ユダヤ人捕虜 ベルリーナー
 
ドイツ館にて 2013.6.30
小阪清行
 
 今日は「ユダヤ人捕虜 ベルリーナー」という演題でお話をいたします。
 短い時間内の話ではありますが、二部に分けて話します。
 第1部では、板東収容所にはこんな捕虜もいたのですよ、という意味で、ジークフリート・ベルリーナーについてお話しします。
 第2部では、ベルリーナーはユダヤ人でしたので、ユダヤ人問題について話します。なぜユダヤ人はヨーロッパで嫌われたのか、またなぜ特にドイツで迫害が酷かったのか、等について話します。
 
 さて、あまり知られていないかもしれませんが、20世紀のドイツに住んでいたユダヤ人の数はそれほど多くはありませんでした。11世紀から15世紀頃までは多かったのですが、13世紀頃から迫害を逃れて、ポーランド、ロシアなどに移住します。ですから、20世紀には東欧・ソ連などに遙かに多くのユダヤ人が住んでおりました。例えばポーランドでは人口の約1割がユダヤ人でしたが、ドイツではこれよりずっと少なかったです。
 ドイツにシュミットさんと仰る捕虜研究者がおいでますが、彼からいただいた資料によれば、第一次世界大戦当時のドイツ将兵の総数は約1.350万人で、その内約85.000人がユダヤ人でした。パーセンテージで言えば、約0,63%です。ドイツ兵捕虜の数は約4.700名でしたから、この割合を当てはめれば、捕虜の中には30名前後のユダヤ人がいたのではないかと推察できます。しかし、ユダヤ人だと確認できた捕虜は、シュミットさんによれば6名だけです。
 自分がユダヤ人であるとわざわざ名乗り出る人は少ないでしょう。それをどうやって確認するかと言えば、恐らく名前とか、居住地とか、ユダヤ人組織との関係とか、ナチス時代に国外に移住したことなどが参考になるのだろうと思います。
 例えば今、「名前」と申しましたが、名前からユダヤ人ではないかと推察できる場合があるのです。先ほど申しあげた6名のユダヤ人捕虜の中に、ベーアヴァルトとかカッツェンシュタインとかいう人がいますが、これは直訳すると「熊の森」とか「猫の石」という意味ですが、ユダヤ人の苗字には、動物の名前が入ったケースが比較的多いそうです。
 捕虜とは関係ありませんが、例えば、アシュケナージというユダヤ系のピアニスト兼指揮者がいます。アシュケナージというのは、「東欧系ユダヤ人」という意味ですから、彼の場合は名前から100%ユダヤ人だと断言できるでしょう。あるいはコーエンとかレヴィというのは、ユダヤ教の祭司という意味ですから、その苗字の人もほぼユダヤ人と言って間違いないでしょう。しかしそういうケースはそれほど多くはありません。
 さて、偶然かもしれませんが、6名のユダヤ人捕虜のうちの5名までが板東収容所に収容されておりました。その中から、今日は特にジークフリート・ベルリーナーについてお話いたします。なぜ、ベルリーナーを選んだかと申しますと、去年のことですが、彼について極めて詳細な歴史的事実が明らかになったからです。ドイツのローデさんと仰る方が、熱心に研究されて、これを発表されました。実は、この報告を私が翻訳しまして、ウェッブ上に載せてあります。興味をお持ちの方は、資料1ページの上の方にアドレスを記しておりますのでご覧ください。そういう訳で、今日私が第T部で話す内容というのは、ローデさんの研究のほんの一部をかいつまんで紹介する、ということになります。
 
