田川赫の紹介


 田川赫さんは1917年生まれの染め絵作家です。2000年に亡くなりました。
 長く記憶にとどめられるべき人だと思ったので、『田川赫さんについて想い出すことなど』と題してエッセイを書き始めました。幾つかの不明確な点について夫人のところに確認に行った際、かつて彼が新聞などに発表したエッセイを見せていただき、コピーさせていただきました。
 魂に染み込むようなその語り口が、自分のエッセイの資料として利用されただけで忘れ去られてしまってはあまりに惜しいと感じましたので、打ち直してホームページで閲覧できる形に致しました。文明に批判的だった田川さんのことだから、自分の文章がコンピュータ世界なんかに顔を出すことになって、今頃どこかで苦笑しているかもしれない、そんな思いがしないでもありませんが・・・・・
 
 
 
田川赫文章選 (ほぼ日付順)
 
目次
 ● 1.  戦後だけが人生
 ● 2. 作家と読者の関係 <中野重治のことなど> 
 ● 3. 西の旅から @ 〜 E
 ● 4. 思い出の旅 「素」にひかれ韓国紀行
 ● 5. 広報「まるがめ」×3
 ● 6. 明浜筆記
 
 
 

 ● 1.           戦後だけが人生
 
 戦場のフィリピンから陸軍病院を転々して六年間、鹿児島の連隊を出た朝のことを書こう。あんな美しかった朝は、いまもかつてなかったからである。
 営門をでて、衛兵の視界から私の後ろ姿がみえる真っ直ぐな道は、ゆっくりと歩いたと思う。しかし、伊敷の電車道を曲がるやいなや、私は急に駆けだした。再び兵舎へ戻れと大きな声の命令が、後ろから怒鳴るような気がしたからである。どんな道をどう走ったかは覚えていない。行く当てもない。ただ、細い道から道を伝って駆ける。兵舎から少しでも遠く離れればいいのである。
 市中をぬけ、田舎道へ出たところで、陶郷苗代川への道を訊ねた。そこには昔から、黒い美しい陶器が鮮人の子孫によって作られていることを知っていたからだ。訊ねたのは、花売りの老人であった。肩の荷には、まだかたい桃の花があった。おりからの朝の陽があった。麦にも畑にもあった。
 私は涙を流しぱなしで歩いた。この道を曲がろうと思えば、自分の意志で今は曲がることができる。歩をゆるめることも、止まることもできる。本当だろうか、と、幾度も止まったり、歩をゆるめてためしてみた。やはり本当であった。そしてこんな素晴らしいことはないと思った。
 苗代川まではかなりの道であったとおもう。竹藪のはずれの、そこでみたのは、白髪の陶工が静かに廻すロクロであった。ロクロが廻ると、太い手先から土が器になって産まれてくる。つきることなく次から次へうまれてくる。
 しゃがんだまま黙っていつまでもみていた。者を作ることは何と素晴らしく、美しい人間の仕事か、兵隊は物をつくらないなとおもった。その家は鮫島さんという家であった。讃岐までかえるという私に、ふかした芋のいくつかを小さい壺にいれてくれた。
 戦争はまだ終わっていなかったので、私はすぐ徴用で航空機製作所へ入れられた。ヤミという言葉をはじめて知り、石鹸も紙も、なんにもないことを知ったのはそのころである。そのころのことは、<戦争中の暮らしの記憶>にあるので書かない。ただ、ああいった悲惨で異常とも思えないほど曲がった自分をひたすら恥ずかしく思う。
 これは、ひどいことだと思うのだが、戦争が終り、しばらくするまで、私は、私自身のことについても、なに一つ知らなかった。知らされなかったからとか、そんな教育を受けていなかったからとかは、決して私は言うまいとおもう。そういってしまえば、あの貴重な戦争という体験が、私自身のものでなくなってしまうからだ。
 自信のうちから起こってくる感情にしても、思想や生活にしても、それは初めは大変たのしい、輝く芽のようなものであっただろうとおもえるのだが、それがすぐ、暗く重く妙に曲がり、どうにもやり切れなくなり、そのままで現状肯定へとなってしまうことが、すべて私自身の生来の性状のこととして、人生の前半を過ごしてしまったこと、それは後悔として、恨みつらみとして今もある。
 自由といい、民主主義といい人間性といい、そういう言葉すら戦争が終るまで私は聞くことすらなかった。その意味の重大さや貴さを知ったのは人生の後半であった。これはもう、死に至るまで決して離すまいと決意している。なによりもまず知ることである。知らなかったとか、知らされなかったから、を言うまえに、知ろうとすることである。人間は知れば必ず正しく立ち向うことができると思う。
 私はいま五十歳を越えようとしているのだが、本当は戦後の生れなのだと固くおもっている。何一つ正しく教えられず、知らず、名のみ生きてきた人生など、人生のなかへ入れたくない。   
             (田川 赫・五十一歳・丸亀市 )
1969年8月15日 暮しの手帖社発行 「戦争中の暮しの記録」
 
