サムナー・ウェルズによるドイツ兵収容所調査報告書
 
高橋 輝和
 
 1916年1月にドイツ陸軍省が受け取った丸亀俘虜収容所からの匿名告発書を一つの大きな契機としてドイツ帝国政府はアメリカ政府に在日ドイツ兵俘虜収容所の実情調査を要請した(高橋輝和「丸亀俘虜収容所からの匿名告発書」岡山大学文学部紀要38, 2002)。そこでアメリカ国務省の指示を受けた在日アメリカ大使館はその書記官,サムナー・ウェルズに対して1916年の3月に,この時点で開設されていた全11個所のドイツ兵俘虜収容所を視察して調査するように指示した。その結果として120ページもの報告書が作成されたことは既にCharles Burdick/Ursula Moess-ner: The German Prisoners-of-War in Japan, 1914-1920 (Lanham/New York/Lon-don 1984) 61ページ,C.バーディック/U.メースナー/林 啓介『板東ドイツ人捕虜物語』(海鳴社1982)72ページで言及されていて,若干の内容も紹介されてはいるが,報告書の原文や訳文が正確に示されたことはこれまでなかった。
 ここに初めて掲載するウェルズの調査報告書の和訳は,ベルリーンの連邦文書館に保管されている第一次世界大戦中の在日ドイツ兵に関する外務省文書(文書番号:R901-84614, 84615, 84616)の中に収められているドイツ語訳に基づく。そこには英語原文も保存されているが,敢えてドイツ語訳から和訳するのは,よく推敲されたドイツ語の下訳も残っていて,英語原文の誤りが訂正されていることから分かる通り,ドイツ側がウェルズの報告書をいかに慎重に取り扱い,そしてどのように事態を理解したかを知るためである。
 ただしワシントンの公文書館に残されている報告書が120ページあると言われているのに対して,ベルリーンの公文書館にあるのが英語原文で64ページ,ドイツ語訳で62ページに過ぎないのは,報告書の一部が省略されていて,添付資料の多くもドイツ側には送られなかったためと思われる。
 この調査報告書には1916年11月1日付けの在独アメリカ大使館の口上書(Note Verbale)が添えられていて,報告書の入手を待ち望んでいたドイツ帝国政府がやっと11月3日に受領していることが分かる。収容所の調査自体は3月に行われているにもかかわらず,ドイツへの報告書の提出が大幅に遅れた理由の一つにCharles Burdick/Ursula Moessnerは「ワシントン(の国務省)は,ウェルズの報告書をドイツに送る前に,収容所に関する若干の苦情が改善されることを期待していた」と述べている(前掲の原書70ページ)。
 
                 口 上 書     第13981号
 1916年9月29日付けの口上書,第13124号,並びに在東京アメリカ大使館員による在日俘虜収容所の視察調査報告書に関わる先の書簡に関して,アメリカ大使館は,本国政府の指示の下で,帝国外務省に対し問題の報告書の写しを同封してお送り申し上げます。この報告書は,在東京大使館の三等書記官,サムナー・ウェルズによって作成されたものであり,次の収容所に関係します:青野原(あおのがはら),福岡,久留米,丸亀,松山,名古屋,大阪,習志野,大分,静岡,徳島。
 さらに当大使館は,ワシントンの国務省より受けた情報によれば,在東京大使館が,日本帝国当局の管理により,特に久留米収容所において見いだされた若干の状態が改善されるまで最高の努力をなすよう指示されていることを帝国外務省に対してお伝え申し上げます。同大使館はさらに,十分な理由のあると思われる俘虜達の個人的な苦情を全て日本帝国政府に対して調査の要請と共に回送するよう指示されています。そして最後に,在東京大使館は,再査すべき状態の収容所をもう一度視察し,調査結果をその後,報告するよう指示されています。
 当大使館は,同封の報告書が,ワシントンの国務省の明確な許可のある場合を別にして,公表を目的とするものではないことを謹んで付言し,かつ帝国外務省がこの点に関して必要な処置をお取り下さるよう要望いたします。
                     1916年11月1日,ベルリーン
 帝国外務省御中
 
 以下では,ウェルズによる全収容所の調査報告を収容所のabc順に並べてあるが,実際に調査が行われた順番と日時は次の通りである。
  1. 徳島収容所: 3月 2日,10:00−13:30
  2. 青野原収容所:3月 3日,12:00−16:30
  3. 丸亀収容所: 3月 5日,12:00−14:45
  4. 松山収容所: 3月 6日, 8:00−13:30
  5. 大分収容所: 3月 7日,10:00−13:00
  6. 久留米収容所:3月 8日, 8:00−14:45
  7. 福岡収容所: 3月 8日,16:00−20:30
  8. 大阪収容所: 3月11日, 8:30−13:30
  9. 名古屋収容所:3月12日, 8:30−11:00
  10. 静岡収容所: 3月12日,16:00−19:30
  11. 習志野収容所:3月15日,10:00−13:30
 
