挨拶にかえて

 
 
わたしにとっての三木成夫さん

 
      ― 〈こと〉のイロハの大切さ

 
 
           三木成夫の会 代表 八木洋
 
 
  2006.06.17 第6回三木成夫の会 丸亀城大手門前のひまわりセンターにて



 わたしは、三木さんを個人的に直接知りません。ですから、お書きになった文章を通してだけのおつきあいということになります。現在わたしは、三木さんの生まれ故郷、丸亀のお隣、善通寺でたまたま生活しています。そのご縁でわたしの周りにいる、かねがね三木さんのおもしろさ、大切さを共有してきた何人かが言い出しっぺになって、この度「三木成夫の会」を立ち上げたという次第です。
 まずはじめに、会として当面やってみたいと考えていることを述べてみます。三木さんは解剖学者、発生学者だったわけですが、もっと一般的に彼は〈表現者〉だったのだとわたしは考えています。それでまず(1)三木さんがやった仕事を全体として、そのやり方を含めてきちんと理解すること。つぎに(2)三木さんがその仕事を通して言いたかったこと、それを思想といえば、三木さんの思想をきちんと読み取ること。さらに(3)その三木さんの思想がわたしたちにとってもつ時代状況的意味を批判的に、しかも創造的に大胆に読み出すこと。その際(4)読み手としてのわたしたち自身の〈こと〉の感じ方、「みかた・みえかた」そのものが、同様に、批判的・創造的に変えられること。また(5)その快感を味わうこと。そこからひょっとして、(6)新しい実践への自由と勇気がいつの間にか身につくこと・・・。
 「おい、おい、それは欲張りっていうものだよ」、そんなひやかしの声が聞こえてきそうなのですが、要はそのうちの一つでもできれば上出来だと思っています。ついでに前口上としてもう一言だけいわせてください。この会は言うまでもなく関心さえあれば誰でも参加できますので、三木さんが専門にされていた領域のプロの集まりを目指しているわけでは決してありません。その意味でこの会は、どこまでも〈生活者〉が集まる開かれた気軽な集まりであってほしいと願っています。こう言うとまた、「そんな素人ばかりの有象無象が集まって何するの、何できるの」、という声が聞こえてきそうですが、この会にわたしがもっとも大きな期待を寄せていることはなにかといえば、この会に集まる一人ひとりが抱える問題に自らが自前の答えを発見するような仕方で、この問に答えが出せるようになることではないかと思っています。
  
 さて、わたしたちは「初心」という言葉を知っています。「初心を忘れないように」とか「初心に還りなさい」とか言います。わたしたちはただ言うだけではなく、それがとても大切だということも知っているつもりでいます。しかし、「これこそ言うは易しいが、行うとなると至難のわざだよ」、とはあまり耳にしないように思ます。なぜでしょうか。「初心に還りなさい」、「初心を忘れないようにしなさい」という忠告は、実際に「初心」を忘れないことの難しさ、放っておけば簡単に忘れてしまうし、一度忘れると思い出すのがメチャクチャ難しいということを知り尽くしての忠告なのでしょうか。そうかもしれません。
 ところで、どんなときにわたしたちは「初心を忘れないように」、「初心を思い出して初心に帰りなさい」などという言葉をくちにするかを考えてみますと、それはたいてい〈生活者〉としての〈こと〉の何かが問題化して行き詰まり、もうこれ以上一歩もすすめなくなって本当に窮したときですよね。例えばよく聞く話は、〈表現〉行為としての芸の道にはどんな芸でも順調に延びていたはずの自分の芸の成長が突然止まって、自分の才能はもうここまでかと思い知らされ、絶望的になる。芸にはそのような危機的状況があるようです。すでに名声を手にしたピアニストが突然演奏活動を止めてしまう。〈表現者〉としての限界を感じる危機です。そんなとき、「初心を思い出して、そこに還りなさい。そしてそこからもう一度やり直しなさい」という言葉が、まるで忘れていた大切な人の声が遠くから呼びかけてくるかのように〈表現者〉に聞こえてくるのではないでしょうか。その後の沈黙はそのための苦闘を意味するでしょう。やがて何年かたって再び、蘇ったように舞台に姿を現わします。人びとはその演奏のみごとな変貌に拍手を惜しむことはありません。わたしは今こう言いながら、マウリツィオ ポリーニー、やグレン グールドのことを考えています。もっともグールドは二度と「舞台」には登らなかったのですが。 
 さて、ここでは「初心」という言葉を「〈こと〉のイロハ」と言い換えてみることにします。すると「初心を忘れないように」は「〈こと〉のイロハを忘れないように」ということになりますし、「初心に還りなさい」は「〈こと〉のイロハに還りなさい」となります。ただここで難しいと思うのは、「〈こと〉のイロハ」といっても、「それっていったい何なの」ということになりますし、さらにまた「それを思い出して、そこに還りなさい」と言われても、簡単には思い出せるものではないですから、当然「どうやって思い出したらいいの」ということになりますでしょう。それも解らなければ、「今さらもう還れませんよ。だいたいそこに還るってどういうことなのよ。かりに還れたとして今さらそこに還ってどうなるのよ」。それこそ問題はどんどん難しくややこしいことになるだけで、だからたいがい、「もうヤーメタ」ということになってしまうのでしょう。
 芸の道で行き詰った芸人にとっての危機的状況について考えてみます。事態は恐らくこういうことではないでしょうか。何の芸でもたいていは師匠、つまり先生がいて、その人から弟子は芸の手ほどきを受けて芸を身につけていくわけです。その場合、師はまずその芸の手本を弟子に示します。それが師としての役目です。手本とか模範は、芸がそれに則って成り立ついわば範型です。師の範型は師自身も学んで身につけたものです。弟子ははじめのうちは師の範型をひたすら真似て師の芸を自分のもの、つまり自分の芸〈ごと〉にしていくことができます。
