1) 青島収容所:「開城實施手續規定」の中に、「俘虜委員ハ海泊河以北の諸村落ニ俘虜ヲ収容スヘシ」(『日獨戰史』上巻、1013頁)の記述があるが、具体的な場所、建物等は不明。四方周辺に点在した独軍のバラックを指すかとも推測される。しかし、俘虜移送完了後は若鶴兵営(旧モルトケ兵営)に青島収容所が設けられて、国民軍等の新たな俘虜が一時期収容された。→本文6頁)
2) 宣誓解放:1907年(明治40年)にオランダのハーグで調印され、1912年に公布された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」の第2章俘虜の第10条には、「俘虜ハ其ノ本国カ之ヲ許ストキハ宣誓ノ後解放セラルルコトアルヘシ此ノ場合ニ於テハ本国政府及之ヲ捕エタル政府ニ對シ一身ノ名誉ヲ賭シテ其ノ誓約ヲ厳密ニ履行スルノ義務ヲ有ス」とある。【『俘虜ニ関スル法令及例規』(俘虜情報局発行;「日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂」)より】→本文6頁)
3) ドレンクハーン:ハンス・ドレンクハーン(Hans Drenckhahn)はジーメンス社東京支社長。日独開戦後、東京、横浜、神戸にドイツの救援委員会が設立されたが、その内の東京救援委員会の責任者になった。当時、東京市牛込区田町3-21に住んでいた。191410月、最初の俘虜が久留米に到着するとすぐに収容所を訪問した。やがて各地の収容所を訪れ、義捐金、慰問品、新聞雑誌等書籍更には楽器などを俘虜に届けた。またそうした収容所訪問の折り、各収容所での待遇等を俘虜と対面して聞き取り調査も行い、調査の結果をドイツ本国に報告した。→本文8頁)
4) 石井彌四郎:初代丸亀俘虜収容所長。1914年(大正3年)1111日、歩兵第12連隊附歩兵中佐から丸亀俘虜収容所長に任命された。1916121日に大佐に昇任した。同年38日から病気のため引き篭もり、やがて休暇を申請する。45日なお引き続き3週間の休暇を請願したところ、410日付けで所長を免じられて待命となり、納富廣次歩兵少佐が第二代収容所長となった。→1
5) 丸亀俘虜収容所日誌:参考文献13)の項を参照。『丸亀俘虜収容所日誌』は、全俘虜収容所日誌の半分近くを占める分量を誇る。その詳細な記述により、俘虜収容所の管理・運営等をつぶさに知ることが出来る貴重な資料である。→1
6) ティルピッツ街:アルフレート・フォン・ティルピッツ( Alfred von Tirpitz1849-1930)に因む街路名。ティルピッツは1896-1897年まで、ホフマン少将の後任としてドイツ東洋艦隊の司令長官を務めた。膠州湾を給炭港として最適との判断を下した。1897年海軍次官、1911年海軍元帥、1916年海軍大臣。無差別Uボート戦支持者として首相ホルヴェーク(Bethmann Hollweg)と衝突して退任した。『回想録』(1920)を遺した。→6
7) 予備:本資料には、階級名及び所属部隊名として、予備、後備、補充予備及び国民軍の語が頻出する。そこでこれらの用語を、『ディ・バラッケ』第1xxivxxv頁の解説(大和啓祐解説)を借用して説明する。1888年制定のドイツ兵役法によれば、満17歳から満45歳までの男子は在営服務義務もしくは国防義務を負うものと定められ、徴兵検査に無条件あるいは条件付で合格した20歳以上23満未満は現役、23歳以上27歳未満は予備役、27歳以上32歳未満は第一後備役、32歳以上39歳未満は第二後備役、それ以外の者は補充予備役(20歳以上32歳未満)、または第一国民軍役(17歳以上40歳未満)、第二国民軍役(40歳以上45歳未満)に属する。なお、日独戦争の勃発に際して総督府は、191483日に予備、後備、補充予備を召集する動員令を発布した。→10
8) カルロヴィッツ社:中国で営業活動をした数多くのドイツ商社の中でも、ドイツを代表する大商社。創業者のリヒャルト・フォン・カルロヴィッツ(Richard von Carlowitz)はプロイセンとザクセン両王国の広東領事も務めた。中国語の社名は禮和洋行。青島の有力企業30社で構成され、青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、輸出入、船舶代理、保険。【『青島研究資料』中の「青島商業会議所報告」51頁より】。大港沿いの一画(日本の占領・統治時代の三條町、堺町にかけて地域)三ヶ所に、計14518u(4400坪)の地所を所有していた。日独戦争による青島における損害額は約20万マルクといわれる【Bauer,Wolfgang:Tsingtau 1914 bis 1931209頁】。→11
9) アーレンス後継商会:1871年にハンス・アーレンス(Hans Ahrens-1886)が築地42番で開業し、やがて横浜及び神戸にも支店を置いたアーレンス商会の後継商社。各種ヨーロッパ製品、特にアニリン染料、化学薬品、織物,綿花の輸入を手がけた。北ドイツ・ロイド汽船の代理店でもあった。1945年まで存続した。→12
10) 『ディ・バラッケ』:『ディ・バラッケ』(Die Baracke)は、板東収容所で1917930日の第1号から19199月号まで、まる2年に亘って発行された俘虜の印刷・発行による収容所新聞。19194月までは毎週日曜に週間で、19194月から9月の4ヶ月間は月刊で発行された。合計2720頁に及ぶ。その内容は、収用所内で行われたコンサート、演劇、懸賞附き応募作文の優秀作の掲載、俘虜作品展示会の様子などを記した収容所での出来事に留まらず、戦況記事、政治・経済問題、地質学術的論文、徳島の地理・風土、チェスの詰め将棋等多種多様な記事が掲載されている。ドイツ語原文は、ドイツ文字筆記体による手書きを謄写印刷したものである。徳島収容所での『徳島新報』と松山収容所での『陣営の火』発行に携わった人々を中心に発行された。編集委員としては、マルティーン(Martin)中尉、ゾルガー(Solger)予備少尉、ラーハウス(Rahaus)予備火工副曹長、ゴルトシュミット(Goldschmidt)予備副曹長、メラー(Moeller)予備軍曹、マーンフェルト(Mahnfeld)後備伍長の6 名(後に変動あり)。鳴門市ドイツ館史料研究会によって、1918929日の第27号(通巻第53号)分までが2冊本で既に翻訳・刊行され、同時にラテン文字化したものも刊行されている。→16
11) ブラゴヴェシチェンスク:アムール川(中国名は黒龍江)に面したロシアの軍事的要衝の町。義和団事件の折りの19007月末には、中国人によって包囲・攻撃された。対岸の中国側の町は黒河。→24
12) 第4棟:板東俘虜収容所には、将校棟2、下士卒以下の居住棟8のほか、管理棟、厨房、医務室、便所・洗面所、更には大鮑島と称された商店街区等の建物があった。こうした一連の建物は、第一次大戦終結後も陸軍の演習施設として利用されたが、太平洋戦争終了後は、戦災に遭った人や大陸からの引揚者の住宅として充てられた。西側の第1棟から第4棟までは太平洋戦争終結時点で無くなっていた言われる。東側の第5棟から第8棟もやがて解体されたが、その後の利用等については不明であった。2001年暮れになって、板東収容所周辺の牧舎等の建物が旧収容所の建物を払い下げられて建造されたことが判明した。この大ニュースは『徳島新聞』(2002114日付け)で報道された。さらに詳しい発見の経緯と概要は,『鳴門市ドイツ館館報』Ruhe(ルーエ やすらぎ)第3号に《「バラッケ」発見!!》と題されて報告されている。目下のところ、9ヶ所の建物が旧「バラッケ」を利用した可能性として指摘されている。今後の詳しい検証が待たれる。→37
13) ベンク・ウント・クレッチュマー商会:中国語の会社名は盆斯洋行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、輸出入、保険、船舶代理。特に生糸・絹織物の山東地域での買い付け、及びその輸出では、数ある商社の中でも最大規模の商売を行った。→48
14) ジームセン社:中国語の社名は禅臣洋行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、銀行、船舶代理(Ocean Steam Ship 代理店)、火災海上生命保険、輸出入。大港近くの一画(日本占領・統治時代の葉桜町6789番地)に、6184u(約1800坪)の地所を所有していた。また、アルフレート・ジームセン(Alfred Siemssen)名では計13963u(約4200坪)を所有していたが、民有地としては唯一、いずれも日本の青島守備軍により押収された。『鹵獲(ろかく)書籍及図面目録』(注17参照)の中に、民有の建物として唯一その図面が収められている。総督府に軍の施設として提供したことによる。→53
15) 徳島新報:徳島俘虜収容所の俘虜達によって、19154月から19174月まで発行されたと推測される。毎週日曜日に発行された。従来は、寄贈を受けた1916312日付けの通巻第50号のみしか知られていなかった。2001年になってから、フレンスブルクのミュールヴィック海軍学校に1年半分が保存されていることが判明し、9月に鳴門市ドイツ館に一時貸与され、マイクロフィルムに収められて収蔵された。収蔵分は1915415日の創刊号から1916917日発行分までである。新聞の隅に「ハンゼン」と書かれていることから、板東収容所内でベートーヴェンの第九交響曲が初演された時の指揮者ヘルマン・ハンゼンが寄贈したものと思われる。内容の分析・翻訳が今後行われることになった。→70