1. 青野原収容所
 3月3日12時に私は青野原収容所に到着しました。収容所は駅から約5マイル離れていて,広々とした高原に位置しています。それは比較的新しいものであり,俘虜達はつい数か月前に姫路からここへ移送されて来たばかりです。姫路では彼らはある寺院に収容されていて,体を鍛錬する場所を十分には有していませんでした。
 私は収容所の入り口で収容所長と衛戍司令官代理に迎えられました。合計して413名の俘虜がいるこの収容所は大きくて,広大な野原に面しており,そこに俘虜達は毎日競技等のために留まることができます。収容所の敷地自体には将校専用のテニスコートが2面あります。収容所の片側には8名の俘虜将校用の,コンクリート床の,松材で作った特別な建物があります。最古参のドラッヘンタール少佐は一人部屋に居住し,他の将校達は複数の共同寝室を持っています。食堂一つと極めて良い状態に保たれた特別な複数の調理場と入浴設備が彼らの自由な使用に供せられています。給仕と調理は複数の従卒によって取り計らわれます。収容所の他の区域には下士官と兵員用の建物が列置されています。兵卒と下士官50名ずつがそのような建物一つに居住し,下士官5名ずつが,これらの建物の各端にある四角部屋を占有しています。これらの家屋の寸法は,それぞれ約100×25フィートです。コンクリート床の大きな調理場が自由に使用でき,専任の俘虜達が全員の調理を行っています。酒保が一つ毎日3時間開かれています。入浴と衛生の設備は抜群です。
 将校達には好み通りに家具を備えることが許可されていますが,しかし兵員達は寝床として規定通りのござしか使用が許されていません。兵員達の寝室中のこれらのござは,建物の各側沿いに延びる高台の上に極めて密接して敷かれています。その間には木の床の代わりに砂利を撒いた通路が走っていて,その上に食事や作業用の机が並んで置かれています。
 俘虜達の服装は全員十分なように見えました。聞いたところでは,彼らは皆,青島から少なくとも2足の長靴と2着の暖かい服を持参して来ました。夏季用には日本政府が俘虜達により軽い服装を提供してくれます。兵卒は各自毛布を6枚もらいます。兵員達が居住する部屋は全て日中十分に暖房されます。
 将校達は自分で賄いを調達します。他の俘虜達は普通,朝食に紅茶とパン,昼食に魚または肉またはスープに野菜またはジャガイモ,夕食に肉と紅茶とパンをもらいます。大多数の俘虜は体の調子が良好であるように見えました。収容所内の健康状態は青野原への移送以来,間断なく良好でした。私の訪問時には設備の良い病室に3名の俘虜がいましたが,その内の一人は重い腎臓病で寝ており,他の二人はより軽い病気にかかっていました。
 収容所内を巡察する際に私はまず将校達の宿舎を訪ねました。ドラッヘンタール少佐は少し言葉を話した後に私に,下士官のヘニッヒと話をすることがあれば,彼から俘虜達の苦情をまとめたリストを受け取れるかも知れないと告げました。私が下士官のヘニッヒに会った時,彼は私にタイプライターで記した不平リストを手渡しました。私は所長にその文書を受け取る許可を求めたところ,翻訳を作成する時間を私が彼に認めるという条件付きながらも私が受け取ることを許してくれました。所長はしかしこの出来事について非常に不機嫌であるように見え,不平に対する何らかの契機があるとは予想もしていなかったと告げました。
 苦情リストに目を通した後に,所長は私に,俘虜達への殴打に関する限り,その不平は馬鹿馬鹿しく誇張されていると説明しました。一度たりとも俘虜が衛兵に殴打されたことはなく,精々のところ軽く押されたのだと言います。他の苦情は大体としてその通りだと認められましたが,しかしそれらは陸軍省の指図に帰せられ得るものであって,その指図に収容所管理部は責任がないと説明されました。
 私の見解では格段に最も深刻な個別の苦情は,私には検査が不可能でしたが,俘虜のクルージンガーの健康状態に関わることであって,彼の腎臓病については既に述べました。病状が悪化しつつあるように見えるその男性は不適当な食事と医療不足について不平を訴えています。その俘虜の面倒を見ている収容所医は,彼の看護下にある病人達の状態が悪化することなどあり得ないと私に告げました。しかし俘虜達の経験は彼の見解とは一致せず,この病人が専門医に診察してもらうのは火急のことだと思われます。
 青野原の俘虜達は体を鍛錬する機会を十分有しており,本や読み物は好み通りに彼らの自由な利用に供せられています。しかし彼らは何らかの手仕事を行ったり,類似の作業に従事したりする機会を持っていません。彼らがこの許可を切望していると私は理解しています。
 一般的にこの収容所内の事情は良好と思われます。俘虜に対する虐待の事例を私は例外か,あるいは非常な誇張と考えます。収容所の建物と体の運動や健康に役立つ暮らし方に関して収容所が提供する機会は並外れて良好です。しかしながら私の訪問中は,一方の将校や兵員達と監視を委ねられた他方の日本人管理官達との間の友好関係の欠如が私の目を引きました。
 私は4時半に青野原収容所を後にしました。
 既述の苦情リストをここに添付いたします。
――――――――――
                      1916年3月3日, 青野原
 1. ここにおける軍紀の実施方法は,国際法による戦争俘虜の取り扱いに関する協定に従って適用されるべき原則に対応していません。重罰が取るに足らぬ違反に対して科せられます。監視所での拘禁刑ですが,この監視所の監房は木造で,非常に簡単にしか作られていないのに,冬でさえ暖房されません。さらにこの監房は規則的には清掃されない便所と1枚の薄い木戸で隔たれているに過ぎません。以前の数件の外に,ごく最近有名になった2件では二人の拘禁者,つまり37歳と38歳の予備役兵が,便所からの悪臭のために衛生上の理由から刑罰房として使用するには全く不適切であるのに,それぞれその監房で5日間の重拘禁刑に処せられました。厳しい冬の寒さにもかかわらず拘禁された人々は毛布なしで,かつ日本の規定に応じて,両足に枷をつけて夜を過ごさなければなりませんでした。拘禁される前には普通になされていた身体検査はその際には行われませんでした。
 2. 国際法の原則に照らして遥かにもっと許されるべきでないのは,俘虜達を日本の将校や衛兵達が殴打することです。とりわけ例として次のような場合を挙げます。ある短い普通の散歩の間の出来事でしたが,日本式の吊り橋が,それを渡って行進しようとしたため,揺らぎ始めました。その一団に付き添っていた日本の中尉は停止の命令を出しました。この命令への服従が直ちにはなされなかったところ,彼は静かに側に立っていた水兵のシュロッターベックの顔面をこぶしで殴りつけたため,その水兵の制帽が下に落ちてしまいました。ある別の朝,オーストリアの下士官,カーザ・ピッコラは掛け時計を見ようと,日本の衛兵所に行きました。この事は決して何ら禁止されてはおらず,全く普通の事でした。突然日本の衛兵の一人が彼に向かって飛び出て来て,彼に平手打ちを食わせました。そのような虐待の事例に対してなされた抗議に与えられた回答は,そのような処置が日本の軍隊では普通だとか,あるいは後者の場合には,衛兵所は日本人にとって聖域だとかいう内容でした。衛兵達が俘虜達を既に起床の少し前に棍棒でベッドからたたき出したことが何度もありました。最近,海軍下士官のウルバンスキーはそのような処置に対して異議を申し立てました。
 3. 病院の運営も断じて申し分のない訳ではありませんでした。俘虜のラシュドルフは,胃病を患っているのに,非常に脂肪分の多い,消化しにくい普通の俘虜食しか出されなかったと不平を訴えました。また俘虜達が,適切な処置を受けるために,医師の求めに応じて出された薬に対して若干の金額を支払ったことも何度かありました。例えば今,重い腎臓病にかかっている俘虜のクルージンガーのように。
 4. さらに,俘虜達が年齢や個人の階級,教育への配慮なしに,かつ妥当な報酬もなく,例えば今まさにある種の畑仕事の際に起きたように,収容所外の労働に使用されてよいのか否か,彼らには分かりません。
 5. 食事は大部分の俘虜を必ずしも満足させないので,以前は神戸のディック=ブルーン商店から食料品を注文して取り寄せることが許可されていました。これらの注文の実行は間もなく遅延され,今では直接の発注は完全に禁止されてしまい,むしろ注文は収容所の酒保を通すべきだと指図されています。このようにして注文された食品は直接注文したものとの比較に,価格の点でも耐えられません。価格の例:
         神戸の商店     日本の商人
  バター      0.95円      1.00円
  コーヒー     0.75円      0.90円
  ベーコン     0.40円      0.50円
 6. 発着郵便物の処理にも言及しないでおく訳にはいきません。ドイツ語ではなくて,スラブ語を話すオーストリア人の俘虜達の手紙が,そのための検閲官を見つけるのが不可能との理由で引き止められる事実の外に,次のような不当な処置の事例も挙げておきます。俘虜のミュラーはクリスマスの前に葉書を1枚書きましたが,彼はある日本人用務員の部屋で10日前にそれに再会しました。水兵のフィンケに,彼の手元にある証明書によれば1915年3月に葉巻200本と巻煙草500本が届きましたが,彼には小分けして手渡されました。彼が残りの100本を受け取りたいと願ったところ,彼にはそれ以上は与えられないだろうと通訳が説明しました。水兵のブッシュには1915年11月23日に,彼自身と俘虜のヤンセンが事務所で確認した通り,小包が一つ届きました。彼がそれを11月24日に引き取ろうとしたところ,その時までに受領証は来ていないと彼に通訳が告げました。その俘虜が推測していた通り,翌日にはその小包は消え失せていました。1月7日に水兵のティーレは福岡の友人に手紙を出しましたが,複数のペンを送ってもらうために,その手紙の裏面に代金として42銭分の切手を張り付けておきました。その手紙は差し出され,通常の手紙として受け付けられました。問い合わせに対してその俘虜は,それが発送されたという確言を事実,後に得ました。昨日その手紙が偶然ある日本人用務員の部屋の石炭箱の中で発見されました。裏面には最早切手は付いていませんでしたが,しかししっかりと張り付けられていた跡は明白に残っていました。この文書は目下,日本の収容所管理部による検査を受けている最中です。
 これらの種々の事例以外にも,俘虜のシュパイヒャー,バールケ,ヤンセンその他大勢の者は,彼らが3か月前に東アジアに向けて出した手紙が到着していないと苦情を訴えました。彼らはそのことを収容所の外にある所を通して知らされました。
 
2. 福岡収容所
 3月8日4時に私は福岡俘虜収容所を訪問し,かつては赤十字の建物であった将校収容所の入り口で現収容所長の白石中佐と彼のスタッフに待ち受けられました。
 私が収容所の視察を始める前に,所長は次のような報告を行いました。病気は収容所内では全くと言ってよいほど発生していないが,この事を彼は主として医師が一人毎日,収容所内に居合わせているという事情によるとしています。唯一の死亡例が生じたのは,死亡者が青島にいる時にかかったチフスが原因でした。懲戒処分を適用する機会は将校では全く,兵員ではほんの僅かしかありませんでした。脱走の企図を俘虜達が行った場合には,この者達は民事裁判によって処罰されました。処罰は厳しいものであって,将校の場合は懲役3年,兵員の場合は3か月です。これらの刑罰は一般刑務所で服役します。通常の違反の場合,兵卒に科せられた拘禁刑は最長30日に及びました。
 将校達は海からほんの数フィート離れた所にある2軒の欧風家屋に居住していて,散歩用の大きな複数の庭と彼ら専用のテニスコートを数面有しています。大きい方の建物の2階にはかつての青島総督,マイアー=ヴァルデックが居住していて,彼には大きな寝室と海に面した大きな居室や浴室が提供されています。彼は食堂を4名の他の将校と共有しており,彼らの居室は同一建物の中にあって,全員高い階級に就いています。私は前総督と話をしましたが,その際に彼が私に告げたところでは,俘虜将校に対する取り扱いは当初は全ての正当な要望に応じていましたが,しかし数名の将校が行った脱走企図事件の後,全ての将校の取り扱い方は厳しくなりつつあると言います。脱走企図事件が起きた後,3名の将校が単に幇助の嫌疑で,彼らには極めて相応しくはない粗野な取り扱いを受けました。これらの将校は日本の当局に逮捕されて,一般犯罪者用の通常監獄に放り込まれました。彼らは9日間この処置の理由を知らされることもなく,全くの独房に拘留されていました。彼らが閉じ込められていたこの期間中,将校達には更衣のために最も必要な物が一度も与えられず,体を洗うことも彼らには許されませんでした。前述の期間が経過した後,彼らは個々に法廷の裁判長の前に引き出されましたが,その裁判長は結局は彼らの完全な無罪を信じなければならず,彼らを元の収容所へ送り返しました。全員の感性を最も傷つけたのは,これらの将校の一人が監獄の行き帰りの道で何度も手錠をかけられたまま,尋問の行われた隣り町の小倉の公道を通り抜けるよう強いられたことだったと言います。この報告は後に当該将校達自身によって確認され,補完されました。
 数名の将校が脱走したさらなる結果として総督閣下は,全ての俘虜に対して1か月以上も郵便物の発受が完全に禁止されたことを挙げました。その上,彼らは昼間の非常に短時間,屋外に出る許可しか得られませんでした。総督自身を含む全ての将校は番号付きの印を服に付けることを強いられていました。しかし彼は最も過酷な制限として,それからはもう9時に消灯しなければならないという命令を受けましたが,この時刻に就寝することは彼にとっても他の年配の将校達にとっても不可能です。その後,彼らがやっと眠っていることができる時に,日本の衛兵達が夜中に5・6回もそれぞれの寝室に入って来ます。このような事情で将校達の健康は害を被っていると言います。
 これらの苦情を別にすると,総督はつい最近任命されたばかりの現所長による収容所の運営に対しては賛嘆するのみでした。最古参のオーストリア人将校が私に告げたところでは,陸軍省にはイタリア語の通訳がいないという理由で,イタリア人の一番近い身内の者達と連絡を取ることが16か月前から彼には許されていません。彼はこの状況を終わらせる措置を求めました。
 その後,私は30名の将校が居住している隣りの建物を訪ねました。将校達は全員ここでは具合よく収容されていて,多くの便益を有しています。彼らは自身の従卒を持っており,所外から取り寄せ得る物品の調達に関しては十分な自由を享受しています。しかしながら彼らは,一人の将校の脱走後に全く無実の他の全員のために導入された規定がほとんど耐え切れないものだったと不平を訴えました。彼らの陳述によれば,現所長の下で事情は大きく改善されたと言います。
 コルデラ少尉は重い内科疾患を抱えていると訴え,専門医に診察してもらう許可を求めました。
 最後に私は約360名の下士官と兵卒のいる収容所を視察しました。彼らの居住する家屋はヨーロッパ人を収容するには全く不適切な普通の日本の労働者用住宅でして,俘虜達が運動できる地所は極めて限定されています。火災の危険故に,全くのところ異常に過密している彼らの寝室内で火をつけることは,その人々に許されていません。普通は建物の内部にある食堂と居室は非常に暗くて,また湿っています。4名から6名ずつが,平均して12×14フィートしかない寝室を一つ共有しています。食事は良好で,彼らが作業したり,郵便物や読み物を世話したりする現存の設備は満足できるものですが,しかし居室内の場所と体を鍛錬する場所も不足しているのは我慢できないことだと俘虜達から聞きました。屋外に留まるために設けられている区域は事実,俘虜達の5分の1にすら十分な広さではありません。
 俘虜達はさらに虐待の事例について苦情を訴えましたが,これらの事例は全て現所長の着任以前に起きたことでした。
 ここでの主たる不平は場所不足と暗くて不衛生な建物の様式によって引き起こされますが,私はこれらの苦情を全く正当と考えます。私はまた,福岡にいる兵卒達の目下の宿舎がその用途としては極めて不適切だという見解を持っています。
 私は夕方8時半に福岡収容所から大阪に戻って行きました。
 
