沈黙のコミュニケーション
――八木洋一「語り合う身体」について
 
                                逢沢堅
 
 私たちは自分の身体が力を持っていることを知っている。だが、「力そのもの」を経験することはない。私たちが知っているのは、キーボードを押す力であり、ペンを持つ力であり、立ち上がる力であり、呼吸する力である。私たちが知っているのは常に何々の力、つまり具体的な力である。ウマやシカやイヌやネコなど具体的な動物を通じて「動物」を知るように、具体的な力を通じて身体に潜む「力」の存在を知る(あるいは再認識する)のである。動物そのものや力そのものは経験できない。
 生命の場合も同様であろう。もちろん、私たちは生命であるが、常に人間という具体的な生命である。そこで私たちは、自分自身を含めた動物に限らず、さまざまな植物や細菌、きのこなどの菌類やアメーバのような原生生物などを通じて生命というものを知る。私たちは地上のあらゆる生物種と同じ「生命」であると自分をみなす。
 そして一度、生命なるものを知った人々のなかには、そのなりたちに思いをはせるものがいても不思議はない。著者もその一人であるように思われる。だが、生物学者のように他の生物種に向かうのでなく、反対に、個別的生命としての自分を掘り下げることで生命そのものに向かう。概念としての「生命」をどう了解すればよいかという問いを発しているようにみえる。
 著者によれば、身体とは生命の根源的働きが実現したものである。この生命の根源的働きとは、少し前の、「私たちは地上のあらゆる生物種と同じ『生命』である」というときの「同じ」という捉え方に深く関わるものであると思われる。また、無生物から最初の生命が創発されたとき、無生物を生命として成り立たせる原理は既にそこに存在しているわけであるから、生命が誕生する「以前」にそうした何らかの働きが存在していると仮定することは、すくなくとも論理的には、ありうることと思われる。それは、多様な生物種の生き様を貫いて止むことなく響き続ける通奏低音のようなものだろうか。あるいは、呼吸するときも、食べるときも、動くときも、五感で世界を感じているときも、病と闘うときも、夢に夢見るときも、いつでも「わたし」が「わたし」であることを可能ならしめている動因みたいなものだろうか。
 さて著者は、生命の根源的働きのほうを〈場〉とよび、その実現である身体を〈場所〉とよんでいる。したがって〈場所〉は〈場〉の実現である。〈場〉としての生命の根源的働きが実現したのが、〈場所〉としての身体である。たとえば、文が文法という「働き」の実現であるとすれば、文法という〈場〉の実現が文という〈場所〉である。色が光の働きの実現であるとすれば、光という〈場〉の実現が色という〈場所〉である。音が空気の働きの実現であるとすれば、空気という〈場〉の実現が音という〈場所〉である。文法などというと、〈場所〉としての対象が成り立つための規則や原理や法則が〈場〉だと思うかもしれないが、著者がいう〈場〉は、単なる規則や原理や法則というより、むしろ、それ自体能動的に形作ろうとする作用であるように見える。
 比較のために物理学における場を考えてみよう。いま、何も存在しない空間を仮定する。そして、この空間に一つの電荷(電気を帯びた粒子)'Q'を置いてみる。するとこの電荷Qのまわりの空間が電荷を置く前とは異なる状態になる。これを電荷Qがそのまわりに電場(electric field)を生み出したという。物理でいう場とは、力の作用する空間のことであるから、電場とは電気力の作用する空間であることになる。さて、電荷Qの周囲に電場ができたところで、もう一つの電荷q(Qより電気量が小さいとしよう)を置いてみる。もしQとqとが異符号(正と負)なら、いま置いたばかりの電荷qは、場の中心へ向かう力(つまり引力)を電場から受ける。もし同符号なら反対に場の外側へ押し出される力(斥力)を受ける。ちなみに電場から電荷に与えられる力は、電荷の大きさ(この場合はq)に比例して大きくなり、電荷同士の距離の二乗に反比例して小さくなる(つまり遠いほど小さい)という性質をもっている。