 

 ● 2.  作家と読者の関係 <中野重治のことなど>   田川 赫
 
 このごろ、中野重治とはテレビでよくであう。最近も、犀星、鴎外と二つの座談会に出ていた。
 短い時間で要領よくまとめる才覚がないようで、非テレビ向き、それは読者としてうれしくないこともなかった。もうあらかたは忘れてしまったが、モーニングショーといったものであった。
 これには観ている私が困ってしまった。司会者が海についての思い出をたずね、中野は日本海を初めてみに行った少年の日を語っていた。つづいて海の歌でお好きなものをというのに彼が注文するやいなや、ハモンドオルガンをまじえた楽団がひどく感傷的な<われは海の子>を演奏しはじめる。予期せぬふうを装って、じつは筋書きどおり事をはこんでゆくしらじらしさはおいて、その曲が鳴っているあいだ、正面から横から、遠く近く、役者のようにうまく間がもてないでいる中野を写しつづけるのは、いたぶっているようで無惨とも非礼とさえもみられるものであった。
 中野のような作家を、あのようなかたちでテレビカメラの前にひきすえるのはよくない。ひきすえられることを承知した中野もよくない。私はすぐに手紙をかいた。君のいうことは当たっているところもあり、当たってないところもあると、おりかえし返事があった。当たっているところはわかる。しかし、当たってないところはどこだろう。当たってないことを書いた私がくやまれてくる。当たってない部分は、私にとって大切な部分であるはずのものだ。いまもそのままでいることが気になる。このことは、作家と読者の関係という重要な問題にかかわりあってくる。<芸術の心>のなかで中野はこうかいている。
 「人と人とが、ほかのものでなく芸術を通じて結ばれた場合、その結びつきは全人間的なものとなる。漱石のような作家がいて、そこへ、彼の作品に親しんできた読者のあるものが、生活問題に行きあたってしばしば相談に来たのは…中略…文学と離れた問題をもってやってきたのは、そこにほんとうの人生の知恵があると信じられたせいである。芸術作品を通じて見ず知らずの人間と人間が、真実の信頼で結びつけられたからである」
 昨年のことになる。土佐のいなかあるきで雑多な買い物をしたことがある。私の買い物は散文的で、必要だから買うといったものではない。家に帰り、部屋でひろげ、知人のだれかれの顔とものをむすびつけつつ荷造りするのが私は好きだ。
 しいの実、そば粉、草もち、ほしかれい、和紙など。和紙に、ちょうど手元にあった飯山町の老人の手になる箒をそえて中野へ送ったことがある。
 「こういうものをいただくイワレもないように思うが、うれしく、ありがたく…という書き出しで「箒もですが、紙のほうにはいっそう頭がさがります。箒のほうの老人と値段とのことを考えると言葉もありません」そして、老人の名を報せてほしいと書き添えてあった。中野はイワレもないというが、美しいものを通して美の共感を得たいということ、それはイワレにならないものであろうか。ただ見ず知らずの人へ突然ものをとどけるのは非礼であると反省した。ひいきの役者に花をおくる、それとおなじにおもってほしいとわびた。
 おくった紙は土佐岩原の山間・きびしい自然条件のなかで作られている。材料の純度はたかく技法もまたたかい。漉(すき)手の生活態度も古格があって、それは物に反映する。紙質の剛直さ、それからくる美しさは無類である。妙にこびて、でろんとした味だけねらったこのごろの和紙のなかにあって際立って立派である。私たちが中野の芸術の中に見出すことのできる、たとえば、ああでもない、こうでもないといいつつしているうちに言おうとすることの中心へ近づいてゆく、その誠実さと、まったくおなじ質の誠実さをもつ紙なのである。
 これは三島などの思想のたいはい、華麗で飾り立てた文章、そういったものとはまるきり縁のない世界である。その岩原の紙に頭をさげる中野に感動する。箒もまたおなじなのだが、こうした荒物の美しさに惹かれる人は少なくはないのだが、社会環境、値段などと物の美しさとをからみあわせて、そうして<頭を下げ声もない>人間は少ない。ここに<白樺>を通過しなかった中野の骨太い浪漫性と、水準のたかい人間性をみることができて感動する。
 壺井栄の碑が建つ記念の催しに中野重治も来るという。碑というものを私はあまりこのまない。とくに芸術家のための碑においてそうである。作品こそが碑であるはずだとおもう。栄の文学を県民のすべてがよみはじめ、すこしづつわかり、人生をかんがえる運動をおこすことが文学碑建立に先立たねばならぬだろう。彼女の作品のすべてに流れる常民の思想と現在の日本の状況をあわせてかんがえ、自分がいまなにをやるべきかを発見し、少しづつからでも行動しはじめることだ。
 中野は讃岐へきたことがあるという。それは暗い次代、例の悪名たかい警察から警察へと送り回される<たらい回し>であったから、留置場のほかは知らないともいう。
 催しの意義が正当に行われ、それが成功するように祈る。その日が澄みわたった秋の一日であることを遠来の客のために祈る。
(日本民芸協会会員・丸亀市在住)
1970年9月22日 四国新聞
 