16) 鷲屋薬局:オットー・リンケ(Otto Linke)予備少尉の経営になる医薬品輸入・販売店。青島の一等地プリンツ・ハインリヒ街(Prinz Heinrich-Straße115番地,青島郵便局の向かいにあった。取扱品目は,医薬品、洗面・化粧用品、乳児用品。【《Guide to Tsingtau》の広告から】。大戦終結後は、オットー・リンケ薬局として再出発した。→74
17) 水雷艇S90:ブルンナー海軍大尉を艦長とする水雷艇S90は、1017日総督の命で膠州湾を出港して、石炭、糧食等の調達に上海方面に向かった。その際2等海防艦高千穂(3709トン;乗組員284名)を撃沈した。艦長の伊東祐保大佐を始め279名が戦死し、生存者は僅かに5名であった。「S90」は山東省石血所で座礁、艦を自爆させ乗組員は南京で拘束されたが、中国側の待遇は悪くはなかった。→79
18) タパタオ:大鮑島(ターパオタオ)という地名は、古くから住んでいた中国人が名づけたことに由来する。「鮑」とは日本で言えば〈くさやの干物〉のように、一種独特な臭みがある発酵した魚のことを言う。場合によっては独特の漬け汁に浸して置いたものもそう呼ばれた。「アワビ」のことを指すものではない。中国人の商店が多く建ち並び、青島で最も活気のある一画であった。日独戦争後、ドイツ人俘虜が日本各地の収容所に送られたが、その内の一つ板東俘虜収容所では、俘虜達が30棟ほど小屋を収容所内に建て、間仕切りを数えると50余の種々の店等を構えた。その地区は〈Tapatau〉(「タパタオ」)と呼ばれた。日本人が「大鮑島」をどのように発音していたのか、残念ながら多くの事例を承知していない。しかし、「ターパオタオ」の音は日本人にとっては発音上困難な面を持っていると思われる。山根楽庵は『寳庫の青島』の中で、「タボ(ポ?)タウ」と記している。多分「…トー」となる発音をしていたと考えられる。参謀本部編纂になる『日獨戰史』下巻の「挿図22」では、大鮑島に「タパトウ」とルビが振られている。また、板東俘虜収容所関連の文献では従来「タパトー」ないしは「タァパオタオ」と記されている。板東収容所内で俘虜によって発行された『板東俘虜収容所案内記』(Adressbuch für das Lager Bando 1917/1918)及び『板東俘虜収容所案内記』(Fremdenführer durch das Kriegsgefangenenlager Bando,Japan)では、一貫して〈Tapatau〉と記されている。俘虜達は〈タパタオ〉(あるいは〈タパトー〉)と発音していたことが推測される。なお、俘虜のヤコービ(Jakoby)が19194月に作製した「板東俘虜収容所要図」では、〈Tapautau〉と記入されている。こうしたことを総合的に考えると、「タパタオ」の表記でよいのではないだろうか。「タイホートー」の呼び方も知られているが【参照:東京朝日新聞、大正3811日付け記事「膠州灣概観」】、これは公的色彩のある場合の発音と考えられる。青島(チンタオ)も「チントー」と発音する人も多かったが、公的な場合には「セイトー」と発音した。→82
19) 龍海鉄道:江蘇省の海州から甘粛省までを結ぶ鉄道。→91
20) メルヒャース社:中国語の社名は美最時洋行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、船舶代理(北ドイツ・ロイド汽船代理店)。大港近くの一画(日本の占領・統治時代の葉桜町28番地)に、19091u(約5785坪)の地所を所有していた。日独戦争による青島における損害額は約73万マルクといわれる。→94
21) カール・ローデ商会:一時期はドイツでも最大級の商社に数えられていたハンブルクの大手商社シュルツ・ライツ社の後を継いで、カール・ローデ(1869年来日)によって1874年横浜(居留地23番→12番→70番)に設立された。日本人には「赤門70番」として親しまれた【インターネット「外国への恐れとあこがれ(商館時代)」より参照:http.//arochan.hp.infoseek.co.jp./shokan2.htm】。やがて神戸、東京に支店を置いたが、第一次大戦後まもなく日本から撤退した。業務内容は、輸入、各種保険代理。→101
22) 日刊電報通信:徳島及び松山で新聞を発行していた俘虜を中心に、板東収容所開設当初の1917419日から、閉鎖の年の1920115日まで発行された。日本の新聞からのニュースを翻訳紹介するための日刊新聞で、「板東の官報」的役割を果たした【『バラッケ』第1巻、xxii頁より】。→108
23) 独中大学:1908年設立。創設費64万マルク(内訳:ドイツ政府60万マルク、中国政府4万マルク)で、1911年から1913年にかけて校舎の建設がなされた。開校式は19091025日に行われた。予科と本科からなり、予科は修業年限5年で、中等・高等を折衷したものだった。本科は法政、医科、農林、工科の4学科からなり、修業年限は法政と農林が3年、医科と工科は4年であった。校内には図書館、博物館、翻訳局等の施設があった。特に図書館には独、英,仏等の図書1294冊、漢書5058冊が所蔵されていた。【なお、独中大学の概要については、瀬戸「ドイツによる青島経営」参照】。→126
24) 『鹵獲(ろかく)書籍及図面目録』:この目録は1920年(大正9年)2月、日本の青島守備軍陸軍参謀部によって編纂された。青島ドイツ軍の降伏により、膠州租借地における全官有財産は、日本軍により没収処分を受けた。書籍も例外ではなかった。没収された書籍及び図面は以下の通りである。官有書籍(官庁蔵書):洋書8634冊、漢籍1477冊;独中大学:洋書1294冊、漢籍5058冊;ヴィルヘルム・コーン叢書:洋書324冊;膠州図書館蔵書:洋書9473冊。合計は洋書・漢籍を合わせて26260冊、更に図面5133葉に及ぶ。1919628日に締結されたヴェルサイユ条約によって、ドイツの山東における権益は山東鉄道を始め、日本に譲渡された。日本がドイツとの戦闘のために計上した特別軍事費は5300万円であった。やがて、いわゆる山東還付により、19221210日をもって中国政府に返還されることになり、山東鉄道は約4000万円で中国政府に売却された。「鹵獲書籍」もドイツに対する賠償金の一部として日本の手に帰したと考えられる。これらの「鹵獲書籍及び図面」は、当時の東京、京都、東北、北海道、九州の各帝国大学や旧制高等学校等、更には諸官庁に配分された。また、1922年(大正11年)前後に各地に新たな高等学校が続々と新設されたが、その設置費にはドイツからの賠償金が充てられたともされる。配分先によっては、戦災等での焼失によるのか、今日所在不明になっているところもある。なお、この「鹵獲書籍」に関しては、志村恵金沢大助教授の追跡調査による詳細・綿密な論考「日独戦争と青島鹵獲書籍」、及び関連文献として、森孝明「「青島守備軍司令部」寄贈図書 −愛媛における日独交流の跡?」がある。→126
25) 山東鉄道:山東鉄道会社(Die Schantung Eisenbahn Gesellschaft)は、ドイツと中国の間で189836日に締結された独清条約に基づいて、独亜銀行を始めとする14に及ぶ民間会社が出資し、189961日に設立された民営会社である。資本金総額は5400万マルクであった。山東鉄道会社のドイツ人社員は僅か61名で、この僅かな社員で鉄道会社を経営するために中国人を多く雇用した。また山東鉄道会社内に鉄道学校を設けて、中国人鉄道員の養成を計った。【なお、山東鉄道建設を取り巻く諸状況並びに山東鉄道の概要については、瀬戸「膠州湾占拠から青島の建設まで」参照】。→126
26) 高密:高密(カオミー)は、青島から約100キロの所にある膠州地方の古くからの城郭都市で、当時人口は約1万だった。山東鉄道の膠河の鉄橋を渡るとまもなく高密駅に着く【『山東鉄道旅行案内』71頁より】。ドイツによる山東鉄道建設に際しては、義和団並びに住民による抵抗が鉄道沿線では最も激しかったところでもある。ドイツ時代の終わりごろには、日本人経営の遊郭が一軒あった。この遊仙窟は後に膠州に拠点を移し、登龍閣としてドイツ軍の行動監視の役割を果たしたとも言われる【山根楽庵『寳庫の青島』126頁以下】。→126
27) シュラマイアー:シュラマイアー(Wilhelm Schrameier1859-1926)は、1885-1890年まで北京大使館通訳試補、1890-1895年まで広東領事館通訳官、1895-1897年まで上海領事館通訳官、1897-1900年まで膠州総督府通訳官、1900-1909年まで総督府中国問題審議官の職を歴任した。1900年から1915年にかけて、膠州に関する多くの著作を著した。→126