 では、まず資料1ページをご覧ください。
 ジークフリート・ベルリーナーは、ユダヤ人を父母として1884年に生まれます。父親は商学あるいは経営学の教師で、後に自ら学校を設立します。学者としての素質と、経営者としての素質の両方を備えていたようです。このような素質はどうも一族に共通していたようでして、父親の兄弟のほとんどが、実業家や発明家として名をなしています。一番有名なのは、父親のすぐ上の兄、すなわちジークフリートの伯父にあたるエーミール・ベルリーナー(2ページ@)です。彼は19歳でアメリカに移住して、エジソンや電話の発明者ベルと並ぶほどの著名な発明家になりました。レコード盤蓄音機は彼が発明したものです。クラシック音楽を好きな方ならば誰でもご存じのレーベル、ドイツ・グラモフォンは、彼が設立しました。またビクターの商標で有名は犬(ニッパーと言うそうですが)はもともとはベルリーナ・グラモフォン社の商標でした。
 ジークフリートには兄と妹が一人ずつおりましたが、兄は心理学者、妹は経済学者でした。ジークフリート自身はどうかと言いますと、弱冠21歳で物理学の研究で博士号を取得いたします。しかし、29歳のとき東京帝国大学の講師(実質的には教授)になりますが、そのときは経営学の教師でした。彼は後にドイツに戻り、教師をしながら、保険会社を設立します。アメリカに渡ってからも同様で、学者と実業家の両方を同時に、あるいは両方の間を行ったり来たりしております。ある意味で、ユダヤ人的生き方の典型と言えるかもしれません。
 さてここで、ジークフリートの6歳年下の妹コラ(2ページA)について述べておきます。コラは経済学の教授でしたが、1933年にヒトラーが政権に就くと、国家公務員としての職を解かれ、その後はユダヤ人の国外脱出を助ける組織で働いておりました。しかし後に捕まって強制収容所に移送され、そこで殺害されたと考えられています。ベルリンに「ホロコースト記念碑」という約2万uの広大な敷地の施設があり、そのすぐ近くに彼女を記念して、コラ・ベルリーナー通りという通りがあります。ですから、まあまあ有名な人物と言えます。
 その妹コラの友達に、アンナ・マイアー(3ページB)というユダヤ人女性がおりました。ジークフリートは妹コラを通してアンナと知り合い、26歳のとき4歳年下のアンナと結婚します。アンナも学者でして、結婚から3年後、実験心理学の祖と言われるヴィルヘルム・ヴントの元で、女性としては初めて博士号を取得しております。
 たまたまその年に、ジークフリートは東京帝国大学で教鞭をとることになり、妻アンナと一緒に来日します。しかし、着任後わずか半年少々で第一次世界大戦が勃発し、1914年の8月には、応召してチンタオに向かい、そして捕虜となって、11月に丸亀収容所に収容されました。妻のアンナはその間東京で、夫を東京収容所に移してもらう運動をしておりましたが、不成功に終わります。結局翌年2月に岩崎よし子という女中と一緒に丸亀に引越してきて、月に二度ほど夫に面会するという生活を送ることになりました。
 私事で誠に恐縮ですが、私の家は、彼女の住んでいた借家と収容所の間に位置しております。彼女が収容所に行くには、我が家の前を通らなくてはなりませんでした。当時10歳だった私の父は、アンナが家の前を通るのを見た記憶があると申しておりました。
 余談はさておき、面会の際には、都合の悪いことを話されては困るので、当然のことながら通訳が立ち会います。しかし、その通訳の目を盗んで、ベルリーナーは妻に収容所の窮状を訴える告発書を託します。アンナは厳しい検閲を掻い潜って、これをアメリカ経由でドイツ陸軍省に送ることに成功します。一説によれば、このことが引き金となって、中立国アメリカの大使館員が収容所を視察し、後に板東収容所が作られるきっかけになった可能性があるとのことです。もっともこの説に対しては、板東収容所の設置はすでにその前から決定していた、すなわち告発書とは無関係に設置された、との異論もあるようです。真偽のほどは明らかでありませんので、一応両方の説を紹介しておきます。
 さて、1919年に板東収容所から解放されたあと、ベルリーナーは再び東大に戻り、約5年間教鞭をとります。その間、1922年のことですが、ノーベル賞を受賞したばかりのアインシュタインが日本を訪問し、大歓迎を受けます。ある東大のドイツ文学の先生が「アルベルト・アインシュタインと日本」という文章を書かれておりまして、それによれば、そのときの歓迎の凄さは「ベッカム様人気やヨン様ブームどころの規模ではなかった」とのことです。そのアインシュタインが東京滞在中、ベルリーナー邸を何度か訪問しています。先ほど、ベルリーナーは物理学の論文で博士号を取得したと申しました。同じドイツの物理学者、しかもユダヤ人同士ということで、アインシュタインとはドイツにいたときからの知り合いだったようです。おもしろいのは、アインシュタインがベルリーナー家を訪問した際に、ベルリーナーのヴィヨームというヴァイオリンを借りて、ある演奏会でクロイツェル・ソナタを弾いたという記録が残っていることです。たまたま数日前に見たクラシック音楽の雑誌が、「ストラディヴァリウスとヴァイオリンの名器」という特集を組んでおりました。ストラディヴァリウスと並んで5つの名器の一つとして挙げられておりましたから、高価なものだったのでしょう。アインシュタインは6歳からヴァイオリンを習い始めたそうですし、ベルリーナーもエンゲル・オーケストラで第1ヴァイオリンを担当したり、ソロ演奏もやったほどですので、二人とも相当な腕前だったと推測されます。アインシュタインの日記に次のように書かれています。「素晴らしい和風建築のベルリーナー家で快適な夕べを過ごす。主人は知性溢れる経済学者、妻は優雅でかつ知性もあり、ベルリーナーの夫人としてぴったりの女性」。
 収容所時代を含めて日本に10年以上滞在した後、ベルリーナーはドイツに戻ります。帰国後、彼は大学で教えたり、保険会社を設立したりしておりました。しかし、1933年にヒトラーが政権に就き、「アーリア化」すなわちユダヤ人の財産を没収してドイツ人の所有に移す事業が進む中で、1938年にベルリーナー夫妻はアメリカに亡命します。アメリカで、一時期は二人とも職がなくて、経済的にかなりの苦境に立たされます。戦後もそんな時期があり、ドイツに残した資産の補償交渉を始めます。しかし、後に状況は好転して、結局かなりの資産が残りました。夫妻はドイツに対する恩讐を越えて、ドイツの復興を願って遺産をすべてドイツ・ゲッティンゲン大学などに寄付しました。ユダヤ人であるよりも、ドイツ人であることの意識の方が強かったためでしょう。このお金は現在も、若い科学者の研究を励ます奨学金「ベルリーナー・ウンゲウィッター賞」として使われているそうです。
 ベルリーナーの話の最後に、彼の人柄がよく現れた文章を紹介しておきたいと思います。資料の3ページの下の方をご覧ください。この葉書は、ベルリーナーが板東収容所から、かつてベルリーナー家の女中をしていた岩崎よし子に宛てて日本語で書いたものです。この葉書は、彼女の息子さんがドイツ館を訪問された際に、自宅にこんな物があったと仰って、ドイツ館に寄贈された物のようです。ベルリーナーの心の襞が読み取れるいい文章だと思いますので、是非後で読んでいただければと思います。
 