 
 
 

 ● 3.     西の旅から@   田川 赫
 
 旅立つ日、美学をやっていられる水尾比呂志さんに会ったので、いつも否定的である「建築芸術」についてただしてみた。「芸術であるかないかより、建築は工学であり、なによりも工芸でなければならないでしょうね」と同感された。日本では幸せにも建築は道具でこそあれ、芸術を志向したり、そうみたりする思想はもたなかった。そのことの確認も旅の一つの目的であった。
 私の見たもの、パリ、シアトル、ケルンサンタクローチェ、サンマルコその他ほとんどの教会建築は、ルネッサンスの造作であったが、それらのすべてが神秘的で、天へのぼること、地上を離れれば離れるほど、神の高みに近づくことのできる、天上へのあこがれに満ちていた。ロマネスクの低く小さく、農村風なものと対照的に興味深く思われる。理性、明晰、輝きの勝利は、ゴチックにあるけれども、ロマネスクのもつ安らぎ、柔和さはどこにもない。あれは建築のヒステリーで、様式をデテールの複雑さにおきかえることによって人々を驚かせるためのものとしか思えない。サンタ・スカラの階段で、カソリシズムとの決別を直感したマルチン・ルーテルは当然であった。ルネッサンスの退廃のうえに権力が加わるとき、そこに神が住むはずはない。
 旅の終わりに見たバチカンのサンペトロ寺院に至り、私の思いはその極点に達した。それは神を恐れぬ所業といっていいと思う。その壮麗な虚構、内部の、ことに正面祭壇の黄金燦然たるバロックの怪奇さはなんという無惨さか。わが日光の陽明門の俗悪さなどおとても足下にも及ばぬ。ここにはダビンチの「悲しみのピエタ」がある。昨年だったか、狂気の米国少年によってくだかれた箇所の修復もなったのだろうか、今はガラスの壁をへだてて望見される。案外、彼は正気でやったのではないかと私はふと思った。ダビンチは私にとって何の意味ももたなかった。サンタマリア・デレ・グラツィエの彼の「最後の晩餐」は、戦火による損傷が、かえって別の美しさを加えて私を喜ばせたのであるが「モナリザ」以来、すでにダビンチは私から去っていた。みがきぬかれた大理石に足をとられまいとしながら、足早にこの堂を去るとき、彼の「天地創造」がここにあることを思い出したけれども、ふりかえることもせず、階段をかけおりた。ローマは暑い。行けども向こうへたどりつけぬ。ばかばかしくも広いビツアを横切りながら、はるか北のウンブリアの野をしきりになつかしく思った。アッシジ。その丘の上のオリーブの林のかげの諸堂。ことにサン・ダミアーノの僧院。あの小さくうがたれた窓。あのほの暗い石の壁。絵もない、彫刻もない、つつましい空間にこそ、いまも聖フランシスコの祈る声がある。建築の意味がそこにこそある。   
1973年9月29日 四国新聞
 