 この場合、師の範型が優れていればいるほど、またその範型を身につける十分な才能が弟子にあればあるほど、〈こと〉としての芸はその弟子において花咲くでしょう。師の芸が、範型を通してまた範型として弟子に伝わり、弟子はその範型を介して自分の〈こと〉になった芸を開花させるのです。そうなれば師から伝授された芸の範型は、弟子が自分をうまく表現するために弟子のなかで十分うまく働いてくれているということです。
 しかしそう言っても、師と弟子の関係は個性のある人格と人格のあいだの〈こと〉柄ですので、範型がいわば判をおすように師から弟子に伝わるというものではないのです。師においても範型そのもはその個性によって変容を来しているものでしょうし、だからこそその限りで師の範型という意味がどこまでもあります。同様に師の範型が弟子に伝わるとき、その範型は弟子の特性によって個性化するのは避けられないでしょう。いずれにしてもこのような場合の多少の個性化は芸の危機的行き詰まりにはいたらないし、むしろ一定の許される範囲での個性化は決定的な芸〈ごと〉の危機にいたらないためにも必要なことなのかも知れません。
 さて、ここでもしかりに「〈こと〉芸のイロハ」はなにかと問えば、弟子にとっては芸を習いはじめた師であり、その範型であるはずですし、「〈こと〉芸のイロハを思い出してそれに還りなさい」と言えば、それは「師とその範型を思いだして、それに還りなさい」ということになるでしょう。芸〈ごと〉の世界での伝統主義の根がここにあります。このような範型の単なる反復は、芸ごとに限らず〈生活者〉のあらゆる面に見られるとても基本的な現象です。   
 ところが、もし次のような事態になったらどうでしょうか。師の範型を完璧に身につけた弟子が、師の範型ではどうして十分うまく自分を表現できない、そういう限界に気づいたとします。師の範型を忘れたわけではないのです。それは完璧に自分のものにしているのです。ですから師の範型に戻ればどうにかなるという事態ではまったくないのです。芸〈ごと〉の危機的行き詰まりです。
 この弟子にとっての選択の道は限られています。師の芸の継承者として結局満足するか。それとも自らの芸の新たな境地を求めて芸の道を突き進むか。あるいは芸の道を断念するか。考えられるのは大きくはこの三つでしょう。〈こと〉のイロハとは何か、というわたしの関心にとって興味あるのはむろん二番目の選択です。
 弟子は師の範型にもう頼るわけにはいかないのですから、その意味でそれを手放さなくてはならないのです。別の言い方をすれば、師の範型は、弟子のなかで崩れ落ちてしまうわけです。弟子にはその廃虚のほかもう何もない。何もない廃虚から〈こと〉を始める以外ないのです。
 そもそも芸〈ごと〉のイロハとは何か。いったいそんなものがあるのか。あったとしてそれを思い出し、そこに還るとはどういうことなのか。どうやって思い出し、どうやってそこに還るのか。どの問いにも答えはありません。ここでの弟子はもう師の弟子ではないのです。ひたすら芸〈ごと〉のイロハを探し求める芸そのものの弟子に変貌した弟子の姿がここにあるように思えます。
 何もないといっても手がかりがまったくないわけではありません。芸を捨てない限り、今まで師から学んで身につけた範型、しかもその廃虚こそが貴重な手がかりになるはずです。範型の廃虚はその奥にある、そこから〈かたち〉という〈かたち〉が生まれては消え、消えては生まれる生成の根源にまで遡るための手がかりです。〈いのち〉の〈かたち〉が生成する根源の〈場〉、そここそが、芸〈ごと〉のイロハの根源ではないか。かたちを生み出す働きが、ここでは〈かたち〉を通して、また〈かたち〉において密かに自らを開示する。この生成の根源の〈現場〉にあらゆる〈こと〉のイロハが〈原相〉として現われるのだと言えるでしょう。弟子は、この〈原相〉を自らに移し(=映し)取ることによって、その反照として自らの新たな芸の範型を創り出すことができるのだと考えられます。ですからその新たな範型そのものは自らの表現そのものになっていると言えるでしょう。わたしの念頭にあるのは、矢内原伊作をモデルに長い苦闘を続けたあのジャコメッティーのことや中国画の模写に飽き足らず自分の庭に鶏を遊ばせ、ひたすらそれを描き続けた鬼才画家伊東若沖のことです。
 (あとで三木さんの〈原形〉について触れますが、わたしは三木さんのそれと区別するために〈原相〉という紛らわしい用語をやむを得ず使っています。この違いについてきちんと述べなければいけませんが、それは別の機会にゆずることにします。ここでは「〈いのち〉の〈かたち〉が生成する〈現場〉の、生成の働き《=無相》と一つである〈相〉」のことです。〈いのち〉の営みが〈かたち〉として成り立つ[構造化する]場合、その〈いのち〉の働きの内容をどう言い表わしたらいいのか。わたしはそれを「閉じるために開く、開くために閉じる」働きだといっています。)
 
 さて、そのとき師の範型はどうなるのでしょうか。それは弟子の新たに創り出した範型のなかに姿を変えて蘇るのです。ここで三木さんをあえて引用すれば、海中での鰓と鰓呼吸の範型は陸上での肺と肺呼吸の範型において新しく姿を変えて蘇ったと言えるでしょう。
 ここでもう一度、師と弟子の間を振り返ってそこにある問題点を取り出してみたいと思います。〈原相〉は〈いのち〉のかたちが生成する根源的な〈現場〉に、どこまでもその働き(無相)と一つになって現われる「無相」の〈かたち〉であって、その限りでそれに触れるには触れるもの自身がその現場に直接立ち会わなくてはそれに触れることはできません。範型は〈現場〉に立って〈原相〉を移し取ったものですから、〈原相〉から切り離されてしまえば範型そのものに〈いのち〉はありません。範型の〈いのち〉は〈原相〉の〈いのち〉の反照なのでして、その限りで範型は〈原相〉とそれが生成する〈現場〉の〈表現〉でありうるのです。
 弟子が師からまず学ぶのは範型です。師から〈原相〉を直接学ぶことはできないのです。ですから〈原相〉から切り離された仕方で弟子は範型を学ばなければならないという、師と弟子との間のにある避け難い構造上の問題があります。つまり弟子は範型の出所である〈原相〉を直接知らないまま、師の範型をまず芸〈ごと〉として身につけるわけです。従って師の範型は弟子自らが〈現場〉に降り立って、そこで自らが触れた〈原相〉を自らが移し取った範型でははじめからありません。そこでは範型と自己表現とが、はじめから一つではないという本質的な問題がつきまとっいます。ですからその二つがいつバラバラになってもおかしくないのです。バラバラになって破綻したときが、師の範型に則って成長した弟子の芸〈ごと〉の危機的行き詰まりを意味します。そうするとこの弟子にとっての芸〈ごと〉のイロハは、〈いのち〉の〈かたち〉の生成する〈現場〉であり、生成の働きと一つである〈原相〉であるということになります。芸〈ごと〉のイロハに還るとはそこに還ることです。
