心と精神に関する諸断片
                               逢沢堅
 
 これまでさまざまな仕方で心や精神は定義されてきたし、またこれからもそうであろう。行動主義者のようにヒトには心や精神などなく、あるのはただ刺激に対する反応だけだというものや、認知科学のように心とは記号論理でできた計算機であるというものや、ある種の哲学のように世界に偏在する窮極の原理や実在であるというものもある。割り切っていってしまえば、心や精神をどう定義するかはその人の任意であるということになるかもしれない。これは心や精神のあいまいさ、とらえどころのなさに端を発している。
 このような多岐にわたる定義のちがいをこえて存在しているのは、ある方向性である。心など存在しないと言っている者の分析や探求が、外から見るといわゆる心や精神の方向を向いているように感ぜられることからもこのことは分かる。つまり、それを心というにしろ精神というにしろ、何らか自分たちに対して閉ざされているある謎のようなものに向かおうとする方向性があるようにわたしには思われる。この謎は一面では世界に関するものでありまた他面では自己に関するものである。そして外部世界を分析しつくそうとする者も内面世界の深みに無限に沈潜しようとする者も、そのことに気がつくかどうかは別として、本当は、おそらくあの身体というものを、わたしたちに世界を開示するかわりに何かを隠そうとしているかに見える、あの身体というものを、あるときは湧き上がる情熱とともに、またあるときは抗しきれない悲哀とともに問うているのである。
 
 西原克成の『内臓が生みだす心』によれば、生命現象とは、水溶性コロイドである有機体の内部における、エネルギーをともなった電気現象である。エネルギー代謝のシステムである生命体の本質はリモデリング(細胞の再生と個体の生殖)であり、それによるエイジングの克服である。そしてその究極が腸管内臓系によって担われる生殖である。
 エネルギーは細胞内のミトコンドリアにおいて産生されている。そしてミトコンドリアの機能は外界の物質とエネルギーに影響をうける。著者によれば、高等動物の機能と形態変化もミトコンドリアの活性に依存している。したがって哺乳動物のような脊椎動物もまた、温熱・重力エネルギーにもとづく力学作用や圧力、温度、太陽光線、放射線などのミトコンドリアに対する影響によって、その機能と形態を変化させることになる。
 脊椎動物は、その「上陸」時に、重力と生活環境の変化によって、その造血巣が骨髄腔に移動し、また哺乳類誕生の時には特徴器官である釘植歯が発生した。著者は、人工骨髄と人工歯根をサメなどへ移植する実験によって、骨髄造血細胞や骨芽細胞、セメント芽細胞や繊維芽細胞を誘導することに成功、またアホロートルなどの陸揚げにより人為的に身体を変化させることに成功したという。
 これによって、脊椎動物の進化は重力作用に対する生命体の対応であること、すなわち、重力を基にする生体力学刺激が、体内の流動電位を上昇させ、未分化間葉細胞の遺伝子の引き金を引き、ついに化生(metaplasia、すでに分化した組織・器官が刺激によって別の分化を行うこと)によって筋肉骨格系の形を変化させることを発見したという。ここから、行動様式や身体の動かし方の変化により身体の外界から受け取る刺激が変化すれば、形態の変化が引き起こされうることになる。遺伝子の変化はこの形態変化を「後追い」してやってくる。
 造血系が重力により発生するならば白血球の発生・分化も同様に重力の影響を受けるはずである。そしてHLA(ヒト白血球抗原)は白血球の膜にあることから組織免疫系にも重力が関与していると考えられる。また、造血を行う骨格系に重力作用の偏りがあるとミトコンドリア代謝・エネルギー代謝が障害されるし、細菌が細胞に寄生してもミトコンドリアの利用する酸素が不足するのでエネルギー代謝・細胞呼吸が障害される。このような理由によるミトコンドリアの変調がエネルギー代謝の変調をもたらし、免疫力(リモデリングの力)が障害されるのが(著者によれば)免疫病である。こうして脊椎動物の三つの謎である、進化の原因、骨髄造血の発生、免疫システムの謎が解けたと主張される。
