指揮者パウル・エンゲルに関する新事実
岡山・松尾展成
板東の指揮者パウル・エンゲルは日独文化交流史の重要人物である.松尾2004(b),第3節は,謎の多いエンゲルの生涯を検討した.新発見の2資料は,エンゲルに関して多くの事実を明らかにした.新事実は私見によれば,ほぼ次のとおりである.これについての私の解釈のいくつかは注に記した.なお,省略形で示されている文献の完全形は,上記論文の文献一覧にある.
(I)自伝
発見された資料の第1は,板東俘虜収容所で1919年7月8日に発行された『ビール新聞』であり,そこに掲載された,エンゲルのごく短い「自伝(注1)」である.発見者はディルク・ファン=デア=ラーン氏(松山・板東収容捕虜ハインリヒ・ファン=デア=ラーンの子息)である.自伝は次の事実を記している.
@エンゲルは1881年6月5日に生まれた(注2).
Aエンゲルは18歳から「101」で軍隊勤務をした(注3).初めは軍楽隊長の従卒であった.
B軍隊勤務を終えた(注4)後,エンゲルは「ヴァイオリンの勉強を続け」,ドイツ,フィンランド,ロシア,オーストリア,バルカン諸国で演奏した.1912年から上海の楽団に参加し,さらに,丸亀と板東で楽団を指揮した(注5).
(II)戸籍簿
エンゲル自伝に記された生年月日に基づいて,私がドレースデン市戸籍部に問い合わせたところ,同部はエンゲルの戸籍簿(出生届出記録)(注6)の写しを送ってくれた.戸籍簿から以下の事実が確認される.
@パウル・アルトゥル・エンゲルは1881年6月5日(注7)に,ドレースデン市織布工小路(注8)12番地3階で生まれた.
A母親は女中アルマ・ジドーニエ・エンゲルであった.
Bエンゲルの戸籍簿には没年・没地が追加記入されていない(注9).
(注1)Engel, "Autobiographie", in : Bier-Zeitung vom 08. 07. 1919, S.3-4(独文,邦訳,訳注は本研究会のホームページにある). なお,この自伝は伝記的事実を十分に叙述してはいない.例えば,出生地が記されていない.
(注2)エンゲルを加えると,二等兵合計53人の生年が明らかにされえた.松尾2004(a), p. 33-34を参照. ただし,ジーモン・クラウスを後備二等兵から国民軍二等兵に改める.(1)生年の判明した二等兵53人の中で,エンゲルの年齢は3番目である.(2)『俘虜名簿』によれば,エンゲルの階級は現役二等兵である.これを基準とすると,エンゲルは現役二等兵44人の中で最年長である.(3)Rudolf Huelsenitz (Hrsg.), Adressbuch fuer das Lager Bando 1917/8, S. 19[瀬戸武彦教授教示]は,エンゲルを後備二等兵と記載している.これに従えば,エンゲルの年齢は後備二等兵2人中2番目である.−−−以下を追記する.@エンゲルを現役兵と表現しない資料・文献として,さらに次のものがある.小幡公使 1919(予備兵); 解放後俘虜 1919(予備兵); 俘虜患者解放表 1920(後備海軍歩兵卒);冨田 1991, p. 196(後備海兵隊員).とくにドイツ側資料,Huelsenitzの記事と異なるので,『俘虜名簿』におけるエンゲルの階級は誤記・誤植であろう.A板東の「弦楽オーケストラ」の音楽監督はエンゲルで,理事はW. シュテヒャー,S. ベルリーナー,G. マイアー,エンゲルであった.Huelsenitz 1917, S. 75.エンゲルが「シュテヒャー大尉行進曲」を作曲して,大尉に捧げた理由(の一つ)は,ヴァルター・シュテヒャーがエンゲル楽団の理事であったからであろう.B私はエンゲルの生年を1883年より後と想定したが,この想定は誤りであった.「ポール・エンゲル少尉」は1918年頃に「三十歳だった」.棟田 1997, p. 164(逆算すれば,1888年頃生まれ).エンゲルの年齢に関して私が承知していた,唯一の具体的記述がこれである.しかし,この年齢記述の誤りは自伝によって明らかになった.少尉という階級表示も誤りである.
