青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(5
独軍俘虜概要(2
 
 
瀬戸 武彦
(人文学部人間文化学科)
 
Tsingtau in Schantung im Zusammenhang mit Deutschland und Japan(5)
Von den deutschen und österreichisch-ungarischen
Kriegsgefangenen 2
 
SETO Takehiko
(Seminar für deutsche Philologie der philosophischen Fakultät)
 
 
はじめに
 
本稿は第一次世界大戦時に、当時ドイツの租借地であった中国山東半島の青島(チンタオ)攻防をめぐる戦闘、いわゆる日独戦争での独軍俘虜の事績・足跡等を紹介する資料である。筆者は二年前に『独軍俘虜概要』として、906名の俘虜の事績・足跡について紹介する資料を発表したが、本稿はその続編である。先の『独軍俘虜概要』発表以後、久留米、習志野、板東の各収容所での俘虜の活動に関する文献が出版された。これらの資料や、また先の資料では活かすまでには至らなかった文献、筆者がその後入手した文献、また各方面からの情報の提供やインターネット等から、今回新たに731名の俘虜を記載することが出来た。更に、前回取り上げた俘虜についても、その後追加出来る事項が判明して再度取り上げたケースもある(なお、その場合には人名部分を[ ]で括った)。今回取り上げた俘虜数は975名で、その内新規に取り上げた俘虜数は上記のように731名である。前回分と合わせると、重複する俘虜を除いてその総数は1635名(先の拙稿から、2名を誤りから削除)に達し、俘虜総数4715名の約34.6%になる。
今回の本稿の特色として、俘虜の出身地を記したことが先ず挙げられる。これについては、前回も考慮したことではあった。しかし、基本資料である『独逸及墺洪國俘虜名簿』の本籍地(Heimatsort)の記載に、いまひとつ踏み切れないものを感じて、利用できないまま『独軍俘虜概要』を作成した。今回は敢えて使用することにした。なお、『俘虜名簿』では「本籍地」の表記となっているが、本稿では「出身地」の言葉を使用した。「本籍地」、「出生地」、「出身地」の語には微妙な差異がある。これら三項目が同じである場合もあれば、それぞれが異なる場合もあろう。『俘虜名簿』の「Heimatsort」にはさらに「帰郷地」または応召前の「勤務地」の意味合いもあるように思われる。本稿での「出身地」は、前述のいくつかの意味合いも含まれていると考えてもらいたい。(なお、この「本籍地」等の概念に関しては、松尾『「ドイツ牧舎」(徳島板東)指導者クラウスニッツァーの生涯』122頁を参照願いたい。)『独逸及墺洪國俘虜名簿』の記載事項「本籍地」は、仮に必ずしも正鵠を射るものではなかったとしても、なんらかの関わりがあり、俘虜の事績・足跡と無縁ではないように思われる。明らかに疑念に思われる中国及び日本の都市は、応召直前の居住地等と考えられるので、出身地としては記載しなかった。しかし参考のためにその都市名を( )として記した。なお、地名・人名の表記は、慣用表記に従ったものもある(例えば、ベルリーンはベルリンに、ユッフハイムはユーハイムにした)。
応召前の勤務先・職業と家族の消息調査が進んだことから、この関連事項が多いのも今回の特色である。家族の消息に関して、特に俘虜の妻に関しては、その名が判明している限りそれを記載した。なお、前回取り上げた俘虜については、今回はその一部についての補足に留まった。他日今回分と纏めるときに妻子の動向や勤務先等について加筆するつもりである。
 
