独軍俘虜概要(2) A〜I
 
通し番号) 姓(フリガナ) 名前等(生没年):所属部隊・階級 〔日独戦争での任務・守備位置〕[応召前の勤務先・職業] 事績・足跡等  出身地(俘虜番号:収容所)
 
1) Adamczewski(アダムツェフスキー),Boleslau:第3海兵大隊第7中隊・陸軍少尉。丸亀時代の1916414日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツの俘虜将校7名と収容所員10名の計17名の集合写真である。アダムツェフスキー少尉は、中列向かって左から二人目である【丸亀ドイツ兵俘虜研究会の赤垣洋氏から提供された資料による。写真の撮影時期は、後列に写っている里見金二中尉が、歩兵第12連隊から丸亀俘虜収容所に着任した1916年(大正5年)39日から、石井所長の離任の日である同年414日の間と考えられる。『丸亀俘虜収容所日誌』には、414日の石井所長離任に際して俘虜将校等に告別の辞を述べ、また将校等俘虜の写真を撮った、との記述がある。それ以前には写真撮影の記述は見当たらない。なお、注4)を参照】。1916104日、ランセル(Lancelle)大尉、ラミーン(Ramin)中尉、シュリーカー(Schliecker)中尉、フェッター(Vetter)中尉、シェーンベルク(Schönberg)少尉、キュールボルン(Kühlborn)少尉とともに丸亀から大分に移送された。マンハイム出身。(1810:丸亀→大分→習志野)
2) Ahlers(アーラース),Heinrich:青島船渠・上等兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より。以下、日本国内での解放を記述したものはこの書類による】。ヴィルヘルムスハーフェン出身。(4468:大阪→似島)
3) Ahrens(アーレンス),Heinrich]:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[青島・アーレンス建設会社]。丸亀時代の1915317日、大連の菅原工務所有賀定吉が面会に訪れ、アーレンスの妻からの託送品(夏服、夏肌着、靴下等)を差し入れた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。【以下、人名が[ ]で括られた人物については、瀬戸「独軍俘虜概要」参照】。アルトナ出身。(1815:丸亀→板東)
4) Ahrens(アーレンス),Karl:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[青島・アーレンス建設会社]。大戦終結後は、青島における就職既定者として日本国内で解放された。【上記ハインリヒの身内と思われる】。アルトナ出身。(1816:丸亀→板東)
5) Albers(アルバース),Carl]:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。上海から応召。ギムボルン(Gimborn)とは上海時代からの知己である。丸亀時代の19161016日、クラウスニッツァー(Claussnitzer)、デーゼブロック(Desebrock)及びヒンツ(Hinz)の四人で相互扶助を目的とする収容所保険組合を結成した。これが後に松山、徳島の俘虜達と合流した板東収容所での、大規模な健康保険組合のモデルとなった【ウルリーケ・クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』(Klein,Ulrike:Deutsche Kriegsgefangene in japanischem Gewahrsam 1914-1920 Ein Sonderfall109頁】。板東時代も収容所保険組合の設立に幹事として加わり、後にデーゼブロックが第2中隊代表理事を務めたのに対して、アルバースは第7中隊代表理事を務めた。ハンブルク出身。(1817:丸亀→板東)
6) Albrecht(アルブレヒト),Fritz1893-1966)]:第3海兵大隊第7中隊・伍長。丸亀時代の19141216日、青島(チンタオ)のティルピッツ街4番地に住むバッセ(Louis Basse)に宛てて、クリスマスと新年の挨拶状を出した。文面は「親愛なるバッセ並びにご家族様。楽しいクリスマスと喜ばしき新年を迎えられますよう。フリッツ・アルブレヒト」である。収容所員福島格次大尉を示す福島印が押されている【高松市在住の郵趣家三木充氏の所蔵品より】。アイゼナハ出身。(1814:丸亀→板東)
7) Albrecht(アルブレヒト),Hans:第3海兵大隊第3中隊・後備上等歩兵。似島時代の19193月、広島物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に当って、ボーテ(Bothe)、ハシュテット(Hastedt)、クット(Kutt)リースフェルト(Liessfeldt)及びヴェントラー(Wendler)とともに通訳を務めた。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。ロストック出身。(4466:大阪→似島)
8) Alester(アレスター),August:守備隊本部・軍曹。[守備隊兵営監守]。妻エンマ(Emma)は大戦終結まで青島に留まった【『日獨戦争ノ際俘虜情報局設置並獨國俘虜関係雑纂第十巻 在本邦俘虜ノ家族取締ニ関スル件』より。以下、妻子に関する事項はこの資料による】。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。東プロイセンのゴルダプ出身。(2776:松山→板東)
9) Alsleben(アルスレーベン),Gustav:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。ヴィルヘルム・メラー(Wilhelm Meller)の19191224日のクリスマスイヴの日の日記には、「今夜は部屋の静かな片隅で、ハリー・メラー(Harry Möller)とグスタフ・アルスレーベン(Gustav Alsleben)の三人で、メラー(Möller)のウサギを食べる」との記述がある【アードルフ・メラー『第一次大戦時の青島守備軍の運命』(Meller,Adolf:Das Schicksal der Verteidiger von Tsingtau im Ersten Weltkrieg.Aus dem Nachlaß meines Vaters67頁】。ウンシュトルート河畔のフライブルク出身。(2769:松山→板東)
10) Alt(アルト),Carl:第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。[横浜のHelms & Broth]。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本で解放された。ヴェーザー河畔のレーア出身。(4326:熊本→大分→習志野)
11) Aly(アーリ),Wilhelm:第3海兵大隊第7中隊・伍長。[カルロヴィッツCarlowitz & Co.)天津支店]。【板東収容所俘虜に関する前職・前勤務先の記述並びに注は、『板東収容所俘虜故国住所録』(Heimatsadressen der Kriegsgefangenen im Lager Bando,Japan)、『青島経済事情』、『青島研究資料』及び『近代中国専名翻訳詞典』による】。ライプチヒ出身。(1813:丸亀→板東)
12) Andrae(アンドレ),Hans:第3海兵大隊第2中隊・伍長。[アーレンス後継商会H.Ahrens & Co.Nchf.)横浜支店]。出身地不明(『俘虜名簿』では横浜)。(1811:丸亀→板東)
13) Andrée(アンドレー),Hans1883-):海軍砲兵中隊・海軍大尉。1914121日付け「九州日日新聞」の記事によると、ジーメンス社のドレンクハーンからアンドレー大尉宛てに、将校下士用として毎日パンを送る、12月からは毎週各種バター、マーガリンを送るが、これは日本及び中国在住のドイツ人の寄贈である。将校には葉巻煙草、コーヒー、茶、ハム、ぶどう酒、ラム酒、火酒を送るが、これらは平和克復後に代金を返して貰う、書籍もお金も要求次第送るとの通知があった【『新聞集成 大正編年史』大正三年度版下、787頁】。ハノーファー出身。(3187:熊本→久留米)
14) Andreas(アンドレーアス),Wilhelm]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[アーレンス後継商会横浜支店]。マイン河畔のフランクフルト出身。(2771:松山→板東)
15) Apel(アーペル),Adolf Waldemar:第2船渠部隊・予備1等焚火兵。似島時代の1919116日(26日との記述もある)、広島高等師範学校の運動場で、俘虜と及び高等師範学校、県師範学校、付属中、一中とのサッカー交歓試合が行われた。この試合にアーペルが出場したと思われる。当時付属中の生徒でサッカーに出場した茂森薫の次の証言が残されている。「アッペルという常駐通訳官が居た。(中略)或る日彼の素性を聞いたところ、横浜で生まれ、三十年前(大正三年)の第一次欧州大戦のとき召集され、青島で日本軍と戦ったが俘虜となり、広島の似島に収容されたという。そして曰く、当時最も楽しかったことはコウシ[高師]のグランドでやる蹴球だったという。」【『広島大学付属中・高八十年史 上巻』281頁より】。また3月には、広島物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に当って、運営本部の一員として出納係りを務めた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、広島の広島電気機械会社に雇用された。アイゼナハ出身。(4624:大阪→似島)
16) Arps(アルプス),Ernst1881-1968)]:第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。〔第1歩兵堡塁(湛山堡塁)〕。[教師]。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのダブルス(ハンディ付き)で、ティース(Thies)上等歩兵と組んでAクラス2位になった【『ディ・バラッケ』(以下、『バラッケ』と略記する)第2巻、211頁】。シュレースヴィヒのエケニス出身。(2767:松山→板東)
17) Arps(アルプス),Wilhelm1881-1968)]:第3海兵大隊第6中隊・後備伍長。[天津独中学校(Deutsch-Chinesische Schule)教師]。ハンブルク出身。(2768:松山→板東)
18) Ascher(アシャー),Max S.:海軍砲兵中隊・2等水兵。1917128日、アンドレーア(Andrea)をカロルチャク(Karolczak)【両名については、瀬戸「独軍俘虜概要」参照】等18名で袋叩きにして負傷させ、27日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った【以下、蘭領印度に渡ったことを示す記述は、ジャカルタで発行された『ドイツの守り』(Deutsche Wacht)の1922年第5号記載の蘭領印度におけるかつてのチンタオ戦士、及び日本の収容所俘虜の名簿による。なおこの情報はハンス=ヨアヒム・シュミット氏(Hans-Joachim Schmidt)の教示に基づき、松尾展成岡山大名誉教授が入手された資料による】。ベルリン出身。(3190:熊本→久留米)
19) Auer(アウアー),Johann:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[朝鮮京城・聖ベネディクト修道院(Abtei St.Benedikt O.S.B.,Soeul,Korea)]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ラウターホーフェン出身。(2770:松山→板東)
20) August(アウグスト),Jacob:海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。大阪時代の1915215日、静岡収容所で俘虜による自炊を行うことになったことから、料理の心得のあるアウグストは、ブロベッカー(Brobecker)とともに静岡収容所へ移送された【『静岡民友新聞』記事より;静岡県袋井市在住の内野健一氏の教示による】。エルザス出身。(3836:大阪→静岡→習志野)
21) Avemarg(アーヴェマルク),Ernst:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、アーヴェマルクは191968日に開催されたサッカーの試合で活躍した。【上記『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」に関することは、久留米収容所で活躍したオットー・レーマン(Otto Lehmann)の子息ユルゲン・レーマン氏より資料の提供を受けた松尾名誉教授からの教示による。以下、『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」に関わる記述も同様である】。カッセル出身。(317:久留米)
22) Bade(バーデ),Otto:海軍砲兵中隊・1等機関兵曹。妻アンナ(Anna)は大戦終結まで、子ども二人(いずれも12歳以下【『日獨戦争ノ際俘虜情報局設置竝獨國俘虜関係雑纂』第十巻(大正81月)「在本邦俘虜ノ家族取扱ニ関スル件」による。以下、こうした記述は同年月での時点】)と上海で暮らした。キール出身。(29:東京→習志野)
23) Bahr(バール),Hermann1872-):海軍守備隊・経理監督官。妻アンナ(Anna)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。オーデル河畔のシュヴェート出身。(382:久留米→青野原)
24) Bähr(ベーア),Karl]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[クンスト・ウント・アルバース商会(Kunst & Albersブラゴヴェシチェンスク支店]。19185月の第2回懸賞作文に「チビのリヒターの降臨祭遠足」で2等賞を受賞した。なお「チビのリヒターの降臨祭遠足」は『バラッケ』第2巻第8号(1918519日号)に掲載された。ピルナ近郊のコーピッツ出身。(2793:松山→板東)
25) Baist(バイスト),Heinrich]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ香港支店]。マイン河畔のフランクフルト出身。(2792:松山→板東)
26) Banke(バンケ),Arthur:第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。[指物師]。ブレスラウ出身。(958:福岡→久留米)
27) Banthien(バンティーン),Christian:第3海兵大隊第5中隊・2等砲兵。板東時代の191844日から6日の三日間、ブランダウ演劇グループによるクライスト作『壊れ甕』の上演に際して、主人公の村長アーダム役をほとんど欠陥がないほど上手に演じた。【『バラッケ』第2巻、33頁】。大戦終結して解放後は、大阪の松浦商会に雇用された。ライト(Rheydt)出身。(4133:大阪→徳島→板東)
28) Barghoorn(バルクホールン),Adolf1886-1920)]:第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。大戦勃発により、北海道の小樽から応召。板東時代の1918526日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。鉄棒2、平行棒2、鞍馬1、跳び箱1を使用しての体操会であった。バルクホールンは第2組の指導を受け持った【『バラッケ』第2巻、183頁】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、再度小樽で就職した。デュッセルドルフ出身。(2790:松山→板東)
29) Barthke(バルトケ),Max Otto:海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[腸詰製造職人]。マンスフェルト出身。(943:福岡→久留米)
30) Baerwald(ベーアヴァルト),Ernst]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カッセラ商会(Cassella & Co.)横浜支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として、日本国内で解放された。マイン河畔のフランクフルト出身。(2802:松山→板東)
31) Basse(バッセ),Louis-1952):所属部隊不明・2等水兵。19141216日、当時はまだ俘虜とはならずに、青島(チンタオ)のティルピッツ街4番地でレストランを経営していたバッセ宛てに、丸亀収容所のアルブレヒト(Albrecht)からクリスマスと新年の挨拶状が出された。文面は「親愛なるバッセ並びにご家族様。楽しいクリスマスと喜ばしき新年を迎えられますよう。フリッツ・アルブレヒト」である【アルブレヒトの項参照】。大戦終結後は、青島就職既定者として日本国内で解放された。ドイツに帰国後は、北海のヘルゴラント島でホテルを経営した。1960年ごろ、「チンタオ戦友会」に出席した。ゴスラール出身。(4485:大阪→似島)
32) Bastel(バステル),Wilhelm:海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として、日本国内で解放され、神戸のSelles Hermanosに勤めた。ハンブルク出身。(873:福岡→青野原)
33) Bätz(ベッツ),Oskar:海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[製陶職人]。ウンタアーヴァイスバハ(Unterweissbach)出身。(944:福岡→名古屋)
34) Bauer(バウアー),Alfred:第2工機団・1等麺麭工。[河用砲艦チンタオ(Tsingtau)乗員]。ナウムブルク出身。(1854:丸亀→板東)
35) Bauer(バウアー),Wilhelm:第2工機団・後備2等焚火兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ハールツ山麓のゲルンローデ出身。(4628:大阪→似島)
36) Baumann(バウマン),Albert:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。妻シャルロッテ(Charlotte)は大戦終結まで、息子(12歳以下)と青島に留まった。大戦終結後は、青島就職既定者として日本国内で解放された。ヴェストファーレンのレーダ出身。(1849:丸亀→板東)
37) Bautz(バウツ),Karl:第3海兵大隊第2中隊・曹長。丸亀収容所では収容所当局から、先任准士官として第2中隊の班長に指名された。板東時代、4の先任准士官だった。ポーゼン出身。(1819:丸亀→板東)
38) Bechtolsheim(ベヒトルスハイム),W.Frhr.v.1881-)]:総督府参謀・海軍大尉(男爵)。通称マウヘンハイム(Mauchenheim)。ベヒトルスハイム男爵家には「習志野にて ホルツベルガーより」と刻まれた銀のマッチ入れ、豪華な日本の織物、習志野収容所で製作された男爵家の居城の木製模型が遺されている【星昌幸氏(習志野市教育委員会)の依頼を受けた生熊文氏による調査で判明。参照:『『習志野市史研究3』所載の「ドイツ捕虜調査のその後」(社会教育課星昌幸)】。バート・テルツ(Bad Töltz)出身。(859:福岡→習志野)
39) Beck(ベック),Hugo:第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。大戦終結後の19191226日、帰国船豊福丸で下記オスカール(Oskar)と同船でドイツに帰国した【『戦役俘虜ニ関スル書類』中の附表第三「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。ライン河畔ゼッキンゲン出身。(2488:名古屋)
40) Beck(ベック),Oskar:所属部隊不明・後備1等砲兵。大戦終結後の19191226日、帰国船豊福丸で上記フーゴー(Hugo)と同船でドイツに帰国した【前記「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。バーデン州のノルトハルテン(Nordhalten)出身。(4487:大阪→似島)
41) Beck(ベック),Walter:第3海兵大隊第6中隊・補充予備2等歩兵。ウラジオストックから応召か?大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、東京のJ.松方に勤めた。デユッセルドルフ出身。(2470:名古屋)
42) Becker(ベッカー),Josef:第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・2等砲手。[指物師]。ヴッパー河畔のヴィッパーフュルト(Wipperfürth)出身。(953:福岡→名古屋)
43) Becker(ベッカー),Otto1885-1995):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備兵曹。1912年、岡山の第六高等学校講師として招聘され来日。大戦勃発で応召して青島に赴いた。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。ドイツに帰国後、後にキール大学近代史の正教授を務めた。久留米時代の遺品として、収容所のミニチュアが遺されている【息子のディールク=エックハルト・ベッカー氏(Dr.Dierk-Eckhard Becker)がハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページ「www.tsingtau.info」の読者書き込み欄に、2003224日に寄せた記述より。なお、110歳という驚くべき長寿をまっとうしたことで、青島戦士の最後の生存者だったとみなすことができる】。ノイブランデンブルク県のマルヒョウ(Malchow)出身。(3240:熊本→久留米)
44) Behren(ベーレン),Johann:海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。大分時代の191667日、福岡のマイレンダー(Mailänder)に宛てて葉書を出した。葉書は大分の名勝吉野臥龍梅を写した絵葉書である。文面は次の通り簡単なもの。「聖霊降臨祭の挨拶を送ります。」なお、この葉書からマイレンダーが兵営の第6棟に居住していたことが判明した。【マイレンダーの項参照】。ライト(Rheydt)出身。(4340:熊本→大分→習志野)
45) Behrens(ベーレンス),Alfred:海軍砲兵中隊・1等機関兵曹。大戦終結後の19191226日、帰国船豊福丸で下記ハインリヒ(Heinrich)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのグリュックシュタット(Glückstadt)出身。(30:東京→習志野)
46) Behrens(ベーレンス),Heinrich:海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。大戦終結後の19191226日、帰国船豊福丸で上記アルフレート(Alfred)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。グリュックシュタット出身。(880:福岡→名古屋)
