「フリッツ・ルンプ」―日本美術文化研究家・波乱の生涯
盛 厚三
ドイツ人フリッツ・ルンプ(Fritz Rumpf・1888-1949)は、日本を愛し続けた芸術の薫り高いボヘミアンといわれる異色の人物である。明治42年に来日、日本で一人の木版彫刻師に弟子入りする。そこで多くの作家や画家に出会い、大きな影響を受けた。大正3年の再来日直後第一次世界大戦が勃発、日独戦争のためドイツの租借地であった中国チンタオに招集される。そこで俘虜になり、日本に送られ5年間の収容所生活。そのなかで、日本の美術や文化研究に取り組む。帰国後はベルリンの日本研究所に入り、多くの論文を著してして日本文化紹介の第一人者となっている。
しかし、近代文学研究のなかにおけるルンプへの理解は、明治末期におこった文学運動のひとつである「パンの会」の異色の人物として取り上げられることが多く、その後の生涯について語られることは少ない。ましてやチンタオ陥落後のドイツ兵俘虜として、日本の大分、習志野の収容所に5年余りもいたことすらわたしは知らなかった。また、深い友情にあった木下杢太郎の研究者、森鴎外などの近代文学研究者たちでさえ、ルンプとの関係を語る人も少ない。収容所での演劇活動や、日本民話の研究、画家としての絵葉書などの作成、帰国後の日本文化に関した多くの研究も、僅かの人たちの目に触れるだけであった。「パンの会」以後を探求しても、ほとんど解明することができなかった野田宇太郎の「フリッツ・ルンプ」(『日本耽美派文学の誕生』所収)などが、それを物語っている。
その生誕百年を迎えた1989年、母国ドイツではフリッツ・ルンプの業績が再評価され、ベルリン日独センターで、「Du
verstehst unsere Herzen gut―Fritz Rumpf(1888-1949) im Spannungsfeld der
deutsch-japanischen Kulturbeziehungen」と題された、大規模な「フリッツ・ルンプ展」が開催された。邦訳は「お前は熟(あ)つくおれ達の心が分かるー日独文化関係の狭間に見るフリッツ・ルンプ(1888-1949)」という。題名は木下杢太郎の詩の一節からとったもの。このことなどは近代文学や美術研究者の間でも、ほとんど話題にならなかったようである。
このほど日独センター東京事務所のご好意で、そのカタログがはるばるベルリンから送られてきたが、それを見てルンプの残した仕事に大きな感銘を受けた。ルンプの生涯を語る多くの書簡の解説、収容所での5年間の生活、ルンプの日本、ドイツで残した日本文化研究の業績、ルンプが集めた日本美術のコレクションなどの多くの図版が入った200ページに及ぶカタログ、それは驚きでもあった。
わたしはいま、歴史のなかに翻弄されながら日本を愛し続け、日本とドイツの文化の架け橋となったフリッツ・ルンプの一生を、数年かけて触れたいと思っている。そして雑誌『舢板』(EDI)に「フリッツ・ルンプ物語」の連載を開始したが、現在休刊中で中断されている。再開の場合は、改めてこのHPで報告したい。
なお、このフリッツ・ルンプ年譜は、2004年9月19日の第67回参土会(文学研究会)の報告資料として作成し、2008年10月13日に岡山大学で開催された公開シンポジウム「日独文化交流史上の在日ドイツ兵俘虜とその収容所」で配布した。その後多くの方々からの助言とご教示があり、大幅な訂正と補遺を加えた。ルンプの波乱の生涯を、この年譜から感じ取ってもらえたなら編者として本望である。
フリッツ・ルンプ年譜
明治21(1888)年