 ベルリーナーの話はここまでにして、次に、第2部に移ります。
 ユダヤ人と聞けば、ほとんどの人がすぐホロコーストを連想するのではないでしょうか。実際、先ほど申しましたように、ベルリーナーの妹コラを始め、ベルリーナー一族でホロコーストの犠牲になった者がかなりおります。が、それ以前、すなわちヒトラーが政権に就く1933年頃までは、ユダヤ人差別はそれほど酷くはありませんでした。ベルリーナー個人に関して言えば、それ以前に「迫害」や差別を受けた形跡はありません。ユダヤ人の4000年の歴史は、迫害と亡命の歴史、少なくとも苦難の歴史であったと言えるのですが、しかし、それにも波がありました。大波もあれば、小波もありました。第一次大戦当時は、「小波」程度だったと言えるかと思います。その背景には、フランス革命などによりヨーロッパで初めてユダヤ人が普通の人間扱いを受け、他方ユダヤ人の側でもハスカラと呼ばれる啓蒙、同化運動が盛んになったという事情がありました。ユダヤ人啓蒙の中心的存在は、大物哲学者・思想家だったモーゼス・メンデルスゾーンです。ちなみに、彼は宗教の融和を説いたレッシングの戯曲『賢者ナータン』のモデルであり、かつ作曲家メンデルスゾーンのお祖父さんにあたります。
 
 さて、「小波」程度のユダヤ人差別の話に戻ります。
 板東に成就院分置所という特殊捕虜用の隔離収容所がありましたが、そこにマックス・ツィンマーマンという捕虜が収容されておりました。なぜ彼が隔離されていたかと申しますと、彼はユダヤ系ポーランド人で、他の捕虜から蔑視され、身の危険を感じていたから、ということになっております。しかし、この捕虜はロシアの軍隊から脱走したり、国籍を詐称したり、偽名を使ったり、かなり問題のある人物だったようですので、彼が蔑視されていたのは、単に「ユダヤ人だった」ためだけではない、と私は考えます。
 ベルリーナーに関して言えば、大卒しかも博士号を持っておりながら副曹長でした。「これでは階級が低すぎる、ユダヤ人であるが故の差別である可能性がある」、という説を複数のドイツ人研究者から聞きました。しかし、同じ板東収容所にいた非ユダヤ人ボーナーも博士でしたが、彼は下士官どころか二等兵でした。ですから、学歴と階級は必ずしも関係していないように、私には思えます。
 他の例として、皆さんよくご存じアンネ・フランク ― 彼女の父親Otto Frankは、ベルリーナーよりも5歳若いのですが、ほぼ同年代のユダヤ人と言っていいでしょう。彼はAbiturすなわち「大学進学の資格試験」には合格しておりましたが、大学には行っておりません。ですが、一級鉄十字章を受章し中尉に昇進しています。
 ちなみに、Otto Frankと同い年のヒトラーは、第一次大戦中にOttoと同じ一級鉄十字章の他に、二級鉄十字章も授与されています。にもかかわらずヒトラーは伍長留まりでした。
 Otto Frankが次のようなことを言っておりますが、これが当時のユダヤ人の置かれた状況を知るのに、大いに参考になるかと思います。引用です。
 「当時、ユダヤ人であるという意識が全くなかったとは言えません。ただドイツ人であることの意識の方が強かった。そうでなければ大戦中に将校に出世していなかっただろうし、そもそもドイツのために戦ってはいません」。引用終わり。
 ベルリーナーもこれに近い考えを持っていた、と断言していいと思います。
 