28) 富田酪農場:富田製薬の創業者富田久三郎(1852-1937)はドイツに留学経験のある下山順一、長井長義の両東大教授(ともに製薬学)と知己だった。昭和に入ってから、自身もドイツへ製薬学の視察に赴いた。1908年(明治40年)、甥の松本清一を麻布獣医学校に入学させた。1916年、徳島県の西田牧王畜産技師、国友徳芳板野郡長及び徳島俘虜収容所の松江豊寿所長と相談の上、板東俘虜収容所建設予定地に隣接して、純ドイツ式牧舎の建設を計画した。設計は徳島収容所の俘虜シュライバー(Schreiber)に依頼した。1917年板東町桧字野神ノ北40番地に771坪(2549u)の土地を購入し、4500円を投じて19178月に第1期工事が完成した。1階は煉瓦造り、2階は木造・白壁塗りの北欧風の牧舎であった。当初牧場長には松本清一が当った。1919年に第2期工事が行われ、東側に12階合わせて119uを増築し、同年松本の友人で徳島県海部郡の獣医師船本宇太郎が管理人となった。その後も隣接地を買い上げて、合計2422坪(約8007u)に拡張された。富田畜産部の牧舎・牧場は後に松本名義となり、1954年には松本から船本に譲渡され、船本牧舎となり現在に至っている。→136
29) 高木繁(1886-1953):陸軍大尉。後出の徳島及び板東収容所長松江中佐の副官。香川県丸亀市に生まれた。陸軍士官学校卒。松江所長とともに徳島収容所に赴任した。ドイツ語を始めとして、英語、ロシア語、中国語等7ヶ国語に通じていたと言われる。板東収容所閉鎖後は福山連隊等を経て、1929年に陸軍中佐で退役した。退役後は兵庫県外事課、ドイツ系のバイエル薬品勤務を経て、1935年満州のハルピンに渡った。外資系の百貨店秋林洋行に勤務し、日中ソ間の情報戦に従事したとも言われる。終戦後、ソ連軍によってシベリアのバイカル湖東方のチタに抑留され、最後はスベシドロフクス州アザンの病院で病没したとされている。1965年厚生省から、1953430日に死亡したとの公式通知が遺族に届いた。ヴァイオリンをたしなみ、音楽好きであった【『「第九の里―ドイツ村」』及び『「歓喜」によせて 板東俘虜収容所物語』(読売新聞社徳島支局編纂)より】。→136
30) 諏訪邦彦:陸軍中尉。19161028日、高知の歩兵第44連隊附より丸亀俘虜収容所員となる。丸亀収容所閉鎖後は板東俘虜収容所員になった。後に陸軍大尉。→136
31) シュヴァルツコップ社: 189836日に膠州湾租借に関する独清条約が締結されるや、シュヴァルツコップ社は、ジータス-プラムベック社とともに、その3月中に上海から真っ先に青島入りした。中国語の社名は順和洋行。ホーエンツォレルン街(Hohenzollern-Str.;日本の占領・統治時代は姫路町、今日の蘭山路)に支店を置いていた。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、輸出入(食料品、ワイン、スポーツ用品、ガラス及陶器、煙草等)、保険、船舶具、鉄工具、工場用具、建築材料、家具、植民地需要品。日独戦争による青島における損害額は約10万マルクといわれる。→141
32) 山東鉱山:山東鉱山会社は18991010日、資本金1200万マルクでベルリンに設立された。設立母体は山東鉄道と同じ独亜銀行等14の民間企業による民営会社で、いわば山東鉄道とは兄弟会社であった。189836日に締結された独清条約による、山東鉄道と津浦鉄道沿線15キロ以内の鉱山採掘権に基づいている。坊子、博山、黌山等の鉱山を所有していたが、採算の点では必ずしも良くはなかった。そこでドイツ政府は、坊子、博山、黌山及び金嶺鎮を除く他の鉱山は、19131231日をもって中国政府に返還した。→143
33) ディーデリヒセン社:中国語の社名は捷成洋行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、煉瓦製造、輸出入、銀行、船舶代理(不定期欧州航路を開いていた日本郵船の代理店。航路は、神戸、門司、青島、マルセーユ、アントワープ)、保険、蒸気、石炭、木材、倉庫業、麦稈真田。生糸・絹織物の買い付けとその輸出も手広く手がけた。大港近く(日本の占領・統治時代の三條町13)に2667u、葉桜町245000uの計7667u(約2300坪)の地所を所有していた。→155
34) 神尾司令官:神尾光臣(1855-1927)は、陸軍中将・青島攻囲軍司令官。日本軍による青島占領後は青島守備軍司令官に任ぜられた。信州諏訪郡岡谷郷に生まれた。幼名信次郎。1874103日陸軍教導団に入って武学生となり、1877年の西南戦争には曹長として従軍した。187921日陸軍少尉に任ぜられる。以後、清国公使館附武官、近衛歩兵第3連隊長、第1及第10師団参謀長、歩兵第22旅団長、遼東守備軍参謀長、清国(天津)駐屯軍司令官、関東都督府参謀長、第9及第18師団長を歴任して、独立第18師団長(青島攻囲軍司令官)となる。陸軍内で、三本指にはいる中国通と言われた。19141126日付けで上記の職を解かれ、青島守備軍司令官に就任。19141218日青島から東京駅に凱旋した。その日がちょうど東京駅開業式の日であった。1915324日付けで東京衛戍総督に転出、1915624日大将に昇任、714日男爵に叙せられ、8月退役した。次女安子は19093月有島武郎に嫁ぎ三男をもうけたものの、191712227歳で病死した。有島武郎の『死其前後』は妻安子の病状・病中等を題材にした戯曲である。→155
35) ハンブルク・アメリカ汽船:1847年ハンブルクに設立された。第一次大戦直前には世界最大の汽船会社となり、所有船は206隻、総トン数は136万トンであった。青島商工会議所の会員会社だった。中国語の社名は享寶輸船公司。不定期欧州航路のほか、定期近海航路としては上海を起点として、青島、芝罘、大連、天津とを結んでいた。大戦終結後の1919年には、その所有する船は5隻、4000トンに減少した。1920年から26年にかけて再建・復興が成り、1930年には北ドイツ・ロイド汽船と提携し、19706月に合併してHapag-Lloydとなる。→168
36) イリス商会:カール・イリス(Carl Illies)が、横浜及び神戸の最初期のドイツ人商社クニフラー商会(L.Kniffler & Co.)の解散を受けて、その事務所を引き継いで設立した。東京にも支店を置いていた。業務内容は、各種欧米製品の輸入、保険代理、日本製品の輸出。ハンブルク・アメリカ汽船の代理店でもあった。同商会のヴィルヘルム・ラントグラーフ(Wilhelm Landgraf)は、習志野始め日本各地の収容所を慰問し、俘虜の援助に尽くした。→181
37) フンツィカー牧師:ヤーコプ・フンツィカー(Jakob Hunziker)は、当時東京都小石川区上富坂町に住んでいたスイス人牧師。久留米、似島、板東等の収容所を訪問し、収容所の様子などを記した文書を残した。→184
38) シュトロルヒ:フォーゲルフェンガーが東京収容所時代に、あるドイツ人夫妻からプレゼントされた犬。フォーゲルフェンガーと一緒に写った写真が数多く残されている。エレ達が会食した頃に、シュトロルヒが行方不明になったのかもしれない。→186
39) 古川(こかわ)病院:院長の古川市次郎(1863-1929)は徳島県出身。1892年東京帝国大学医科大学卒。鳥取県立病院の分院長を経て、徳島市寺島町藍場町に古川病院を開設して院長となった。なお、1902年から1904年までライプチヒ大学に留学した【『日本醫籍録』及び松尾「ザクセンにおける日本人(2)192頁より】。→191
40) 北ドイツ・ロイド汽船:1857年ブレーメンに設立された汽船会社。1876年にはアメリカ東海岸諸都市に寄港し、1886年には帝国郵便船として東アジア各地の港とも連絡した。青島関連では、毎月一回日本と香港を結んでいた。第一次大戦後の痛手から再建・復興を果たし、1938年には85隻・62万トンにまでになった。19706月、ハンブルク・アメリカ汽船と合併してHapag-Lloydとなる。→197
41) 独亜銀行:1889212日、当時のドイツの有力銀行であるドイツ銀行、北ドイツ銀行、メンデルスゾーン銀行、ダルムシュタット銀行、バイエルン抵当銀行等13行による出資500万テール(約2250万マルク)でベルリンに設立された。本店は上海に置き、支店としてはベルリン、ハンブルク、カルカッタ、シンガポール、香港、広東、漢口、北京、天津、済南、青島、横浜、神戸の13支店を置いた。中国語の銀行名は徳華銀行。青島商工会議所の会員会社だった。青島の独亜銀行の建物は、1899-1901年にヴィルヘルム皇帝海岸通りに建てられた。日本には横浜と神戸の二ヶ所に支店を置いたが、前者は関東大震災を期に閉鎖され、神戸からもその数年後に撤退した。→201
42) ラルツ薬行:中国語の社名は賚寶薬行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、売薬、調剤、写真用品、眼鏡類、理化学黴菌試験。→214
43) ザンダー‐ヴィーラー社:中国語の社名は利康洋行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、輸出入、保険、船舶航海。青島湾に面した一等地ヴィルヘルム皇帝海岸通り(Kaiser-Wilhelm-Ufer;日本の占領・統治時代の舞鶴浜)に816u(約250坪;大正6年時点での評価額1万円)、日本占領・統治時代の葉桜町24番地に4135u(1253坪)の地所を所有していた。→223
