Johannes Barth
Als deutscher Kaufmann in Fernost
Bremen―Tsingtau―Tokyo
1891―1981
 
ヨハネス=バルト著
「極東のドイツ商人として」
ブレーメン―チンタオ―東京
1891―1981
 
 
第2章 「戦争捕虜から日本商人へ」 日本で戦争捕虜となる
 
 チンタオは、1914年11月初めのよく晴れた日に占領された。われわれ捕虜は、次の夜を恐ろしく寒い原野で、防寒具なしに戸外で過ごした。もちろんわれわれには、毛布もなかった。そこで、われわれのほとんどの者は、生き続けるために一晩中輪になってぐるぐると歩き回った。われわれは、逃げ出すべきかを熟考した。ひょっとしたらそれは可能だったかも知れない。しかし、いったいどこへ行くことができただろう。この果てしない大陸で、1プェニヒの金もなく、現地の言葉を知りもせずにだ。結局、皆一緒に留まっていたほうが、より安全のように思われた。数日後、われわれは海の方へ連行され、そこで何隻かの小さな汽船に収容され、ただちに日本に向けて出航した。
 快適な渡航ではなかった。われわれは、汽船の中にぎゅうぎゅう詰めに詰め込まれ、四六時中舟板の上で横たわっていなければならなかった。その際、うしろの兵士の足が私の顔に触れ、まったくひどい臭いがした。しかし、それは最後に過ごした厳寒の幾晩に比べるとまだましだった。そして、船が内海に到達すると、われわれは皆翌朝までぐっすりと眠ることができた。われわれは、甲板に這い出し、美しい風景と緑の小さな島々、この土地の暖かな陽差しに驚嘆した。そして、運命はわれわれのためにこの土地を今後5年間選んだ。われわれの船は、約300人の俘虜を伴って四国の丸亀近郊にある多度津の小さな港に接岸した。海岸でわれわれは整列させられた。このとき、私は考えごとをしていて他の所におり、点呼のとき注意していなかったので、再び下士官から叱責された。全員がこの汽船でやって来た俘虜の正確な数と一致した後、われわれは、村の小さな通りを行進して、今後われわれの住居となるべき寺院に向かった。村の玄関口は花々で飾られ、通りの上には、われわれが最も大いに驚いたことに花輪で飾られた看板が掲げられていた。そこにはドイツ語でこのように銘記されていた。
「最大の心を込めて、最大の同情を込めて歓迎します」
私は、かつてどこかで戦争捕虜がこのような暖かい言葉で迎え入れられたことがあるとは思わない。その言葉でわれわれの心は本当に暖められた。こうしたことを、われわれは皆非常に必要としていたのである。
 われわれが通りに沿って行進していると、われわれを見るために、道ばたにはときどき人だかりができた。たいていの人々は、無表情な顔でわれわれをただじっと見つめていた。ある者は少し怖そうであり、また別の者は親しそうな顔をしたり、あるいはわれわれの何か―おそらく、われわれの赤ら顔や大きな鼻―を楽しんでいるように見えた。われわれは確信をもって、これらの顔に決して憎しみを見いださなかった。われわれ敵の兵士に対する憎しみだけでなく、単なる嫌悪感をもである。そして、日本での長年にわたる俘虜生活の間中ずっと、すべての日本人は、われわれが同様に彼らに親しく接する場合には、いつも共感と人助けを好む親切さをもってわれわれに接した。
 今やわれわれの住居となった寺院は、丸亀中で最も美しく、最も大きな建物であった。われわれ単なる兵士は、寺の大きな本堂で眠るためにそれぞれ畳一畳を持った。将校達はやや小さめの建物を得た。寺の建物の前には広い庭があり、そこには、厨房と日本式の洗濯部屋と風呂が新築された。大広間の側面には、2、3の小さめの部屋が作りつけられ、そこでわれわれは日中大きなテーブルに座ることもできたし、またそこで食事もした。われわれのうちの何人かは、ちょっとした料理を作ることができたので、われわれは、間もなく自分たちの食事を自ら調理することを始めることができた。われわれは、日本人の兵士と同じだけの給料を得た上に、日本在住で抑留されていないドイツ人からも若干の金銭を得た。だから、われわれは、まったく食うのには困らなかった。