 このように、電場の場合は、電荷という原因となる粒子がまず存在し、そこから周囲の空間が変化して電気力の作用の場ができる。ところが、著者がいう〈場〉は、電荷のような何らかの原因から湧出するような力でなく、その作用が生ずるような原因は何もないにもかかわらずそれでも存在する純粋な働きであるようである。あえていえば無から湧き出す働きといえるだろうか。永遠に現象しない本質、あるいは質料なき形相とでもいうべきだろうか。
 それに対して、電気力が電荷を原因とするように、私たちの持つ「力」も身体を原因としている。一方、身体は〈場〉――すなわち生命の根源的働き――の実現であるとされる。そして〈場〉の実現は〈場所〉と呼ばれている。したがって、〈場〉が身体を〈場所〉として実現し、次いで〈場所〉としての身体を働かせることで私たちは「力」を発揮するという順序になるだろう。〈場〉が、私たちにとっては「力」の原因である身体を実現しているわけである。〈場〉が「根源的」といわれるのはこのためであろう。
 著者によれば、生命活動全体は〈場所論的コミュニケーション〉としてとらえられる。コミュニケーションとは、ざっくばらんに言えば「何かを伝えること」といえる。〈場所論的コミュニケーション〉とは何を伝えるのだろうか? 〈場所〉としての身体は、〈場〉としての生命の根源的働きを〈語る=伝える〉のである。身体は、生命の根源的働きを実現する過程を通じて、この働きを伝達(コミュニケーション)しているという。
 そこで、身体が他の身体を補食したり、あるいは他の身体と協力(共生)して環境に適応することによって自分の身体を維持することもコミュニケーションであることになる。なぜなら、生命の根源的働きの実現としての身体を維持することは、生命の根源的働きを〈語る=伝える〉主体でありつづけることであるからである。身体の維持(ようするに生きること)は、〈語り=伝え〉続けることだと解釈できる。著者は、生命の根源的働きが身体として実現することを第一義のコミュニケーションといい、実現された身体を維持することを第二義のコミュニケーションといっている。
 話す能力を例にとってみよう。私たちは話す能力を身につける可能性を持って生まれてくる。そして成長するうちに知らず知らずのうちに話す能力を身につける。だが身につけたこの能力をのべつ幕無しに使用しているわけではない(そういう人もいますが)。どんなにおしゃべりな人士も、さすがに寝ているときは話す能力も眠っているだろう(まるで起きてる時みたいに寝言をいう人もいるようですが)。
 いま、〈場〉を話す能力に喩えると、この能力を身につける可能性を持った身体が、実際に、話す能力を自分の身に「実現」することが第一義のコミュニケーションに相当し、「実現」した能力――〈場所〉の喩えと考えてほしい――を使って他の人(他の話す能力)と会話することが第二義のコミュニケーションに相当するだろう。実際に話すことがこの能力を維持したり向上させたりするように、第二義のコミュニケーションは実現としての身体を維持するわけである。
 これはあくまでも比喩であり、誤解のないように付け加えれば、著者の考えでは身体は〈場〉が実現した〈場所〉なので、身体に属している話す能力は――〈場〉ではなく――〈場所〉の働き、つまり第二義のコミュニケーションになるだろう。
 ついでにいえば、アリストテレスは、身体がある能力をまだ身につけていない状態を、可能性として内に秘めた状態という意味で可能態(デュナミス)とよび、可能態としての身体が、その能力を実現した状態およびそれを実際に行使することを現実態(エネルゲイア、エンテレケイア)とよんでいる。アリストテレスにとって、生命活動とは可能態から現実態への運動であり、「魂」(あるいは心)とは、話す能力に限らず身体のもつさまざまな能力であると考えられる。
 ところで、著者にとっての生命の根源的働きとはどんなものだろうか? ただ「働き」というだけでは抽象的すぎるかもしれない。著者によれば、生命の根源的働きとは具体的には〈開閉相即〉の働きである。〈開閉相即〉の働きとは「開くために閉じる、閉じるために開く」働きである。この働きは胚の時期(生物の初期)に典型的にみられるという。では、この「開くために閉じる、閉じるために開く」働きとはどんなものであろうか?