1月5日、ドイツ・ベルリン近郊シャルルロッテンブルグで誕生。本名はフリードリヒ・カール・ゲオルク・ルンプ(Friedrich Carl Georg Rumpf)。 父親は、フリードリヒ・ハインリッヒ・ルンプ(Friedrich Heinrich Rumpf 1858-1927、Fritz
Rumpfとも名のった)、ドイツで有名な画家でもあった。祖父のフリードリヒ・カール・ルンプ(Friedrich Carl Rumpf 1811‐93)はフランクフルトの法律顧問。北原白秋は「ゲーテの門番であった」といっているが、ルンプ家の祖はフランクフルトの名門でゲーテと関係があった。
明治26(1893)年 5歳
ルンプ一家はポツダムを経て、古都ヴュルツブルグに移り住む。
明治27(1894)年 6歳
ヴュルツブルグ唯一の福音派(プロテスタント)の小学校に入学。
明治28(1895)年 7歳
一家は、ポツダムのハイリガー・ゼー湖畔に新居を建て移り住む。
明治31(1898)年 10歳。
人文系王立ヴィクトリア・ギムナジウムに入学。
明治36(1903)年 15歳
このころ、画家の父、ポツダムのルンプ邸のサロンに集まる芸術家からジャポニズムの影響をうける。ポツダムのドイツ陸軍士官学校に留学していた山本茂中尉(日独戦争開戦当時)から日本語を教わる。
明治38(1905)年 17歳
このころ、ベルリンのクロースターシュトラーセ75番地にあった王立美術学校(Koenigliche Kunstschule)に学ぶ。また、ベルリンにいた日本人「テラウチ・キンイチ」と交友を交友を結ぶ。
明治40(1907)年 19歳
美術教師試験に合格。1年志願兵として入隊、12月、軍人として中国チンタオに赴き、上海、香港も訪れた。
明治41(1908)年 20歳
8月、除隊し日本に渡る。東京帝大の医学部の基礎をベルツと共に築いた故ユリウス・スクリバ邸に滞在。
明治42(1909)年 21歳
東京神田の洋画家安田稔の旅館に下宿。木版彫刻師伊上凡骨に弟子入りする。2月13日、初めて会った木下杢太郎からパンの会に誘われる(『木下杢太郎日記』)。『スバル(昴)』3月号の消息欄に、木下杢太郎がルンプの来会を記し、「ステーションの物まね」がドイツ語で紹介される。3月13日、パンの会に出席。その後木下杢太郎、北原白秋らとの交友深まる。3月27日、パンの会に出席。4月10日の「パンの会」案内状に、発起人の一人として北原白秋、石井柏亭、太田正雄(木下杢太郎)、吉井勇、山本鼎、凡骨ら12名と名を連ねる。『スバル』4月号の裏表紙に石井柏亭のスケッチ「パンの会に於ける、太田、ルンプ、北原、吉井」が載る。『方寸』5月号に4色刷り版画「絵はがき」が載る。石川啄木編集の『スバル』(第5号)5月号の裏表紙に「海辺の漂泊者」、6月号に「扇模様」を描く。『木太刀』6月号に挿絵「青葉」を寄せる。7月15日、森鴎外を訪ねる。29日、再び森鴎外を訪ね午前1時まで語る(「鴎外日記」)。10月刊行の『屋上庭園』第1号にスケッチ「銀座」と詩「京都の印象」(ドイツ語)が載る(目次にスケッチ「須田町」があるが載っていない)。ルンプを詠った杢太郎の詩「日本在留の欧羅巴人」も載る。10月23日(土)、パンの会主催でルンプの送別会が松本楼で開かれる。10月27日、横浜から長田幹彦、パトロンであった寺内氏らに見送られ、船で帰国のためドイツに旅立つ。『スバル』11月号の消息欄に江南文三が送別会のことを記述、吉井勇が「この歌をFRITZ RUMPFに餞す」と短歌15首を寄せる。11月19日、伊豫丸からの手紙が鴎外に届く(「鴎外日記」)。
明治43(1910)年 22歳