 
                  西の旅からA   田川 赫
 
 中心から右と左が全く同じであるシンメトリックな構図なり配置は豪壮であればあるほど権威主義の圧力があって恐れ入るよりばかばかしさが先にたって虚しい。トロカデロに立ってパリをながめるのがそれである。すぐまえのバッシンの池から噴き出す壮麗な水がシンメトリーなら横たわるセーヌにかかる橋も、アナトール・フランソセのアベニュウをはさむ広大な緑地帯、そのはてのエコール・ミリタリーもすべて左右均等になっていてものの五分も眺めていれば退屈してしまう。
 土着のパリジーを追っ払ってのりこんできたローマ人からナポレオン三世にいたるまで、この国の人はよほどコンパスと定規が好きだったようである。
 ヨーロッパを旅する東洋の遊子につきまとって、はなれないゴチック的熱狂はどうにも無感性的にみえてやりきれず名だたるノートルダム寺院の正面に立ってもシンメトリーになやまされる。自らその均等をやぶるべく歩をうつせば、おびただしくくっつけた彫刻の類がうるさい。裏手に回ってやっとほっとするのは正面の奇術的な塔堂の高みを必死なおもいで支える数条の弓なりの追持(せりもち)が建造の構造的力を露出しているからだろう。極端な高さ広さ、非人間的なモジュール、病的な装飾。そういうものを必要とする政治・宗教と、そのたてこもる堂のむなしさ、アホらしさ。同じ権威主義にしても東京の皇居の横たわりのびる風景の安らぎがまだしもなつかしい。
 ある日、日曜日であったがサンミッシェルとサンジェルマンの交わるあたり、下町を歩いてみた。安らかに古風なたたずまいである。どこも重いとびらを閉めてソリッドで生真面目な人々のくらしのにおいがなつかしい。街角のキャフェのうまいゆでタマゴと、しぼってくれるシトロン・ブレッセにパリに来た思いがあった。小路にまよえばワイルドの死んだ家があり、ゆきすぎてふりかえればバルザックの家がある。たしかドラクロワのアトリエやメリメの家もこのあたりにあるはずだ。サンジェルマン・デプレ教会うらの小さい公園で持参の梅干し入りの握り飯を食う。スズメがよってきて飯つぶをひろう。ルクサンブールの公園の昼下がり。森のなかの小さい小屋では水にとかした粉を鉄板で薄く焼いてオリーブをぬり、好みでチーズだのハムやピクルスまでのせて酒をふりかけてくるり巻いて新聞紙をやぶいてのせてくれる。とてもうまい。「これはスフレか」とたずねると焼いているおかみさんが大声でわらう。まわりの連中もどっとわらう。「スフレ、そんな上品なものじゃないよ」マロニエの森の中にはほんとのパリジャンがいる。一人離れて椅子をもちだし分厚いラブレを端然と開いている老婦人、卓をかこんだ盛装の老人たちの遊ぶカードやチェス。玉ころがし。草のかごにいれた子供を両側からぶらさげて歩いている裸の夫婦、樹かげるもる陽と風。ゴチックから解放されて、私もぜいたくな小半日のひるねをたのしんだのである。
1973年9月30日 四国新聞
 
 
                 西の旅からB   田川 赫
 
 夏−。盛り場は遠来の客で埋まっているけれども、それを外れるとパリは実に閑散として、白い夏が輝いている。たまさか、車や人に出会うほどの石道に、アイスクリームの車も花屋の荷車も、こちらが心配したくなるほどの心細さでたたずんでいる。
 古くて厚い石の壁。こんりんざい開くことのないような重さと固さをもった大扉。そんな町屋がせまい路地をはさんで立ち並ぶ。
 たぶんそれも十五世紀ごろのたおれかかったインムーブルは、太い頑強な木で支えられても、暮らしにさしつかえないのか。清潔な窓布がゆれて、ゼラニュームが咲いているところをみると、バカンスへも行けないでこの日曜日をひっそりと住んでいるのであろうか。ここサンジャックあたり、ゾラのじだいからちっとも変わってなくて、そのまま生きているから、ものなつかしい。
 フランスの衰退はドレフェス事件の頃にはじまり、民衆のレジスタンスもパリの蜂起もふれず、バレリーのアレクサンドラを引きあいにだしてまで、今も「フランス衰退説」は続いている。このあたり五月革命の跡をとどめていて、美しいあのトリコロールの輝く中学校の壁にすら「フランス万歳!!」のおさない字がはっきり残っている。衰退、いまのところモンテスキューの故国にそれはみえない。
 街角のこわれかかったインムーブルの下、ほんとに小さい仕事場とも商店ともつかぬ、子供服だけ売っている店をみつけた。扉は閉ざされていたので、ウインドーからのぞくしかなかったが、中央の仕事机に炭火をいれるアイロンがある。古風なミシンがあり、出来上がった服が壁につるされている。なんと古風な布と古風でかわいいかたちであることか。それには手編みの靴下から、レス飾りのついたボンネット、服地で縫った靴までそえてある。私はこの職人に会いたいと無性に思った。好きで好きでつくり、好きで好きでたまらぬ人だけが勝ってゆく。そういう職人がいきていくことができるパリ。
 その前日、目もくらむ値段とさえきった商品のならぶサント・ノーレ街の名店を歩いてみた。革で名のあるエルメスのごときは、精巧をきわめた製品をうやうやしくならべ、それらは私どもの買える値段ではもちろんないが、ネクタイ一本も欲しいのが見当たらない。 好きで好きで作った気持ちがまるきりなく、世界のエスタブリシュメントにひたすら奉仕する姿勢だけしかないからで、まさに虚栄の産物。人々はそれをシック≠フ名で呼ぶであろうが、私にはあのサンジャックの子供服屋が忘れられぬ。数百年の民衆のなかで、みがきあげられたエスプリがそこにある。この国民は生まれつき、色彩、つりあいに対する感覚がそなわっているのだ。(日本も昔はそうであった)
 バリケードを築いた舗道はダンスホールに変わる。マロニエのベンチは恋人たちのためにつくられている、このシックさこそ、ほんものなのである。サント・ノーレ街、それはもうパリではない。
1973年10月1日 四国新聞
 
 
 