本稿における俘虜概要名簿の作成方法は、前回と大きく異なるものではない。しかし、若干の違いもあるので、再度以下にその方針を掲げることにする。
 
1) 日本帝国俘虜情報局作成の『獨逸及墺洪國俘虜名簿』(大正66月改訂)―以下本稿では単に『俘虜名簿』と略す―に掲載された俘虜を取り上げた。この際の『俘虜名簿』は、防衛庁防衛研究所図書館所蔵と外務省外交資料館所蔵の二点の同名資料を用いた。後者では1920年初頭に、その後に追加されるべき俘虜や死亡した俘虜の死亡年月日が手書きで付け加えられ、新たな宣誓解放、移送先収容所がゴム印で追加押印されている。また俘虜番号の修正・変更もなされていることから、後者を主たる『俘虜名簿』とした。
2) 収容所内ないしは、日本国内及び国外で何らかの活動・行為、または足跡が判明している場合。
3) 青島における戦闘での任務、守備位置が判明している場合。
4) 応召前の勤務先又は職業が判明している場合。
5) 家族の消息が判明している場合。
6) 青島あるいはその周辺で死亡して青島欧人墓地等に埋葬されたが、俘虜番号を付された場合。
 
 名簿の作成方法は『俘虜名簿』に準拠しているが、本稿での記載方法にはいくつか違いがある。以下の要領で俘虜概要名簿を作成した。
1) 『俘虜名簿』では、将校並びに同相当者と准士官以下は区別されているが、本稿では区別することなくドイツ語のアルファベット順に掲載し、本稿での通し番号を設けた。
2) 諸事項の配列順は、通し番号、姓(カタカナによるその読み方)、名前等、生没年、所属部隊・階級、任務・守備位置、応召前の勤務先又は職業、事績・足跡等、出身地、俘虜番号・収容所名とした。
3) 将校の階級名では、『俘虜名簿』あるいはドイツ側の資料で「海軍」と規定されている場合のみ海軍将校とした。その他の将校は、海軍歩兵大隊等に属して、形式上は海軍将校であってもその実体が陸軍将校である場合は陸軍の階級とした。例えば、第3海兵大隊長のケッシンガー大佐は海軍歩兵大佐であるが、実態に合わせて陸軍歩兵大佐とした。なお筆者は従来所属部隊名として、「海軍歩兵第3大隊」、「海軍膠州派遣砲兵大隊」、「海軍東亜分遣隊」の名称を用いてきたが、この修正版を機会にそれぞれ、「第3海兵大隊」、「海軍膠州砲兵隊」、「海軍東アジア分遣隊」に改めたことを記しておく。
 
 上記の関連で、先の拙稿『独軍俘虜概要』に載せた「青島独軍参謀本部並びに部隊編成・配置とその指揮官」を再掲する。
 
 表1:青島独軍参謀本部並びに部隊編成・配置とその指揮官(《Der Krieg zur See 1914-1918》及び『青島戰史』より)
 
参謀本部
 膠州総督:A.Meyer-Waldeck(マイアー=ヴァルデック)海軍大佐
副官:G.v.Kayser(カイザー)陸軍少佐
参謀長:L.Saxer(ザクサー)海軍大佐
参謀:W.Freiherr v.Bechtolsheim(ベヒトルスハイム)海軍大尉
情報部長:W.Vollerthun(フォラートゥン)海軍大佐(海軍省膠州課長)
砲兵部長:P.Boethke(ベトケ)海軍中佐
工兵部長:C.Siebel(ジーベル)陸軍少佐
通信兼信号将校:K.Coupette(クーペッテ)陸軍中尉
飛行将校:G.Plüschow(プリューショウ)海軍中尉
暗号将校:P.Kempe(ケムペ)陸軍中尉
  上:W.Trittel(トリッテル)予備陸軍少尉
軍医長:Dr.Foerster(フェルスター)海軍軍医大佐
法務長:G.Wegener(ヴェーゲナー)海軍法務官
民政長:O.Günther(ギュンター)青島民政長官
財政長:C.Knüppel(クニュッペル)海軍財政官
情報部通訳:J.Überschaar(ユーバシャール)予備陸軍中尉
   上:F.Hack(ハック)予備陸軍中尉
 
