るしかない。だからメタ科学になる。しかし、メタ科学でない科学とは、単なる専門技術に過ぎないかもしれないのである。 (『生命形態の自然誌』、月報「三木・比較解剖学」より)
 
 ★ 養老孟司
 北里大学教授。一九三七年神奈川県生れ。東京大学医学部卒、同大大学院博士課程修了。同大医学部教授を退官し、現職。三木成夫記念シンポジウム世話人。
 精力的な執筆活動で人気を博す解剖学者。専門のカラダなどをめぐるユニークなエッセイからオウム事件、大学教育の論評までまさに博覧強記。最近では著書『唯脳論』(青土社、89年)が火付け役となり、空前の「脳」ブームを巻き起した。「脳抜きでは語れない時代の到来をだれもが暗黙のうちに知っている」と分析する。「人間のやることなすことは基本的に脳の働きによるもの」という法則が唯脳論のベース。現代社会は実態と離れ、五感から入るのではなくすべて頭のなかで抽象的に考える。そういう社会を「脳化社会」と呼ぶ。予測と統御を原理に、あらゆる条件をコントロールしようとする都市はその典型ともいう。
 著書に『考えるヒト』(筑摩書房、96年)など。
 
 
 

中村雄二郎氏、三木成夫を語る
 
 三木さんは狭い解剖学の世界の囚われからふっきれた。それで逆に自然体で色々とメッセージを出したことがよかった。三木さんを偲ぶ会の示す幅の広さと、メッセージの深さがそこから出てきた。だから解剖学のオーソドックスな先生から見れば、一体どうしてこれだけの大きな影響力を持つようになったのだろうかという疑問がおきたのだろ思いますね。 (特集『三木成夫の世界』、「三木成夫の世界 − 生のリアリティ」 養老孟司氏との対談)
 
 ★ 中村雄二郎
明治大学名誉教授。一九二五年東京生れ。哲学者。東京大学文学部哲学科卒。昭和26年文化放送に入りプロデューサー、32年明治大学講師、40年教授。フランス哲学が専攻だが哲学をドラマとしてとらえた演劇論を展開するなど、新しい視点で研究する。季刊「へるめす」同人。主な著書に「パスカルとその時代」「現代情念論」「感性の覚醒」「哲学の現在」「共通感覚論」「魔女ランダ考―演劇的知とはなにか」「西田幾多郎」「術語集」「読書のドラマトゥルギー」「西田哲学の脱構築」「かたちのオディッセイ」「共振する世界」「術語集」など。他に「中村雄二郎著作集」 (全10巻,岩波書店) がある
 
 
 

市川浩氏、三木成夫と語る
 
 
市川: ところで先生の内臓系の双極的関係ということについてちょっとお話いただけますか。
三木: 「肝腎要」といいますよね。肝臓と腎臓で肝腎と書きます。心臓はこの支点にくるのですが、肝臓と腎臓というのは、結局、貯蓄と消費の、この二つの関係です。この食の位相における仲介をなすものとして心臓がくるのです。これに対して性の相では、普通、魚の場合は射精と排卵、放卵がいっしょです。子宮にあたるのがちょうどサケなんかでいえば川底の砂です。ところが陸に上がった場合、両方とも干からびるから川底の代わりに子宮ができた。
 そして、この子宮が性の相における心臓ということになる。食の相では心臓が、そして性の相では子宮がそれぞれ心臓系の中心となる。・・・
市川: さっき先生のおっしゃった肝臓と腎臓がいちばん肝腎かなめなんですね。あるいは肝胆相照らすというように肝臓と胆臓です。こころは日本人だっていちおうハートにあるんだけど、ほんとの真心というのは腹にありますね。腹を割って話すとか。そうすると腹黒かったりすると。さらに精神修業になると丹田が重要だといいます。下腹部ですね。これはずいぶん文化的な差異があるんだなという気がします。ヨーロッパ人には心が下腹部にあるというのは理解しがたいでしょう。そういう点、日本人の発想は内臓感覚的というか、身体的感覚的な発想がひじょうに強いです。
 東洋全体がある程度そうですね。唯識説でも、いちばん根本の蔵識とか阿羅耶識というのは無意識になってますね。そういう点で内臓感覚的なものを東洋はまだ保存していると思うんです。ことばの上でそれがいちばんよく出ているのは「気」だと思うんです。気というのは宇宙に拡がっている根源的なものですね。それが気象になる。気象というのは天地の姿ですね。それから天気です。天気がいいと気が晴れるし、天気が悪いと気が重い。そういう照応関係があります。気分とか気持ちとか気を分かちもったときに、心に近いものになってくるけれど、その根源は宇宙につながっているんですね。そういう発想が自然じゃないかという気がするんです。(特集『三木成夫の世界』、「宇宙・人体・都市」 市川浩+三木成夫)
 