 私たちは食道や胃や腸を身体の「内」(なか)と感じているが、それは普段、口を閉じているからである。そこで口を開けた状態を考えてみよう。口を開けて食べ物が身体の「内」を口から食道、胃、腸を通って行く様子を想像してみよう。胃カメラのような小さな物体が入る様子でもよい(ちょっと気持ち悪いですが)。体「内」と身体の外はつながっていないだろうか。もちろん実際に食べるためには口を閉じて咀嚼しなければならないが、身体の「内」とは私たちが口を「閉」じることによって「内」にしているのである。なぜ「閉」じるかといえば、そうすることによって身体を維持できるからである。こうして身体の「内」は口の〈開閉〉の働きによって内にも外にもなる。著者は、こうした身体の内外をつくりだす〈開閉〉の働きが身体のごく初期の状態から実現しているといいたいのであろう。
 私たち脊椎動物の最も古い祖先であるヤツメウナギの場合、顎を持たないため口があけっぱなしであり、つねに内外が通じている。まるで海中を漂う小さな鯉のぼりのようである。それではヤツメウナギに〈開閉〉の働きがないかといえばそうではない。たとえば、口から入った海水は、七対の鰓孔(さいこう)つまり眼のうしろにある七つの「えらあな」から出て行く。このときに呼吸と濾過がおこなわれる。濾過とはこの場合、海水に含まれる微小な生物や有機物は体内にとどめ、不要な水分は外へと出すことである。鰓孔がもつ、栄養を「とどめる」働きを〈閉〉、不要物を排「出」する働きを〈開〉に対応させて解釈すれば、ヤツメウナギにも〈開閉〉の働きがたしかに存在するということができる。同様に、人間の胃の袋状の形態や腸の曲がりくねった形態も栄養物をとどめつつ流す〈開閉〉の働きと解釈すれば、人間の身体の構造にも〈開閉〉の働きが実現しているといえそうだ。
 蛇足であるが、著者も引用している三木成夫は、生過程の理想形を、口から入った栄養が体内をとどこおりなく通って排出される〈流れ〉とみている。太陽光を栄養とする植物は居ながらにしてこの理想形を実現している。太陽光は生命が誕生する前から、植物たちが使い切れないほど過剰にふりそそぎ、しかもやむことがない(地上に達する光エネルギーのうち植物が光合成で固定するのはその1%前後といわれている)。植物はただこの光を受け入れ栄養とし、不要なものを排出するだけである。一方、動物は生存のために食物を求めて動きまわらざるをえない。希少な獲物は日の光のように気前よく自分をささげることはないから、いきおい、動物たちはせっかく手に入れた栄養物を胃や腸や肝臓などに「ためこむ」ことを覚えざるをえなかった。三木はこういっている。
 
「一般的に申しますと、生物というものは、外からものを取り入れ、内なる老廃物を排泄する。これが生物の特色です。
 これは植物も動物もアメーバの時代から共有するものです。その場合、外から取り入れたものが、細胞の原形質の中に入り、ここで加工されて再び外へ出る。この流れが小川のせせらぎのように、絶えず滞りなく流れている状態、これが細胞の生命に不可欠の条件です。そこに少しでもたまりが出来ますと、……ハキダメにうじが湧くという極く平凡な理論で問題が起きます。ところが動物のからだには沢山のたまりの部分があります。これに対して植物のからだにはもともと一切のそのたまりの部分がありません。これが動物と植物の根本的な違いであります。」(三木成夫「上腹部(みぞおち)の構造とその機能について」『人間生命の誕生』)。
 
 著者のいう〈開閉〉の働きや構造が動物に不可欠なのは、これによって外からとりいれたものの〈流れ〉をコントロールするためである。いつみつかるかわからない獲物をもとめてさまよう動物たちにはそうする必要があったのであろう。これは動物の宿業であると三木はみなしている。
 さて、〈場〉とは生命の根源的働きであり、生命の根源的働きとは〈開閉相即〉の働きである。〈場〉の実現が〈場所〉であり、〈場所〉とは身体である。〈場〉が実現することを第一義のコミュニケーションといい、実現した〈場所〉が、他の〈場所〉と関わり働くことで〈場〉の実現を更新しつづけることを第二義のコミュニケーションという。そこで、生命活動全体は〈場所論的コミュニケーション〉であると解される。
 著者は、身体は生命の根源的働きの実現であり、このことがケアの起源であるといっている。そして植物状態の患者と看護師の間で実現するケアを、生命の根源的働きの実現としての身体が顕わになっている状態とみなし、「語り合う身体」とよんでいる。身体が生命の根源的働きを〈語る=伝える〉媒体であることがケアの根拠になるということだろう。したがって、身体は生命の根源的働きを〈語る=伝える〉、ということをどのようにとらえるか、それと、「語り合う身体」、つまり複数の身体が語り合うとはどういうことかが著者にとってのケアを知るためには重要である。