 「小波」の話はここまでにして、「大波」すなわち大迫害の方に移ります。ユダヤ民族は聖書時代から、エジプトでの奴隷生活、バビロン捕囚、アッシリア、ペルシア、マケドニアなどによる支配、ローマ帝国によるパレスチナからの追放など、苦難の連続ですが、ここでは話をヨーロッパに限ります。もともとクリスチャンはユダヤ教徒から迫害されていたのですが、4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教になった頃から、逆にクリスチャンによるユダヤ教徒への迫害が始まります。11世紀から13世紀にかけての十字軍の時代に、また14世紀の「黒死病」すなわちペストの大流行に際しても、多数のユダヤ人集落が襲われ殺害されました。その後ロシアや東欧でポグロムと呼ばれる迫害が荒れ狂いました。しかし一番酷かったのは、ご存じナチスによるユダヤ人絶滅計画でした。
 さて、こういう話をしますと、誰もが二つの疑問を抱くのではないでしょうか。一つの疑問は、なぜユダヤ人はヨーロッパの国々で嫌われ、迫害されたのか。もう一つは、ゲーテ、カント、モーツァルト、ベートーヴェンなど、数知れぬ詩人・哲学者・音楽家を輩出した民族が、なぜホロコーストのような、あんな野蛮な行為に及んだのだろうか、そういう疑問だと思います。
 この2点は、丁寧にお話すれば何時間もかかる大変大きくて難しいテーマです。今日は時間の関係で、ほんの表面的な説明しかできませんので、多めの資料を作ってお手元に配布しております。興味のある方は後で読んで参考にしていただければと思っております。
 
 まず、なぜユダヤ人はヨーロッパの色々な国で迫害されたのか、という問題です。
 では、お手元の資料の8ページをご覧ください。先ほどの疑問に対する答を、箇条書きにしておりますので、これに沿って話を進めます。
 
A なぜユダヤ人は色々な国で迫害されたのか
@ 差別(しやべつ)する人間 異質な存在を排除
A 選民思想  一神教としてのユダヤ教の閉鎖性  [Aその1, 2]
B キリスト教が国教に 異教を排除  神学的解釈 「キリスト殺しの民」として  離散(ディアスポラ)の呪詛  [Aその3]
C スケープ・ゴート  黒死病 [Aその4]  ポグロム(圧制に苦しむ民衆にとっ   ての不満のはけ口)
D 金融資本の独占  教会法: 十三世紀まで利子付き貸金はユダヤ人が独占
E 大物宗教家、文学者、思想家などの影響   [Aその5]
 