 著者によれば、本当の自己、アイデンティティーとは、移植免疫を決定する抗原の遺伝子であるMHC(主要組織適合性遺伝子複合体)でなく「腸管の持つ消化・吸収能力の傾向性つまり好み」である。色彩・食物・色情などの好みは腸管の吸収と排出能力の好みである。この好みの機能は単細胞生物の走化性(化学物質の刺激に対し向背運動をおこす性質)にはじまり、ゆえに原生動物も心と記憶を持つとされる。
 原始型の腸の筋肉は副交感神経・錐体外路系(不随意運動の神経)だけであったが、上陸による酸素・重力の増加で身体の動き方が変化し、交感神経とともに随意運動の神経である錐体路系と体壁系筋肉が発達する。心臓・腸管内臓系・脳に栄養血管系が誘導され、その血管に交感神経系が発生する。交感神経が体壁系の状態を内臓・脳に知らせ、内臓・脳が外界に反応するようになる。腸管の状況を腸管上皮の神経が皮膚の筋肉に知らせるようになる。内臓感覚は大脳辺縁系に入って情動となり、これを核にして精神がつくられる。つまり、心は腸管内臓系に発し、精神は体壁系筋肉に発するのである。
 三木成夫にとって「憶」とは、「寒くも暑くもない、あるいは空腹でも満腹でもない、そういった過不足ない状態を象るもの……だから、温度や胃袋の存在そのものが忘れ去られているのである」(『胎児の世界』)。この著者にとっても「手や足の存在が忘れられ、呼吸も空腹も感じない、身体のことを忘れる状態」「ぬるま湯の状態」である。
 運転であれ箸の持ち方であれはじめての動作は意識して注意深く行わなければならないが、慣れ親しむにしたがって無意識的に行えるようになる。はじめて行く場所は遠く感じるが、何度か行くにつれ知らないうちにあたかも自動的に目的地にたどり着くようになる。前者において筋肉は意識して動かしているが、後者においてすべては憶の状態であり筋肉は意識されない。また睡眠や入浴時も憶の状態であるといえる。
 身体の内外の刺激に反応して「動く」ことが精神のはじまりであり、「考える」ことであったわけだから、新しい筋肉の動かし方を「身につける」(無意識化する)ことは新しい考え方を身につけることであった。しだいに身体のぎこちなさが消え去り、なめらかな身体の運転ができるようになったとき、つまり何かが身についたとき、筋肉の動き、すなわち思考は身体化された状態にある。このとき、たとえば夢中になって何かの作業や運動や行為を行っているとき、頭で自分の身体の状態をモニターしたり、次にどうすべきか思案したりする必要は全くなくなる。いわば身体の存在は忘れられ、その結果、本当はたえず一Gの大きさを変えることはないはずの重力も意識の外に一時的に追いやられ、解除されている。すなわち、憶とは<無重力>のことだといえるだろう。
 
 著者の考えは、重力とエネルギーという最も基本的で枢要な物理概念から組み立てられている点からして本質に触れている可能性はあると思う。ただ上記の実験によって本当に進化の原因やラマルクの用不用説やヘッケルの法則が発見・証明されたかどうか、についてはわたしには分からない。
 進化についていえば、「変化を伴う由来(descent with modification)(ダーウィン)というわけだから、素朴に考えれば、単細胞からこれまで生存した全生物種を線系の網目で結びつけなければ進化の証明といえない気がする。進化という概念は、積極的に見ると生物全体にする見方であるとしか現在のところいえないのではないだろうか。DNAの研究や知見の深化ではっきりしたのは全生物が根底において同一であるということで、その共通性からの差異を意味する変化の経路が具体的に明らかになっているわけではない。ただ、移植や陸上げにより確かに身体組織に変化が現れたとすれば、動物の身体―この場合は筋肉骨格系―の可塑性を証明しているとはいいうると思う。
