(編集者注: 以下はファン・デア・ラーンさんから入手した「エンゲルの『自伝』」を小阪が入力・下訳して、瀬戸先生とラーンさんに不明な箇所の解明・訂正をお願いし、さらに高知大ドイツ人教師シュテファン・フーク氏の見解をも取り入れたものです。なお、注は、日本語訳の下にあるドイツ語の方につけておきました。ドイツ語の読めない方にも、参考になるかと思われますので是非こちらもご覧ください。
 
[原文のコピー]
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自伝
 
 私は1881年6月5日に生まれ、そのすぐ後にこの世の光を仰いだ。6歳のとき、木のつっかけを履いて学校へ通い始めた。私の苦手は算数で、宿題は母にやってもらっていた。ある日のこと、私は宿題でちゃんと解いて行った問題を、もう一度黒板に書かされることになった。早い話が、私はそれが出来なかった。先生は私に一発喰らわした。その時私は音楽家になりたいなどと言った。だから算数はいらないんだ。
 学校を終える前に、父が将来何になりたいのか、と訊いた。そして、鍛冶屋か音楽家かのどちらかを選べ、と言った。それで私は音楽家になった。18歳で私は軍楽隊に入った。私は第101連隊で軍隊勤務をした。我々の軍楽隊長は卑劣な男だったが、しかし、これは大事なことだったのだが、演奏・指揮はきちんとしていた。私は彼の従卒だったが、ある日女中と一緒にいるところを彼のかみさんに見つかってしまった。そして、早い話が、私はお払い箱になった。そこで私の良き時代は終わりを告げ、今や下士官たちは卑劣になった。兵役を終えた後、私はヴァイオリンの勉強を続けた。それからいろんなオーケストラや楽団、例えば「いわゆるオーケストラ」、「劇場楽団」、「湯治場楽団」、「インディアン楽団」やその他の楽団などで演奏活動を行った。しかしピリットしたところがあまりに少なかったので、私は自分で店を開いて、自分がカフェのヴァイオリン弾きになった。私はいろんな国に行ったことがある。フィンランド、ロシア、オーストリア、そしてバルカン諸国。言葉を学んだりはしなかった。私はいつも思っている、「音楽家というのは、耳さえあれば、どんな馬鹿だって・・・」と。1912年に私は中国に向かい、上海楽団で音楽に携わった。戦争が勃発して、私はわが国王の要請に応じてチンタオに行った。チンタオ占領後、日本の収容所に入れられた。私はまず丸亀のオーケストラを1917年まで指揮し、そして今は私の名前のついた板東のオーケストラの指揮者である。私は彼らをすなわち、「硬いBが前についたエンゲル・オーケストラ」と名づけている。
 
 
Autobiographie
 
  Am 5. Juni 1881 wurde ich geboren und erblickte bald darauf das Licht der Welt. Mit sechts Jahren fing ich an, in Holzpantinen zur Schule zu gehen. Meine schwache Seite war Rechen1), und die Hausaufgaben ließ ich mir von meiner Mutter machen. Eines schönen Tages mußte ich eine richtig gelöste Aufgabe an der Tafel nochmal vorrechnen. Kurz und gut, ich konnte es nicht. Da zog der Lehrer mir eins über. Da sagte ich, ich wollte Musiker werden und so und so. Da brauche ich kein Rechen.
  Bevor ich mit der Schule durch war, fragte mein Vater mich, was ich werden wolle; ich könne wählen zwischen Schmied und Musiker. Da wurde ich Musiker. Mit 18 Jahren kam ich zum Kómmis2) in die Kappelle. Ich diente bei den 101ern. Unser Kapellmeester war ein gemeener3) Hund, aber alles was recht is4), er hat gute Musik gemacht. Ich war Bursche bei ihm, aber eines schönen Tages traf mich seine Olle mit einem Dienstmädchen und kurz und gut ich flog 'raus. Da war die schöne Zeit vorüber und jetzt wurden die Unteroffiziere gemeene5). Nachdem ich vom Kómmis weg war, studierte ich weiter Geige. Ich war dann bei verschiedenen Orchestern in "guten", "Theater", "Bade", "Indianer"6) und anderen Orchestern tätig. Aber es gab da zu wenig scharfe Kaluppen7) da machte ich selbst einen Laden und wurde Vorgeiger8) im Kaffee. Ich bin viel rumgekommen, war in Finnland, Rußland, Österreich und den Balkanländern9). Sprachen habe ich nicht gelernt, denn ich sage mir immer: Een10) Musiker kann dumm sein wie Sche.....11), wenn er nur's Ohr hat. 1912 machte ich nach China, wo ich in der Shanghai Kapelle Musik machte. Als der Krieg ausbrach, folgte ich dem Rufe meines Königs12) und ging nach Tsingtau. Nach der Einnahme von Tsingtau, kam ich in japanische Gefangenschaft. Ich leitete zuerst das Orchester in Marugame bis 1917 und jetzt bin ich Meester13) des Orchesters in Bando, das meinen Namen trägt, ich heiße Se14) nämlich:
       Engel mit'n 15) harten B vor16)
 
