A. ゲルラッハ「丸亀俘虜収容所より

             

                           高橋 輝和

                           (岡山大学)

 

   1次大戦時の丸亀俘虜収容所に関して、収容されていたドイツ兵俘虜自身によってなされた報告や記録で、これまで知られていたのは次のものであった。

1.     Johannes Barth: Als deutscher Kaufmann in Fernost. Bremen – Tsingtau –

Tôkyô 1891 – 1981. Erich Schmidt Verlag, Berlin 1984. 2. Kapitel: Vom

Kriegsgefangenen zum Japankaufmann. Kriegsgefangen in Japan. S. 49 –

54. 和訳:田村慶三「(抄訳)ヨハネス=バルト著『極東の商人として』

http://shnable.hp.infoseek.co.jp/barth_als_kaufmann.htm

2.     Johannes Barth: Tsingtau Tagebuch. Geschrieben in Marugame, Januar/Feb-

ruar 1915. Deutsche Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens,

Tokyo, 1985, S. 39 – 43.

3.     Wilhelm Meller: Das Schicksal der Verteidiger von Tsingtau im Ersten Welt-

krieg. Aus dem Nachlaß meines Vaters. Von Adolf Meller. Studienwerk Deut-

sches Leben in Ostasien e. V., Bonn 2002. Als Kriegsgefangener in Japan, S.

34 – 43.

4.     Ludwig Wieting: Auszug aus den Lebenserinnerungen von Ludwig Wieting

(1891 – 1972). JAPAN 1914 – 1920, S. 18 – 21. 和訳:田村一郎/ローランド・シュルツ「『ルートヴィッヒ・ヴィーティングの回想』から」、「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究2, 2004, S. 29 – 32.

5.     匿名:Aus japanischer Kriegsgefangenschaft. 和訳:高橋輝和「191412月丸亀俘虜収容所発のドイツ宛て書簡」岡山大学文学部紀要37, 2002, S. 153 – 156.

6.     Siegfried Berliner: Einige Mitteilungen von deutschen Kriegsgefangenen in

Marugame – Japan. 和訳:高橋輝和「丸亀俘虜収容所からの匿名告発書」岡山大学文学部紀要38, 2002, S. 168 – 169.

 今回ここに取り上げるA. GerlachAus dem Kriegsgefangenenlager MarugameDie Bergstadt 5, 1917, S.397 – 400 に掲載されていたものである。このことをご連絡下さったディルク・ファン・デア・ラーン氏 とこの雑誌がStaatsbibliothek zu Berlinに所蔵されていることを突き止めて、そこからコピーを取り寄せていただいた岡山大学附属図書館の参考調査係に感謝申し上げたい。

 残念ながら筆者のA. ゲルラッハは在日俘虜ではなく、丸亀収容所から報告を受け取った本国在住のドイツ人であることが内容から分かるが、ここにはこれまで知られていなかった情報と写真も含まれているので、これもまた丸亀収容所の貴重な史料であると言える。そこで以下に全訳と写真を示す。

 

青島における信号柱のドイツ国旗が日本の軍旗に屈服せざるを得なかった、あの11月の日(=1914117日)以来、既に2年余りの歳月が経過した。青島の勇士達はもう2年以上、俘虜として日出ずる国に留まっている。戦争し、苦闘している故郷から何千マイルも離れて無為の生活を宣告され、妻子と、人生を生きがいのあるものとする全ての事から切り離されて、今や3年目にして4,000名の勇士達に授けられているのは、真に、羨むべき運命などではない。

 しかしそれでも我々にとっては嬉しい事に、日本国内の全11俘虜収容所から出された多数の手紙から、我々の在日俘虜の運命をそう悪くはないと言えることが読み取れる。特にここでは、全収容所が南日本に、それ故に気候上健康に良い地域に位置していて、大抵は魅力的な風景を伴う場所にあるという事情も作用している。自然の美しいことで有名な(瀬戸)内海にある四国という島だけでも収容所が三つも設けられている。その一つの丸亀収容所を添付した写真が我々に一瞥させてくれる。

 かつては有力な大名の居所であった丸亀は現在、守備隊が駐屯する小都市であるが、天然の良港を有するが故に若干の重要性を獲得している。広大な寺院施設を伴う、手入れの行き届いた公園では1914年の11月以来、活気のある営みが盛んである。ここには青島海兵大隊の2中隊、後備中隊と現役中隊が俘虜として収容されている。

 快適な家庭と尊敬される地位を投げ捨てて軍旗の下に馳せ参じた後備兵達には大抵十分な金銭収入の自由が認められている。日本人は中国、並びに青島における預金・貸し金を俘虜達に対して封鎖していないからである。

 戦友精神が良好であるので、資産のない何人かの者は収容所内で援助されており、若年兵達は、靴磨きや継ぎ当て、靴下編みによって、タバコや果物等に使う小銭を稼ぐ機会も利用する。

 食事は十分で栄養があると言えるが、米と豆が頻繁に献立に上がるので、変化に乏しい。宿泊室として多数の別棟のある寺院が用いられているが、ここでは全く日本式に床の上に寝床がしつらえられる。器用な人々はビール箱から寝台や机、椅子、戸棚までも作り上げた。これらの家具は日本の家には知られていないからである。

 日本の当局の側から我々の同国人にはいかなる労働も要求されはしない。そこで人々は体操や格闘技、こぶしバレーボール、打球技によって体を鍛え、そして英語やフランス語、日本語、中国語の外国語コース、並びに簿記、さらには演劇やコンサート、読書によって退屈しのぎをしようと試みている。