 以上は第二の選択をした弟子の場合ですが、この選択をする弟子はむしろ稀なのかも知れまん。最も一般的なのは第一の選択でしょう。上述した通りです。そうするとこの第一の選択をする弟子の場合、師の範型を身につけることが芸のいわばすべてですので、芸〈ごと〉の危機的行き詰まりは経験しないですみます。つまり師の範型と自己表現とのずれの問題、範型の崩壊と〈いのち〉の〈原相〉がそこで開示される〈現場〉への下降、〈原相〉の反照としての自らの範型の創出、そういった困難な問題を抱え込まなくてすむことになります。言い換えますと、芸〈ごと〉の範型がどこから出てくるのかが解らないまま、つまり、芸〈ごと〉のイロハが解らないままで師の範型の上で芸をするということになります。
 師と弟子との間での芸の伝達という〈こと〉を例にるる述べましたのは、そもそも〈生活者〉にかかわる〈こと〉のイロハとは何かという一事を理解するためでした。そこでわたしがはっきりさせたかったことはこういうことです。わたしたち人間の日常の生活は、最も一般的な弟子が師の範型をなぞってそれを自分の身につけ、それをもって自分の芸〈ごと〉としてそれを生きるのと同じように、わたしたち人間の日常の生活にも師に当たる人がいて、またその師が与えてくれる範型があって、それを身につけてようやく日常生活のひとつひとつの〈こと〉ができるようになるのです。日常生活の師とは、日常生活がそこでまさにそのように成り立っている、自分に先立ってすでにあると感じられている社会そのものですが、具体的にはその社会を代表する親や教師です。その人たちは何かといえば、自分たちがそれに従って生きている社会の範型をまだそれが身についてない弟子(例えば子供や生徒)に伝授する存在だといえます。
 第一の選択をした弟子の根本的な問題は、師の範型がどこから出てきているのかが理解されないまま、それが弟子の〈いのち〉の自己表現を直接規定してしまうということでした。ですから弟子は師の範型から一旦解き放たれて、〈いのち〉のかたちが生成する〈現場〉まで降りて、〈いのち〉の〈かたち〉の〈原相〉に直に触れなくてはならないのでした。そこから自らの範型を創り出すことが自らの〈いのち〉の自己表現になるのです。
 わたくしごとになって恐縮ですが、この地に移り住んで早いもので30年、一介の田舎教師としてささやかな形で大学教育という人の〈いのち〉の営みに携わってきました。その間の教育現場の激変は、目を見張るものがあってきっと外にいる人には想像のつかないことかも知れません。こういう言い方には何か老境にはいった者のつぶやきの響きがしてとても嫌ですが、それを承知であえて言っているつもりです。それは敗戦後50年以上たった日本における、〈こと〉教育の営みが全体として上述した意味で、危機的な行き詰まりの状況にあるということではないでしょか。言い換えれば、戦後教育の範型(そんなものあったのでしょうか?あったとしても幾重にも複雑骨折した脆い範型)が、〈いのち〉の自己表現として機能しなくなってしまったということです。因にこんなふうに呟いているわたしは戦後教育、はじめての空腹を抱えたボロボロの一年生でした。はじめて使った教科書は、随所が墨で黒く塗られたまことに惨めなものでした。今となってみれば、その墨で黒く塗られた箇所こそ教科書(教育の範型)の廃虚だったのです。それはまさにそれまでの日本における近代教育の廃虚を意味していました。
 戦後教育の〈こと〉はじめは、廃虚の真っただなかからのスタートでした。廃虚以外何もない。だからこそそこには〈すべての可能性〉が隠されてあって、その一つ一つが形になるその時を待っている、そのような自由で、その分生き生きとした、〈こと〉教育の現場があったように思います。まさにゼロからの出発でした。それを戦後教育の〈原像〉とでも呼ぶとしましょう。
 焦土と化した街。その廃虚。それは何を意味していたのでしょうか。それは今もなお何かを意味し続けているのでしょうか。教育という観点から言えば、明らかにそれまでの教育の範型がもたらした帰結だといえるでしょう。いわば戦前の教育の範型があのときあそこで砕け散ったのです。失った範型にかわる新しい範型を何に基づいて、どのように創るかが戦後教育の最も根本的な課題だったはずです。〈こと〉教育の本来の意味でのイロハが問われていたのです。
 戦後の教育は、その課題を遂行するためにこの廃虚の〈原像〉を手放すことなく、むしろそれを手がかりに教育の〈こと〉のイロハをどこまでも深く掘りさげる責任があったのです。それは戦争というはかり知れない犠牲に対して、戦後の教育がなすべき唯一の償いだったはずです。
 現在の教育の危機的行き詰まり。わたしたちが先に進むためには戦後教育の〈こと〉はじめ(イロハ)を想起し、そこにたち還って、出直す以外ないのではないでしょうか。日本の近代教育の悲惨な挫折とその証言としての廃虚の〈原像〉は、わたしたちが教育のイロハをどこまでも深く掘り下げ新しい範型として形づくるために、どうしても組み込まなくてはならない重要な契機となるはずです。ですからそれを手放してはいけないのです。戦後教育の範型が無惨にも崩れかけている現在、わたしたちに課せられているもっとも重い課題は、もちろん単純に戦前の教育の範型に還ることではなく、戦後教育が起点とした廃虚の〈原像〉を今の時にこそ人類の将来に向けて求められている新たな教育の範型に織り込むことです。なぜならそこには〈すべての可能性が隠されている〉のですから。それは戦後の教育が故意にネグレクトしてきたもっとも大切なわたしたちの遺産のようにわたしには思えます。この遺産のためにわたしたちは償いきれない実に大きな犠牲を払ったのだということをひとときも忘れてはならないのです。