2月、『屋上庭園』第2号に長田幹彦の送別文「横浜より」が載る。『方寸』5月号に版画「自画像」「評論家」が載る。9月、吉井勇が歌集『酒ほがひ』刊行、「この歌をFRITZ RUMPFに寄す」と付記した短歌30首を載せる。
明治44(1911)年 23歳
ベルリン工芸美術館付属学校に入学、来日した事のある画家エミール・オルリクに学ぶ。9月ころから、弟アンドレアスとフランス・パリで生活。グラフィックアートを学び、ロートレックにひかれる。木下杢太郎、『朱欒(ザンボア)』11月号に詩「十月の哀歌」を寄せ、「ゲルマニア人いかに」と触れる。
明治45、大正元(1912)年 24歳
1月、パリに来ていた、与謝野寛、石井柏亭らと会う(『柏亭自伝』)。同月、ベルリンに来た柏亭と会い、ポツダムの自宅に案内する(『柏亭自伝』)。4月のイースターの頃パリから帰郷。白秋主宰の『朱欒(ザンボア)』に鶏のスケッチが載る(刊行月不明)。のち『とねりこ』(詳細不明)の扉絵に使用。
大正2(1913)年 25歳
3月、中国上海に渡り、再び来日し長崎、奈良、日光、京都などを旅行。神戸のテラウチ・キンイチに会い日本での就職を依頼。6月、父の友人でベルリン王立美術図書館の日本美術研究家ペーター・イェッセンを案内し京都などへいく。この年、兵隊歌集『兵たちが町を行進するとき』を刊行。
大正3(1914)年 26歳
4月15日、東京の「東アジア自然学及民俗学のためのドイツ協会」〔ドイツ東洋文化研究所か〕主催のハアゲマンの講演会に出席、森鴎外と会う(「鴎外日記」)。鴎外、『我等』5月号に「カルル・ハアゲマン」(のちハアゲマンと改題)を寄せ、ルンプと会ったことを記す。7月刊行の木下杢太郎『南蛮寺門前』(春陽堂)の表紙画・背文字を描く。追って婚約者アリス・へラーが来日、スクリーバ邸で会うが一週間で帰国。緊急召集を受け、チンタオに向かう。7月28日、第一次世界大戦が勃発し、8月23日、日本とドイツが開戦、11月7日チンタオ陥落、俘虜となる。11月24日、「明日、俘虜として日本に行く」と、アリスに書簡。12月12日、収容されていた熊本俘虜収容所から大分俘虜収容所に移される。
大正4(1915)年 27歳
2月11日、大分俘虜収容所から出した書簡が鴎外の元に届く(「鴎外日記」)。北原白秋主宰『ARS』2月号に「二人の支那の女」が載る。
大正5(1916)年 28歳
大分俘虜収容所から出した、12月30日消印の「謹賀新年」と書かれた絵葉書が木下杢太郎へ届く。(『木下杢太郎宛知友書簡集』)12月、収容所でカスペリ人形劇を作り、演じる。
大正6(1917)年 29歳
このころ、人形劇、演劇などを上演、監督なども務める。俘虜収容所でスケッチ「Das Oita-Gelb-Buch(大分黄表紙)」を作る。
大正7(1918年 30歳
2月1日、習志野俘虜収容所に移る。絵葉書などを作成、日本民話の翻訳をする。木下杢太郎、9月4日東京駅のホテルで、詩集『食後の唄』の序文を書き、ルンプを詠った未定稿詩「麦酒の歌」を引用、12月アララギ発行所から刊行。11月、ドイツ降伏。
大正8(1919)年 31歳
5月19日、森鴎外宅で山本茂大尉(中尉から昇進)と鴎外がルンプについて相談(「鴎外日記」)。この日、『東京朝日新聞』に、収容所にたルンプらのコメントと写真が載る。大分で書いた『大分黄表紙』が、同じ俘虜収容所にいたデルリーエンの手で刊行される。12月、収容所から解放される。
大正9(1920)年 32歳