44) ヤーン:ヤーン(Friedrich Ludwig Jahn1778-1852)は「体操の父」とも呼ばれる、19世紀ドイツ青年運動の指導者。ベルリンで学校の教師をしていたヤーンは1811年、当時のドイツの国家主義的風潮にも呼応して、プロイセンの内的活性に寄与すべく、ベルリンのノイケルン(Neukölln)にドイツ最初の運動場を設けた。ブルシェンシャフト(学生組合)の設立にも関与したが、1819年に禁固刑を受け、1840年まで警察の監視下に置かれた。1848年、フランクフルト国民議会議員に選出された【《dtv-Lexikon》より】。811日はヤーンの誕生日である。→230
45) ジーメンス社:ヴェルナー・フォン・ジーメンス(Werner von Siemens1816-1892)とハルスケ(Halske)との共同で、1847年に設立された電気会社。1905年にジーメンス・シュッケルト株式会社となり、ドイツ最大の電気及び電機総合会社になった。中国語の社名は西門子電気廠。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、電気工事、電気器具製造。188781日、東京に最初の支店が置かれ、後に大阪、門司にも支店が開設された。大戦勃発時点での3支店合わせた人員は、ドイツ人18名、日本人7名であった。→239
46) プリンツ・ハインリヒ・ホテル(Hotel Prinz Heinrich):青島のヴィルヘルム皇帝海岸通りに1899年に建設された。同ホテルは青島と格別にゆかりのある皇弟ハインリヒに因む、青島随一の豪華なホテルであった。花崗岩を用いた3階建ての白亜のホテルは、その豪華さで東京の帝国ホテル、横浜のグランドホテルに遜色ないとも言われた。部屋数40室で、他にヴェランダ、テラス、婦人室、倶楽部室、読書室、控室、舞台を備えたホールがあった。1ヶ月の滞在費100ドル(約160万円)から150ドル(240万円)であった。パーティー、舞踏会が繰り広げられ、演奏会や演劇が開催されることもあった。日独戦争中は仮設野戦病院に充てられた。なお、アウグステ・ヴィクトリア湾に臨む海岸ホテルもその経営になり、そこでも歩兵第3大隊や膠州砲兵大隊の軍楽隊によるクラッシク、ポピュラーの演奏会が、冬期には週に2回開催された。→255
47) スペイン風邪:1918年から1919年にかけて世界的に大流行したインフルエンザ。アメリカの兵営に発したとも、中国から発生したともされ、地球上の人間の約半数が罹患したといわれる。フランスからイギリスに伝播してから、「スペイン風邪」の名で知られるようになった。死者は2500万人を数え、第一次大戦の死者数を上回った。日本でも2500万の罹患者を出し、38万人余が死亡したとされている。【『平凡社 百科事典』より】→256
48) オットー・ライマース商会:横浜、神戸で輸出業を営んだパウル・ハイネマン商会(Paul Heinemann & Co.)が前身。1890年頃に前記商会が共同経営者のオットー・ライマースに譲渡されて設立された。業務内容は、日本製品、特に絹、銅、樟脳の輸出。大戦終結後10年ほどして廃業した。→265
49) 「わが腕白時代より」:原題は「Uß minere Buewezitt」。標準ドイツ語では「Aus meiner Bubenzeit」となる。→265
50) ヴァルター・イェキッシュ:ボッフム在住の郵趣家。その蒐集品には、日本各地の収容所からドイツに向けて送られた膨大な量の俘虜郵便や、俘虜収容所及び俘虜関連の資料・写真、更には俘虜が遺した日記等が含まれている。→270
51) アルンホルト‐カルベルク社:中国語の社名は瑞記洋行。ハンブルクに本社を置く商社。山東鉱山会社に依存せずに、山東における鉱山採掘の認可を受けた企業集団のリーダーで、?縣南西部の沂水、諸城、日照周辺での金,ダイヤモンド等の金属を含む採掘権を所有した。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、輸出入、海運、代弁業。日独戦争に際しては、オーストリア製シュヴァルツローゼ(Schwarzlose)式機関銃8門(元来は中国政府からの注文品)、弾薬等を総督府に納めた。→304
52) 芝罘:芝罘(チーフー)は山東半島先端の港湾都市。渤海半島を挟んで、旅順・大連と向かい合っている。1858年、天津条約によって開港され、青島が建設される以前は、山東半島随一の貿易港だったが、後に青島にその座を奪われ、やがて煙台(イエンタイ)とその名を変えた。→321
53) ジータス-プラムベック社:189836日に膠州湾租借に関する独清条約が締結されるや、ジータス-プラムベック社はシュヴァルツコップ社とともに、その3月中に芝罘から真っ先に青島入りした。中国語の社名は哈利(Hali)洋行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、輸出入(洋食器、陶器、酒類、煙草、衣類、帽子、靴、家具、電気器具、紳士淑女流行品、飲料、時計、植民地需要品等各種雑貨)、鋼材建築材料、宝玉技術部、機械工場、運送、保険。海軍歩兵第3大隊並びに膠州総督府御用達。済南、芝罘に支店、ウラジオストックに営業所を設けていた。青島湾に面した一等地ヴィルヘルム皇帝海岸通りの三ヶ所(日本の占領・統治時代の舞鶴浜242526)に1903u、5027u、7026uの計13956u(約4229坪)、大正6年時点での評価額65万円の地所を所有していた。19071022日付けで総督府から、水雲山島、竹岔島、浜柳島、及び蓮島における石炭その他の鉱物の採掘権を19371231日まで付与されていた【『青島経営ニ関スル獨国ノ諸法令』580-581頁より】。→341
54) 樋殿谷の溜池:国道12号線から樋殿谷川に沿って、山へ2キロほど入った所にあるすり鉢状の溜池。樋殿谷川にかかる林谷橋を渡ると、目の前に高さ10メートル、幅40メートルほどの堰堤が立ちはだかるように聳えている。溜池は一見ひょうたん型に見えるが、東平草谷(ひがしひらくさだに)から水が流れ込む奥は二方向にやや広がって、魚の尾びれのような形になっている。そこから地元の人々には「金魚溜め」と呼ばれている。溜池全体の形が金魚に似ていることからの通称である。溜池の水面積は3000坪ほどかと推測される。さらに地元の人の話によると、堰堤、溜池ともドイツ人が造ったとのことである。これまでそうした事実を記した文献は、『バラッケ』を始めとして目にしたことはない。従ってにわかには判断し難いが、石組みによるすり鉢状の池の構造と堂々たる堰堤、またその溜池からすぐ近くの樋殿川に注ぐ流れとは別な水路の構造から、当時の日本人の手になるものではないような感じを抱かせる。水路の規模はごく小さいが、樋殿谷川の上を交差して流れる構造は、北部ドイツの都市ミンデンの有名な河と水路の交差を想起させるものである。当時としてはかなりの土木工事と考えられるが、すぐそばで俘虜達は伐採を行ってもいたので、一考は要する。鳴門市土木課の話によると、溜池周辺一帯は個人所有になるために記録にはないそうである。【森弥八所有か?『「第九」の里 ドイツ村』62頁参照】土地の人の話では、明治末に造られたらしい、との説もある。←373
55) 東亜ロイド新聞:1886年、中国内のドイツ企業の出資で上海に設立されたドイツ字新聞社。ドイツの利益を代弁する国策的新聞社でもあった。1890年に一時的に財政難に陥ると、ドイツ外務省の肝いりで独亜銀行が補助金を出した。【《Imperialism and Chinese Nationalism. Germany in Shantung,11頁。》】←377
56) 牛荘:牛荘(ニュウチャン)は満州の古くからの港湾商業都市。遼東半島付け根の遼河河口にあり、渤海湾を隔てて葫蘆島(コロトウ)と相対している。1858年の天津条約によって開港した。中国商人には、芝罘、青島と並んで重要な都市であった。日露戦争後は南満州鉄道の付属地となり、日本軍が駐屯し、日本領事館が置かれた。ロシア人、ドイツ人等は牛荘と呼んだが、日本人は営口と呼んでいた。→398
57) マックス・ネスラー書店:ライプチヒに本店があった。日本では横浜に支店を置き、書籍販売を営んだ。板東収容所で印刷された『板東収容所俘虜故国住所録』の裏表紙には、いわばその広告が印刷されている。→409
58) ヤコボフスキー:ルートヴィヒ・ヤコボフスキー(Ludwig Jacobowski;1868-1900)は世紀転換期の詩人。その短い生涯の中で若き日のリルケ、「山のあなた」の詩人カール・ブッセ、人智学の確立者ルードルフ・シュタイナーと親交を結んだ。代表作に『ユダヤ人ヴェルター』がある。→412
59) カップラー製造:中国語の社名は徳遠洋行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、屋根煉瓦製造。資本金5万マルク、職工数70名で、一日約4500枚の赤煉瓦を製造した。→413
60) 中国輸出入銀行会社: 1859年に広東でヘッセ・エーラース社として誕生した商社である。1883年に「中国輸出入ブリューニング社」(China Import-Export & Brüning Co.;現在のヘキスト社)の日本総代理店となって、主として染料を扱った。日本では1893年から神戸(神戸居留地17番)に支店を置き、やがて1900年には横浜にも支店を置いた。中国語の社名は謙信洋行。業務内容は、主としてアニリン染料、化学薬品の輸入、証券業務。→421
