不 調 を み る 目
 
− 職場の安全によせて −
 
                保健管理センター所長
                    三 木 成 夫
 
 
 同じ職場で毎日顔を合わせていますと、だいたい一目で相手のその日の調子は分るものです。長い付き合いを通して、これのほとんど変らない人もいますが、たいていは多少に関わらず、いわゆる“調子の波”というものを持っている。これは、だれもが実感しておられることでしょう。
 ところで、この調子の波の実体はなにか、といえば、これははなはだあいまいです。たとえば何が原因でこうした波が起こるのか、これだけでもいろいろの見方があるものです。楽しいことがあれば調子はよく、反対に心配事が重なれば自然に下り坂になる・・・・・といった生活条件との因果関係ひとつをとっても、そこにはもっと奥の深い世界が考えられる。たんに環境のよしあしだけで決まるのでないことは多くの人びとの認めるところです。
 私たちは、これまで折あるごとに、こうした“からだの波”というものは、もっともっと大きな視点から眺めなければならないことを繰返し指摘してまいりました。それは、いやしくもこの地球に生をうけた以上、当然免れることの出来ない“大自然のリズム”との目に見えぬ密接な関わり合いを、けっして怠かにしてはならない、というこのことです。
 心身の不調が職場の安全をおびやかす、目に見えぬ敵であることは申すまでもありません。とくにこの不調が長びいた時はよくない。今年もまた安全週間によせて、医師としての意見を求められましたので、上述の視点から、このだれもが多少に関わらず経験しなければならない厄介な問題について、今回は少しでも多くの教官・職員の方々の御参考になることをねがって文章のかたちにしました。とくに学生の指導に直接携っておられる現場の先生方の御役に立てばと思うものです。
 なお、以下の文面は、本学の保健理論の講義で使用したプリントの内容を、ほぼそのままのかたちで再録させて頂いたものです。
 