                 西の旅からC   田川 赫
 
 ととのって美しすぎるのもかえって魅力のあわいものであるし、週刊誌そのほかで子供のときから親しまされた山紫水明の地スイスにいまさらとも思う。見ないまえからあきあきした感じ、それに通俗的な美しさのゆえに気恥ずかしくてどうもコースから外したくなるスイスである。
 だがゆけば発見はあるものだ。インターラゲンから登山鉄道で山を見に登ったが一時間もするとユングフラウからメンヒ、アイガーの峯が一望に立ちならぶ壮観には社内総立ちで声をあげてそれがいつまでもつづくのである。静かにみろとは言うほうが無理で「うわっカレンダーみたい」と身をよじってよろこぶ娘さんの横にいて「ほんとほんと」と同感せざるをえない。もう気恥ずかしさなどなくなって唖然とするだけだ。アイガーの北壁をよじ登った通子女史など登山家などという連中はいったいどういう構造の頭になっているのかと一瞬思いがよぎる。見るだけで胸のつぶれそうになる壮絶な風景なのに、科学的に、技術的にながい検討にふけり、ついに「登る行為」をなすそのことの精神構造と「あれよあれよ」とただみとれているだけの私たちと、いずれにしても五年前に買ってまだ一度も針をおろしたことのないワグネルの「トリスタンとイゾルデ」まだ開くことのできないでいるダンテの「神曲」その巨人的構築はやはりこの雄壮な山々がどこか母胎としてあるにちがいない。みるだけで「しんどい」しんどいのはこれだけではなくヨーロッパの歴史にかかわりあう芸術も文化も何らかのかたちで「しんどい」ものの所産であってみれば、たくみに小器用にそれをさけて通った日本の歴史と文化のなんと植物的なものであることかと思う。
 スイスの農村の美しさもまた絵はがきと変わらない。手入れの行き届いた畑と牧場は山をめぐり、すべての家々は木と石による伝統を一歩も崩さないのみか現在たてられつつあるものもまったく同じ平面と材料手法をかたくなにまもっている。日本だとあり得ないことだ。鉄骨ブロックで建てられたそれは四点セットと称する家具と木を燃やすことのできないマントルピースとシャンデリアの二つぐらいはぶらさがっていようというものだが、母屋も納屋も家畜の小屋さえも表も裏もなく清潔に保たれ冬のために準備されたマキは白い切り口をみせてきれいに積まれている。「まるで公園みたい」とさけぶ娘さん。公園は働く場ではないが、ここは働き生活する場なのである。あのうすぎたない野立看板の乱立はほとんどヨーロッパではみることはできない。ことにここでは絶無である。国家的な規制でそうあるにしても、それをかたくなに守るスイス人の自然での愛は、やはり「しんどい」ヨーロッパが底にあるからにちがいない。「ディスカバースイス」。「青い国スイス」なんてポスターはりに狂わなくても、だから世界から人は来るのである。
1973年10月2日 四国新聞
 
 
                  西の旅からD   田川 赫
 
 どの画家もほとんどが大扉を下ろして八月いっぱいの休暇である。ロンドンを手始めにアムステルダムで六万円のダイヤモンドを二つ三つ、それからは行くさきざきで大道の安香水にいたるまで手をさしのべたさるご婦人がローマの飾り窓をのぞいて「おあずけ」をくった犬のようにわめいた「やんなっちゃう。これだからイタリアは貧乏になってお国がダメになっちゃうんだわ。もっとはたらかなくっちゃあ」。
 バカンスのためにイタリアやフランスが貧乏になり、その結果、お国がダメになったかどうか私のしる限りではないが、「嫁ぐに追いつく貧乏なし」の徳川時代から「高度成長経済」の田中時代にいたるまで尊徳精神で「お国」までせおって立つ気のこのご婦人を化石をみるおもいで興味ぶかくながめた。なにも皮のバッグが買えないからといってバカンス亡国論までもちださなくてもいいと思うし、締まっている庭の扉までがたがたさせなくてもいいと思う。ミラノの街の角に立つ白地に赤い丸をみて「イタリアじゃ日本ってずいぶん人気あるのね」と思わず手をたたいたのもこのご婦人である。なんのとてつもない、この日の丸は「ただいまこの掲示板は空いています」という標識なんで「日本の方はよく誤解なさいます」案内嬢のえんぜんたる顔での説明のあともなお感激さめやらぬ風な面もちであった。
 ありがたくいただいた二日、三日の休暇に自前の日曜日をくっつけてもせいぜい四、五日の休暇を夜に日をついて名所旧跡かけずり歩き、土産片手に親類縁者を泊まり歩く日本のレジャーは、国が富んでも物心両面にわたって個人は貧しい証明にほかならず彼らの過ごし方とはよほど違うことを考えるべきだ。
 風光明美、絶景の地にももちろんキャンピングはするけれども、それまでいかずとも町や村のはずれの、ほんのちょっとした林の陰、山の陰、小川のほとりをえらんで天幕を張り、卓を持ち出してカードを遊び食事をたのしむ風景は欧州の全土にみられる。たいした見識である。さるドライブインで、まる裸の子供三人、太った女房もろともおんぼろ車に詰め込んだ労働者は、汽車なら二時間のローマ・フィレンツェを二週間にかけて旅するという「たいへんですな」というと「あんたも」と、アイスクリームをなめている女房と子供たちをちらっとながめてビールを飲んだ。亭主の心境は洋の東西をとわずおなじでもその方法はまるきりちがうのである。
 なにも名所歩きや親類縁者めぐりがわるいというのではない。ふみたおされてもなお集中豪雨的にそこだけに集まる個性と見識のなさは「お国」のためにもよくない文化なのである。働いて消費する、それだけしかない国と、人間が人間として生きようとする国。このささやかな個人的レジャーで貧乏になる国ならばもともとダメな「お国」であるだけのことだ。
1973年10月3日 四国新聞
 