 ★ 市川 浩
 明治大学商学部教授。専門分野 哲学;芸術哲学。
 昭和29年毎日新聞大阪本社勤務。47年明治大学教授に就任。63年〜平成2年4月季刊「思潮」編集同人。主著に「精神としての身体」「 (身) の構造」「現代芸術の地平」「中間者の哲学」「寺山修司の宇宙」など
 
 
 

赤瀬川原平氏、三木の本について
 
 こちらでご覧ください:
       http://www3.coara.or.jp/~nobu5591/dokusho/akasegawa.htm
 
 ★ 赤瀬川 原平
 画家;小説家。
 昭和35年美術家の荒川修作らと共にネオ・ダダイズム・オルガナイザーを結成し、ポップアートの先駆的活動を赤瀬川原平のペンネームで展開。のちイラストレーターに。また、尾辻克彦の名で書いた「肌ざわり」 (中央公論新人賞受賞) で作家活動も開始する。「父が消えた」で、56年第84回芥川賞、「雪野」で58年野間文芸新人賞受賞。ほかにも、映画評論、宮武外骨の研究などにかかわり、路上観察学会設立など幅広く活躍。平成10年「老人力」「老人力のふしぎ」などを出版、ボケや物忘れを "老人力がついた" と言い換え、価値感の転換をはかる "老人力" を提唱。
 



芹沢俊介氏、三木を語る
 
 
 三木成夫の『胎児の世界』は、間違いなくこの何年かのなかで出会った片手の指で数えられる最良の本の一冊と言える。これほど自分の細胞までフル回転して感応することを強いられる本はきわめて稀であった。気の遠くなるような時間とそのなかで繰り広げられてきた人間成立のドラマが、具体的なイメージとなって、鮮やかに眼前に取り出されてくるときの驚きと開放感は、破格のものであった。
    (特集『三木成夫の世界』、「《真の快》について」より)
 
 ★ 芹沢俊介
 評論家
 一九四二年東京都生れ。上智大学経済学部卒。
 家族論、女性論を軸とした戦後大衆論で知られているが、最近は事件、風俗、メディアといった都市のさまざまな社会現象を評論。たとえば、「きんさんぎんさん」という「超アイドル」が突如誕生した現象について、その要因を探りながら、それを可能にした現在の日本社会と日本人の成り立ち、構造を開示する。著書に『「オウム現象」の解読』(筑摩書房、96年)など。
 
 
 