 @ つい最近、作家・大佛次郎の「ドレフュス事件」という本を読みました。その中に、彼の知人で文学を愛する、極めて教養のあるヨーロッパ人が、何の理由もなくユダヤ人を毛嫌いしていたことに触れた後に、次のように書いておりました。「ユダヤ人への蔑視は、ヨーロッパ人が千数百年の間、批評の外に置いてきた心の暗闇の部分なのである。宗教的な信仰と一緒に、闇のまま、先祖から伝えられてきたことを疑わずに、ユダヤ人をけがらわしきもの、きたないもの、人道外のもの(ヒューマニティの外のこと)としてきたのである」。引用終わり
 このような差別は、実際は、世界中どこにも存在するように思われます。仏教ではこれを「サベツ」と読まずに「シャベツ」と読みます。差(しや)別(べつ)界に対して、平等界というのがあって、それは「真如の世界」だそうですから、逆に言えば、人間は完全な覚りの世界に入らない限り、差(しや)別(べつ)あるいは差別から自由になれないという意味だと思われます。人間は誰もが、異質な存在、マイノリティを排除せんとする傾向を持っている、ということが言えそうです。まず、そのことを抑えておきたいと思います。ユダヤ人問題の根深さは、そこに最大の原因があると思われるからです。
 A ユダヤ教には「選民思想」というものがあって、彼らは決して異教徒と交わろうとしない、とはよく耳にされていると思います。例えば旧約聖書のアモス書には、「地上の全部族の中からわたしが選んだのは、お前たちだけだ」と書かれております。
 このことと関連する、閉鎖社会の形成、あるいは異教徒との交わりの困難について、私自身の経験から話させていただきます。私は高校時代しばらく、キリスト教のある宗派の集会に顔を出していたことがあります。その宗派は、キリスト教ではあるのですが、多分にユダヤ教の戒律重視的な側面がありました。例えば、肉食はダメだといいます。また、安息日はキリスト教では日曜日になっていますが、その宗派ではユダヤ教と同じく土曜日だと言うのです。正確に言いますと、金曜日の日没から土曜日の日没までです。その間は働いてはなりません。今でこそ週休二日で、土曜日も休みの人は多いですけれども、今から50年近く前に、土曜日に休みが取れる人はほとんどいませんでした。そうしますと、その宗派に入ろうとしますと、自営業の人以外は、仕事を辞めるか、転職しなければならないことになります。ユダヤ教の掟は、これよりも遙かに厳しく、戦争のときでさえ、安息日を破って戦うよりも、死を選んだこともあったほどです。このような安息日や食事規制などによって、世界が非常に狭められます。
 ですから、敵意を持ったキリスト教世界の中で、2000年近い歴史を通して、彼らは共同体意識を持ちながら、かつ隔絶した社会を形成して、極めて厳しい現実の中で生きなければならなかった訳です。
 B ユダヤ教徒たちは、キリスト教の誕生当時、クリスチャンたちを激しく迫害していたのですが、4世紀になりますと、ローマ帝国ではコンスタンティヌス帝によってキリスト教が公認され、テオドシウス帝によって国教と定められ、ついには帝国内の異教信仰が禁止されるに至りました。この頃、キリスト教の側で、ユダヤ人たちは「キリスト殺しの民」として永遠に離散(ディアスポラ)の呪詛を担わなければならない、との神学的解釈が生まれました。この考えは実に長きにわたり、かつ根深く、民衆レベルにまで浸透していたようです。信じがたいことですが、ルターほどの神学者でさえ、やはりそうでした。
 実は、私は小学生の頃ある人に、ユダヤ人はなぜ迫害されたのか、と訊ねたことがあります。「キリストを殺したからだ」というのが答でした。それは、今思うとかなり正しい答でした。しかし、イエス・キリスト自身がユダヤ人だったのだから、逆にユダヤ人を「聖なる民」として敬ってもいいはずじゃあないか、という長年にわたる私の疑問に対する答は、未だに得られないままです。
 C 先ほど申しましたように、200年にわたる十字軍の時代に、ヨーロッパにいる異教徒であるユダヤ教徒に対しても迫害が激化し、ユダヤ人集落が略奪や放火の被害に遭い、多くの死者を出しました。さらに14世紀に「黒死病」がヨーロッパを襲います。これはヨーロッパ人口の1/3〜1/2 が死亡するという凄まじいものでした。この状況下で、ユダヤ人が井戸や川に毒を投げ入れているというデマが流されました。そんな中、一人のユダヤ人青年が拷問に堪えかねて、毒を入れたと自白します。それが即座にヨーロッパ中に伝わって、多数のユダヤ人集落が襲われました。パニック状態で、人間がどういう異常心理に陥り、どんな行動をとるか、関東大震災のときに、数千人の朝鮮人・中国人を虐殺した群集心理と非常によく似ています。3.11のときは世界中から賞賛された日本人ではありますが、関東大震災のときには、ヨーロッパの「黒死病」のときと全く同じようなことをやっております。後で9ページの資料4を参考になさってください。
 19世紀末から20世紀初頭にかけて、ロシアや東欧でポグロムの嵐が荒れ狂います。約30年のうちに、迫害を逃れてアメリカなどに移住したユダヤ人の数は、実に約250万人とされています。このポグロムに際しては、為政者はユダヤ人をスケープ・ゴートとして、民衆の不満のはけ口に利用したのですが、その際、経済的支援さえ与えたと言われています。