 身体は生命の根源的働きを〈語る=伝える〉とされているのだから、「身体が語り合う」という場合の「語り」とは、一つの身体が生命の根源的働きを〈語る〉ということである。「合う」とはこの場合「たがいに語る」という意味だとすれば、合わせて、「二つ以上の身体が生命の根源的働きをたがいに語る」と理解できる。しかし、普通の語りでは、聞き手がおり、直接その相手に向かって語るわけであるが、この場合、語り手である身体は聞き手である別の身体へ向かって〈語る〉わけではないと考えられる。なぜなら、この場合の〈語る〉とは、身体が存在し存在し続けることを意味するため、たとえば眠っていて外界から意識を引き上げているときも〈語り〉続けていることになるからである。しかも、一方の身体が〈語る〉内容も、他方の身体が〈語る〉内容も、同じ生命の根源的働きである。だから、語り手から聞き手が何か読み取りうるとしても、それは語り手も自分と同じ身体であるということであると思われる。ただしそのためには、読み取る以前に聞き手は自分も〈語る〉主体であり、しかもその内容を了解していなければならない。そうでなくては読み取るという行為自体が成り立たない。そこで、「語り合う」とは、一方の身体が他方の身体に直接何か働きかけるということがないにもかかわらず、二つ以上の身体の間で成り立つある影響関係を指すとさしあたって理解することにしよう。
 ところでいま、ケアを「わたし」と「あなた」のあいだでなりたつ、ある活動であり、この活動が成り立つためには、相互の意志の疎通がある程度は必要であると考えよう。著者は〈心〉とは身体を映す働きと構造であるとしている。だから、「わたし」の〈心〉とは、「わたし」に映し出された身体であるとなろう。「わたし」の気分が悪いとき〈心〉はお腹の変調を映し出し、走りすぎて筋肉が痛いとき〈心〉は乳酸の生じた筋肉を映し出し、バラを見ているとき〈心〉は視覚器により結ばれた像を映し出す。では「あなた」(他者)の〈心〉とは、「わたし」にとって何だろうか。「あなた」にとって、「あなた」の〈心〉は「あなた」の〈心〉に映った身体であるだろうが、「わたし」にとって「あなた」の〈心〉が何であるかはただちにはわからない。
 もし身体が生命の根源的働きを〈語る=伝える〉ものならば、「わたし」が「わたし」の〈心〉を感じるとき、「わたし」がそれを自覚しようとしまいと、〈心〉に映っている身体は当然のことながら生命の根源的働きを〈語る=伝える〉。「あなた」もまた自分の〈心〉を感じるとき、〈心〉に映っている身体は生命の根源的働きを〈語る=伝える〉。だからそれに自覚的か否かを問わなければ、「わたし」も「あなた」も〈心〉を通しておなじ働きを観ている。もしそうならば、「わたし」が自分の〈心〉を感じるとき、その根底で「あなた」の〈心〉を感じているといいうるし、逆もしかりである。
 こうしたことを考慮して、身体には「共感」の働きがあると仮定してみる。この共感の働きによって、「わたし」は「あなた」の〈心〉を、「わたし」に知覚された「あなた」の身体から感じることができる、と仮定するのである。つまり、「あなた」(他者)の〈心〉とは、「わたし」の〈心〉が感得した「あなた」の身体である。いいかえれば、「わたし」にとって、「わたし」の〈心〉は、「わたし」の身体の内側から受け取った「わたし」の身体であるが、「あなた」の〈心〉は「わたし」の身体の外側から「わたし」が受け取った「あなた」の身体である(ややこしくてすみません)。
 身体がこのような意味を持つものとして現れる状況を、つまり他者の身体が他者の心の表現となるような状況を想定してみよう。いま、「わたし」の目の前に物体がある。「それ」は身体のようである。すでに意識もなく言葉を発することもない。運動機能も喪失し手足を動かすことも瞬きさえもしない。しかし、「わたし」は目の前の存在を単なる物体とは感じない。なぜなら、「それ」は自分と全く同じ姿形をしている。耳を澄ますと呼吸の音が聞こえる。手を握ればぬくもりがある。「わたし」は「それ」を自分と同じ人間だと思う。「その人」はこちらに何も発することはない。しかし「わたし」は「その人」の切迫するような心の働きを感じる。そのとき思わず「わたし」は「その人」の口から無防備に流れる涎を拭いてしまった。このとき「わたし」は〈ケア〉の入口に立った。といいたいところだが虫のよすぎる仮説例かもしれない。
 沈黙も言葉に含めてしまえば、ケアの場に限らず私たちの日常生活においても、言葉を一つも発しないのにもかかわらずコミュニケーションしているという状況はめずらしくない。叱られた子供が黙っていれば、それが何らかのメッセージとして受け取られる。弁明すべきときに弁明しないことも、拒絶や抵抗などのメッセージになりうるし、「あのとき何かいえばよかった」という後悔がなりたつのも、言わなかったこと自体が相手への意味あるメッセージになるからであるし、同時に自分へのメッセージにもなるからである。