3. 久留米収容所
 3月8日,朝8時に私は久留米俘虜収容所を訪問し,入り口で現収容所長と前所長,スタッフに迎えられました。
 収容所は久留米市外の遠くに位置しています。俘虜は全員同一の敷地に収容されていますが,そこの建造物は以前は兵舎として使われていたものです。おおよそ179×188ヤードの広さを持ち,高い木の塀に囲まれているこの収容所には1318名の俘虜がいて,その内の74名は将校です。何人かの兵卒はかつての熊本収容所と福岡収容所からここへ移送されて来ました。俘虜達は16棟の建物に収容されており,その建物はそれぞれ約55×7ヤードあって,約80名を受け入れています。将校達は二つの全く同様ですが,少し小さい建物に居住しています。さらに日本人将校用の執務室,俘虜全員の食事が用意される調理場,将校と兵員用の複数の全く不十分な大きさの風呂場,酒保,普通よりも建て方の悪い監房を含む衛兵所が存在します。どの建物にも離れた便所が付いていますが,しかしバラックの直ぐ横にあるので,大変不快であることが分かります。とりわけ将校用バラックの場合が全くその通りです。建物をぐるりと囲んで,収容所の塀と便所との間に狭い小道が通っていて,これが俘虜達にとって散歩する唯一の場となっています。収容所の中央にはさらに約120×50フィートの広さの開けた場所がありますが,収容所をぐるりと囲む小道を度外視すると,1318名の人間が体の運動を行うことのできる唯一の区域です。74名の将校の専用としてテニスコートが1面と,ほぼ同一の広さの場所が自由に使えます。収容所内の配置は添付した地図〔脚注:未着〕からもっと明白に見て取れます。
 俘虜達が収容されている建物は古く,風雨にさらされてボロボロの穴だらけで,そこから冷気や雨水が自由に入って来ます。若干の場合に人々はこれらの穴を自己負担で塞ぐ許可すら得られませんでした。床に敷物は何も敷かれておらず,粗削りの板でできているに過ぎません。大多数の俘虜は自分でベッドを調達しました。各人には毛布6枚とござ1枚が提供されました。どの建物の中にも木炭の火鉢が三つ置かれていますが,しかし部屋をきちんと暖めはしません。俘虜達は自分の衣服を大部分は青島から持参していて,大多数の人々の服装は十分であるように見えました。バラックの中のベッドは,とにかく可能なだけ密接に並べられていて,俘虜達が昼間に座っていることのできる場所は空いていません。若干の場合には場所を節約するために,ベッドが上下に置かれていました。唯一の空いた場所はバラックの中央の狭い通路で,そこに俘虜達が食事をする複数の机が置かれています。
 私が聞いたところでは,俘虜達が自炊している調理場は不潔ですが,食事には満足しています。朝食は紅茶とパン,昼食は肉またはスープにジャガイモまたは野菜,夕食は魚または肉にパンと紅茶からなります。日本政府は各俘虜の賄いに一日約25銭(12.5セント)支出しています。他の所に普通はあるような劇場は収容所内にありません。先に言及した将校用のテニスコート以外に,何らかの競技をするための十分な場所もありません。
 私はまず将校用の宿舎を視察しました。これらの建物は本来,兵員用のものと全く同様,つまり床に粗削りの板が張られたむき出しの木造小屋でした。自らの費用で将校達は隔壁を作り,天井と戸を整えさせた結果,今では一人で小さな個室(普通8×12フィートの広さ)に居住するか,二人または三人でより大きな一つの部屋を共有しているかです。備品は全て自分で買い,建物内の改造は全て自己負担で実行させなければなりませんでした。私を通してアメリカ大使館に具申すべき何らかの苦情があるか否か将校達に尋ねたところ,全員が私に,彼ら全員を代弁するであろう最古参の将校,アンダース少佐と話をするよう頼みました。私は少しドイツ語を解する所長と二人の通訳の立ち会いでアンダース少佐と話し合いました。アンダース少佐は私に,彼が訴える不平の幾つかは前所長の活動期間に関わると告げました。申し立てられた苦情は次の通りでした。
 1. 1915年11月に収容所管理部は各俘虜将校に天皇即位日の贈り物として何個かのリンゴと一本のビールを提供しました。名前をアンダース少佐は挙げませんでしたが,二人の将校がこの贈り物を,数名の他の日本人将校と一緒に座っていた所長の執務室に持って行って,両者の間にある関係を考えると,いかなる贈り物も彼から受け取る訳にはいかないと述べて返しました。すると所長は彼の将校達と共にそのドイツ人将校達に詰め寄り,彼らの顔面を殴打してたたきのめし,彼らが床に横たわっていると,足蹴りをしたと言います。
 所長は,この話全体は真実だと認めましたが,あのドイツ人将校達が天皇家に対して何らかの不敬を意図していたと彼は理解したため,自制心を失って述べたような行動に出たのだと弁解しました。私が所長のドイツ語の知識を判断する通り,彼は将校達が告げた一言一言を非常に簡単に誤解してしまった可能性があるように思われると私は言いたい気持ちです。
 2. フォン・ボルケ大尉は理由もなくある日本人兵卒に殴打されたと言います。
 所長が私に説明したところでは,大尉はこの場合,砲兵隊視察の邪魔になったのであり,彼を兵卒が押しのけたに過ぎないとのことです。
 3. 屋外でパイプ煙草を吸っていた(建物内部での喫煙に関する規定は灰の撒き散らしに関して非常に厳しい)ある将校は全く偶然に灰を衛兵所の正面で落としてしまいました。すると一人の兵卒が衛兵所の中からその将校の方に詰め寄って来て,彼の顔面を,前もってよく考えた上で,こぶし打ちしたと言います。
 所長はこれが不当だったと認めましたが,その兵卒には殴打の相手が将校だとは分かっていなかったのだと主張しました。衛兵達の処罰は自分の権限には入っていないので,その衛兵は処罰しなかったと告げました。
 4. 衛兵達の見解により俘虜達が犯したとされるどの違反でも彼らを殴打してよいという命令が出されたと言いますが,この申し立ては後に無数の俘虜によって確認されました。
 所長はこの話全体の真実性をアンダース少佐の前で私に否定しました。それに対して少佐は改めて一言一言が真実だと断言し,申し立ての正当性をアンダース少佐に対して既に否認したという所長の説明は事実と異なると告げました。
 5. 将校や兵員用の場所が不足しているのは実に非人道的です。俘虜達には数か月前から,収容所の外に出ることが許されていません(所長の主張では彼らは少なくとも月に3回は外出した)。かつ彼らは健康と神経に関しては瓦解寸前だと言います。
 6. 俘虜達の手紙はしばしば理由もなく3か月間も引き止められていました。俘虜達の手紙が差し押さえに会っても,彼らはそのことについて知らされませんでした。小包は手渡される時しばしばもう包み紙だけしかなく,中身は全部取り除かれていると言います。
 7. 約80名の俘虜が居住しているバラックはどれもそれぞれ蝋燭10本分の明るさの電灯が5個しかなく,その上高く取り付けられているので,日没後は仕事をしたり,読んだりするのは人々には不可能です。その結果として特に体が運動不足なので早寝をすることができないため尚更,長時間にわたって全く何もせずにいなければならないと言います。
 所長はこれは日本の収容所ではそれほど一般的なことだと述べました。
 8. 当初は許可が下りたのに,人々には何らかの手仕事を行うことが許されていないと言います。
 9. 無数の機会に兵卒達は殴打されたり,別の方法で衛兵達に理由もなく虐待されたりしたと言います。そのような取り扱いに対する補償を得ることはできませんし,俘虜のためには正義もありません。衛兵所での拘禁刑が極めて些細な根拠から科せられると言います。
 所長はこのことに対して,そのような場合があっても,いつもそれなりの十分な理由があったためだと言い張りました。
 アンダース少佐の伝えるところでは,深刻な病気は収容所内では広まりませんでした。彼の申し立てによると,久留米の衛戍病院には結核を患い,それ故に上海の身内の所に戻って,そこで死にたいと願っている瀕死の俘虜がいました。さらに一人は片足がなく,もう一人は片足が萎縮していた2名の俘虜は,両名とも兵役には全く不適なのに,普通の戦争俘虜として取り扱われています。彼らは解放されることを求めました。
 アンダース少佐の所を後にしてから,私は別の将校に話しかけられましたが,彼が私に語ったところでは,彼は約3か月前にある日本の衛兵に彼の都合の良いほど素早くは道を譲らなかったために,その兵士にサーベルで顔面を一撃されたと言います。自分が処罰されることを恐れて彼は所長にこの出来事を報告しませんでした。この件で正義を得るのは全く見込みがないだろうし,そのような事例が絶え間なく生じていると彼は述べました。俘虜のヴァルター・シュトレンペルが私に語りかけて来て,アメリカ大使館の保護を自分のために求めました。この件に関する特別報告を添付します。
 私が収容所内を巡回している間,無数の俘虜が私に近づいて来ましたので,所長は明らかに不快になって,彼らを引き止めておくために一団の兵士を呼び寄せました。通訳達は私と話をした一人一人の名前を書き付けました。私は十分に聞かされましたので,数名の俘虜が甘んじて受けなければならなかった粗野な取り扱いを確信しています。大多数の俘虜は繰り返し日本の将校や兵士に殴打された時の様子について不平を訴えました。ある俘虜は,彼の申し立てによれば,そのような殴打のせいでできた打撲血瘤を私に見せました。人々の告げるには,他の収容所よりも遥かに厳しくここの俘虜を取り扱う理由は,青島で彼らと戦った連隊に衛兵達が所属しているからだと言います。この衛兵達は彼らに対して辛辣な憎悪感を抱いていると彼らは考えています。
 一人のドイツ語を話すオーストリア人が私を呼び止めて,イタリア語を話すオーストリア人達のために,彼らは自分の母語で記した手紙を受け取ったり,発送したりすることが許されていないと苦情を述べました。スラブ語を話すオーストリア人達にとっても事情は全く同じだと言います。
 私に具申した苦情のせいで俘虜達が処罰される心配がありましたので,俘虜達は私に申し立てた不平故に処罰を覚悟する必要がないという保証を私は所長に特に求めました。言うまでもなく彼は私の到着時に,率直に彼らと話をするよう私に求めていたからです。彼は直ちに私が望んだ保証を与えてくれました。しかし後に私が駅で列車を待っている間に,所長は収容所から電話をかけてきて,私に付き添っていた将校の一人に頼んで私に次のように伝えました。彼は,不平の件で私を頼った俘虜が全員(私と話をすることに成功したのは,少なくとも50名はいたはずです)俘虜将校の一人にそうするように唆されていたことを発見したのだと言います。彼はこの違反故に対応措置を取らなければならないだろうと。全員が自分の苦情を直截に申し立てたことから考えると,このような主張は信じ難いと思われます。
 収容所の雰囲気全体は甚だしく憂鬱なものです。俘虜達と日本の収容所当局の間の関係は最悪です。収容所には全俘虜の4分の1のためにすら十分な場所がなく,精神的,肉体的な作業の不足は俘虜達を容易に不穏な状態にしてしまいます。私は,俘虜達の取り扱い方に関して抜本的な改善がなされるべきだと判断せざるを得ないと思います。久留米収容所の事情は甚だしく気がかりなものです。
 私は2時45分に収容所を後にして,福岡へ向かいました。
 収容所の地図と既述の俘虜,ヴァルター・シュトレンペルの件に関する特別報告をここに添付します。
――――――――――
 現在,久留米収容所にいる俘虜のヴァルター・シュトレンペルは次のような理由によりアメリカ大使館の保護を自分のために求めています。
 彼は1912年にアメリカに来て,ニュージャージー州で塗装工として働いていたと主張しています。今の戦争が始まった1914年8月初めに彼はニューヨークのドイツ総領事館でドイツ国臣民として登録されました。1914年11月3日には彼はニューヨークで合衆国の第15歩兵連隊のG中隊に入隊して,その後,自分の連隊と共にマニラに赴き,そこに1915年2月まで滞在していました。その後,彼は動員解除を受けて,サンフランシスコ行きの船の座席を確保しました。そこで以前の手仕事に再び従事するつもりでした。その船が長崎に寄港した際に彼は上陸し,そこで酒を飲んで酔っ払ってしまい,日本の当局に拘束されたと言います。身に付けていたドイツ語の書類が見つけられたためです。当時彼は余りにも酔っていたので,アメリカ領事に異議の申し立てができませんでしたが,その後は何らかの処罰をとても恐れていたために,アメリカ大使館と連絡を取ることを試みませんでした。暫くして彼は久留米俘虜収容所に移送され,そこにそれ以来捕らわれていると言います。
 俘虜のシュトレンペルはジャック・スミスという偽名で志願したと申し立てていますが,個人的な理由からそうなったということ以外の説明を私にするのを拒みました。彼は素晴らしい英語を話し,外国なまりはほとんどありません。私はその俘虜に,裁決を受けるために彼の苦情を詳しく大使に上申すると伝えました。
 