 D ユダヤ人と言えば、高利貸し、銀行家、金融資産家、財閥などのイメージがあると思います。そしてそれは、ユダヤ人の一部に関してではありますが、必ずしも間違ってはおりません。アメリカの場合、上位400名の富豪のうち、実に40%がユダヤ人だそうですから。アメリカにおけるユダヤ人の割合は約2%ですから驚くべき数字です。では、なぜユダヤ人がこれほど金融と深く結びついたのでしょうか。それは、ユダヤ人はローマ帝国によってパレスチナから追放されるような形で、中東、ヨーロッパ、北アフリカに離散したのでしたが、離散していたがゆえに、語学力や、それを使っての商売のノウハウを身につけていきました。土地を持たないの流浪の民でしたから、現実生活に関しては、お金の他に頼るものがなかったのです。ですから一生懸命に働き、中には当然、財を蓄積する者もでてきます。しかも中世ヨーロッパでは、法体系が、教会法と世俗法という二重構造になっており、十三世紀まで教会法によって、クリスチャンは利子付きの貸金を禁じられておりましたから、ユダヤ人は貸金業を独占することができました。また、ヨーロッパ中に散らばっていたが故に、そして同じ民族、同じ宗教ということで結束力のあった彼らは、国際金融シンジケートのようなものを容易に形成することができたのではないかと考えられます。
 しかし、この点に関して、ある本には「統轄や統制といった表現ほどユダヤ人にそぐわぬ言葉はない。ましてや、世界経済を支配するユダヤの国際組織などというのは、妄想の産物にすぎない」と書かれていました。ユダヤ関係、特にそれが経済に関係してきますと、このように全く異なった見方が出てきます。
 この辺に関しては、私自身情報不足で、自信をもって申し上げることができません。ただ、ロスチャイルド家だけに関して言えば、初代には息子が5人おり、ドイツ・イギリス・フランス・オーストリア・イタリアの各支店を担当させていたようですから、少なくとも一時的にはかなり国際的なネットワークが出来上がっていたと考えていいと思います。
 E ルター、シェークスピア、ハイデガーのような大物宗教家、文学者、哲学者・思想家が、反ユダヤ主義を助長するのに一役買ったのではないかと考えられます。
 ルターは『ユダヤ人と彼等の嘘について』というパンフレットの中で、諸侯たちに次のようなことを求めております。
 * ユダヤ人のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)を燃やすこと
 * 彼等の家を破壊し、ジプシーと同様に、家畜小屋に寝泊まりさせること
 * タルムード(旧約聖書と並ぶユダヤ教聖典)や祈祷書を取り上げること
 * ラビ(ユダヤ教の教師)達に説教を禁止し、これに違反する場合は、死刑をもって
   臨むこと
 * ユダヤ商人に旅行を禁じ、公道から追放すること
 * ユダヤ人の金貸し達に暴利を禁じ、彼らの現金や金銀財宝を没収すること
 * ユダヤ人の若者にはきつい肉体労働を強制して、自らパンを稼がせること
 ヒトラーが言っていることと、ほとんど変わらないのではないでしょうか。これが、あの『キリスト者の自由』を書いたのと同じ人間が書いたのか、と最初読んだときには、疑いを持ちました。しかしこれは間違いなくルターが書いたものなのです。そしてこの考えは、その後長くドイツ・ルター派に影響を与え続けました。
 実はルターも、最初はキリスト自身がユダヤ人だったのだからと考え、ユダヤ人との融和を説き、ユダヤ人をキリスト教に改宗させようと努力した時期もあったのです。しかし、彼らがあまりに頑固にキリストを救い主として受け入れることを拒否するとの理由から、反ユダヤ主義者になったようです。ドイツ最大の宗教者ルターのこのような考えは、当然のことながら、ナチスに格好の宣伝材料を提供しました。ヒトラーは、「ルターは偉大な男だった。巨人だった」と賞賛しております。
 戦後ドイツ・ルター派は、ナチスとの関係について悔い改めを表明しております。
 一言申し添えておきますと、ルター派全体がナチスに同調し、反ユダヤだった訳ではありません。少数派ですが、カール・バルトを中心として、反ナチスの「告白教会」が結成され、抵抗運動を展開します。その中でも、ルター派牧師であり20世紀を代表する神学者でもあるボンヘッファーは、ヒトラー暗殺計画に連座して、処刑されました。ルターの世俗権力を怖れぬ姿勢が、ボンヘッファーの決断を支えたと言われております。ルター神学にはそういう面もあったことを、忘れてはいけないと思っております。
 ルターの話がやや長くなり過ぎましたが、シェークスピアもまた、反ユダヤ主義を助長した一人と言えるでしょう。
 『ヴェニスの商人』に登場するユダヤ人高利貸しシャイロック、あの高潔な商人アントニオの体から肉1ポンドを切り取ろうとしたシャイロックは、シェークスピアの意図がどうあれ、ユダヤ人のマイナス・イメージを定着させる働きをしたのは、間違いないと思われます。
 以上が、ユダヤ人が迫害を受けた主な原因・理由ではないか、と私は思っております。
 