 
●不調の生理 − 慢性覚醒不全
 
 疲れやすい。よく眠れない。朝から食欲がない、無理して食べると胃の具合が悪くなり、1日中もたれる。背中が痛い。腰が痛い。首すじから肩にかけて凝りがひどい。血圧が低く、階段をかけ昇るとドキドキが止まらない。不調の訴えはさまざまです。
 もちろんこれだけでは済まされない。ヤル気が起こらないとか毎日毎日が億劫(おっくう)で、なにをやってもつまらないとか・・・・・。そこでしだいに取越苦労からあせりが出てきて、知らぬ間に自分にムチ打つ。これが上述の肉体症状に対する精神症状です。
 こうしたことは大人ばかりでなく、子どもの世界にも明らかにそのきざしが見られるようです。しかし、それらの症状は人によって組み合わせが異なり、なかなか一定しない。今日の医学では、したがって“不定愁訴”の呼び名が示すように、その場その場の対症療法でやり過ごすだけで、いまだに筋の通った見解が知られていない、というまことになさけない現状のようです。
 ところで学校や職場の保健室で健康相談を受けていて、いちばん多いのがこの症状です。どこの病院へ行っても異常なしといって相手にしてくれないという。しかし、本人はつらいのです。なんとか学問的にこの問題を解決してやらねばならない。そこで、私どもはまず手はじめに、これらの症状の奥に、なにか共通した生理のからくりはないものかとこれまでいろいろ調べてきたのですが、いまではこれを「日リズムの失調」としてとらえるようになっています。
 ふつう睡眠と覚醒のリズムは、谷と山の交代する波模様として示され、だいたい日の入り、日の出と一致する。これが眠りに見られる、いわゆる日リズムですが、こうした不調時には、このリズムにふたつの型が出てきます。そのひとつは“位相がずれる”ことで、その結果は「夜ふかしの朝寝坊」という波形になる。専門的に「日リズムの日内変動」「睡眠相遅延症候群DSPS」などと呼ばれておりますが、これは日常どこにでも見られるものです。
 もうひとつは“振幅が減る”ことで、その結果は眠りが浅く、また目ざめも悪くなる。これがひどくなると眠っていても半分起きていて、また起きていても半分眠っている状態になり、これがさらにひどくなると、昼も夜もない冬眠状態に陥ってしまうのです。
 そこでいまこの不定愁訴の生理を分析してみると、たいていこの位相のズレと振幅の減弱が同伴して顔を見せ、しかもそういった状態がダラダラと続いていることが分かる。要するに慢性の未覚醒状態となっているのです。ここで、しかし大切なことは多くの人間がほとんどこれに気がついていない、それどころか指摘されてもなかなかこれが分からない、ということですが、いずれにしても冒頭にあげた諸症状は、すべてこの「慢性覚醒不全」から説明できると思うのです。
 ふつう目ざめは、文字通り目から起こる。いいかえればまず「意識」が目ざめるわけです。これに続いて耳、鼻、舌、身の順序でつぎつぎと目ざめていく。筋肉系統とくに胃袋のそれが起きだしてくるのは一番あとです。いわゆる“寝起きがいい”のは、この波及が速やかな時であり、反対に“寝起きが悪い”のは、これに時間がかかっている時です。これは生理学のひとつの常識です。
 ここで取り上げている「慢性覚醒不全」がどういうものか、以上でお分かりでしょう。そうです。それはいってみれば「意識」だけ目ざめて、しんがりの筋肉は半分“しらかわ夜舟”で、いつまでたっても起きてこようとしないということです。さきに申しましたように、人間の意識というのは、このことになかなか気がつかない。いってみればこの意識だけが目ざめて、他はまだ眠っている、などとはけしからぬ、みないっせいに起きて、この君主に仕えねばならぬ、という一種の「増上慢」を意識というものは持っているのです。
 こうして見ますと、からだがだるいのも、背中が疲れるのも、すべてこの寝ぼけ眼の筋肉が、覚めたムチでビシビシやられるからに外ならないことがよく分かります。同様に胃がもたれるのも、眠っているところへいきなり朝めしがドヤドヤと土足で上がりこんでくるからでしょう。これが慢性になるともう胃袋はギブアップです。骨盤まで垂れ下がる。あの胃下垂がこれです。低血圧というのも結局はこれと同じでしょう。血管がいつもダラッとしているのです。こんなしまりのない血管を通してからだ中に血液を送ろうとすれば、心臓のポンプは必死でがんばらなくてはならないのです。遅刻しないように駅の階段をフラフラになってかけ上る。その時、異常な動悸がいつまでも残る。この危険な状態が毎朝見られるのです。
 このようなからだの無意識の酷使が半月も続いてごらんなさい。もうからだ中のあちこちに疲れがたまるのも当然でしょう。さきにあげた症状のすべてが、このようなかくれた疲労の、目に見えない積み重ねによるものであることは容易に想像のつくことです。あの寝ちがえ、ギックリ腰などというものも、こうして見ると、すべてこの慢性疲労に対する自衛のための、肉体のストライキとして見ることも可能となってくるのではないでしょうか。
 