4. 丸亀俘虜収容所
 1916年3月5日12時に私は丸亀俘虜収容所に到着して,入り口で収容所長の石井大佐と彼のスタッフに迎えられました。
 下士官と兵卒用の収容所は古い寺院の境内にあります。この寺院は1904/05年にロシアの戦争俘虜の収容所として利用され,当時の設備が今でも使われています。合計して306名の俘虜がこの収容所に収容されていて,寺院とその複数の別棟は当然のことながら彼らを収容するのに不適です。古い建造物を通して吹く透き間風を防ぐために,俘虜達は自己負担で全ての透き間や裂け目に紙を張り付けました。その結果,寝室兼居室は最早換気され得ないだけではなく,寝室には日の光も最早差しません。建物の古さとその性格から彼らを申し分のない健康状態に保つことは不可能です。全俘虜の4分の3以上は寺院の大広間で寝ますが,そのためにそこは異常な過密状態です。目下の事情は人々の健康状態に有害な作用を及ぼすと思われます。
 俘虜達と衛兵達との関係を私は抜群であると思いましたし,何らかの虐待の事例に関する不平を耳にしませんでした。人々の服装は良好かつ十分なように見えました。
 私の聞いたところでは,当初彼らのために供給された食事は不十分でしたが,暫くして現在のシステムが導入されたとのことでして,それにより人々は食事に関して提案をすることができ,それらの提案を考慮して毎週,献立表が収容所管理部により作成されます。私はそのような献立表の見本を見る機会がありましたが,そこには次のような食事がその週に配されていました:朝食−コーヒーとパン,昼食−牛肉とジャガイモ,夕食−魚,キャベツ,パン,紅茶。日本政府はここでは各俘虜の給食に一日15セント支出しています。特定の俘虜達は必要な材料を買い入れてソーセージに加工し,他の俘虜達に販売する許可を得ています。
 入浴設備は良好ではなく,便所が居室の直ぐ近くにあるので,私の見解ではそのために俘虜達の健康が害される恐れがあります。病室は小さいものですが,清潔で快適です。酒保が一つ毎日開かれています。拘禁室は普通のタイプのものでして,聞くところでは,最長の拘禁期間は10日間でした。収容所の開設以来,懲戒処分が必要となったのは5件に過ぎませんが,しかし2名の俘虜は脱走企図により一般刑務所で服する懲役刑に処せられたと所長は私に伝えました。
 私は数名の俘虜と面談して,何か不平がないかどうか尋ねました。彼らは全員ためらうことなく,彼らの扱われ方に不平を言うような事はないが,実見しても分かるように,居室兼寝室は著しく過密であり,さらに俘虜には屋外で競技あるいは鍛練を行う機会がなく,むしろただ散歩しかできず,このような散歩ですら護衛の下で塀に沿った狭い通路あるいは道路で行うことが許されるに過ぎないと説明しました。週に2回俘虜達は少し離れた所にある公園へ散歩に行く許可を得ます。収容所の狭さ故に何らかのスポーツを行うことが困難ですので,人々はほとんど気晴らしをしていないように思われます。月に2度俘虜達に神戸から若干の書籍が送られて来ますが,それ以外にはほとんど読み物はありません。仕事場を設けたり,演劇を可能にする場所も不足しています。ある俘虜は,収容所を取り囲んでいる多くの畑の一つを彼らの自由な利用に供することは管理部にとってたやすい事であり,彼らはそこで競技の場所を十分持てると提案しました。
 寝室は丸亀にいる兵員達のための宿舎の設備における最大の弱点です。そこは薄暗くて,空気の流入はありませんが,例外は床の上を吹き渡る透き間風で,その所で人々は収容所管理部から許可されたござを敷いて寝ています。
 私は,大使館に伝えられていたように,重い眼病を患っている俘虜のベールと暫く話し合いました。彼の言う通り,小村に過ぎない丸亀の眼科医と称する医師以外の専門家に診察してもらっていませんでした。収容所管理部は彼を治療のために東京へ行かせようとはせず,彼の陳述によれば,彼の左目は現に失明しているのに,彼のためには全く最小限のこともなされていません。所長は病人の面倒を見たと主張しましたが,その男性に本当の専門医の意見を認めてやるべきであったことは明白です。
 兵員達のための収容建物を視察した後,私は主要収容所から少し離れた所にあって,7名のドイツ人将校が収容されている家屋を訪ねました。それは2階建ての半欧風の建物で,背後に大きな庭があります。その家屋は大変快適であるように見え,最古参のランツェレ大尉以外の将校達が共同で居住しているかなり大きな複数の寝室の他に,居室一つと食堂が付いています。各将校は自身の従卒を持っており,全員で協力して一人の日本人コックを雇っています。石井大佐の提案に応じて将校全員が食堂にやって来ましたので,私は彼らの中の最古参者に何か不平はないかどうか尋ねました。彼の答えはこうでした:「私は何らかの不平を申し立てることができるような状況にはありません。不平を申し立てることを日本政府が望んでいないのを私は心得ています。この理由で私は何らかの苦情を断念するよう強いられています」。しかしながら彼は私に,私の訪問に対する彼の率直な謝意をアメリカ大使に述べて欲しいと頼みました。
 一人の将校が違反故に衛戍司令官により1週間の室内拘禁刑に処せられた事例が1件ありました。その他の点ではドイツ人将校達と日本人将校達との関係は大変心安いものでした。将校達がここで抑留されている諸条件は厳しくはなく,一般的な事情も抜群です。
 私は午後2時45分に丸亀収容所を後にしました。
 