47) Behrendt(ベーレント),Karl:第3海兵大隊第4中隊・後備上等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有することから日本国内での居住を希望した。オーデル河畔のフランクフルト出身。(4328:熊本→大分→習志野)
48) Benck(ベンク),Cäsar:第2国民軍・階級不明。[ベンク・ウント・クレッチュマー商会Benck & Kretschmar)社長]。大阪時代の1915325日、ジームセン商会社長のヘフト(Hoeft)とともに陸軍省に宛てて請願書を提出した。それはディーデリヒセン商会社長等青島の大商人6名が、俘虜として送還される前、2ヶ月以上用務整理の期間を与えられたことから、自分たちにもその機会を与えるべく23ヶ月の青島帰還の許可を願うものであった【『欧受大日記』大正十一年一月より】。大戦終結後は、青島における就職既定者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(4478:大阪→似島)
49) Benedix(ベネディクス),Max:国民軍・階級不明。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、神戸のThomas,Thomasu商会に勤めた。ハンブルク出身。(4479:大阪→似島)
50) Bergner(ベルクナー),Hermann:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。[シュナーベル-ガウマー商会(Schnabel,Gaumer & Co.)漢口支店]。大戦終結して解放後は、蘭領印度のスラバヤに渡った。ゲーラ近郊のルーザン出身。(338:久留米→板東)
51) Berkling(ベルクリング),Otto:海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。[腸詰製造職人]。オシャースレーベン県のオットーレーベン出身。(908:福岡→習志野)
52) Berliner(ベルリーナー),Dr.Siegfried1884-1961)]:第3海兵大隊第7中隊・予備副曹長。[東京帝国大学法科大学教師]。丸亀時代、ベルリーナー夫人アンナ(Anna)は19152月中旬から半年間、丸亀市塩屋新浜の借家に居住して20回面会に訪れた。614日、夫人は雇った車夫に信書と食料品を差し入れさせ、ベルリーナーが所有の子犬を受け取らせた。このことにより翌15日、ベルリーナーは石井収容所長から、重謹慎10日の処罰を申し渡された。822日、ベルリーナー夫人はアメリカに赴くために丸亀を引き揚げた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。なお、監視の目を盗んで、丸亀に収容されていた俘虜の妻の手を経て、告発文書をアメリカ経由でドイツ本国に送るという事件が発生したことが、さきごろ高橋輝和岡山大教授の研究で明らかになった。この俘虜の妻はベルリーナー夫人と推定される【上記の出来事について及びベルリーナーとその夫人については、高橋教授の論文「丸亀俘虜収容所からの告発文書」に詳述されている。それによれば、夫妻はナチスが政権を掌握した後アメリカに亡命した。夫人もベルリーナー同様にアメリカの大学で教授となって心理学の講座を担当し、さらに日本に関する著作も出版している。夫妻ともにユダヤ系ドイツ人であった】。また、夫人が女中と住まいした借家は、20033月上旬まで存在した【「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページ(http://homepage3.nifty.com/akagaki/)中のメール会報第1号を参照】。ハノーファー出身。(1841:丸亀→板東)
53) Berndes(ベルンデス),Ferdinand:予備榴弾砲兵隊・後備伍長。[ジームセンSiemssen & Co.)上海支店]。ハンブルク出身。(3217:熊本→久留米→板東)
54) Berndt(ベルント),Alfons-1919)]:海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。19161018日、グラースマッハー(Glasmacher)等68名とともに、福岡から大分に移送された。1919131日、スペイン風邪により習志野で死亡。ブレスラウ出身。(876:福岡→大分→習志野)
55) Bernhardi(ベルンハルディ),Friedrich von1886-1948)]:海軍東アジア分遣隊・陸軍少尉。[商人]。ベルンハルディはヴォルフガング・アードルフ・ベルンハルディ(Wolfgang Adolf Bernhardi)の息子として18861017日ベルリンに生れた。1900214日、であるFriedrich von Bernhardi1849-1930)の養子に迎えられ、貴族となった。伯父であり義父のベルンハルディは、1849922日、ロシアのサンクトペテルブルクに生まれた。生家はプロイセンの貴族であった。1898年から1901年まで、参謀本部戦史部長を務めた。1912年に発表した『ドイツと来るべき戦争』(Deutschland und der nächste Krieg)は、欧州戦争を不可避として、それどころか必然としたことこから物議を醸し、外国では戦争を煽り立てる書物と見做された。1900年、甥になる弟の息子を養子にした。ベルンハルディ少尉は1907年から1909年にかけて、南西アフリカのドイツ植民地で起きたヘレロ族の反乱に、歩兵第26連隊付きとして参加。しかしベルンハルディは1910年、中国で商人となる。1914年、青島総督府参謀本部に加わり青島防御に参加した。大戦終結して解放後、南米チリで商人となり、19255Benigna Emilia Elisa Schwobと結婚した。その妻との間に4人の息子をもうけたが、58歳でサンチャゴに没した。一番下の息子Diedrich von Bernhardi Schwob氏は現在チリで健在である。日本時代の資料等は全て洪水で失われたとのことである【ベルンハルディ少尉の項は、南米チリに現地調査に赴かれたディルク・ファン・デア・ラーン(Dirk van der Laan)氏からの教示による】。ベルリン出身。(932:福岡→習志野)
56) Bernick(ベルニック),Gustav:第3海兵大隊第4中隊・後備伍長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。マグデブルク出身。(3200:熊本→久留米)
57) Beushausen(ボイスハウゼン),Paul:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ヴェント商会(Wendt & Co.)香港支店]。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのシングル(ハンディ付き)Bクラスで1位になり、ダブルスでもシュタインフェルト(Steinfeld)と組んでBクラス1位になった。ロックム(Loccum)出身。(2797:松山→板東)
58) Beyer(バイアー),Fritz:海軍膠州砲兵隊・砲兵伍長。カール・クリューガー(Karl Krüger)によれば、絶えず本を読んでいる読書家だった。もちろん娯楽本などではなかったとのことである。バント(Bant)出身。(907:福岡→習志野)
59) Beykirch(バイキルヒ),Emil:第3海兵大隊第1中隊・後備伍長。[商人]。妻マリー(Marie)は大戦終結まで、息子と娘(ともに12歳以下)の三人で青島に留まった。大戦終結後、青島で「バイキルヒ商会」を経営して、輸入業を営んだ。ザクセンのアーデルシュテット出身。(331:久留米→板東)
60) Bialucha(ビアルハ),Arthur:海軍膠州砲兵隊第4中隊・後備1等砲兵。19161018日、マイレンダー(Mailänder)等68名とともに、福岡から大分に移送された。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ザクセンのアルンスドルフ(Arnsdorf)出身。(875:福岡→大分→習志野)
61) Bianchi(ビアンキ),Leone de:巡洋艦皇后エリーザベト(Kaiserin Elisabeth)乗員・4等軍楽下士。1916109日、リッチ(Rizzi)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなく宣誓解放された。イストリアのチッタノーヴァ出身。(2147:姫路→青野原→丸亀→板東)
62) Bieber(ビーバー),Albert:第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代の191854日、シラーの『ヴァレンシュタインの陣営』上演に際して、純粋で誠実な曹長役を感動的に演じた。後に宣誓解放された。エルザスのロール出身。(2782:松山→板東)
63) Bieber(ビーバー),Arthur]:海軍野戦砲兵隊・予備陸軍少尉。〔第2中間地掃射砲台指揮官〕。1914121日付け「九州日日新聞」の記事によると、ビーバー予備少尉はハンブルクのコーヒー一手販売店主で、家には巨万の富があるとのことだった。新婚旅行先は日本だった。横浜、東京、日光から箱根を巡って温泉に浸かり、京都、奈良、広島と周遊したとのことである【『新聞集成 大正編年史』大正三年度版下、787頁】。ハンブルク出身。(3215:熊本→久留米)
64) Biedermann(ビーダーマン),Paul]:第3海兵大隊第1中隊・予備2等歩兵。[インド・カルカッタのグランドホテル]。ツヴィッカウ出身。(355:久留米→板東)
65) Bien(ビーン),Georg:総督府・2等機関兵曹。妻ケーテ(Käte)は大戦終結まで、こども二人と上海で暮らした。マイン河畔のフランクフルト出身。(4483:大阪→似島)
66) Bien(ビーン),Ludwig:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。当時15歳の少年だった。大正3124日付けの新聞記事(『朝日新聞〈復刻版〉』)によると、両親と弟二人の家族で久しく前から青島に居住し、ビーンは自動車の運転手として軍の部隊に弾薬運搬に携わったとのことである。前線への任務では日本軍とピストルで銃撃戦も体験、最後は独亜銀行の建物に隠れていたところを捕まった。上記ゲーオルク・ビーン(Georg Bien)は父親である。愛嬌があって可愛らしいビーン少年は、将校達が開け閉ての際につい破ってしまう障子の繕い役に専ら従事した。時に将校から煙草を貰って喫うという噂が立ち、林田収容所長から叱られたりした【『新聞集成 大正編年史』大正三年度版下、788頁】。マイン河畔のフランクフルト出身。(2468:名古屋)
67) Bier(ビーア),Eduard1886-)]:第3海兵大隊第3中隊・予備陸軍少尉。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、1919610日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、61?点を獲得して第8位になった。ザールラントのザールルゥイ(Saarlouis)出身。(326:久留米)
68) Biermann(ビーアマン),Johannes:青島船渠・軽歩兵。妻へレーネ(Helene)は大戦終結まで青島に留まった。特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。オルデンブルクのイェーファ出身。(4480:大阪→似島)
69) Billmeyer(ビルマイアー),Otto Kurt:海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備2等機関兵曹。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本で解放された。イェーナ出身。(1707:静岡→習志野)
70) Birras(ビラス),Gustav:海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。徳島時代の1916130日、ルフ(Ruff)指導による寄席「ミモザ」(Mimosa)の第2回上演会が開催された。その折りビラスは美しくかつ力強いテノールを聴かせた【『徳島新報』(Tokushima Anzeiger)第19号(1916130日発行)より】。ヴェストファーレンのハーゲン出身。(4127:大阪→徳島→板東)
71) Biston(ビストン),Adolf:第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。『ドイツ・トゥルネン新聞(Deutsche Turn-Zeitung)』の1916127日付け49号に、「日本の久留米収容所のドイツ・トゥルネンクラブ」と題された記事の中で、ビストンからの写真掲載についての報告が載った【山田理恵『俘虜生活とスポーツ』145頁】。デュッセルドルフ出身。(375:久留米)
72) Blanke(ブランケ),Fritz:海軍膠州砲兵隊・砲兵軍曹長。その「日記」がフライブルクの連邦文書館軍事資料室に所蔵されている【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』308頁】。ラウエンシュタイン(Lauenstein)出身。(903:福岡→大分→習志野)
73) Blochberger(ブロッホベルガー),Max:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、船本牧舎(いわゆる「ドイツ牧舎」)【クラウスニッツァー(Claussnitzer)の項を参照】で食肉加工の技術指導を行った。なお、このブロッホベルガーは『俘虜名簿』では「Blocksberg」と綴られている。従来、日本の文献では「ブロフツ・ベーアゲーア」や「ヘーアゲーア」(『板東ドイツ人捕虜物語』140頁)等の表記で紹介されていたため、『俘虜名簿』では推定・特定が困難な人物名だった。今回、ディルク・ファン・デア・ラーン(Dirk van der Laan)氏の推定によってほぼ確定することが出来た【松尾名誉教授からの教示による】。なお、板東収容所で1919年に印刷・発行された『故国住所録』《Heimatsadressen der Kriegsgefangenen im Lager Bando》では、「Blochberger」の綴りである。テューリンゲンのゴルンドルフ出身。(1834:丸亀→板東)
74) Blomberg(ブロムベルク),Wilhelm]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[鷲屋薬局Adler=Drogerie & Co.)ウラジオストック支店]。松山時代、演劇上演に際しては、面や衣装の制作・手配に貢献した。グリューフィウス作のバロック喜劇『ペーター・スクヴェンツ』に出演した役者たちを写した写真が、ケーバライン(Köberlein)の遺品中にあるのが知られている【アンドレーアス・メッテンライター『極東で俘虜となる』(Mettenleiter,Andreas:Gefangen in Fernost58頁】。ケーバラインの友人であった。出身地不明(『俘虜名簿』ではモスクワ)。(2795:松山→板東)
75) Blösse(ブレーセ),Johannes:河用砲艦チンタオ乗員・2等焚火兵。久留米時代、19196月から日本製粉株式会社久留米支店に、蒸気機関火夫の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。ホルシュタインのレリンゲン出身。(3245:熊本→久留米)
76) Bochnig(ボホニヒ),Gustav:海軍膠州砲兵隊第5中隊・砲兵伍長。徳島時代の1915420日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したボホニヒは4組(出場者総数21名)の内の第2組に割り振られたが4位に終わり、本戦のB級進出に留まった【『徳島新報』1915425日第4号より】。シュレージエンのカッテルン(Kattern)出身。(4128:大阪→徳島→板東)
77) Bock(ボック),Peter:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。19842月の手紙によると(当時92歳)、板東では陸上競技とフェンシングの協会に加入し、金属加工の講座で勉強したとのことである。【『「第九」の里―ドイツ村』159頁】。ケルン出身。(1839:丸亀→板東)
78) Bock(ボック),Richard:海軍砲兵中隊・後備2等兵曹。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した。ブレスラウ出身。(4336:熊本→大分→習志野)
79) Boda(ボーダ),Karl:巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンガリーのバロート出身。(3247:熊本→久留米→習志野)
80) Bodecker(ボーデカー),Karl Friedrich Georg von1875-1957)]:砲艦ティーガー(Tieger)艦長・海軍少佐。大戦終結後の1920127日、ボーデカーを輸送指揮官とする帰還船「ハドソン丸」は、最後の俘虜600名近くが乗船して神戸を出発し、2月初め上海で水雷艇S90乗組員を収容して、42日ブレーメンに到着した。キール出身。(4484:大阪→似島→習志野)
81) Bodenstedt(ボーデンシュテット),Hermann:海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備砲兵伍長。習志野時代、一時期クリューガー(Karl Krüger)と同じ建物で部屋も一緒だった。アルコールにお金をつぎ込むことが多かった。大戦終結して解放後、アルゼンチンに渡った。ブレーメン出身。(882:福岡→習志野)
82) Böhm(ベーム),Carl:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等麺麭工。[パン職人]。ヴュルテンベルクのボプフィンゲン(Bopfingen)。(900:福岡→久留米)
83) Böhm(ベーム),Karl:第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。板東時代、タパタオ30号小屋でグヌシュケ(Gnuschke)と配管及び機械工の仕事を営んだ。また、191852日、東久邇稔彦王が四国旅行で徳島に立ち寄った際、急遽撫養(むや)で俘虜による作品展示会が特別に開催された。その折ボーンはグヌシュケとともにパイプを制作出品し、それが買い上げられた。他にヘフト、クヴィンテンの作品も買い上げられた。大戦終結後はポーランド国籍となり宣誓解放された。エッセン出身。(1840:丸亀→板東)
84) Böhm(ベーム),Paul1887-1968):第3海兵大隊第4中隊・後備伍長。フライベルクに生まれ、同地の由緒ある鉱山大学に学び、1907年軍隊に入った。ドレスデンに没した。【ベームに関する情報は、生没年から出身地(『俘虜名簿』のフライブルクは誤記)等に至るまで、松尾展成『ザクセン王国出身の青島捕虜』152頁による】。ザクセンのフライベルク出身。(3199:熊本→久留米)
85) Böhme(ベーメ),Karl:総督府・海軍中主計(中尉相当)。妻マリー(Marie)は大戦終結まで息子と青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として、日本国内で解放された。ベルリン出身。(381:久留米)
86) Boehmer(ベーマー),Alwin]:海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備1等機関砲兵補。徳島時代の1915420日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したベーマーは4組(出場者総数21名)の内の第1組に割り振られたが4位に終わり、本戦のB級進出に留まった【『徳島新報』1915425日第4号より】。大戦終結してかいほうごは、蘭領印度に渡った。エルベ河畔のハルブルク出身。(4130:大阪→徳島→板東)
87) Böhmer(ベーマー),Heinrich:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[上海医療技術学校(Medizin-Ingenieur-Schule)]。メレ近郊のノイキルヒェン出身。(1847:丸亀→板東)
88) Bohn(ボーン),Friedrich:所属部隊・階級不明。[巡査]。妻アンナ(Anna)は大戦終結まで、子ども(12歳以下)と二人上海で暮らした。ハイデルベルク近郊のグロームバッハ出身。(2815:松山→板東)
89) Bolland(ボラント),Heinrich:第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備伍長。大戦終結後は、青島における就職既定者として日本国内で解放された。ブレーメン出身。(2477:名古屋)
90) Boemer(ベーマー),Friedirch W.:海軍野戦砲兵隊・後備上等兵。大阪収容所は1917219日に閉鎖されたが、同年38日時点で大阪衛戍病院に入院していた。モーゼル河畔のアルフ出身。(4471:大阪→似島)
91) Bomsdorf(ボムスドルフ),Johann]:第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。[龍海鉄道Lung Hai Eisenb.)南京支店]。ローザ(Lohsa)出身。(2799:松山→板東)
92) Bonin(ボーニン),Gustav:海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。習志野時代の19167月、ハインリヒ・ハム(Hamm)とギターの製作を行った。ハムの日記によれば二人は、729日にギターの指板のフレット間隔を計算している。【『習志野市史研究3』所載の「ハインリヒ・ハムの日記から」(カール・ハム編/生熊文訳)より】。ポーゼンのシュナイデミュール出身。(27:東京→習志野)
93) Bonk(ボンク),Paul:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等水兵。[パン職人]。久留米時代、191810月から久留米市通町の本村治兵衛工場で、麺麭及び洋菓子製造の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、東京の日清製粉に勤めた。アイスレーベン出身。(897:福岡→久留米)
94) Borcherding(ボルヒャーディング),Wilhelm:第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。[メルヒャースMelchers & Co.)上海支店]。ブレーメン出身。(2798:松山→板東)
95) Bormann(ボルマン),Karl:第3海兵大隊第1中隊・予備伍長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。シュヴェーリン出身。(329:久留米)
96) Born(ボルン),Carl:海軍野戦砲兵隊・予備1等砲兵。[皮革業]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、神戸のカルロヴィッツ商会に勤めた。ラーン河畔のナッサウ(Nassau)出身。(961:福岡→名古屋)
97) Bornmann(ボルンマン),Bernhard:海軍砲兵中隊・1等焚火兵。大戦終結後、第4次送還船で下記エーミール(Emil)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。ハンブルク出身。(3234:熊本→久留米→板東)