61) 青野原収容所:青野原収容所施設には兵舎が7棟あった。平成14525日の神戸大奥村弘助教授の調査で、農業真鍋勇氏方の納屋は陸軍兵舎か収容所の倉庫と推定されていたが、納屋で「大正4625日起工」などの年月日や、「竣工棟札」が発見された。納屋は東西155メートル、南北79メートル、仕切られた居室の大きさから、ケルステン日記に描かれた7棟の内将校宿舎(東西66メートル、南北8メートル)の一部と分かった。さらに、東隣なりにある別の農家の納屋も、内部の構造が当時の入浴風景と一致したことから、将校の浴場(東西75メートル、南北56メートル)と判明した。一帯は第二次大戦後、開拓地となり、収容所施設は1951年に四分割され、真鍋氏の父親等入植者に払い下げられたとのことである【インターネットの「神戸便り」中の、「第一次大戦中ドイツ、オーストリア兵入所加西の納屋は元捕虜収容所」による】。→422
62) ドイツ・クラブ:神戸における最初のドイツ人クラブは、1868718日に設立されたウニオン(Union)である。設立者にして初代会長はアウグスト・エーファース(August Evers)で、エーファースはプロイセンと北ドイツ連盟の神戸における名誉領事でもあった。彼は神戸の二番目のクラブ・コンコルディア(Concordia)の会長も長く務めた。当初はクニフラー(Kniffler & Co.)商会の代表で、後にジーモン‐エーファース商会(Simon,Evers & Co.)の経営者となった。横浜のゲルマーニア(Germania18631222日設立)及び神戸のコンコルディア(1879101日設立)の両クラブともに、191759日に閉鎖された。強制的な売却処分を受けたが、その売却金(そこそこの金額)は大戦後、全額ドイツ人に返却された。19191124日に両クラブの再開がなった。→422
63) 沙子口:沙子口は青島から東へ40キロほど離れた薫家湾口の要衝地。ジャンク貿易の監視所も兼ねて、古くから中国の税関所が置かれた。ドイツ租借地のはずれに近い。戦闘で膠州湾及び青島湾が使用できなくなったため、俘虜は沙子口まで行進させられ、それから沖に停泊する船に乗せられた。→439
64) 山本茂:歩兵第11連隊附陸軍歩兵中尉。陸軍士官学校20期卒。ベルリン効外ポツダムのドイツ陸軍士官学校に留学した。19131214日山本中尉が青島訪問を終えるにあたって、ヴァルデック総督は特に総督官邸で送別の宴を開いた。1914102日久留米俘虜収容所所員に任命される。当初は京町梅林寺収容所勤務であったが、112日、新設の香霞園収容所勤務に移る。1117日、ヴァルデック総督が薩摩丸で門司港に到着した際は久留米から出張して、旧知の総督としばし歓談の後【参照:『東京朝日新聞』、大正31118日付記事「ワ総督来る」】、福岡収容所長久山中佐、熊本収容所長松木中佐の通訳に当たった。福岡に向かう列車にも久山中佐とともに同乗、通訳の任に当たった。1915126日、久留米俘虜収容所所員を免ぜられる。高良内及び久留米俘虜郵便には検閲官としての山本茂印が使われ、今日三種類が判明している。1916512日から1918430日まで士官学校教官を勤め、かつ臨時軍事調査委員(大正4911日軍令乙第12号により設立された)を兼任し、大尉に昇任して19211014日から192228日までは調査委員(第1課所属)となる。ドイツ陸軍士官学校留学時代には、当時少年だったフリッツ・ルンプに日本語を教えた。森鴎外の要請もあって習志野収容所にルンプを訪ねた折は大尉に昇任していた。【参照:鴎外の日記:大正8519日の項:「19日。月。晴。…山本茂、…至。…山本言Oskar Karl WeegmannFritz Rumpf之事。」(『鴎外全集』、第35巻、775頁、岩波書店)】←439
65) 樫村弘道:少佐時代の1914年(大正3年)106日から1915525日まで、初代久留米俘虜収容所長を務め、二代の真崎甚三郎中佐時代も所員を務めた【『久留米俘虜収容所19141920』:「久留米市文化財調査報告書第153集」(久留米市教育委員会)より】。後の中佐時代には第二浦塩派遣軍委員、更に浦塩派遣軍俘虜委員となった。1920420日、浦塩派遣軍俘虜委員であった樫村中佐の元に、西伯利俘虜救済会から4461350銭の寄付金が送られた。同委員会は191912月に渋沢栄一、藤山雷太、大岡育造、星野錫の四名と新聞10数社を発起人として発足した。革命の起こったロシアで辛酸を嘗めているドイツ及びオーストリア、ハンガリー等の俘虜を救済することが目的であった。俘虜の数としては、ドイツ人4万、オーストリア人10万、ハンガリー人8万、トルコ人15000、ブルガリア人2000の計237000人とされている【『俘虜ニ関スル書類』より】。→449
66) アイヒヴェンデ‐シュレーダー社:中国語の社名は維徳洋行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、輸出入、代弁業、保険、船舶代理。→452
67) ヴィンクラー有限会社:中国語の社名は衛禮洋行。青島商工会議所の会員会社だった。ヤーコプ・ヴィンクラー(Jacob Winckler1851-1911)が1885年に横浜で設立し、今日まで存続する数少ないドイツ系商社の一つ。1869年に来日したヴィンクラーは1869年設立の老舗ドイツ商社ハンス・アーレンス商会に入社し、やがて独立したのであった。日露戦争(1904-1905)後にには、主としてライプチヒのF.A.ブロックハウス社の医学や哲学、技術に関するドイツ語の教科書の輸入を扱い、ブロックハウス社の日本総代理店ともなった。1907年には中国の青島に支店を開設し、特にピーナツの輸出入を扱った。1912年には名古屋、ハンブルクにも支店が開設され、日本の工芸品、磁器、麦稈真田(ばっかんさなだ:麦藁帽子の材料)の輸出入をでがけた【参照:http://www2.gol.com/users/winckler/history2j.htm】。業務内容は、輸出入、各種保険代理。日本の占領・統治時代の葉桜町と広東町にまたがって、5195u(1574坪)の地所を所有していた。→498
68) 四阿:収容所生活末期の習志野、板東等では、個人用の簡単な小屋が兵営(バラック)の近くに建てられた。日中その中で読書等をして過ごした。将校のためにはその従卒等が四阿の建設に従事した。→517
69) ディール(Wilhelm Diehl-1918):海軍歩兵第3大隊第1中隊・伍長。1020日、部下のレッチェ(Letsche)及びリーゼナー(Riesener)等8名を率いて、第1歩兵堡塁から浮山所へ日本海軍の動向偵察に赴いたが、銃弾を受けて死亡、22日に青島欧人墓地に埋葬された。→521
70) 浮山所:遠く明代の洪武帝2年、西暦1369年に倭寇防禦地として設けられた。浮山(ドイツ時代の名称はプリンツ・ハインリヒ山;標高324m)の付け根の浮山湾湾口の要衝地。→521
71) 俘虜郵便:第1次大戦期における日本の俘虜郵便で、現認されている最も古いものは、1914107日付け(消印は1012日)の久留米俘虜収容所から差し立てられたものといわれている【『ドイツ俘虜の郵便』46頁】。→540
72) 女子高生:その女学生山田紀和子(現姓井上)さんは昭和22年生まれ。ハンス=ヨアヒム・シュミット氏からの要請を受けた星昌幸氏(習志野市教育委員会)によって、井上紀和子さんの所在が突き止められた。マイレンダーとの文通に至った経緯とその様子は、『習志野市史研究3』所載の「ドイツ捕虜調査その後」(星昌幸)に詳述されている。→540
73) ライボルト機械商会:1895年に技師として日本にやって来たルートヴィヒ・ライボルト(Ludwig Leybold)が、ジーモン・エーファース商会の支援を得て設立した機械商会。→563