3海兵大隊長:Fr.von Kessinger(ケッシンガー)陸軍中佐
 副官:W.Bringmann(ブリングマン)陸軍中尉
 1中隊長:G.Weckmann(ヴェックマン)陸軍大尉:右地区(第1歩兵堡塁=湛山堡塁)
2中隊長:W.Lancelle(ランセル)陸軍大尉:中央地区(第4歩兵堡塁=台東鎮東堡塁)
3中隊長:H.v.Wedel(ヴェーデル)陸軍少佐:左地区(第5歩兵堡塁=海岸堡塁)
4中隊長:E.Perschmann(ペルシュマン)陸軍大尉:右地区(第1・第2歩兵堡塁
中間地区)
5中隊長:E.Kleemann(クレーマン)陸軍騎兵少佐:中央地区(第3・第4歩兵堡
塁中間地区)
6中隊長:C.Buttersack(ブッターザック)陸軍中尉:右地区(湛山堡塁)
7中隊長:H.Schulz(シュルツ)陸軍大尉:右地区(第2歩兵堡塁=湛山北堡塁)と中央地区(第3歩兵堡塁=中央堡塁)
 砲兵中隊長:S.v.Saldern(ザルデルン)海軍大尉:左地区
工兵中隊長:E.A.Sodan(ゾーダン)陸軍大尉:中央地区の第2・第3歩兵堡塁中間地区
野戦砲兵隊長:W.Stecher(シュテッヒャー)陸軍大尉:中間掃射4砲兵地区(鉄道列車上)
重野戦榴弾砲兵隊長:R.Boese(ベーゼ)陸軍中尉
自働短銃隊長:G.Charrière(シャリエール)陸軍中尉(後日、C.Krull(クルル中     尉)
 機関銃隊長:Fr.F.v.Schlick(シュリック)陸軍中尉
海軍膠州砲兵隊長:G.Hass(ハス)海軍中佐
 海正面司令官:H.Wittmann(ヴィットマン)海軍大尉          
1中隊長:H.Wittmann(ヴィットマン)海軍大尉(?)
2中隊長:H.Kux(ククス)海軍大尉
3中隊長:R.Duemmler(デュムラー)海軍大尉
4中隊長: S.v.Saldern(ザルデルン)海軍大尉(兼任?)
5中隊長:G.Griebel(グリーベル)海軍中尉
 
海軍東アジア分遣隊長:P.Kuhlo(クーロ)陸軍中佐
1中隊長:Graf v.Hertzberg(ヘルツベルク)陸軍大尉 :左地区(第4・第5歩兵堡塁中間地区)
2中隊長:O.Schaumburg(シャウムブルク)陸軍大尉:左地区(第6歩兵堡塁)
3中隊長:H.v.Strantz(シュトランツ)陸軍大尉:第1中隊と同じ地区
 
動員国民軍指揮官:L.Wiegand(ヴィーガント)陸軍中尉
1国民軍小隊長:H.Walter(ヴァルター)中尉補
2国民軍小隊長:E.Lehmann(レーマン)中尉補
 
また、表1との関連で、日本の青島(せいとう)攻囲軍の陣容概略を表2として掲げる。
 
2:青島攻囲軍陣容(『大正三年 日獨戰史』より)
 
独立第18師団
師団長:神尾光臣陸軍中将
 参謀長:山梨半造陸軍少将
 師団本隊
   第1梯団長:長堀均陸軍歩兵大佐
   第2梯団長:堀内文次郎陸軍少将
   第3梯団長:野中光祥陸軍?重兵中佐
 山田支隊:山田良水陸軍少将
   第1梯団長:松前定義陸軍歩兵大佐
   第2梯団長:山田良水陸軍少将
   第3梯団長:加藤豊三郎陸軍歩兵大佐
独立攻城重砲隊
 司令官:渡辺岩之助陸軍少将
海軍重砲隊(3中隊、通信隊、担架隊、衛生隊、給養隊)
 司令部指揮官:正木義太海軍中佐
 参謀:江渡恭助海軍少佐
 副官兼参謀:杉本幸雄海軍大尉
 副官:福永恭助海軍中尉
 