98) Bornmann(ボルンマン),Emil:国民軍・上等歩兵。大戦終結後、第4次送還船で上記ベルンハルト(Bernhard)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。ハンブルク出身。(2144:姫路→青野原)
99) Boerstling(ベルストリング),Richard:第3海兵大隊第1中隊・予備伍長。満州のハルピンから応召か?久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、ベルストリングは191961日に開催されたホッケーの試合に出場したが、ビューラー(Buehrer)と同じような失策をした。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。出身地不明(『俘虜名簿』では満州のハルピン)(330:久留米)
100) Boese(ベーゼ),August:第3海兵大隊第6中隊・補充予備2等歩兵。小樽から応召か?大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ヴェストファーレンのヴァンネ(Wanne)出身。(2469:名古屋)
101) Both(ボート),Henry:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カール・ローデ商会Carl Rohde & Co.,Kobe)神戸支店]。アルトナ出身。(2796:松山→板東)
102) Both(ボート),Josef:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。丸亀時代の19161123日、エーラート(Ehlert)と逃亡を企てて、懲役16ヶ月の刑を受けて高松監獄に収監された。【なお、『俘虜名簿』ではボートの所属部隊として、海軍野戦砲兵隊第2中隊となっているが、上記の誤記である。海軍野戦砲兵隊は1中隊のみの構成であった】。マイエン(Mayen)出身。(1832:丸亀→板東)
103) Bothe(ボーテ),Carl:総督府・1等木工。似島時代の19193月、広島物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に当って、アルブレヒト(Albrecht)、ハシュテット(Hastedt)、クット(Kutt)リースフェルト(Liessfeldt)及びヴェントラー(Wendler)とともに通訳を務めた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。リューベック出身。(3862:大阪→似島)
104) Boethke(ベトケ),Paul1872-1964)]:総督府参謀本部幕僚・海軍中佐。〔砲兵部長〕。大戦終結後の192015日、ベトケを輸送指揮官とする帰還船「ヒマラヤ丸」は、板東7名、習志野9名、名古屋90名、似島40名、久留米812名の計958名が乗船して神戸を出発し、33日に本国に到着した。ヴァイクセル川(今日はポーランドのヴィスラ川)右岸のトルン出身。(858:福岡→習志野)
105) Böving(ベーフィング),Richard]:第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[クンスト-アルバース商会ウラジオストック支店]。ブレーメン出身。(2791:松山→板東)
106) Brandau(ブランダウ),Alfred:海軍膠州砲兵隊第5中隊・海軍少主計補。板東時代にブランダウ演劇グループを組織した。191844日から6日の三日間クライストの喜劇『壊れ甕』を上演し、その際に上演の監督を務めた。ワイマール出身。(4135:大阪→徳島→板東)
107) Brandt(ブラント),Friedrich]:第3海兵大隊参謀本部・1等水兵。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのダブルスで、デーゼブロック伍長と組んでAクラス1位になった【『バラッケ』第2巻、211頁】。ヘルゴラント島出身。(2817:松山→板東)
108) Bredebusch(ブレーデブッシュ),Karl August:第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。[カッセラ済南支店]。板東時代、『日刊電報通信』(Täglicher Telegrammdienst Bando、略称TTD.)に掲載するニュースの整理に当たり、やがて19188月以降はブレーデブッシュの編集の下で、様々なニュースが追加されて日々の電報を補足するという通信サービスが始まった【『バラッケ』第2巻、82頁】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(2801:松山→板東)
109) Breidenassel(ブライデナッセル),Joseph:第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、第23室でビールを販売した。大戦終結して解放後は、蘭領印度のメダンに渡った。ケルン出身。(1823:丸亀→板東)
110) Bremser(ブレムザー),Willy:海軍砲兵中隊・後備兵曹。[商会事務見習]。妻エリーゼ(Elise)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した。ヴィースバーデン出身。(4337:熊本→大分→習志野)
111) Brinker(ブリンカー),Franz:第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。板東時代、第7棟の6室でビールとタバコを販売した。ヴァルトロプ(Waltrop)出身。(2778:松山→板東)
112) Brobecker(ブロベッカー),Huber:海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。大阪時代の1915215日、静岡収容所で俘虜による自炊を行うことになったことから、料理の心得のあるブロベッカーは、アウグスト(August)とともに静岡収容所へ移送された【『静岡民友新聞』記事より;静岡県袋井市在住の内野健一氏の教示による】。静岡時代、札の辻八木麺麭店に指導に出かけた【「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページ中の、「16の収容所」中の静岡収容所の項より】。アーヘン出身。(3850:大阪→静岡→習志野)
113) Brodnitzki(ブロートニツキ),Paul:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、第47室でハーベレヒト(Haberecht)及びヘッカー(Höcker)とゴミ処理会社を営んだ。ドルトムント出身。(1836:丸亀→板東)
114) Bronner(ブロンナー),Johann:海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代の1916130日、ルフ(Ruff)指導による寄席「ミモザ」の第2回上演会が開催された。その折りブロンナーはケラー(Keller)、シルト(Schild)及びローレンツ(Lorentz)とともにチロルのダンスと歌を披露した。彼らの即興歌と靴底を叩くダンスは喝采を博した【『徳島新報』第19号(1916130日発行)より】。板東時代、第31室でビール販売を営んだ。バーデンのブルフザール(Bruchsal)出身。(4122:大阪→徳島→板東)
115) Brosseit(ブロサイト),Otto:海軍膠州砲兵隊第5中隊・砲兵伍長。習志野時代のクリューガー(Karl Krüger)によれば、実にちゃっかりした若者で、郷里の大勢の娘達と文通し、それを活かして収容所内でも、贈り物の小包を一番沢山貰っていた。習志野収容所での映画上映を軌道に乗せた人物でもある【『ポツダムから青島へ』210頁】。東プロイセンのラーギング(Raging)出身。(881:福岡→習志野)
116) Brück(ブリュック),Heinrich:第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。板東時代の191854日、『ヴァレンシュタインの陣営』上演に際して、クレーマー(Kremer)とともに狩人を軽快に演じた。ラインラントのフェルベルト(Velberlt)出身。(2780:松山→板東)
117) Bruck(ブルック),Hugo von:第3海兵大隊工兵中隊・後備伍長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ラインラントのヴァンスハイム出身。(4332:熊本→大分→習志野)
118) Brügner(ブリューグナー),Arthur:海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備2等歩兵。静岡時代の1917217日から、静岡工業試験場に出向き、指物・玩具の製作指導をし、19日(月曜)から「方七寸位の箱の製作に着手した」【『静岡新報』(大正6220日付記事;内野健一氏の教示による)、及び「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページの、「16の収容所」中の静岡収容所の項より】。ライプチヒ出身。(1711:静岡→習志野)
119) Brundig(ブルンディヒ),Otto:第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。板東時代、1917717日に発足した「収容所保険組合」に工兵中隊代表となって組合の運営に従事した。マグデブルク出身。(2805:松山→板東)
120) Brunni(ブルンニ),Angello:巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等水兵。1916109日、ツリアーニ(Zulliani)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなく宣誓解放された。イストリアのロヴィンゴ出身。(2159:姫路→青野原→丸亀→板東)
121) Brüsehof(ブリュゼホーフ),Adolf:海軍膠州砲兵隊・海軍少主計。大戦終結後、パッツィヒ(Patzig)中尉指揮の俘虜帰還船ハドソン丸の主計を務めた。エムス河畔のリンゲン出身。(3842:大阪→似島)
122) Büch(ビューヒ),Ludwig1890-1960):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。青島時代に青島周辺の林の中で、右手に持った銃を下ろして立つ写真、並びに戦友と二人が写った写真(場所・日付不明)が遺されている【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。板東時代の191946日、習志野のマイレンダーに宛てて葉書を出した。葉書は徳島市東新町の光景写した絵葉書である。【マイレンダー(Mailänder)の項参照】。ラインラントのホスターホーフ出身。(2808:松山→板東)
123) Buchenau(ブーヘナウ),Paul:国民軍・階級不明。大阪時代手紙を出す際に、カタカナで「ブヘナウ」と彫った楕円の判子を使用した。大阪収容所は1917219日に閉鎖されたが、同年38日時点で大阪衛戍病院に入院していた。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ラインラントのレネップ(Lenepp)出身。(4474:大阪→似島)
124) Budich(ブディヒ),Georg:第3海兵大隊第3中隊・伍長。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、1919610日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、61?点を獲得して第8位になった。ライジッツのゾーラウ(Sorau)出身。(358:久留米)
125) Buehrer(ビューラー),Alfred]:第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、ビューラーは191961日に開催されたホッケーの試合に出場したが、ベルストリング(Boerstling)と同じような失策をした。19193月に発行された『久留米詩文集』(Dichtungen von Kriegsgefangenen des Lagers Kurume-Japan)の図案・装丁を担当した。プフォルツハイム出身。(336:久留米)
126) Bunge(ブンゲ),Max](1881-1964):第3海兵大隊第7中隊・曹長。〔第2歩兵堡塁〕。[独中大学Deutsch-Chinesiche Hochschule)管理官]。1914年、『膠州の1898年から1901年。一兵卒の回想録―海軍歩兵第3大隊の平時と戦時』(Kiautschou 1899/1901. Erinnerungen eines ehemaligen Seesoldaten.In Kriegs- und Friedenzeiten beim V. Seebataillon)を著し、青島のアードルフ・ハウプト(Adolf Haupt)印刷所から出版した。膠州総督府に寄贈されたヴィルヘルム・コーン叢書中には、この本が30冊まとめて収蔵されていた。他の蔵書にも複数単位で見受けられることから、青島ドイツ人社会で広く読まれたものと推測される【参照:『鹵獲(ろかく)書籍及図面目録』、へ‐19頁等】。この回想録によるとブンゲは、189811月にキールで海軍歩兵第3大隊に2年勤務の志願兵として応募した。新聞各紙に新設の上記大隊への募集が行われていたのであった。ヴィルヘルムスハーフェンで数ヶ月の訓練を受けた後、189932日に輸送船ダルムシュタットで青島に向かい、411日到着した。青島では4中隊編成の第4中隊に属した。19005月末、義和団により騒乱状態の天津へ派遣された。天津に着く前に太沽要塞攻防に従事、後に天津での戦闘に参加し、69日青島へ帰還した。やがて膠州租借地周辺、特に高密山東鉄道建設を阻止しようとする義和団や農民等が荒れ狂うと、青島の海軍歩兵大隊に、4中隊の各中隊から人員が出されて、第5中隊として騎兵中隊が編成された。ブンゲはその騎兵中隊所属となる。ブンゲはドイツとの話し合いを拒む高密管轄の官人が居住する高密城の城壁をよじ登って、城門を開ける功績を挙げた。高密管轄の官人との話し合いには、総督府の通訳官シュラマイアーが当った。鉄道の建設工事を護るために、ドイツ守備隊の高密駐屯を認めさせる交渉であった。2年の兵役義務を果たしたブンゲはいったん帰国するがやがて青島に戻り、1908年上海でグレーテ(Grete)と結婚した。丸亀収容所では収容所当局から、古参の准士官として第7中隊の班長に指名された。収容されてまもない19141118日、ランセル(Lancelle)大尉とともに収容所当局に4項目の要求を申し入れた。それは、1)食事ノ量ヲ増スコト 2)麦酒(ビール)ヲ飲マシムルコト 3)酒保ヲ開クコト 4)将校ニハ散歩ノ自由ヲ許スコト、の4項目であった【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。妻グレーテは大戦終結まで上海で暮らした。大戦終結してドイツに帰国後、1922年に再び中国の上海へ赴き、1926年にその地で娘のエルゼ(Else)が生まれた。1928年ドイツに戻り、1932年から45年まで、郷里ハイリゲンハーフェンの町長を務めた。1945年以後は、ハンブルクの会社に勤め、196436日郷里に没した。ホルシュタインのハイリゲンハーフェン出身。(1842:丸亀→板東)
127) Buroh(ブロー),Christian:海軍膠州砲兵隊・後備砲兵軍曹長。[商会店員]。19161018日、ノイマイアー(Neumaier)等68名とともに、福岡から大分に移送された。妻アルヴィーネ(Alwine)は大戦終結まで青島に留まった。キール出身。(904:福岡→大分→習志野)
128) Busch(ブッシュ),Johannes:第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。[カルロヴィッツ青島支店]。熊本時代の1915124日、ブッシュはラッペンエッカー(Rappenecker)、ツァイス(Zeiss)及びある准士官の四人で収容所から脱走した。夜の内に海岸へ20キロの地点まで進んだ。翌朝早くに同罪となることを恐れたシューマン(Paul Schumann)の報告で脱走が分かり、四人はボートで海に漕ぎ出す寸前で警察官に逮捕された。荒縄で繋がって縛られて収容所に連れ戻され、やがて軍法会議で一年の禁固に処せられた。拘禁中は赤茶色の囚人服を着せられた。191511月、大正天皇の即位による恩赦でクリスマスに釈放されて久留米収容所に送られた【Meller,Adolf:Fluchtversuche von Tsingtau-Verteidigern aus japanischem Gewahrsam im Ersten Weltkrieg.より】。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。シュヴェーリン出身。(3197:熊本→久留米→板東)
129) Bussiek(ブシーク),Gottlieb:第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、1919610日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、63?点を獲得して第6位になった。西プロイセンのリュベッケ出身。(335:久留米)
130) Büttner(ビュットナー),Karl:海軍東アジア分遣隊・予備副曹長。久留米時代の1919年、カール・フォークト作曲『四つの歌』の内の「到着」を歌った。トリーア出身。(933:福岡→久留米)
131) Buzmann(ブーツマン),Franz:海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。板東時代、収容所正門を入って左脇にある衛兵所横の小屋に詰めた。アーメスドルフ出身。(4129:大阪→徳島→板東)
132) Christiansen(クリスチアンセン),Christian:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。[船員]。デンマーク人。クリューガー(K.Krüger)によると、習志野時代は人とはあまり付き合わず、一人閉じこもっていた。ドイツ人に対しては、良い感情を抱いていなかったとのことである。グラーフェンシュタイン出身。(965:福岡→習志野)
133) Christiansen(クリスチアンセン),Friedrich:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。大戦終結後は、青島における就職既定者として日本国内で解放された。シュレースヴィヒのトライア(Treia)出身。(1858:丸亀→板東)
134) Claasen(クラーゼン),Hermann]:第3海兵大隊第7中隊・後備伍長。[メルヒャース香港支店]。丸亀時代の1916113日付けの葉書がクラーゼンに届いた。葉書には、立太子礼の記念切手15厘と3銭の二種が貼られている。差出人及び文面は不明【高松市在住の郵趣家三木充氏所蔵品より】。板東時代の1918421日、フリッシュ(Frisch)及びヴェーゲナー(Wegener)と共同で「歌の夕べ」を開催して仲間達に感動を与えた。ブレーメン出身。(1857:丸亀→板東)
135) Clauss(クラウス),Kurt:第3海兵大隊第5中隊・軍曹。板東時代、第7棟の6室でマッサージ屋を営んだ。1960年ごろ、「チンタオ戦友会」に出席した。エールツ山地のオルベルンハウ(Olbernhau)出身。(2819:松山→板東)
136) Claussnitzer(クラウスニッツァー),Franz1892-1955)]:第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。[搾乳職人]。1892721日、ザクセンのフライベルク市ブラントに生まれた。丸亀時代の19161016日、アルバース(Albers)、デーゼブロック(Desebrock)及びヒンツ(Hinz)の四人で相互扶助を目的とする収容所保険組合を結成した。これが後に松山、徳島の俘虜達と合流した板東収容所での、大規模な健康保険組合のモデルとなった【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』109頁】。板東時代のクラウスニッツァーに関しては、富田酪農場での勤務成績優良を証明する、高木大尉署名・捺印の1919812日付けの証明書及び、富田久三郎、富田酪農場の松本清一場長(獣医)、船本宇太郎飼育係(獣医)の三名による1919910日付けの感謝状が残されている。後者には1225日付けの諏訪邦彦大尉の署名も記され、銀盃が感謝の印に贈られたことが明記されている。それらによると、クラウスニッツァーは19177月から板東収容所近くの富田酪農場に牛・豚の飼育係として雇用され、搾乳に従事した。松本、船本の両名は、予備8A等獣医の肩書きが付されている。大戦終結してドイツに帰国後も、一貫して酪農・搾乳の仕事に従事した。1934930日付けでベルリンの帝国農業経営組合から、クラウスニッツァーのライプチヒ農業経営組合での指導的な働きに対する証明書が遺されている。それによると、1934115日から930日まで、ライプチヒの同協会で指導等に当ったと思われる。また1938318日付けで、ライプチヒの地区生産者協会と地区農業組合による、板東で発行された上記二通の証明書を一通に合わせた書類を追認する形での証明書も遺されている。1940年クラウスニッツァーは、ベルリンの家畜情報誌『飼育と繁殖』の発行元に、青島及び俘虜時代の回想録を送ったことを証明する記録が現存している。第一部と第二部に分かれていて、合わせて45ページになる分量であった。しかしそれは印刷されることなく、手稿も散逸したと思われる【『富田製薬百年のあゆみ』87-91頁及びクラウスニッツァーの遺族である次女と孫娘(長男の娘)から資料の提供を受けた松尾名誉教授からの教示による。また、クラウスニッツァーについては、松尾名誉教授による詳細な論考「「ドイツ牧舎」(徳島板東)指導者クラウスニッツァーの生涯」がある】。ザクセンのブラント出身。(1855:丸亀→板東)
137) Colbow(コルボフ),Otto:海軍砲兵中隊・2等兵曹。東京及び習志野時代、ハインリヒ・ハム(H.Hamm)の日記によると、コルボフはハムとともに台所での仕事に従事した。習志野では、将校のための台所仕事をもっぱら行った【『習志野市史研究3』所載の「ハインリヒ・ハムの日記から」より】。シェーンベルク出身。(44:東京→習志野)
138) Cortum(コルトゥム),Albert1889-1970):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[ガレルス-ベルナー(Garrels,Börner & Co.)漢口支店]。1960年ごろ、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(2820:松山→板東)
139) Costenoble(コステノーブレ),Hermann von:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[リヒター商会(Richter & Co.)マニラ支店]。イェーナ出身。(2821:松山→板東)
140) Cravatzo(クラヴァッツォ),Peter1893-1919)]:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、第34室で洗濯屋を営んだ。ケルン出身。(1856:丸亀→板東)
141) Dahle(ダ−レ),Ernst]:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[シュヴァルツコップF.Schwarzkopf & Co.)青島支店]。キール出身。(1870:丸亀→板東)