 幸運なことに、いかなる種類の軍事教育やあるいは訓練も許されなかったので、われわれは、自分の所持品を整頓する以外に何もする必要がなかった。おのおのが、1カ月のうちの数日間は、厨房で手伝いをしたり、風呂の水くみをしたり、あるいは寺の部屋や庭を掃除しなければならなかった。そして、残りの日々は、ただひなたぼっこをして座っていたり、トランプ遊びに打ち興じたり、あるいは何かの話題で語り合ったりした。われわれのうちで、中国においてドイツの商社に雇われていた者は、間もなく喜ばしい知らせを受け取った。それは、俘虜である期間中、少額の金銭(月額約50円)を受け取るというものであった。われわれは、この金銭を分配し、その一部を、われわれが、そのような定期的な収入のない他の兵士に厨房の仕事や他の仕事をやってもらった代償に充てた。だから、われわれの少数者しか儲けなかった金銭が、全員に分配されることになった。そして、われわれは、全体としてうまく機能する共同体となった。われわれは、金銭のかかる物は何でも買うことが許された。人がほしがる物は何でも調達することのできる数名の日本人商人が毎日収容所にやって来た。彼らの最善の店はビールを販売していた。当時、大瓶1本が28銭していた。そして、大量の大瓶が毎日空になった。われわれは結局、ビール瓶の通貨でもってのみすべてを計算したので、ビールはわれわれの貨幣単位になった。
 私は、絶対にいなければならない期間よりもずっと長く日本に留まっていようとは少しも思っていなかった。私はできるだけ早くもう一度中国に戻りたかった。と言うのも、そこでは私は、成果があり面白い仕事を求める多くのよりよいチャンスを見いだすからである。中国はその巨大な人口と豊富な地下資源のゆえに、適任者にはすばらしい可能性を提供してくれそうに見えた。そのこと以上に、異国風の宗教や民間伝承と同じく、中国の長い歴史、哲学と文化は魅力的な研究対象であった。
 日本は、それに対してほとんど完全に西洋化されているように見える。ここには、もはや研究すべきものは何もないように見える。日本への旅行から帰った人は誰でも、富士山や芸者の美しさについてしか話しをしない。こうしたすべてのことは、私にとっては骨折り甲斐のあることには思えない。
 恐らくこれが極東に住んでいるたいていの外国人の意見だったろう。いつか異境の異邦人の本当の友人になるためには、あまりに民族主義的な日本人の中からよりも、中国人の中から友人を見つける方がずっと簡単であるという話しをわれわれは聞いた。そのうえ、日本人との交際はむずかしいと考えられる。なぜなら、彼らはいつも霧のような親しみを自分のまわりに取り巻き、本当に考えていることを決して言わないからである。
 だから、私が日本に留まることを全然考えなかったのも不思議ではなかった。しかしながら、他方において、成果を挙げることが、中国ではそれほど容易ではないということも私は知らないわけではなかった。そして、中国で没落したり、真っ当な道からそれた人々からも聞いたことがあった。
 成功を確かなものにする最も重要なこととして、中国の話し言葉をうまく使いこなすことは必要だった。私は、俘虜収容所での長い余暇の時間を使って中国語を身に付けようと固く決意した。