 つまり人間のあいだには、ただ同じ場所に身体として存在するだけでコミュニケーションがなりたつ可能性があるわけである。身体そのものを心の現れと仮にみなせば、身体のケアをする看護者が、意思伝達能力を喪失したものいわぬ被看護者の心を感じたり理解したりしたとしても――つまりコミュニケーションしても――単なる錯覚にすぎないとはいえなくなる。逆に、看護者が被看護者を――もちろん被看護者が看護者をでもある――、どんな状態にあってもコミュニケーション可能な存在として受け入れることができなければケアは成り立たないのではないか。そして、常にコミュニケーション可能な存在として受け入れるとは、互いに共感可能な存在であると考えることである。いいかえれば、看護者も被看護者も互いに同じ身体であり、互いの身体を互いの心の現れとして受容することができると考えることである。こうして沈黙する身体が共感を通してコミュニケーション可能となる。
 同じ空間を共有する人々が、ただそれだけでコミュニケーションしうるということを別の視点からみてみる。電場の例を思いだしてみよう。何もない空間に電荷を置くと周りの空間が変容して電場が生まれた。この電場は他の電荷に影響を及ぼす。あくまでも比喩であるが、人間の場合も、その人がそこに居る前と後では空間が異なる状態になって、相手に何らかの影響を及ぼしてしまう場が生まれると想定してみたらどうであろう。その人が相手に影響を及ぼそうという意図をもつ持たないにかかわらずその存在が影響を与えてしまう、そのような場である。誰もいない部屋に独りぼっちでいるときと、友人と一緒にいるときと、大勢の人のなかにいるときとでは言葉使いも振る舞いもおのずと異なってくるのは、同じ空間にいる人々がそれぞれのつくる場によってお互いに影響を受け、「場の雰囲気」を変化させてしまうからである。人間同士の関わり方を仮に「倫理」と呼べば、この架空の場は「倫理場」とよぶことができる。
 電場の作用は、周囲の空間を変化させながら有限の速さで進む近接作用であるが、この架空の倫理場の作用はむしろ、一瞬のうちに相手に到達する万有引力のような遠隔作用のイメージをあたえる。
 たとえば、どんなに遠く離れた地域にいる兄弟姉妹も、それにもかかわらず倫理的つながりが維持されているとすれば、彼らの倫理場の作用は遠隔的だとみなせる。そもそも遠隔的でなければ小さな集落からはじまり、そこからちらばって段々に広がっていった共同体が現在の民族国家のような規模になるわけはないであろう。空間的にはそれぞれがちらばっているにもかかわらず何らかの倫理的つながりがあるから一つの共同体が成り立つわけであるから。私たちはお互い遠く離れていても自分を「同じ日本人」であるとみなすことができる。また、ある人が事故や病気などで亡くなって永遠に会えない場合と、亡くなってはないが永遠に会うことはない蓋然性が高い場合とでは、状況は似ていてもやはり違った影響を同じ人物から受けるだろう。たとえ知覚可能な範囲に現れる可能性がなくともどこかにその人が存在するということ自体が影響を及ぼしうるからである。
 ともかく、この比喩において、人間はそれぞれ自分のまわりに倫理場を持っており、そのため、ただそこに居るだけでその存在が相手に浸透してしまう、そのような存在のあり方をしていると理解できる。電場の中心の電荷が他の電荷に作用するのは、両者とも同じ電気力の担い手であるからであるように、倫理場の中心の主体が他の主体に影響するのは、両者とも、同じ機能と構造をもった身体であるからであり、その同じ身体を現す心の担い手であるからである。同じ空間を共有する身体は、自分の身体から〈心〉を観ずるように他者の身体から他者の〈心〉を観じ取ってしまうため、ただ同じ空間を占めているにすぎない相手の存在に影響されてしまう可能性を常にもっている。
 言葉や振る舞いによる、いわゆる普通のコミュニケーションは、こうした、望むと望まざるとにかかわらず共存が不可避的に生み出してしまう相互の影響を、回避したり低減したり増幅したりするために生み出された、むしろ結果的なものではないかとさえ思える。相手に敵意(というとおおげさですが)がないことを示す会釈やあいさつがその典型である。ケアにとっては、もちろん普通のコミュニケーションも非常に大事であるのは想像に難くない。だがその日常的なやりとりの基底には、著者が指摘するような〈第一義〉的なコミュニケーションがあり、日常意識されないこの〈第一義〉性が極限の状況においては、沈黙の身体と身体の関わりを通して露呈するということなのだろう。
 わたしの理解はいまのところここまでである。著者のケアの考えを理解したとは到底いえず、矮小化してしまったかとおそれるが、いずれにせよその一端ぐらいはつかめたような気がする。