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『ラーガーフォイアー』連載記事「松山」(最終回)

訳:冨田 弘  編集・改訂:川上 三郎

解説

 第7 号と第8 号と掲載を続けた『ラーガーフォイアー』連載記事「松山」の

冨田弘氏による翻訳の、今回は最後の第五部を掲載する。

 従来同様、氏の翻訳そのままではなく、手を入れた個所がある。

○数値表記については、一般日本人に理解しやすいように適宜変更を加えてい

る。たとえば、ドイツ語直訳の〜百万という数値表記を読みやすいよう適宜、

万ないし億単位に変更した。

○一部の漢字表記をひらがな表記に変更。

○引用符『』は書名表記に限定。ほかは「」に変更。

○ドイツ語での表記順にこだわるあまり日本語として不自然な個所があり、読

みやすいよう変更。

○それ以外に訳を数個所変えたところがある。

なお本文中の[ ]は冨田氏による補足説明である。

末尾の図表は、冨田氏製作のものをスキャンして用いている。縮小して掲載し

ているためかなり見づらくなっているが、ご容赦願いたい。

70

39

松山、日曜日、16 10 22

松 山

5

1.商工業

2.国家と市の施設

71

諸 産 業

(交通)

農 業

 住民の間での倫理的、宗教的状態を観察した後、今度はその仕事ぶりをいく

らか詳しく眺めてみることにしよう。

 一般的には日本は今日なお農業国家である。5200 万の住民の内現在は4000

万、ないしは全住民のほとんど77%が農業に従事している。もちろんこの数字

で強調しておかねばならないのは、農村居住者の大部分は並行して、絹、茶、

酒などのような工業生産にも従事していることである。

 我々が毎日観察できるように、農業は我々の故郷のと比較すれば全く違っ

ている。強度の湿度と関連する大きな雨量が並み外れて豊富な植生をもたら

し、そのため内地の農民の2/5 は2回の収穫を、この四国のような南部では一

部3回の収穫すら期待できる。この状態は非常に重要で、さもないとこの国は

生活を支えるのに必要なおよその需要もまかなえないであろうからである。こ

の現象の理由は国土の並み外れた山岳性の特質に求めることができ、全面積の

61,000 平方km 15%しか耕作できないからである。(ドイツとオーストリア

57.75%)。

 日本の専門家は、全土を傾斜15 度の所まで開墾すればさらに40,000 平方

km 11%の耕地を利用できるようにできる、と計算した。この領域を主要食

料源である米作に開拓できるかどうかの問題には、日本の年鑑の中の統計学者

はもちろん答えていない。しかしきっとこの問いは否定せざるをえないことだ

ろう、そうでなければ日本人は、年々大量の米を外国から輸入する代りに、とっ

くの昔にこの領域の耕作を開始していただろうから。

 例えば、日本は1913 年において約1 億マルクの代価で54.4 万トンの米=国内生

産(5025.5 万石= 628.5 万トン)の8.7%を輸入した。国民の総消費量はしたがっ

て百分率計算をすれば住民一人当り130kg の米となる。この数量は、対応した

計算でパン用穀物としての小麦とライ麦233kg を必要とするドイツと比較する

と著しく小さいことが判る。

 日本のいう数字が絶対的な正当性を持つといえるかどうかは、これまでの経

験から疑わなければならない。日本の統計の誤りはあまりにも歴然としている

ことがしばしばあるので、常に信頼を置くことはできない。また日本の数字か

らは、朝鮮と台湾の米の輸出(合計: 7百万石)の日本向けが輸入なのか国内生

産に算入されているのかが、はっきり出てこない。後者の場合には本来の日本

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における不足額は約19%になるだろう。

 いずれにしても将来は国民の食料問題が、特に海軍力に勝る相手との戦争の

場合により一層尖鋭化することになるだろう。なぜなら、一方ではこの国の人

口は相当大きく(約1.20%)増加しているし、他方国民の食糧として米に代わ

る代用品ができるという見通しはなさそうだからである。

 さらには可耕地全体の半分にとって米だけが考慮の対象となっているので、

凶作の場合にこの国がどんなに大きな危険に陥る可能性を持つか、また食糧問

題では同盟国イギリスと同じくすでに現在において外国依存度がどれほど高い

か、という問題が簡単に出てくる。

 米の栽培は我々のすぐ周囲でよく観察できるであろう。農民は年々同じやり