 編成部隊の概要
陸軍
独立第18師団(師団長神尾光臣陸軍中将)
 歩兵第23旅団(旅団長堀内文次郎少将、歩兵第46連隊、歩兵第55連隊):右翼隊
 歩兵第24旅団(旅団長山田良水少将、歩兵第48連隊、歩兵第56連隊):中央隊
 歩兵第29旅団(旅団長浄法寺五郎少将、歩兵第34連隊、歩兵第67連隊):左翼隊
 野砲兵第24連隊(2大隊で、1大隊は3中隊)
 工兵第18大隊(2中隊)
 航空隊
 無線電信隊
 師団?重(?重兵1大隊、衛生隊、野戦病院4
野戦重砲兵第2連隊(6中隊)
野戦重砲兵第3連隊(4中隊)
独立攻城重砲兵第1大隊(3中隊)
同      第2大隊(2中隊)
同      第3大隊(3中隊)
同      第4大隊(3中隊)
同      中  隊
独立工兵   第4大隊(3中隊)
 
海軍
 艦隊編成表
1艦隊:司令長官: 加藤友三郎海軍中将
 第1戦隊:摂津、河内、安芸、薩摩
 第3戦隊:金剛、比叡、鞍馬、筑波
 第5戦隊:矢矧、平戸、新高、笠置
 第1水雷戦隊:音羽、第1、第2、第17駆逐隊
2艦隊:司令長官:加藤定吉海軍中将
 第2戦隊:周防、岩見、丹後、沖島、見島
 第4戦隊:磐手、常磐、八雲
 第6戦隊:千歳、千代田、秋津洲
 第2水雷戦隊:利根、第9、第12、第13駆逐隊
 特務艦:熊野丸、高千穂、松江
 掃海隊:甲掃海隊(6隻)、乙掃海隊(7隻)
 航空隊:若宮丸、飛行機4
3艦隊:司令長官:土屋光金海軍少将
    対馬、淀、最上、嵯峨、宇治、隅田、鳥羽、伏見
 
4) 階級は日独戦争終結時点でのものとし、准士官以下の階級には海軍及び陸軍の呼称を省いた。階級名は、参考文献に掲げた諸官階表におおむね依拠した。
5) 俘虜の多くは収容所の整理・統合等で、収容所替えを経験している。その場合は矢印→で移送先を示した。
なお、俘虜番号順による当初の収容先収容所名、またその人数を示したのが表3である。拙稿『独軍俘虜概要』では特に触れなかったが、表3の俘虜番号順による収容先俘虜収容所は、長年疑問に思いながら解決を見なかったものである。ある日、大正四年十月調の『俘虜名簿』と大正六年十月改訂の『俘虜名簿』、及び『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂』第四巻中の最初期における俘虜の収容所先名を詳細に照合し、検討・吟味している時、突然ひらめくようにして判明した。それでもなお一抹の疑念は払拭できなかったが、その後入手したカール・クリューガーの『ポツダムから青島へ』(Karl Krüger:Von Potsdam nach Tsingtau179頁に、福岡収容所に収容された俘虜についてのみではあるが、拙稿と完全に一致する下記番号を見つけた。表3の俘虜番号順による収容先に誤りがないことが証明されたと考える。
 
 表3:俘虜番号順による当初の収容所先及びその人数等
 
   1Agethen,H.)〜 315Zilosko,H.)… 東京(315名;但し、1081名は青島で死亡)
   316Anders,E.)〜 852Zoepke,G.)… 久留米(537名)
   853Adler,N.)〜 1702Zschöckner,W.)… 福岡(850名)
   1703Ahe,E.v.d.)〜 1809Zimmermann,W.)… 静岡(107名)
   1810Adamczewski,B.)〜 2133Zimmermann,E.)… 丸亀(324名)
   2134Allenstein,O.)〜 2456Zecha,J.)… 姫路(323名)
   2457Ahlers,L.)〜 2765Zimmermann,H.)… 名古屋(309名)
   2766Abelein,G.)〜 3180Zimmermann,K.)… 松山(415名)
   3181Alinge,K.)〜 3831Zielaskiwitz,K.)… 熊本(651名)
   3832Artelt,M.)〜 4117Ziolkowski,W.)… 大阪(286名)
   4118Auer,A.A.)〜 4323Wieser,R.)… (大阪※→)徳島(206名)
   4324Altenbach,Th.)〜 4464Zahn,H.)… (熊本※→)大分(141名)
   4465Anstoltz,Chr.)〜 4709Walter,Hugo)… 大阪(245名;但し、46271名は青島俘虜収容所から逃亡、4659から4664までの6名は青島およびその周辺で死亡、4665から4673までの9名は西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが宣誓解放され、46871名は大戦終結まで青島俘虜収容所に収容されたままであった)
    その他上記に含まれないケース
   4710Strempel,Walter)… 久留米
   4711Morawek,Rudolf Edler v.)… 大阪
   4712Keining,Ernst)… 大阪
   4713Ivanoff,Valentin D.)… 大阪
   4714Wegner,Ferdinand)… 青野原
   4715Günther,Otto)… 板東
※ (3週間前後のごく短期間)
 