 
かくされた潮汐リズム − 夜行性について
 
 では、いったいどうして、このような慢性の寝ぼけ現象が起きるのか?世間ではこんな時どうかすると“たるんでいる”のではないかという。そしてやがては性格形成の問題まで持ち出すわけですが、ここではこうした心理学のことはひとまずおいて、まず生理学の門から入ってみようと思います。結論から申しますと、こうした人たちのからだの奥には、多少にかかわらずそのようなひとつの体質があるのではないか、ということです。私どもはこの体質を「夜行体質」そして「冬眠体質」と呼んでいます。
 まず「夜行体質」の方ですが、動物にも植物にもそれぞれ固有の日リズムのあるのが分かります。例えば草食獣が昼行性で、その寝こみを襲う肉食獣が夜行性、といった具合にけものの世界ひとつとっても、そこでは一種の時間的な棲み分けが行われている。そして、これがもうかれらにとっては遺伝体質になっているのでしょう。
 とすれば、人類の形質遺伝にも、こういった夜行性の日リズムが見られるのではないか、という仮説が立てられたとしても少しも不思議ではない。私ども職場にいますと、この夜行性のしみついた、なにかおそろしく頑固な体質にしばしばお目にかかるのですが、この問題についてはまだ学問的に解釈はなされていません。それに、これを証明することは社会的にもきわめて難しい問題ではないかと思います。
 これに対し、睡眠相遅延症候群については、最近アメリカでさかんに取り上げられ、思いきった治療法が行われています。これは、寝る時間を逆にだんだん遅らせていって、一度昼夜を逆転させ、再びもとに戻すという方法です。早寝早起きの励行とは正反対で、まさにコロンブスの卵のようなものです。それは、こうしたからだの中には24時間よりもっと長い、24時間プラスαという、かなり根強いリズムが巣くっていて、このリズムの強い人間は放っておくと、たちまち「夜行性」になってしまう。だからかれらは毎朝毎晩目ざまし時計の針をせっせと進めてやらねばならぬ。そこで一度このわずらわしさから解放してやって、そのリズムのままに寝たり起きたりさせてやろうという、まことに理にかなったそれは治療法なのです。
 このようにみると、同じ「夜行性」といっても、24時間リズムのそれと、この24時間プラスαのそれ、すなわち位相のズレによって、つねに夜行性になろうとするものの2種類が考えられますが、人類のそれは後者の方の色彩が強いようです。これは今後に残された重大な課題です。
 私の個人的な見解ですが、この24時間プラスαというのは、実は古生代の潮汐リズムに深い関わりがあるのではないかと思っているのです。日リズムが太陽を基準とした地球の自転によって生じるのに対し、この潮汐リズムは月を基準とした自転で生まれる。その周期は24.8時間、つまり24時間の日リズムから毎日約50分ずつのズレがそこでは起きているのです。
 もちろんこうした見解は、いわゆる自然科学の医学、生物学の領域では行われていませんが、私はどんな人にも新しい「太陽リズム」が古い「太陰リズム」の上に覆い被さり、しかもその場合両者の勢力の違いによって、そこにおのずから“日型”“月型”というふたつの型が出てくるのではないか・・・・・、例えばひとつの話ですが、北方型の高地民族が前者だとすれば、南方型の海洋民族が後者ではないか・・・・・、といった具合に考えているわけです。
 こうしてみると、太古の月型の露出した人間は、潮の干満と同じペースで寝起きする傾向になる。だから自由に生活させると当然2週間の周期で「昼行性」と「夜行性」が交代するわけです。同じ夜行性の人間でも、なにか周期的に朝起きるのが楽な時とつらい時が交代するのはこの現われでしょうか。もちろんこの社会で生活する以上、さまざまの要因が重なるので、はっきりしない。ただなんとなく、よくなったり悪くなったりしながらこの未覚醒状態がダラダラ続き、やがてそのシワ寄せが、しだいにからだのあちこちに蓄積されていく経過がそこでは見られるだけです。これが初めに述べた一連の症状であることは申すまでもありません。
 
 
人類も“冬眠”する − 宇宙リズムと体内リズム
 
 さて、ここで注目しなければならないことがある。それはそうしたシワ寄せの特に強く出てくる季節が人ごとになんとなく決まっている、ということです。夏に弱いとか冬がダメとか春秋の変わり目がよくないなどいろいろですが、私どもはこれを一種の軽い冬眠現象と考えています。そしてその傾向を持つ体質をさきほど述べたように「冬眠体質」と呼んでいます。もちろん夏眠でも春眠でもいい。一般にそういう時期は眠りも浅く、目ざめも浅い。つまりリズムの波が平坦になっている。「振幅の減弱」がこれです。だからこの時期には、特に潮汐リズムの強い人たちは社会生活に不都合な、その目ざめの悪さというものが一段と目立ってくることになるわけです。
 だいたい生物というのは、1年のうちの一定期間を休眠状態で過ごすものです。もちろん温帯に住むものと、熱帯に住むものとではその形が違うでしょう。それに変温動物と恒温動物でも形は異なってくる。避寒、避暑ができるかできないかによってもまた違ってくるわけですから決して一概にはいえませんが、いずれにしろこうしたさまざまな組み合わせで、いろいろな型ができてくるのでしょう。
 人類は恒温動物です。他の動物と違って、居ながらにして自分の周囲の環境を一定に保つ術を心得ているので、不利な環境を休眠で乗りこえる必要がない。年中動き回ることができます。しかし、やはり私たちのからだの中には、かつて休眠した時代の、あの生命記憶がしっかりと刻印されていることは否定できないのです。
 いままで眠りを左右する日リズム、月リズム(=潮汐リズム)について述べてきましたが、以上のように1年という周期をとっても、人によっていろいろ眠りの形の変わることが分かりました。これが睡眠に見られる年リズムです。すなわち睡眠と覚醒の波は日リズム、月リズムだけでなく年リズムによっても影響を受けるのです。
 こうなりますと、どうも私たちのからだには、私たちの所属する「太陽系」の天体相互の運行法則が生まれながらにして宿されているのではないか・・・・と思わずにはいられなくなる。あの女性の月経周期をごらんなさい。まっ暗な腹腔の中にありながら卵巣はちゃんと月齢を数える・・・・・。これなどは、からだの中にもうはじめから月リズムが備えつけになっている・・・・・としか考えようがない一例です。いわゆる「体内時計」とはこのことをいったのでしょうが、こうして見ますと、私たちのからだというものは自分の意のままになるようにみえながら、実は天体運行の厳しい枠内に組み込まれていることがよく分かります。このことを一度あらためて思い直してみる必要がある。ただ、人間は動物と違って「自然征服」という無意識の欲望を持っているものですから、なかなかそういった気持ちにはなれない。はじめに申しましたように、意識が覚めていればからだも覚めていると錯覚するわけですが、この問題についてはあらためて取り上げることにします。
 
