RES SEXUALIS
小阪清行
 
 実家は商売をやっていた。昔は随分繁盛していたから、ときどき問屋の招待旅行というのがあった。そんな旅行の折、ある旅館での出来事である。そのとき僕はまだ小学校にあがる前のガキだった。広間の舞台に芸者風の女性が現れて、音楽に合わせて和服を一枚また一枚と脱いでいった。廊下からそれを盗み見ていた僕は、脱いだ服を抱えて半裸のまま足早に引き上げる女性を、楽屋まで追っかけて行った。
 ほぼ同じ年齢の頃だったと思う。誰かに連れられて仏生山の菊人形展を見に行った。会場に、正面がガラス張りの大きな水槽が据え付けられていた。若い海女が潜って、貝だか硬貨のようなものを底から拾い上げてくるという見世物だった。白い磯シャツから乳首が透けて見えていて、ひどく興奮した。『月がとっても青いから』という流行歌を聞くと必ずこの時の光景が浮かんでくる。そのとき会場にこの曲が流れていたためなのか、その夜見た月が青かったためなのか、あるいは「青い月」に何かエロスを感じさせるものがある*ためなのか、僕には分からない。
 お医者さんごっこをやったのも、ほぼ同じこの頃のことだった。
 何故かすべてこれらの記憶は幼稚園時代に集中している。
 * ちなみに、昔イタリアのシリーズ物のお色気青春映画に『青い体験』というのがあった。また英語の「狂気じみた」を意味するlunaticは、ラテン語のluna「月」が語源であって、昔は、月が発する霊気に当たると気が狂う、と考えられていたようだ。ここから戯れに勝手なこじつけを試みれば、「青い月」には「人を狂わせるエロチックなものがある」と言えそうな気もする。
 
 小学校に入る年齢になると、恥ずかしさというものを覚えて、なんらかの自己抑制が働いたのだろうか、あるいは性的な場面に接する機会が減った所為だろうか、淡い初恋などはあったものの、どぎつい欲望は押さえられていたような気がする。
 中学から高校にかけてキリスト教との出会いがあった。当然欲望は意識的に抑えられた。もちろん抑えて抑えられるものではなく、芸術鑑賞の名のもとに、隠れてルノアールやモジリアニの裸婦を見たり、自然科学の勉強と称して、百科事典の性に関する記事などを読んでは、興奮を覚えていた。
 わが家の店の前に映画の看板を置かせていたので、丸亀の映画館にはいつもタダで入れた。だからこの時期、映画をよく観た。当時のことだから、せいぜいビキニの水着か入浴シーンくらいで、それほど刺激の強い映画はなかった(あったかもしれないが、観る勇気がなかった)。それでも、例えばシルヴィ・ヴァルタンの「アイドルを探せ」など、女優たちの色気に悩殺され扇情的な歌に酔わされてしまった。
 自分の二重人格的側面が強くなっていったのは、このあたりからだと思う。
 大学時代には、性について大っぴらに語ることのできるゼミ仲間のSが羨ましくて仕方なかった。同じアパートに住んでいたため、毎日のように文学・宗教・音楽、それにもちろん男女関係などについても、長話に明け暮れた。彼の実家は料亭で、女将である母親から受け継いだ彼の話術は、それは見事なものだった。その話術で、高校時代の性体験などを生々しく語って聞かせた。
 Sとは、お互いの下着などを日曜ごとに交互に洗濯しあっていた。ある日、パンツの汚れを見つけたSが、僕にまだ夢精があることを知り、天然記念物のように珍しがった。それまで僕の周囲には、高校時代にすでに童貞を失っていた人間はいなかった ― と思う ― ので、Sも僕にとっては「天然記念物」的存在だった。
 ある日そのSから、「最近おまえ、アレをやってんじゃないの。夢精がないもんな」と言われた。確か大学の四年の頃のことである。
 
 ドイツでの留学生時代は、我ながら実にナイーブな心を保てた時期だった。敬虔主義(ピエティスムス)という思想的風土に染まった辺鄙な大学町に、けばけばしい性的刺激などあろうはずもなく、しかも僕の周囲にはいわゆる敬虔なクリスチャン・ホームで育った学生が多かった。
 しかし、その後通訳のアルバイトで一年ほど過ごした東独ヴィッテンベルクのプラント工事現場は、そうではなかった。プレハブで三百人以上が寝食を共にする日本人村では、管理人が西ベルリンで買ってきたポルノ映画の上映会に招いてくれたことがあった。西の娼館に通う職人がいれば、「ルターの町(ルター・シユタツト)」で娘たちと怪しい関係を結んで妊娠させる工員たちもいた。僕の心も穏やかではなかった。
 敬虔なクリスチャンの学生たちや現場のエンジニアたちよりも、これら職人・工員たちにより強く「人間」を感じたのは何故だろう。
 