方で耕作するので、おびただしい量の肥料を与えなければならない。肥料とし

て人間の排物のほか油粕、骨灰、燐酸塩、魚粉を使う。

 この島国の漁業資源は周知のように非常に豊富なので、国民が食べ尽すこと

はない。したがって漁獲の大部分はわれわれにはとても食べられない魚油に加

工される一方、残りを乾燥して粉末にし、人造肥料に利用する。にもかかわら

ず肥料は不足のようである、というのも日本の農地の生産性はドイツよりも大

巾に下回っているのだから。例えば一ヘクタール当たりの収穫量は

ドイツ 日本

小麦 2,400 1,400

大麦 2,200 1,900

馬鈴薯 15,900 10,000 である(単位はkg)。

 日本の年鑑によれば日本は毎年人造肥料に4660 万円の支出であるのに対し

て、ドイツはナウマン(中央ヨーロッパ)によると同じ目的に6 億マルク支出

している。

 松山周辺の米栽培は例外なく水田であって、たいてい非常に古くからの施設

から水を引いている。来迎寺の前にこのための典型的な堰堤設備が見受けられ

る。日本で栽培される4000 種の米の中にはしかし、故郷の我々の穀物と同じ

ように水なしの畑でのみ生育するものも数多くある。栽培の収穫量は播種の30

100 倍に及ぶ。一ヘクタール当たり通常28.2 kg の米を収穫する。日本の米

はある限りの中で最も良いもので、かなり価格も高い。だから過去数年間に約1

千万マルク=全生産量の0.47%]が毎年輸出される一方、国民の方ははるかに安

くて品質の悪いインド、インドネシア、タイの米で我慢している。

 米に次いで「大麦」と「小麦」が主要食糧として問題となる。その生産総量

は米の栽培の生産量(2200 万石)の約2/5 に及ぶが、国民の総消費量にはは

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るかに及ばず、これまた大量に輸入せざるをえない。稲の苗床が植えられ、田

が冠水する前に、栽培と収穫を我々は観察できる。最後にその他いくつかのあ

まり重要性を持たない食糧品、稗、玉黍、蕎麦、大豆、薩摩薯、馬鈴薯のよ

うなものに言及することが残るが、これらについては植物世界を論ずる機会に

触れられた。

 一般的には我々は散歩の機会ごとに、日本人がその土地を非常に入念かつ合

理的に耕作していることを、確認することはできた。大きな農場は日本ではま

れである。土地のすべては細分されているので、耕作ということになると我々

の故国の菜園のようである。農業機械はまだほんの僅かしか導入されていない。

農耕地の生産力を高め、労働力をより経済的に使うことが日本の農業の重要問

題であろう。この領域での変革がいかに必要かは、全耕地を日本の住民に配分

してみると一人僅か41.5 平方m にしかならず、例えばドイツ及びオーストリ

ア=ハンガリーでは同じように計算すると、72 平方m になることからも、明

らかである。農民の大部分は、もし絹と茶の生産が補助になっていなかったら、

なんとか暮しを立ててゆくこともできないだろう。

 およそ紀元後4世紀に朝鮮から日本へ入ってきた絹は王制復古以降国家繁栄

の主要源泉の一つである。1913 年の総輸出6 3300 万円のうち2 3900

万円ないしは37.8%が絹の輸出で、これは世界の消費量の約28%である。これ

によって日本は絹産出国の中で第一位にある。産出の比較的大きな部分は(70

80%)、日本の生産高の3/5 を必要とするアメリカが求める粗品質のもので、

他方精選されたものはフランス、イタリアへ積み出され、向うでヨーロッパ人

に適合したように加工される。出荷の様式は種々である。繭ないしは屑絹糸と

してよりも、生糸か糸巻、カセに巻かれた絹糸かを区別する。加工した工場製

品もその重要性を増しつつある。桑の葉が蚕の食糧となるが、主要な桑栽培地

5371 平方km)は大体東京周辺の中央日本にある。

 いずれにしても四国における栽培はあまりたいしたことはない。我が愛媛県

2 百万円しか絹製品を産出していないのだから。残念ながら松山の周辺で我々

は養蚕を知ることができなかった。しかし当地の県物産館や農業学校見学の際

に、日本でもっとも重要な輸出品に注意を向ける機会があるかもしれない。

 養蚕がこの島国で非常に普及しているのに対して、農産物の輸出品の第二位

を占める「茶」は従来通りの発展段階にある。

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 我々の椿に似た茶の木は、紀元後800 年頃仏教の僧侶によって日本に至った