142) Dahm(ダーム),Hans Wilhelm]:第3海兵大隊第6中隊・予備士官候補生。チリのプンタ・アレナス(Punta-Arenas)から応召か?板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのシングル(ハンディ付き)Aクラスで1位になった【『バラッケ』第2巻、211頁】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハーナウ出身。(2825:松山→板東)
143) Daniels(ダニエルス),Kurt]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[山東鉱山会社Die Schantung-Bergbau-Gesellschaft)上海支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(2826:松山→板東)
144) Danielsen(ダニエルセン),Friedrich Julius1885-):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジームセン香港支店]。フレンスブルク出身。(2830:松山→板東)
145) Daudert(ダウデルト),Arthur]:第3海兵大隊・上等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。【『俘虜名簿』では「Dandert」になっているが間違いである】ボワイェ出身。(4344:熊本→大分→習志野)
146) Decker(デッカー),Otto:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代の1917112日、警邏中の川島上等兵に暴行を加えて営倉に入れられた。ヴュルテンブルクのエーニンゲン・ウンターアハルム出身。(1863:丸亀→板東)
147) Dehio(デヒオ),Gottfried E.:海軍東アジア分遣隊第3中隊・副曹長。父親は著名な美術史家で、シュトラースブルク大学の教授も務めたゲーオルク・デヒオ(Georg Dehio,1850-1932)。大戦終結後は、オランダ領ジャワの官吏になった。シュトラースブルク出身。(4345:熊本→大分→習志野)
148) Desbarats(デスバラーツ),Max:国民軍・上等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ドレスデン出身。(2169:姫路→青野原)
149) Descovick(デスコヴィック),Vincenz:巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等甲板下士。青野原時代の191683日付け書類によると、隔離を要する俘虜とされた【『俘虜ニ関スル書類』より】。1916109日、フラウジン(Frausin)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなく宣誓解放された。アドリア海東岸のダルマチア出身。(2175:姫路→青野原→丸亀→板東)
150) Desebrock(デーゼブロック),Hermann]:第3海兵大隊第2中隊・後備伍長。[カルロヴィッツ上海支店]。丸亀時代の19161016日、アルバース(Albers)、クラウスニッツァー(Claussnitzer)及びヒンツ(Hinz)の四人で相互扶助を目的とする収容所保険組合を結成した。これが後に松山、徳島の俘虜達と合流した板東収容所での、大規模な健康保険組合のモデルとなった。板東時代もアルバースとともに収容所保険組合に加わり、第2中隊代表理事を務めた。また、1918年春のテニス・トーナメントのダブルスで、ブラント(Brandt1等水兵と組んでAクラス1位になった【『バラッケ』第2巻、211頁】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(1859:丸亀→板東)
151) Dessel(デッセル),Adolf:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、第43室で仕立屋を営んだ。ヴェストファーレンのアンネン出身。(1865:丸亀→板東)
152) Dettmer(デットマー),Wilhelm:海軍膠州砲兵隊第3中隊・掌砲兵曹長。大阪時代、日本側の意向に応えて収容所内の意思疎通に努め、怠慢や不服従の俘虜を報告し、処罰するように要求したりもした【『戦役俘虜ニ関スル書類』より】。妻マリー(Marie)は大戦終結まで二人の男の子と青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ブレーマーフェルデ(Bremervörde)出身。(3881:大阪→似島)
153) Detzen(デツェン),Peter1892-1960):海軍膠州砲兵隊第3中隊・掌砲兵曹長。青野原時代の1919626日、南京にいる水雷艇S90の元乗員アードルフ・フェヒト(Adolf Fecht1等焚火兵宛に出した絵葉書が遺されている【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。ザールブリュッケンのブーヘンシャッヘン出身。(984:福岡→青野原)
154) Deutschmann(ドイッチュマン),Adolf]:築城部・陸軍工兵少尉。19185月の第2回懸賞作文に「休暇中」で3等賞を受賞した。シュレージエンのヴュルベン出身。(2833:松山→板東)
155) Diestel(ディーステル),Gustav:国民軍・2等歩兵。[ディーデリヒセンH.Diederichsen & Co.)社長]。1915319日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月より。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。妻オルガ(Olga)は大戦終結まで、こども二人(ともに12歳以下)と上海で暮らした。ハンブルク出身。(4630:大阪→似島)
156) Dinkel(ディンケル),Richard:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。[指物師]。ハイデルベルク近郊のエシェルブローン出身。(979:福岡→久留米)
157) Dittrich(ディットリヒ),Karl Wilhelm:海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島収容所俘虜展示会カタログの広告によると、似島収容所時代暖房のきいた部屋で、朝8時から午後2時までマッサージ、リュウマチ治療及び足の治療を行った【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』187頁】。ツヴィッカウ県のシュネーベルク出身。(3876:大阪→似島)
158) Dobe(ドーベ),Walter:海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備1等砲兵。徳島時代の1915420日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したドーベは4組(出場者総数21名)の内の第3組に割り振られ、第3組の1位で本戦のA級に進出した。マグデブルク県のシュナルスレーベン出身。(4140:大阪→徳島→板東)
159) Doert(ドアート),Erich1893-1960):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。〔第4歩兵堡塁〕。1893116日、ヴェストファーレン州のレックリンゲン県オスターフェルトに4人兄弟の長男として生まれた。父は下級官吏だった。ラインラントのオーバーハウゼンの実科学校に2年半学んだ。一家はルール河畔のブランケンシュタインに引越し食堂を経営、ドアートはやがて1909年、その地の役所で徒弟修業をした。両親は病気のため食堂を売却し、1910年にドルトムントに移った。やがて電気関係の技術習得を目指して、17歳の時の19109月にアウグスト・ヘーラー(August Hoehler)商会に入った。19139月、ククスハーフェンの海軍歩兵第3大隊本部に徴兵義務で応召した。4ヶ月の軍事訓練の後の1914112日、パトリーツィア号で青島に赴いた。青島では反射信号士としての訓練養成を受け、イルチス兵営に勤務した。103日には第4歩兵堡塁に配属された。板東時代はエンゲル・オーケストラの一員となり、1919年には第一ヴァイオリンに就いた。また板東時代の1919813日に開催された櫛木海岸での水泳大会では、潜水競技に出場し41メートルで2位になった。ドイツに帰国後の1920419日、アウグスト・ヘーラー商会に約一年勤務した。1920916日、マルタ・フローリアン(Martha Florian)と結婚、19213月から10月まで炭鉱の町ヴェルネ(Werne)に通じる鉄道の運転手及び車掌として従事し、1121日からはヴェルネ第3竪坑で電気技師として勤務した。1922年娘のマルガレーテが、翌1923年には娘エミーが生れた。1923年から地方の音楽協会に属し、音楽隊ならびにオーケストラの指導をした。1960320日、ヴェルネに没した【ドアートの経歴については、その資料を入手されたディルク・ファン・デア・ラーン氏の教示による。経歴の一部はドアート自身によって丸亀時代(191549日)に記され、残りは孫娘のクリステル・コエールト(Christel Koerdt)によって書かれたものである】。ドルトムント出身。(1862:丸亀→板東)
160) Dold(ドルト),Josef:海軍膠州砲兵隊第2中隊・後備1等砲兵。[青島・競争用ボート管理所]。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。スイスのバーデン出身。(4136:大阪→徳島→板東)
161) Dormann(ドルマン),William:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[メルヒャース漢口支店]。宣誓解放された。【『俘虜名簿』ではPormann(ポルマン)となっているが、板東収容所で1919年に発行された『故国住所録』(Heimatsadressen)ではDormann(ドルマン)になっている】。ブレーメン出身。(2031:丸亀→板東)
162) Dorn(ドルン),Anton-1973)]:第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、1917717日に発足した「収容所保険組合」に第2中隊代表となって組合の運営に従事した。ボーデン湖畔のユーバーリンゲン出身。(1861:丸亀→板東)
163) Dose(ドーゼ),Eggert:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[イェプセン(Jebsen & Co.)香港支店]。アルトナ出身。(2828:松山→板東)
164) Dott(ドット),Jakob:第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。19193月に発行された『久留米詩文集』に「春」及び「我々はみな同じ道を行く」の二編の詩を発表した。192011日の『福岡日日新聞』には、医学博士久保井猪之吉訳になるドットの詩(題名なし)が、「無題」として掲載された【松尾名誉教授からの教示による】。コーブレンツ出身。(400:久留米)
165) Dreifürst(ドライフュルスト),Hermann:海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。[指物師]。フルダ近郊のホーラス出身。(988:福岡→青野原)
166) Drescher(ドレシャー),Karl:第3海兵大隊第3中隊・伍長。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、1919610日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の上級に出場して(出場者は6名)、61?点を獲得して第3位になった。ザーレ河畔のノイシュタット出身。(392:久留米)
167) Drögkamp(ドレークカンプ),Ernst:第3海兵大隊第7中隊・伍長。丸亀時代、俘虜炊事係りを務めた。1915812日、ヴァッサーマン(Wassermann)副曹長とともに麺麭製造見学のため、収容所納入業者の丸亀市大西商会に赴いた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。板東時代、収容所内酒保の所長を務めた。ツェレ出身。(1867:丸亀→板東)
168) Droste(ドロステ),Alfred:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。[ハンブルク・アメリカ汽船Hamburg-Amerika-Linie)]。徳島時代の1915420日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したドロステは4組(出場者総数21名)の内の第4組に割り振られたが、第4組の3位で本戦のB級進出に留まった。アーヘン出身。(4141:大阪→徳島→板東)
169) Drüge(ドリューゲ),Adolf:第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代、タパタオの13号小屋でグリューネヴェラー(Grüneweller)と家具屋を営んだ。ミュンスター出身。(2831:松山→板東)
170) Dübert(デューベルト),Friedrich:海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[皮革業]。シュトラースブルク出身。(992:福岡→名古屋)
171) Dünisch(デューニッシュ),Max:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとデューニッシュは、オブリガート・ヴァイオリンを担当した。フランケンハウゼン出身。(389:久留米)
172) Dunkel(ドゥンケル),Walter-1968)]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[メルヒャース上海支店]。ブレーメン出身。(2827:松山→板東)
173) Düring(デューリング),Karl:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。[メルヒャース上海支店]。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(1864:丸亀→板東)
174) Ebeling(エーベリング),Bruno:第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。日本の収容所に収容された当初について、エーべリングの次の感想が知られている。「最初の二週間の待遇は実際良かった言えるでしょう。しかし、皆が「元気にしています」との便りを故郷に出してから、実に愛想のよかった日本人たちは、徐々に陰の部分を見せ始めました」【『クッツホーフから中国、日本へ』(Von Kutzhof nach China und Japan33頁】。ブラウンシュヴァイク出身。(2519:名古屋)
175) Eberhardt(エーベルハルト),Albert:第3海兵大隊・伍長。久留米時代の191712月、エームンツ(Emunds)及びクリンケ(Klinke)と収容所交付の発信用紙の売買仲介により、重営倉の処罰を受けた。兵卒1ヶ月分(封書用紙1、葉書1)が40銭で売買されていた【『ドイツ軍兵士と久留米』17頁】。大戦終結して解放後、蘭領印度へ渡った。デュッセルドルフ出身。(3277:熊本→久留米)
176) Ebert(エーベルト),Julius F.Chr.:第3海兵大隊第6中隊・後備2等歩兵。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ナーエ河畔のキルン出身。(1720:静岡→習志野)
177) Ebertz(エーベルツ),Rudolf]:海軍膠州砲兵隊第3中隊・予備砲兵伍長。[青島造船所]。徳島時代の1915420日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したエーベルツは4組(出場者総数21名)の内の第2組に割り振られ、2位で本戦のA級に進出した。板東時代、1919813日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、背泳ぎに出場して44秒で1位になった。1960年ごろ、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェッツラー出身。(4144:大阪→徳島→板東)
178) Eckert(エッケルト),Walter-1975):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとエッケルトは、第1ヴァイオリンを受け持った。ハルバーシュタット出身。(3270:熊本→久留米)
179) Eckoldt(エコルト),Hermann:第3海兵大隊第7中隊・副曹長。[広東ヴェーデキント商会(W.Wedekind & Co.)]。1960年ごろ、「チンタオ戦友会」に出席した。エアフルト出身。(1877:丸亀→板東)
180) Ederer(エーデラー),Alois]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[神戸・ジルバー・ヘークナー商会(Silber Hegner & Co.)]。1960年ごろ、「チンタオ戦友会」に出席した。レーゲンスブルク出身。(2836:松山→板東)
181) Eggebrecht(エッゲブレヒト),Hans:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[イリス商会C.Illies & Co.)神戸支店]。松山時代は公会堂に収容され、ベーアヴァルト(Bärwald)、シェーファー(Hermann Schäfer)及びシュタインフェルト(Steinfeld)の四人で通訳業務に当たった。ベルリン郊外のシュテークリッツ出身。(2835:松山→板東)
182) Eggert(エッゲルト),Alexander:第3海兵大隊第3中隊・副曹長。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ケーニヒスベルク出身。(2834:松山→板東)
183) Ehegötz(エーエゲッツ),Karl Friedrich:海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。1919121日、流行性感冒のため広島衛戍病院に入院し、126日に同病院で解放された【『戦役俘虜ニ関スル書類』附表第六号の「俘虜患者解放者一覧表」より】。ザクセンのランゲンザルツァ出身。(3884:大阪→似島)
184) Ehlert(エーラート),Rudolf:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。丸亀時代の19161123日、ヨーゼフ・ボート(Josef Both)と逃亡を企て、懲役16ヶ月の刑を下されて高松監獄に収監された。19171019日、高松監獄から郷里の姉妹に宛てて手紙を書き、スイス人のフンツィカー牧師にそれを託した。その手紙は逃亡の事実を語るものであるが、ドイツ語に英語、日本語、ローマ字を交えた判読しがたいものである【『俘虜ニ関スル書類』より】。ダンチヒ出身。(1876:丸亀→板東)
185) Ehrich(エーリヒ),Friedrich:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。[パン職人]。エッケルンフェルデ近郊のハルフェ出身。(1006:福岡→久留米)
186) Eilers(アイラース),Heinrich:国民軍・階級不明。[職工長]。妻メータ(Meta)は二人の子どもとともに大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。オルデンブルクのブランケ出身。(4498:大阪→似島)
187) Elle(エレ),Erich:砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。1916411日、フォーゲルフェンガー(Vogelfänger)の誕生祝に招かれた。その折に食べたウサギの肉が、愛犬シュトロルヒStrolch)の肉であったかのように(?)フォーゲルフェンガーの日記に記述されている【『ドイツ兵士の見たニッポン』154頁】。デュッセルドルフ出身。(62:東京→習志野)
188) Emunds(エームンツ),Hermann]:第3海兵大隊第1中隊・伍長。191712月、エーベルハルト(Eberhardt)及びクリンケ(Klinke)と収容所交付の発信用紙の売買仲介により、重営倉の処罰を受けた。兵卒1ヶ月分(封書用紙1、葉書1)が40銭で売買されていた【『ドイツ軍兵士と久留米』17頁】。また、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとエームンツは、楽団事務係りの役割を担った。ケルン出身。(406:久留米)
189) Engel(エンゲル),Emil:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代、1919813日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、抜き手に出場し441秒で3位になった。ベルリン出身。(2838:松山→板東)
190) Engel(エンゲル),Heinrich1887-1957):第3海兵大隊第3中隊・後備曹長。大阪時代の19154月、福岡のマイレンダー(Mailänder)に宛てて葉書を出した。葉書は大阪城を写した絵葉書で、裏面には「上田○○」の印鑑が押されている(○○の字は判読不能)。【マイレンダーの項参照】。ザールブリュッケン出身。(4493:大阪→似島)
191) Engel(エンゲル),Paul]:第3海兵大隊第2中隊・後備2等歩兵。[上海居留地工部局管弦楽団員]。1912102日、前記音楽隊に加入した【榎本泰子同志社大助教授の探索による「1912年版上海工部局年次報告書(英文;上海市档案館所蔵)」より。なお、松尾名誉教授からの教示による】。ドレスデン音楽学校で教鞭を執り、ヴァイオリン奏者としての腕はアマチュア楽団で磨いた、との記事もあるが【参照『この国に生きて 異邦人物語―「第九の伝道師」(3)、産経新聞(平成14529日付け)』】、エンゲルのドイツにおける足跡は不明である。丸亀時代の19161021日、高松師範学校他県立4学校の音楽教師の希望により、シュタインメッツ(Steinmetz)と丸亀高等女学校で試験演奏を行った【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。妻ベルタ(Bertha)は大戦終結まで上海で暮らした。防衛研究所図書館所蔵の史料によると、パウル・エンゲルは1920123日に加答児性肺炎のために入院し、126日に徳島市古川(こかわ)病院で解放された、と記されている【参照:『戦役俘虜ニ関スル書類』(俘虜取扱顛末)」の付表6「俘虜患者解放者一覧表」】。また、同じ史料の付表36の「獨墺洪國俘虜引渡区分表」の備考欄に、「板東収容所蘭領印度渡航者(27日)中兵卒1名ハ病気ノタメ前日(126日)徳島市古川病院ニ於テ引渡シ且ツ付添として[126日家族船ニヨルモノニシテ日本内地ニ用弁者]中ノ兵卒1名ト同時ニ引渡セリ」との記述がある。【こうしたことからエンゲルは、大戦終結後は蘭領印度に渡った公算が大きい。ジャカルタで発行された『ドイツの守り』(Deutsche Wacht)の1922年第5号には、蘭領印度におけるかつてのチンタオ戦士、及び日本の収容所俘虜の名が掲載されているが、ジョクジャカルタ在住として「P.Engel」の名が見られる【この名簿については、ハンス=ヨアヒム・シュミット氏からの情報による】。なお、香川県丸亀市においては200198日に、赤垣洋氏を中心とした「エンゲル祭実行委員会」による「エンゲル祭」が開催され、ドイツ総領事館からの出席者も迎えて、講演会・音楽会等多彩な行事が行われた。翌200297日にも第2回「エンゲル祭」が開かれた】。ドレスデン出身。(1880:丸亀→板東)
