塩田のある風景
小阪清行
二十年以上前に、週に一度JRで鳥取大学に通っていた。その七年間に色々なことがあったけれども、一番印象に残っているのは、ほんの数十秒、車窓を流れた風景 ― 旭川の土手に群生するフリージアだった。黄色い帯が数百メートルにわたって続いていた。もちろんワーズワースの「水仙」が思い出された。
And then my heart with pleasure fills,
And dances with the daffodils.
死ぬ直前に、一番懐かしいものとして思い浮かぶのはどんな風景だろうか。そんなあらずもがなの想像をしてみたりする。
僕の住む丸亀市新浜町は、今から三十年程前に住居表示が変更されるまでは、塩屋町の一部だった。この一帯はその名の如く製塩で暮らしを立てる者が多かった。元和元年(1615年)に播州赤穂の人間が塩屋にきて製塩業を始めたそうである。新浜町には東の端に、遍照寺という正徳四年(1714年)開創の真言の寺がある。この寺が新浜で一番古い建物だが、新浜地区への一番古い入植者は、「ゆる元」(取水栓の管理者)と呼ばれていた僕の先祖だったと聞いている。赤穂塩職人の末裔だったかもしれない。
「ゆる元」と言えば、何か「網元」とか「地主」のようなイメージがあるかもしれないが、入浜式塩田時代の父の仕事は全然そんなものではなく、むしろ奴隷労働に近かったようだ。僕が物心ついた頃には、父はすでに五十を過ぎていたし(再々婚で僕が末っ子)、商売を始めていたので、現場は頭領や塩田職人たちに任せていた。だから父が実際に塩田で働く姿を見た訳ではないが、昔職人として働いていた近所の老人の言葉を借りれば、「ほらもう、地獄みたいにキツイ仕事やった」そうである。若かった頃の父と叔父は、半裸の体が太陽に焼かれるのを避けるため、夜が明ける前に塩田に出かけ、昼前まで「浜引き」や「潮掛け」の作業をこなしていた。そして昼に二人で飯櫃を空にするほどの大飯を食らい、午後はまた農作業だった ― そんな話をよく聞かされたものだ。
新浜塩田は正式名を蓬莱塩田と言った。昔は遠浅の砂地だったのだろうが、僕が物心がついた頃はコンクリートと岩と土の堤防で囲われていた。周囲約4キロの大きな出島状の島をなしており、陸とは「ゴットン橋」と呼ばれる一本の橋だけで繋がっていた。旋回橋だったため、継ぎ手の部分がよく「ゴットン、ゴットン」と音をたてていた。
入浜式塩田時代の昭和二九年に、洞爺丸台風で堤防が決壊した。僕が小学校に進んだ頃だ。わが家から二、三十メートルのところに「吊り橋」(跳ね上げ橋)があって、僕はその橋の上から決壊の様子を眺めていた。鉛色の空、強い風。彼方の堤防に怒濤が打ち寄せ、堤防の一部を津波のように飲み込んだ。決壊部分から白い大波がドドドーッと塩田に流れ込んできた。(父は同じこの橋の上から、広島のキノコ雲を見たとのこと。)
海水が徐々に退いていくまでに数年かかった。堤防は修復されたが、工事が雑だったためか、別の台風によって再度破壊された。その間、子供たちにとってそこは格好の遊び場だった。流れがないから、広大なプールのようなものだった。
何年も経って、子供の足でも入れる程になった頃、逃げ場を失ったピンピン(モガニ)やシャコやキスが、網や素手で簡単に捕れた。学校がひけて、塩田に出かけるのが待ち遠しくて仕方なかった。
ゴットン橋のたもとに地蔵堂があった。橋がなくなった今も、ゴルフ場に入る交差点の近く(ユニクロ系列のGUから数十メートル多度津寄り)に、昔のままの状態でそのお堂は残されている。このお堂の前で、昔はいつも「金太はん」が寝ていた。夏など褌一丁で寝転がっていた。頭髪が一本もない禿げの爺様で、人から馬鹿にされもせず、尊敬もされない。歯が無いので口をいつももぐもぐやっていたが、言葉らしい言葉を発することは滅多になく、周囲から頼りにされることなど全くない。喰って、排泄するだけ。だのに、何故か存在感があった。あたかも塩田の精霊が体に沁み込んだような生命の確かさがあった。幼い頃、地元の親睦旅行で九州に行った朧気な記憶があるが、九州へ向かう船の中で金太はんが一緒だった記憶だけが鮮明に残っている ― 旅行に関する他の記憶は一切消滅しているにもかかわらず。
金太はんが寝ていたゴットン橋付近は、干満の差が非常に大きくて、従って流れが急だった。地蔵堂が建てられたのも、恐らくかつて近所の子供がそこで溺れ死んだためだろう。僕が子供時代に一番恐怖を感じさせられたのは、ある男の悲鳴である。子供が流されて、「助けてくれ〜!誰か助けてくれ〜!!」と狂乱状態で叫んでいた。その子供が助かったのか死んだのか、全く覚えていない。ただその父親の、耳をつんざく凄まじい絶叫だけが、生々しい記憶として残っている。