1月12日、ルンプが民謡訳本の序文のことで鴎外をたずねる(「鴎外日記」)。1月19日、ルンプとウエークマン、佐佐木茂索(当時、時事新報社記者、のち文芸春秋社社長)が鴎外を訪ね、訳詩集の序文をもらう(「鴎外日記」)。日本在住を希望するが,断念し2月2日上海で「はどそん丸」に乗り込み、4月5日ごろにポツダム帰る。ポツダムの実科ギムナジウムの美術教師となる。アリス・へラーと結婚。
大正10(1921)年 33歳
長女マリアンネ誕生。『Japanische
Bühnenkunst(日本の舞台芸術)』を共著で刊行。6月10日の『鴎外日記』に、「酬Fritz
Rumpf」と記される。パリに留学中の木下杢太郎に、ドイツからのルンプの手紙が届く(11月31日付、妻太田正子宛書簡に記載)。
大正11(1922)年 34歳
ポツダム建築監督署の臨時雇いに転職。9月17日、ドイツ旅行中の木下杢太郎とベルリンで再会する(『杢太郎日記』)。
大正12(1923)年 35歳
『Spielzeug der Völker (民族玩具)』を共著で刊行
大正13(1924)年 36歳
『東アジア誌』に「江戸における日本木版画の初期」などを書く。『日本の浮世絵版画の巨匠たちー彼等の生涯と作品の新事実』を刊行。フーゴ・クニケ編フランツ・ヴェルナー・シュミット訳『銀河の流れのほとりでー日本の童話』の挿絵を描く。
大正14(1925)年 37歳
ベルリン大学で、近松門左衛門、河竹黙阿弥、伊原西鶴など、日本文化・美術研究を本格的にはじめる。
『日本の初期木版画―トニー・シュトラウス=ネグバウワーのコレクションより25枚をコロタイプ印刷複製出版』を刊行、解説を書く。
大正15、昭和元(1926)年 38歳
次女バルバラ誕生。ベルリンの「日本研究所」(Japan‐Institut)の所員になる。
昭和2(1927)年 39歳
『近代風景』1月号で「パンの会」を特集、白秋の「フリッツ・ルムプのこと」などが載る。1月、ベルリン日本研究所の助手に任命される。4月27日の深夜、美術商フェリックス・ティコティンの画廊で「日本の幽霊」をテーマに展覧会が開催され、そのカタログ『日本の幽霊』を作り、解説を書く。『年国際書籍美術見本市公式カタログ』を、フリードリッヒ・マックス・トラウツ博士らと編集、解説を書く。この年、研究所の蔵書及びベルリン美術図書館に依頼された絵入り本、木版画購入のため三度目の来日、武井武雄らと会う? 7月23日、父フリードリッヒ・ハインリヒ・ルンプ死去。
昭和3(1928)年 40歳
日本から帰国。『トニー・シュトラウス=ネグバウワー・コレクション、17世紀から19世紀の日本の浮世絵版画』を刊行し解説を書く。木村荘八、油絵「パンの会」を春陽会展に出品、そのなかにルンプを描く。
昭和4(1929)年 41歳
2月、鹿子木員信が編集者となって独日研究会誌『Yamato(大和)』が創刊され、「日本の童話」「忍術」など論文を多数寄稿する(鹿子木が帰国した後の30年からは独日協会誌として32年まで刊行)。この年外務省特使として、皇太子に婚礼の贈り物を持ち、日本へ来たという。吉井勇、木下杢太郎宛六月二十七日消印の書簡で、「二三日前久しぶりでフリッツルンプ先生に会った」と知らせる。(『木下杢太郎宛知友書簡集』)
昭和5(1930)年 42歳
ベルリン美術図書館において、木下杢太郎と面識があった館長クルト・グラーザーと共同で「日本の演劇展」を開催。2月『Japanisches Theater(日本の演劇)』が二冊刊行され、一冊目にフリードリッヒペルチンスキー、佐野和彦と共に論考「日本演劇の歴史」など二編を寄せ、二冊目に「謡曲」「能の動きの歴史」などを寄せる。『大和』に「日本の民謡―月見歌」「歌舞伎以外の日本の演劇」などを発表。3月、設立会員の一人として「独日協会」を発足させる。