74) 総督府衛戍病院:総督府のある総督山北東の敷地約2万坪の広大な土地に、1898年起工し、300万マルクの巨費を投じて1902年に完成した。小児病棟、婦人病棟、結核病棟、精神科病棟等を含む15棟から成り、病床数は最終的には301床となった。医師の数は院長を含め6名で、いずれも海軍軍医であった。それまでは病院としては民営の「ファーバー病院」(1901年開業、医師1名)があるのみで、入院・手術の用がある場合は横浜の「ドイツ海軍衛戍病院」(※)に搬送されていた。後に李村、四方、即墨、膠州等に診療所を設けて出張診療した。日露戦争当時、約200名のロシア軍負傷兵が旅順から逃げ延びて、ここで治療を受けたとも言われる。日本による占領・統治時代の1915年、青島療病院として一般に開放され、翌年青島病院となる。(※)ドイツ海軍衛戍病院:1878年横浜市街の外側、山手居留地40/41番に建設され、33年間存続したが19111231日に閉鎖された。病院は海から約50メートルの高さの、いわゆる「ブラフ(山の手)」にあり、周囲には外国人の庭園付きヴィラが心地よい風を受けて立ち並んでいた。1876年(明治9年)定礎、開院は187861日。煉瓦造り(一部木造)で、設計はフランス人建築家レスカス(※※)による。一等病室4部屋、二等病室3部屋、三等病室48部屋があった。1899年には手術室が設けられた。当初の陣容は、外科医長1名、検査官1名、薬剤師2名、日本人職員7名であった。義和団事件の頃には療養所が併設され、将校用10室と兵卒用40室が設けられた。33年間に受け入れた患者数は3357名、内1669名は陸軍並びに海軍軍人であった。民間のドイツ人750名、その他の国籍者は938名であった。最も繁忙であったのは1880-1881年で、その間の入院患者数は181名。18977月(または8月)からは郵便業務も行った。最初は5,10,20pfgの切手及び5pfgの葉書が配備された。1901年からは3及び50pfgの切手の配備もなされた。また在中国局切手の持ち込み使用も認められた。使用例は極めて希少である【参照:『日本郵趣百科年鑑』、1984年、115頁(H.Böddicker:Deutsche Marine-Schiffspost Yokohama所載:《Philatelistische Japan Berichte115号)】。(※※)レスカスは、1877年フランス土木技師協会誌へ、「地震の面からみた日本の建築構造と建築構造一般についての研究」を寄稿している。その中で、煉瓦造建築の耐震補強法を提唱し、このドイツ海軍衛戍病院や横浜三菱社の建築に実施している【『横浜もののはじめ考』101-102頁】。→564
75) ヴァインベルガー商会:1890年代後半、ヴァインベルガーによって横浜に設立された。→605
76) ボーケンブレン:ドイツ語の方言で、「火柱祭」の意。原綴りは「Bookenbrenn」。→623
77) リヒャルト・ヴィルヘルム(Richard Wilhelm1873-1930):1873510日、シュトゥットガルトに生まれた。1891年テュービンゲンの福音派上級神学校を経て、バーゼル伝道派教会に入った。1899119日、クリストフ・ブルームハルトの娘ザロメと結婚した。1899年青島に赴き、中国の古典研究に打ちこむとともに、ゾイフェルト(Seufert)及びボーナー(Bohner)【二人については、瀬戸「独軍俘虜概要」参照】を指導して、禮賢書院で中国人の教育に携わった。日独戦争中は赤十字の仕事に従事し、戦後の日本軍占領統治時期には青島在留ドイツ人の代表を務め、ドイツの教会維持に努めつつ説教をした。なお、青島のドイツ人男性のほとんどが国民軍所属として俘虜となった後、ドイツ人社会に男はヴィルヘルム以外には独中大学学長代行のヴィルツ教授、トゥチェック総督府立学校長、ヴァイシャー医師(後追放され、戦後再び青島で医院開業)等10名足らずで、他は婦女子150名余が残留するだけであった【『日獨戦争ノ際俘虜情報局設置並獨國俘虜関係雑纂 第十巻 在本邦俘虜ノ家族取締ニ関スル件』より】。妻のザロメは時に夫リヒャルトの代わりに文化活動の中心的役割を担った。→634
78) 『帰国航』:板東収容所の俘虜たちがドイツ本国に送還され、神戸からヴィルヘルムスハーフェンまで豊福丸で帰航中、船内で発行した船内新聞。週刊で6号まで発刊された。総ページ数は116ページである。→(687
79) シュラークバル:シュラークバル(Schlagball)とは、ドイツ式野球ないしはクリケットのようなもの。1チーム12人で構成され、革製のボールをスティックで打ち、前方の鉄の棒を回って戻ってくる。相手が先に本塁にボールを返すか、走者にボールをぶつけるとアウトになる。【『バラッケ』第1巻、10頁の註より】→715
80) アラーフ・コロニア:「ケルン万歳」の意。因みにケルン(Kölln)は大聖堂で知られるライン川沿いの都市で、ローマ帝国時代の殖民により成立した事から、「コロニア」から「ケルン」の地名が出来た。→742
81) ジーモン-エーファース商会:アウグスト・エーファース(August Evers)とジーモン(Simon)によって1873年頃に横浜と神戸に設立された。ハンブルク・アメリカ汽船の在日本代理店でもあった。→845
82) プリンツ・ハインリヒ・フォン・プロイセン:ハインリヒ王子(Prinz Heinrich von Preussen1862-1929)はドイツ帝国皇弟。189855日、巡洋艦隊を率いて膠州湾入港、青島に滞在する(衙門に宿泊)。928日、青島築港のC.フェーリング建設会社の工事事務所で、山東鉄道の起工式の鍬入れを行った。1879年(明治12年)5月末来日、61日には上野精養軒で在京ドイツ人(ベルツ、ナウマン、バイル、ネットー、シュルツェ)の名で歓迎の小宴が開かれた。当時親王は16歳と6ヶ月であった。【参照:『ベルツの日記』岩波文庫(上)81頁】同年1117日には京都を訪れた。1899630日、東洋艦隊司令官として軍艦ゲフィオン(Gefion)を従えて旗艦ドイッチュラントで横浜に来航、ドイツ公使、領事、神奈川県知事は御乗艦まで出迎え、皇居附属邸の玄関では閑院宮戴仁が出迎えた。青島を度々訪問し、1912年の訪問終了に際しては、「『もし日本人が来ても、持ち堪えるように』との陽気な言葉を残したが、やがてそれは現実となった」【ハインツ・ファン・デア・ラーン『青島回想』(Laan,Heinz van der:Erinnerungen an Tsingtau12頁】→863
83) 常陸山:常陸山谷右衛門(1874-1922)は第19代横綱。水戸に生まれ、水戸中学校に進学し、3年生の時力士になるために中退、出羽の海部屋に入門した。当時としては非常なインテリ力士であった。1903年、梅ヶ谷藤太郎とともに横綱になり、「梅・常陸時代」を築いた。9年の横綱在位期間に8敗しかしなかった。従来野天で行われた相撲が、東京本所に屋根付の国技館が造られたのも、「梅・常陸」の人気によるものであった。1914年(大正3年)920日、京都での東京大相撲千秋楽に梅ヶ谷と取り組み敗れたが、土俵に上がる20分前、水戸中学同期の佐久間善治騎兵大尉の青島での死亡が号外により場内で朗読された。常陸山は悄然として力なく土俵に上がった。この出来事は「常陸山の落涙」として新聞紙上で話題になった【瀬戸「青島をめぐるドイツと日本(2)日独戦争とドイツ人俘虜」109-110頁参照】。この年を最後に常陸山は引退し、特に常陸山部屋の創設を認められた。翌年、ドイツ人俘虜慰問のための興行を四国で行った。常陸山は力士の地位向上にも努め、後に渡米してアメリカ大統領に謁見するなど、力士の社会的地位向上に貢献し、後に「角聖」と呼ばれた。常陸山のドイツ人との関わりには、ハンブルク巡業の体験の事実があるものと思われる。藤原龍雄氏はその論考「第一次世界大戦と姫路俘虜収容所」(『文化財だより』10頁)の中で、次のように記している。「124日の記事(『鷺城新聞』のこと。筆者注)では、相撲見物が許可される見通しであるという。俘虜の中のドラデン生まれのリットールという俘虜は、本国のハンブルクで日本の常陸山一行の相撲を見物した経験があり、早く見たいと楽しみにしていたが、残念ながらこれは実現しなかった。」→880
84) ヴィンクラー商会:ヤーコプ・ヴィンクラー(Jacob Winckler1851-1911)が1885年に横浜で設立し、今日まで存続する数少ないドイツ系商社の一つ。1869年に来日したヴィンクラーは1869年設立の老舗ドイツ商社ハンス・アーレンス商会に入社し、やがて独立したのであった。日露戦争(1904-1905)後にには、主としてライプチヒのF.A.ブロックハウス社の医学や哲学、技術に関するドイツ語の教科書の輸入を扱い、ブロックハウス社の日本総代理店ともなった。1907年には中国の青島に支店を開設し、特にピーナツの輸出入を扱った。1912年には名古屋、ハンブルクにも支店が開設され、磁器、麦稈真田(ばっかんさなだ:麦藁帽子の材料)の輸出入をでがけた【参照:http://www2.gol.com/users/winckler/history2j.htm】。→887
85) シュペー中将:シュペー(Maximilian von Spee1861-1914)は第一次大戦勃発時のドイツ東洋艦隊司令官。軍艦シャルンホルストで青島を脱出したが、1914128日、イギリスとのフォークランド沖海戦で戦死した。1877年(明治9年)上野公園で開かれた第1回「東京勧業博覧会」で、若き海軍少尉候補生シュペー伯爵は、オットー・シュミーデル(Otto Schmiedel)教授と数時間会話をした。石炭の問題ではシュミーデルを驚かせる知識を披露した【Schmiedel,Otto(Professor am Gymnasium zu Eisenach)Die Deutschen in Japan47頁等より】。→894
86) 吉岡量平:埼玉県出身。明治1210月生。千葉医専卒。明治3633等軍医、同3812等軍医、同40121等軍医、大正553等軍医正(歩兵第10連隊附;姫路市五軒邸96)、同1072等軍医正、同1381等軍医正累進。大正14年時点では、小倉衛戍病院附で、福岡県企救町北方に居住した。なお、習志野収容所にいたユーバシャール(Uebeschaar)博士の遺品には、吉岡量平(3等軍医正時代)の写真が存在し、『ドイツ兵士の見たニッポン』153頁に掲載されている。写真には、達筆なドイツ語で「Zur Erinnerungen Dr.Yoshioka 1916」のサインが記されている。文献:『陸軍軍医団団員名簿』、『日本医籍録』→901