 坂本夏男『久留米俘虜収容所の一側面』(上)5頁で挙げられた1915年(大正5年)1月末時点という、比較的早い時期での収容俘虜数に比べて、ここで掲げた久留米及び福岡の俘虜数が1名多くなっているのは、収容された後に(書類上の収容で、実際は衛戍病院に搬送された)、しかも前記1月末時点以前に各1名が病没しているからである。大阪俘虜収容所の俘虜数の違いは、俘虜の収容が五月雨式に何度にもわたったことによる。また、他の収容所の場合も、必ずしも全員が同時期に収容されたわけではない。
 各俘虜収容所の開所及び閉鎖時期と、俘虜収容所長を以下に表4及び表5として記す。開閉時期は、『日獨戦争ノ際俘虜情報局設置竝獨國俘虜関係雑纂第一巻ノ一』(大正九年四月十三日 陸軍省飯田大尉報告※)に拠った。なお、ここでは文書通りに、大正の元号を使用した。
※俘虜送還委員会委員であった陸軍省軍務局課員飯田祥二郎陸軍歩兵大尉と思われる。
 
4:俘虜収容所開閉一覧表
 
東京:大正31111日開始、大正497日閉鎖。(習志野へ移転)
習志野:大正497日開始、大正941日閉鎖。
静岡:大正3123日開始、大正7825日閉鎖。(習志野へ移転)
名古屋:大正31111日開始、大正941日閉鎖。
大阪:大正31111日開始、大正6219日閉鎖。(似島へ移転)
似島:大正6219日開始、大正941日閉鎖。
姫路:大正31111日開始、大正4920日閉鎖。(青野原へ移転)
青野原:大正4920日開始、大正941日閉鎖。
松山:大正31111日開始、大正6423日閉鎖。(板東へ移転)
丸亀:大正31111日開始、大正6421日閉鎖。(板東へ移転)
徳島:大正3123日開始、大正649日閉鎖。(板東へ移転)
板東:大正649日開始、大正941日閉鎖。
福岡:大正31111日開始、大正7412日閉鎖。
久留米:大正3106日開始、大正9312日閉鎖。
熊本:大正31111日開始、大正469日閉鎖。
大分:大正3123日開始、大正7825日閉鎖。(習志野へ移転)
  
 従来いくつかの文献で徳島収容所の開設時期を大正31111日としているが、正しい開設時期は上記の日付である。開設時期が遅れたために、徳島俘虜収容所に収容予定の俘虜は、大阪俘虜収容所に3週間ほど収容されていた。大分収容所の開設も同様で、俘虜は当初熊本俘虜収容所に収容された。静岡俘虜収容所に収容された俘虜の大多数(ごく少数が大阪から移送)は、128日に宇品港に到着した。なお、巻末に16ヶ所の俘虜収容所の位置を示す「俘虜収容所配置図」を掲げた。
 