ゴットン橋の下は、潮が引くと絶好の潮吹採り(潮干狩り)の場になった。地元ではアサリのことを「シオフキ」と呼んでいた。学校から帰ると僕は毎日のように潮吹を掘りに海に出かけた。(潮が十分に引かない日もあるので、毎日採れたはずがないし、真冬には行かなかったはずだ。しかし、なぜか毎日行ったように記憶している。)ゴットン橋の陸地側(地蔵堂側)からも浜に降りられたが、塩田側の方がたくさん潮吹が採れた。熊手を使って掘る人もいたが、僕は素手で土を掴んだ。指が貝に触れたときの感覚が何とも言えない快感だった。大きな石の下に潮吹がいないかと、ひっくり返したりする。するとそこにピンピン蟹や、たまにタイラギ(平貝)、蛸、ウナギなどがいたりする。それを捕まえる時が至福の瞬間だった。
海には同時に危険も潜んでいた。水中を歩いていて、オコゼの背びれに足を刺されたことがあった。飛び上がるほどの激痛が走り、徐々に痺れてきたが、「しょんべん掛けとけ」と教えてくれた友達がいて、やってみると痛みは不思議なほどスーッと引いていった。
釣り餌用のガザ(ゴカイ)やマムシ(本虫)も採れた。蟹釣りにはゾクゾクするような興奮を覚えたが、魚釣り、特にチヌ(クロダイ)釣りなどにはかなりの経験・技術・知識が必要だったので、あまり好きでなかった。
僕は単純作業が好きで、従って潮吹掘りが一番好きだった。採った潮吹は一晩海水に浸けておく。朝までに貝はすっかり砂を吐き出していて、これを潮吹汁にして食べた。当時七人家族だったが、僕の掘った量で十分足りた。僕にとって、何よりの好物だった。もちろん今もスーパーでアサリを買って貝汁にして食べることはあるが、味も肉厚も薄くて全然別物のように感じられる。
塩田には虫採りにも行った。土手に草がぼうぼうに生えていて、バッタやトンボがいっぱい採れた。
近所に友達は何人もいたが、特にいつも一緒だった友達は思い浮かばない。一人で行くことの方が多かった。
そんななか、一人だけ深く記憶に刻まれた年上の友達がいる。サトッちゃん(本名サトシ)は高松に母親がいたのに、お祖父さんと二人だけで近所の長屋に住んでいた。職人か土方仕事のようなことをやっていたお祖父さんは、意固地なところがあったが、子供心にも真っ直ぐで気骨があると感じられた。
サトッちゃんに、僕は命を救ってもらった。
近所の子供たちは、僕の家で売っていた薄くて透けた黒布製の安物の越中褌で泳いでいた。海水パンツを履いていたのは恐らく軟弱者の僕一人だった。年長の子供や野性的な子供達は、ゴットン橋から急流に飛び込んだり、吊り橋の一番高いところから飛び込んだりしていたが、僕はほとんど泳げなかった。
吊り橋の袂に、鉄のハシゴがコンクリートの堤防壁に埋め込まれていた。泳ぎが苦手だった僕は、恐る恐るこのハシゴから降りて、犬掻きで数メートル泳ぎ、またハシゴまで帰ってきて把手にしがみつく ― そんなことを繰り返していた。
年下の子供でさえ、海面から五メートルもある橋の上から飛び込んだり、数百メートルを楽に泳いでいた。近所でまともに泳げないのは、おとっちゃま(臆病)な僕くらいだった。そんな僕が何の弾みか、橋の真下まで泳いで行ったことがあった。ハシゴからせいぜい十メートル程の距離だったが、僕には遠すぎた。僕の側に飛び込んできた者がいて、顔に受けた海水を少し飲んだ。慌てた、そして溺れかけた。手を延ばせば届くほどのところで何人も泳いでいるのに、誰も助けてくれない。冗談だと思ったのかもしれない。その時、気付いて助けてくれたのがサトッちゃんだった。
あのとき助けてもらっていなければ、自分は今、この世にいない。けれども、ちゃんと礼を言った覚えがない。親に、助けてもらったと言った覚えもない。
サトッちゃんはその後高松高専の寮に入ったと聞いている。当時の高専は、成績は良くても貧しくて学費を払えない生徒が進む難関だった。母親や祖父の苦労を肥やしにしたであろう。
命の恩人に、その後一度も会っていない。
月に数回、大阪から綿花を積んだ船がクラボウにやってきていた。丸亀港経由でゴットン橋の手前あたりまで来ると、エンジンを切る。そして太いロープで引っぱったり、棒で堤防を突いたりしながら九十度旋回して、クラボウに通じる運河に入ってきた。吊り橋が揚げられるのはその時だった。ガラガラとウインチが回転し始めると、「爆弾」と呼ばれた大きな鉄の塊が徐々に降りてくる。同時に橋が少しずつ揚がっていく。その間、小一時間は交通が遮断された。当時新浜にはまだ馬子がいたが、待っている間に馬がしょんべんをしたり糞を垂れたりしていた。長閑な風景だった。