 私は一からやり直さなければならなかった。というのは、私が少ししゃべるのを覚えていた広東の方言は比較的小さな範囲でしか通用していなかったからである。全中国を通り抜けるためには、公式の日常語である北京語と同様に、カンフーを身に付けなければならなかった。われわれの俘虜仲間の何人かは、中国北部から来ていた。そこでは、彼らは少しばかりの話し言葉を心得ていた。そこで、彼らは私に発音における若干の授業をすることができた。しかし、彼らの言語知識は、奉公人や部下と話しをするために私が必要とするものからすれば限られたものだった。そしてそのうえ、彼らは書き言葉に関しては、何も知らなかった。
 幸運なことに、われわれは間もなく本を手に入れることができた。そして、俘虜生活の五年間で、私はほとんどすべての手に入れうる中国語の教科書をドイツ語や英語やあるいはフランス語で徹底的に研究した。私は新しい本を読み始めたときには、ページ数を私が自分自身のために余暇と定めた日数で割った。最後には私は約5000の漢字を使いこなすようになった。私はそれらすべての文字を小さなカードに筆で書き、意味を反対側に書いた。私は、何度も何度も復習するために、一重ねのカードをいつも身に付けていた。
 私はまた、若干の中国古典の名著―孔子の論語や孟子(Mencius)の本―も読んだ。孔子の思想や常識そして彼の人生観が、大きく永続的な感銘を私に与えたと思う。
 「私が欲しないことを、私は人々にもしようと思わない」
 「学びて時に習う、また楽しからずや?」
 「まだ生を知らないのに、どうして死を知ろうか?」
 のちに私は、日本の雑誌の中でこれらの文のいくつかを見つけ、それを用いて掛け物(絵巻物)を作った。そしてそれは、時の経つうちに幾分傷んではしまったが、今日なお私のいくつかの巻紙の下にある。
 おのおのが語り合ったり、トランプをしたり、酒を飲んだりしている共同体の空間では、私は研究をすることができなかった。そこで、私は古いビール箱を使って机と椅子を組み立て、春にはその二つを庭の隅に運び、そこで煩わされずに学習をすることができた。庭には小さな桜の木が一本植わっていて、私は、花が咲いたときにはその枝の下に机を置き、読書に没頭した。私は、自分を取り巻く世界のことを忘れた。だんだん寒くなって来ると、私は寺の張り出し縁の下に引き籠もった。寺の床は、地面から2メートルは充分のところにあった。本堂の周りには、大きな縁側が巡っていて、私はその下に机と椅子を据え付けたのである。日に日にもっと寒さが増してくると、私は畳で部屋を徐々に仕切り、本棚を作り、最後にはこの場所を全く居心地のよい書斎に仕上げてしまった。われわれの日本人衛兵も、この部屋が何のために使われているかを知ると、何ら反対はしなかった。
 私はほとんど全額のお金を書籍のために使った。そして、中国語を研究している間に、ドイツ語、英語あるいはフランス語で書かれた中国に関するすべての重要な書物を読破した。これらの書物から、私は中国が文明化された生活ぶりの平和な住民が住む理想的な国だというイメージを描いた。そして、その住民は、賢くあらゆる種類の手工業と芸術に熟練している。このすばらしい国の多くのものを見たいという私の欲望は、ますます強くなった。
 われわれの収容所の中で、唯一私が仲良くなれなかった男は、われわれの下士官であった。彼は、恐らく彼が私をよい兵士にしようと試みても失敗したので、今なお私に我慢がならなかった。彼は、われわれに体操の練習を命じ、また、われわれの服装を検査するためにわれわれを整列させることによって、自分の権威を保持したかった。その際、彼はいつも何かにつけて私を非難しなければならなかった。私は、心臓が弱かったので、強制的に運動の練習をさせられることに対して不平を訴えた。そして、日本人の医者から、運動と過重な労働から免除される証明書を得た。そうして、私はこの下士官から逃れることができ、引き続き妨げられずに研究に没頭することができた。