 2.次に、ユダヤ人はヨーロッパの色々な国で迫害されたけれども、なぜ特にドイツであれほど酷い蛮行が行われたのだろうか、という疑問です。
 
B なぜドイツ民族は野蛮な行為に走ったのか
@ ヴェルサイユ条約の過酷さ 天文学的金額
  経済的困窮 ハイパー・インフレーション   [Bその6]
A ヒトラーのカリスマ性 匕首伝説 『シオン賢者の議定書』を利用  [Bその6]
B ゲルマンの民族性?   [Bその7, 8]
 
 @ まず、第一次世界大戦後のドイツ経済は危機的状況にありました。それはヴェルサイユ条約によって、アルザス・ロレーヌ地方のフランスへの返還、海外植民地の放棄、さらに天文学的数字と言われるほどの巨額の賠償金支払いを、戦勝国から求められたためです。フランス人の一部にさえ、「あのときのフランスはドイツに対して過酷すぎた。フランスにも責任がある」という考えがあります。
 賠償金支払いに窮したドイツに対して、1923年フランスはドイツ経済の心臓部ルール地方を占領します。これに端を発して未曾有の大インフレーションが起こります。マルクの価値は戦争開始前と比較すると、1兆分の1にまで下落しました。これによってマルクは紙くず同然となります。買い物をするのに紙幣をトランクやリヤカーで運んだ、薪よりも紙幣の価値が低くなったため紙幣を薪がわりに暖炉で焚いた、あるいはビールを飲むのに、飲んでいる間にビール代が値上がりするので、飲む前に代金を支払った、などという話は恐らく何度か耳にされたと思います。
 A このハイパー・インフレーションは、時の首相シュトレーゼマンによって奇跡的に克服されますが、その後も危機的状況は続きます。失業者数は資料によって異なりますが、1932年に560万人ないし700万人。失業率は33%〜70%とあります。先に見た過酷な賠償金の支払いや失業者の増大により、国民の不満は極限にまで達します。このような状況下に台頭したのが、反ユダヤ主義をかかげるヒトラーだった訳です。
 B ヒトラーはウィーンで美術を学んでいましたが、そこで当時のウィーン市長ルエーガー(Lueger)などの反ユダヤ主義の洗礼を受けます。ルエーガーは、ウィーン経済を支配するロスチャイルド家などのユダヤ資本に対して、激しいユダヤ人攻撃を行っていました。周知のごとく、ヒトラーはその雄弁とカリスマ性で、当初数十名の極小政党に過ぎなかったナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)を巨大政党に育て上げます。その際、「匕首伝説」と『シオン賢者の議定書』を利用しました。
 「匕首伝説」というのは、背後から匕首で刺されたためにドイツは戦争に負けた、という説です。ドイツ敗戦の責任を国内の社会主義者・共産主義者たちに負わせようとする考えですが、マルクス、トロツキー、ローザ・ルクセンブルクなど左翼にユダヤ人が多かったものですから、右翼の人間からはユダヤ人は彼らと同一視されていたのでした。(ちなみに、レーニンも母親がユダヤ人でしたから、ユダヤ人と言って間違いでないと思います。イスラエルの法律では、ユダヤ人とは、ユダヤ教に改宗した者、もしくはユダヤ人の母親から生まれた者、となっています。)
 『シオン賢者の議定書』というのは、20世紀初頭に流通した偽書でして、ユダヤ人が世界征服の陰謀を企んでいるという内容です。ヒトラーの当時、すでに偽書だとされておりましたが、彼はそれを知りつつ、「偽書かも知れないが、内容は本当だ」として、盛んに反ユダヤ主義の宣伝に利用しました。この本が、ホロコーストを引き起こすに大きな役割を果たしたと考えられています。
 第二次世界大戦に突入する年に、ヒトラー総統は議会で、次のように演説しております。「私は今日もまた予言しておく。ヨーロッパ内外の国際ユダヤ金融勢力が、再び諸国民を世界戦争にひきずり込んだとしても、その結果は世界の共産化には至らず、またユダヤが勝利することにもならない。それは、ヨーロッパに住むユダヤ人種の絶滅(フェアニヒトゥング)で終わるのだ」。
 要するに、独裁者ヒトラーが、ヨーロッパに深く根ざす反ユダヤ感情を利用しつつ、彼一人で果たした役割というのは、限りなく大きいと言って言い過ぎではないと思います。
 C 最後に、ゲルマンの民族性に問題があるのではないか、すなわちヒトラー・ナチスを比較第一党に選んだドイツ人の国民性そのものに問題があるのではないか、との見方があります。11ページの資料7をご覧ください。真ん中にアルプスがあり、上(地図で言えば北)がドイツ人など北欧人の特徴を、下が南欧人の特徴を示しております。上と下を比較しながら、1分ほど眺めていただけますか。
 これは、作家トマス・マンの『ドイツとドイツ人』という講演の内容を参考にして、私が図式化したものです。図式化、あるいは単純化というのは常に危険性を孕んでおりますので、この図をこのまま鵜呑みにしないでいただきたいと思います。ですから、本当はマンの講演そのものを読んでいただければ一番いいのですが、ここでは敢えて単純化して話をいたします。
 実は私は昔、ルター神学を囓った経験があります。その魂の深遠さ、霊的なものへの肉薄、圧倒的な言葉の力など‥‥、ルターの凄さを賞賛するに吝かではありません。しかし、ルターには同時に極めて粗暴なところがあり、罵詈雑言を浴びせる悪癖(へき)があったのは、先ほどのパンフレット『ユダヤ人と彼等の嘘について』で先ほど見た通りです。このルターは、「ゲルマン精神の権化」とか、「ドイツ的本質の化身」とか言われることがあります。ルター一人をもって、ドイツ人全体に当てはめるのはおかしいのですが、しかし20世紀最大の哲学者と言われるハイデガーにも、ヒトラーに酔い痴れた時期があったとされておりますから、ドイツ文化のそういう側面は完全には否定できないと思います。トマス・マンはそのようなドイツ的在り方に警鐘を鳴らします。盲目的な力、情念(Leidenschaft)に押し流される傾向がドイツ人にあるけれども、それを乗り越えたのが、生涯南欧的光の世界を追い求めた、調和的・宇宙的魂を持った人間ゲーテであった、とマンは言います。ドイツ人の内的エネルギー、素朴さ、内面性、魂の深さを失わないまま、南欧的なるものを包摂したゲーテをこそ、ドイツ人は理想とすべきではないか、とマンは訴えているようです。
 英語の諺に「産湯とともに赤子を流すべからず」というのがあります。「悪を除こうとして善も失う」という意味ですが、上に述べたマンの考えは、ルターの宗教的価値やポジティヴな歴史的役割などを、すべて否定し去ってしまうことになりかねません。ですが、われわれにもある程度参考になるのではないかと思って、紹介いたしました。
 