(注3)この「101」はドイツ帝国第45歩兵旅団第「101」歩兵連隊,すなわち,ザクセン王国陸軍の編成から見れば,第1歩兵旅団第2近衛歩兵連隊(ドレースデン駐屯)を意味するであろう.SHB 1899, S. 784. この連隊番号は,それより約15年前,森鴎外のザクセン留学当時にも,第一次大戦開戦時にも,同じであった.−−−以下を付記する.@ドイツ陸軍の軍団区域はそれぞれの徴兵区域をなす.各徴兵区域は一般に4歩兵旅団区域に区分される.Otto Fischer, Das Verfassungs- und Verwaltungsrecht des Deutschen Reiches und des Koenigreiches Sachsen, 14. Aufl. Leipzig 1914, S. 126. ザクセン軍団第1歩兵旅団(その下位部隊の一つがザクセン第2近衛歩兵連隊,すなわち,ドイツ「101」連隊である)の徴兵区域は,ドレースデン市とドレースデン郡であった.SHB 1899, S. 820-821. したがって,エンゲルは,第2近衛歩兵連隊に入隊する前に,ドレースデン市かドレースデン郡の村に住んでいたであろう.A森鴎外がドレースデンで軍医講習会に参加したとき,「ステツヘル」が講師の一人であった.この軍医は「第二グレナヂイル連隊のカシノ」での夕食に,鴎外を招待した.鴎外,『独逸日記』,明治18年11月10日の条.軍医クルト・シュテヒャーは当時,第2近衛歩兵連隊の連隊医であった.松尾,「ザクセンの森鴎外 補遺」,岡山紀要,30巻2号,1998年,pp. 100-101.彼の息子が松山・板東収容捕虜ヴァルター・シュテヒャーであり,エンゲルが行進曲を捧げた大尉である.
(注4)エンゲルが「101」で連隊軍楽隊の正式隊員であったかどうか,また,いつ軍隊勤務を終えたか,は自伝に明記されていない.エンゲルと同じ18歳で海軍に入ったヘルマン・ハンゼンは,次注に示すように,入隊して3年後に予備役になった.
(注5)エンゲルは,18歳で「101」に勤務しはじめたとき,軍楽隊長の従卒となった(この文章を私は,エンゲルが,少なくとも当初は,軍楽隊の正式隊員とはならなかった,と理解する).軍隊勤務を終えた後,彼は職業音楽家として各地で演奏した.自伝の以上の記述に従えば,彼が音楽学校で正規の音楽教育を受けたことは,入隊前にも除隊後にもない,と推定される.しかし,次の事情を考慮すると,彼の技量は高かったはずである.上海工部局管弦楽団は音楽水準の向上を目指して,1906年からドイツ人を採用しはじめた.その一環として1910年にベルリーン音楽学校卒業生ハンス・ミリエス(1883年生まれで,エンゲルより2歳若い)が入団し,第1ヴァイオリン主席・副指揮者となった(後に習志野収容所で楽団を指揮).12年4月(エンゲルが入団する半年前)の上海楽団編成表では,打楽器以外の部門の主席はすべてドイツ人奏者となっていた.榎本 2003, pp. 92-96,104, 106, 118.そして,エンゲルの上海楽団採用はミリエスの2年後であった.榎本 2003, p. 106; 松尾 2004(1), 第1節(E)(ii)と(注19).−−−以下を付記する.@板東収容所研究 2003(p. 52)は,エンゲルが「ドレスデンの音楽院で学」んだ,と述べている.私も彼の音楽学校卒業をかつて想定し,いくつもの音楽学校にエンゲルの在籍調査を依頼した.しかし,私の想定は誤りであった.また,自伝でエンゲルは,すでに小学生時代に音楽家志望を決意した旨,書いているけれども,18歳までの音楽予備教育について,何も記していない.彼が20歳で徴兵されたのではなく,18歳で志願兵として軍隊に入った理由も,同様である.エンゲルが「ドレスデンでヴァイオリンを学んだ」,との園田 2002(2)の主張は,まだ十分に実証されていない.A久留米「収容所楽団」指揮者オットー・レーマンはヴァルトハイム市音楽監督の下で3年間修業した後,17歳6ヶ月でドレースデン音楽学校に入学した.3年間在学して,同校を卒業し,半年後の1913年10月に海兵隊に入り,青島の軍楽隊隊員となった.松尾 2003(a), pp. 52-53; 瀬戸 2003, p. 90. ミリエスについては,習志野収容所 2001, p. 61; 榎本 2003,p. 110を参照.このように,ミリエスとレーマンとは,音楽学校で教育を受けた音楽家であった.徳島と板東で楽団を指揮したハンゼンは,1886年に生まれ,音楽予備教育の後,1904年に海軍に入隊した.彼は3年勤務して,予備役となったが,間もなく再入隊し,海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊軍楽隊隊長・軍楽下士官にまで昇進した.園田 2002(3); 横田 2002, p. 65(生年の1986年は1886年の誤植); 瀬戸 2003, p. 66; 瀬戸武彦教授教示.18歳で入隊したハンゼンは,本格的な音楽教育を海軍軍楽隊において受けたであろう.