192) Engelhorn(エンゲルホルン),Dr.Friedrich:第3海兵大隊第5中隊・後備副曹長。大正8年頃、落合化学で通訳として働いていたゼンクバイル(Senkbeil)の要請を受けて、化学技術の専門家であったエンゲルホルンは、金液事業で落合兵之助と共同研究を始めた。大戦終結後も日本内地契約成立者として日本内地で解放され、落合化学に就職した。その後も金液の製作に励んだがやがて帰国を考えて、後任として久留米収容所にいたメルク(Merck)を推薦した。メルクはエンゲルホルンの大学時代からの友人で、ドイツのダルムシュタットにある医薬・工業薬品会社E.Merck社の社長の息子であった。メルクも3ヶ月ほど落合と共同研究をした後、エンゲルホルンと一緒に帰国して、メルク社の専門技術者であるペテルセンを派遣した【校條善夫「名古屋俘虜収容所 覚書U」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号、65-68頁より】。マンハイム出身。(2513:名古屋)
193) Engels(エンゲルス),Franz:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[ジーメンス社]。アーヘン出身。(1878:丸亀→板東)
194) Engler(エングラー),Georg1886-)]:第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。[体育・ドイツ語教師]。『ドイツ・トゥルネン新聞(Deutsche Turn-Zeitung)』の1916119日付け45号に、「日本におけるドイツ・トゥルネン」と題された記事の中で、本国の友人に宛てた手紙が紹介された【山田『俘虜生活とスポーツ』145頁】。ドレスデン出身。(3276:熊本→久留米→名古屋)
195) Epe(エーペ),Heinrich:第3海兵大隊第4中隊・伍長。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとエーペは、第2ヴァイオリンを受け持った。ヴェストファーレン出身。(3269:熊本→久留米)
196) Erdniß(エルトニス),Heinrich1882-):総督府・上級書記官。徳島時代、着物に身を包んで神戸行きの船に乗り込んで逃亡を計ったが、体格と鷲鼻から外国人と見破られた。独房入り14日の刑を受けた。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのダブルスで、ヴェストファール(Westphal2等歩兵と組んでBクラス2位になった【『バラッケ』第2巻、211頁】。リンブルク郊外のハーダマー 出身。(4143:大阪→徳島→板東)
197) Erlebach(エルレバッハ),Bernhard:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[北ドイツ・ロイド汽船Norddeutscher Lloyd)プリンツ・アイテル・フリードリヒ号(Prinz Eitel Friedrich)乗員]。1960年ごろ、「チンタオ戦友会」に出席した。ゲーステミュンデ出身。(2837:松山→板東)
198) Euchler(オイヒラー),Otto]:第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。[東京ドイツ大使館]。ゴータ出身。(2841:松山→板東)
199) Evers(エーファース),Richard:第3海兵大隊第2中隊・予備上等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。オイティン(Eutin)出身。(2515:名古屋)
200) Eward(エーヴァルト),Hermann:海軍膠州砲兵隊・後備副曹長。[独中大学]。ハノーファーのニーンシュタット出身。(2843:松山→板東)
201) Ewert(エーヴェルト),Rudolf:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[独亜銀行Deutsch- Asiatische Bank)上海本店]。1960年ごろ、「チンタオ戦友会」に出席した。ヒルデスハイム出身。(1879:丸亀→板東)
202) Faber(ファーバー),Leonhard:第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。久留米時代、1918916日から、つちや足袋合名会社に木綿漂白の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ラインラントのジュヒテルン出身。(3296:熊本→久留米)
203) Falke(ファルケ),Fritz:海軍膠州砲兵隊・副曹長。久留米時代の191925日、収容所小使牛島重太に双眼鏡の売却を依頼し、牛島はこれを国分の時計商石田伊之助に50円で売却した。このことで石田は外敵商取引禁止令違反で取調べを受けた【『ドイツ軍兵士と久留米』17頁】。ライト(Rheydt)出身。(3319:熊本→久留米)
204) Fangauer(ファンガウアー),Johann:第3海兵大隊第3中隊・後備2等歩兵。[朝鮮京城・聖ベネディクト修道院]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。バイエルンのエッゲルフィンゲン出身。(426:久留米→板東)
205) Farr(ファル),Gustav:第3海兵大隊第6中隊・後備伍長。[カルロヴィッツ広東支店]。リンダウ出身。(2850:松山→板東)
206) Färtsch(フェルチュ),Albert:砲艦ヤーグアル(Jaguar)乗員・海軍見習主計。板東時代、1919813日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、メドレーリレーに出場し、ヴィヒェルハウス(Wichelhaus)、シュタインメッツ(Steinmetz)、レーマン(Lehmann;板東には二名のレーマンがいて特定不可)と組んで1位になった。ワイマール出身。(2867:松山→板東)
207) Fehr(フェール),Oswald:総督府・海軍機関兵曹長。板東時代、第2棟の先任兵を務めた。クレーフェルト出身。(2869:松山→板東)
208) Felchnerowski(フェルヒネロフスキー),Clemens]:第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代の1918526日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。鉄棒2、平行棒2、鞍馬1、跳び箱1を使用しての体操会であった。フェルヒネロフスキーは第1組の指導を受け持った【『バラッケ』第2巻、183頁】。西プロイセンのオーフェン(Ofen)出身。(1882:丸亀→板東)
209) Fenzel(フェンツェル),Albert:第3海兵大隊第6中隊・後備2等歩兵。[北ドイツ・ロイド汽船]。ゴータ出身。(2859:松山→板東)
210) Feuerbach(フォイエルバッハ),Karl]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ディーデリヒセン青島支店]。ニュルンベルク出身。(2853:松山→板東)
211) Fiedler(フィートラー),Max:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。ウラジオストックから応召した。大戦終結して解放後は蘭領印度に渡ったが、1922年頃にはすでに故国に帰還していたと思われる。低地シュレージエンのグローガウ(Glogau)出身。(2857:松山→板東)
212) Findorf(フィンドルフ),Ernst]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジームセン香港支店]。リューネブルク出身。(2851:松山→板東)
213) Finster(フィンスター),Georg:第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。1915810日、久留米収容所からアメリカのドイツ語夕刊紙(新聞名は不詳)に記事を投稿した。「戦争俘虜に楽譜を! 日本の久留米収容所からの熱望 ―エルンスト・ティーセンをご存知の方はいませんか」との見出しの投稿記事の内容全文は以下の通りである。「1915810日、日本の久留米にて 拝啓 手元にある貴夕刊紙によって発行所の住所を知りました。貴紙は収容所内においてとても喜んで読まれています。新世界には知人友人もおりませんので、私たち一同の切なる要望をここに敢えて申し述べさせて頂きます。それは即ち楽譜の送付に関することであります。同封した写真2枚(【新聞には笑顔の楽団員による演奏風景の一点のみ掲載】)からお分かりになるように、我々は楽団を結成しておりますが、楽譜が不足しております。天津、北京等ではピアノ楽譜もなく室内楽も出来ずにいます。我々が日ごろ行っている軽音楽、例えばオペレッタ曲、ワルツ、童話等の楽譜は手に入れることが出来ずにおります。我々が行っているのは、ピアノ、ヴァイオリン、ビオラ各二人のサロンオーケストラの陣容です。けれども序曲等の楽譜があったならば、これらに対しても有難く立ち向かえることでしょう。ここでは軽快なアメリカ風ダンスも格別に好まれています。しかしすでに触れましたように、我々は何であれ感謝をこめて受け取ります。もしかしてオーストリアの物はあるでしょうか。というのも勇敢なる同盟者達が同じ収容所に抑留されているからです。久留米収容所の俘虜は現在1300名以上におよんでいます。貴紙がアメリカ最大のドイツ語紙であることから、私は貴紙に宛ててペンを執った次第です。そこで私はこの手紙を、また可能であれば同封の写真も貴紙に掲載して頂けることを、衷心より願うものです。最後に再度申し述べさせて頂きますが、可能であればサロンオーケストラ用の楽譜の送付を願うものです。全戦友の名において心からの感謝とドイツ風挨拶をこめて。敬具 ゲオルク・フィンスター 追伸:もしかして貴紙購読者に、ベルリンのテーゲル出身エルンスト・ティーセン(Ernst Thiessen;不詳)をご存知の方はおられないでしょうか。彼は私の従兄弟で、数年来消息が分かりません。過去の新聞を送付願えれば幸甚に存じます。改めて感謝をこめて。海軍歩兵第3大隊第1中隊上等歩兵ゲオルク・フィンスター 日本の久留米より」【以上は、久留米収容所で活躍したオットー・レーマン(Otto Lehmann)の子息ユルゲン・レーマン氏より資料の提供を受けた松尾名誉教授からの教示による】。ベルリンのテーゲル出身。(411:久留米)
214) Fischer(フィッシャー),Andreas]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ラルツ薬行Adalbert Larz)]。ニュルンベルク出身。(2858:松山→板東)
215) Fischer(フィッシャー),Bruno]:第3海兵大隊工兵中隊・予備副曹長。109日、俘虜の第一陣として久留米に到着し、下士卒用の収容先である、久留米市日吉町の大谷派久留米教務所に収容された。4班に分けられた下士卒に対する全般の監督を、ライト(Raydt)副曹長とともに務めた【坂本「久留米俘虜収容所の一側面」(上)5頁】。ベルリンのシャルロッテンブルク出身。(428:久留米)
216) Fischer(フィッシャー),Erich]:第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。『中国と日本』と題した2巻本の日記を遺した【ウイーンのパンツァー教授(Prof.P.Pantzer)所蔵】。日記には、1915310日熊本収容所において、最初のチフス患者3名が出て、やがて収容所内で広がったことが記されている。バイエルンのシュヴァインフルト出身。(3288:熊本→久留米)
217) Fischer(フィッシャー),Ernst:総督府・土地管理部秘書官。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ケーテン出身。(4658:大阪→似島)
218) Fischer(フィッシャー),Hermann:第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1918916日から、日本製粉会社久留米支店に労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。バイエルンのシュタインキルヒェン出身。(419:久留米)
219) Fischer(フィッシャー),Karl:海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[指物師]。ドレスデン出身。(1040:福岡→名古屋)
220) Fischer(フィッシャー),Karl:国民軍・卒。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ニュルンベルク出身。(4503:大阪→似島)
221) Fischer(フィッシャー),Paul1884-1967)]:海軍砲兵中隊・2等焚火兵。ザクセンのヴィルデンフェルスに生まれ、グリューナウ村で没した【松尾「「ドイツ牧舎」(徳島板東)指導者クラウスニッツァーの生涯」100頁】。ザクセンのグリューナウ出身。(3317:熊本→久留米)
222) Fischinger(フィッシンガー),Adolf]:第3海兵大隊第7中隊・伍長。[アーレンス後継商会神戸支店]。ゼッキンゲン出身。(2860:松山→板東)
223) Fock(フォック),Peter]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ザンダー‐ヴィーラーSander-Wieler & Co.)上海支店]。ハンブルク出身。(2854:松山→板東)
224) Fockes(フォッケス),Alfred:海軍膠州砲兵隊・後備砲兵軍曹長。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。ハンブルク出身。(3891:大阪→似島)
225) Fortak(フォルタク),Emil:海軍野戦砲兵隊・上等砲兵。大戦終結後の19191226日、帰国船豊福丸で下記ローベルト(Robert)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。東プロイセンのナイデンブルク(Neidenburg)県イットヴケン(Ittowken)出身。(3303:熊本→久留米→板東)
226) Fortak(フォルタク),Robert:第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。大戦終結後の19191226日、帰国船豊福丸で上記エーミール(Emil)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。イットヴケン出身。(2532:名古屋)
227) Frank(フランク),Gustav:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[北ドイツ・ロイド汽船]。ハイデルベルク近郊のロールバハ出身。(2855:松山→板東)
228) Franke(フランケ),Alfred:第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1918920日、明星山への郊外散歩中に逃亡し、上広川村水原付近で捕まった。精神に異常を来たしていたことから休養室に収容された【『ドイツ軍兵士と久留米』12頁】。ボヘミアのクランメル/アオスッヒ出身。(424:久留米)
229) Frausin(フラウズィン),Josef:巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。1916109日、マダレンチッチ(Madalencic)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなく宣誓解放された。トリエステ郊外のムッギア出身。(2189:姫路→青野原→丸亀→板東)
230) Freese(フレーゼ),Wilhelm]:第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[シュヴァルツコップ青島支店]。板東時代の1918811日、「収容所体操クラブ」の「ヤーン祭」で、収容所仲間による体操を詠んだ詩を朗読した【『バラッケ』第2巻、411頁】。キール出身。(2849:松山→板東)
231) Frevert(フレーフェルト),August:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[青島郵便局]。板東時代、中国漢口に住む友人のヘルマン・ノイバウアー(Hermann Neubauer:不詳)から、フレーフェルトに宛てて出された葉書二通が、郵趣家三木充氏所蔵で現存している。その内の一通は1918612日漢口消印で、文面は次の通り。「前略 今日君宛に煙草入り小包を発送した。僕の住所は今日からフリーデリヒ街のディーデリヒセン気付だ。それ以外ここはまだ、まあまあなんとかってところだ。やはり一人また一人とまいり始めている。77日付けの小包をまだ受け取っていない、と書いてあったけど。それは煙草入りの小包かい、それともかみそりの刃を入れた方かい?ともかく今日はこれで失礼」。もう一通は1918615日漢口消印で、文面は次の通り。「前略 今日君宛に煙草を入れた小包を発送した。その後元気ですか? 近いうち僕たちはちょっとした旅行に出る。君にそのことをすでに知らせただろうか? 旅行に出る前にもう一度書いた次第です。今日はこれで。草々」。【郵趣家三木充氏所蔵品より。なお、かみそりの刃は俘虜にとって毎日使用する必需品であるが、その調達が難しかった(日本製は肌に合わなかったのか)ものと思われる。ヘルムート・レーマン(Hellmuth Lehmann)の項を参照】。リッペのアイケルミューエ出身。(2861:松山→板東)
232) Frey(フライ),Walther:第3海兵大隊第7中隊・副曹長。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。シュトゥットガルト出身。(1885:丸亀→板東)
233) Friebel(フリーベル),Franz:第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。1916930日、久留米収容所より情報局へ、フリーベルの処罰について通報があった。オールドゥルフ近郊のヴェールフィス出身。(3290:久留米)
234) Frisch(フリッシュ),Franz]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ハンブルク・アメリカ汽船上海支店]。板東時代の1918421日、クラーゼン(Claasen)及びヴェーゲナー(Wegener)と共同で「歌の夕べ」を開催して仲間達に感動を与えた。フリッシュは「バラの香の中で」及び「もしかすると」を独唱した。リューベック出身。(2852:松山→板東)
235) Frithoff(フリートホフ),Wilhelm:所属部隊不明・後備2等筆記。[商人]。妻アンナ(Anna)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ブランケゼー近郊のドッケンフーデン出身。(4507:大阪→似島)
236) Fröbel(フレーベル),Karl]:第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとフレーベルは、第2ヴァイオリンを受け持った。ケルン出身。(3295:熊本→久留米)
237) Fröhlich(フレーリヒ),Christian:第3海兵大隊第2中隊・後備上等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】。ラーン河畔のランゲンデルンバハ出身。(2863:松山→板東)
238) Fröhlich(フレーリヒ),Georg:国民軍・階級不明。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。メンヒェングラートバハ出身。(4504:大阪→似島)
239) Gackstätter(ガクシュテッター),Georg:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[中国ジーメンスSiemens China Co.)香港支店]。板東時代の1918526日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。鉄棒2、平行棒2、鞍馬1、跳び箱1を使用しての体操会であった。ガクシュテッターは第5組の指導を受け持った【『バラッケ』第2巻、183頁】。ローテンブルク出身。(1899:丸亀→板東)
240) Gadow(ガドウ),Karl:第3海兵大隊第1中隊・予備伍長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ライン河畔のビーブリヒ出身。(431:久留米)
241) Gareis(ガーライス),Max]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[上海居留地工部局管弦楽団員]。190995日、前記音楽隊に加入した【「1912年版上海工部局年次報告書」より】。テューリンゲンのカーラ(Kahla)出身。(2874:松山→板東)
242) Gebhard(ゲープハルト),Otto]:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとゲープハルトは、トランペットを受け持った。ハレ近郊のタイヒャ出身。(438:久留米)
243) Geffers(ゲフェルス),Hans:海軍膠州砲兵隊・予備砲兵伍長。1915915日、他の94名とともに福岡から移送されて習志野収容所に到着した。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。リューネブルク出身。(1070:福岡→習志野)
244) Geiger(ガイガー),Theodor:海軍東アジア分遣隊第1中隊・上等兵。フォーゲルフェンガーの1916829日の日記には、午前1時に大きな地震があり、またその直後に助けを求めるするどい叫び声があったと記されている。それは、顔の上をねずみが走ったためにあげたガイガーの叫び声であった【『ドイツ兵士の見たニッポン』161頁】。コールマル近郊のハウゼン出身。(75:東京→習志野)
245) George(ゲオルゲ),Heinrich:第2工機団・副曹長。大戦終結後、第4次送還船で下記マックス(Max)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。ヴェストファーレンのヴィッテンブルク(Wittenburg)出身。(2891:松山→板東)
