メッテンドルフに眠る祖父ヴィクトール・ヴァルツァーへ
篠田和絵
2004年6月2日夕、私は、ドイツ、ラインラント州メッテンドルフに眠る祖父ヴァルツァーの墓前に立ちました。
ライン河の西、フランス、ベルギー、ルクセンブルグに隣接した地、日本の観光客がまず訪れることもないであろう、この小さな、そして緑に囲まれた美しい村、メッテンドルフに、第一次世界大戦チンタオ戦のドイツ俘虜として、大阪、似の島の収容所に5年を過ごした私の祖父ヴァルツァーが眠っています。「この地に安らかに眠る」と刻まれたヴィクトール・ヴァルツァーの墓に現実に向かい合うことが出来るとは、思っても見ないことだったのでが・・。
そして、ここに立つのが90年前のあのチンタオ戦が永久の別れになってしまったヴァルツァーの日本の家族、妻うめ、娘の時子と照子(私の母)であったなら、その感動は更に更に大きかったろうという思いが脳理を走りました。
チンタオでの別れから90年、まさに忘却の淵に消えようとしていたヴィクトール・ヴァルツァーの消息を探し当て、その墓前に辿りつく事ができたことは、ひとえに習志野教育委員会の星昌幸氏とドイツ、ザールラント州クッツホフ在住の歴史家ハンス・ヨハヒム・シュミット氏の調査とご指導のおかげです。大いなる感謝の気持ちをまず表したいと思います。
シュミット氏の調査によると、1872年生まれのヴァルツァーは、メルク製薬に勤務、27才でイギリスへそして1900年代初に天津へ渡りました。そしてちょうど同じ頃、単身長崎から天津に渡った日本女性、19才のうめと出会います。そこで二人は家庭を持ち、長女時子を、そしてドイツの租着地チンタオに移り、次女照子をもうけ、平和な家庭生活が始まります。その矢先の1914年、(時子3才、照子1才)第一次世界戦争勃発、ヴァルツァーは民間人でしたが、チンタオに上陸した日本軍の俘虜の一人として、大阪俘虜収容所に運ばれてしまいます。以来、幸せになるはずであった家庭は戦争によって引き裂かれ、ヴァルツァーを失った妻子は故郷の長崎に帰ります。しばらくは大阪俘虜収容所のヴァルツァーと連絡をとりあっていたことが残されたヴァルツァーの手紙からわかりますが、その手紙も1917年の途中までしか残っておらず詳細はわかりません。
1920年の強制送還の際にヴァルツァーは何故かうめと連絡をとることなしに帰還船に乗ってドイツに帰ってしまいます。何がそこにあったかは、うめとヴァルツァーの言葉は残っておらず、今となっては、知る術はありません。
1925年うめは消息の分からないヴァルツァーを諦め、縁あって長崎の男性と再婚します。うめの第二の人生が、ヴァルツァー封印という形で始まったとしても責めることは出来ません。その後うめは三人の男子を産み、ヴァルツァーとの子、時子、照子は長崎の新聞社で働く新しい父の養女として、成長することになるのです。
しかしうめは1937年49才、そして夫も同年50才で他界してしまいます。両親を同時に失くした三人の男子はそれぞれ11才、9才、7才。時子、照子は20代になっており、既に長崎にはいなかったようです。
三人の男の子が、波乱万丈の人生を送ったことは容易に想像されますが、それぞれ苦難を梃子にして、後に成功の人生を歩んでいらっしゃることを、私は感動を持って聞くことが出来ました。その時9才であった男の子(三井悠二)は、後に習志野に住み、一市民として平成12年の、習志野教育委員会主催の特別資料展「ドイツ兵士の見たNARASHINO」を見、感動し、その本の増刷にも協力を寄せ、自分が幼い時に死んだ母親の先夫がドイツ人であったという記憶から、教育委員会の星昌幸氏に問い合わせのメールを送ることになるのです。丁度、そのことが、友人の協力のもとにヴァルツァー探しを始めようとしていた私に拍車をかける結果になりました。