 三木さんは敗戦をどのように受け取っていたのでしょうか。彼は20歳で敗戦を体験しています。とても深いところで影響しているように思います。
 さて、以上述べましたことは、〈こと〉日常生活全般についても同じように言えます。わたしたちはの日常生活がそれによって成り立っている社会の既存の範型を身につけ、それに則って生活するだけでは〈こと〉足りないのです。なぜなら、わたしたちの日常生活そのものが、〈いのち〉の営みとしての〈こと〉(=表現形態)である限り、日常生活を律する範型がどこからどのようにして出てくるかが理解され、明らかにならなくてはならないからです。毎日の挨拶一つとってもそうなのです。日常生活の〈こと〉のイロハが問われるのです。なぜそうなるのでしょうか。なぜ、教えられた範型の出所までも遡らなくてはならなくなるのでしょうか。
 もともと親や教師から教えられた範型は、〈いのち〉の営みの表現形態(社会)の時代的に制約された範型として成り立ったものです。しかし〈いのち〉の営みの座が変動することによって表現形態(社会)の変革が求められ、旧式になった範型をもってしては〈いのち〉の自己表現が不可能になるからです。あたらしい〈いのち〉の座からの表現形態に即したあたらしい範型がどうしても求められてくる理由がここにあります。ふたたび三木さんを引用すれば、魚が海から陸にあがったとき、〈いのち〉の営みとしての「身体とその働き方」(=表現形態)は、大きな変化をとげました。鰓から肺に「すがたかたち」をかえたのです。このことからも解るように〈いのち〉の営みの座が海から陸に移動したとき、それまでの形態は範型として通じなくなって、それにかわって新たな形態が〈いのち〉の営みを担うものとして求められますし、またそういうものとして現われるわけです。おなじように旧くなった範型によっては自分の日常生活を〈いのち〉の表現として捉えることができなくなりますから、新しい範型による自己表現としての日常生活が当然求められてきます。そのような状況には、必ず〈いのち〉の営みの座の変動ということがあるのです。
 21世紀を目前にしてわたしたちはまさに今このような〈いのち〉の営みの座の大きな変動という大状況を生きているわけですし、またこれからもっと厳しい試練のときを生きていかなくてはならないことになるでしょう。それにしてもなぜ〈いのち〉の営みはあらゆる危険をおかしてまでも、その座を移すのでしょうか。この問いは、わたしたちが今このような状況のなかで〈いのち〉とその営みについて考えるとき、何かとても大切なヒントになるように思います。〈いのち〉の営みそのものの〈こと〉のイロハにかかわるのではないでしょうか。
 もっとも、自分の身につけた師の範型に従った自己表現でなんらぎこちなさも不満も感じずに、かえってそれを師直伝の自分の芸〈ごと〉であるとして誇りに感じてやっていける弟子がいるように、社会が与える範型に従って日常生活をおくることが自分の生きる〈こと〉の自己表現であると受け取れる人がいるのです。それはとてもラッキーで、しかもハッピーな人だと思います。そしてそういう人がむしろ最も多い普通の人なのです。ですから社会はそのような人によって一定の安定を保っています。それはちょうど危険を冒しても陸にあがった生物がいても、依然として海に留まったものもいますし、ましてや一度陸にあがってからふたたび海に帰ったものもいるというのですから、〈いのち〉の営みの表現形態の自在さとそのスケールの大きさにただただ驚くばかりです。
 人間社会の範型。それは、社会が形づくられ、維持され、将来にわったて保持される、例えば宗教的儀礼、しきたり、習慣、道徳、法等あらゆる制度のことです。つまり社会がそれを通して成り立つ範型ですが、人間社会の範型の最も基本的なもの、いわば「範型の範型」といえるようなものが人間の言葉であるということは言うまでもありません。言葉についてここで立ち入って論じることはできませんが、わたしたちは日常生活のなかで言葉を習得し、それを介してわたしたちは日常生活を生きるわけです。ところが、範型に従って、その上に生活を築くことの今まで述べてきた問題性がここにも同じようにあります。つまり範型はどこまでも〈いのち〉が生成する〈現場〉の〈原相〉の反照なのでして、その限りで範型として言葉は〈いのち〉の現場を代表し、表現するといえます。しかし言葉が〈いのち〉の〈現場〉を代表も、表現もしないとしたら、つまり単なる言葉に則った生活は、〈いのち〉の生成の現場からは乖離したあり方に堕っせざるを得ないでしょう。建て前としてだけの言葉は無力だということです。
 わたしたちの日常の社会生活は、まさにこのような意味での範型としての言葉を介した生活ですから、その生活には根本的な問題が孕まれているわけです。しかしそのことに気づく人は多くないのです。それを言い換えれば、わたしたちの「現実」の日常生活は、その根本問題を棚上げにしてそのままに放って置いてもなんとかやっていけるようにできているのです。だから持つというところがあるわけです。いちいち根本的な問題が解決しなければ〈生活〉できないというのでは所謂社会生活は成り立たないという面があります。
 きっとこういうことだと思います。まず、わたしたちは根本的な問題をかかえている。しかしそれにはなかなか気づかない。ですからそれに触れないで、そのままにしておいても十分に通用する、その意味での〈生活〉のイロハ(良識・常識)があって、それを大前提にしてその上に〈生活〉を築く、それがわたしたちの誰でもがやるやり方だということではないでしょうか。
 しかし、すでに述べましたように〈いのち〉の営みの座が大きく、しかも深く変動するようなときには、それまでの範型をもってしては自らの〈いのち〉の自らにおける表現がうまくできないという不全感のようなものが、生きていること自体につきまとってしまって、いわば人生の危機的行き詰まりの状態に陥ってしまうことになるのです。生きている〈こと〉のイロハが問われるのはこのような状況においてだと言えます。わたしたちは今まさにそのような状況を手探りで生きているのではないでしょうか。わたしたちの今の生活の息苦しさの根本は、自分には〈生きる〉〈こと〉のイロハが解らなくなっていて、それこそが解決すべき課題のイロハなのだが、実際にはそれは手付かずのままでそれが心に重くのしかかってくる、その息苦しさではないでしょうか。
 