 
                 西の旅からE   田川 赫
 
 旅の終わりの一章にわが羽田空港税関の場を加える。それはひどく興味深い。三十分ごとにハワイ、香港、ニューヨークからヨーロッパと、世界を駆けめぐる日本人がここで合流、混乱し、そのアビキョウカンの中に真実の日本人をみることができるからである。
 夏のヨーロッパ、ことにパリとローマはすべて勇猛果敢な日本買い物車軍の占領下におかれる。パリの総ガラス張りのまったくアメリカ風なホテルは日本資本も入っているらしいホテルであったかもしれないが、さしも広いロビーは日本人で混雑し外人客は片隅にほとんど座らせられているようにみえる。盛り場はもちろん、おどろいたことには、ほとんど人通りの絶えた下町で心細くも道をたずねている私にどこからともなく現れて突然通訳してくれた親切な人が十六、七歳の大阪から料理の研究に十日間ほどパリに来ているという娘さんであったことが再三ならずあった。羽田の混雑もまた当然なのであった。
 まさにその買い物の一種せいそうの気をはらみ、東西南北かけ走るさまは日本人ここにありである。買うという行動に動機というものがあるはずだのに、ありとすれば動としか思えぬ。なんでもかでもこれが買わずにいられようかと買いまくる。観光バスに動かされっぱなし出案内された店はことに日本人であふれ「シャネル五番」はもとより「ね、ね、ダンヒルよりもっと有名なライターってないかしら」と絶叫するご婦人。ローマの革細工はことに人気の焦点で「これとおなじ財布三十個ちょうだい」「このバンド二十本そろえて」である。日本語が通じるのだからもちろん値切り値切る。
 「浅ましい」という言葉がこれに似合うかと、いま広辞苑をひらいてみると「浅い心である」とか、例として「ものの哀れも知らずなん浅ましき」とあって、とてもこんな兼好法師流の表現で間に合わない。これまたたくみにさそいこまれたヴェネチアのガラス屋では壮絶に買う。何しろ旅の終わりである。一挙に有り金をはたいてしまわなければ申し訳ないみたいな気になるらしい。「日本円でええかい」「OK」腹巻きのお礼が飛ぶ。一個十万円の金色輝く大びん花が三個いまごろヴェネチアの港を租谷山むけて船出しているよう。私が音楽科だったらオペラ「パリのアメリカ人」をかいたガーシュインの作品を上回る作品が成るかもしれぬ。
 羽田の税関はだから二時間近く人と荷物で身動きできぬ。頭にヤシの葉っぱで編んだ帽子をのせて、ムウムウ服の首には幾重にもレイをひっかけた娘さんがついに鼻血をふいて卒倒した。荷物の下敷きになった子供が泣きわめく。
 「酒たったこれだけですか」と持ってる酒が少ないと怪しまれトランクをひっかき回され、やっと入国してみれば、すぐそこにあるホテルではタクシーにも乗せてもらえぬ。「貧しいんだな」と思う。GNPが世界二位でも、この状態はまさに貧のなせるわざなのだと思う。
1973年10月4日 四国新聞
 
 

 ● 4.    思い出の旅  「素」にひかれ韓国紀行
               田川 赫(丸亀市中府町・デザイナー)
 