 まだ少々時間があるようですので、時間の範囲中で、ユダヤ人はなぜ優秀か、という話をしておきたいと思います。
 ユダヤ人の世界人口に占める割合は、ほぼ0.02〜0.05%であるにもかかわらず、ノーベル賞受賞者に占めるユダヤ人の割合は15%〜20%だと言われております。また、第二次世界大戦後、ドイツのノーベル賞受賞者数は激減、逆にアメリカの受賞者数は激増しておりますが、これはもちろんユダヤ人がアメリカに亡命したことが大きく作用しています。
 さて、その優秀さの秘密ですが、
 @ まず、遺伝的に優れていたのではないか、という考えもあるのですが、資料@にありますように、18世紀には、ユダヤ人は「芸術や、学問や、有益な職業に従事する能力がない」という風に思われていました。今のわれわれから見れば、まさに「芸術や学問」こそ、ユダヤ人がその力を遺憾なく発揮した領域だと思われるのですけれども、当時は逆だと思われていました。実際、ユダヤ人が閉鎖的社会に閉じこもり、抑圧されていた時代には、それほど目立って優秀な人物は出ておりません。
 ですから、遺伝的要素を強調するのは、必ずしも正しいとは言えないのではないでしょうか。
 たとえてみれば、日本人がようやく縄文時代を脱した頃、中国ではすでに万里の長城や、兵馬俑で飾られた始皇帝陵の建設がなされていました。当時としては両民族の文明の間に、天地の差があった訳ですが、それだからと言って、中国人のDNAが日本人のそれよりも優れているとは言えない、それと同じことではないでしょうか。
 A では、どうして優秀なのか。昔、『ユダヤ人はなぜ優秀か』という本を読んだことがあるのですが、そこにはユダヤ人は幼いときから意味も分からないまま、ヘブライ語で書かれた膨大な量のモーセの五書(トーラー)を暗記させられ、それによって暗記力が鍛えられ、それが潜在能力に磨きをかけるからだ、と書いてありました。ユダヤ人が閉鎖的社会に閉じこもってタルムードの研究などに明け暮れていた時期にも、知的能力に磨きがかかっていたかもしれません。
 確かに湯川秀樹も5、6歳の頃からお祖父さんに就いて、意味も分からないままに漢籍の素読を習い、それが随分役立った、というようなことを語っておりますから、これも大きな要素であるかもしれません。
 ちなみに、かつて私の家に泊まったことのあるユダヤ人に確認したところ、彼は1〜2ページは暗記したかもしれないけれども、全文暗記なんてやった覚えがない、と言っておりました。これはたぶん、ユダヤ教の正統派と改革派の違いのためだと思います。
 B ユダヤ教はその教義が、掟を守ることに中心を置かれておりますので、自己抑制の訓練がなされている、そのことが学問の習得にプラスに働く、そうも考えられます。
 C しかし、最大の理由は、教育重視の姿勢にあるのではないか、と言うのが私の考えです。彼らは4000年の迫害、追放の歴史を持ち、その体験から、容易に持ち出せるものは「知識」だ、あるいは階級社会からの脱出のためにはどうしても「教育」が必要だ、という考えが徹底していた(している)のではないでしょうか。例えば、アメリカではユダヤ人の約60%が大学卒で、その半分の約30%が修士以上の学位を持つそうです。職業に関して言えば、ユダヤ人の70%が企業の管理職あるいは医師・弁護士などの自由業に就いています。長い迫害、追放、差別の歴史を背負い、そのハンディをバネにしているだけに、学問、教育に対する態度、モティヴェーションは半端でないと思います。俗に「火事場の馬鹿力」とか「お尻に火が付く」と申しますが、ユダヤ人の場合、ほとんど常に「火事場」の状況で「お尻に火が付い」ていたのではないかと思います。要するに、勉強にも学問にも命がけ、そういう面があるのではないでしょうか。ベルリーナーの場合にも、私はそれを感じます。
 
 以上、ごく大雑把ではありますが、ベルリーナーを介して、ドイツのユダヤ人問題に触れてみました。
 ご静聴、ありがとうございました。