 昼間の居室を分け合っている12名ほどの俘虜仲間のほとんどは、個人的に中国で生活したことがあり、日本と中国に関しては、私と同じような意見であった。ただ、ヴァルターという名の男だけが、以前に数年間横浜に住んだことがあり、日本での生活は、われわれが考えているほどには悪くないということをわれわれに納得させようと無益な努力をした。われわれが二十歳そこそこで、彼を年かさでそれ故に年寄り臭く見なしたのに対して、彼は三十歳くらいだった。そのことは、推察するに彼の日本に関する注目すべき見解を物語っていた。
 クリスマスや他の祭りの時には、日本にあるドイツ人団体がわれわれにプレゼント、食べたり飲んだりするのによいものを贈ってくれた。寄付者はときどき彼らの供給者から恐らく騙されたのだろう。というのは、クリスマスや新年に向けての寒い日々に、ちょっと暖まって元気を出すために、われわれがどのようにして若干のラム酒の瓶を手に入れたかを覚えているからである。私はおよそ四分の一リットルのラム酒を熱湯で薄めて飲んだ。すると、それを一口飲み込んだ後間もなく、私はひどく気分が悪くなった。私は畳の上に横たわり、一晩中指一本動かすこともできなかった。私はそこで目を閉じたまま横になり、私の周りのすべてのことをハッキリと聞くことができたけれども、しゃべることも目を開けることもできなかった。深更に及んで私は寝入ったにちがいない。そして、再び目が覚めたとき、気が狂ったように動悸が打った。私は、自分がまだ生きていることをすぐにいぶかった。私の仲間の何人かもよく似た経験をしていた。そのラム酒の瓶の中に有毒のアルコールが入っていたにちがいない。そのラベルには―私はまだよく覚えている―大きな椅子に座った酔っぱらった黒人が描かれていた。数時間後―それはちょうど元日だった―われわれは、丸亀の周辺で散歩をすることが許された。新鮮な空気が、再び私を少し立ち直らせてくれた。しっかりと立つことがほとんどできなかったのだけれども。
 われわれが丸亀の俘虜収容所にやって来た時には、それぞれが数ヶ月後には再び自由になれると思っていた。しかし、ヨーロッパでの戦争は続いていた。ロシアは革命によって崩壊し、ドイツと講和を締結していた。交戦中の両軍のどちらも敵を打ち負かすことができないように見えた。連合国は、増援軍が中部ヨーロッパに到着するのを阻止するために、他方、ドイツのUボートが多くのイギリスや中立国の船舶を海底に送り込み、そうすることによってイギリスを飢え疲れさせようとすることを阻止するために、ドイツを世界の残りから孤立させようと試みた。その後、アメリカ合衆国が参戦したが、そのことも、直ちに平和が訪れるいささかの見込みも与えなかった。時が経つにつれて、戦争捕虜になるわれわれの運命はますます意気消沈したものになっていった。
 われわれが他の収容所に移されることになっているという知らせをうけたとき、庭の桜の木は、すでに二度目の花を咲かせた。それは、徳島県の板東という小さな町の近郊にわれわれのために建てられた廠営であった。われわれだけでなく、四国の他の俘虜収容所からの兵士達もこの新しい収容所にやって来て、総計で1,000名を収容するということだ。実際の引っ越しが行われるのは、1917年の春になると私は思った。
われわれは、2年間に亘って住み慣れた古い寺院にすっかり馴染んでしまっていたので、この振替(引っ越し?)を特別には喜んではいなかった。新しい収容所は、木造の仮兵舎から成り立っていて、その仮小屋には、両側に大きな門があり、真ん中に幅の広い廊下があり、そして、廊下の左右にわれわれが住むことになる高められたプラットホームがあった。机もなければ、椅子も畳もなく、あるのはただ木の床板だけだった。しかし、指揮官の日本人将校との交渉を通じて、われわれは、いくつかの改善を獲得した。大きなホールは、それぞれ8人の俘虜用の多くの小部屋に分割された。われわれは、机や椅子も手に入れた。そのことは、われわれのほとんどの者にとって全く心地よいものとなった。