 生まれつき性欲の強い者もいれば、その逆もある。環境や育ちも人間の性欲に与える影響は大きいであろう。性的に淡泊に生まれついた人間が、そのまま淡泊で清廉な性生活を送る場合もあれば、何らかの強い刺激を受けて、異常なほど性欲貪婪な好色漢に変貌することだってあるかもしれない。そしてそのまた逆も。「生まれつき」とは何か。「環境や育ち」とは何なのか。
 何事も心にまかせたることならば、往生のために千人殺せと云わんに、すなわち殺すべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わが心のよくて、殺さぬにはあらず。また害せじと思うとも、百人千人を殺すこともあるべし。
 この親鸞の言葉は、性に関しても当てはまると思う。
 
 性的に淡泊な人間としては、差し当たり鴎外が思い浮かぶ。
 『ヰタ・セクスアリス』にこんな場面がある。主人公の哲学者金井は、友人たちと一緒に吉原の遊郭に上がるが、彼自身はたいして積極的に「遊びたい」訳ではない。「己(おれ)は寝なくても好(い)い」と言う彼を、番新(番頭新造)という太夫に付き添う世話役婆が、襖の奥にいる女のところへ無理矢理押し込む。彼は抵抗するが、「僕の抗抵力を麻痺させたのは、慥(たしか)に僕の性欲であった」。けれども翌日彼は言う、「昨日の事を想って見る。あれが性欲の満足であったか。恋愛の成就はあんな事に到達するに過ぎないのであるか。馬鹿々々しいと思う」。
 『ヰタ・セクスアリス』は卑猥な小説だとして発禁処分を受けたそうだが、僕はむしろ鴎外の清廉な倫理観さえ感じる。鴎外は性欲の恐ろしさをあまり知らない人だと思う。(もちろん鴎外文学の価値とは無関係であるが。)
 
 凄まじい性欲と言えば小林一茶である。
 彼が日記にその激しい性生活を赤裸々に綴ったことは有名である。一茶は五十歳のとき、江戸を引き払い、郷里の信州に居を構えて嫁を迎える。以下は、最初の結婚から二年目、五十四歳の夏八月の記述である。このとき妻菊は三十歳。
八   晴  菊女帰ル 夜五交合
九   晴  田中希杖ヨリ一通来ル、去ル五日、沓野ノ男廿二、女廿三、心中死ス
十二  晴  夜三交
十五  晴  婦夫月見 三交 留守中、木瓜(ぼけ)の指木(さしき)、何者カコレヲ抜ク
十六  晴  白飛ニ十六夜セント行クニ留守 三交
十七  晴  墓詣 夜三交
十八  晴  夜三交
廿   晴  三交
廿一  晴  牟礼雨乞 通夜大雷 隣旦飯 四交
 菊は三十七歳で病死するが、ときに一茶は六十一歳で、翌年再婚。その嫁には直後に逃げられ、二年後、六十四歳のときに三十八歳のやをと再々婚。一茶はすでに五十八歳のときに中風を病み半身不随で、かつ言語障害を煩う爺さんであったが、そんな身体でもやをとの間に子供を残している。
 一茶の性はドロドロしているものの、縄文時代の人間のような放埒さや大らかさも感じさせる。
 
 一茶は熱心な門徒であったと聞くが、その宗祖親鸞はそれほど放埒でも大らかでもなかった。この違いは、一茶が百姓の出であって十五歳まで信州の山奥で育ったのに対して、親鸞は一応貴族の出であって、九歳で出家してすぐに比叡山に籠もり禁欲生活を送ったという、境遇の違いから来るものであろうか。
 親鸞の性欲は厳しい修行の中で抑えつけられていたが、それが二十九歳のとき六角堂における救世観音の夢告として、一気に発現あるいは爆発したような印象を受ける。
 行者宿報女犯(にょぼん)(もう)けば 我玉女と成りて身(み)(おか)されん 一生之間能(よく)荘厳して 臨終に引導し極楽に生ぜしめん
 一茶は身体的かつ感覚的な面が鋭いが、親鸞においては凄まじい内省がある。それが堪らない魅力である。
悪性さらにやめがたし
こころは蛇蠍のごとくなり
修善も雑毒なるゆゑに
虚仮の行とぞなづけたる
 