(注6)ドレースデン市出生届出記録1881年第1674号.−−−エンゲルについての記録があるかどうか,を私は以前ドレースデン市立文書館に質問したことがある.同館は,エンゲルが所蔵記録に一切記載されていない旨,回答してきた.
(注7)この生年月日は自伝の記述と一致する.
(注8)織布工小路は旧市街にあり,旧市場広場から西に向かう街路の一つであった.ここには,かつて多くの織布工が住み,1878年まで織布工会館があった.Stimmel 1994, S. 451. −−−以下を追記する.@エンゲルの生地に関して従来3説があった.第1は中部ドイツ・ドレースデン,第2は北ドイツ・ブレーメン,第3は南ドイツである.第1は俘虜名簿の本籍地から導かれ,第2は園田 2002(3)によって主張された.第3は,板東時代にエンゲル指揮・ベートホーフェン「第九」全曲演奏の際に合唱に参加した,というパウル・クライの証言である.Beethovens Neunte 1983; Kriegsgefangener 1987.エンゲルの戸籍簿は,生地に関する第2の説と第3の説を完全に否定した.なお,板東エンゲル楽団による「第九」の日本初演は立証不可能である.なぜなら,板東の「第九」演奏会プログラムを今も所持している,とクライは1987年にリューデンシャイトで語った(ただし,演奏年月日は語らなかった)けれども,リューデンシャイト市立文書館によれば,あのプログラムは現在,所在不明であるからである.クライについて,松尾 2004(b), pp. 81-87を参照.A青島捕虜94人に関して,俘虜名簿の本籍地と出生地との関係が調査されえた.四捨五入した比率で見ると,本籍地が出生地と一致する人は,65%であり,本籍地が出生地と異なる人は,35%であった.松尾 2004(a), p. 30. それにエンゲルを加えると,両者が一致する人は実数で62人,異なる人は33人であり,合計は95人となる.しかし,四捨五入した比率は65%対35%で,同じである.このように,俘虜名簿の本籍地は必ずしも出生地でなかったけれども,エンゲルの場合には両者が一致した.
(注9)これが未記載であるために,蘭印名簿以後のエンゲルの生涯は現段階では解明されえない.なお,ザクセン生まれのアルトゥル・ゲプフェルト(松山・板東収容)と上記レーマンの戸籍簿には,エンゲルのそれと異なって,没年・没地が追加記入されている.松尾 2003(a), p. 52; 松尾 2004(a), p. 89.レーマンは,生地と異なる都市で没したが,生地も没地もザクセンにあるから,追加記載はそれほど奇異でないかもしれない.しかし,ゲプフェルトの没地は,驚嘆すべきことに,在天津ドイツ総領事館からの連絡に基づいて中国・太原と記録されている.上記シュテヒャーの戸籍簿は存在しない.彼の生年は,ドイツ帝国で戸籍簿の作成が開始される(1876年)より前であったからである.