 著者において生体系は、物質的にはDNAに、機能的には「エネルギーの共通通貨」であるATP(のリン酸基の加水分解時)のエネルギーに抽象されている。そして、三木における食と性の位相交替の概念は、エネルギーを媒介項とする「リモデリング」概念に一般化されている。また三木にとって<植物の立ち姿は重力に順応しているが動物は逆らっている>のであり、生命の理念型はより具体性のある植物体に求められていたが、著者においてこれらは重力概念に吸収されている。たとえば、憶の状態において身体の重力は解除されているというように。つまり生物全体の準拠点としての植物が重力概念に抽象されているのである。
 このように、重力とエネルギー概念から三木の提示した概念の変奏、深化が試みられていると考えられる。重力とエネルギー概念を基点にすることによって、生体系すべてを理論的に包括しうる可能性は生じるのだから、より一般性と普遍性を持ちうる立論であり、説明の体系でありうるといえるのではないだろうか。そして本書はそうした試みとして価値を持つのではないか。
 わたしが最も興味を引かれたのは、思考とは<動く>ことであり、憶とは<無重力>のことであるという認識である。精神や思考が体壁系に発するという言い方はできても、もっと大胆に踏み込んで「思考は動くこと」であるとはわたしには言えなかった。認知科学などが明らかにしているように、言語を使ったり、暗算したり、考えたり、イメージしたりするときにも、いわゆる運動にしか関らないと思われる小脳や運動野が働いている。このことからも、たとえ外からは微動だにしないように見えるときにも、人間は思考という<運動>を活発にしているのだといえるのである。
 憶の理解についていえば、もしこれが妥当だとすれば、生命の理想状態は<無重力>状態であり、地球の重力場のなかで<無重力>状態を実現するという荒唐無稽なほどの絶対矛盾を人間は理念としてかかえこんでいることになる。もちろん、重力を客観的に除去するのでなく(できるわけがないのだけれど)、重力作用が無効化した状態を理念的に実現するという意味であるが。
 
 個体の発生史においてこの<無重力>状態を求めるとすれば、胎児期ということになるだろう。たしかに、胎児と羊水の比重は近いのだから、羊水に浮かぶ胎児は擬似無重力状態にあると―客観的な意味においても―いえるだろう。
 この胎児が母胎の擬似無重力の世界に永遠にたゆたうことができれば、単に重力だけでなく出生以後、大波のように押し寄せてくる外界からの刺激をも解除することができるだろう。そして外界との軋轢から生ずるはずの、苦しみとその双極概念である喜びからも、善とその双極概念としての悪からも解除されるだろう。
 だがヒトは精神を持った人間である前に一個の生体系であり、そのかぎりで生命体としての根本規定を受け取らなければならない。つまり畳み掛けてくる外界の刺激や情報を、身体の持つ限られた処理能力を最大限に活用して自己の保存に変容させ、そしてできうれば種の保存によって渦巻く生の永遠性を実現しなくてはならない。
 ゲーテは、自然が一定の予算案をもっており、各生物に割りあてられた予算は一定であると考えた。たとえ生命がはかりしれないほどの秘めた力を持っているとしても、一定の限界を持ち何らかの制約を受けているとするのはごく自然な推論である。
 「何らかの」というのは、たとえば次のようなことである。本川達雄によれば、どんな動物も、心臓を一回打つのに体重一キログラム当り二ジュールのエネルギーを消費し、またどんな動物も一五億回心臓が拍動するとその一生を終えるという。したがって、どんな動物も、一五億×二ジュール=三〇億ジュールのエネルギーを一生の間に消費するということになる。同じことだが一生の間に動物が消費できるエネルギーは三〇億ジュールに限られているということだ。