 鴎外と違って、トルストイは性欲の恐ろしさを熟知していた。彼に『悪魔』という短編小説があって、作者自身を思わせる青年が肉欲の虜となって、村の女を誘惑し弄んで破滅に至らしめる(『復活』のカチューシャはこの女がモデルであろうか)。体験がなければ決して書けないであろうほど恐ろしく迫力があり、心理と葛藤がリアルに描かれている。
 実際、トルストイには放蕩の限りを尽くした青年時代があった。圧倒する「悪魔」的な力に翻弄されていたであろう。
 トルストイの『性欲論』は、彼自身がこのタイトルで書き下ろした作品ではなく、秘書で伝記作家のビリューコフが、トルストイの文章の中から性に関連する文章を抜き出して纏めたものらしい。
 学生時代に読んだのだが、内容が強烈だったので未だにある程度記憶している。トルストイがこの著書の中で言っているのは、ほぼ次のようなことであった。
 ○ 性欲そのものが罪である。したがって夫婦間の性行為も罪悪である。
 ○ 性行為を行わなければ当然子孫を残せず、人類は亡びるが、どのみち人類は、天体
   が地球に衝突するなどして滅亡する運命にあるのだから、一向に差し支えない。
 ○ イエスは「情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのである」
   と言っているけれども、「女性を美しい」と思っただけで、それはすでに姦淫を犯
   したと同じである。
 巻末に訳者の解説があって、秘書ビリューコフの言葉が引用されていた。それによれば、上記のような文章を書いていた六十歳代のトルストイが、ある日彼に「昨夜、私は妻の良人であった」と告白したというのである ― 「夫婦間の性行為も罪悪である」と書いた当人が。
 何たる言行の不一致!これを読んだ学生時代の僕は、その正直さに打たれると同時に、密かにほくそ笑んだ ― 「何だ、あのトルストイでさえそうなのか」。理想と現実との乖離に悩み、二重人格性に怯えていた自分に、この発言は、自己弁護の口実と安心感を与えずにはおかなかった(少なくとも無意識裡に)。
 
 トルストイは「ヤコブの手紙」を高く評価していた。ルターが「藁の書簡」と呼んで完全に無視した書である。
 ドイツ人の最大の特質「内面性」は、ゲルマン精神の権化とされるルターに影響されている面も大きいと言われている。
 『善き業(わざ)について』の中でルターは言う。「自分の行うところは神の聖意(みこころ)にかなうという確信が心にあれば、たといそれが、藁くず一本を拾いあげるような些細な事柄であっても、そのわざは善である。けれども、その確信がなかったり、あるいは疑ったりするようなことがあれば、そのわざは、たといあらゆる死者をよみがえらせ、おのが身を焼かせるほどのものであっても、善ではない」
 このような信仰を持つルターにとって、戒律の遵守と善の実践を説く「ヤコブの手紙」はまさしく「藁の書簡」であった。
 ルターとトルストイの共通点、それはファナティックであり、ヒステリックなまでに極端に走る傾向である。
 ルターは修道院での過酷な禁欲生活への反動を発条に、行為からの「自由」に走った。逆にトルストイは青年時代の放蕩生活への反動から、自分の過去を完全に否定し尽くしたい衝動に駆られていた。そしてその否定を性欲にも向けて、実行不可能な戒律を自らに課した。そんな印象を僕は持つ。
 
 パウロやルターの信仰構造が、親鸞の信仰と類似していることはよく指摘されるところである。だから一方に、パウロやルターや親鸞のような内面に向かう信仰の人間がおり、その対極にヤコブやトルストイのような律法と行為の人間が存在するのだと、昔の僕は理解していた。
 しかし何と甚だしく、僕はトルストイを誤解していたことだろう。何と本質的なことが見えていなかったことだろう。
 「内面性」とは対極に立つ律法主義者としてのトルストイ像を打ち毀してくれたのは、リルケだった。リルケはルー・アンドレアス・ザロメと共に、晩年のトルストイをヤースナヤ・ポリャーナに二度訪問している。トルストイは『芸術論』の中で、「ほとんどの芸術作品が上流階級のために創作されたものだ」として芸術の存在意義そのものを否定したが、芸術至上主義者リルケはこれを一蹴している。が、しかし一方でリルケはトルストイという人間を、芸術を越えた芸術、ロシア的自然そのもの、宏大無辺の大地にも似た神的存在と見ている(トルストイと親交のあったゴーリキーも「この人は神に似ている」と言ったとか)。つまりトルストイという人間存在それ自体が、彼の言葉を裏切っていることを、リルケは看破していたのである。
 僕はこのトルストイの偉大さを頭で把握するだけで、今も、とても本当のトルストイが理解できているとは思えない。
 ルターの偉大さについても同様である。
 ただ感覚的に、自分にはトルストイもルターも ― その欠点が自分のそれに似ているにもかかわらず ― どうもシックリこないと感じている。
 