5:俘虜収容所長一覧表
 
東京俘虜収容所長:歩兵第1連隊附歩兵中佐侯爵 西郷寅太郎
静岡俘虜収容所長:歩兵第34連隊附歩兵少佐 蓮實鐡太郎、後に嘉悦敏騎兵大佐
名古屋俘虜収容所長:歩兵第23連隊附歩兵中佐 林田一郎、後に中島銑之助歩兵大佐
大阪俘虜収容所長:歩兵第37連隊附歩兵中佐 菅沼來
姫路俘虜収容所長:歩兵第10連隊附歩兵中佐 野口猪雄次
丸亀俘虜収容所長:歩兵第12連隊附歩兵中佐 石井彌四郎(後に大佐)、後に納富廣次歩兵少佐(後に中佐)
松山俘虜収容所長:歩兵第22連隊附歩兵中佐 前川譲吉
徳島俘虜収容所長:歩兵第62連隊附歩兵中佐 松江豊寿
福岡俘虜収容所長:歩兵第24連隊附歩兵中佐 久山又三郎、後に白石通則歩兵大佐、江口鎮白砲兵中佐
熊本俘虜収容所長:歩兵第13連隊大隊長歩兵少佐 松木直亮
大分俘虜収容所長:歩兵第72連隊附歩兵中佐 鹿取彦猪、後に西尾赳夫中佐
久留米俘虜収容所長:歩兵第48連隊附歩兵少佐 樫村弘道、後に真崎甚三郎歩兵中佐、その後林銑十郎歩兵中佐、高島巳作中佐、渡辺保治工兵大佐
習志野俘虜収容所長:西郷寅太郎中佐(後に大佐)、後に山崎友造砲兵大佐
似島俘虜収容所長:菅沼來中佐(後に大佐)
青野原俘虜収容所長:野口猪雄次中佐(後に大佐)、後に宮本秀一歩兵中佐
板東俘虜収容所長:松江豊寿中佐(後に大佐)
( )内で「後に大佐」等と記した場合は、収容所長在任中での昇進を意味する。
 
6) 年号は原則として西暦を用いた。なお、青島における日独戦争関連の出来事で年月日を示す際は、1914年の西暦を省略した。
7) 注で触れている事項等は太字とした。さらに注の各項目末尾には、当該個所が判りやすいように矢印→で通し番号を示した。出典、参考文献を記した場合、及び関連参考事項等は【 】で示した。俘虜の事績・足跡等の記述に当たって参考とした文献は本稿末尾に記したが、概要の中で該当文献及びその個所を、必ずしも全てに亘って明示しているものではない。一つの文献だけに依拠した訳ではなく、場合によっては相当数の文献からの抽出であり、また煩雑さを避けることも考慮した。しかし、明らかなる引用(その場合は「」で括ってある)の場合は明示した。
 
俘虜に関する数字上の問題には、日独戦争における日独双方の戦死者数、負傷者数の不確定さほどではないにせよ、必ずしも確定できない部分が存在する。ドレンクハーンの報告文書のコピー(19151020日付)と思われる外務省資料には、日本の収容所として香港収容所も含まれ、香港収容所の俘虜数として77名の数字が挙げられている。その結果、俘虜総数も4758名にのぼっている。しかし、本稿ではあくまでも俘虜番号を付され、俘虜情報局による『獨逸及墺洪國俘虜名簿』(大正六年六月改訂)に掲載された俘虜のみを、日本軍による俘虜と見なした。香港から日本へ俘虜として送られた形跡は、目下のところ微塵も窺うことは出来ない。(考えられることとしては、一時的にイギリス軍から委託を受けて、香港での俘虜収容に関わったということである。また、『大正三年乃至九年 戦役俘虜ニ関スル書類』(防衛研究所図書館所蔵)の「獨逸及墺洪國捕獲捕虜並内地後送對照表」の備考には、「青島開城ノ際捕獲ノ俘虜中七十六名ノ解放者アルハ英国ニ引渡シタル者ヲ指ス」の一文がある。数字上は一名の違いがあるが、この関連と思われる。なお、『戦役俘虜ニ関スル書類』の「附録第1號」では俘虜総員数を4791名、収容総数は4698名としている。前者の数は、上記76名に下記表6Aの数を足した数、即ち764715に合致し、後者の数は、下記表6DIを足した数、即ち14697に合致する。)
収容からその後に至るまでの幾つかの数値を表6として掲げる。参考までに日本国内から応召したドイツ人数も掲げた。
 
