田川赫さんについて想い出すことなど
 
美と信と二つであろうとも 詮ずれば一如である − 宗悦
 
 
                            小阪清行
 
 「僕が毎日座る机のすぐ上に、一枚の絵が掛かっている。八つ切り画用紙に描かれた、森と池を背景に立つ一本のケヤキの水彩画である」。何年か前にこんな文で始まる小説を書いたことがある。この絵のモデルになったのは、僕の机の上に掛かっている染め絵(型絵染)の農村風景である。題は「飯野代掻(しろかき)」。農作業に牛を使っているところを見ると、少なくとも数十年前の丸亀の風景であろう。
 手前に里芋の葉っぱが茂り、その巨葉が画面全体の三分の一近くを占める。濃淡のある緑が優しく瑞々しい。背景には青空と飯野山。その空を二羽の白い鳥が舞う。山の手前には昔風の農家。裕福な農家の部類に入るだろうか、土塀で囲まれた敷地内に倉が見える。農家のさらに手前では、水を張った田を農夫が、黒牛に鋤を牽かせて掻き均らしている。あぜ道に放置された大八車……。長閑だ。里芋の陰にたつ小さなお堂とその中の地蔵が、その長閑さをさらに強く感じさせる。と同時に、画面全体に宗教的深味のあるやさしさを漂わせているように思われる。
 遠近法を使った構図の座りがいい。そして全ての色がいい具合に調和していて、観る者は凛とした確かさを感じる。
 これは田川赫さんの絵だ。彼は画家だった。しかし画家といわれるのを好まず、デザイナーあるいは職人と自称していた。それは決して卑下ではない。彼は真の職人藝にのみ、本物の美を見出していたのである。作ることが好きで好きでたまらないような職人による仕事、「やすらかに『素』が生きている世界」、そこにこそ美があった。(四国新聞、「『素』にひかれ韓国旅行」1974.05.31)
 
 
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 柳宗悦の影響を受けたと聞いている。「柳先生」という名前はなんども聞かされたし、彼の家の玄関の正面に柳の直筆の書がかかっている(前出銘)。柳への敬愛の念は生涯変わることがなかったようだ。その柳から民藝のすばらしさを学んだと言っていた。
 あるとき僕の知人である若いチェコ人陶芸家の個展に、観音寺まで同行してもらったことがある。彼女に何かアドバイスのようなものを与えてもらえれば、と考えてのことだった。その場で田川さんは何も言わなかった。ただ小さな作品を何点か買っていた。あとで喫茶店に入ったとき、「センスはいいが、日本文化を誤解しているところがある」とぽつりと言った。
 「はあ?」と僕は聞き返した。
 「例えば、蔓(かずら)で作った急須の取っ手。あんな持ちづらい取っ手では、お茶がまっとうに注げない。本当の美しさというものは実生活の中での座りの良さからしか生まれない。西洋的なものと東洋的なものを調和させたいという意図は悪くないが、東洋的美というのは、あんなものじゃない」
 かなりキツイ言葉だった。物を見る田川さんの眼は鋭い。ある時彼は中野重治に土佐の和紙を送ったことがある。以下に引用するのは、中野によって「頭がさがる」と賞賛された、その和紙についての田川さんの文章である。
 
 送った紙は土佐岩原の山間・きびしい自然条件のなかで作られている。材料の純度はたかく技法もまたたかい。漉手(すきて)の生活態度も古格があって、それは物に反映する。紙質の剛直さ、それからくる美しさは無類である。妙にこびて、でろんとした味だけねらったこのごろの和紙のなかにあって際立って立派である。私たちが中野の芸術の中に見いだすことのできる、たとえば、ああでもない、こうでもないといいつつしているうちに言おうとすることの中心へ近づいてゆく、その誠実さと、まったくおなじ質の誠実さをもつ紙なのである。(四国新聞「作家と読者の関係」1970.09.22)
 