 このような違和感を感じさせないのは、僕にとってはイエスと親鸞のみである。加賀乙彦が「親鸞が似ているのはパウロではない。イエスである」と書いているのを発見したとき、敵地で友に出会ったような喜びを感じた。イエスや親鸞には、いかに深く大きな闇を抱えた人間をも、例えて言えば生まれつき強い殺人願望を持つ人間をさえ、包み込む心のあり方、優しさを感じる。
 親鸞に対して僕が問いたいこと ― 「親鸞さん、すべてが『業縁』の所為だという話を伺いますと、僕などは努力も、悪に抵抗する気持ちも完全に失せてしまいます。それでいいのでしょうか。どこまでも堕ちていくような気がしますが」。
 「どこまでも堕ちればいいんだよ。限りなくやさしく掬い上げてくれる存在があるかもしれないんだから」と、親鸞は言ってくれそうな気がする。
 
 
【拾遺】
 
○ 律法主義
 『律蔵』という紀元前一世紀頃に成立したパーリ語聖典がスリランカに伝えられているそうである。その中に次のような話がある。
 ある時、ひとりの修行者が林のなかで食物で猿を誘い、獣姦した。その後、その猿は僧院に現れ、件(くだん)の修行者に食物を求め、彼がそれに応えると、他の修行僧の見守るなかで尻をあげてヴァギナをあらわにした。修行僧はその猿と交わる。他の修行僧から、それは釈尊の教えに反すると詰問されるが、彼は「しかし、釈尊は人間の女性との性交を禁じただけで、動物との性交は禁じていない」と答える。それを聞いた釈尊は宣言する。「すべての出家修行者は、たとえ動物が相手でも交わりを持てば、すべからく教団を追放する」
 どんな人物の教えからも律法主義は生まれるもんだなぁと、変に感心した。
 
○ 漱石にとっての禅
 武田泰淳は浄土宗の寺で生まれたそうだが、彼の小説の中に、修行僧が樹木に空いた円い穴を見ただけで欲情を催す場面があった。性欲の極限状態を描きたかったのであろう。
 概して浄土系の人間には性の悩みに正面から向き合う傾向が感じられるが、禅ではそれがほとんど感じられない気がする。良寛は禅関係では僕が一番親しみを覚える人物であるけれども、晩年の若い弟子貞心尼との関係は微笑ましいのみで、絵に描いたようにプラトニックである。
 遠藤周作が道元を評して、「箸にも棒にもかからない」と言ったのは、恐らく小説家として、煩悩のない人間の面白味の無さを言いたかったのであろう。
 禅に強く惹かれながらも、僕もやはり常々その点には不満を感じている。
 親鸞全集の個人訳を出している作家の真継伸彦が、漱石は禅に心の拠り所を求めたが、彼はもともと真宗的な人間であって、禅に就いたのは見当違いであったと言っている。
 『こゝろ』の中で、先生の「秘密」を知ろうとする「私」に対して、先生は「あなたは本当に真面目なんですか」という問を突きつける。そしてこう言う。
 私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか。
 先生の「秘密」には、やはりが関係していた。真継と同様、僕にも漱石は「真宗的な人間」であって、泥の中を這いずり回っている人間に見える。
 漱石は恐ろしく不気味な虚無を抱え込んでいた。そして時に彼にはそれが、重くて冷たい「地蔵」を背に負っているように感じられた。
 
○ 水上勉の愚かさ
 禅関係の人間には性への言及がほとんどないと書いたが、差し当たり水上勉などは例外だろう。
 ちなみに、水上については、物書きをやっているドイツ在住のA女史から、こんな話を聞いたことがある。水上がドイツを訪問した折、女史の友人が水上の通訳に雇われたそうである。空港に出迎えたその通訳に、水上はその日のうちに女郎屋の世話を頼んだ、云々。 ― その経緯を潔癖な女史は、吐き捨てるように僕に語って聞かせた。はてさて、『雁の寺』の好色和尚は作者自身もモデルであったか。
 「小説家というのは何から何まで取材しなきゃいけないから、大変ですわネ」と僕は笑って茶化しておいた。
 車谷長吉の『贋世捨人』という私小説に文芸評論家の川村二郎が登場して、水上勉について語る場面がある。
 原稿を拝読しましたが、あなた(車谷)の小説には哀れさがない。水上勉さんの小説なんか、一般には大衆通俗小説だと思われているけど、僕はそうは思わないんだな。水上さんの小説には哀れさがある。だからあれだけ多く読まれるんです。‥‥(中略)‥‥人間の偉さには、どんな偉い人でも、必ず限界があります。併し人間の愚かさの方は底無し沼です。水上さんはそれをよくご存じなんです。だから哀れさがにじみ出て来るのです。
 僕はこの言葉が大好きで、だから、ドイツでの水上の話を聞いた後も水上への評価はあまり変わらなかった。
 水上も真宗的人間なのではないだろうか。
 