 もし四六時中手足が動き続けたり、消化液などの分泌が止まらなかったり、ようするに、もし身体のさまざまな代謝系が休むことなく反応しつづけるなら、すぐにも自分自身を蕩尽し、燃え尽きてしまうことになるだろうことは容易に想像される。だが実際には、せっかくくつろいでいるのに手足が動き出してとまらなかったり、身体中から汗が意味もなく噴出して年中とまらなかったり、何も食べてないのに唾液や胃液の分泌がとまらないといったことは普通はない。
 時間生物学は、「細胞はあらゆることを同時に行えない」という知見によってこの当たり前の事実に根拠を与えている(アラン・レンベール『時間生物学とは何か』)。たとえばラットやマウスにおいて、活動の終わりにグリコーゲンの産生は高まりタンパク質合成は低下する。休息の終わりに前者は低下し後者は高まる。つまり細胞内においてグリコーゲンの産生とタンパク質合成は同時に行われない。両活動とも多くのエネルギーを必要とするが一度に使えるエネルギーは限られているからである。
 そこで生物は、自己や種の保存が必要とする多様な活動を、どこで、どのように、いつ行うかを選択しなければならなくなった。こうして生物は、その生成分化の歴史のなかで、静と動、緩と急、持続と静止といった周期性や断続性をその活動のなかに持ち込むことになったのである。この周期性は一般にリズムとよばれる。
 ヒトももちろんリズムに従う。レンベールらがパリの健常な若年青年男子に行った実験によれば、性行動(性交と自慰)と血漿テストステロン(主たる男性ホルモン)の年間のピークが一〇月ごろに見られたという。わたしは人間が「狂ったサル」であるとか「本能の壊れた動物」であるとかいった考えに縛られすぎていたようで、完全に喪失していると思い込んでいた生殖活動の周期性がそれほど難しそうでもない実験で示されたことに少なからず驚いた。だが、狂っていても「サル」だし、本能が壊れていても「動物」なので、本当は別段驚くべきことはないのかもしれない。よくいう「ヒトは年中発情できる」というのもまちがいではない(ですよね)のだから、結局、大胆な断定のもつ爽快さはないが、ヒトは「狂乱のサル」で「本能が壊した動物」といった中庸なとらえ方が妥当なのかもしれない。またこうした事実から、一見、特殊であり特権的に見える人間の特質も生物史の連続性のなかに埋め込むことができそうに思えてもくる。
 
 大坪治彦は、自らのを含めたさまざまな研究報告を用いながら、早期産児(三六週未満で生まれた新生児)を含めた新生児が、その出生前後から外界からの情報を能動的かつ選択的に受容していると主張している(『ヒトの意識が生まれるとき』)。新生児たちは、他の図形より顔を象った図形のほうを―顔とは何かを知らないのに―、他の音よりも母親の声のほうを選好する。つまり外界からの情報に対する「選り好み」があるというのである。
 もし、西原のように、単細胞の走化性のようなごく単純な刺激への選り好みにはじまり、腸管の好みに分化したのが心の本体であると仮定するならば、二兆個の細胞からなる身体をもち、その中核に腸管内臓系を据えている新生児もまた出生前からその心的能力を発揮するということも―少なくとも論理的には―ありうることになる。つけ加えれば、自分よりはるかに若い男性ドナーから心肺同時移植を受け、手術後、食べ物の嗜好が変化し、性欲が亢進したといっているクレア・シルビアは(『記憶する心臓』)、臓器移植に必然的に伴う腸管の嗜好の変化により心(あるいは心の基底)が変わってしまったことになる。