船荷を降ろすのに数日かかる。その間船は運河の突き当たりにあるクラボウの荷揚場に係留されていた。運河の堤防を伝って船に近づき、友人たちと船の中の様子を伺うことがあった。僕たち子供にとっては、何でも好奇心の対象でありえた。船にはごく小さな伝馬船が繋がれていて、気さくな船員が、ときどきその小舟に乗ることを許してくれた。器用な連中はすぐに艪の漕ぎ方を覚えたが、何をやっても不器用な僕は、いつも舟の前の方にちょこんと座っているだけだった。
その頃のことである。数人の子供がお金を貯め、伝馬船を借りて、無人島の上真島まで行こうと企てた。当時は金属が少なかったため、屑鉄を拾ってボロ屋に持っていくと結構いい値で買い取ってくれたのである。塩田から突き出た堤防の先端に赤灯台が立ち、丸亀港の入り口を示す標識となっていたが、当時の赤灯台から二、三キロ沖に位置していたのが上真島である。じとじとと小雨が降る日だった。港を出て、赤灯台近くまで行ったところで、大人に発見されて舟から降ろされた。大人になった今でさえ、港から上真島まで小舟で行こうとすれば、恐怖を感じる距離である。当時は、おとっちゃまのくせに無鉄砲なところもあった。案の定、家に帰るとこっぴどく親に叱られた。普段は宥め役にまわる母からもきつく叱られた。
再決壊した蓬莱塩田が再び復旧されたとき、塩田は流下式に変貌していた。そして昭和四六年頃に塩田は埋め立てられ、ゴルフ場、工場地帯、ショッピング・エリアに変身した。塩田と陸の間も埋められ、今は浜街道と緑地公園になっている。製塩工場の跡地にはマルナカのショッピングモールと三菱電機の寮が建ち、運河は道路や駐車場になっている。
昔を偲ぶことができるのは、地蔵堂とわずかに残る堤防の跡だけで、弾けるような喜びや興奮を与えてくれたかつての風景は、見回しても今はもうどこにも見ることができない。
当時は多産だった。子供もよく事故で死んでいた。僕の兄姉も何人か幼くして命を落としている。人の命が軽かった ― そう考えることも可能だろう。しかし逆に、当時の方がよっぽど「いのち」そのものが尊重されていたような気もしないではない。
蒸気機関車の出現に深い危惧を覚えたゲーテは、数百年前にすでに技術文明の本質を見抜いていた、とかつて独文の恩師(小池辰雄教授)が言っていたが ― 。
昨秋、瀬戸内国際芸術祭が行われている高見島に行った。港から自転車を借りて、島の反対側の板持集落に行った。新藤兼人監督の『裸の島』を思い出しながら、山の斜面を登った。もともと十数軒の人家があったそうだが、今は完全な廃村になっている。石段を登り詰めたところにある家は、数年前に夜逃げしたままのような佇まいで、テレビも冷蔵庫もそのままうち捨ててあった。床の抜けた部屋もあって、廃墟の侘びしさが漂っていた。
帰りに坂を下っていると、竹林の中に、爪と甲羅の一部が真っ赤な消防蟹(アカテガニ)を一匹見かけた。子供時代にはわが家の庭にもいた蟹だが、もう何十年も見たことがなかった。懐かしさがこみ上げてきた。「いのち」が息づいているように感じて、無性に嬉しくなった。
ここまで書いてきて、自分は一体何を書きたかったのだろうか、と振り返ってみる。
大学一年のときの英語教師が、松本達郎先生という若い英詩の研究者で詩人だった。ハーバート・リードのエッセイが講読のテキストだったが、余談がおもしろかった。奥さんとの出会いが電撃的で結婚したのは出会って数日後だったとか、早稲田の学生時代は金が無くて土方仕事で生活費を稼いでいたけれども、そんな疲労困憊状態のさなかに「赫赫と燃える虎」(ウィリアム・ブレイク)が出現したとか、そんな話だった。夏休みに入る直前の授業で、突然「くれぐれも生命を大切に。死んじゃあいけません」と言われた。唐突でよく意味が汲み取れないままに、心に沁みる何かを感じた。結局、彼の英詩の講義を二年生から卒業まで聴いた。つまり、四年間ずっと彼の授業を受けたことになる。ロマンチストでカトリックだった。随分学生に人気があって、大学祭ではUnder Milk Woodというディラン・トマスの詩劇を学生と一緒に演じたり、研究室は何時行っても学生のたまり場、という具合だった。卒業アルバムを見ると、ゼミ生たちの前で彼一人がお茶目に寝そべって、片手で頬を支えている。
松本先生から教わった英詩の中でも、特にヘンリー・ヴォーンというイギリスの形而上詩人の「もと来た道」(The Retreat)が鮮明に脳裡に焼き付いている。
Happy those early days! when I
Shined in my angel infancy.
で始まり、次の四行で終わる。(平井正穂の訳を自分流に改訳)
世間には、ただ前進あるのみ、と言う人もいる。
だが、私は後ろをめざして歩いてゆきたい。
そして、土から生じたこの肉体が墓場に入るとき、
生まれたままのあの純白な魂をいだいて、
元いたところへ帰ってゆきたい!