 
リズムとタクト − 不調の対策
 
 不定愁訴という、なんともとらえどころのない様々な症状を探っていくうちに、私たちはからだの中にいろいろなリズムが、いってみれば宇宙的なスケールで組み込まれていることを知るようになりました。しかし、ここで例えば夜型だの月型だの、あるいは夏型、冬型といった、めいめい勝手なリズムを社会生活のスケジュールの中に持ち込もうとすれば、いったいどういうことになるでしょう。それは無理な話というものです。厳密にいえば人によってリズムは異なるのですから、そんなことをすれば収拾がつかなくなる。
 だからこそ昔から、めいめいのからだのリズムをここでいう「日型」に統一する、いいかえれば「太陽リズム」を鍛えるように親たちは懸命に子どもたちをしつけてきたのです。この社会で生活する以上、月型は少しでも日型に切りかえ、休眠の期間はなんとかしてこれをやり過ごすように、人びとは無意識のうちに努力を重ねてきたというわけです。ただその時に、やみくもに“しつけ”を行って大変な無理を子どもたちのからだと心に強いてきたことも、もちろん忘れてはならない。ここ数年いろいろと取上げられてきた小学生の“朝食拒否”から“登校拒否”までの問題は、この観点からあらためて見直す必要があろうかと思います。
 人間の特長はリズム(調子)に対してタクト(拍子)をふるう能力を持っていることだといわれる。拍子を付けたり、拍子を抜いたり、いわゆる拍子を加減することによって、リズムの波形を変えてゆく。ここでいえば位相のズレを調節したり振幅の衰えを回復させたりするものです。いまいった“しつけ”が、このタクトであることはいうまでもありませんが、問題はこのタクトのふるいかたです。これを誤るととんでもないことになる。最近にわかにクローズ・アップされてきた中学生の危険な振舞いも、こうしたことと無関係であるとだれがいえましょうか・・・・。
 ひとりひとりのからだのリズムは色とりどりで、しかも刻一刻と変化していきます。私どもはこの「生きた」波形をまず冷静に、道徳感情をぬきに観察し、その上で、はじめて理にかなった拍子の加減を行わなければならない。人間関係のどんな“気くばり”も、こうしたからだの生理を忘れると、しょせんそれは空まわりに終るというものでしょう。
 最後に一言。あのシンフォニーの頂点に加えられたシンバルの一撃は、その打ちおろし点の微妙な差によって演奏を生かしも殺しもする。人体デッサンのツボに付せられるホンのわずかのアクセントについてもそれはいえることです。すべて生きていることの証しです。いわゆる「愛の鞭」とはこのことをいったものではないでしょうか・・・・。    
おわり。
 
 
[追記]
 この文章は、2000年10月30日に丸亀市在住の大川純司氏からいただいた印刷物を元に小阪(「三木成夫の会」事務局長)が打ち直したものです。
 大川氏は、三木成夫と城乾尋常高等小学校および旧制丸亀中学校で同級。元多度津水産高校校長。昭和59年あるいは60年に全国校長会出席のため氏が上京したおり、かつての級友である三木、大川、早田(元坂出高校校長)、広田(元立教大学教授)の4氏が食事を共にした。その際に三木成夫から数部渡されたものであるらしい。
 確認したところ、その内容はすでに出版されている数編の文章*に散りばめられていますが、それらの原型となったのではないかと推察されます(前書きで三木も書いているように、本来は東京芸大における保健理論の講義の際、プリントして配布されたもの)。
 当然のことながら送りがな、仮名遣い等はすべて原文を尊重しました。なお、著作権は三木桃子夫人に属するものと理解しています。また、ホームページ掲載に際しては、夫人の許可を得ました。この場を借りてお礼申し上げます。
 
 * 『海・呼吸・古代形象:生命記憶と回想』(うぶすな書院)の中の
  『人間生命の誕生』(築地書館)の中の