 この新生児たちのように、全域的な情報を選り好みのふるいにかけて固有な情報の認知域を作ることも、同時にすべてを行えないという生命体の情報処理の有限性、予算(エネルギー)の一定性に根拠を求めることができそうだ。もしそうだとすると、時間軸に沿った生物活動の周期性だけでなく、空間軸上でのある瞬間における情報摂取の選好をも、同じく諸活動の選択、配分、度合などからなる<選り好み>の概念に括ることができる。
 なお、<選り好み>といっても意識的なものというよりむしろ身体的なものであり、すでに分化した種ではあらかじめプログラムされていると考えるのが妥当だろう。もっとも種の分化する以前においては、動物たちがいつ、何をすべきかを選択するよう外界から迫られたと考えてみたくもなる。たとえば多くの動物が夏至前に出産するのは、この時期に餌が豊富だからであるが、彼らは自分がこの世に生み出された瞬間からこの時期に餌が豊富であることを知っていたのだろうか。そうでないとすれば、この出産様式の決定に対し何らかの選択が介在したといえるのではないか。突然変異で夏至前に出産するようになった個体群が生き残って一個の種を形成するに至った、という科学者好みの説明の方が納まりが良いのは分かっているのだが。
 
 スピノザは『エティカ』において、人間精神(感情、意志、欲望なども含む)は「身体の変様の観念」から構成されているといっている(第二部定理一三)。わたしがパソコンモニターを見るとき、モニターが発する電磁波は視覚器や視神経や脳の視覚野を「変様」させる。この身体の変様の「観念」(精神の能動的認識といった意味)は、したがって、変様した身体の観念であると同時に、変様をもたらしたモニターや電磁波の観念でもある。
 先に新生児の心的能力の可能性に言及したが、スピノザの「精神」概念によってもこれをある程度説明できそうだ。母親の喜びや悲しみなどの感情は、母体の神経ホルモン分泌の変化を経由して胎児へ伝達されるという。ある感情状態があるホルモン分泌の状態に対応するとすれば、母親の感情変化によるホルモン分泌の変化が母子一体である胎児に共有されることは、少なくとも生理学的には母親と同じ感情状態にあることを意味する。母体が悲しみの身体状態にあるとき、胎児も同じ身体状態にあるということである。
 もちろん胎児はこの身体の変化状態をどう名づけるべきかをまだ知らない。にもかかわらず、このとき、胎児の身体の「変様」によって、何らかの変様の「観念」が生じているならば胎児は「精神」により自らの状況を認識していることになる。すくなくとも精神の原初を<選り好み>により<動く>ことだとするかぎり精神はおぼろげにきざしているといえる。胎児が触覚・味覚・聴覚・視覚を機能させはじめるのが胎生四−五ヶ月、脳神経系が十分な発達をとげるのが胎生七−八ヶ月というから、胎生四ヶ月から八ヵ月のあいだに「意識」「精神」が芽生えている可能性はあると思う。
 この「身体の変様の観念」としての精神という定義から、すぐにいくつかの系を引き出すことができる。スピノザのいう観念が認識をもたらすものであり、ゆえに対象の本性を含むとされている以上、身体の変様の観念というのは、身体の本性だけでなく、変様の原因である外部の物体の本性をもふくむ。精神は外界を直接認識することはなく、身体を通して間接的にしか認識しない。精神が身体の変様の観念を持つことは、外界を認識することであり、自分の身体を認識することであり、そして、精神が変様の観念から構成されている以上、精神それ自身を認識することである。
 いま、黄色い砂と青い砂を十分よくかき混ぜれば、緑色の砂ができあがるはずである。このとき、ヒトが「見る」のは緑色であり、その構成要素である一粒一粒の黄や青の砂を見たりはしない。「見る」とは、たしかに意識化されてはじめて意味があるのだろうが、「見る」ことの背後には、無数の混濁した「微小表象」(ライプニッツ)が含まれている。そしてモナドとしてのヒトは、それら微小表象は認識しないで、ある志向性の関数に沿ってそれらが統合されたマクロな表象のみを認識するのである。実際、色を視る網膜の錐体細胞には赤緑青を感じる三種類があるが、色彩を感じているときこれら個々の細胞の変化を感じる人がいるだろうか。