5. 松山収容所
 3月6日,朝8時に私は松山俘虜収容所に到着し,建物の一つの入り口で所長の宮川中佐と彼のスタッフに待ち受けられました。
 松山では合計して415名の俘虜が分かれた三つの寺院の境内に収容されています。
最初の所に180名,2番目の所に80名いて,3番目の所には140名の兵卒と15名の将校が入れられています。事情は3収容地全てにおいて同一です。病気の発生例は非常に少なく,虐待に関する不平は俘虜の誰も申し立てませんでした。ここの大きな困難は,若干の他の収容所と同じように,建物がその性格上,俘虜達の収容に不適でして,境内の広さが非常に限定されていますので,居住と睡眠のためには不十分な場所しかなく,屋外に留まるための区域もさらに僅かしか自由に使えない点にあります。このことを別にすれば収容所管理部は,収容所生活の厳しさを和らげ,俘虜達に気晴らしを与えてやるために,精一杯の事を行ってきました。食事は良好でして,俘虜達は食べ物の単調さ以外の点では食事に満足しています。彼らは毛布や寝具類を十分持っていますが,ただしベッドは自分の費用で調達しなければなりません。人々は全員良好な暖かい服装をしていて,健康そうに見えます。しかし入浴と衛生の設備は良好ではなく,収容所の塀内の極めて限定された場所にあるこれらの設備を改善するのは,かの地で慣例のシステムでは不可能でしょう。酒保が一つ注目に値するほど親切な方法で営まれています。どの収容所にも複数の病室がありますが,しかし小さくて狭いものです。医師が一人常勤しています。
 私は多数の俘虜と話をしましたが,彼らの不平は何もかも彼らの宿舎の狭さ,家屋内の透き間風,寝室と便所の近さ等に関系していました。これらの不平は全て当然です。将校や衛兵達の側からの虐待については不平は出ませんでした。事実,収容所長と俘虜の兵員達との関係も特に良好なように思われました。彼は最古参の下士官達には個室を与えさせており,彼らに多数の便益を認めてやっています。
 一般的な苦情の外に私はさらに不平を2件知らされましたが,それらは重要と思われ,その契機は容易に避けることができたと考えられます。それなりに驚くべき最初の出来事は,所長も事実と認めたことですが,私が到着する少し前に片付いていました。問題になったのは一人の俘虜でして,激しい形の狂気が突発しましたが,それにもかかわらず彼は2・3週間他の俘虜達と一緒の部屋に入れられていました。彼と同一の部屋にいた人々が私に語ったところでは,この全期間中,彼が何かをしでかすのではないかという不安から彼らは眠ることができず,彼らの神経はそのためにとても参ってしまったと言います。彼らが2週間にわたって何度も彼の隔離を要求し続けた結果,所長は彼を市立病院に運ばせましたが,しかし数日後には治癒したとして収容所に連れて帰らせました。その後2・3日経ってから,その精神病患者は一人の俘虜に対して危険な暴行を企てたので,最終的には連れ出されて行きました。
 2番目の苦情によると,結核を発病した者が一人他の俘虜達の中に入れられていました。名前がユレという問題の俘虜は外見上,疑いなくこの病気の徴候を見せました。しかし所長は専門医の診察を受けさせて,健康であるという説明を得たと断言しました。
 俘虜のホーマン,プライセル,ザイツは以前青島で赤十字の奉仕をしていましたが,私に苦情を文書にして渡しました。
 俘虜のドイツ人将校達の状況は兵員達の状況とは全く異なっています。彼らの内の誰も俘虜収容条件に満足していません。既に挙げましたように,彼らは,兵員達も居住している一つの寺院の境内の一部に収容されていますが,彼らの居室は兵員達の居室からは完全に分けられています。将校達は大きな庭を一つ,テニスコート2面,避暑用の家屋1軒,並びに丘の斜面にある場所を彼らの専用に持っています。その上彼らは田舎へ散歩に行く許可を時折得ます。大きな居室一つ,特別な複数の調理場,風呂場等が自由に使え,自分達の従卒を有していて,彼らが給仕をしてくれます。15名全員が暫くの間,かなり小さな寝室を共同で使用するよう強いられていた限りでは,不愉快な目に会わなければなりませんでした。しかしこの不便な状況は私の到着前に解消されていた結果,今では数名の将校は個室を持っています。
 最古参の将校,クレーメン少佐は集めた地図や図表と古封筒を私に手渡して,いかに長期間,手紙が止め置かれたのかを示し,タイプライターを用いてドイツ語と英語で苦情を記した紙も数枚手渡しました。私は,それらの紙を受け取ってよいという所長の許可をもらってから,彼の面前でそれらを受け取りました。私と所長の注意が他の事柄に向けられている間に,まだ私がクレーメン少佐の集めたものを彼の手から受領する前に,他の将校の一人がその機会を利用して,特別な不平を記した2・3枚の紙をこっそりその間に差し込みましたが,しかし所長の副官の一人にその場を看取されてしまいました。所長はそれらの紙に目を通すようにと私に手渡してくれました。含まれていたのは,個人的な商取り引きが不可能であること,収容所医が彼の膝をある事故後に不手際に処置したことに関する,その将校の不平に過ぎませんでした。問題の将校からは,その精神状態が幾分害されているかのような印象を受けました。
 クレーメン少佐のリストに挙げられている苦情が正当なものであるとか,私が収容所で見たことによって,何らかの言うに足る方法で裏付けられるとは認識できません。将校達の階級に応じて彼らには多くの特権が認められていて,彼らは,自分達の扱われ方に全く満足していると説明した多数の他の収容所の将校達よりも遥かに多くの特権を有しています。それに対して,鍛練場の不足や居住している建物の居心地の悪さに関する兵員達の不平は完全に理由のあるもので,結核患者や精神病患者が彼らの間で収容されるならば,俘虜達の一般的な健康が重大な危害を受け得るのは明白です。俘虜達の虐待に関するクレーメン少佐の不平を確認済みとみなすことはできませんでした。
 私は1時半に収容所を後にしました。
 上述の苦情文書をここに添付いたします。クレーメン少佐から受け取った将校達の居室を表示する大きな地図については,地図上に示されているよりも多くの運動場を将校達が自由に使用でき,現在は将校達だけが居住している「僧堂」と呼ばれる建物では4名の将校が今は個人の寝室を持っていることを述べておく必要があります。現在では15名ではなく,11名の将校のみが本堂の大きな寝室に居住しています。
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 青島衛生隊の担架兵,ヨーハン・プライセルとユーリウス・ザイツは青島で帝国政府印の付いた赤十字の腕章を着用していたのに,青島陥落後に俘虜となりました。青島の現場で申し立てた異議は無視されました。同様に,松山から日本国陸軍省に送った2通の陳情書にも回答のないままでした。
                  署名:ヨーハン・プライセル
                     ユーリウス・ザイツ
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                     1915年9月2日,松山
 大いに尊敬すべき合衆国大使館御中
 大いに尊重すべき合衆国政府が在日ドイツ人の保護と利益代表をお引き受け下さったので,以下の事実に日本国陸軍大臣の注意を向けて下さるよう,下記署名者は大使閣下に対しまして深甚なる請願を提出いたします。
 下記署名者は青島にて赤十字所属を理由に俘虜状態からの解放を願い出た後,陳情書を前所長に送りまして,それを日本国陸軍省に回送するよう依頼しました。この陳情書は,下記署名者が心臓衰弱と脱腸故にドイツの軍医により兵役を免除されていた事実に基づきました。戦争の勃発時に彼は出頭した青島で傷病兵輸送車の指揮官のポストを授けられ,負傷者の輸送を任務としていました。この身分において彼は衛戍病院印の付いた赤十字の腕章を着用しており,それを今でも所有しています。これらの事実は青島ドイツ人のリストから見て取ることができます。
 前収容所長に出した種々の請願文書に対して下記署名者は何らの回答を得ていません。本日彼に説明されたところでは,彼の陳情書は留め置かれていて,調査のために東京へは送られていないとのことです。
 既述の心臓衰弱と脱腸も収容所医により確認されました。
 下記署名者は,尊敬すべき大使館がこの案件を彼の利益のために日本国陸軍省にて取り上げて下さるよう伏してお願い申し上げます。ジュネーブ協定の規定によれば,赤十字の構成員を俘虜にすることは許されず,そうなった場合は俘虜状態から解放すべきであるからです。
                      署名:フーゴ・ホーマン
                         松山
 
6. 名古屋収容所
 3月12日,朝8時半に私は名古屋俘虜収容所に到着して,入り口で所長と彼のスタッフ,衛戍司令官に会いました。
 収容所は新しくて,1915年8月にやっと建設されたものであり,市郊外の高台にある平地に位置しています。位置状況は模範的です。1915年8月までは俘虜達は市内の一寺院に収容されていましたが,しかしその寺院は全く不適であることが分かりましたので,現在の収容所が管理部によって建設されました。新しい収容所の敷地に俘虜達は運動場を十分有しており,テニスコートが5面ありまして,その内の2・3面は将校専用で,さらに複数のサッカー場と俘虜達が設計した複数の庭が自由に使えます。その他,俘虜達はまた衛戍隊のために地ならし作業や道路建設を行う目的でしばしば収容所の外に出ます。将校達には収容所外で散歩をすることが時折許可されます。
 12名の将校と420名の兵卒と下士官が収容されています。将校達は,所長の執務室もある同じ建物の中に居住しています。彼らの従卒達が食事と給仕を取り計らいます。複数の特別な入浴設備と調理場が彼らの自由な使用に供せられています。最古参の将校,フォン・ケッシンガー中佐は広々とした個室を持っています。他の将校達は複数の共同寝室を有しており,それらの設備は快適かつ良好なものです。彼らには多数の便益が認められていて,市内から,または毎日開かれている一つの酒保を通して食料品やその他の必需品を注文して取り寄せる許可を得ています。不快に思える唯一の制限は月に4通の手紙と3通の葉書しか出すことが許されていないことです。それどころか兵員達は月に1通の手紙と2通の葉書しか出せません。フォン・ケッシンガー中佐が私に告げたところでは,将校達には申し立てる不平はないと言います。恐らく幾多のことが改善され得るし,全体として取り扱いは並外れて良好とのことです。
 兵員達は4棟のバラックに収容されていて,そのバラックの各々は4室に分かれています。下士官1名の専用部分が各室から区切られていて,他の下士官達は上記の一部屋に共同で居住しています。寝床はござでできているに過ぎませんが,部屋は全てよく暖房され,よく管理されています。
 兵員達は自分達用の調理場一つと製パン所を持っていて,そこでは専任の俘虜達が働いています。兵員達には汚れた衣類を洗濯する特別な機会が与えられていて,入浴と衛生の設備は抜群です。
 私が最後のバラックの所に来る前は,俘虜達は全員私に申し立てる不平は何もないと説明しましたが,しかしこの建物の中で私は苦情提出者のリストと一緒に,不当にも戦争俘虜として監禁されていると主張する俘虜達の苦情を受け取りました。その他,別の2通の苦情文書が私に手渡され,毎月僅かな数の手紙しか出すことが許されていないという数件の不平が申し立てられましたが,この手紙の数が他の全ての収容所よりも少ないのは事実です。
 俘虜達の服装は全員,健康的で良好であるように見え,彼らは満足しているように思われました。健康状態は一般的に非常に良好でした。医師の治療は毎日求めることが可能です。収容所設置の当初には1名の俘虜が青島でかかったチフスで死亡しました。目下のところ2名の俘虜が衛戍病院に入院していて,その内の一人はブライト腎臓病に,他方は結核にかかっています。
 懲戒処分は非常に僅かな件数でのみ適用されなければなりませんでした。俘虜達と衛兵達との関係は良好です。私が収容所の立地と運営に関して気付き得たことから申しますと,ここの事情には文句をつける余地がほとんどなく,俘虜達が一般的に満足している状態にも同様に苦情を述べる理由がほとんどありません。
 私は11時に名古屋収容所を後にしました。
 収容所の地図1枚と既述の苦情文書を添付いたします〔脚注:これらの付属書類は未着〕。
 