 観音寺の喫茶店でコーヒーを飲んだあと、このあたりに美味しい煎餅屋があるので買っていきたい、と言って連れて行かれたのは、路地を入ったところにある畳一枚ほどの小さな店。中学か高校くらいの女の子がでてきた。いつも焼いているお婆さんは留守だという。最近は体調を崩してほとんど焼いていないとのことだった。昔よく駄菓子屋の店先で見かけた大きなガラスの容器、あれが一つ二つ置いてあって、底の方に少しだけお婆さんの焼いた煎餅が残っていた。少ししかないけど、これだけでよかったら持っていってくださいと言って、女の子はお金を受け取らず、残っていた煎餅を全部紙袋にいれてくれた。
 和紙に関する文を読んで、ふとあのときの煎餅の味を想い出した。胡麻が入っていて、香ばしかった。もう十年近く前のことになるが、妙にあの味が忘れられない。あれ以来、あんな味の菓子を食べたことがない。どんな味だったのか書こうとしてもうまく書けない。きっとあの和紙のように、焼き手の「生活態度が滲み出た」ような味だったのだと思う。
 
 
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 二十年ほど前に数年間、田川さんの絵が丸亀市広報の表紙を飾っていたことがある。そしてときどき求めに応じて、表紙絵についての短文を書いていた。あるとき、そんな彼の文章に非常な感銘を受けたことを今もよく覚えている。僕が初めて読んだ彼の文章だった。それは丸亀沖広島の尾上邸を描いた絵に添えられたものだ。全文を引用する。
 
 感覚的にいって、ぬめっとしたもの、べろんとしたもの、もの卑しい色彩、いずれも我々の暮らしにかかわって欲しくないものが、小さいものはスプーンから、大きいものは建築に至るまで住居に侵入し、人間の徳目までも揺るがせ始めている。わが子にミルクをあげたり、スーパーの出来合いで家族を養う主婦像を、この厨からうかがうこともできぬ。
 尾上邸が文化財であるかどうか、いまあきらかにしないが、こうした遺産の前に立つとき、自らの暮らしを視座としてかえりみる必要があるだろうと思う。(広報「まるがめ」1982年1月号)
 
 これほど短い文章に、これほど本質をついた密度の濃い内容を盛り込むことができるのは、プロの物書きの場合でもそうしばしばあることではない、そう思うのは僕のひいき目だろうか。
 この文章を読み返しながら、田川さん自身が目の前にいるような錯覚に襲われ、目頭が熱くなるのを覚えた。彼がこの文章に表れたままの人間だったからだろう。
 こうした彼の文章や、そしてとりわけ彼の作品に、すでに作者である田川さんの生活態度が反映されているのであってみれば、今さら僕などが田川さんの「生活」について想い出を綴ることに、一体どれほどの意味があるだろうか。そんな戸惑いを感じる。今はただ自分のためにだけ書こうと思う。
 なぜ彼が僕のような卑小な人間と付き合うようになったのだろうか。僕こそまさに「ぬめっとしたもの、べろんとしたもの、もの卑しい色彩」ばかりに包まれている人間なのに……
 