 窓のない貨車に詰められて流刑囚のようにロシアの国境へはこばれるとき、この国をとおりすぎたことがある。
 重く暗い雲と、荒ぶ海峡のはざまでは、もう地を這うしかない悲しさで低くよこたわる山脈が波がしらにまぎれてみえた。朝鮮であった。ただ運ばれるままの兵隊の旅がこの昏れがたの遠景からはじまる。上陸は馬山港で、汽車まちの夜は民泊であった。死にいたるかもしれぬこれからの旅のゆくえを想い、せめて一冊の書物をとひそかにぬけて雨の町に書店をさがした。店はとざしていたが叩けば起きてくれた。若い朝鮮人の主であった。本はもう内地から来ないといったが残った十冊ほどの文庫本から白文の萬葉集とマキアベルリの君主論を求めた。主人は無断外出の兵隊をかばうように奥へ通し、野沢菜ににた漬物や小粒のりんごをすすめてくれた。菜をのせた小皿が染付けの古風ななずな手であったことがうれしくて思わず乞うと、かえりに新聞紙にくるんでくれた。転戦の星霜にそれはわれてしまったけれども、悲痛なあの遠景と主人の心情はいまも残る。
 よき人との出会いはうれしいが、佳きものとの出会いはそれにもましてよろこびが濃い。私は朝鮮の工芸、それも上等なものでなく庶民の台所にはじまる日常の雑器るいにひかれてひさしい。やすらかに貧乏が生きているからである。貧乏という言葉がいけないなら「素」にそれを置きかえてもよい。私は「素」にさそわれて久恋の朝鮮を歩いた。
 新羅の都・慶州はさしずめ日本の奈良。そして仏国寺は法隆寺にも当たろう。早朝をホテルの客は山の窟院に登ったが私は庭つづきの境内を歩いた。本堂は新しく彩色され失望したし、特異な台座の構築も朝鮮の心を伝えては呉れぬ。ただ礼堂の板床の工作と扉のかんぬきのするどく悲しい線に心が動いた。食後すぐ街へ降りて幸運にも野鍛冶の工房にゆきあたる。三坪にみたぬ房に主人一人、細々とした暮らしむきとはうらはらに仕事は堂々と骨太く古格に充ちる。仏国寺でみたばかりのかんぬき金具とおなじもの見本のなかにみつけた。八百年の昔がいまにつながる不思議さ。農具から包丁などの台所用具、建築家具の金物にいたる作物に一貫して流れる民族の美しさ。値段や輸送の手だてなど考えおよばずたちまち発注する。
 近くの村にきょうは市が建つ。黄金の白揚の道を車をはしらせる。流れる川のやさしさにそうて村近くなると、近在の人たちが作物をおもいおもいにはこんでいる。黒い山羊一匹だけを歩かせてゆく人、山鳩をかついでゆく狩人、まるで平安朝の情趣に胸が熱くなる。市は人びとでいっぱいだったが、喧噪や錯雑さはない。声をからせて客をよびこむ商いではないからである。たたずみ、座し語りあい品さだめをたのしむ社交の場。冬にそなえる白菜や田芹、美しく束ねたにんにく。細い線条をいく重にも飾った銅羅の露店。柳細工の篭(かご)や箕(みの)。草あみのほうき、ござ、円座。農道具。わけて清らかに秋の陽をてりかえす紙。野の鳥、山兎、子犬まで、ものみな「素」から生れ「素」の暮らしに仕える。運転手はもうトランクに入らないという。心ひかれつつ去らねばならぬ。
 次の日も晴れあがる。きょうは、やはり慶州から近い租物の窯場を訪う。指描き黒釉の雄渾きわまりない甕の故里である。近づけば丘をつたう登窯の煙がみえる。そのまわりに草ぶきの工房や住居が見事にくばられている。しばらくを部落に入ることもできず眺めあかぬ。小道、枝道、野菜畑、散らばう陶器、地にたるる草の穂、花々、空わたるかささぎ。湧井のほとりまでなにひとつ乱れはみえない。この静けさ。軒端に吊した種子採りの南瓜さえ、それがなければ調和がくずれてしまうだろう。貧乏めかした日本の茶庭が自然を追うほどに美が遠のくのは、茶を遊びにしているからだとこの眺めは教えてくれる。ぎりぎりの暮らしと自然がここでは抱きあって生きている。
 窯に火が入れば細工場は静まりかえる。無名の比類のない美しさにかがやく陶もののここが産屋かと思うと、ほの暗い土間に立って粛然と目をこらす。わずかな細工道具のなんと美しい曲線をもっていることか。窯へ回る。日本の窯だと口をぬりこめ、わずかにあけた口から薪を細かく割っては投げる。しかしここでは大きな窯口いっぱいに陶ものは火を食っている。立木そのまま、枝もはらわず、根もそのままに抱いて投げこむおそろしいほど平気で堂々とした仕事ぶり。太くても曲がっていてもどの大根もそれぞれが美しいようにこの窯のものは美しい。美しいものしか造れない世界をこの目でみた倖せでいっぱいになる。
 百済の都・扶餘へ汽車と車をのり継ぐ。ここは慶州よりはるかにひなびていて旅人も少ない。閑雅な大路いっぱいに秋風が吹きわたる。これからの旅のながさを思っていてもつい、直鍮の匙、麻布など求めずにいられなくなる。夜、宿近くの町を歩く。星を美しく眺めるために灯を消したのではないかと思うほど暗い町だ。とおりがかりの店に貝を焼く炭火があかくてなつかしい。居酒屋であった。村人と溶けたくなって濁酒を飲む。村人の一人がこの旅人のために日本の歌謡曲を歌ってくれた。「知床旅情」であった。朝鮮語であったが、彼はまさに歌を歌っているのであった。秋の夜を悲愁が透きとおり、歌は永遠の喪に服しているように沈痛であった。ローマの旗亭で聴いた「瀬戸の花嫁」があまりに華麗なカデンツアのゆえに、最初はオペラのアリアと聴き誤ったことを思いだした。村人は日本の曲を借りて切々と東洋のかなしみを歌いやまない。日本の歌手はなぜああも薄汚く、物乞いのように恥らいもなくどなるのであろうか。
 「もっとも悲しい想いを歌ったものが最も美しい詩である」と、シエリイの言葉が真実ならば、朝鮮の芸術のすべてが美しい詩でなければならぬ。こどものための木の独楽にさえ彩りもない悲しさのきわみは私をふたたびの旅へさそって止まぬ。
1974年5月31日 四国新聞
 