 さて、わたしにとって三木さんの書かれたものがとても大切に思えるのは、何よりも〈生きる〉〈こと〉のイロハを〈からだ〉の〈こと〉のイロハとして解読してくれていることです。わたしたちの〈生きる〉〈こと〉が〈からだ〉として始まり、〈からだ〉として終わることはわたしたちには最も自明なことなのですが、実はこの自明なはずの〈からだ〉の〈こと〉のイロハがかいもく解らなくなっている、それが偽らざるわたしたちの現状なのです。わたしたちの〈生きる〉は、わしたちひとりひとりの〈からだ〉を〈生きる〉という〈こと〉なのですから、この〈からだ〉のイロハが解らないというのは、最も致命的な意味で〈生きる〉〈こと〉のイロハが解らないということになります。
 三木さんはいったい何者だったのでしょうか。これはとても大切な問いのようにわたしには思えます。学者としてみれば解剖学者であり、発生学者でしょうが、三木さんをたとえ何学者と呼ぼうと三木さんにはその呼び名の枠を超えたところがあって、それがいったい何かということです。わたしはとりあえず〈表現者〉と呼びたいと思います。 
 〈からだ〉のイロハについて言えば、これをどう捉えるかに関して全く異なった考えが対立しています。一方は〈からだ〉を機械に見立てて〈からだ〉のイロハを捉えようとする大きな流れがありますし、他方〈からだ〉をどこまでも生物の本性に即したかたちで〈からだ〉のイロハを捉えようとする細い流れがあります。むろん前者は近代科学を支える自然を含む世界の見立て方ですし、それに従って〈からだ〉のイロハを探ろうとするわたしたちの「知」の営みです。つまりこれが近代の「知」を支配し続けている範型です。それに対して後者の見立て方は、むしろ近代の「知」がまさにそれを克服することで成り立った近代以前の「知」の範型を支えた世界の見立て方のベースにあったものです。
 三木さんは学者としてはもちろんのことですが、むしろ学者である以前の〈からだ〉を〈生きる〉〈生活者〉として、この二つの相対立する「知」のあり方をどう捉えるべきなのかという大問題に苦しめられたと思います。この点についてはまたあとで触れます。そのようなときゲーテやクラーゲスといった人たちが数少ない導き手でした。彼らはまさに世界を機械に見立てる近代科学の「知」を生み出したヨーロッパにおいて、その「知」の反生命的な本質を批判し、捨てられたはずの古い「知」の範型を時代に逆らって救い出そうとしたのです。
 ですから三木さんは、〈からだ〉のイロハという〈いのち〉の営みのもっとも基底部分を掘り下げていくなかで、近代科学の「知」の範型が成り立つ〈いのち〉の座をずらすことによって、「知」を全くちがった座に置き換える仕事に向かったはずです。その際、もともと前近代的な「知」の範型として自らも親しんできたアジア的、日本的「知」の範型が新しい姿をとって見えて来ていたでしょうし、またそのことが「知」の座の置換に大きな助けになったにちがいありません。三木さんには近代科学の「知」の可能性とその限界、またその範型を超え出る地平も見えていたのではないでしょうか。三木さんの仕事が古い日本の「知」の新たな発見と救出に結果的になっているとすれば、それは〈いのち〉の営みを〈からだ〉のイロハにまで遡って捉えかえすことによって、「知」の成り立つ座をそこに移すことができたからだと言えるでしょう。三木さんが好んだ其角の世界も三木さんのなかでは近代の科学の「知」を一度くぐり抜けた新しい形象として呼び出されていたはずです。 
 それなら三木さんはこの「知」の座の置換をどのような方法でやってのけたのでしょうか。つまり三木さんの方法論はどのようなものであったのかということです。とくに〈いのち〉の営みの座が大きく動き、それまでの「知」の範型が新しい範型を求めて流動するような変革期においては、新しい知の形成のための方法論はいかなるものなのかということになりますので、方法論の問題はとても大切な課題なのです。
 三木さんが駆使する言葉の特徴は、対象を言葉の論理性にのせて語るのではなくて、どこまでも対象をそれがわたしたちに現わす「すがた・かたち」の連関として語るという点にあると思われます。この思考法の特徴は、例えば今村仁司さんが、W.ベンヤミンの思考法を「形象的思考」とか、「具象による思考」あるいは「像による思考」と呼んでいますが、三木さんの思考法もベンヤミンの思考方法に通じるものだといえるでしょう。W.ベンヤミンは今世紀前半、近代ヨーロッパ文化の範型が音を立てて崩壊するのを身を持って体験するなかで、新しい歴史の範型を求めてまさに「歴史の根源」にまで遡ろうとした際立った思想家でした。
  三木さんの書かれた本で一番読まれているのはおそらく『胎児の世界』(中公新書)ではないでしょうか。この本で三木さんは何をしたのかと言えば、母親の胎内での10月10日を掛けて繰り広げられる胎児の世界のドラマをその形成過程ごとに特徴的な形象と形象間の連関を辿ることによって解読したのです。その解読を可能にしている基本文法は、ヒトの個体発生は宗族発生をくり返すというヘッケルのテーゼだったわけです。この本には「人類の生命記憶」というサブタイトルがついていますが、その意味は個体発生の形象図と宗族発生の形象図とが時間軸に沿って重ねられることによって、わたしたちに胎児の個体発生の段階形象を宗族発生の段階形象として読みかえが利くようになっていて、従って個体形象がつねに宗族形象の時間を宿し、記憶するものとしてわたしたちが捉えることを可能にしています。ここには形象を自由に幾重にも重ね動かすことによってはじめて可能になるような思考法がはっきり認められます。
 「胎児の世界のこと」(『海・呼吸・古代形象』)という僅か3ページたらずの短い文章があります。ここには三木さんの思考法が実によく出ていると思います。