87) エードアルト・マイヤー社:中国語の会社名は世昌洋行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、輸出入。→949
 
参考文献表(概ね発行年代順に掲げた)
 
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8) 『青島研究資料』、青島軍政署(附陸軍歩兵少佐中村照治訳)、青島新報社印刷、大正59月。
9) 『獨逸及墺洪国 俘虜名簿』、日本帝国俘虜情報局、大正66月改訂。(防衛研究所図書館所蔵)
10) 同上名簿(外務省外交資料館所蔵)
11) 『自大正三年十一月 至大正六年四月 丸亀俘虜収容所記事』(防衛研究所図書館所蔵)。本稿では『丸亀俘虜収容所記事』と略記する。
12) 『俘虜収容所業務報告綴』大正六年 陸軍省 大正三年十一月十四日起 日誌 丸亀俘虜収容所(防衛研究所図書館所蔵)。なお、この文献は便宜上『丸亀俘虜収容所日誌』(二の一)(自大正三年十一月十四日 至大正四年十二月三十一日)及び『丸亀俘虜収容所日誌』(二の二)(自大正五年一月一日 至大正六年四月二十日)とされているが、本稿では『丸亀俘虜収容所日誌』で略記する。
13) 『自大正三年至大正九年戦時書類』(同上)
14) 『自大正三年至九年 俘虜ニ関スル書類』(同上)
15) 『大正三年乃至九年 戦役俘虜ニ関スル書類』(防衛研究所図書館所蔵)
16) 「獨國陸軍官階表」、「獨國海軍官階表」、「澳洪國海軍官階表」(同上書類中の附表)
17) 『陸軍省 歐受大日記』(防衛研究所図書館所蔵)
18) 『青島経済事情』、野村徳七商店調査部、大正695日。
19) 『青島経営ニ関スル獨国ノ諸法令』、青島守備軍民政部編、第3版。大正71030日。
20) 『日獨戦争ノ際俘虜情報局設置竝獨國俘虜関係雑纂』第十巻(大正81月)在本邦俘虜ノ家族取扱ニ関スル件(外務省外交資料館所蔵)。
21) 《Adressbuch für das Lager Bando 1917/8》(板東俘虜収容所案内記),Zusammengestellt und herausgegeben von Rudolf Hülsenitz,Gedruckt in der Lagerdruckerei.
22) 《Fremdenführer durch das Kriegsgefangenenlager Bando,Japan,Herausgegeben von der Lagerdruckerei Bando gelegentlich der Ankunft der von Kurume nach Bando verlegten Kameraden,August 1918.
23) 《Dichtungen von Kriegsgefangenen des Lagers Kurume-Japan,1919.3.18.
24) 《Heimatsadressen der Kriegsgefangenen im Lager Bando,Japan,Gedruckt in der Lagerdruckerei des Kriegsgefangenenlagers Bando,Japan,1919.6.
25) 《Liste der ins Ausland entlassenen deutschen und österreichischen TSINGTAU-Kriegsgefangenen,Hilfsausschus Tokyo,Erscheinungsjahar unbekannt.
26) 『鹵獲書籍及図面目録』、青島守備軍陸軍参謀部、大正92月。
27Schmiedel,Otto(Professor am Gymnasium zu Eisenach):Die Deutschen in Japan,Leipzig,1920.
28) 『山東鉄道旅行案内』、青島守備軍民政部鉄道部、大正10630日訂正増補。
29) 『日本醫籍録』、醫事時論社蔵版、第一版、大正148月。
30Der Krieg zur See 1914-1918. Die Kämpfe der kaiserlichen Marine in den Deutschen Kolonien.Hrsg.vom Marine-Archiv ,Verlag von G.Mittler & Sohn,Berlin,1935.
31) 『青島戰史』―獨逸海軍本部編纂1914年乃至1918年海戰史、海軍省教育局、東京・双文社印刷、昭和101225日。(防衛研究所図書館所蔵)
32Meißner, Kurt:Deutsche in Japan 1639-1939,Deutsche Verlag-Anstalt,1939.
33) 『広島スポーツ100年』、中国新聞社、昭和54年。
34) 《dtv-Lexikon Ein Konversationslexikon in 20 Bänden,Deutscher Taschenbuch Verlag,1979.
35) 坂本夏男「久留米俘虜収容所の一側面」(上)及び(下)、『久留米工業高等専門学校研究報告』第31号及び32号、昭和54年。
36) 『歩兵第三十四聨隊史』、静岡聯隊史編纂会、昭和5431日。
37) 『新聞集成 大正編年史』大正三年度版下、明治大正昭和新聞研究会、昭和55年。
38) 『鳴門市史』中巻、鳴門市史編纂委員会、昭和57331日。
39) 『ドイツ俘虜の郵便』―日本にあった収容所の生活― 19141920H.リューファー/W.ルンガス著、吉田景保訳注、日本風景社、昭和57520日。
40) 『広島大学付属中・高八十年史・上巻』、昭和60年。
41Timm,Uwe:Deutsche Kolonien.Kiepenheuer & Witsch,1986.
42) 『横浜もののはじめ考』、横浜開港資料館、1988325日。
43) 『朝日新聞〈復刻版〉』、日本図書センター、19891125日。
44) 『「板東俘虜収容所」研究』、「昭和6263年度文部省特定研究報告書」、鳴門教育大学社会系教育講座・芸術系講座(音楽)、19903月。
45) 張瑞徳『中國近代鐡路事業管理的研究 ―政治層面的分析(18761937)』、中央研究院近代史研究所 専利(63)、1991年。
46) 『静岡県史』、資料編19、近現代四、静岡県、平成3320日。
47) 富田弘『板東俘虜収容所』―日独戦争と在日ドイツ俘虜、法政大学出版局、19911218日。
48) 『富田製薬百年のあゆみ』、富田製薬株式会社社史編纂室、平成41016日。
49Klein,Ulrike:Deutsche Kriegsgefangene in japanischem Gewahrsam 1914-1920 Ein Sonderfall,(Dissertation) Universität Freiburg,1993.
50) 『陸海軍将官人事総覧?陸軍編?』第8刷、芙蓉書房、19931115日。
51) 林啓介『「第九」の里ドイツ村』―『板東俘虜収容所』改訂版、井上書房、平成512月。
52) 『姫路市史』第13巻 上 史料編 近現代2、姫路市史編集専門委員会、平成6327日。
53) 新田義之『リヒアルト・ヴィルヘルム伝』、筑摩書房、1994121日。
54) 松尾展成編訳『近代ザクセン国制史』、九州大学出版会、1995920日。
55) 瀬戸武彦「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(1)−膠州湾占拠から青島の建設まで」、『高知大学学術研究報告』第44巻、人文科学編、19951225日。
56) 『静岡県史』、通史編5、近現代一、静岡県、平成8325日。
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58) 安宅温『父の過去を旅して』―板東ドイツ俘虜収容所物語、ポプラ社、199712月。
59) 山田理恵『俘虜生活とスポーツ』、不昧堂出版、平成10122日。
60) 松尾展成「ザクセンにおける日本人(2)」、所載:『岡山大学経済学会雑誌』第30巻第1号、岡山大学経済学会、19986月。
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62) 《Die Baracke. Zeitung für das Kriegsgefangenenlager Bando,Japan.,Band 1.Neu transkribierte Jubiläumsausgabe zum 50jährigen Bestehen der Stadt NARUTO,鳴門市、平成10331日。
63) 榎本泰子『楽人の都・上海』、研文出版、1998920日。
64Laan,Heinz van der:Erinnerungen an Tsingtau.Die Erlebnisse eines deuschen Freiwilligen aus dem Krieg in Ostasien 1914.Hrsg.Rolf-Harald Wippich,OAG Tokyo,1999.