 
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 田川さんと僕は遠縁になるが、二十年くらい前までは会ったことも話したこともなかった。家内が喫茶店で偶然知り合い、「新浜の小阪なら親戚だ。御主人の亡くなった兄さんをよく知っている」ということで、家内を通して手紙の英訳などを頼まれるようになった。当時僕は英語塾をやっていたから。それがきっかけだったと思う。
 僕の兄は高校二年の冬休みに石鎚山で遭難死したが、社会派だった。職員組合の先生方とも、自宅に遊びに行ったりしてかなり親しく付き合っていた。マルクスやハイネなどを高校のドイツ語の授業で読んでいた時代のことだ。田川さんも中野重治が除名される頃までは党員であったと聞いている。そんな関係で知り合ったようだ。
 「あなたの兄さんには、石鎚に行く少し前に偶然会ってね。冬山に一緒に行く体力のない僕のことを『四十過ぎたらグロンサン』なんて当時流行(はやり)の宣伝文句でからかって、自転車で走り去ったが、あれが最後だった」
 翻訳を頼まれた手紙は、ほとんど旅先で知り合った東南アジアの友人たちに宛てたものだった。田川さんは旅行が好きで、しょっちゅう海外に出かけていた。昔はヨーロッパなどにも出かけたらしいが、僕が知り合ったころは、専らアジアだった。
 特にかつて転戦したフィリピンを愛してやまなかった。貧しくて学校に行けぬフィリピン少年の里親になって学費を送ったり、高専のフィリピン留学生を自宅に泊めたりして大切にしていた。そんな彼を「甘い」と評した若い学者がいた。システムを変えないで、個人がそんなことをやっても自己満足に過ぎない、と。真っ当な意見だと思う。しかし、システムを変えたその後はどうなるのだろうか?結局行き着くところは、人間と人間の濃い交わりではないのか?議論では田川さんは学者に完敗していた。そもそも田川さんに議論は似合わなかった。アッシジのフランシスが神学者と議論するようなものだった。
 ともかく、絵を描いて、売って金を作っては、また旅行に出かける、そんな暮らしだった。心臓にペースメーカーを埋め込んだり、胃を全部切除した後でも一人で出かけていた。足が不自由になりかけてからも出たがるので、ついに心配した奥さん(僕とは又従姉妹の関係)と娘さんにパスポートを取り上げられてしまったと苦笑していた。
 「金を持った日本人がフィリピンなんかで一人歩きしていて、物騒じゃないですか?」と訊いたことがある。
 「ゴム草履を履いたもんぺ姿のジジイが金を持っているなんて、誰が思うもんですか。それに僕が歩くようなフィリピンの田舎にそんな盗人(ぬすっと)みたいな人間は滅多にいやしません。日本より安全ですよ」と笑われた。
 なぜアジアなのか、という僕の問いに対する返事。
 「ヨーロッパのあの馬鹿でかい教会や宮殿などの建物、都市そのもの、もっと言えば文化そのものに、ある時から嫌気がさしちゃってね。アジアでも、特に田舎がいい。とりわけ、なーんにも考えずに自然と溶け合ったお百姓たち。ともかく日本は心が貧しくて浅ましい国になってしまった。アメリカの悪い点ばかり真似してるから。捨てられるものなら、いつだって日本なんてポイと捨てて出ていきたい。未練なんて全然ない。日本で死ぬより、フィリピンの田舎で野垂れ死にするほうがよっぽどましです」
 ヨーロッパでは唯一アッシジにおいてのみ感動を覚えたようだが、それ以外の建築物のほとんどすべてに対して嫌悪感を露わにしている。
 
 あれ(ゴチック教会)は建築のヒステリーで、様式をデテールの複雑さにおきかえることによって、人々を驚かせるためのものとしか思えない。・・・・・旅の終わりに見たバチカンのサン・ペトロ寺院に至り、私の思いはその極点に達した。それは神を恐れぬ所業といっていいと思う。その壮麗な虚構、内部の、ことに正面祭壇の黄金燦然たるバロックの怪奇さはなんという無惨さか。・・・・・アッシジ。その丘の上のオリーブの林のかげの諸堂。ことにサン・ダミアーノの僧院。あの小さくうがたれた窓。あのほの暗い石の壁。絵もない、彫刻もない、つつましい空間こそ、いまも聖フランシスコの祈る声がある。建築の意味がそこにある。(四国新聞、「西の旅から」1973.09.29)
 