昭和6(1931)年 43歳
学位取得、日本研究所助手Cのポストにつき、学生に日本文化史を教える。『大和』に「日本古伝説」「大津絵」など、論文を多数発表。9―10月、ティコティンの画廊で「浮世絵マイスターの絵」をテーマに展覧会が開催され、そのカタログを作る。博士論文『1608年の伊勢物語と同著が17世紀の日本の挿絵に与えた影響』をベルリン大学に提出し受許される。
昭和7(1932)年 44歳
『1608年の伊勢物語と同著が17世紀の日本の挿絵に与えた影響』をベルリンで刊行、同論文でベルリン大学から博士号を取得。『SHARAKU(写楽)』を刊行する。カタログ『日本の木版画』に解説、『大和』に「日本の童謡について」「因幡の白兎の童話についての所見」「Wakai Oyaji(注・美術商若井兼三郎のこと)」などを書く。10月21日、ドイツ旅行中の竹久夢二と会う。黒田(日本研究所日本人主任の医師で美術史家の黒田源次・京都帝大卒1889‐1957か)と三人で夕食、夢二にスペインへ行けという(『夢二日記』)。
昭和8(1933)年 45歳
『ティコティンの日本美術コレクション』に解説を書く。10月28日、ベルリンに留学した東山魁夷、日本学会(日本研究所)でルンプの講演を聞く。(東山魁夷『僕の留学時代』)この年、ヒットラーが首相に指名される。親しかったユダヤ人のベルリン美術図書館館長クルト・グラーザー、「独日協会」の書記を務めたアレクサンダー・カノッホが職を追われ、画廊主ティコティンらも亡命する。
昭和9(1934)年 46歳
W・K・野原著『上海のエルヴィン』の装丁を手がける。論考「Spielkarten(カルタ遊び)」を『歴史民族学年鑑』に書く。この夏、東山魁夷がルンプの「日本演劇史」の講義を受ける。(東山魁夷『僕の留学時代』)
昭和10(1935)年 47歳
ベルリン民族学博物館の依頼で展示品収集のためバスクへ旅行。1月発行の、「ドイツ東洋文化研究協会」機関紙に、論文「案山子考」を寄せる。ベルリン日本研究所と東京の日独文化研究所によって『Nippon(日本)』が刊行され、「日本の宗教史」などを寄せる。
昭和11(1936)年 48歳
『Nippon(日本)』に鳥居龍蔵論考などを書く。ベルリンでオリンピック開催、後のドイツ語学者加藤一郎がベルリンでルンプに会う。このころ文化雑誌『Die neue Linie』の日本特集号に加藤と関係する。
昭和12(1937)年 49歳
ベルリン民族学博物館の依頼で展示品収集のためポルトガルへ旅行。『Das Soldatenkleid(軍服)』を刊行。W・M・サッカレー『ゴリアス・オグラディ・ガバガンの世界を震撼させた冒険』を翻訳、手彩入りで出版。ベルリンで刊行された名取洋之助著『大日本』の前書きを書く(1947年に再版)。『Fujiyama,der ewige Berg Japans(葛飾北斎)』の刊行に協力、『Die neue Linie』に「Shibumi und Sabi(渋みと寂び)」などを寄稿。4月25日、ベルリン旅行中の高浜虚子と日本学会で会い、26日には日本人会の俳句会に出席 (虚子『渡仏日記』) 。
昭和13(1938)年 50歳
『Japanische Volksmaerchen(日本の民話)』を刊行、131編を紹介。
昭和14(1939)年 51歳
2月開催のベルリン「日本古美術展」に協力、ヒットラー臨席のもとに開催。政治的な画策により『ベルリン・ローマ・東京』(44年まで)が刊行され、「Unko Zenshi.Nach K.Yamamoto」などを寄稿する。9月、ドイツ、ポーランドに侵入し第二次世界大戦勃発。