そうで、今日に至るまで民衆に最も愛好されている。我々ヨーロッパ人はしか

し独特な味のする日本の緑茶よりはインド、ないしは中国茶の方を取るが、日

本茶の生産はすべてのその他の品目よりも50%も余分なコストがかかる。

 総計で日本は1913 年に緑茶を1270 万円輸出し、約90%は合衆国へ船積み

される。主要栽培地域は東京と京都間にある。栽培、収穫、加工の方式を我々

は以前道後の農業博覧会で知ったが、重要なこの産物の戸外の自然の中での生

産状況を見たわけではない。しかし山越収容所内のテニスコートの隣に小さな

茶畑が見受けられる。四国には茶は僅かばかりの耕地に散発的に栽培されてい

るに過ぎない。我々の市の周辺では茶の栽培は農業学校だけで、いずれ見学で

きるであろう。―

 その他の農産物については添付の図表(表I)を参照してもらいたい。記入し

た記号によって、上記の産物と並んで、木綿、馬鈴薯、果物などが栽培されて

いる場所を見て取ることができる。

家畜飼育

 過去数年の間に農村住民の中で家畜の飼育も著しく高まった。当然これは先

ず、広い牧草地のある北部地方においてである。中部及び南部日本では米作と

穀物耕作が盛んで、馬と牛は労役家畜としてのみ使われる。いずれにしても、我々

が、数年毎に開催される愛媛県の農業博覧会で見たように、農民達は政府の示

唆に考慮を払い、優良馬、優良牛の飼育の競争を始めている。

 特に

馬の飼育

は長期に亙ってもなお日本政府の最も大きな頭痛の種である。日本は馬産国で

はなく、これまでまともな馬の飼育はごく限られた地区でしか行われてこなかっ

た。だから日清戦争でも日露戦争でも馬という素材ではおよそ考えられる限り

最悪の経験をしたし、これからも、日本人がこの不都合をなんとかするには非

常に長い時間がかかるであろう。

 土着の馬は一般的にモンゴル種に属するものである。約300 年前にペルシャ

系の馬が土着種との交配を目的として大量に輸入された。徳川一族の下での長

期間の鎖国の間にこのペルシア・モンゴル雑種が支配的となった。

 王制復古後陸軍の全般的再編成と並んで戦争に使用可能な軍馬の入手に取り

かかった。多くの外国産の馬を購入する一方、土着種をプロシャ、イギリス、オー

ストラリア、ロシア種との交配によって改良しようとした。こうした飼育法か

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ら生まれた馬種が今日ではすでに馬の全頭数(160 万頭)の1/3 になっている。

しかし熱望した目標にはまだ到達していない。主として陸軍が所有している最

良の馬はあまりにも鈍重、弱体、耐久力に乏しく、偵察や襲撃用ないしは砲兵

馬としての要求にはとうてい堪えられそうもない。だがしかしこれでは乗

馬部隊の戦力及び機動戦争の成否が問題となってくる。

 1906 年から日本政府は広範な公衆に馬政に対する関心を向けさせようとし

た。競馬を開催し、その主要魅力である賭けごとについては極めて大目に見た。

しかし二年後いくらか度を過ごした馬券制度をすげない禁止で終わらせてしま

い、再び一切の関心を鈍らせ、やがてこの馬のスポーツは完全に存在さえしな

くなった。

 現在政府はアングロ・アラビアの種馬を導入し、土着種との混合によって使

用に堪える種を飼育しようとしている。にもかかわらず今日なお ― 若干の例外

を除いて ― 目標未達成の状況に困っている。あれこれ試みてはいるが、西洋の

経験を役立てようとはしていない。日本の馬飼育者達は、僅かではあるが適し

た種を導入することをせずに、あまりにも多くの種類の馬を輸入している。も

し適切で実際的なことを教えたり、警察が厳しく規制したりして、もっと飼育

者を正しい軌道に導いていたならば、馬の飼育に費やされたお金はきっとこれ

までよりもはるかに大きな効果を上げただろう(M. ミュラー博士)。

 しかし、馬に関しては生来理解も才能もない民衆を教育することが、陸軍に

できるかどうかの問題は、少なくとも非常に疑わしいと思わざるをえない。―

 道後の博覧会(1915.10.15)で展示された馬は、いま述べたことへの典型を

表すものではなかった。少数ではあるが全く良い馬と並んで我々が見たのは、

たいてい弱くてあまり立派ではない体格の馬で、特に細くて筋肉が余り付いて

いない後脚が眼についた。結論付けるような判断は眼にしたことだけでは下だ

せなかった。なんの資料もなしにしたこの参観はそれにはあまりに慌ただしかっ

た。残念ながら、馬の飼育という点で日本政府の本当の計画を勉強できるよう

な材料の入手は今日までできなかった。

 ミュラー博士は猟馬種を日本の馬飼育の理想と見ていて、実用馬の最適混血

として50 70%の純血イギリス種と50 30%の北海道もしくは南部小型馬

の血を推奨している。

有角の家畜

 日本の有角家畜[ウシ、ヤギ、ヒツジ]の飼育は同様の段階にある。ここで

も政府は古くからの土着の品種を外国種の導入とこれと現存種との交配によっ

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て改良しようとしている。在来種には三種類の区別がある。「白い斑点のある黒」