 ヨーロッパの都市の喧噪を嫌ったように、現代日本に対する憎悪もいつも隠そうとしなかった。この辺が少し僕とは違っていた。
 確かに僕もヨーロッパの絢爛華美壮麗の教会などを見るたびにある種の嫌悪感を覚えていた。一体この教会とイエスとどんな関係があるのか?大学神学部の吐き気を催すほど膨大な神学書の山、山、山……。これが「なくてならぬもの」?
 しかしその一方で、ヨーロッパの歴史に必然性があるように、日本の現状にも必然性があるのだから、生まれ落ちた以上その土地に立って、そこでどうやって生きたらいいのか考えるしか出口はないようにも僕は感じていた。「腑抜けのような今の若者達」だって、好きこのんでこの日本に生まれてきた訳じゃあないし、彼らには彼らの良さもある。それにアジアの「自然と溶け合ったお百姓」の子供たちも、文明が進めばいつかはきっと日本や欧米の人間のようにならざるを得ない。この世にある限り人間は文明の浸食から逃れることはできない。そう僕は思っていた。要するに、そうなってしまった後はどうなのかが僕には問題だった。
 「吉本も言ってますけど・・・・・」
 「ああ、リュウメイさんですか」と掃いて捨てるように言われてしまった。
 議論を好まない田川さんは、それ以上その問題に深入りしようとしなかった。が、資本主義を肯定してしまったように見える吉本にはどこかで恨みを持っているのを僕は直感していた。
 資本主義に対してだけでなく、天皇や日の丸などにも田川さんは恨みを持っていた。戦争で、言うに言われぬ屈辱を味わい、それと結びつくものすべてを憎んでいるようだった。
 戦争体験を聞かせてもらったことがある。召集を受け、岩波文庫の「萬葉集」一冊を背嚢に詰め込んで、朝鮮経由で中国に出かけたとのこと。のちフィリピンに転戦した。銃を撃ったことは一度もない。閲兵式で銃を逆に持ったときから、銃を持たせてもらえず、使いものにならぬと周囲から見捨てられた棄兵だった。最後まで二等兵で、伝令兵のようなことをやらされていた。そんななか、彼を庇ってくれる上官もいた。「軍隊の上官にも立派な方はいましたよ」という言葉は、ある意味で下手な反戦小説よりもリアルだった。その体験には、例えばノモンハン、インパールなどのような凄絶さはなかったかもしれない。それでも彼にとって軍隊でのあらゆる体験が耐え難いものであった。
 彼の父君は、一時期、大麻山中腹にある洞穴に住み、仙人のような生活をしていたことがある。老荘思想をそのまま生きているような「変人」であったようだ。父親を敬愛し、その影響を受けた自由人田川さんにとっては、軍隊生活そのものが野蛮この上ないものだった。最後には発狂を装って日本に送還され、しばらく九州の精神病院に収容されていたと聞いた。「俺はこんな馬鹿げた戦争では、絶対に死なんぞ」と思っていたという。
 除隊になった日のことを彼は美しく綴っている。鹿児島の病院を出て、衛兵の目が届かなくなるところまで来ると、彼は急に走り出した。再び兵舎へ戻れという幻聴を聴いたような気がしたからである。彼は歩いて陶郷苗代川に向かった。そこでは昔から、黒い美しい陶器が鮮人の子孫によって作られている。途中、彼は花売りの老婆に苗代川への道を訊ねた。
 
 肩の荷には、まだかたい桃の花があった。おりからの朝の陽をうけて光っているなと思った。春だなと思った。急に涙があふれた。涙にも朝の陽があった。麦にも畑にもあった。
 私は涙を流しぱなしで歩いた。この道を曲がろうと思えば、自分の意志でいまは曲がることができる。歩をゆるめることも、止まることもできる。本当だろうか、と、幾度も止まったり、歩をゆるめたりしてみた。やはり本当であった。そしてこんな素晴らしいことはないと思った。
 
 そして、目的地である陶郷苗代川に着いて、白髪の陶工が静かにロクロを廻すのをいつまでも見つめながら……
 
 物を作ることは何と素晴らしく、美しい人間の仕事か、兵隊は物をつくらないなと思った。戦場は殺し焼くだけだなと思った。・・・・・
 私はいま五十才を越えようとしているのだが、本当は戦後の生まれなのだと固くおもっている。何ひとつ正しく教えられず、知らず、名のみ生きてきた人生など、人生のなかへいれたくない。(「戦後だけが人生」1969年、「戦争中の暮らしの記録」所収)
 