7. 習志野収容所
 3月15日,朝10時に私は習志野俘虜収容所を訪問しました。収容所の入り口で所長の侯爵,西郷中佐と隣接する衛戍隊の将軍が私を待ち受けました。
 高台に位置する収容所は鉄道の線路からかなり離れた所にあります。それはようやく1915年9月から使用されています。以前は俘虜達は東京・浅草の寺院の一つに収容されていました。所長は私に収容所内の事情について次のような報告を行いました。ここには合計して408名の俘虜がいて,その内14名が将校です。健康状態は抜群でした。比較的深刻な何らかの種類の病気は発生していません。俘虜達には,持参してきた物が着古されると直ぐに衣類が支給され,毎日開いている一つの酒保を通して必要な物を取り寄せることが彼らには許されています。兵員達は自炊し,自分達でパンを焼いています。私は彼らに提供される食料を見ることができましたが,それは抜群の品質でした。人々は色々な事柄に携わることができ,靴作りや仕立て等の手仕事を行う許可を得ています。さらに一日中,将校達によって言語,数学,幾何学のような種々の科目の授業が行われていて,それに俘虜達はほとんど全員が参加しています。兵員の場合に懲戒処分の適用が必要な事例が9件のみありましたが,将校の場合には処罰は全く行われていません。人々に科せられた刑罰は衛兵所で服する軽拘禁でした。
 私はまず最古参のドイツ人将校,クーロ中佐を訪ねましたところ,彼は私に,取り扱われ方について不平を述べるいかなる理由も彼や兵員達にはないと断言しました。所長の要望に応じてクーロ中佐が私の所内巡回に同行しました。将校用の宿舎は快適であり,大多数の将校は数名ずつ一緒に一つの寝室にいます。一般食堂が一つ,非常に良好な複数の調理場,風呂場等があります。調理と給仕は将校つきの従卒達によって取り計らわれます。数人の将校はピアノを持っており,東京の友人達からは多数の本が届いていて,将校達は全員非常に満足しているように見えました。
 続いて私は兵卒と下士官達の宿舎を訪ねました。彼らは都合よく建てられたバラックで寝ており,その上に一つの大きな居室を持っています。下士官達はこれらのバラックの中に他の部屋から仕切られた小部屋を有しています。各人用に毛布6枚と通例のござが支給されていますが,ベッドの不許可については不平は出ませんでした。調理場は新しくて,よく設備が整っています。全ての衛生設備も同様です。洗濯場を兵員達は自由に使用でき,そこで汚れた衣類を自分で洗えます。
 収容地から離れる許可は,衛戍地での地ならし作業を実行する目的でのみ俘虜達に与えられますが,彼らは時折この目的でそこへ行きます。しかし塀内で体を鍛練する場所は十分あります。兵員達は複数のサッカー場やハンドボール場と散歩用の場所を有り余るほど持っています。将校用には,彼らが自分達の費用で設置させたテニスコートが1面あります。俘虜達は私に,60名のメンバーからなる彼らの素晴らしいコーラスを聴くよう依頼しましたが,そのコーラスは一人の俘虜で,シュトゥットガルト出身のかつての楽長によって訓練され,指揮されるものでして,他の俘虜達のためにしばしば音楽会を催しています。
 人々は全員,健康状態が良いように見え,日本の管理部側の取り扱いに全く満足しているように思われました。収容所自体に,あるいは俘虜達の扱い方に何らかの批判を加えるのは難しいことでしょう。
 俘虜のカルル・フィッシャーは以前は広東の宣教師でしたが,彼は一度も武器を持ったことがないのに,戦争俘虜として扱われていることについて苦情を述べました。所長が私に告げたところでは,陸軍大臣はその宣教師の解放願いを考慮しなかったとのことです。彼の名前が青島の兵役適格者リストに記載されているのが見つかったことがその理由です。
 私は1時半に習志野収容所を後にして,東京に戻って行きました。
 
8. 大分収容所
 3月7日,朝10時に私は大分俘虜収容所に到着し,将校収容所の入り口で所長の鹿取大佐と彼のスタッフに迎えられました。
 将校達は大きな庭に囲まれた1軒の欧風家屋に収容されています。建物は明るくて風通しが良く,ガスストーブで暖房されます。ここに収容されている13名の将校の内,7名が個室に居住していて,残りの6名は隣接する日本家屋に2名ずつ一部屋を共用しています。しかし居室と食堂は建物の洋風の部分にあります。将校達に対する給仕と調理は彼らの従卒達によって取り計らわれます。将校達には,必要な食料や他の物品を所外に注文して取り揃えることが許されています。読み物は十分な数量が彼らの自由な利用に供せられています。必要な体の鍛練の場を収容所の敷地は提供しており,近隣への散歩もしばしば行われます。将校達は全員健康な様子でした。
 鹿取大佐は,私が頼みもしないのに,通訳の立ち会いなしで将校達と話をする機会を与えてくれました。この話し合いの際に将校達は全員扱われ方に全く満足していると説明し,鹿取大佐による収容所の運営を誉めました。
 続いて私は,少し離れた所の古い校舎の中にある兵卒と下士官達の宿舎を訪ねました。この建物は,定員14名を収容する幾つかの中サイズの部屋と約40名が寝る一つの大部屋とに分けられています。中年の国民軍兵の大多数は,より多くプライバシーを守れる小さい方の部屋に居住しています。合計して128名の俘虜がこの建物の中にいます。
 食事は良好かつ十分でして,入浴と衛生の設備は抜群です。酒保が一つ毎日開かれていますが,多くの物を市内から注文して取り寄せることも人々には許されています。各俘虜は毛布を6枚もらい,マットは規定通りのござで,ベッドは許可されていません。競技は家屋の側の十分大きな場所で行うことができ,近隣への散歩がしばしば認められます。要するに,ここにいる人々の事情は良好です。
 私は数名の俘虜と話し合いをしましたが,彼らの扱われ方は抜群だと全員が私に告げました。この申し立ては下士官達によっても確認されました。それでも下士官達はさらに次の事項に対して大使館の注意を向けることを望みました。
 1. 特別にその支払いを望んでも,下士官達にはベッドが許可されません。このことを人々は不当と感じています。
 2. 酒保を通さず,他のルートで食料品を取り寄せることが俘虜達には許されていません。これは時折30−40%の支払い過剰を意味します。
 3. 衛戍病院に重病の結核をわずらっている俘虜が一人入院していますが,そこで燃やされる木炭は彼の病状に悪影響を及ぼし,もしも彼がそこからより高い位置にある地域に移され得なければ,死亡するに違いないとのことです。それ故に俘虜達は,彼をより適切な環境に移送することを求めました。
 一人の俘虜が殴打された散発的な事例が1件のみ私に申告されました。即ち問題は,何ら挑発された訳ではないのに,故意に所長自身を侮辱し,その後そのことを面と向かって彼に否認したために,所長に殴打された一人の俘虜のことでした。他の俘虜達はこの件ではその男性に何も同情の念を持たず,所長の行動を当然とみなしているように思われました。
 大分収容所の運営はあらゆる点で他の大多数の収容所よりも良好でして,そこにはより良い雰囲気が支配的です。事情は極めて良好です。ここに収容されている俘虜の数は比較的少なく,従って彼らを取り扱う任務はより簡単に果たすことができます。
 私は1時に大分収容所を後にしました。私はさらに俘虜,ゾンマーの陳情書を訳文と共に添付いたします。彼の申し立てによれば,彼は重大な耳の手術を受ける必要があります。
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                       1916年3月6日,大分
 ドイツの利益代表を任された在東京合衆国大使閣下へ
 失礼ながら私は閣下に以下の事実を具申いたします。
 私,東亜海軍分遣隊第3中隊水兵のオイゲン・ゾンマーは青島の包囲中に内耳炎にかかりましたが,側頭骨の乳様突起を切除しなければならないほど悪化したため,5月19日から11月22日まで大分衛戍病院に入院し,そこで一般医の治療を受けました。
 現在,日本の軍医大尉,四宮博士は私に,さらなる骨が既に腐敗し始めたために,
それを耳から切除する必要が生じたと告知しています。治癒させるためには,非常に危険な手術によってその骨を切除しなければならないとのことです。
 私のこれまでの経験から申しますと,2回目の手術を私はここで受ける訳にはいきません。それ故に,私はとりわけ兵役不適格ですので,より大きな町の一つにあるクリニックで治療を受けることができますよう,私のために日本の本省に働きかけて下さるよう閣下にお願い申し上げます。
                       頓首再拝
                       署名:水兵,E. ゾンマー
 