○ 太宰治の苦悩
 高校時代に太宰に酔ったことがあるが、今はすっかり醒めてしまった。
 彼が三十歳頃に書いた「富嶽百景」という短編がある。例の「富士には月見草がよく似合ふ」という文句が出てくる作品である。
 師・井伏鱒二の勧めで、山梨の河口湖近辺にある峠の「天下茶屋」という宿屋に滞在して小説を書いていた。この時期に井伏を仲人として、甲府の女性(美知子)と祝言を挙げている。
 その恩師・恩人について、「みんな いやしい欲張りばかり 井伏さんは悪人です」と遺書に書いて死んだと言われている。誠に非道い仕打ちである。
 閑話休題。「天下茶屋」の太宰のところに地元の文学青年が数人訪ねてくる。佐藤春夫の小説に、「太宰はひどいデカダンで性格破産者」とあるのを読んでいたので、恐る恐るやって来るのだが、「まさか、こんなまじめな、ちやんとしたお方だとは、思ひませんでした」と言って笑う。場は盛り上がる。
 皆は、私を、先生、と呼んだ。私はまじめにそれを受けた。私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体よごれて、心もまづしい。けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言はれて、だまつてそれを受けていいくらゐの、苦悩は、経て来た。たつたそれだけ。藁一すぢの自負である。
 この素直な文章が随分気に入っている。
 
○ 黒木香の賢さ
 ときどきふと、黒木香のことを思い出すことがある。そして今彼女が何を考えているのか、無性に知りたい気持ちがする。もし彼女が本を出せば飛びつくだろうけれども、ジッと沈黙を守っているところが彼女の賢さかもしれないとも思う。
 
○ 鈴木大拙の親鸞理解
 大拙は仏教の中でも特に禅と真宗を評価している。親鸞の晩年の「自然法爾」を強調して、親鸞は禅の覚りと同じ境地に達している、というような言い方をしていると思う。
 天に唾することになるのは重々承知であるけれども、僕の親鸞とは随分違うと以前から感じている。
 念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。
 「僕の親鸞」とは、迷い多く共に悩む「歎異抄の親鸞」である。
 
○ 死の棘
 仏教に貪瞋痴(とんじんち)という言葉があるそうである。「貪りと怒りと無知」のことだそうで、差し当たり性欲は、物欲、金銭欲、名声欲、権力欲、食欲、睡眠欲などと並んで「貪」のほんの一部に過ぎず、しかもこの「貪」さえも、貪瞋痴の一部ということらしい。これらはすべて根っこで繋がっていて、相互にタイトに噛み合っているように感じる。その総体を無明と呼ぶのであろうか。この得体の知れないドロドロした力が、「死の棘」の刺さった僕を、底のない闇の中へ引きずり込もうとすることがある。
 僕は昔から何故か無意識にパウロに反感を覚えるのだが、「誰がこの死の体から私を救ってくれるだろうか」 ― この叫びだけは、僕の叫びと共鳴する。
 
○ 聖なる性
 これほど聖らかな性に出会ったことがない。妻の死の直前直後に、吉野秀雄が歌った歌である。吉野は八木重吉の妻とみ(登美子)と再婚しているが、ここではもちろん前妻。
  《参考》 重吉の墓の前で。 「重吉の妻なりし今のわが妻よためらはずその墓に手を置け」 「われのなき後ならめども妻しなば骨わけてここにも埋めやりたし」
 真命(まいのち)の極みに堪へてししむらを敢てゆだねしわぎも子あはれ
 これやこの一期(いちご)のいのち炎立(ほむれだ)ちせよと迫りし吾妹(わぎも)よ吾妹
 ひしがれてあいろもわかず堕(だ)(じ)(ごく)のやぶれかぶれに五体震はす
  《注》 「あやいろもわかず」は「意識が朦朧として」の意味らしい             
 母の前を我はかまはず縡(こと)(き)れし汝(なれ)の口びるに永く接(くち)(づ)