昭和15(1940)年 52歳
語学の知識を買われて、国防軍総合司令部外国・防諜局通称ABP(諜報機関)に召集されベルリンへ、後にはパリに赴任する。
昭和16(1941)年 53歳
『日本案内』が刊行され47項目を寄稿。兵隊たちのために挿絵入りの歌集を共著で刊行。
昭和17(1942)年 54歳
3月7日、自宅が火災にあい木版コレクションの一部を焼失。
昭和18(1943)年 55歳
『野戦郵便版日本昔話集』刊行。
昭和20(1945)年 57歳
終戦直前、ポツダムの家が砲撃により破損。5月8日、ドイツ降伏。自宅がソ連軍の宿舎になる。7月26日、ポツダム宣言が出される。8月15日、日本降伏。10月15日、木下杢太郎死去。長田秀雄が「パンの会の思出など」、斉藤茂吉が「追憶」を『文芸』12月号に寄せルンプに触れる。
昭和21(1946)年 58歳
石井柏亭、『芸林阨焉x4月号「木下杢太郎追憶」のなかでルンプに触れる。
昭和22(1947)年 59歳
ソ連がベルリンを封鎖。
昭和24(1949)年 61歳
5月、肺の疾患によりドイツ・ポツダムの病院で死去。この年、ポツダムが東ドイツ領となり、ポツダム宣言で有名なツェツィーリエンホーフ宮の近くのルンプ邸はアパートになる。
昭和36(1961)年
8月13日、一夜にしてベルリンの壁が築かれる。
昭和64、平成元(1989)年
11月9日「ベルリンの壁」崩壊。ドイツ統一後、ポツダムの邸宅に住んでいた芸術家が立ち退きを拒否するが、その後ドイツのファッションデザイナー・ヴォルフガング・ヨープの邸宅となる。この年、ドイツ・ベルリン日独センター及びダーレムの国立東洋美術館で、「Du
verstehst unsere Herzen gut」と題された大規模な「フリッツ・ルンプ展」が開催される。
平成2(1990)年
『東京・ベルリン(19世紀―20世紀における両都市の関係)』(ベルリン日独センター)が刊行され、ペーター・ペルトナーによって「パンの会」時代が紹介される(須本由喜子訳による邦文付記)。
平成12(2000)年
1月、千葉県習志野で「ドイツ兵士が見たNARASINO 1915―1920」が開催され、俘虜時代のルンプ作品などが展示紹介される。
平成13(2001)年
1月、千葉県習志野市、8月長野県飯田市で「80年前のドイツ兵による人形劇展」が開催され、俘虜時代のルンプ作品などが展示紹介される。
平成17(2005)年
3月15日―5月8日まで、伊東市木下杢太郎記念館で杢太郎と交友があったドイツ人東洋美術家クルト・グラ
ーザーとフリッツ・ルンプとの交流を中心とした特別企画展「杢太郎と異国情調U」が開催される。
平成18(2006)年
1月28日―5月7日まで、東京森美術館で「東京ベルリン・ベルリン東京展」が開催され、ローヴィス・コリント画『フリッツ・ルンプ家』(少年時代のルンプが描かれた作品)、及び大正4(1915)年にフリッツ・ルンプが描いた「歌舞伎の顔」「熊本紙人形」のスケッチブック(ベルリン東洋美術館所蔵)2冊が展示される。
平成20(2008)年
10月13日、岡山大学で公開シンポジウム「日独文化交流史上の在日ドイツ兵俘虜とその収容所」が開催され、安松みゆき氏、小谷厚三(盛厚三)氏がフリッツ・ルンプについて報告。
【参考文献】
・野田宇太郎「フリッツ・ルムプ」(『パンの會』昭和24年7月、六興出版)
・野田宇太郎「フリッツ・ルンプ」(『日本耽美派文学の誕生』昭和50年11月、河出書房新社)