 三月はじめ、学生から五月祭で胎児の世界について話してほしいとの依頼を電話で受けます。それをきっかけにこの短い文のなかには次のようなイメージたちが次々に「すがた」を現わしてきます。「戦後間もない学生時代の五月祭」、そのときと「同じ教室」、そこでの「一つ目小僧を筆頭とする胎児の奇形標本の出し物」。祭りと一つ目小僧は少年時代の「夏祭りの夜店と見世物」に、祭りは「遠い先祖の霊との交流」に、それが転じて「上野公園口にできるお盆の帰省客の長蛇の列」に、このヒトの生態は、冬、「鮭がおのれの生まれた故郷の川底まで必死に遡り、そこで排卵、放精をすませたのち、白骨とかしてその場の土に還る」イメージとその川底にできる「骨層」へと移ります。この鮭のイメージは再びヒトに還って「結婚式、お産の性の営み、死後の納骨、おのれの生家、おのれを育んだ故郷の山河」へ転移し、「有羊膜の哺乳類に属するヒトが無羊膜の魚類」と比較され、胎生の特徴として、「受精と出産そして個体の死がそれぞれ異なった場で営まれる」ことの問題に触れつつ、「先祖伝来の地に建つ先祖代々の墓の形象」が「川底に埋もれた幻の骨層」と重ねられ、それがまた「遠い先祖の許に還っていく生命的遡行本能の如実の現れ」であると言われます。そこから一気に人類の遠い先祖は、「新生代初頭の原始哺乳類から、中生代末期の両生類を経て、中期の魚類まで」、「五億年におよぶ人類進化の足どり」として遡行的に語られ、この形象の重なりと連なりから成る語りの最後で、いばわ三木さんの十八番といえる、ヒトの胎児が受胎一ヶ月後の数日間に繰り広げるもっともドラマティックな場面について語ることを彼がよもや忘れるはずはありません。しかもその最後のくだりは、はじめの五月祭での「一つ目の胎児の奇形」に連れ戻されて、奇形児の多くが「上陸ならぬ降海の見果てぬ夢」なのだとも語られます。そして三木さんはこう締めくくります。「胎児の世界は遠い先祖の物語が、つかの間の『まぼろし』に凝縮したもの」であり、「胎児のからだには歴代の先祖の形象が宿されるが、これら太古の『おもかげ』を通して、人びとはつねに原初の昔に立ち還ろうとするのであろう。胎児の世界は無理なく祭りのなかに融け込んでいく」と。そしてこのように語られる胎児の世界は、正規の医学部の授業では扱わない、「民話」として語りつがれるようなものだと三木さんはこの短い文を結んでいます。ここにはすでに述べた三木さんの近代の学問範型に対する批判的な姿勢をはっきりと見ることができます。
 いずれにしても三木さんの『胎児の世界』という本は、近代の解剖学と発生学を踏まえて三木さんの「形象的思惟」を駆使してはじめて可能になった実に貴重な作品であることにかわりありません。わたしたちの〈からだ〉の〈こと〉としてのイロハにわたしたちを連れ戻してくれる最良の案内書という意味でとても貴重なものだと思います。  
 ところで、三木さんはここでも「おもかげ」という言葉を用いています。この言葉は三木さんの思想をつかむためのもっとも大切なキーワードのひとつでしょう。その他、「すがた・かたち」と言われたり、「形象」、さらにゲーテとの関連で「原形」と呼ばれたりしますが、いずれも三木さんの思考がそれに担われて働く、従って三木さんの形象的思考の〈からだ〉のようなものだと考えたらいいと思います。
 なぜ、三木さんにとってそれほど「すがた・かたち」、「おもかげ」、「形象」、「原形」といった言葉が決定的に重要であったのでしょうか。それは「かたち」こそがそのうちに〈いのち〉の営みを宿し、従ってそれを〈表現〉するもっとも具体的な〈現実〉であり、その限りで「すがた・かたち」はつねにわたしたちにたいして〈語りかけ〉てくるものとして捉えられているからだと思います。〈いのち〉の営みとその働きの内容、「すがた・かたち」と「表現」、さらには〈語りかけ〉といったことについてはもっと立ち入った論及が必要ですし、また可能でしょう。〈いのち〉の〈こと〉のイロハに立ち戻るためにはどうしても避けて通れない課題だということです。
 
 そこで三木さんにとって「すがた・かたち」、「おもかげ」、「原形」といった概念が決定的に重要な位置を占めるようになるいきさつを辿ることによって、三木さんの思想のよって立つ視座のようなものを確認しておきたいと思います。これを辿ることは三木さんにおいて範型の問題はどうなっているのかということの確認になるはずです。結論を前もって言っておきますが、彼においても範型の転換ということが、しかもとても大きな転換が、単に解剖学という学問に関することとしてだけではなく、もっと広く深く〈いきる〉〈こと〉の根底にかかわる出来事として重大な問題でした。その経緯を少し丁寧に辿ってみることにします。
 そのためには三木さんがゲーテをどう捉えていたかということが大切だと思います。そのゲーテとのかかわりについて書いた「ゲーテと私の解剖学」と「ゲーテの形態学と今日の解剖学」(『人間生命の誕生』)がよい手がかりになります。
 彼は「ゲーテとわたしの解剖学」の冒頭で、自分はゲーテのファンでもないし、ドイツという国が特に好きだというわけでもないと前置きしてとても意味深長なことをこう言っています。「ここ十年、私の解剖学はおろか、生活の根底にまで、ある決定的とも思われる影響を与えた人間形成に関する出来事のなかに、たまたま晩年のゲーテのそれが含まれていた、というそれまでのことなのである」と。三木さんは、彼のこの言辞だけからでも解るように「人間形成に関する出来事」として、ある時期にとても大きな課題を、それも彼の専門である解剖学はもちろん、〈いきる〉〈こと〉自体にとっても根底的な課題を抱えたということです。「ここ十年」といわれているこの時期は、この文章が公になったのが1965年に入ってからですので、1955年頃まで遡れることになります。三木さんが30から40歳にかけてのことだったと推定できます。
 三木さんは、この時期に自分の身に起こったのっぴきならぬ「人間形成に関する出来事」が、それと向かい合って格闘するなかでふと気づいてみると、実は80歳にもなる巨匠ゲーテの内面に起きた出来事をもそのうちに含んでいるようなものだったとここで言っているのです。そこで三木さんは、ゲーテに起こった出来事を語ることで自分の出来事を語るという語り方をここではしています。ですから三木さんはゲーテの出来事を丹念に辿っています。