内田芳明氏、三木を語る
 
 
 ‥‥‥そこで今回三木の遺著を読むことになったのだが、読んで大変に驚かされたのであった。なにしろ私のいう現象学的方法が、三木の生命形態学論的解剖学においても、つまりは自然科学の一つの分野においても、みごとに駆使されているのが発見されたからである。それはあたかも現象学的方法論において私の研究と三木のそれとが「双子の姉妹」であるかにみえるほどのものを感じさせたのであった。
 ‥‥‥実はこの一致は、それを生み出す根拠において同一のルーツがあったからのことで、したがって偶然とは言えないことなのである。そのルーツとは、ルートヴィッヒ・クラーゲスの「生情学」もしくは「心情学」とゲーテの「形態学」とである。そしてこのクラーゲスを私に教えてくれたのは実にほかならぬ三木成夫であった。
 ‥‥‥このクラーゲスとの出会いがなかったならば、その前後から開始されていた私のヨーロッパ旅行について、私がその印象体験を書いた時、それはただ単なる旅行紀として随想のレベルに終わっていたであろう。三木に教えられていらい私はクラーゲスへの沈潜によって、そこから独自に現象学的方法の地平を切り開いてきた。
    (特集『三木成夫の世界』、「現象学的方法の新しい地平へ」より)
 
 ★ 内田芳明
 元・横浜国立大学経済学部教授、マールブルク大学客員教授、テュービンゲン大学客員教授。専門分野 社会科学論;社会思想史
 大正12年東京うまれ。東京商科大学 (現・一橋大学) 卒、レッシングドイツ連邦政府翻訳賞〔平成11年〕「古代ユダヤ教」
 著書に「マックス・ヴェーバー研究」 (共著) 「アウグスティーヌスと古代の終末」「ヴェーバー―社会科学の基礎研究」「マックス・ヴェーバーと古代史研究」「歴史変革と現代」「ヴェーバーとマルクス―日本社会科学の思想構造」「ヴェーバーの射程」「ヴェーバー受容と文化のトポロギー」「風景の現象学」「風景と都市の美学」「思索の散歩道」「現代に生きる内村鑑三」「風景とは何か―構想力としての都市」、訳書にトレルチ「ルネサンスと宗教革命」、ヴェーバー「古代ユダヤ教」など多数
 
 
 

丹生谷貴志氏、三木を語る
 
 
 知る人も多いだろうように、先生は東京芸大の校医を勤めるかたわら美術部で生物学の講義をもっていらっしゃった。その講義の(或いは先生の存在の)幻惑的と言ってよい魅力はたとえようもないもので、出席をとらない授業なんかに出るくらいならアトリエで仕事をすることを当然のように選ぶ実技の学生たちが先生の講義に限っては絵の具や石の粉にまみれた姿で集まり(驚いたことにノートがわりのスケッチブックまで持って!)、美術部で一番大きな階段教室はいつもテレピン油や石粉の乾いた匂いで満杯になった。先生の有名な美しい手書き図版のスライドを交えた授業が始まると、誰もが知るようにスライド授業というのは何故か眠るのに最適な環境を構成するのだが、先生の授業はまるでディズニー映画が始まったときの子供たちのように学生たちは文字通り息を呑むような熱気と沈黙でスクリーンを注視するのだった。それは本当に図版と先生の存在とそこから流れ出る不思議な言葉からなる映画のようで、講義が終わって照明が点き、先生がゆっくりと煙草に火を点けて燻らすと、ほとんどスタンディング・オベーションのようにして学生たちが拍手をし始めることさえあった。その拍手に先生は少し照れたように微笑んで挨拶をし、黒板横の教官用のドアから出ていかれるのだった。少なくとも私が講義に出席していたころはいつもこんな具合だった。
  (特集『三木成夫の世界』、「三木生物学なんて知ったことじゃあない!」より)
 
 ★ 丹生谷貴志
 美術評論家、神戸市外国語大学国際関係学科教授
 昭和29年 出生地 東京都
 東京芸術大学大学院美術研究科西洋美術史専攻
 昭和55年東京芸術大学日本東洋美術史研究室助手を経て、神戸市外国語大学助教授、のち教授。著書に「光の国あるいはVoyage en Vain」「砂漠の小舟」「ドウルーズ・映画・フーコー」、共著に「ワードマップ戦争」、訳書にF.ガタリ、T.ネグリ「自由の新たな空間」などがある。