私はヴァルツァーの次女照子の娘ですが、わけあって、私は、父方の叔母夫婦の養女として、鳴門で成人し、母照子とは暮らすことはありませんでした。20代になって、生母の存在と彼女がドイツ人と日本人との間に生まれた女性であることを知ります。しかし、事情がよくわからない私は、母照子及び祖父を気にかけてはいても、探すという実感はわかないまま、いたずらに年月は過ぎて、2000年の新年を迎えました。
突然母照子の消息が飛び込んで来ました。私は母に再会、その喜びもつかの間、9ヶ月後には母は(87才)亡くなってしまいます。
母の荷物を整理することになった私は、そこでヴァルツァーからうめに宛てた十数通の手紙と写真を発見するのです。私の手元に残ったヴァルツァーの子供たちを思う手紙は、彼の消息を探したいという思いに初めて私を駆り立てました。
折も折り、姉の時子さん(92才)の訃報が飛び込んできました。ヴァルツァーを探そうと決心したのはその時でした。ヴァルツァーの娘二人の死は、永久に「ヴァルツァーとうめの物語」の消滅を意味します。このことを明らかにしよう。それが残された者、私の使命であると感じました。
2003年5月インターネット会報「チンタオ・ドイツ俘虜研究会」に「私の祖父を探してください」という唐突なメールを出しました。このことが、研究会の小阪先生、瀬戸先生そして特に習志野の星氏をわずらわせることになりました。(すでに三井から依頼を受けていたところに私は星さんに同じ問い合わせのメールを書いたことになります。)メールの内容は、星さんからドイツのクッツホフ在の研究者ハンス・ヨハヒム・シュミット氏に届きました。返事はすばやく戻りました。シュミット氏のデータにはしっかりとヴァルツァーの消息が記載されていたのでした。これは星さん自身が先に調査されて、仮説を立てた結果と全く一致しており、紛れのないヴァルツァーの消息が現実となって浮上してきました。
こんな風にして発見できたヴァルツァーをこのままにして終わることは私には出来ませんでした。研究者の方々と情報を交わして以来、戦争の内容やドイツ兵の置いていった文化(音楽、スポーツ)や技術(パンやソーゼージの製造)の恩恵を知ってからは、発奮、関連する本を一生懸命読みました。私の中ではそれらはますます広がっています。ドイツ国に大いに関心をもったのは祖父の存在だけでは、もはやありません。ちなみにあのユーハイムさんとヴァルツァーは同じ似の島で当時暮らしていたのです。
様々な歴史を踏み越えたヨーロッパを見てみたいという気持ちの高まりも手伝って、「ドイツへ」そしてヴァルツァーの「ルーツへ」行こうと決心しました。それには何の面識もないシュミット氏にすべて頼るしか方法はなく、無謀なお願いを繰り返し、結果的には、彼の信じられないほどの親切な受け入れと適切な導きに従って、「ルーツ」メッテンドルフへの旅は実行されたのです。
今ヴァルツァーは色とりどりの花に囲まれて私の前に眠っています。すこしずつ湧き上がってくる感動をかみ締めました。
『 Thank you Mr. Walzer! すべては、ヴァルツァー!貴方の運命から出発したことです。今日本にこうして暮らしている私はヴァルツァーの存在あればのこと。
貴方を発見してここまでやってくるまで1年の時間がありました。その間に貴方のことをいろんな風に考えました。時には、置き去りにしたひどい人、と思った瞬間がなかったと言えばうそになります。しかし勉強するうちに、貴方の歩いた道が少しずつ少しずつわかってきました。貴方はドイツ国が蒙った大きな困難(それもグラーツ追放を含めて2度も)の真っ只中にいたのですものね。