 収容所内では独自の新聞が発行されていて、人のよく集まる情報コーナーで各人は巨大な軍用地図によって当方の戦線の状況について知識を得ることができ、またそこでは戦争に関する最新の電信情報を知ることもできる。

 特に喜ばしい事として強調すべきは、検閲の点で日本人が非常に寛大なことである。ありとあらゆる日刊紙以外に戦争小説やスウェン・ヘディンの著書、『ユーゲント』と『ルスティゲ・ブレッター』の戦争特集号も、いやそれどころかゴットベルクの『青島の勇士達』さえも日本の検閲を無事に通過して俘虜達の手に届き、大喜びで迎えられ、受領が通知された。

 日本ではタバコに200%の関税がかかり、それ故に普通のタバコ1本の価格は既に平和時に50プフェニッヒに値上がりしていたが、日本人は慰問のタバコを完全に無税で通してくれる。あちらで歓喜をもって迎えられる、そのような発送物も速やかに到着する。

 俘虜達には月に2通の手紙と2通の葉書を出すことが許されている。しかし軽率な戦友達の逃亡の企てによって日本人の不信感が喚起された時には発信制限もなされた。

 他の10収容所における暮らしや営みも丸亀におけるのと似たようなものである。ただ比較的小さな収容所の俘虜達の方が大抵は多くの自由を享受している。大阪では2面のテニスコートが大いに喝采を受けたので、ボウリング愛好者達もそこでボウリング場の建設に着手し、そして大阪収容所の合唱団は既に大きな名声を手にしていて、最大の収容所である久留米の演劇によってのみしのがれるかも知れない。久留米では『アルト・ハイデルベルク』が数え切れない位何度も上演され、日本人自身もそれを心から喜んだのである。

 親類や友人があちらにいるのを知っている全ての人々の慰めとして、いずれにしても真に当然の事ながら主張できるのは、日本人は俘虜達を文明国の一員として扱うことを心掛けていて、このような処遇の点では、我々の青島戦士達にとっては幸いにも、日本人はその全てのキリスト教徒の同盟国を恥じ入らせるということである。

 

 

 

写真1.俘虜のドイツ海兵達の体操。背後に彼らの居住する寺院。

 

 

 

 

写真2.丸亀の寺院内の居間兼寝室。中央の兵士は火の番に立っている。

 

 

 

 

写真3.調理場のある境内。

 

 

 

写真4.小包の引き渡し。

 

 

 

 

写真5.情報コーナー。俘虜達は新聞を発行して、ここに掲示する。その横には戦場

の地図。 

 

 

 まず、丸亀収容所内では俘虜が独自の新聞を発行しているとあるが、この新聞はDas Marugamer Tageblatt「丸亀日報」のことであり、その1915117日の日曜版特集号の部分コピーがチンタオ・ドイツ兵俘虜研究会のメール会報71号(2004623日)と本誌2号の58ページに公表されている。これは、このコピーを所有するドイツ・ボーフム在住のヴァルター・イェキッシュ氏をファン・デア・ラーン氏が2002年に訪問した際に筆者の依頼により複写して持ち帰られたものである。イェキッシュ氏の所有するのはこれだけとのことであり、「丸亀日報」の他の号はこれまでのところ依然として所在の確認ができていない。

イェキッシュ氏によれば「丸亀日報」はタイプライターを用いて複数のカーボンコピーが作られていたとのことであるが(注)、それが回し読みされていたのか、どこかに掲示されていたのかはこれまで不明であった。しかし写真5の説明によれば「俘虜達は新聞を発行して、ここに掲示する」とある。この写真そのものは、鳴門市ドイツ館に所蔵されているアルバムの中にも収められているので知られていたが、中央左寄りの二人のドイツ兵俘虜が読んでいるのが「丸亀日報」であることが、この説明から判明した。

 写真2もよく知られた写真である。しかし『板東ドイツ人捕虜物語』23ページに掲載されている同一写真の「久留米収容所」という説明が間違いであることが分かる。さらに、中央に立っている俘虜が火の不寝番であったことがこの写真の説明で始めて明らかになった。

 写真1はこれまで全く知られていなかったものである。

 この報告には丸亀収容所のみならず、他の収容所についても簡単ながらその状況が伝えられていて、押しなべて日本側の処遇の良さが強調されている。もちろん日本側の検閲を経た情報であるので、日本側に不都合な情報は伝わっていないが、一般的にはドイツ兵俘虜達が非文明国とみなされていた異教の日本で厚遇されているという賛嘆と感謝の気持ちと、同時に「キリスト教徒の同盟国(複数形)」、つまりはロシアやイギリス、フランス等におけるドイツ兵俘虜達の処遇の悪さを非難する憤慨の気持ちをここから読み取ることができる。筆者がこの報告の中で最も強調したかったのは、この部分であったのかも知れない。

 最後に指摘すると、在日ドイツ兵俘虜の事情を極めてよく承知していた筆者のA. ゲルラッハは、冨田弘著『板東俘虜収容所』の208ページで言及されている「ブレスラウのゲルラハ氏」と同一人物であると思われる。

   ドイツ本国では、前線へ送るために、教会や商社、大学が集書センターを設けていたが、ドイツ俘虜にもいくらか送られてきた。以前に青島で先生をしたことのあるブレスラウのゲルラハ氏の努力によって四国の三収容所宛もあった。

 

注:Walter Jäckisch: Das Kriegsgefangenenlager Marugame 19141917. Philatelis-

tische JAPANberichte 136, 1989, S.28.