・富士川英郎「フリッツ・ルンプのこと」(『西東詩話』昭和49年5月、玉川大学出版局部)
・森鴎外『鴎外全集』 (岩波書店)
・『木下杢太郎全集』 (岩波書店)
・『木下杢太郎日記』 (岩波書店)
・『木下杢太郎宛知友書簡集』(岩波書店)
・北原白秋『白秋全集』 (岩波書店)
・『吉井勇全集』 (番町書房)
・石井柏亭『柏亭自伝』(昭和46年7月、中央美術出版社)
・『Du verstehst unsere Herzen gut』(ベルリン日独センター、1989年)
・『東京・ベルリン(19世紀―20世紀における両都市の関係)』(ベルリン日独センター、1997年)
・ノルベルト・ニュルンベルガー「日本で捕虜になったドイツ人―両国文化の掛け橋となる 『Deutschland(ドイッチュラント)』NO,1 2/95)
・Hartmut Walravens「Zuzutraun waer's Euch
schon bei Eurem Spatzengehirn…」 (『Japonica Humboldtiana(ヤポニカ・フボルティアナ)』第3巻・1999、第4巻・2000、第5巻・2001、フンボルト大学日本学紀要)
・特別資料展『ドイツ兵士が見たNARASINO 1915―1920』(平成12年、習志野市教育委員会)
・習志野市教育委員会『ドイツ兵士の見たニッポン』平成13年12月、丸善ブックス)
・加藤一郎「Berlinで会ったRumpfさん」(『Brunnen(ブルンネン)』第118号、昭和44年、郁文堂)
・徳沢得三「Fritz Rumpfのこと」(『Brunnen(ブルンネン)』第115号、昭和44年、郁文堂)
・山室静「日本の民話・ヨーロッパの民話」(『日本児童文学』1973年1月)
・高濱虚子『渡佛日記』(昭和11年8月、改造社)
・鈴木皷村「色あせた女性」(『皷村襍記』昭和19年2月、古賀書店)
・徳永康元「『皷村襍記』」(『ブダペストの古本屋』1982年4月、恒文社)
・瀬戸武彦『青島(チンタオ)から来た兵士たち』(2006年6月、同学社)
・瀬戸武彦「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(2)・(4)・(5)」 (『高知大学学術研究報告』第48巻1999年、第50巻2001年、第52巻2003年)
・吉田正彦「フリッツ・ルンプ年譜」(1991・9・15作成、未発表作品)
・吉田正彦「『パンの会』の洋人・フリッツ・ルンプ」(未発表作品)
・加藤暁子「ドイツ人捕虜収容所の人形劇」(『日本人形劇1867-2007』、2007年12月、法政大学出版局)
・安松みゆき「第一次大戦期のドイツ人の俘虜生活と美術活動-日本美術史家および版画家フリッツ・ルムプフと
大分収容所の場合」(『別府大学紀要』第45号、2005年)
・安松みゆき「第一次大戦下のドイツ人俘虜大分収容所で生み出された美術をめぐって」(『20世紀における戦争と表象/芸術-展示・画像・印刷・プロダクツ』報告書、2005年3月)
・雑誌『屋上庭園』『方寸』『昴(スバル)』『ARS』、その他
【編者註】
年譜作成にあたって、ベルリン日独センター桑原節子氏、高知大学教授瀬戸武彦氏、習志野教育委員会星昌幸氏、また民俗学者マリアンネ・ルンプ女史(1921-1998)が『ルンプ図録』に寄せた「フリッツ・ルンプの生涯と仕事の概要」をもとに作成した、明治大学教授吉田正彦氏から未発表作品「フリッツ・ルンプ年譜」などをいただき、多くのご教示をいただいた。深く感謝したい。(2011年1月)