 ところが、この巨匠ゲーテの最晩年の内面に起こった出来事は、三木さんにとっては自身の学問はおろか、自分が〈いきる〉〈こと〉の根底(イロハ)に関わるような重大な出来事に含まれているような質のものであるにもかかわらず、一般には「殆ど知られていない、というよりもむしろ、この問題にふれるのが、避けられてきたような印象すら受ける」出来事として三木さんには映っていました。「人間形成に関する出来事」と三木さんが言っていることをわたしのここでの言い方でいえば「範型の危機的行き詰まり」ということです。そんな出来事に三木さん自身が遭遇し、それと「面壁十年」自分のなかで「面と向かい」あったと言っています。
 ドイツ文学の専門の学者さえ問題にしないゲーテ最晩年の内面の出来事を三木さんはどのようにして見つけだしたのか、とても興味のあるところですが、三木さんは「私事にわたること」として割愛しています。
 このように三木さんは、自分の身に起きたのっぴきならぬ出来事がなんであるのかをゲーテの内面に起きた出来事に重ね合わせることによって理解し説明していますが、そのゲーテのなかで起きた内面の出来事とはいったいなんだったのでしょうか。それを解明する手がかりとして三木さんが注目するのは、ゲーテが自らの全生涯をかけた労作、『ファウスト』全編が完成したときゲーテ自らの手によってそれが封印され、生前の公開が断念されたという事件です。ゲーテがこの作品の執筆に本格的に着手したのが1797年(『初稿ファウスト』はさらに遡って1773年―1775年)、第一部は1806年に完成しますが、第二部が脱稿し全編が完成するのが1831年7月でした。ほぼ60年をかけた文字通りの畢生の大作ですが、その公開を周りの懇請にもかかわらずゲーテは断って、自らの全生涯をかけた労作を自らの手で封印してしまうという普通では考えられないことが起こったのです。ゲーテはなぜそんな挙に出たのでしょうか。
 三木さんは、この謎めいた事件の背後にある真実にこそ、最晩年のゲーテの内面に起こった出来事のなんであるかを解く鍵が隠されているはずだし、それはまた自分の身に起きた出来事のなんであるかを解く鍵でもあると考えるのです。三木さんは丁寧にゲーテが死ぬ前に友人フンボルトに宛てた書簡に当たっています。そこでゲーテは、完成した『ファウスト』を「極めて厳粛な洒落(冗談)」、「風変わりな作品」だと自ら評価します。
 そのような作品がいま公にされればどうゆうことになるか。下手に褒められて、「恰も破片となって横たわっている難破船のごとく、ただちに時流の砂丘に埋められてしまうでありましょう」と彼は言います。そして、いま自分がなすべきことは「自らの分際として残ったものを高めること」または「自らの個性とでもいうべきものを繰り返し繰り返し清めるということ」、これ以外にないと友人フンボルトに語っています。そして最後の書簡で、完成した『ファウスト』全編の「新旧先後の識別を、将来の心ある読者の明察に期待しようではないか」と書いて手紙を終えているのです。
 三木さんが特に注目するのは、『ファウスト』を書きすすめるゲーテの筆が半年も滞るのですが、その後突如一夜を境に、一気呵成に完成するという『ファウスト』に秘めらた出来事についてのゲーテ自身の言及です。『ファウスト』の完結には「ある秘奥な心理学的転換」という決定的な契機があって、それによって「ある種の創作にまで高められたことを信じる」とゲーテは告白しているのです。つまり『ファウスト』が完成するについては、ゲーテ自身のなかで「内面的転換の出来事」があったということなのです。
 三木さんはそのことを確認して次のように言います。「ここ十年間、私を捉えて離さなかった出来事というのは、まさにこのこと」だったと。巨匠ゲーテに起こったこの転換の出来事は、ゲーテにとって重大な意味があったように、三木さんにとっても同じように重大な事柄でしたから、「十年一日」のたとえのように、「このゲーテのぎりぎりの体験に、様々な角度からひたすら近接を試みた」とも言ってます。その結果、いつの間にか、この「転換の出来事」が、ゲーテのような「一人の人間の特殊な経験として看過すべき性質のものではない、それどころか、これこそ人間進化の究極の出来事ではないかとすら思われて来だしたからなのである」とも言っています。
 ここで三木さんが「人間進化の究極の出来事」と言うとき、それは「秘奥な内的転換」が、「人間進化の可能性として究極の出来事(体験)」に成りえるのではないかと三木さんは言っているのです。三木さんは続けてこうも言っています。これは三木さんを理解するためには決定的に重要になると思われる言辞ではないかとわたしは捉えています。「すなわち、このような体験の保証がない限り、徒に、ありのままにものを見るという事自体、実は不可能な要請ではないかと思われてきだしたからなのです」と。つまり、わたしたちにこの体験が不可能だというならば、わたしたちにはありのままにものを見る事自体が不可能で、そうだとするとわたしたちにはそうでないものをそうであるかのようにしか見えない、言い換えれば、あるがままの〈現実〉(〈こと〉のイロハ)に立ち戻りそこに触れることができないということになる、そう三木さんは言っているのだと思います。しかし、三木さんの十年におよぶ「人間形成に関する出来事」の苦闘の結果、三木さんは「人間進化の究極の出来事」として人間には「秘奥な内的転換」が可能なのだという結論に達していたものと考えられます。
 なお、この結論に関して三木さんはとても周到にこう付け加えています。「念の為に言っておくが、このような理が通じてきたことと、ありのままにものごとが見えるということは、本来別の世界の出来事であるらしく、どこがどう違うのかは、今の自分には到底わかりっこない」と。ここには三木さんがわたしたちに残してくれ大切な課題があるようにわたしには思えます。
 ところで、この転換の後三木さんにどんな変化がおこったのでしょうか。それについて三木さんは、自分が親しんでいる生物現象が「これまでとはおよそ違った生き生きとした姿で目に映り始めた」と言っています。また「生物学における諸々の解釈と説明といったものが、にわかに色褪せて来だしたのである」とも述懐しています。ここにわたしたちははっきりと三木さんにおける「範型の転換」がどのような仕方で具体的な〈こと〉として起こったかを確認できます。この点にもう少しこだわってみます。