と「茶色」と「黒と白の斑点のあるぶち」である。最後のはオランダ人によっ

て導入されたのだそうだ。周知のように日本人は1600 年以来オランダと密接

な取引関係にあった。この数年の間に日本人は土着種とイギリス種の短角種、

デヴォン種、エアシャー種との交配の実験を数多くした。

 しかし多くの実験の後最近ではこれらと並んでホルシュタイン、東と西のプ

ロシャ、オランダ、茶色スイス、ジメンタール種も導入するように変わってきた。

 にもかかわらず馬の場合と同様に、ここでも明白な目標なしの不確実な手探

りに気が付く。その上現存する有角家畜数は極端に少なく、利用可能な飼料牧

草地に対応していない。その結果肉の価格は比較的高く、あまり恵まれていな

い国民の層にとっては食糧として考慮の対象になってこない。現在普通の牛肉1

ポンドは19 銭= 0.42 マルクであり、比較的上等な腰肉や背肉などは27 銭= 0.60

マルクで販売している。

 もっと目立つのは法外に高い牛乳であるが、日本の消費量が少ないためである。

 ここでは牛乳は薬のようなもので、売っているのは小さな一合180.3

cm)を3 銭で、もしくは1 リットル16.6 銭= 33 プフェニヒである。これは、

国民大衆を牛乳飲用から排除する価格である。大量の牛乳を、もし適切な経路

を基礎に市場へ届ける可能性を持っていたならば、供給できるかもしれない多

数の農民が(特に北海道に)事実いるのだから、こうした状況はいよいよ理解

できない。これをせずにこの国は毎年約500 万マルクの牛乳、バター、チーズを

外国から余儀無く輸入している。当然のことながら、適切な品種に乏しいこと、

僅かな市場性と非専門家的な施設設備とが、せっかく生まれたたいていの農場

と乳製品工場の採算性を危うくしてしまっている。―

 当地には「松山合資会社」(松山牛肉合資会社)があって、もっとも重要な農

業企業である。乳製品工場はおよそ120 130 頭の乳牛を持ち、我々の収容所

の牛乳とヨーグルトの必要量を供給している。その次の会社は乳牛40 頭ほどの

「ナオマツ」である。それ以外にもまだ多数の零細企業がある。

 道後の博覧会はこの県の有角家畜飼育の状況を一瞥させてくれたが、種牛の

飼育が始まったばかりのようだ。

 政府が国立の育種施設や、博覧会の開催、表彰状授与や農学校によって、あ

らゆる努力を払ってきたにもかかわらず、日本の家畜総頭数は今日なお非常に

わずかである。ロバ、ラバ、豚、山羊、羊は以前には全くいなかったが、今日

でもこれらの動物はこの国ではいずれにしても非常に少ししかいないといえる。

 肉食は日本では相変らずほとんど通常ではないが、非常にゆっくり増加して

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いる。羊の飼育に全く失敗していることは、日本人にとって痛い。軌道に乗っ

た飼育が大部分、腸結核に似た症状をもたらす一種の寄生虫が原因で、失敗に

終わったのである。したがって羊毛の生産はないに等しい。木綿も非常に貧弱

な結果しかもたらさなかった(1913=77 4 千貫)ので、本当に広範にひろがっ

た繊維産業を充足させるには、日本はこの必需品をきわめて大量に輸入せざる

をえない。1913 年には233,599,000 円の原綿と15,997,000 円の原毛を輸入し、

大部分はいずれも国内で消費された(日本の総輸入量:7億3 千万円)。

 愛媛県は日本全体の格好の平均像を呈しているが、主として畑作である(表

2参照)。県の生産額は2,423,0000 円になる。これに対して都市地域は主とし

て農村で得られたものや輸入産品の加工に従事している(表3参照)。住民全体

の内で324 人しか農業には従事していず、しかもこの人達の大部分はなにか別

な副業をしている。有名な国民経済学者カルル・ラートゲンは日本についての

その著書で、「日本は職人と小売商の国である」、と言っているが、この特徴は我々

の市に特に典型的に現れていることが判る。

 とにかくここでも確認できることだが、畑作と並んでまた

商業と工業

も尊敬の念を起こさせるような地位を占めている。この両領域を考察する前に、

16 世紀の活発な貿易活動の後、徳川三代の家光がこの国を外に対して閉鎖し、

外国とのいかなる貿易をも禁止した(1624)ということを、思い浮かべなけれ

ばならない。この国が経済政策を拡張することによって諸外国の利害関係の中

に引きずり込まれ、そのため独立を奪われるのではないかと、恐れたのだ。オ

ランダ人にだけ長崎の町の前にある小さな出島が提供され、そこからこの島国

の人々と貿易関係を継続できた。船乗りの平底帆船は定められた大きさを越え

ることを許されず、日本人は国を離れる許可を得られなかった。その上中央政

府と大名達は貿易を差し止めるのにあらゆることをした。商人を農民の下に位

置づける貴族的軍国主義がまさに支配していた。今日なお松山年代記は当地の

住民を12000 の侍[士族]と33000 の市民[平民]に区分している。昔の状

況では当然のことだったが、貿易はいかなる意義をも失った。産業とは専ら手

工業であったし、農業と結合していた。ところが開国(1867)以降貿易は再び

異常なほど発展した。

  輸出は 1868 年の 2,624,6000 円 から

   1913 年には 63,246,0000 円 となった。

 にもかかわらず日本は今日なお著しい経済的な弱点を示している。貿易額は

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およそ大国たるものが示してしかるべき最低額を大巾に下回っている。その性