 
 
 

 ● 5. 広報「まるがめ」 

1982年1月 「広島 尾上邸、正月のかまどかざり」 

 感覚的にいって、ぬめっとしたもの、べろんとしたもの、もの卑しい色彩、いずれも我々の暮らしにかかわって欲しくないものが、小さいものはスプーンから、大きいものは建築に至るまで住居に侵入し、人間の徳目までも揺るがせ始めている。わが子にミルクをあげたり、スーパーの出来合いで家族を養う主婦像を、この厨からうかがうこともできぬ。
 尾上邸が文化財であるかどうか、いまあきらかにしないが、こうした遺産の前に立つとき、自らの暮らしを視座としてかえりみる必要があるだろうと思う。
 

1986年1月 「表紙のことば」 

 何事も改まることは、平常心を乱されて閉口である。元日とて常のごとく、きのうに続くきょうでありたい。
 村を求め、城を巡ってみたが、冬ざれの樹々と風と空があるばかりで、まことに平穏上々。雪を積もらせ、せめて新年号らしい情趣とする。
 

1986年4月 「春の丸亀城」 

 長鼓を打ち、そでひるがえし、緩い歌垣に舞う農夫たちの野遊びに出会ったのは、いつぞやの慶州の春。その文度の高い典雅さに、息のむほどのうらやましさと感動を覚えて忘れがたい。
 芝庭のなかほど、ただ一樹の桜桃のもと、静かな午後の刻を地酒を交わす農家族をかいま見たのは、聖地アッシジに似つかわしい風景であった。
 丸亀もやがて春。花の楽しみかたは、国ぶりに従いさまざまではあるが、拡声機付きの蛮声や底なきまでの酔態はいかがなものか。
 城辺に住みながら、人づてに花信を聴くのみで、今年もまた春はいきそうである。
 
 

 ● 6.       明浜筆記   田川 赫 
 
 アントニオを伊予に訪ねる。卯之町から岩井までは峠越えで、岬も島も樹樹も春さきの陽に澪するほどに輝き、静かさは却って幸福な歌となり胸を充す。このあたり蜜柑に混って桜が多い。カタルニアから三年前、この峠を越えたとき桜は極まっていてその美しさに涙があふれてやまなかったと彼は追想する。峠を降りきらめきわたる海沿いを際限もなく幾曲りすると、海と山のはざま四、五戸ほどの部落があった。明浜である。
 画家で、陶作りもするとはおもえぬ陽焼けした夫人と幼い二人の娘たち、夫人の両親のなかで彼は家族としてまったく溶けて暮らしている。夕卓の明浜風バエリアを囲んで私たちは彼の故郷カタルニアをなつかしみ、実直で寡黙な老夫婦もたのしさを倶にする。人間讃歌である。異邦人とか国境とかは何なのか。尊敬と愛と信頼と労働が言葉でなくそこに在り、そのなかで仕事の熟れる人生がある。
 彼は陶土も釉も、そのほとんどをこの地に依っている。蜜柑の木灰などもあってたのしい。作るものは今は水差しが中心であったが、水差しのむつかしさは傾けて注ぐときの胴と把手の関係にあるだろう。把手を持つ器の伝統が浅い日本では珈琲茶碗など、いい加減な作りが殆どだが彼の仕事はスペイン陶工らしく本能的な適確さで胴体に付着する。在日陶工に看られる、こと更な日本への傾きがなく、たゞ自分の仕事を成就したい思いが濃い。自由で自然な態度だから無事な仕事となる。
 彼は家族とともに暫くの夏を故郷バルセロナで過ごしている。一九三〇年の市民戦争から<フランコ・ア・ムエルト>までの窒息の状況から放たれた歓喜のなかで、陽気さと優しさを孕んだカタルニア、アナーキともいうべき自由な空気を秋風の明浜に運び還れ。
 
 案内状に推薦文・略歴がきなどの類はなくもがな。職人仕事は作物を以て語らせよと言うアントニオに全く同意見であったが、何分初めての展観なので幾分の不安があり、短章を以て彼を紹介することにした。勿論、田川の独断である。