 この転換は三木さんにいったいなにを可能にしたのでしょうか。それを一言でいえば、「みかた・みえかた」の根本的な転換であったと考えられます。慣れ親しんだ生物の現象が「これまでとはおよそ違った生き生きとした姿で目に映り始めた」と三木さんが言うときの「目の映り」という言葉にそのことがよく表わていると思います。
 「すがた・かたち」、「おもかげ」、「原形」といった言葉は三木さんの思想のいわば結晶として最も大切な概念なのですが、その言葉を支えているのが転換後の「みかた・みえかた」だといえます。それを言い表わすために三木さんは特に「観得する」という用語を当てますが、「すがた・かたち」、「おもかげ」、「原形」とはまさにこの「観得」において現れる〈こと〉の「すがた・かたち」を意味するものと考えられます。
 この「みかた・みえかた」の転換が、「知」の営みの範型に影響を与えないはずがありません。それは上に見た三木さんの述懐、つまり従来の生物学のあれやこれやの解釈や説明が「にわかに色褪せて来だした」との言葉に見られるような、「知」の根本的な「範型の転換」をもたらすことになります。その場合の転換は、近代の「知」のあり方に対する根底的な批判を含んでいます。解剖学者として、三木さんはこの「範型の転換」を踏まえて「知」の営みが取る二つの方向をこう定式化しています。一つは、人体の構造の「しくみ」を分析する方向であり、もう一つは構造の「かたち」を体得(観得)する方向です。前者が、近代の自然科学的生物学の世界であり、後者はゲーテの形態学に代表される自然哲学的生物学の世界を基盤としてなされる「知」の営みである、そう三木さんは考えています。
 この「知」の二つの営みは、三木さんによるとちょうど前者が「脳」(あたま)に、後者が「心臓」(こころ)にそれぞれ対応していて、こころがあたまを支えた姿こそわたしたち人間のあるべき姿なのだと三木さんは言っています。しかし、今日のようにあたまがこころを支配し、こころの支えを失うとき、「生物の歴史から見れば、不可避の危険をはらんでいる」と三木さんは警告しているのです。
 三木さんは、人類にいたって「あたまがこころをしのいでしまって」「こころがあたまによってふみにじられる」(「悲しい」とはまさにその表現だと三木さんは言っています)歴史を現に見るにつけ、そのような人類の未来についてけっして明るい見通しがもてなかったようです。三木さんは断定を避けてものをいうとき、よく「・・・ということになるのであろうか」という言い方をしますが、このことに関しても三木さんは、「悲しい」人類は「動物であることの最後の宿命ともいえるものであろうか・・・」と言い、それはまた「人類のおかれたぎりぎりの場、いわばその終幕の舞台」だとも言っています。
 そしてヒトについてこう言います。「一つの種の興亡の歴史もまた・・・一個体の『生−殖−死の波』にその原型が求められるまでのもので、それと同じ自然のリズム現象の一つ、たとえて言えば自然に枯れゆく一年生草本の心にもかようものがあろうか」と。そして「故人は冬野の実景としてこのことをうたっている」として、三木さんが好んでいろいろなところで引く俳人宝井其角の句が添えらています。「蟷螂の尋常に死ぬ枯野かな」
 もしそうであればなおさらのこと、三木さんがこだわった「秘奥な内的転換」としての「人間進化の究極の出来事」という一点がますます重みをますことになるのではないでしょうか。三木さんにはその一点こそが、ヒトが自らつくりだす闇が深ければ深いほどそのおなじヒトのなかに隠された一条の光として映っていたのかも知れません。
 以上見てきましたように三木さんは、自らの身に起こった「知」の営みを含む「範型の転換」を通して、〈いきる〉〈こと〉のイロハに立ち戻り、そこから自らの生きる自己表現として新しい範型をいわば創造的に発掘し、それをわたしたちに提示しているのだとわたしには思えます。三木さんが提示してくれている範型をわたしたちひとりひとりがどう受け取り、自らの生きる自己表現の範型にどう組み入れるかは、わたしたちひとりひとりの〈いきる〉〈こと〉のイロハにかかわる極めて大切な課題ではないでしょうか。
 今日わたしたちは世界規模での、否、地球大での大きな変革の動きのなかで、それぞれの問題を抱えながら〈いきる〉〈こと〉のイロハをはじめから学び直す必要を痛感してはいないでしょうか。「三木成夫の会」として、なにをどうやっていくのか先が見えているわけはありません。しかし、三木さんがわたしたちに淡々と語る〈こと〉へのわたしたちのなかで起こる反応の確かさだけがこの会を支え導いてくれるだろうと信じています。わたしたちのこころは今、水の枯れた泉のようなものかも知れません。三木さんはわたしたちにこう語りかけていてくれるようにわたしには受け取れます。「あなたの枯れたこころの泉の底をほんの少し掘ってごらんなさい。そして耳をそっと当ててごらんなさい。あなたは地底深く流れる豊かな水の変わることのない音をきっと聴き取ることができるでしょう。あとはその音を頼りに掘り続ければいいのです」
 最後に、三木さんの思想の「原形」とでも言えるような文章を引用してこの拙いわたしの挨拶の結びとしたいと思います。
 
 われわれがなにごころなく自然に向かった時、そこでわれわれの五感に入ってくるものは諸形象すなわちもろもろの「すがたかたち」であろう。路傍の石ころを目にしても、小川のせせらぎを耳にしても、秋のけはいを肌で感じても、そこにあるものは例外なくこの「すがたかたち」であり、それらはことごとく生きた表情でわれわれに語りかけてくる。これに対し、われわれがある思惑をもって自然に対した時、そこでは無生の「しかけしくみ」しか問題になってこない。例えば解剖学的に涙を考えた時、分泌の伝導路だけで頭がいっぱいになるように・・・。「すがたかたち」として観得された「形象」はことごとく生きているのに対し、「しかけしくみ」として把握された「物体」はすべて生きていない、と言えばよい。前者では時間や空間にも生命が宿るのに対し、後者では人間すら単に力学的に運動する諸原子の一結合に過ぎないものとなる。