 戦後、昭和天皇が丸亀に来たことがある。そのころ田川さんは丸亀の小学校で美術教師をしていた。校長から、絵の時間に生徒たちに日の丸の旗を描かせるように指示され、それを拒否した田川さんは、一人で学校のどこかの部屋に立て籠もり抵抗を試みたそうだが、結局首になった。そのことで家人と喧嘩して、布団を持って飛び出し、しばらく鶏小屋生活をしていたという武勇伝も聞いた。
 天皇と言えば、棟方作品の焼却というエピソードを想い出す。棟方志功とは、柳宗悦という共通の師を通しての友人で、戦後棟方も作品が売れず喰えずにいたらしい。それで田川さんが彼を丸亀に招き、丸亀城の中腹にあった延寿閣で彼のための個展を企画したそうである。結局そのとき棟方の作品はほとんど売れず、いくつかが田川さんの家に残された。のちに棟方は、ベネチア・ビエンナーレで国際版画大賞を取って有名になり、文化勲章を貰った。田川さんは、天皇陛下から貰った勲章を「犬の首輪のようにぶら下げて嬉しそうな顔をした」棟方の写真を新聞で見て、腹立たしくて、持っていた彼の作品を全部庭で燃やしてしまったそうである。これを聞いた僕は唖然としたが、次の瞬間吹き出してしまった。
 しかし、後に彼は棟方への態度を和らげた。
 「ありがたいものを貰って、素直に喜ぶ。考えてみれば、そういうこだわりのなさこそが棟方の良いところだったのかもしれない」
 
 
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 田川さんの死を知ったのは、死後半年以上経った、今年九月のことだった。
 まだ足が達者なころは、僕の車でよく講演会や展覧会などに一緒に行った。足が悪くなってからも、年に数回は喫茶店でコーヒーを飲んだり、レストランやうどん屋で食事をしたりしていた。
 話すたびに日本に対する不満を聞かされたものだが、それは決してボヤキではなく、その批判がある一つの世界を指差しているようで、僕には非常に爽やかだった。そんな話を楽しみにしていた。それが、亡くなる前には半年以上も僕の方から連絡していなかったことになる。
 死を知って奥さんを訪ねたおりに、寝込んでから「小阪さんに会いたいねえ。でも忙しいんだろうねえ」と言っていたことを知らされた。ちょうどエスペラントの関係で、新聞やテレビで僕の絵が流された頃のことだと思う。そんなに忙しくなんかなかった。ひょっとすると、田川さんがそんな言葉を口にしていたとき、どこかのパチンコ屋でスロットにでも打ち興じていたのかもしれなかった。嗚呼、極重悪人極濁悪。地獄は一定すみかぞかし……
 亡くなる少し前に、丸亀カトリック教会の神父さんに来てもらって、洗礼を受けたそうだ。最近カトリックにしっくりしたものを感じる、そういう意味の言葉を何度か耳にしていたので、驚きはしなかった。洗礼名は「フランシス」。
 この夏、僕はヨーロッパを旅した。今回はじめてイタリアに行き、アッシジを訪ね、そこから絵ハガキを出すつもりだった。ところがフィレンツェまで行きながらどうしてもアッシジに行く時間がとれず、これも叶わなかった。もし行けていたとしても、結果的には田川さんに読んでもらうことは叶わなかった訳だが……
 
 芝庭のなかほど、ただ一樹の桜桃のもと、静かな午後の刻を地酒を交わす農家族をかいま見たのは、聖地アッシジに似つかわしい風景であった。(広報「まるがめ」1985年4月号)
 
 これも田川さんらしい良い文だ。自然に溶け込んだ農夫たち。健康な酒による陶酔。聖なる陶酔で結ばれた人間たち。緩やかに流れる時間……
 田川さんからハガキを貰ったことがある。「風跡」に挟んであったのが出てきた。僕の初めての小説『ラロンの復活祭』が掲載されいる号だ(1990年16号)。田川さんが入院したとき見舞いに行って、暇つぶしに読んでください、と言って自分の処女作を置いてきた。
 
 「ラロンの復活祭」4〜5回よみました。ひたすらまじめにひたむきな作品で、まずこのことに感心しました。私は最近ずっと小説などよんだことがありませんので、いわゆる文壇作家のものとは遠いところで生成されたもののように感じました。短編ですが長編になりそうな骨格があるので、よみすてにできないゲンシュクさがあるのでしょうか。
 このなかで、ぼくの最もよろこび感動させられたのはバプテスマの場面でした。宗教ですらない純すいな決意と動機があって――受洗の意味がみごとにとらえられて新鮮でした。(もしぼくが受洗せざるを得なくなったときは水ばんと神父の手によらず自己によってショクハツされ自己救済の方法をえらびとりたいものです。)
 