 私は、仮兵舎を初めて見た後、ここで生活しようという考えが全くしなかった。そして、病院へ収容されるよう提案した。このことは、私の心臓が弱かったために許可された。そして、病院では私は、仮兵舎の群集の中にいるよりは、少しは気分がよかった。しかし、松山収容所の俘虜が到着すると、数人の新しい患者が病院にやって来た。ある患者は結核を病んでおり、他の両名は精神病であった。彼らが到着した数時間後、私は―明らかに病気が直っていたので―再び仮兵舎に戻された。しかし、そこでの生活を、私は長く耐えることができなかった。私は、われわれの医者を再び訪問した。彼は、私の心臓を注意深く聴診し、それから私に徳島の陸軍病院へ入院するよう指示した。そこで、私は4週間入院した。私はそこで長らく日本人の兵士達と愉快に語り合ったことを覚えている。私は一言も日本語を話さず、彼らは少しの英語もドイツ語もできなかったのに。しかし、われわれは身振り手振りで、言いたいことを相手によく理解させることができたのだった。
 病院で私は、俘虜担当の日本人医師と知り合いになった。松山収容所から来た俘虜の一人であるアルベルト=ヴェルナーは、当時少し日本語ができたので、その通訳としてその医師に仕えていた。その医師は、少ししかドイツ語ができなかった。しかし、二人はいつも、彼らが知っている少しの単語を使って、何とか仲良く過ごすことができていた。そこで、私はアルベルト=ヴェルナーとも親交を結んだ。そして、彼が少しのちに、この病院の通訳将校として雇われ、病院の仮兵舎の中で彼自身の私的な部屋を仕切り整える許可を得たとき、私は、医師を動かしてこの部屋をアルベルトと共有する許可を得た。こうして、われわれは戦争が終結するまで、収容所の病院の中で素敵な部屋を手に入れた。病院の仮兵舎は、収容所とその周辺が見渡せる丘の上に建っていた。
 私は、少しばかりお金を持っていたので、書き机と快適な椅子と書棚を俘虜仲間に作ってもらった。彼らは、それらを作ることで、儲けようと思っていたのだ。その後、私は中国語の研究を更に続けた。毎月、新刊の書籍が届けられた。その中には、三カ月分の収入以上の値段がする大きな中国語辞典もあった。私は、のちにそれを東京のOAGの図書館に寄贈した。そして、それは今日なおそこに所蔵されている。  
 
 
ヨハネス=バルト著『極東のドイツ商人として』
 
第2章「戦争捕虜から日本商人へ」(そのC)
 
 板東の収容所に引き籠もっている俘虜たちの間には、若干の非常に能力のある中国学者もいた。彼らは間もなく興味を持つ者に授業をし始めた。そこには、ヘルマン=ボーナーがいた。彼は以前リヒャルト=ヴィルヘルムの助手だった。リヒャルトは、中国では著名なドイツ人宣教師であり、数冊の中国古典作品をドイツ語に翻訳していた。ボーナーは、収容所では全く中国語で教えず、全く他の文化的な活動に従事した。後に彼は、大阪の外国語学校の教師になり、日本における最良の日本学者になった。この私の親友は、1969年の秋に亡くなった。
 私の漢文の教師は、ティッテルという名の男であった。彼はすらりとして、日焼けした顔を持ち、多くの東方の言葉をマスターしており、下士官部屋の書き机の後ろにいつも瓶に入ったウイスキーを立てていた。戦後彼はバタヴィアへ行き、現地のオランダ財務当局で働いた。中国の商社の税制上の会計検査が彼に任された。彼の中国語とマライ語の知識が特別に彼をそのことに役立たせた。この学識が、ひょっとすると数年後の彼の早すぎる死の原因となったのかも知れない。噂によれば、彼はカクテルに毒を盛られたらしい。カクテルには非常に細かい竹の繊維が含まれていて、その竹の繊維が恐ろしい破滅を内臓に引き起こしたのだ。