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68) 『特別資料展「ドイツ兵の見たNARASHINO ―習志野俘虜収容所」/19151920』(「パンフレット」:主催:習志野教育委員会;平成12115日〜130日;会場:ザ・クレストホテル津田沼)。
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72) 津村正樹「久留米俘虜収容所における演劇活動(1)」、九州大学言語文化研究院 『言語文化論究』 No.12. 平成128月。
73) 『小野市史』第7巻 史料編W、小野市史編纂専門委員会、小野市、平成121030日。
74) 瀬戸武彦「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(3)ドイツによる青島経営」、『高知大学学術研究報告』第49巻、人文科学編、20001225日。
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76) 《Die Baracke. Zeitung für das Kriegsgefangenenlager Bando,Japan.,Band 2.Neu transkribierte Jubiläumsausgabe zum 50jährigen Bestehen der Stadt NARUTO.鳴門市、平成13331日。
77Krüger,Karl:Von Potsdam nach Tsingtau Erinnerungen an meine Jugendjahre in Uniform1904-1920,Hrsg.Jürgen Krüger,2001.
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80) 森孝明「「青島守備軍司令部」寄贈図書 −愛媛における日独交流の跡?」、『愛媛日独協会会報』第8号、20017月。
81) 『鳴門市ドイツ館館報 Ruhe(ルーエ やすらぎ)』創刊号、鳴門市ドイツ館、200191日。
82Schmidt,Hans-Joachim und Janson,Karl Heinz:Von Kutzhof nach China und Japan.Die Odyssee des Andreas Mailänder 1912 bis 1920,Band 11 der Schriftenreihe des Heimatkundlichen Vereins Köllertal e.V.,Kutzhof,2001.
83) 『ドイツ兵士の見たニッポン』―習志野俘虜収容所1915-1920―、習志野市教育委員会編、丸善ブックス、平成131220日。
84) 瀬戸武彦「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(4)−独軍俘虜概要」、『高知大学学術研究報告』第50巻、人文科学編、20011225日。
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93) 高橋輝和「191412月丸亀俘虜収容所のドイツ宛書簡」、『岡山大学文学部紀要』第37号、20027月。
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96) 安藤秀國/森孝明「『陣営の火』―第一次世界大戦時における松山のドイツ人俘虜収容所新聞―」、『愛媛大学法文学部論集』、人文学科編、第13号、2002(平成14)年9月。
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99) 高橋輝和「丸亀俘虜収容所からの匿名告発書」、『岡山大学文学部紀要』第38号、200212月。
100) 松尾展成「「ドイツ牧舎」(徳島板東)指導者クラウスニッツァーの生涯」、『岡山大学経済学会雑誌』、第34巻第3号、200212月。
101) 『鳴門市ドイツ館館報 Ruhe(ルーエ やすらぎ)』第5号、鳴門市ドイツ館、20032月。
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108) 「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページ(http://homepage3.nifty.com/akagaki/)、200348日発足。
109) 『鳴門市ドイツ館館報 Ruhe(ルーエ やすらぎ)』第6号、鳴門市ドイツ館、20036月。
110Nakamura,Akihiko:Widergespiegelte Heimatwelten.Berge und Flüsse(「呼応する二つの故郷―その山々と川」),übersetzt von Wolfgang Herbert,das Deutsche Haus der Stadt Naruto,2003.(なおこの文献は、中村彰彦『二つの山河』(初出:『別冊 文藝春秋』207号、平成641日;1994年度直木賞受賞作品)の翻訳である)
111) 上田浩二/荒井訓『戦時下日本のドイツ人たち』集英社新書、平成15731日。
112) 『青島戦ドイツ兵俘虜収容所』研究、創刊号;青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究会、平成151025日。
113) 『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』創刊号(改訂版);青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究会、平成151225日。
114) 『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号;青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究会、平成161015日。
 
あとがき
 
 先の『独軍俘虜概要』を出してからここ二年の間に、俘虜収容所及び俘虜に関するいくつもの重要な資料が国内外で出版された。これまでほとんど知られていなかった姫路収容所及び青野原収容所に関する文献と、収容所の施設に関する調査は、従来ややもすると久留米、習志野、板東の三ヶ所に限定されがちであった俘虜収容所及び俘虜の研究に、新たな面を切り開いたことで貴重な成果である。大阪収容所についてもいくつかの事が明らかになった。また、板東収容所の建物を再利用したと思われるいくつもの牧舎の存在が判明したことも、この間の出来事である。徳島俘虜収容所で発行された『徳島新報』が、ドイツに大量に遺されていることが判明したことは、今後の研究に大きな弾みになるであろう。更に丸亀では、「エンゲル祭」実行委員会が結成され、俘虜を記念した行事が定着し、かつ丸亀収容所の研究も始められている。
 
 特筆に価することは、「丸亀ドイツ兵俘虜研究会」の四国学院大非常勤講師小阪清行氏及び香川県大手前中・高等学校教諭赤垣洋氏によって、「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」という、インターネット上での研究及び情報交換・交流組織が立ち上げられたことである。これまでは、主として俘虜収容所が存在した各地域、ないしは個人で俘虜収容所や俘虜の調査・研究が行われてきたが、このホームページの開設によって飛躍的な変貌を遂げることになった。国内に留まらず、国外の研究者との交流も可能になったからである。この情報から、筆者が本稿に活かした事項もいくつか存在する。
 
今回の資料作成に際して、松尾展成岡山大名誉教授から数多くのご教示を受けたことを、感謝とともに申し述べたい。松尾名誉教授はクラウスニッツァー及びオットー・レーマンの遺族から多くの資料の提供を受け、またパウル・エンゲル等については、これまで向けられことの少なかった部分にまで調査研究の目を注がれた。筆者がそのご好意により目にすることが出来た資料は、本稿の随所に活かすことが出来た。先の『独軍俘虜概要』における間違いや疑問点についても多々指摘して頂いたことも触れておきたい。
星昌幸氏(習志野市教育委員会生涯学習部社会教育課)からは、インターネット上で公開されているドイツ人研究者の俘虜関係情報の教示に留まらず、様々な形での協力を受けることが出来た。丸亀で前述のホームページが立ち上げられることになったのも、他ならぬ星氏の熱意が結実したものと言っても過言ではない。
OAG(ドイツ東洋文化研究所)理事ディルク・ファン・デア・ラーン(Dirk van der Laan)氏からは、入手が難しいドイツの文献を送って頂いた。また、先の論文では、俘虜ではなかった人物を一名掲載するという(「はじめに」の項参照)、大きな誤りも指摘して頂いた。厚く感謝申し上げる次第である。
ドイツ・ザールラント州ホイスヴァイラー=クッツホーフ(Heusweiler-Kutzhof)在住の俘虜研究家ハンス=ヨアヒム・シュミット(Hans-Joachim Schmidt)氏からは、メールの交換によって貴重な助言を数多く得た。筆者がこれまで見逃してきた人名綴りの間違いは、氏のお陰でかなり訂正されたものと思う。厚く感謝申し上げる。
ドイツ・ルートヴィッヒスハーフェン在住の生熊文(いくまあや;アヤ・プスター)氏の数編の訳業も、種々の点で参考とさせて頂いた。
鳴門市ドイツ館館長田村一郎氏には、日頃から種々の教示を受けている。板東の「第九」指揮者へルマン・ハンゼンの情報は、もっぱら氏からのご教示に負うものである事を特に記しておきたい。
日本テレワークの朝川昭史氏からは、従来、余りよく実態が分かっていなかった似島俘虜収容所に関する資料の教示を受けた。
 
今回も各機関並びに各方面の方々から種々の点で教示・協力を仰ぐことが出来た。防衛庁防衛研究所図書館、外務省外交資料館、丸亀市立資料館、久留米市教育委員会文化財保護課課長補佐堤諭吉氏、横浜開港資料館平野正裕氏、姫路市教育委員会森恒裕氏、ベルリン日独センター図書・資料室主任桑原節子氏、山形大教授奥村淳氏、東北学院大教授エルンスト・ゾンダーマン(Ernst F.Sondermann)氏、静岡県袋井市在住の内野健一氏、金沢大助教授志村恵氏、香川大教授森本國臣氏、香川日独協会会長中村敏子氏、高松市在住の郵趣家三木充氏、愛媛大教授森孝明氏、徳島大教授石川栄作氏、徳島大教授川上三郎氏、高知大教授小島一良氏、高知大教授吉尾寛氏、高知大教師シュテファン・フーク(Stefan Hug)氏の各位から資料の提供及び情報等の教示を受けた。また河野愛恵氏(高知大卒・JA高知はた)には、巻末の俘虜収容所配置図の作成及び煩瑣な校正をして頂いた。記して感謝申し上げる。
 
付記
先の拙稿「独軍俘虜概要」には数々の誤りがあった。単純な誤植から、特に人名綴りの点に関する『俘虜名簿』の誤り、筆者の不明から生じた誤りと、枚挙に暇もない状態である。ここに正誤表を加えるつもりであったが、この度「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」がインターネット上に発足したこともあり、その中のリスト(俘虜名簿)で誤りを正すこととした。拙稿を所持されている場合は、それと対照して頂ければと考える次第である。