格ではヨーロッツパ的に赤字の輸入で原材料が優位を占め、輸出で工業製品が

大巾に目立っている。一人当りでは取引高がイタリアの1/3 にしかならず、そ

の他の大国と比較すれば本当に僅かであると見ざるをえない(キエラン:『現代

の大国』)。

 この国の生産物の頂点には繊維産業があり、その主要部門はすでに言及した

絹製糸業からなっている。これと並んで原材料の生産が僅かであるにもかかわ

らず綿織物業が大いに広かっている。1913 年日本は1 7 百万円以上の綿製

品を輸出し、生産の54%を国内市場の需要に充当した。

 その他の工業はすべて今までの所重要性を持つに至っていないが、絶えず成

長を続けていることも否定できない。日本人にはまさに工業製品における「創

造性」が欠けている。模倣は非常にうまくできるのだが、ヨーロッパ若しくは

アメリカ人を技術的及び化学的製品で押し退けることには決してならないだろ

う。その上日本人には仕事をする場合の忍耐と粘りがない。企業家は投機欲と

発育不全の商業道徳を余りに強く見せる。

 合衆国に次ぐ日本の顧客は中国である。中国向けの輸出はしかし綿製品のほ

かにマッチ、傘、帽子、ボタンなどの雑貨品はかりである。だから日本は中国

におけるドイツ貿易にとって非常に危険となる可能性は余りないだろう(ケー

ラー)。ドイツから日本は1913 年に6840 百万円を輸入し、その構成は主とし

て鉄、機械、染料、毛糸、レール、紙製品である。逆に日本は我々に1900

円の銅や木材、麦わら帽、樟脳、ハッカの結晶、ボタンその他の余り重要性の

ない品目を売った。

―――――――――

「愛媛県における商業と工業の普及」

を我々にもっともよく示してくれるのは表Uのグラフである。優位を占める産

業はすでに述べたように農業で、住民62.5%を養っている。2423 万円という

生産額で、商業以外の他の産業のすべてを凌駕している。これにぴったり付い

ているのが工業で、その生産力は農業にほとんど並ぶが、漁業その他の産業は

かなり生産額が落ちている。

 表II は個々の生産物をも図示している。すべての生産物の先頭には米と酒が

来ている。その後に繊維産業、これはすでに述べたように、ほとんどすべて輸

入した原材料の加工である。その他の産物の中では窯業(陶器)が我々の仲間

の内で多くの愛好家を見出している。これは例外なく砥部で作られる。表I。

79

 「松山の生産物」は表Vに整理されている。商業と工業は余りたいした重要性

を持っていない。全市でたった一人銀行家の中田だけが百万長者だそうだ。市

内でも米が主要な取引産品であって、繊維製品は第二位となる。このリストの

その他の欄は、松山が典型的な日本の都市であることを示していて、無数の商

人と小売商がその生業を営んでいることが判る。外国への輸出は最小限である。

取引品目の大部分は県内ないしは日本国内に止どまっている。

 表IV は産業分布の主要会社名を示している。その大部分は繊維部門に属して

いて、僅かな例外を除けば僅かばかりの生産高しかない。もっとも大きな企業

は「松山綿糸紡績株式会社」で、男子46 人、女子406 人の従業員を持ち、年

間に523,273 円の売上げがある。

 我々の中の誰もが、町の北西にあって高い煙突を持つこの工場が、日中だろ

うが夜中だろうがいつでもその汽笛を鳴り響かせるのを知っている。その他の

会社は大部分この地方の特産物、の生地を生産している。これは近代的な機