9. 大阪収容所
 3月11日,朝8時半に私は大阪俘虜収容所を訪問し,入り口で所長,衛戍司令官代理,所長のスタッフに待ち受けられました。
 収容所は町外れの工場地区内の低い位置にあります。俘虜達が居住している建物は,火災によって家を失った人々の宿泊所として使うために,市の管理部が少し前に設置した木造小屋です。施設は添付の地図〔脚注:添付なし〕から十分明らかですが,収容所全体は10フィート〔脚注:全ての度量衡表示はイギリスの度量衡を示す〕の高さの木塀で囲まれていて,その塀から俘虜達が外を見ることはできません。
 合計して509名の俘虜が大阪にいますが,その内33名は将校です。俘虜になった後にドイツ政府により主計に昇進させられた一人の俘虜は収容所管理部から将校として扱われてはいますが,彼の給与と兵卒達の給与の差額は10銭に過ぎません。兵卒,下士官,将校達が収容されている家屋は全て同様です。どの建物も10室に仕切られており,唯一の差異は,これらの部屋の各々に将校1名か比較的高級の下士官2名,あるいは下士官3名か兵卒4名が居住していることです。部屋は非常に小さく,非常に低くて,戸や窓の代わりに普通の日本の障子あるいは紙を張った襖が付いています。将校達の部屋の正面に小さな場所がありますが,それは約15フィートの幅で建物に沿って延びていて,花が植えられています。そこで将校達は他の俘虜達から離れて散歩をすることができます。ついでながら将校達は僅かの特権しか持っていません。彼らは複数の一般浴場で,他の俘虜達よりも先に入浴するに過ぎません。テニスコートやサッカー場の設置費用を自己負担しようと思っても,屋外で競技をする場がありません。収容地を離れる許可は,兵卒達と一緒に時折近くにある野原へ出かけるために与えられるだけです。彼らは自分達の従卒を有していて,特定の物を市内から注文して取り寄せたり,食料を自分で買うことができます。ついでに申しますと,彼らの生活条件は兵員達のそれと全く同一です。
 兵卒達の宿舎は過密状態です。人々はベッド,ござ,毛布を6枚ずつ持っていて,
冬の3か月間は炭も供給されます。12月以前と2月以後は,彼らの申し立てによると炭を自費で購入しなければなりません。複数の調理場と提供される食事は抜群です。運動用に比較的小さな場所を俘虜達は自由に使えますが,それは最近収容所に付け加えられた所でして,兵員達に競技の場を十分提供しています。競技をしないか,できない人々のためには2・300ヤードの散歩道があります。屋外での運動用に使える場所は509名には十分ではなく,事実,所長もこの設備が完全に不十分であることを認めました。
 収容所内の健康状態は良好でした。発生した病気は大部分が戦争中に被った負傷の結果に帰せられました。回復の見込みのないまま身体障害者になった12名の俘虜は他の俘虜達と全く同じように扱われています。彼らは永久に兵役不適格となりましたので,俘虜状態から解放されるよう,大使館に異議の申し立てを行って欲しいと私に頼みました。俘虜の大多数の様子は良好で,服装も良好でした。日本政府は,ここに約300名いる予備役兵の数名に別の衣服を支給しました。
 私は,ここに収容されている将校達の中では最古参の海軍少佐,ハスと暫くの間話し合いました。彼は私のために苦情リストを書き上げましたので,私はそれを持ち帰りました。特に彼は,数名の同僚の逃亡後,いかなる幇助も行っていないのに,全ての俘虜に科せられた制限について苦情を述べました。それらの制限は非常に重くて,暫くの間施行されていました。さらに私は一人の将校と話をしましたが,彼はある同僚が私にあてた手紙を私の目の前で読み上げました。その同僚は,収容所からの逃亡を企図するつもりはないという約束を日本の当局に与えることを拒否しており,所長は彼にこの理由から手紙の発受を禁止していました。その手紙の中で,エステラーという名前のこの将校は,大使館が彼の妻と連絡を取って欲しいと頼みました。彼女は現在病気で,6人の子供と上海のレガニング街42番地に住んでいるとのことです。そして彼女に彼の沈黙の理由を説明して欲しいと依頼しました。私がこの手紙を受け取るのは所長にとって非常に好ましくないことでした。彼の言うように,郵便物の差し止めは,彼がその将校に対して持っている権力手段だと言うからです。この状況を前にして私はその手紙を持ち帰りませんでしたが,内容は先に言及した事実のみでした。
 次の話し合いを最古参の下士官と行いましたところ,彼から,人々が極めて些細な動機で日本の将校や衛兵達から殴打されたことがあり,現在でも殴打されると聞かされました。しかし所長は私に,そのような場合は人々を鼓舞したに過ぎないと告げました。その俘虜はさらに,手紙の検閲に1か月以上も要すること,俘虜達にあてて身内から送られて来た食料品入りの小包は,その中身が通訳達によって取り除かれた状態で手渡されなければ,受け取れないという事実を挙げました。その下士官も海軍少佐のハスも,彼らの苦情が処罰を招くかも知れないと明らかに心配していました。それ故に私は,そうはならないという保証を収容所長から私に与えてもらいました。 
 数名の俘虜から苦情の文書を受け取りましたが,その中で彼らは戦争俘虜として扱われてはならないと説明していました。
 予備役兵の一人で俘虜のヴァルターは,16歳であるにもかかわらず,戦争俘虜として扱われていると苦情を述べました。大分俘虜収容所で私は既にこの俘虜の父親に会い,彼も同じことを私に説明していました。
 一人の俘虜が私を呼び止めて,自分はドイツ人ではなくて,ロシア人なので,解放を求めていると私に伝えました。彼は既に以前に監禁故に苦情を訴えましたが,無駄だったとのことです。私は彼に,大阪にはロシア領事館が,東京にはロシア大使館があることと,彼はその苦情をこれらの機関の一つに出すべきであって,アメリカ大使館はドイツとオーストリアの俘虜達の利益のみを代表するので,私に出すべきではないと指示しました。もしも収容所管理部が彼の苦情をロシアの全権使節に回送する気がないならば,アメリカ大使館としてはいかんともし難いと。収容所長の申し立てによると,この案件は既に調査され,非常に疑わしいと判定されました。
 さらに私は俘虜のリースフェルトに会いました。彼は,既に大使館に伝えられていた通り,重い耳疾にかかっています。その俘虜が私に説明したところでは,彼の聴力は幾分回復しているものの,永続的な治癒は専門医の所に,なるべくなら大阪の堀氏博士の所に行くことのできる場合にのみ可能であると収容所医自身が彼に注意したとのことです。それ故に彼は再度,護衛つきでこの専門医を訪れる許可を彼のために働きかけてくれるよう大使館に努力して欲しいと頼みました。その俘虜は教養のある男性で,彼の態度は格別に丁寧でした。私が所長から聞いた通り,彼は一度たりとも責めを負うようなことはしていません。それ故に私は,その俘虜の以前の請願が却下された真の理由について大使館は間違った報告を受けているのではないかと考え始めています。
 大阪収容所内の大きな障害は体の運動に適した場所が不足していることです。衛兵達による兵卒達への虐待に関する不平も,私には事実上の理由づけを欠いているようには思えません。収容所内の雰囲気全体は暗くて,憂鬱なものです。しかし幾つかの他の収容所にないものが,つまり何らかの種類の仕事に携わる機会がここの俘虜達には提供されます。しばしば劇の上演もなされます。
 私は午後1時半に大阪収容所を後にしました。
 既述の苦情文書を添付いたします。
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                        1916年3月10日,大阪
 1. 郵便物。発送郵便物と到着郵便物は発送,あるいは手渡されるまで,しばしば2週間も放置されています。この理由は通訳が一人しかいないことにあります。逃亡企画に対する刑罰として2度郵便物の発受禁止令が(少なくとも2・3週間にわたって)出されました。我々は,全員完全に無実でしたので,この禁止令を非常に不当とみなしました。これは将校達には関係しません。彼らは全員が同様に処罰された訳ではありません。
 郵便禁止令によって人々に結局は,いかなる逃亡企画も行わないという約束を強制するつもりでした。
 2. 将校や兵員達が非常に厳しいと感じたのは,10時に消灯しなければならず,彼らは何時間も暗がりの中で目を覚ましたまま横たわっていなければならないことです。
 3. 屋外での滞在用としては収容所外の一つの場所しか自由に使えません。将校達
は,この全く不都合な場所における著しく健康に悪い空気の中で休息などできはしないと考えています。戦争俘虜のようではなく犯罪者のように,この場所に連れて行かれます。屋外に留まる機会は1年前の方が限りなく良かったと認めざるを得ません。空と板切れ以外のものを少しは見ることができるよう,大多数の他の収容所と同様に,高い塀をもう少し低くして欲しいという願望には応えてもらえませんでした。
 4. 兵員達は殴打で処罰されました。ドイツ兵達の性に合わない扱いです。多分日本兵達には悪意はなかったのでしょう。
 5. この収容所では,貴方が恐らく気づいたと思われる通り,他の全ての収容所よりも事情は悪いものです。ロシアの収容所にいる将校達は,現在ここに収容されているフォン・モラヴェク大尉が証言できるように,遥かに良い扱いを受けています。
 6. 1月末にここの収容所でシベリアの俘虜収容所でなされる赤十字の慈善事業のために2000円の金額が集められました。一切の願いにもかかわらず,この金額を上述の目的のために神戸の銀行を通して振替で送る許可は得られませんでした。
 7. 二度と戦えない完全身体障害者達(ロルハウゼン少尉やチョイシャー大尉のように片目あるいは片足のない人々)が解放されることはあり得ないのでしょうか。
 8. さらにシェールという名前の俘虜にも言及しておきたいと思います。彼は重い癲癇性の発作にかかっていて,一度も日本兵と戦ったことはありません。
  病院にいる俘虜達も訪問して下さるようお願いしたいと思います。
 9. 最後に私は認めざるを得ませんが,我々は食べて,飲んで,眠ることはできます。肉体的には我々の大多数は正常ですが,しかし我々の神経は害されていて,我々は絶望的な気分です(我々の大多数は1年以上も前から外部のものを見ていませんし,緑も全然見たことがありません)。
 毎日収容所に留まっている日本の将校達は,我々の生活を和らげるために,最善を尽くしてくれています。この書き付けを書いたのは俘虜全員の利益のためであって,例えば私一人がこの収容所内の事情について好ましくない判断をしているかのような印象を引き起こすためではないことを明白に申し述べておきたいと思います。
                        海軍少佐,ハス
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                         1916年3月10日,大阪
 私は謹んで,私が不当に戦争俘虜として収容されていると繰り返し陳情したこと,
並びに私が種々の肉体的な障害故に1914年8月の予備役検査に基づき兵役を完全に免除されていると船医のヴァイジーアー博士が言明したことを指摘させていただきたく存じます。
 国際法によれば兵役不適格者の抑留は禁止されています。このような国際法違反の罪を犯した国家は損害賠償を義務づけられています。     
                         頓首再拝
                         署名:エーミル・ヘフト
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                        1916年3月30日,東京
大阪収容所
 大阪俘虜収容所内の事情に関する私の報告に関連して,1916年3月29日付けのジャパン・アドヴァタイザー紙の次の記事を添付いたします。その中では,1916年3月28日に収容所内で突然発生した原因不明の火災の際に13棟の収容所バラックが破壊し,6名の俘虜が軽傷を負ったと報道されています。   
ジャパン・アドヴァタイザー,東京
1916年3月29日,水曜日
大阪の火災でドイツ人6名負傷
485名の俘虜が収容されているバラック炎上
 485名の戦争俘虜が収容されている大阪のバラックで昨日の朝9時頃に突然発生した火災で6名のドイツ人戦争俘虜が軽傷を負った。
 10時頃には鎮火できたが,それまでに13棟の建物が全焼した。第4師団の第37連隊から100名の兵士が救援に駆けつけて俘虜達を引き取り,間もなく隣接する場所に収容した。100名の警官が兵士達と共同で俘虜達を監視していた。混乱に乗じて逃亡が企図され得ることを案じていたためである。他の市警官達も俘虜達の監視に協力した。
 出火原因については未だ不明であり,調査が開始された。
         