246) George(ゲオルゲ),Max:総督府・2等筆記。大戦終結後、第4次送還船で上記ハインリヒ(Heinrich)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。ヴィッテンブルク出身。(2195:姫路→青野原)
247) Gerbig(ゲルビヒ),Ernst:第3海兵大隊・武器工長。妻ヘレーネ(Helene)は二人の子ども(いずれも12歳以下)と、大戦終結まで上海で暮らした。アルテンブルク近郊のアイゼンベルク出身。(2887:松山→板東)
248) Gericke(ゲリッケ),Otto:第3海兵大隊予備榴弾砲隊・後備伍長。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとゲリッケは、チェロを受け持った。ハノーファー出身。(3336:熊本→久留米)
249) Gerlach(ゲルラッハ),Julius:海軍膠州砲兵隊第1中隊・後備2等焚火兵。1919121日、流行性感冒のため広島衛戍病院に入院し、126日に同病院で解放された【『戦役俘虜ニ関スル書類』附表第六号の「俘虜患者解放者一覧表」より】。ラインラントのカル(Call)出身。(4510:大阪→似島)
250) Gerlach(ゲルラッハ),Max:国民軍・階級不明。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ブレスラウ地区のブリーク出身。(4514:大阪→似島)
251) Gerstadt(ゲルシュタット),Joseph:第3海兵大隊第3中隊・伍長。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、1919610日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の上級に出場して(出場者は6名)、72?点を獲得して第2位になった。ラインガウのヨハニスベルク出身。(445:久留米)
252) Gerstner(ゲルストナー),August:海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。[指物師]。マンハイム出身。(1052:福岡→習志野)
253) Geschke(ゲシュケ),Carl:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。[ゲシュケ商店]。ハンス・ゲシュケ(Hans Geschke)と郷里の住所が同じ【参照『板東収容所俘虜故国住所録』15頁】であることから、身内と思われる。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放されたが、やがて蘭領印度のバタヴィアに渡った。ハンブルク出身。(2879:松山→板東)
254) Gillsch(ギルシュ),Walther:第3海兵大隊第3中隊・予備2等歩兵。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ゲーラ出身。(1086:福岡→名古屋)
255) Gimborn(ギムボルン),Bodo von:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[ガルレス‐ベルナー上海支店]。その日記(第一次大戦勃発直後から、応召して青島へ到着後数日までの記述)が、甥のハンス=ジークムント・フォン・ギムボルン氏によって清書され、ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページに掲載されている。以下はその大要である。上海の上記会社では、ハッハマイスター(Hachmeister)、レッチュ(Laetzsch)及びヴァイツ(Weitz)と同僚であった。ギムボルンは気管支炎により10日間入院して、1914730日に退院したばかりであった。85日の夜10時半に友人のティース(Thies)と一緒に青島に向けて上海を出発した。86日朝7時南京着、87日朝6時に青島に到着した。出発前に北京、天津から上海に来ていたパウルゼン(Paulsen)、ミュラー(Dr.Müller;特定不可)及びゲルケ(Gercke?)の三人に会ったが、列車でも一緒だった。青島での最初の晩は、プリンツ・ハインリヒ・ホテルで食事を取った。その折り、妻とともに青島で休暇を過ごしていたシェルホス(Schellhoss)大尉に会った。テュービンゲン地区のジグマリンゲン出身。(1896:丸亀→板東)
256) Glasmacher(グラースマッハー),Hans-1919)]:海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。19161018日、ノッペナイ(Noppeney)等68名とともに、福岡から大分に移送された。191924日、スペイン風邪により習志野で死亡。グレーフェンブロイヒ(Grevenbroich)県のカペレン(Capellen)出身。(1059:福岡→大分→習志野)
257) Glathe(グラーテ),Alfred:所属部隊不明・階級不明。大戦終結後は、青島における就職既定者として日本国内で解放された。ドレスデン出身。(4519:大阪→似島)
258) Glier(グリーア),Bernhard:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[中国ジーメンス上海支店]。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。エルベ河畔のハルブルク出身。(1900:丸亀→板東)
259) Glöckler(グレックラー),August:国民軍・階級不明。大阪収容所は1917219日に閉鎖されたが、同年38日時点で大阪衛戍病院に入院していた。バーデン・バーデン出身。(4517:大阪→似島)
260) Glückselig(グリュックゼーリヒ),August:海軍膠州砲兵隊第1中隊・砲兵軍曹長。19161022日、他の68名とともに福岡から習志野に移送された。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した。妻マルタ(Marta)は大戦終結まで青島に留まった。コンシュタット(Konstadt)出身。(1049:福岡→習志野)
261) Gnuschke(グヌシュケ),Arthur:第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。板東時代の191852日、東久邇稔彦王が四国旅行で徳島に立ち寄った際、急遽鳴門の撫養(むや)で俘虜による作品展示会が特別に開催された。その折りグヌシュケはボーンとともにパイプを制作出品し、それが買い上げられた。他にヘフト、クヴィンテンの作品も買い上げられた。また、タパタオの30号小屋でベーム(Böhm)と配管及び機械工の仕事を営んだ。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。オステローデ(Osterode)出身。(2870:松山→板東)
262) Gomille(ゴミレ),Paul1889-1918)]:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、第25室で洗濯屋を営んだ。1918129日、スペイン風邪で死亡。ポーゼン出身。(1890:丸亀→板東)
263) Gomoll(ゴーモル),Karl:国民軍・後備上等歩兵。大戦終結後、青島で独中資本による「カール・ゴーモル醸造所」を営んだ。ポンメルンのシュトルプ出身。(4512:大阪→似島)
264) Gosewisch(ゴーゼヴィッシュ),Wilhelm:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジームセン青島支店]。ハンブルク出身。(2873:松山→板東)
265) Gradinger(グラーディンガー),Friedrich]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[オットー・ライマース商会(Otto Reimers & Co.)東京支店]。板東時代の19185月、第2回懸賞作文に「わが腕白時代より」で応募して佳作になった。フェッセンバッハ(Fessenbach)出身。(2875:松山→板東)
266) Graf(グラーフ),Emil:海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[腸詰製造職人]。エメンディンゲン(Emmendingen)出身。(1082:福岡→名古屋)
267) Graf(グラーフ),Jakob:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[広東地区ライン伝道会(Rheinische Mission)]。ヴォルムス県のグンダースハイム出身。(3334:熊本→久留米→板東)
268) Grantz(グランツ),Hermann:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。ホルシュタインのプレーン(Plön)出身。(1902:丸亀→板東)
269) Grefen(グレーフェン),Hermann:国民軍・後備上等歩兵。[屠畜マイスター]。妻の名はヨハンナ(Johanna)。ラインラント出身。(4516:大阪→似島)
270) Gregorczyk(グレゴルチク),Johann]:第3海兵大隊工兵中隊・伍長。【その手になる『青島戦争日記』が、郵趣家イェキッシュWalter Jäckisch)氏の所蔵で遺されている】。ヴェストファーレンのオスターフェルト出身。(2881:松山→板東)
271) Greiss(グライス),Heinrich:海軍膠州砲兵隊第3中隊・砲兵伍長。板東時代、兵站倉庫の兵站係を務めた。ライン=ヘッセンのプフェッタースハイム出身。(4153:大阪→徳島→板東)
272) Griesser(グリーサー),Johann:築城部・陸軍築城少尉。妻エリーザベト(Elisabeth)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として、日本国内で解放された。コンスタンツ出身。(457:久留米)
273) Griessmeyer(グリースマイアー),Albert1879-)]:総督府・海軍3等経理監督(少佐相当)。習志野時代、ルートヴィヒ・トーマの茶番劇『一等旅客』の上演に際しては、営農家フィルザー役を生粋のバイエルン方言で演じて喝采を博した。その粗野な言い回しは収容所内に根付いて、あらゆる地方の出身者の間でも長く使われた。大戦終結してドイツに帰国後、ベルリンの帝国被雇用者保険協会の会長を務めた。遺品中には、大分収容所時代に便所の前に立っている写真、兵士の埋葬の場面、集合写真、市内を行進して歩いている写真、音楽の練習風景、テニス場の造成作業、芝居の上演後と思しき記念写真、1915年のクリスマスの折の写真、収容所内かその外側の雪景色、習志野時代のトゥルネンの写真、習志野の演劇活動で活躍したハンス・マルフケ(Marfuke)監督による芝居の一こま、高級将校達の歓談風景の写真等多くが遺されている【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。レーゲンスブルク出身。(4369:熊本→大分→習志野)
274) Grille(グリレ),Paul]:第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、第35室で家具屋を営んだ。ザクセンのニュンヒリッツ出身。(1887:丸亀→板東)
275) Grobe(グローベ),Friedrich:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1917128日、アンドレーア(Andrea)をヴェント(Wendt)等18名で袋叩きにして負傷させ、27日久留米軍事法廷において懲役1月に処せられた。ハノーファー出身。(3350:熊本→久留米)
276) Grocholl(グロッホル),Albert:海軍野戦砲兵隊・兵器工長。妻マリー(Marie)は娘と大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。シュパンダウ出身。(2885:松山→板東)
277) Gröninger(グレーニンガー),Heinrich:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ベーム石鹸製造(Gustav Boehms Seifenwerke)上海支店]。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡ったが、1922年時点ではすでに故国に帰還していた。アウグスブルク出身。(2877:松山→板東)
278) Grönitz(グレーニッツ),Alfred:砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。1916411日、フォーゲルフェンガー(Vogelfänger)の誕生祝に招かれた。その折に食べたウサギの肉が、愛犬シュトロルヒ(Strolch)の肉であったかのように(?)フォーゲルフェンガーの日記に記述されている【『ドイツ兵士の見たニッポン』154頁】。シュレージエンのオッペルン県スラヴィッツ出身。(86:東京→習志野)
279) Gross(グロス),Friedrich Wilhelm:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[ヴァルテ商会(A.Walte & Co.)天津支店]。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。コルナウ(Kollnau)出身。(1898:丸亀→板東)
280) Grossmann(グロースマン),Heinrich]:第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ神戸支店]。板東時代、ヴェルナー(Werner)副曹長とともに『日刊電報通信』及び『バラッケ』に戦況等ニュースの記事執筆を担当した【『バラッケ』第2巻、82頁】。出身地不明(『俘虜名簿』では神戸)。(1889:丸亀→板東)
281) Gröteke(グレーテケ),Friedrich:海軍膠州砲兵隊第5中隊・砲兵軍曹長。妻アンナ(Anna)は息子と大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)。(1725:静岡→習志野)
282) Grube(グルーベ),Max:第3海兵大隊第4中隊・後備上等歩兵。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。ハンブルク出身。(3328:熊本→久留米)
283) Grunewald(グルーネヴァルト),Erwin:海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。ハインリヒ・ハム(Hamm)の19181227日付け日記には、グルーネヴァルトが新聞の鉄条網病の記事を読んでいることが記され、ここの収容所にも当てはまることである、とのハムの感想が述べられている【板東収容所俘虜カール・ベーア(Karl Baehr)の演劇シナリオ『第6中隊の過去の影絵もしくは不滅なる鉄条網病患者のひらめき』に関わるものであろうか】。ザクセンのザイフヘンナースドルフ(Seifhennersdorf)出身。(78:東京→習志野)
284) Grüneweller(グリューネヴェラー),Gerhard:海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、タパタオの13号小屋でドリューゲ(Druege)と家具屋を営んだ。ミュンスター出身。(4158:大阪→徳島→板東)
285) Günschmann(ギュンシュマン),Edmund1893-):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、タパタオの12号小屋でケスラーと家具屋及び大工を営んだ。大戦終結してドイツに帰国後の19201025日、鉄十字2等勲章を授与された。テューリンゲン地方のシュメアフェルト出身。(4159:大阪→徳島→板東)
286) Günther(ギュンター),Wilhelm:第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ブレーメン出身。(3327:熊本→久留米)
287) Guse(グーゼ),Karl A.]:海軍膠州砲兵隊・掌砲兵曹長。妻カロリーネ(Karoline)は息子と娘の三人で、大戦終結まで青島に留まった。プレシェン(Pleschen)出身。(3353:熊本→久留米)
288) Guskow(グスコー),Willi:海軍砲兵中隊・2等水兵。東京時代の19156月、仲間宛の少女の手紙を盗み、その少女にラヴレターを書いたことから中隊内で殴られ、死んだように地面に倒れた【「ハインリヒ・ハムの日記から」より】。シュテッティン出身。(80:東京→習志野)
289) Haack(ハーク),Carl:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[青島のリヒャルト運送会社]。板東時代の1918625日、収容所内タパタオの村長選挙が行われ、東地区と西地区での予備選挙の後、決戦投票の結果ハークが44票を獲得して新市長に選出された。ホンブルク郊外のオーバーシュテッテン出身。(1914:丸亀→板東)
290) Haas(ハース),Michael:第3海兵大隊重野戦榴弾砲隊・2等砲手。[指物師]。ホッケンハイム(Hockenheim)出身。(1153:福岡→名古屋)
291) Haberecht(ハーベレヒト),Friedrich:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、第47室でヘッカー(Höcker)及びブロードニツキー(Brodnitzki)とゴミ処理会社を営んだ。シュレージエンのペーテルスヴァルダウ出身。(1911:丸亀→板東)
292) Habersang(ハーバーザング),Fiedrich1882-1934)]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[広東郊外東莞のライン伝道会宣教師]。アイゼナハ近郊のマルクズール出身。(2916:松山→板東)
293) Hachenberg(ハッヘンベルク),Philipp:第3海兵大隊。[巡査]。ダウフェンバハ(Daufenbach)出身。(2929:松山→板東)
294) Hachmeister(ハッハマイスター),Paul]:国民軍・卒。[ガルレス・ベルナー商会上海支店]。似島時代の19193月、広島物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に当って、美術部門の責任者をヴィルヘルム(Gustav Wilhelm)とともに担当し、自らも19点の絵を出品した。その内容は、写真から模写した青島の風景画(油絵)6点、その他の油絵の模写9点、水彩画4点で、水彩画の中には「大阪収容所の部屋」や火災後【大阪収容所の火災と思われる】と題したものもあった。ベルリン出身。(4677:大阪→似島)
295) Hagemeyer(ハーゲマイアー),Wilhelm:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[メルヒャース漢口支店]。ブレーメン近郊のフェーゲザック出身。(2908:松山→板東)
296) Hagen(ハーゲン),Ernst:砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。習志野時代の1916411日、戦友であるフォーゲルフェンガー(Vogelfänger)の誕生日に特別料理で祝い、他の戦友達ブレスラ出身のグレーニッツ(Grönitz)、デュッセルドルフ出身のエレ(Elle)、ケーニヒスベルク出身のペッヒブレンナー(Pechbrenner)、ゾーリンゲン出身のクライナービュッシュカンプ(Kleinerbüschkamp)を焼肉に招いた。その折に食べたウサギの肉が、愛犬シュトロルヒ(Strolch)の肉であったかのように(?)フォーゲルフェンガーの日記に記述されている【『ドイツ兵士の見たニッポン』154頁】。ハンブルク出身。(102:東京→習志野)
297) Hake(ハーケ),Gustav]:海軍膠州砲兵隊・予備火工副曹長。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとハーケは、チェロを受け持った。ヴィースバーデン出身。(1109:福岡→久留米)
298) Hake(ハーケ),Hermann]:第3海兵大隊第6中隊・副曹長。[カルロヴィッツ漢口支店]。大戦終結後の19191228日、帰国船豊福丸で下記ハインリヒ(Heinrich)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。息子のブルーノー・ハーケ氏は、徳島俘虜収容所新聞『徳島新報』をドイツのオークションで入手し、板東のドイツ館に寄贈した。氏は更に、父ハーケが収容所から故国の妻に宛てた100通近い手紙も寄贈し、妻を伴って二度板東を訪問している。東フリースラントのレーア出身。(2900:松山→板東)
299) Hake(ハーケ),L.F.Heinrich:第3海兵大隊第6中隊・予備陸軍少尉。静岡時代、収容所当局によって禁じられていた英語教室が、数年にわたってこっそり開かれていたが、その主宰者であった。受講者は11名だった【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』177頁】。大戦終結後の19191228日、帰国船豊福丸で上記へルマン(Hermann)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。東フリースラントのレーア出身。(1732:静岡→習志野)
300) Halbritter(ハルプリッター),Robert]:国民軍・階級不明。[商人]。似島で死亡(年月日不明)。妻リーナ(Lina)は大戦終結まで、三人の子ども(いずれも12歳以下)と上海で暮らした。ケルン出身。(4527:大阪→似島)
301) Hallier(ハリーア),Kurt]:海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備副曹長。久留米時代の1919412日、久留米俘虜収容所劇団団長として、久留米俘虜収容所楽団指揮者レーマン(Lehmann)に対して感謝状を認めた。その感謝状の文面は、「久留米俘虜収容所楽団オットー・レーマン殿 久留米俘虜収容所劇団第50回上演に際して示された心遣いに対して、我々は貴殿と楽団員に深甚の謝意を表すものである。恐惶謹言 久留米俘虜収容所劇団団長 ハリーア」である【以上は、オットー・レーマンの子息ユルゲン・レーマン氏より資料の提供を受けた松尾名誉教授からの教示による】。ビーレフェルト出身。(1142:福岡→久留米)
302) Hamacher(ハーマッハー),Johann:海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。久留米時代、1918916日から、つちや足袋合名会社に木綿漂白の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。アーヘン出身。(1145:福岡→久留米)