械では生産できない製品である。つまりこの生地は、カセなりに ― すなわちド

イツのインジゴ[藍]で ― 染めた糸から織るので、織女は織りたい模様を得る

ためには、を一回動かす度ごとに緯糸を手で正しい位置に戻さなければなら

ない。日本の女性は誰でも、機械を使って同じ効果を得ようと、なんらかの試

みをした生地を一目で見分けてしまう。このような製品にとっては家内工業が

まだ大いに適しているので、松山周辺の農村ではほとんどどの家にも織機があ

る。全生産品の集まるのは当然松山である(マイスナー)。

 その他の点で、第2 欄は日本の労働事情に典型的な光を当てているので、興

味深い。労働力の大部分は婦人と少女である。日本の年鑑によれば、労働力全

体の内で女性は絹製糸業で90%を占め、織物工業、煙草産業、ロープ製造業で

80%、マットと麦わら編み業種では70%、綿紡績、製糸工業などでは60%に

なっている。ところがその他の産業は日本にとってほとんど問題にならないの

だから、この国では文字通り「女性産業」であると言ってよいことになる、だ

がこれは社会的な点では、この国にとって時の経過と共に非常に不利なことに

無条件でなってしまうはずである。

 その上賃金は大部分実に微々たるものであって(表W参照)、労働時間は一日

1012 時間と非常に多くなっている。―

 最後にガスエ場について言っておくと、カール・フランクがブレーメンでガ

ス供給を行っている。―

 これらの産業及び商業品目すべてを記述した後に、我々がその両者に詳細に

接触したわけではないが、鉱山業と林業もいくらか考察するだけのことはある。

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鉱山業

 日本は一般的に鉱物資源に恵まれてはいない。石炭は僅かな産出量ではあ

るが、常に拡張し続ける産業を支えるには事足りる。1915 年にこの島国は

21,315,000t の石炭を産出し、四国ではその内の僅かな量しか出していない(輸

出:2400 万円)。日本のこれに次ぐ最大の地下資源は銅鉱床で、合計66,500t

金額で4200 万円を毎年産出している(輸出2800 万円)。愛媛県は別子に年間

産出量が7660t の日本で第三番目の銅鉱山を持っている(表U)。

 日本の鉱山業のその他の産出は重要ではない。鉄の産出量は71,300t で驚く

ほど少なく、日本はその消費量の点ではほとんど完全に外国市場に依存してい

る(鉄の輸入1913 年約7500 万円)。

林業

 林業は20 年ほど前に日本で作られた林業法規以来、実に目覚ましい進展をと

げてきた。内地の全面積の内の約54%は植林されているので、ヨーロッパでもっ

とも森林の多いスエーデンさえ越えている。しかしながらたいていの総立ち木

の現況はまだ非常に若く、またその手入れの点では我々の故国の山林とは全然

比較できない程度である。ドイツの山林では林務官が立木一本一本をよく知っ

て面倒を見ているのだから。

 手の届く限りのまた活用できる限りの一切の木は伐採され、病気の老木はこ

れに反してそのままにされ、伐採した広い面積、少なくとも農業に利用できな

い面積に再び植林しようという努力は十分にはなされていない(ミュラー博士)。

 広くて高い森林は南部及び中部日本にはほとんど全くない。これに対して北

部は広大な森林地帯を持っている。特に北海道は収益の多い山林を持ち、その

オーク材は主として日本の重要な輸出品目となっている。−( 木材総輸出量:

8600 百万円)。

 予備役副曹長バルクホルンはこの分野について次のように言っている。「日本

のオークのヨーロッパ向け貿易の歴史は若い。以前日本人はオークを、日本国

内及び近隣の大陸で使われた鉄道枕木以外にはなにも作るすべを知らなかった。

日露戦争の後北海道には消費量よりも多いそうした枕木の在庫量があったので、

ドイツ人木材卸商人にその枕木を最初に見本として見せ、ヨーロッパのその人

の所へ持って行こうとした。この人は、この木材がもっとはるかに良い目的に

適合していると、直ぐに認めた。急速に大きな取引が発展したが、初めの数年

間の経過では、必要な区別のできない人達が値打の低い品種のオーク、それど

ころかいろんな種類のトネリコやまで、日本産オークとしてヨーロッパの木

81

材市場に投入したので、そこから起きる障害を受けた。その結果は、この名称

を持つものすべてに対する全般的な不信であった。にもかかわらずやがて後に

は本物の日本産オーク材はすべてのヨーロッパ諸国に受入れられた。オークの

国であるオーストリア・ハンガリーでさえ今日ではオーク材の書斎用調度品が

多くあり、それ所か、原材料がこのミカドの国で成長した白木の寄せ木張りの

床さえ沢山あるのだ。今挙げたばかりのトネリコやをも、あらゆる大規模な

業務で国内の利用法を見つけることができた。海上輸送は当然のことながらヨー

ロッパへの木材貿易に非常な負担を掛けている。大規模に売り、大型船に丸々

積み込むことによって比較的安い輸送法を達成できる者だけが、この取引にお

いて利益を見出すことができ、この商売が内包する危険に対してある程度適応

する。」−− −

 四国は膨大な森林地帯を持ち、数多くの種類の樹木、例えばオーク、、松、

落葉松、杉、桧、桜、竹が代表的である。(詳細は植物世界参照)。とにかくそ

の現況は余り収益が多くないないので、この島自身の需要を満たすことはでき

ない。だから加工する原木の大部を本土または九州から移入せざるをえない。

 我々の愛媛県は毎年150 万の製材した木材を生産する(表U)。松山の周辺に

は比較的大きな森林はないけれども、植林がどの程度の規模で行なわれている

かは、見分けられる。

―――――――――

交通

 一国の商業と工業にとって並々ならぬ重要性を持つのがその交通手段である。

この島国に最初の鉄道が敷設されて以来日本の鉄道は非常な発展をしてきた。

今日ではすでに10,320km 以上の鉄道網を有し、その内の15%は私有鉄道であ

る。32 号の略図21 のように四国はまだ比較的鉄道網に恵まれていない。我々が

よく知っている高浜から松山経由郡中、森松、横河原の路線は狭軌で、私鉄で

ある。

 外出の折に私はお伴の哨兵に、ドイツにもこういう鉄道があるのか、という

典型的な質問をよく受けた。電車が通過するときに、誇りに目を輝かせてこの

文化の奇跡を見ながら再び同じ質問を繰り返した。もちろんこの青年は、日本

のあらゆる鉄道資材のかなりの部分がドイツに由来していること、電気会社の

水タービンがハイデンハイム(ヴユルテンベルク)のT. M. フォークト社、電車

1  当研究誌第7 号、81 ページ参照。(改訂者注)

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の電気機械がジーメンス・シュツケルト社から供給されたことを知らなかった。

 松山には電気会社が二つある。すなわち、

  1.伊予水力株式会社(伊予水力)

  2.松山電気鉄道会社(松山軌道)。

 最初の会社の方がはるかに大きくまた古い。この会社は約12 里離れた所へも

(例えば長浜から菊間まで)電気を販売している。資本金3 百万円。

 小さい方の鉄道会社は電車用のほかに鉄道沿線の限られた地方にのみ電気を

供給している。どちらの会社の発電所も水力で駆動していて、山にある。鉄道

会社は一つしか持っていず、しかも湯山荒末(道後の奥さらに6 里)に。同じ

地区に伊予水力会社の発電所も一つあるが、これは予備用であって、通常は運

転していない。日常的に運転している発電所は上浮穴郡柳谷村大字越智出(久

万の奥さらに6 里、したがって松山から直線距離12 里)にある。両社の合併が

予定されている。

 さて松山と我々の県の経済的重要性の概略を知った上で、最後にもう一つ少

し見ておきたいことは、

国家と市の施設

 当然のことであるが我々は当地の駐屯軍ともっとも多く接触してきた。すで

に市の年代記から判ったように、松山はもう数世紀前から軍事力の所在地であ

る。

 長崎に最初の外国軍艦が出現(1853)してから、全国で中世的な軍備状態

の再編成に取りかかった。日本の礼装の仕立てと記章が今日なお先生としたフ

ランスを想起させるのは、当時軍隊の最初の近代化への道をフランス人が指導

したからである。当地の大名松平サヒカイ 2 1860)の下で幕府政府の側から最初

の小銃が提供され、500 人の足軽(下級の侍)部隊が火器で武装された。同時

に勝山の麓の水堀の背後の、今は歩兵連隊の兵舎がある所に、砲兵の練兵場が

設けられ、すべての兵士の教練が統一的なシステムの下に置かれた。明治2

1869)当地の駐屯軍は城の軍隊からなり、一小銃隊、一砲兵隊それに加えて、

2423 名の将校と下士卒から構成された。その大部分はすでに翌年にはフランス

の武器で装備された。当時ナポレオン三世はまだヨーロッパ最強の君主とみな

され、その軍隊は世界最強とされていた。だから新政府がフランス陸軍を範と

2 当時の松山藩主は松平勝成(かつしげ)。「サヒカイ」という人物は見当たらない。(改

訂者注)

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したことはよく判る。それぞれの階級間の一切の差別を解消するために、明治5