 読み直してみて、一種の恐れすら感じる。あの頃の緊迫感を失った自分に、田川さんに褒められたような「ひたむきさ」「純粋さ」などありはしない。この言葉は、生涯にわたって真っ正直に自分自身を貫き通した田川さんにこそ相応しい。
 ここにたまたま彼自身の受洗への考えが語られている。「水ばんと神父の手によらず」とあるが、田川さんを知る僕は、その受洗がやはり「自己によってショクハツされ」たものであったと思いたい。もし僕が受洗後彼と話す機会があったとすれば、案外「いや、格別の決意もなく普段どおりの気持ちで受けただけ」と笑ったかもしれない。こんな言葉が残っている。
 
 何事も改まることは、平常心を乱されて閉口である。元日とて常のごとく、きのうに続くきょうでありたい。(広報「まるがめ」1986年1月号)
 
 
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 この文を綴るのはノートパソコン。一度コンピュータの話になったとき、言葉で説明しただけでは解りづらいので、僕の家に来てもらってこのコンピュータを前にして、インターネットに繋いだりしながら説明したことがある。
 「ほぉ」「はぁ」「ふーん」とか言いながら、「大したもんですなあ」と言っていた。が僕は何だか、決してコンピュータを馬鹿にしたような皮肉な言葉はなかったにも関わらず、何故だか田川さんの前で自分が卑小な存在に思われたことを覚えている。「人間の徳目までも揺るがせ」るヤクザな機械に夢中になっている自分を感じていた。(蛇足ながら、ジュネの『泥棒日記』をこよなく愛した田川さんにとって、「徳目」とはもちろん、薄っぺらな社会倫理とか道徳とはまったく無縁であった。)
 コンピュータ社会と田川さん。これほど不釣り合いなものはない。流れる時間が違うのだ。表層を突き破り、いつも変わらないものだけを見据え、その世界を一筋に生きている彼にとって、俗世間や文明社会で起こる出来事は、ときに無視され唾棄されるべきものだった。遙かかなたのもっと伸びやかで、もっと輝いて、もっと活き活きした自然の生命の流れに身を任せていたような気がする。あれほどフィリピンを愛したのも、タヒチのゴーギャンが恐らくそうであったように、田川さんが感じたその世界が、たまたまフィリピンの時の流れと一致していただけなのかもしれない。
 テレビの低俗番組、お笑い、マンガはもちろんのこと、例えばビートルズ、ビート武、村上春樹など、現代の音楽、映画、文学……そんなものも、てんで受け入れてもらえない。僕などの立場からすれば、身も蓋もない。現代日本、現代文明のほとんど何もかも拒否し続け、聴く耳も観る眼も持たなかった田川さん。相対化の視点のないその考えは、どこかで矛盾していたような気がしないでもない。
 しかし思想的に不十分な点があったとしても、田川さんの生き様は、そんな批判を完全に跳ね返すほど真摯であり、強烈であり、普遍性を持つものだったと僕は思う。ゲーテは「感情がすべてだ」と言ったが、田川さんにとっては恐らく彼自身の「感性がすべて」だった。その感性は、他の一切を無視して、「美と信が一如となった世界」に向かって突き進む体(てい)のものだった。田川さんが感じ取ったこの世界に、僕は全幅の信頼を置いている。
 机の上に掛かった「飯野代掻」の緑が、今日も僕にやさしい。
                       
 
[追記]
 この文章を書くに際して、田川さんの奥さんにいくつかの問題について確認をお願いしたが、細かい点で奥さんの記憶と僕の記憶が食い違うところもあった。自分の田川像を大切にしたい気持ちから、勝手ながらそのまま訂正せずにおいた箇所があることを付記しておく。
 なおその際、過去に新聞・雑誌等に寄せた文章や、佐多稲子、中野重治、原泉などからの手紙やハガキなど貴重な資料をお借りできたことはありがたかった。棟方と一緒に撮った写真が在るはずだったが、探しても出てこなかったそうだ。奥さんは棟方の作品を焼いた件をご存じなかったが、この写真もそのとき一緒に燃やされたのではないか、と僕は−これも勝手に−推察している。