10. 静岡収容所
 1916年3月12日,午後4時に私は静岡俘虜収容所に到着し,その入り口で所長の蓮実中佐と彼のスタッフが私を待ち受けました。
 静岡の収容建物は互いに少し離れた二つの異なる場所にあって,一方の分所では従卒つきの将校7名と下士官25名,並びに数名の兵卒が受け入れられており,他方の分所にはその他の兵員達が収容されています。全部で114名の俘虜が収容所にいます。
 収容所内の健康状態は良好ではありませんでした。ここに収容されている俘虜達の大多数が青島で多少の差はあれ重傷を負っていたことが大抵の原因です。それにもかかわらず私の訪問時に重病であったのは,もう2名のみでした。場所不足からこの収容所には病室がなく,発病した俘虜達は衛戍病院に移送されます。医師が1名毎日,収容所に顔を出しますが,しかし俘虜達は彼が信頼できないと不平を言っています。一人の俘虜が戦争中に受けた傷の結果で死亡しました。
 将校達には好み通りに市内に発注することが許可されていますし,将校と兵員達のために毎日酒保が一つ開かれています。将校達の郵便は何らの制限を受けていませんが,一方,兵員達には月に4通の手紙を書くことしか許されていません。衣服,寝具類,食事は大多数の収容所同様,抜群です。将校達に対して懲戒処分を科す必要はありませんでしたし,兵員達も少数の場合にしか懲戒処分を受けていません。同僚の一人から盗んだ男が1名懲役刑を受け,少数の他の判決は全て衛兵所における拘禁30日を越えるものではありませんでした。
 収容所の両分所とも場所が不足しています。しかし将校達が居住する部分には散歩ができる小さな庭とテニスコートが1面付いています。直ぐ隣りには小さな校庭があって,そこで将校達は毎日1時間半,それも兵員達もそこに留まる同じ時に散策することができます。兵員達が収容されている分所は市内にあって,高い塀に囲まれていて,公道が2方の境界になっています。収容地自体はほとんど完全に兵員用の居住建物一つで一杯になっています。既述の小さな校庭での毎日1時間半の散歩を別にすれば,人々が運動できる唯一の場所は約80×20フィート〔脚注:全ての度量衡表示はイギリスの度量衡を示す〕の広さの中庭ですが,しかしそこには調理場や複数の便所もあるので,新鮮な空気は僅かしかありません。
 将校達は他の俘虜達と同一の複数の風呂場を使用しなければなりませんが,将校用の建物内の衛生設備は十分です。兵員用の分所では,それに反して衛生設備は良好ではありません。最も批難すべき状況は,俘虜達に唯一供給される飲料水が不快な状態の便所から9フィートも離れていない所にある井戸から取られることです。俘虜達はこの状況について切実な苦情を訴えました。私が味見をしてみたその水は腐りかけた,不衛生な味と臭いがしています。所長が私に告げたところでは,水は検査されて,清潔と判定されました。しかしながら,そのような井戸からポンプで汲み上げられる水が結局は汚染されるに違いなく,そのような状態が収容所内の健康にとって危険となるのは目に見えています。
 将校達が居住している部屋は,将校専属の従卒達の部屋とこの分所に収容されている他の俘虜達の部屋との間にあります。部屋は非常な過密状態で,将校用の設備は快適ではありません。将校達は全員重い病気にかかったことがあり,気晴らしや休息を取れない状況が彼らの回復を妨げました。
 私は最古参の将校と,後には他の全ての将校とも話をしました。彼らが最も多く不平を述べたのは,運動をするための場所が不十分なことでしたし,彼らと兵員達とが受ける扱いに差異のないことも不平の一理由でした。最古参の将校で,海軍少佐のマティアスは病気の様子で,神経病の専門医に相談する許可を求めました。
 兵員達の不平に関しては,全て適当な衛生設備と体の鍛練を行う場所の不足,並びに有能な医師の不在に関することでした。初めの二つの不平は確かにもっともなことです。無能な収容所医に対する苦情に関連して兵卒のウンケルは,彼の告げるところでは,折れたために収容所医に整骨してもらった自分の腕を私に見せました。1年経った現在その俘虜は肘を全く,手首はほんの僅かしか曲げることができません。似たような多くの不平が出されました。
 これらの不平を例外として,人々は自分達の扱われ方に満足しているように見えました。虐待に関する示唆はなされませんでしたし,俘虜達と日本の将校や衛兵達との関係は良好であるように思われました。
 私は夕方の7時半に静岡収容所を後にしました。
 
11. 徳島収容所
 1916年3月2日,朝10時に私は徳島俘虜収容所を訪問しました。収容所は町外れの川岸のかなり高い所に位置しています。俘虜達が収容されている建物は以前は市管理部の建物として使用されていたもので,現在の用途のためにはほとんど改造されていません。後から管理当局はさらに幾つかの小建造物を設置させましたが,しかしそれらは居住用ではなくて,酒保,調理場等々として使われています。収容地の範囲は非常に限定されています。
 全部で206名の俘虜がここに収容されていて,その中に5名の将校がいます。収容所内の健康状態は総じて非常に良好でした。唯一の比較的深刻な病例はサッカー競技の際に受けた負傷でした。俘虜達がかかることのできる軍医が一人毎日,収容所に居合わせており,収容所には軽病人を受け入れる小さな病室も一つあります。少数の場合にのみ懲戒処分の適用が必要でした。処罰はどの場合も軽いもので,精々のところ衛兵所における20日間の拘禁でした。
 私は収容所の入り口で収容所長の松江中佐と衛戍司令官に待ち受けられ,まず将校室を視察しました。私が尋ねもしないのに,将校達は挙げるべき不平はないと私に説明しました。彼らへの給仕と調理当番のために複数の従卒を自由に使え,好み通りに食料品,衣類等を収容所に取り寄せることも将校達には許可されています。彼らは読み物を豊富に提供されていて,演劇を他の俘虜達のために企画して挙行することに取り組みました。しばしば収容所外への散歩の許可が出され,彼らにはその外に体を鍛錬する機会も非常に多く提供されます。到着郵便物も発送郵便物も何ら制限されていません。しかしながら将校達の居住する複数の部屋は良好ではなく,非常な過密状態で,将校2名が小さな一部屋に,3名が別の一部屋に居住しています。部屋自体はかなり明るくて,よく換気されています。確かに将校達は特別な調理場を一つ持っていますが,しかし兵員達と同一の複数の風呂場を使用しなければならず,兵員達から離れて体の運動を行うことのできる場所を収容所の囲いの中では自由に使うこともできません。
 兵員達の宿舎はさらに狭いものです。大多数は主要建物の一階の大部屋に居住していますが,その部屋は,人々のために少し場所を空ける目的で,ベッドを日中は上下に重ねておく必要があるほど窮屈です。兵員達の服装は良好で,彼らは良質の食事を自炊しています。朝食はパンと紅茶,昼食は肉,ジャガイモ,野菜,夕食は肉または魚にパンと紅茶からなります。複数の風呂場は清潔で,衛生設備は抜群です。
 ただ体の鍛練を行うには収容地は狭いのですが,しかし人々は週に2回収容所の外で散歩をする許可を得ていますし,買い物をする目的で市内へ行くことも彼らにはしばしば許されます。
 所長が私に語ったところでは,兵員達にあっては考えを紛らわすために,色々な仕事への興味を喚起するよう管理部が努力しているとのことです。多くの俘虜は種々の学習に従事し,数名の者は玩具や類似の物を製作し始めました。私は人々の内の数名と話をして,何か不平はないのかどうか尋ねました。彼らが申し出た唯一の苦情は,彼らの言う通り,食事が単調で,一度も変更されないことに関係しました。その他の点では満足していると彼らは説明しました。徳島にいる俘虜達との話し合いの際には常に通訳が1名立ち会いました。
 全体として私は,徳島収容所内の事情は良好だと思います。私が見いだした主な障害は建物内の過員状態と,これらの建物自体の一般的な状態でして,これらの建物は俘虜達の居所としては不適です。日本の当局と俘虜達との関係は良好で,人々は満足しているように見えます。
 私は1時半に収容所を後にしました。収容所敷地の地図を1枚ここに添付します。
 
 注  到着した写しには、地図は添付されていませんでした。(高橋)
なお鳴門市ドイツ館には徳島俘虜収容所の地図はありませんので、参考のため以下に板東俘虜収容所の「要図」を載せておきます。(編集者)