年一般防衛義務が導入され、以後の数年の間に、今日日本が持っているような

近代的軍隊の土台が創出された。

 日本の国防軍のもっとも傑出した組織者であり教師の一人は、1885 年他のド

イツ人教育係と一緒に日本へ来たプロイセンの将軍メッケルだった。

 この頃に今日なお当地に駐屯している歩兵第22 連隊が創設された。連隊は広

島に司令部を置く歩兵第9 旅団に所属している。旅団は第21 旅団と共に同じく

広島に司令部を置く第5 師団を構成している。それ以外にここには地区司令部

がある。

教育制度

 軍隊の建設と手を携えて学校制度全般の改革が進行した。文化的に優れてい

ると日本が認めた西洋諸国民の教育をできるだけ早急に獲得すべきだった。戦

時、平時を問わず諸国家との競争に太刀打ちできるようになり、独立性を打ち

だすためには、学問、商業、工業の力と重要性を高めることが肝要だった。当

時の天皇がその時代を明治、すなわち「開明されたる時代」と名づけたのは意

図なしではなかった。この政府の初期までは日本の教育施設は非常に微々たる

規模に過ぎなかった。初等学校は全くの私設であったし、中国の文学と哲学を

教えた上級学校は武士階級にのみ門戸を開いていた。ヨーロッパの学術、特に

医学、数学、自然科学は19 世紀に日本へ散発的にしか入ってはこなかった。

1858 年にようやく数個の西洋医学校を設立し始めた。

 当然のことながら、全般的就学義務を伴う近代的学校制度を急速に実施する

ことは、いくつかの大きな難点にぶつかった。市町村に小学校の維持費負担が

義務づけられたので、これはむしろ私立学校を引き受けたし、一方国家は教師

不足を補うために教師養成所を設けた。今日ではどこでも義務教育が成立して

いる。だから子供達は814 才まで、無料で授業を受けられる学校へ行く。貧し

い子供は教科書などをも無償でもらう。就学義務は過去数年のうちにかなり厳

重に実施されているようだ。平均給与が15 から20 円の教師の月給は実に僅か

である。

 上級学校は今日なお僅かしか普及していない。県都である松山、つまり、我々

の概念からすれば行政区域の最高の管理機関所在地でさえ最高教育機関として

は、我々の実業中等学校にまあ相当する中等学校を二つ持っているに過ぎない

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32 号の略図4 参照3)。だから生徒は一年志願兵資格試験の年齢[17]にまで

は達するが、さらに上級の学校へ進学したい場合には。他の町へ移らなければ

ならない。この両校の一つは県立、もう一つは私立である。一般的には私立学

校は余り良い評判を受けていない。パルツォフは私学について直接的な諸悪の

根源であるとさえ言っていて、中途半端な教育を受けたプロレタリアートと生

徒間にみなぎるだらしない規律との責任はこの病弊に帰せらるべきだ、として

いる。美徳を養う前提である生徒と教師の間の尊い関係は彼等の間にはない。

生徒が学校から出ていったり、競争相手のところへ移ったりするのを避けよう

とする限り、教師は生徒の方の都合に余りに屡々合わせざるをえない。学校ス

トライキはたいしてまれなことではないので、嫌いな教師に対する生徒の勝手

な振るまいの実例は近頃では国立の学校でも真似をするという好ましくない現

象が起きている(ムンツィンガー)。

 この二つの中等学校のほかには高等小学校一つと尋常小学校五及び国立と私

立の女学校各一 、したがって全部で10 校の継続教育機開かある。これにさら

に加わるのが農業、商業、工業の専攻学校各一と盲学校及びキリスト教系私立

の夜学である。

 最後に国家機関で挙げておくべきものは:

     県陳列館

     城内武器博物館

     気象台

     病院(赤十字)

     及び「虜収容所」

 1894 年及び1904 年にすでに松山は戦闘力を失った敵国兵士の収容場所で

あった。日露戦争中は主として負傷したり病気のロシア兵がここへ移され、回

復後たいてい他の収容所に移った。松山へ連れてこられたロシア人は累計して

12000 人になったが、平均してこの町に約3500 人がいた。来迎寺の上にある

墓地は今日なお、負傷や病気に倒れた数多くの犠牲者のことを想起させている。

 彼等の収容は我々と同じような方式で規制された。虜の人数が多いことを

考えれば一人当たりに畳半分だけ少なく、収容所内部での運動の自由度はそれ

に応じて少なかった。彼等のその他の自由度はしかしより大きかったようであ

る。例えば将校は毎週二回道後温泉へ行き、いつでも警備兵をお伴に町で買物

ができた。若干の高級将校は私的な住居さえ持っていた。

3 当研究誌第7 号、82 ページ。(改訂者注)

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 その他の点では人々の心痛や収容所当局との関係は、今の事情と変りはなかっ

たようである。我々の収容所である山越、大林寺、公会堂は当時すでに現在の

時代と同じ目的に使用された。これらの外にさらに数個の寺院が確保され、練

兵場に大きなバラックの収容所が設置されていた。

 今日割当てられている寺院の我々にとって興味ある特質はすでに「仏教」の

所で言及されている。公会堂は、その名の通り、私的な集会や祝祭のための会

館である。平和な時代には私的な協会や私的な祝祭に貸している。中庭の大き

な記念碑は、この土地の長老達が1897 年に開催した祝典のことを想起させて

いる。

 これで我々は再び我々の考察の出発点に到達した ― その境界を越えて外を見

ることは非常に難しく、その柳が土地と人についての実像の形成を我々にやり

にくくしている場所、すなわち我々の収容場所へである。

 実像形成がより一層完全なものになって欲しいものである。しかし、我々が

自ら知った、あるいは間接的に接触した、そういう素材に止どまるのがより合

理的であるようだ。 他方では、その情報源を使えば現在空いてぃる隙間を埋

め得たかも知れないような情報源が利用できなかったのである。

 いずれにしても、これまで目を向けていなかった多くの事柄に注意を呼び起

こし、多くの謎めいたことに対する理解を喚起するのにこの記事が寄与するだ

ろう、と私は期待している。

 それ自体は非常に暗い存在形態を満たすその他の我々の研究と並んで、我々

の周囲を偏見無しに観察することは、時間を短縮し、限定された視野を拡大し、

我々の経験の宝を増加させるのに役立つことになるだろう。

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