貴方が孫娘のように可愛がったというゲートルートさんと息子のバートラムさんに会いました。ゲートルートさんはお身体の調子が良くなかったのですが、どうしても会いたいという私の願いに、シュミット氏が息子さんと連絡を取り、訪問できるようセットして下さいました。
シュミット氏と息子バートラムさんがフランケンタールの駅まで迎えてに来て下さり、ゲートルートさんの家に。ゲートルートさんは涙声で私を迎えて下さいました。貴方のことが去来して、感激されたのかもしれません。私は、何故か会った瞬間に、知己の懐かしさを感じました。私の頬に寄せた彼女の頬のぬくもりは忘れることが出来ません。息子、バートラムさんの手料理のランチをいただきながら家族の話を沢山しました。写真も沢山見ました。その中に貴方の大阪俘虜収容所で撮ったグラーツから逃げる時も、唯一持ち出したという大事に保管されていた赤いアルバムがありました。大阪収容所の内部と俘虜の人々の生活が写し出されています。これは、貴方が撮った写真集なのですね!貴方の写真は3枚ほどしか確認できないけれど、大体同じ人達といつも一緒にいるよう見えます。この方達はどなたなのでしょう。当時はカメラは珍しかったのではと想像しましたが・・
貴方と一緒に暮らしたことのある、そして貴女を「おじいさん」と呼んでいたゲートルートさんが目の前にいます。私にとって最も貴方を身近に感じることが出来る方です。彼女の話によると、貴方の趣味はクラシック音楽とオペラだそうですね。
グラーツ時代には、彼女と彼女の弟をよくコンサートに連れて行ったとか。そして貴方は読書家であり、知識が豊かで、彼女の学校時代を通して、勉強の良き相談相手だったとか。優しくて、穏やかで、困っている親戚の人を援助することもあったそう。でも彼女は、時々貴方の中に悲しみを発見して、何故悲しそうなのかと彼女の父親に聞いたそうですよ。「貴女は小さすぎて、理解できない」と父親は何も言わなかった、と彼女は貴方が一切過去を語らなかったことに触れました。そして日本の家族について何も言わなかったのは、「永久に会えない」と諦めていたからではないでしょうかと推量形でおっしゃいました。貴方の悲しみが私にも伝わってくるような気がしました。
長い長い年月が経ちました、貴方は生涯一人を通したそうですね。貴方の知らぬ間に「貴方の子孫は、孫が6人、ひ孫が7人」と言えば、きっと貴方は目を丸くして驚くに違いありません。日本で、皆、幸せに暮らしています。
事情を知らされていなかったドイツの親戚の方々に対する私の心配も全くの杞憂で、皆様は暖かく受け入れて下さいました。ヴァルツァー!喜んでくださいね。そして安心してください。90年ぶりのうめさん、時子さん、照子さんの写真、よく見てくれましたか?時子さんは貴方に似て大の読書好き。亡くなる直前まで「ハリーポッター」に夢中だったそうです。それに時子さんはゲートルートさんと同じ教師でした。きっとゲートルートさんは貴方にとって失った時子さんだったのかもしれませんね。私の母照子は、当時の進歩派の女性で演劇をめざしたり、自称画家でもあり、社会活動家でもありのエピソードの多い女性だったようで、家庭をもたなかったことが貴方と同じです。
貴方の眠るこの墓地は、鳥のさえずりがいつも聞える教会の傍、ヴァルツァー家の傍にあります。貴方が生まれたメッテンドルフのヴァルツァー家はイルザさん家族によって立派に守られています。とても親切な人々で、見知らぬ私たちを心からもてなして下さいました。言葉が通じなくても心はわかりました。嬉しくて、とても晴れやかな気持ちです。
ヴァルツァー家はメッテンドルフ村で150年もの間デパートを経営していますね。貴方の生まれる前からということになりますね。感動しました。