 ある身体の変様の観念は、そのなかにさまざまな観念をふくんでいる。モニターを見ることによって生じた変様の観念は、さまざまな波長の電磁波や映像の映し出す色彩や形態、モニターをつくるさまざまな素材や見ることによる身体の変様などの多種多様な観念をふくんでいるはずである。だがこのときわたしはただモニター自体やその映像を見る―という経験をする―だけである。液晶のドットや映像の媒体である空気の粒子や視覚作用による身体の変化の詳細を「見る」ことはない。このように精神が身体の変様の観念の「一部」しか認識しないならば、その認識は十全な認識とよばれる。
 細胞・組織・器官が相互に複雑に結合した有機的全体のなかに身体の本質がある以上、人間精神は身体全体と切り離された身体の各部分について非十全な認識しかもたない。たとえば、歩いているときに足の筋肉線維の状態を認識したりしない。また、精神は、外部の物体から身体を刺激され限定される限りで外界を認識するので、身体と全く無関係な状態の外部の物体を認識できない。わたしがいま認識しているのはモニターやキボードや机であって部屋の外のことは認識していない。したがって外部の物体について十全な認識をもたない。つまり人間精神は身体についても外界についても非十全な認識しかもたない。
 「非十全」というが、さまざまな種が自然のあらゆる刺激や情報を―常にすべてを受容するのでなく―それぞれのやり方で処理した上で受け入れているというのは有機体の基本的生態であるといえる。生体系は、それがあらかじめプログラムされているにしろされていないにしろ<選り好み>することで自らの生存に必要十分な「非十全」な観念を持ち、それによって外界に適応しているのである。したがって外部の物体から生ずる身体の変様の観念がさまざまな観念をふくむ非十全な観念であることは、スピノザの「非十全」という否定的な言い方にもかかわらずあらゆる有機体の生存が要求する不可欠の要件であると考えられる。
 一方でスピノザは、人間精神は身体に生ずるすべてのことを知覚しなければならないといっている。それが可能になるのは、身体の変様の観念にふくまれる多様な観念を同時に観想し、それら相互の「一致、差異、反対点」を知り、「共通概念」をもつことによってである。この「一致、差異、反対点」を知る能力こそ理性の力であり、このとき人間精神は明瞭・判明な能動的認識を得ることが、いいかえれば十全な観念をもつことが可能となる。
 人間以外のあらゆる精神は、<選り好み>によって身体に刻まれた固有のリズムをもち、また生態の要求に見合った程度の十全さをもつ観念―非十全な観念―からできた固有の認識世界をつくり、それによって外界に適応する。実際、これで個体の生存は十分保障されるにちがいない。
 動いたり、食べたりするとき、自然物の刺激による身体の変様のすべては個体の内側で起きていることであり、ゆえに個体の所有する事実性である。ところが、人間以外の精神にとって、身体の中で起こりつつある変様のほとんどすべては跡形もなく通り過ぎていってしまう。精神は自分の身体のごく限られた範囲しか認識しない。だから自分の身体に不可知の領域があることも、身体に充填された細胞のすべてに課せられている戒律も知らないし、その必要もなかった。自己の存在することは認識できるのに、その詳細に立ち入ることは解剖学的構造によってあらかじめ禁じられている。自己存在の形式だけが可知的で、その内容は不可知的である。自己存在の輪郭はなぞることができる。だがその奥にある無明の闇は覗き込むことさえ許されなかった。
