板東収容所
 
 大正6年4月、徳島収容所が移転し、丸亀・松山両収容所を統合する形で、鳴門市郊外に開設。松江豊寿所長の人道的な管理の下に、模範的な処遇が行なわれた。周辺は四国巡礼一番札所の里であり、人情に厚い土地であったことから、俘虜と住民の間にはさまざまな交流が行なわれた。その日々は、収容所新聞「ディー・バラッケ」に綴られている。帰国を前に残した「ドイツ橋」も現存し、その友情を後世に伝えている。大正9年4月閉鎖。
 1970年の大阪万博を機に、元捕虜の再訪や寄付金の送付が相次ぎ、これを受けて鳴門市では「鳴門市ドイツ館」を設立し、史料の収集と公開に当っている。
 
所長:中佐 松 江 豊 寿 大正6. 4.10〜大正9. 4.1