303) Hamm(ハム),Heinrich1883-1954)]:海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等砲手。[ワイン醸造マイスター]。ワイン醸造を営む実家で5年間ワイン醸造及び樽製造の技術を学んだ後、1年間葡萄栽培学校で修業し、さらに2年間ケルンの「ヴォルムス」でワイン醸造並びに樽製造のマイスターとして従事した。1912年(大正元年)に駐独公使青木周蔵からの要請で、山梨県甲府市登美村葡萄園で栽培と醸造を指導した。月俸300円を得ていた【『戦役俘虜ニ関スル書類』中の「俘虜特殊技能調」より】。ハムは1912年の来日以来、毎日の天候・気候を初め、日常生活の細かい点に至るまで克明な日記を付けた。19141120日からの日記は、A5版ほどの分厚い帳面に、19191228日に帰国船喜福丸で出発するまで、ほぼ毎日続けられた。19161月から97日までは欠けている。没収から免れるために時に日記帳を秘密のケースに隠し、また冊数を節約するためか、細かい字で記入し、最後の頁にたどり着くと帳面を逆さまにして行間に記した。その分量はA4版で261枚に及ぶという。『習志野市史研究3』に生熊文氏によって訳出されたものは、ハインリヒ・ハムの甥に当たるカール・ハム氏によって抜粋され、時には要約されたものである。分量はA430数枚で、全体の8分の一程度である。ハムの日記はこれまで知られている俘虜による日記等と比較すると、類書の見当たらないほどに詳細である。言及している人名は、相当の数に上るものと思われる。全容が明らかになれば、東京及び習志野収容所での俘虜の生活の実態が細部に至るまで判明するものと思われる。東京時代の1216日から、台所での通訳の仕事に就いた。後に台所の業務をコルボフ(Colbow)とともに行うことになる。191597日に習志野収容所に移された後も、コルボフとともに台所班に割り振られた。ハムの元にはかなり頻繁にワインが届けられ、また山梨のワイン醸造業者小山氏等がハムを訪問している。1918115日の日記によれば、屠畜のためにハムはヤーン(Karl Jahn)と主計官及び見張りの兵とともに東京に出かけている。主計官は途中でワインを酒屋で調達して列車に乗り込む二人に渡した。しかしそれはワインではなく酒で、結局酒臭いままで食料事務所まで出かけた話が記述されている。その年の51日、ハムは鳩舎を完成させ、ノイナート(Neunert)から若い鳩のつがいをもらって飼い始めた。1918921日、ハム、ホルヒ(Holch)、ハスラッハー(Hasslacher)及びリーガー(Rieger)の四人の四阿が完成すると、ハムとホルヒは籤で北側の部屋になった。ホルヒとは親しく、隠している日記帳を時にホルヒに頼んで出してもらった。19191月になってから、習志野収容所でもスペイン風邪が襲い始めた。123日、ハムが阿屋から戻ると、第3中隊舎は立ち入り禁止になっていて、9人を除いた全員が罹患し、その9人が看護に当たっていた。ハムもたちまち罹患して396分の熱を出し、衛戍病院に運ばれた。【『『習志野市史研究3』所載の「ハインリヒ・ハムの日記から」(カール・ハム編/生熊文訳)より】。大戦終結して帰国後、許婚と直ちに結婚したが、5年の別離はお互いの心に大きな溝が生じ、子供にも恵まれず、寂しい晩年を過ごしたとのことである。故郷エルスハイムの男声合唱団団長を務め、「ヤパーナー」(日本人の意)のニックネームを付けられた。1997年、エルスハイムに記念碑が建立された。エルスハイムの生家には、習志野収容所で製作した手製のギターが遺品として遺されている【『『習志野市史研究3』所載の生熊文氏による「解題」より】。2003827日、ハムの生誕120年を記念してハムの故郷エルスハイムで記念行事が開かれ、習志野市のアマチュア混声合唱団「習志野第九合唱団」が招待された。現存する収容所演奏会のプログラムから、かつての俘虜によって歌われたことが確認されているドイツ歌曲や日本の四季の歌が合唱団によって披露された【『毎日新聞』2003629日付け「国産ワインを育てたハム氏生誕120年」の記事より。習志野氏教育委員会の星昌幸氏からの教示による】。ビンゲン郊外のエルスハイム(Elsheim)出身。(93:東京→習志野)
304) Hampe(ハムペ),Alexander:第3海兵大隊第7中隊・副曹長。[アルンホルト‐カルベルクArnhold,Karberg & Co.)上海支店]。丸亀時代の191682日、郷里コーブルク(Coburg)の商業顧問官ジーモン(Simon)夫人宛に絵葉書を出した。図柄は、収容所である御坊さんの門前通りを、日本人将兵に引率されて歩くドイツ人俘虜を写した写真である。文面はごく簡単な挨拶状【郵趣家三木充氏所蔵品より】。コーブルク出身。(1920:丸亀→板東)
305) Hanisch(ハニッシュ),Willy:第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。大戦終結後は、青島就職既定者として日本国内で解放された。ゲルリッツ出身。(465:久留米)
306) Hanns(ハンス),Emil:海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。マイレンダー(Mailänder)がレヒナー(Lechner)を通じて会った頃ハンスは、ドイツ海軍時代のことは一切思い出したくなく、フランス人愛国者としてもはやドイツとはなんの関わりもない、との姿勢であった。しかし、マイレンダー、レヒナーとの三人を結び付ける中国、日本での体験は、町長をしていたハンスの政治性をやがて上回り、三人の友情は生涯続いた【『クッツホーフから中国、日本へ』55頁】。ハンスの郷里の家でマイレンダーと肩を組んで写っているカラー写真が現存している【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のインターネットより】。シュトラースブルク州のエッテンドルフ出身。(1098:福岡→習志野)
307) Hansen(ハンゼン),Friedrich:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[クンスト・ウント・アルバース商会ウラジオストック支店]。シュレースヴィヒのフーズム出身。(2911:松山→板東)
308) Hansen(ハンゼン),Hans1894-):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1894911日、下記ヘルマン・リヒャルト(Hermann Richard)の弟としてフレンスブルクに生まれた。兄へルマン同様に音楽学校に通い、1913年フレンスブルクに戻った。その年の41日、フレンスブルクの歩兵第86連隊に2年志願兵として入隊した。兄同様に軍楽隊所属と思われる。日本で収容される際に何故かハンスは、郷里としてゾンダーブルク(Sonderburg)と申告している。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919826日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ヤスペルセン(Jaspersen)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、兄へルマン・ハンゼン、イェプセン(Jepsen)、カルステンス(Carstens)、ニールセン(Nielsen)の7名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。大戦終結して帰国後、ハンスは音楽家になったと思われる。20年代の半ばに故郷を出て、1927年には夫婦でサンフランシスコに住んだ。1939年以降及び第二次大戦後には再び郷里フレンスブルクに戻った【下記ハンス・ハンゼンの項を参照】。フレンスブルク出身。(1103:福岡→久留米→板東)
309) Hansen(ハンゼン),Hermann Richard1886-1927)]:海軍膠州砲兵隊第3中隊軍楽隊長・軍楽兵曹。18861126日、デンマークとの国境に近い、シュレースヴィヒのグリュックスブルクに生まれた。父ハンスは造船所工員、母はレギーナという名であった。兄弟には兄、妹そして弟(上記ハンス)がいた。一家がフレンスブルクに移ってから音楽家を目指し、オーデル川河口の港湾都市シュテッティンで音楽教育を受け、190431日にフレンスブルクの両親の元に戻った。1904526日海軍に入隊、1907731日予備役となり一時帰宅した後930日再入隊した。1909101日負傷して帰宅。1210日原隊に復帰した。【フレンスブルクのシュレースヴィヒ-ホルシュタイン新報編集部の、コンスタンツェ・カイザー=マイスナー氏より、鳴門市ドイツ館田村一郎館長に送られた歴史家ディーター・プスト(Dieter Pust)氏の調査資料による。プスト氏によって9代に遡るハンゼン家の系図が作成されている】。徳島時代の1915425日、「講演の夕べ」でハンゼン四重奏団を指揮して「戦闘前のドイツ人戦士の夢」を演奏した【『徳島新報』1915425日第4号より】。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919826日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ブロイニンガー(Bräuninger)、ヤスペルセン(Jaspersen)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、イェプセン(Jepsen)、カルステンス(Carstens)、ニールセン(Nielsen,弟ハンス・ハンゼンの7 名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。大戦終結してドイツに帰国後の19203月から、フレンスブルク市の広報係りなどを担当し、6月からは秘書官、参事を務めた。その年の514日、クラーラ・エンマ・マリーア・ペーテルセン(Klara Emma Maria Petersen1897-1966)と結婚、休日には音楽活動として合唱クラブ「フェニックス」に参加し、1925年からはその指揮者を務めた。1927327日に亡くなり、フレンスブルクのミューレン墓地に葬られた。【2001年秋、フレンスブルクを訪問してハンゼンの調査を依頼した田村館長等の活動は、地元に大きな反響を呼んだ。その後の2002年以降、地元の新聞に何度かにわたってハンゼンと板東収容所との関わりが報じられ、これまで知られていなかった写真(板東収容所でのハンゼンを囲む大勢の俘虜達)も掲載されている】。グリュックスブルク(Glücksburg)出身。(4185:大阪→徳島→板東)
310) Harcks(ハルクス),Franz:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[ハンブルク・アメリカ汽船上海支店]。ハンブルク出身。(1927:丸亀→板東)
311) Hardel(ハルデル),Hans]:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。丸亀時代の1915327日、検閲で所持していた青島戦争絵葉書12枚を没収された【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。大戦終結後は青島に戻り、自動車修理工場を経営した。ベルリン出身。(1923:丸亀→板東)
312) Härter(ヘルター),Robert:第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。板東時代、シュミッツ(Schmitz;【同姓が2名いて、特定は不可】)とビールとタバコの販売をした。【なお『俘虜名簿』では、ヘルターの綴りが〈Herter〉と誤って記載されている】。バーデンのイスプリンゲン(Ispringen)出身。(2919:松山→板東)
313) Haertle(ヘルトレ),Thaddaeus1888-1968)]:第3海兵大隊第3中隊・1年志願2等歩兵。西プロイセンのポーゼン州に生まれた。父親はポーランド人で、村四つ分の地所を所有する大農場主であった。母親はイギリス人。フランスとドイツの大学で農学を学んだ。1916109日、ヴァルシェフスキー(Waluschewski)とともに、久留米から丸亀に移送された。晩年は大学で英会話の教師を務めた。兵庫県西宮市の自身が建てた家でガンにより死去。【安宅温『父の過去を旅して』より】。ポーゼン州ボムスト県のピリーメントドルフ出身。(491:久留米→丸亀→板東)
314) Hartzenbusch(ハルツェンブッシュ),Josef]:海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備2等機関兵曹。[自動車修理業]。身長190センチの大男だった。1915915日、他の94名とともに福岡から移送されて習志野収容所に到着した。習志野弦楽四重奏団の一員で、ヴィオラを担当した。他の三人はミリエス(第一ヴァイオリン)、ヴォストマン(第二ヴァイオリン)及びテーン(チェロ)である。また、日本人将校の一人にドイツ語を個人教授した【『ポツダムから青島へ』211頁】。妻エリーザベト(Elisabeth)は大戦終結まで、子ども(12歳以下)と二人上海で暮らした。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(1099:福岡→習志野)
315) Hasche(ハシェ),Johannes:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ武漢支店]。ライプチヒ地区のオシャッツ(Oschatz)出身。(2912:松山→板東)
316) Hasslacher(ハスラッハー),Karl:海軍東アジア分遣隊第1中隊・後備伍長。1918921日、ハム(Hamm)、ホルヒ(Holch)、ハスラッハー及びリーガー(Rieger)の四人の四阿が完成すると、ハスラッハーとリーガーは籤で南側の部屋を得た【ハインリヒ・ハムの項参照】。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本で解放された。ブレンツ河畔のハイデンハイム出身。(89:東京→習志野)
317) Hastedt(ハシュテット),Wilhelm:第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。似島時代の19193月、広島物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に当って、アルブレヒト(Albrecht)、ボーテ(Bothe)、クット(Kutt)リースフェルト(Liessfeldt)及びヴェントラー(Wendler)とともに通訳を務めた。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。エルベ河畔のフライブルク出身。(4521:大阪→似島)
318) Haun(ハウン),Wilhelm:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。徳島時代の1915420日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したハウンは4組(出場者総数21名)の内の第4組に割り振られたが4位に終わり、本戦のB級進出に留まった。ヘッセンのゼーハイム出身。(4183:大阪→徳島→板東)
319) Haupt(ハウプト),Adolf:第3海兵大隊第7中隊・伍長。[青島のアードルフ・ハウプト印刷所経営者]。青島のドイツ人社会で広く読まれたブンゲ(Bunge)の『膠州の1898年から1901年。一兵卒の回想録―海軍歩兵第3大隊の平時と戦時』等の印刷・出版をした。妻カタリーナ(Katharina)は大戦終結まで、四人の子どもと上海で暮らした。アーヘン出身。(1921:丸亀→板東)
320) Haupt(ハウプト),Wilhelm]:所属部隊・階級不明。[青島のアードルフ・ハウプト印刷所]。【前記アードルフ・ハウプトの身内と思われる】。アーヘン出身。(4532:大阪→似島)
321) Hauten(ホーテン),Josef van1879-1963)]:第3海兵大隊第6中隊・後備伍長。[食肉加工職人]。187964日、7人兄弟の末っ子としてドゥイスブルクに生れた。小学校を出た後、食肉加工職を仕事として選んだ。1898年(もしくは1899年)、恋の悩みから家を飛び出て、アフリカへの旅に赴いたと思われる。海軍歩兵大隊に志願したヴァン・ホーテンは、1900925日に上海に赴いた。ジブラルタルやポート・サイドからの葉書が遺されている。1901612日付けで北京から出された葉書は、手書きの竜を描いたものである。190197日付けのナポリからの葉書等は、ヴァン・ホーテンがドイツへ帰還したことを示す。19041111日付けで青島から出された葉書は灯台を、また123日付けのものは青島桟橋をあしらったもので、この時期には青島にいたことを示す。1905年には都合14通の葉書を中国からドゥイスブルクに出している。1906年にはドイツへ再び戻っている。1907年から1914年にかけて青島周辺の写真絵葉書をドイツに送っている。19172月と191845日には千葉(習志野?)から出された葉書が現存している。第一次大戦が終結して解放後、ヴァン・ホーテンは明治屋に月給200円で迎えられた。1919年のクリスマスに書かれた兄弟宛の手紙には、東京の銀座にある上記明治屋への就職のことがつづられている。19205月中旬頃、後に結婚することになるハンブルク出身のトーニ・ヘッパー(Toni Höpper)が、ドイツ(推定)から日本へやって来る。192391日に起こった関東大震災でトーニは死亡した。1924621日、山東省の省都済南で二度目の妻マリアンネ・ピュッツフール(Marianne Pützhuhl)と結婚。1925年、娘のギーゼラ(Gisela)誕生。19272月、ハワイ、アムステルダムを経由してドイツへ旅した。ドイツから中国に戻ると芝罘(チーフー)に家族で赴いた。19281219日、芝罘で次女イルムガルト(Irmgard)誕生。1930年代、ヴァン・ホーテンは飛行船ツェッペリン号でヨーロッパからアメリカに向かったとも推測されている。1949年(あるいは1950年)、共産中国によってある宣教師とともに牢獄に入れられて、水責めにもあったと言われる。1950年代には中国産品の貿易に携わった。ロストックに土地を所有していたが、東ドイツ政府によって恐らく没収された。1963811日、ヴェストファーレンのハーゲン郊外アムブロック(Ambrock)に84歳で没した【ヴァン・ホーテンに関する本項目は、縁者を訪れてその生涯についての情報を得たハンス=ヨアヒム・シュミット氏からの教示による】。ドゥイスブルク出身。(4372:熊本→大分→習志野)
322) Hecht(ヘヒト),Joachim:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[シュヴァルツコップ青島支店]。ブロンベルク地方のグサワ(Gousawa)出身。(1926:丸亀→板東)
323) Heck(ヘック),August:海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとヘックはオブリガート・ヴァイオリン担当した。トリーア県のミュールフェルト出身。(3379:熊本→久留米)
324) Heckmann(ヘックマン),Johann:海軍東アジア分遣隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、第45室でビール販売をした。フライエンオール(Freienohl)出身。(1128:福岡→久留米→板東)
325) Heckscher(ヘックシャー),Robert:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[クルーゼ商会(Kruse & Co.)香港支店]。ハンブルク出身。(2907:松山→板東)
326) Hegele(ヘーゲレ),Anton:海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[パン職人]。フェーリンゲンシュタット(Vehringenstadt)出身。(1134:福岡→名古屋)
327) Heggblom(ヘックブローム),Heinrich:第3海兵大隊・上等歩兵。[径井鉱山]。ハンブルク出身。(3369:熊本→久留米→板東)
328) Heims(ハイムス),Karl]:第3海兵大隊第2中隊・予備伍長。109日、俘虜の第一陣として久留米に到着し、下士卒用の収容先である、久留米市日吉町の大谷派久留米教務所に収容された。4班に分けられた内の第4班の班長を務めた。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとハイムスは、オブリガート・ヴァイオリンを担当した。オスナブリュック出身。(479:久留米)
329) Heinrich(ハインリヒ),Xaver]:第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。[麦酒醸造職人]。メンスベルク(Mensberg)出身。(1148:福岡→久留米)
330) Heinzel(ハインツェル),Arthur Walfried]:国民軍・補充予備兵。[運送業]。キール出身。(4678:大阪→似島)
331) Heinzel(ハインツェル),Otto J.:海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等兵曹。徳島時代の1916127日、ルフ(Ruff)作の3幕劇『戦争花嫁』に、主役の老水先案内隊長ラルゼンを演じた【『徳島新報』第19号(1916130日発行)より】。板東時代の191836日、エンゲル2等歩兵と共に「演芸会」の指導をした。キール出身。(4184:大阪→徳島→板東)
332) Heise(ハイゼ),Johannes1882-1969):海軍膠州砲兵隊第1中隊・副曹長。[金属製建具等組み立て職人]。1902年、12年の予定で海軍に応召した。1913年、休暇で郷里に戻った折、1年後には結婚を約束した後の妻とは結局7年離れ離れとなった。ハイゼの多量の遺品は、娘のエルゼ・ハイゼ(Else Heise)によってヴュルツブルクのシーボルト博物館に寄贈された。大戦終結して帰国後、ハイゼは直ちに結婚し、また郡役所に勤務したが、従軍期間が長いことから、倍の勤務と換算され、ほどなく年金生活に入った。ハイゼは収容中、日本語も中国語も習得しようとは全く考えなかったが、苗字ハイゼを漢字で当てた指輪の印を持ち帰った。それはハイゼ(Heise)の音に近い「Hai-zi」から当てた「海子」で、海軍兵士にちょうどぴったりだと考えたものと思われる。娘のエルゼの記憶では、似島の俘虜達は時に口にするものがろくになかったことがあったが、それでもハイゼは決して日本人の悪口を言うことはなかった、とのことである。1954年ハンブルクで、かつての青島戦士の集まりがあり、ハイゼもそれに出席した。エルゼはやがて父の足跡を辿るべく、青島を旅行した。【メッテンライター『極東で俘虜となる』82-83 】。カッセル近郊のノイキルヒェン出身。(3927:大阪→似島)
333) Heizmann(ハイツマン),Ernst:第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代、第7棟の5室で理髪業を営んだ。シュトゥットガルト出身。(2899:松山→板東)
334) Helbig(ヘルビヒ),Karl:第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。191912月のクリスマスは、クルーゲ(Kluge)、マル(Marr)及びヴルフ(Wulff)の四人で過ごした。ヴォルムス出身。(494:久留米)
335) Helgen(ヘルゲン),Wilhelm-1961)]:砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。青島攻防における海戦で海に転落した際、味方のドイツ軍が逃げ出す中、日本の軍艦に救助され俘虜になったとのことである。大戦終結後、ポナペ島で実業家として成功し、第二次大戦では日本軍に多額の献金をした【『ドイツ兵士の見たニッポン』124頁】。東カロリン群島のポナペ島出身。(305:東京→習志野)
336) Hellmann(ヘルマン),Eduard:第3海兵大隊第6中隊・上等歩兵。上海から応召か?大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(2550:名古屋)