ヴァルツァー家の長い長い家系図を見せて下さいました。それはテーブルから床まで延びるものでした。またヴァルツァー家の人物を記述した分厚いノートがあり、付箋をしたヴィクトール・ヴァルツァーのページを見せて下さいましたが、残念ながら私にはドイツ語が読めません。でもきっと今回の私の訪問で、貴方のページに日本の家族のことが書き加えられることでしょうね。近い将来に読むことを夢見てドイツ語を勉強したいと思います。
ヴァルツァー!貴方に会えて私はとても幸せです。人生に於いて、こんな素晴らしい旅が出来るなんて!ごめんなさい。今日はいやに外がさわがしかっことでしょうね。どうぞ、天国で安らかにお眠りください。』
外はすでに、夜の8時頃、時計を見ることをすっかり忘れている私は時間を超越した気持ちであったと思います。最も、ドイツは今サマータイムとか、8時でも太陽が出ています。墓参はそんな中で行われました。雨があがり、ふりそそぐ明るい太陽の光は、私には神様のおくりもののように思えました。「ルーツ」にたどり着いたことは私にとって大きな大きな出来事でした。
この日は実に長い一日で、午前中にゲートルードさんを訪問し、2時過ぎにシュミット氏の車でメッテンドルフに向かい、途中激しい雨に見舞われ、その中を120kmで、突っ走ること3時間半、夫もナビゲートを手伝いながら、やっとメッテンドルフに着いたのでした。その頃には、激しい雨は小雨に変わっていました。
有難いことにシュミット氏は私たちができるだけ情報交換できるようにと、お友達でピアニストの日本人女性、竹内モーアさんを同行にアレンジして下さいました。そのおかげで車中、私もおしゃべりを楽しみ、自分のことの他、彼女からは発表の場が多く、それも安く得られるというドイツの音楽事情などを興味深く聞くことが出来ました。メッテンドルフでは、あちらもこちらもモーアさんに頼り、何とか通じあうことができました。彼女にすればその日初めて聞くちょっぴり複雑な話を、両方を聞き、そして伝えると言う難題に出会い、状況把握にさぞご苦労されたことと思います。
次の日、6月3日は、朝からシュミット氏邸を訪れました。HP紹介の元俘虜の家を購入、その屋根裏から問題の写真や手紙が・・・と書かれたお家です。土台の石がどっしりと古そうで、しかしリフォームされた外観と内部はとても美しくて、広く、アカデミックなお家でした。そして美しい奥様の手料理は最高でした。バックに星さんの贈った日本の音楽が流れていました。
鹿がやってくるという庭は花々が咲き乱れ、緑はきらきらと輝いて、昨日の墓参の成功で満足感に満たされていたためか、口にしたビールは体中にしみ込みこんでいきました。
昨日のことを思うと、フランケンタールでのお迎え、ゲートルード邸からメッテンドルフまで、そこから私たちの宿泊地トリアまでと、何の面識もない私たちのためにシュミット氏は朝から夜中まで600kmをも走りに走りました。ご自分のデータにヴィクトル・ヴァルツァーが載っていたためにこんなことになってしまって・・・・ごめんなさい。これほどまでに多くの親切を受けたことが今までにあったでしょうか?
シュミット氏に言葉では言い尽くせないほど感謝の気持ちでいっぱいです。
午後、ザールブルッケンに出かけました。
ショッピング通りに入って行き、そこでも日本女性に偶然のように出会いました。彼女を交えて、ショッピングはそっちのけでカフェで楽しくお話しをしました。ドイツの大学で日本を紹介する仕事をされているヴォイガード立子さんです。シュミット氏は2日間の短い間に、ドイツで仕事をしている素敵な3人の日本女性をごく自然に紹介してくださいました。その出会いを嬉しく思います。
シュミット氏がいなかったら、夫と私の二人の単独ではとても実現不可能であったこの度の墓参旅行です。おかげさまで、最高の旅が出来ました。
彼は私たちが帰途フランクフルト行きのキップを買い終わるまで私たちを、見守っていて下さいました。Thank you Mr. Schmidt!