  1) Rechen → Rechnenのこと
  2) Kómmis → Kommiß。なぜoの上にアクセント記号がついているのかについては、以下の瀬戸先生の注を参照: Kommis のアクセント記号ですが、軍隊用語は多くをフランス語から借用していた。今日では母音「i」にアクセントがあるが、当時はまだ借用して日が浅かったので、第一母音の「o」にアクセントをつけていたことを示すものではないだろうか、というのが高知大ドイツ人教師シュテファン・フーク氏の推測です。
  3) gemeener → gemeiner(方言、以下同様)
  4) is → ist
  5) gemeene → gemein
    6) "guten", "Theater", "Bade", "Indianer" → (瀬戸先生の注)ラーン氏の見解は、“guten”は「良い」とか「優れた」という意味ではなく、「まともな」ぐらいの感じで、「オーケストラ」の名にまあまあ値する、との語感だそうです。訳としては「いわゆるオーケストラ」になりました。“Theater”以下のものは、「オーケストラ」の名を付けるほどの代物ではなく、徐々に程度の落ちた「楽団」になるようです。「劇団」と契約している「劇場楽団」ぐらいの感じで、以下“Bade”は温泉場、まあ「湯治場」で稼ぐ「湯治場楽団」、“Indianer”になると、「アパッチ」が手を口に当てて奇声を発する叫び声のように、場合によっては聞くに堪えない、へたくそな演奏家のいる場末の楽団のニュアンスだそうです。「インディアン劇団」となりました。
    7) Kaluppen → (瀬戸先生の注)“Kaluppe”の語はラーン氏も初めて見たそうです。“scharfe Kaluppen”で「ピリットしたところ」と解しておきました。
    8) Vorgeiger → 辞書にはない単語。酒場、カフェなどで演奏する「ヴァイオリン弾き」くらいの言葉か。
    9) Ich bin viel rumgekommen… → (瀬戸先生の注)「ヨーロッパの色々な国を回って」のところですが、回ったというより、最低でも半年、時に1年以上住んでいたようです。従ってパウル・エンゲルは、旅芸人的な演奏家でもあったのでしょう。「言葉は学ばなかった」の箇所から、エンゲルはロシア、バルカン等の地にかなり長く滞在したと推測されます。多分7,8年は優に外国暮らしだったでしょう。
    10) Een → Ein
    11) Sche..... → (瀬戸先生の注)Scheiße(糞)。あまり品の良い言葉ではないので、全部書くのを憚った模様
    12) meines Königs → (瀬戸先生の注)第一次大戦時のドイツの文献では、もっぱら「ドイツ皇帝」の語が用いられているが、エンゲルは「自伝」でその語を使用していない。そのことから、「ザクセン王」、「プロイセン王」等の可能性になる、というのがラーン氏の見解です。それは「meines Königs」と「Königs」の語があるからです。「プロイセン王」の場合は即ち「ドイツ皇帝」なので、「meimes Kaisers」となったでしょう。エンゲルはザクセン出身の可能性が高いので、「ザクセン王」の可能性ありとのことです。ただし、この「自伝」の方言からは、ザクセン出身と断定まではできないとのことです。(なお、高知大教師のフーク氏は、方言からならバイエルン出身の可能性も排除できないとの見解です。ザクセン出身の断定を下すことは出来ない由)。
    13) Meester → Meister
    14) Se→sieのこと。(瀬戸先生の注)彼らとは、前文の「私の名前ついた板東のオーケストラ」の団員を意味している。「S」が何故大文字なのかは不明(フーク氏の教示による)。
    15) mit'n → 文法的にはmit dem だから mit'm となるべき。(瀬戸先生の注)ガリ版原稿作成者の誤記とも考えられる
    16) Engel mit'n harten B vor → (瀬戸先生の注)これに関しては二つの解釈がある。
 解釈その1)
 エンゲル(Engel;ドイツ語で天使の意味)の前にBをつけるとベンゲル(Bengel;腕白小僧の意味)となる。しかもこの場合、ドイツ音楽での用語のB、つまりB-Dur( 変ロ長調を意味する)のBに掛けている。Bは硬いことを意味する。つまり「優しい天使」(Engel)などではなく、「硬い天使」(B- Engel)となる。(ラーンさんの教示による) 
 解釈その2)
 苗字エンゲル(Engel;ドイツ語で天使の意味)の前にBをつけるとベンゲル(Bengel;腕白小僧の意味)となる。このように、苗字や名前の前に一時加えて別な意味にすることは、言葉遊びとしてごく一般的に行われるものである。この場合読み手の多くは、ただちにベンゲル(Bengel)を連想するはずである。「硬い」という語をBの前に付けたのは、なまなかなベンゲル(Bengel;腕白小僧)ではないぞ、と思わせている。また、名前のパウル(Paul;エンゲルは苗字で、名前はパウル)をも連想させている。P(プ)の音はB(ブ)よりも「硬い」音であるから。読者には、エンゲルの名前(苗字ではない)がパウル(Paul)であることは周知のことでもあったので、P.Engel(パウル・エンゲル)の名がただちに連想されたものと思われる。(フーク氏の見解)