 ニワトリは自分が毎朝おんなじ鳴き方で鳴いてしまうことを馬鹿馬鹿しいとは思わないし、イヌも用を足したあとに砂一つないアスファルトの地面をいつでもどうしても蹴ってしまうことを無意味だとは思わない。自分のしていること、してしまっていることを「なぜ」と疑問に思ったりはしない。彼らにとって自分たちの身体に起こるさまざまな変様はそれ自体であり、それ以上でも以下でもない。それらは一定の条件で生じ、そして条件の変更とともに消えてゆくだけである。彼らがもし「なぜこんなことを自分たちはするのか」と疑問に思ったとしたら、そのときはすでに彼らは別の存在になってしまっているだろう。反対に、人間は「どうして自分はこんなことをしているのだろう」と思うことは常態であると言ってよい。むしろ、そうした観念から逃避するために慣習・習俗・規範によって行動をルーティン化しているといってもよいくらいである。
 人間精神だけが、自らの持つ非十全な観念を理性の力によって十全なものにしようとする。人間だけが、その身体のなかに認知可能性を絶たれた領域を持っていることに気づいたからである。いいかえれば胸中に秘められた心の存在に気づいたからである。あの底なしの淵から押し出されてくるような力とは何なのか、という疑念が自分にとって最も身近な身体から、その胸中からあふれだしてきたのだ。そしてわたしたちはこう思う。「わたしの内部(うち)にさわぎたつ、このものは何か、その意味は何か、わたしにはわからない。」(タゴール『ギタンジャリ』森本達雄訳) と。
 人間の、見えるものに見えないものを、有限なものに無限なものを見出そうとする性向、事物を表層と深層、意味と価値といった対概念で二分する思考法などは、この気づきに端を発している。心を象ろうとする言葉が無限に増殖したり、欲望を象ろうとする資本が無限に増殖したりするのも、どんなに精神の探索を加えても姿を明らかにしない身体の認知不可能性への不安に対する一種の過剰補償のようにみえてくる。身体の観念によって自己の内外を十全に知ろうとする人間にとって、一見四方八方に広がってゆくかに見える無数の問いが結局自分自身への問いに帰着してしまうのはこの不可知の構造のためであろう。
 さきほど「どんな」動物も、一五億回心臓を打つと死を迎えるといった。あらゆる動物にとってこれは自然から課せられた摂理であった。だがこの摂理にはお察しの通り例外があった。ヒトは一分間に六〇から七〇回心臓を打つ。したがって一秒当りの鼓動は一から約一.一六回となる。これに一五億回をかけてヒトの寿命を計算すれば四〇から四八年となる。現代人よりも自然状態に近い縄文人の寿命は男女とも三一歳前後と推定されているらしいから、動物としてのヒトの寿命は本当はもっと短いかもしれない。現代日本人の寿命を八〇歳とすると、ヒトとしての寿命の一.七から二.七倍を「人間」は生きていることになる。四〇歳半ば以降の人間の人生は、入れ歯や眼鏡や薬、人間の機能の拡張であるさまざまな機械や装置などによる身体の人工化が支えている、いわば過剰な生だということもできる。
 自然を緻密に観察し、手を加え、冬の花を春に咲かせたり、夜の不安を灯りで忘れようとしたり、また自己の内部を枝葉末節にいたるまで詮索し、どこかにあるとしか思えない真を求めて、掃いて捨てるほどの言葉―この文章もそうだが―や各種の表現をわたしたちは生み出している。ただ生きていくのには全く不用なこの「十全さ」への脅迫的な執着をみていると、人間精神は単にリズムにタクトを振るにとどまらず、所与のリズムを一旦破壊しつくし、その上に新たな<リズム>をつくろうとしているのではないかとさえ思われてくる。人間の本質を<自由>に置くとすると、人間は<選り好み>を自己に課せられた制約のように感じることができる。そこで自然が課したあらゆる枷は一旦チャラにして、細胞の能力の限界を超えて瞬時にすべてを見て取り、いつでも思いのままにふるまえるような、新たな<無重力>の世界を築こうという意志を人間が持つということは大いにありそうな気がする。……などと大きく出てみたものの……。三木さん、もっとよく考えてまた出直します。