337) Hellmuth(ヘルムート),Jean1895-1917)]:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。徳島時代の1915420日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したヘルムートは4組(出場者総数21名)の内の第3組に割り振られ、3位で本戦B級進出に留まった。191797日、肺結核により徳島陸軍衛戍病院で死亡した【『欧受大日記』大正十三年三冊之内其一は、ドイツ人戦没者及びその墓地等に関する資料集成でもある。1920年(大正11年)1221日付けの陸軍省副官松木直亮【元熊本俘虜収容所長で、後に陸軍大将になった】からの照会に対し、翌1921131日付けの第11師団参謀長浅田良逸の回答は、リーデル(Riedel)と並んで設けられたヘルムートの墓碑には、次のドイツ文が刻まれているとの報告をしている。「Hier ruht in Gott Matrosenartillerist Jean Hellmuth geb.11.3.1895 in Mayen b/Coblenz gest.7.9.1917 in Kriegsgefangenschaft in Tokushima」。【なお、墓地所在地として記されている徳島県名東郡加茂名町の陸軍墓地は、眉山中腹にあり、今は西部公園と呼ばれている。公園は1989年から三次にわたって整備され、今日では二人の墓碑のほかに「ドイツ兵の墓」、日独両語による「墓碑」及び、ニュルンベルク近郊在住の彫刻家ペーター・クシェル(Peter Kuschel)氏寄贈の「悲しみを超えて」の記念碑がある。参照:石川栄作「二人のドイツ兵墓地」】。コーブレンツ近郊のマイエン出身。(4182:大阪→徳島→板東)
338) Helm(ヘルム),Wilhelm1891-1951)]:第3海兵大隊・予備伍長。1891108日横浜に生まれ神戸で育った。母親は日本人で、12歳の時死別した。父ユリウス・ヘルムは1869年に来日し、和歌山藩の兵学指南を務めた。廃藩置県後、神戸でヘルム兄弟商会を興し、東京、大阪、京都にも支店を置き、日本人を100人ほど雇用していた。19148月、神戸から青島に応召した。116日の戦闘で腕部を負傷して捕虜となった。日本語の方がドイツ語よりも達者で、収容所では通訳を務めるなど重要な役割を担った。ヘルムには日本女性から頻繁に英文の手紙が届いた。熊本時代の1915114日、父ユリウスが細工町の西光寺収容所に収容されていた息子ヴィルヘルムの面会に訪れた。その折り、炊事場の改良費として50円を寄贈した。久留米時代の1916719日、タウディーン(Taudien)とともに逃亡したが、国分の日吉神社付近で捕まった。この事件は真崎甚三郎所長と警察側との対立を引き起こして大問題となった。二人は重営倉30日に処せられた。同年9月新設の青野原収容所へ収容所替えになった。青野原には兄のジェームス・ヘルムが時々面会に訪れたようである。解放後は横浜に住んだが、第二次大戦後の1947年、家族とともにドイツへ送還された。1951年、ヴィースバーデンに没し、翌年本人の遺志に添って遺骨は横浜の外人墓地にへ移された【この項は、『新聞集成 大正編年史』大正三年度版下、787789頁及び『ドイツ軍兵士と久留米』152頁による】。神戸出身。(3368:熊本→久留米→青野原)
339) Henningsen(ヘニングセン),Kurt:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代、第45室においてヒンツ(Hinz)とブロートニツキ(Brodnitzki)の代理でミネラルウオーターを販売した。ハンブルク出身。(2909:松山→板東)
340) Hentschel(ヘンチェル),Hermann]:海軍野戦砲兵隊・副曹長。板東時代、ドイツ式ハンドボール協会「壮年」のコーチを務めた。エルスター河畔のヘルツベルク出身。(2923:松山→板東→習志野)
341) Henze(ヘンツェ),Arthur:海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。[ジータス-プラムベックSietas,Plambeck & Co.)青島支店]。徳島時代の1915420日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したヘンツェは4組(出場者総数21名)の内の第3組に割り振られたが、5位に終わり本戦のB級進出に留まった。1972年(昭和47年)731日、ドイツ館に1万円を寄付した【西田素康「現代によみがえる板東俘虜収容所」109頁(所載:『地域社会における外来文化の受容とその展開』―「板東俘虜収容所」を中心として―】。ヴァンツベック出身。(4186:大阪→徳島→板東)
342) Henze(ヘンツェ),Wilhelm]:第3海兵大隊参謀本部・予備伍長。[ベンク・ウント・クレッチュマー商会青島支店]。ヴェッツラー出身。(2926:松山→板東)
343) Herborth(ヘルボルト),Heinrich:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、ホルトカンプ(Holkamp)とタパタオの10号小屋で写真屋を営んだ。ブレーメン出身。(1910:丸亀→板東)
344) Hering(ヘリング),August:国民軍・曹長。妻アッディー(Addi)は大戦終結まで、子ども四人と青島に留まった。。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として、日本国内で解放された。ブレーメン出身。(3390:熊本→久留米)
345) Herke(ヘルケ),Richard1893-):海軍兵站部・2等筆記。1912年に前記の職に就いた。1915628日付けでオーデル河畔のフーゴー・ヘルケから出された、姫路のヘルケ宛の葉書が遺されている。また、19161217日には久留米のヴィースト(Richard Wiest)から、青野原のヘルケ宛の絵葉書(久留米名所としての歩兵第56連隊の正門前を写した写真)が出された。さらに1917328日、福岡のシュミット(Fritz Schmidt)から青野原のヘルケに宛てた絵葉書(箱崎八幡宮)が出された。また、191911月に写されたアルヴィン・プロイス(Alwin Preuss)の写真、及び青野原収容所の全景写真がヘルケの遺品中に遺されている【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。オーデル河畔のフュルステンベルク出身。(2212:姫路→青野原)
346) Herling(ヘルリング),Heinrich:砲艦ヤーグアル乗員・2等焚火兵。習志野時代の1919107日、習志野演芸会の第2部で上演されたケルン風茶番劇「むちゃくちゃな夜」に、召使シェールの役で出演した。ケルン出身。(105:東京→習志野)
347) Hermann(ヘルマン),Fritz1868-):海軍衛戍本部・1等衛戍監督。妻アデーレ(Adele)は大戦終結まで子ども三人と青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として、日本国内で解放された。ベルリン出身。(508:久留米)
348) Hermann(ヘルマン),Johann:第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。19191231日、別れに来る人全員にコーヒーを振舞った。クルーゲ(Kluge)も7時半にヘルマンの元へ出かけて、図書室で二人20分ほどを過ごした。ヘルマンは帰還する人たちが収容所を出ると、トランペットで故郷行進曲を吹いた。大戦終結後の1921113日、蘭領印度のロア・ブレア(Loa Breah)から、故郷のクッツホーフ(Kutzhof)に戻ったマイレンダー(Mailänder)に宛てて便箋3枚の手紙を出した【マイレンダーの項参照】。エルザス・ロートリンゲンのズルツバハ出身。(495:久留米)
349) Hermey(ヘルマイ),Johann:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。丸亀時代の1915212日、ゼーガー(Seeger)と脱走を企てたが14日に辻村で発見され逮捕、禁錮1年の刑を受け高松刑務所に収監された【『丸亀俘虜収容所記事』より】。ルール河畔のミュールハイム出身。(1907:丸亀→板東)
350) Hertling(ヘルトリング),Georg Freih.v.]:第3海兵大隊第1中隊・陸軍少尉(男爵)。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとヘルトリングは、第1ヴァイオリンを受け持った。久留米収容所の音楽活動においてヘルトリングは、フォーク及びレーマンに継ぐ存在であった。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、ヘルトリングは191962日に開催されたサッカーの試合に出場した。大戦終結して帰国間近の19191215日、久留米での最後のシンフォニー・コンサートが開催された。その時収容所でベートーヴェンの第九全曲が演奏されたが、その演奏の指揮者と推測されている。ヴュルツブルク出身。(459:久留米)
351) Heyn(ハイン),Alfred:海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備伍長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(1144:福岡→名古屋)
352) Hiller(ヒラー),Kurt:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。マイセン市の郷土史家によれば1914年に19歳で俘虜となり、大戦終結して解放後は中国、日本で働き、1938年にマイセンに帰郷した【この項は、松尾名誉教授の「「ドイツ牧舎」(徳島板東)指導者クラウスニッツァーの生涯」99頁による】。マイセン郊外のニーダーヤーナー出身。(1734:静岡→習志野)
353) Hinner(ヒンナー),Robert:皇后エリ−ザベト乗員・海軍機関中尉。姫路時代、他の将校7名及び従卒5名とともに、妙行寺に収容された。大正4年(1915年)99日付けの『神戸又新日報』に次の記事が掲載された。「ヒンナー中尉は、6月中戦功により大尉に昇進した趣、本国友人よりの通信に接したから大尉の給料を支払へと請求したが、敵国に俘虜の身でありながら馬鹿な事を云え日本政府は之を認めて居らぬと一喝されて引き下がったが、早速裁縫師を呼んで大尉の軍服を新調させ大威張」。【藤原龍雄「第一次世界大戦と姫路俘虜収容所」、『文化財だより』第50号、5頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ウイーン出身。(2217:姫路→青野原)
354) Hinz(ヒンツ),Carl]:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。青島で応召か?丸亀時代の19161016日、アルバース(Albers)、クラウスニッツァー(Claussnitzer)及びデーゼブロック(Desebrock)の四人で相互扶助を目的とする収容所保険組合を結成した。これが後に松山、徳島の俘虜達と合流した板東収容所での、大規模な健康保険組合のモデルとなった。ホルシュタインのブリースドルフ出身。(1915:丸亀→板東)
355) Hirche(ヒルヒェ),Hugo:海軍膠州砲兵隊第2中隊・後備1等砲兵。。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ブランデンブルクのトリーベル出身。(3918:大阪→似島)
356) Hirsch(ヒルシュ),Karl:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[北ドイツ・ロイド汽船]。マグデブルク出身。(2914:松山→板東)
357) Hirsch(ヒルシュ),Wilhelm:第3海兵大隊第7中隊・副曹長。芝罘から応召した。丸亀時代の191589日、飼い犬が補助将校木原少尉に乱打されたと、書面で訴え出た。しかし、収容所所員に対して吠え立て、巡邏業務を妨害したもので当然の仕打ちである、飼い主は今後の飼い方に相当の注意をしなければならないと、戒められた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。リューベック出身。(1918:丸亀→板東)
358) Hitzemann(ヒッツェマン),Karl:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[メルヒャース上海支店]。ブレーメン出身。(2913:松山→板東)
359) Hoch(ホッホ),Josef:第3海兵大隊第5中隊・2等砲兵。板東時代、191844日から6日の三日間、ブランダウ演劇グループによるクライストの『壊れ甕』の上演に際して、ブリギッテ夫人役で出演した。【『バラッケ』第2巻、33頁】。オッペナウ出身。(3366:熊本→久留米→板東)
360) Hoeck(ヘック),Josef:皇后エリーザベト乗員・2等水兵。姫路時代の1915319日、祖国の祝祭を祝うために買ったビール三本が紛失し、同輩のメッスチル(不詳)に嫌疑をかけたことがきっかけで、ザルナ(Sarna)と喧嘩を始めた。そこにヘックに味方したスリツフェル(不詳)がナイフでザルナに切りかかった。この事件でスリツフェルとヘックは処罰された【藤原「第一次世界大戦と姫路俘虜収容所」13頁】。インスブルック出身。(2231:姫路→青野原)
361) Höcker(ヘッカー),Wilhelm:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、第47室でハーベレヒト(Haberecht)及びブロードニツキー(Brodnitzki)とゴミ処理会社を営んだ。ハノーファー近郊のプラントリュンネ出身。(1912:丸亀→板東)
362) Hodapp(ホーダップ),Karl:海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。大戦終結後は、特別事情を有することから日本国内での居住を希望した。カールスルーエ出身。(4379:熊本→大分→習志野)
363) Hoffmann(ホフマン),Karl:海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。[乾酪製造業]。ザクセンのニーダークロビカウ出身。(1089:福岡→名古屋)
364) Hoeft(ヘフト),Emil:所属部隊なし・階級なし。[ジームセン商会社長]。大阪時代の1915325日、ベンク・ウント・クレッチュマー商会社長のベンク(Benk)とともに陸軍省に宛てて請願書を提出した。それはディーデリヒセン商会社長等青島の大商人6名が、俘虜として送還される前の2ヵ月間ほど用務整理の期間を与えられたことから、自分たちにもその機会を与えるべく23ヶ月の青島帰還の許可を願うものであった【『欧受大日記』大正十一年一月より】。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。シュテッティン出身。(4531:大阪→似島)
365) Hoeft(ヘフト),Max]:海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。板東時代の191852日、東久邇稔彦王が四国旅行で徳島に立ち寄った際、急遽撫養で俘虜による作品展示会が特別に開催された。その折ヘフトは錨のモデルを制作出品し、それが買い上げられた。他に、ボーン、グヌシュケ、クヴィンテン(Quinten)の作品も買い上げられた。また、タパタオの14号小屋でシュトリーツェルと鍛冶屋、金属加工を営んだ。エルザスのカイザースベルク出身。(4170:大阪→徳島→板東)
366) Höhne(ヘーネ),Kurt:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[クンスト・ウント・アルバース商会ウラジオストック支店]。板東時代、第57室でビール販売を営んだ。ライプチヒ出身。(2910:松山→板東)
367) Holch(ホルヒ),Heinrich:海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備上等歩兵。19194月、東京石鹸株式会社で石鹸製造の指導を行った。ハインリヒ・ハム(Hamm)と親しかった。習志野時代、ハムが没収を警戒して秘密の箱に隠しておいたその日記を、ハムに頼まれて時折取り出してはハムに渡していた。1918921日、ハム、ホルヒ、ハスラッハー(Hasslacher)及びリーガー(Rieger)の四人の四阿が完成すると、ホルヒとハムは籤で北側の部屋になった【「ハインリヒ・ハムの日記から」より】。シュヴェービッシュ・ハル出身。(92:東京→習志野)
368) Holzwart(ホルツヴァルト),Friedrich:海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備2等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。バーデン=ヴュルテンベルクのバックナング(Backnang)出身。(4375:熊本→大分→習志野)
369) Hopp(ホップ),Alfred]:第3海兵大隊機関銃隊・予備陸軍少尉。[中国ジーメンス北京支店・技師]。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、1919610日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、57?点を獲得して第10勝者になった。ドルトムント出身。(3377:熊本→久留米)
370) Hörmann(ヘールマン),Heinrich:国民軍・上等歩兵。[港湾管理局]。オルデンブルク近郊のアーペン出身。(2930:松山→板東)
371) Höss(ヘス),Gottlob1892-1975):海軍膠州歩兵隊第4中隊・2等砲兵。マイレンダー(Mailänder)が第二次大戦後にコンタクトを取った人物【『クッツホーフから中国、日本へ』55頁】。ネッカルテンツリンゲン(Neckartenzlingen)出身。(1096:福岡→大分→習志野)
372) Hoyer(ホイアー),Christian:第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[アーレンス後継商会神戸支店]。大戦終結して解放後は、蘭領印度のバタヴィアに渡った。ブレーメン出身(『俘虜名簿』では神戸)。(2927:松山→板東)
373) Hubbe(フッベ),Fritz1887-1918)]:海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備1等水兵。1918621日、板東収容所北東約4キロにある樋殿谷(ひどのだに)の溜池で、遊泳中に心臓麻痺を起こして死亡した。樋殿谷伐採場で材木運搬に従事し、汗を流すために溜池に入って遊泳、池の中央付近で突然水の中に沈んでしまったのであった。遺体は日本の規定で火葬に付された。フッベ追悼の記事が『ディ・バラッケ』第2巻第14号(1918630日号)に掲載された。それによるとフッベは、郷里マグデブルクでケーキ職人として徒弟時代を過ごした後に船舶業務に就き、北ドイツ・ロイド汽船の船に乗り込み、やがてロンドンに滞在し、戦争直前に天津に来て応召したとのことである。【『バラッケ』第2巻、268頁】。マグデブルク出身。(4179:大阪→徳島→板東)
374) Huber(フーバー),Bernhard:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[フーアマイスター(Fuhrmeister & Co.)上海支店]。ミュンヘン出身。(1924:丸亀→板東)
375) Huebner(ヒュープナー),Max]:海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。徳島時代、『徳島新報』の印刷に従事した。ベルリン出身。(4181:大阪→徳島→板東)
376) Hühn(ヒューン),Gustav]:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとヒューンは、クラリネットを受け持った。バーデンのクーバハ(Kuhbach)出身。(481:久留米)
377) Hülsenitz(ヒュルゼニッツ),Rudolf]:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[東亜ロイド新聞Ostasiatischer Lloyd)]。板東時代、『板東俘虜収容所案内記 1917/8』(Adressbuch für das Lager Bando 1917/8)を収容所内印刷所から出版した。ベルリン出身。(1925:丸亀→板東)
378) Hummel(フンメル),Alfred:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。ハイルボルン出身。(2917:松山→板東)
379) Hünecke(ヒューンエッケ),Carl:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ上海支店]。ハンブルク出身。(2904:松山→板東)
380) Hunte(フンテ),Karl:第3海兵大隊第3中隊・副曹長。妻リーナ(Lina)は二人の子(ともに12歳以下)と大戦終結まで上海で暮らした。ヴェストファーレンのリュベッケ出身。(482:久留米)
381) Huppertz(フッペルツ),Max:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、リスト(List)とタパタオの3号小屋で菓子店を営んだ。クレーフェルト出身。(1906:丸亀→板東)
382) Huse(フーゼ),Hermann]:第3海兵大隊第3中隊・軍曹。109日、俘虜の第一陣として久留米に到着し、下士卒用の収容先である、久留米市日吉町の大谷派久留米教務所に収容された。4班に分けられた内の第1班の班長を務めた。テューリンゲンのミュールハウゼン近郊出身。(483:久留米)
383) Iffli(イフリ),August:海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等工兵。大阪収容所は1917219日に閉鎖されたが、同年38日時点で大阪衛戍病院に入院していた。宣誓解放された。ロートリンゲンのアルトリス出身。(4533:大阪→似島)
384) Immerheiser(イムマーハイザー),Friedrich:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代、第63室でビールとタバコの販売店を営んだ。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ビンゲン出身。(1931:丸亀→板東)
385) Irmer(イルマー),Fritz:砲兵兵站部・2等掌砲兵曹。妻エルナ(Erna)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)。(2237:姫路→青野原)
386) Iserlohe(イーゼルローエ),Paul]:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。郵趣家イェキッシュ氏所蔵になるイーゼルローエの日記が、生熊文氏の抄訳で『ドイツ軍兵士と久留米』(137-141頁)に紹介されている。紹介されている部分は、1914109日から191533日までである。到着早々の1015日の記述には、日本の僧侶等の団体が定期的にお土産を持参して面会に来たこと、また婦人会が訪れてプレゼントを直に手渡したことが記されている。リュートゲン=ドルトムント出身。(513:久留米)