6:俘虜の収容に関する数字
 
A)俘虜番号を付された俘虜総数:4715
B)青島及びその周辺で死亡した俘虜数:7
C)大戦終結まで青島収容所に収容された俘虜数:1
D)青島収容所から逃亡した俘虜数:1
E)南洋群島のヤップ島で宣誓解放された俘虜数:9
F)南洋群島から日本の収容所に移送された俘虜数:5
G)日本国内等(横浜、門司、長崎、奉天)で俘虜となった俘虜数※:4
H)青島から日本へ移送された俘虜数:4688名(A−(BCDEFG)=4688
I)日本各地の収容所に収容された俘虜数:4697名(F+GH4697
J)日本の収容所から海外へ逃亡した俘虜数:5
K)日本の収容所に収容後釈放された俘虜数:1
L)日本の収容所に収容中に死亡した俘虜数:87名(内、自殺した俘虜数:2名):習志野(31名)、名古屋(12名)、久留米(11名)、似島(9名)、板東(9名)、青野原(6名)、大分(2名)、福岡(2名)、大阪(1名)、熊本(1名)、静岡(1名)、松山(1名)、丸亀(1名);各収容所名の後の( )内の数字は、板東収容所跡に昭和511114日建立された、日本における戦没ドイツ兵士合同慰霊碑の名簿による。またこれは各収容所管轄俘虜による数字で、必ずしも死亡地を示すものではない。
※『大正三年乃至九年 戦役俘虜ニ関スル書類』(防衛研究所図書館所蔵)中の「獨逸及墺洪国俘虜捕獲及内地後送對照表」の「第三、其ノ他ノ俘虜」に拠る。
[日本国内から応召して青島に赴いたドイツ人数:118名(Kurt MeißnerDeutsche in Japan 1639-1939101頁より)]
 
7:大戦終結後の俘虜の動向
 
大正7年(1918 年)12月付けの『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂』「第十九巻俘虜解放及送還ニ関スル件八」による俘虜の大戦終結後の動向を以下に記す。なお、これは上記資料の附表「第十二表」によるもので、それには「大正八年」の年号が記されているが、この表でもなお未定者の欄がある。
 表番号
1)日本内地有職者136名(未確定者:17);内訳:青野原:81)、板東:505)、久留米:263)、習志野:221)、名古屋:201)、似島:16
2)青島有職者56名(2);内訳:青野原:1、板東:22、久留米:4、名古屋:51)、習志野:4、似島:181
3)日本内地自活者23名;内訳:板東:11、名古屋:41)、習志野:5、似島:3
4)青島自活者26名;内訳:青野原:2、久留米:2、習志野:3、似島:19
5)日本ヨリ自費旅行者17名;内訳:板東:5、久留米:2、名古屋:4、習志野:6
6)日本内地ニテ帰休後日本ヨリ送還67名(2);内訳:青野原:1、板東:322)、  
久留米:9、名古屋:2、習志野:16、似島:7
7)解放後青島ニ渡航シ同国ヨリ本国送還ニ加ワラント欲スルモノ101名(7);内訳:青野原:5、板東:257)、久留米:16、名古屋:2、習志野:11、似島:42
8)解放後支那ニ渡航シ同地ヨリ本国送還ニ加ワラント欲スルモノ107名;内訳:青野原:4、板東:296)、久留米:21、名古屋:7、習志野:14、似島:32
9)解放後支那ニ渡航シ本国送還ニ加ワラザルモノ108名;内訳:青野原:5、板東:434)、久留米:227)、名古屋:113)、習志野:224)、似島:5
10)和蘭政庁有職者151;内訳:青野原:13、板東:70、久留米:39、名古屋:15、習志野:4、似島:10
11)蘭領東印度有職者105名;内訳:板東:6724)、久留米:118)、名古屋:1、習志野:114)、似島:1511
 
8:大戦終結後の日本内地解放者の数字
 
なお、大正9年(1920年)1月付けの「陸軍省 自大正三年至大正九年俘虜ニ関スル書類」による日本内地解放者として以下の数字を掲げておく。
 
1)日本内地契約成立者:130名:習志野(17)、名古屋(22)、青野原(8)、 似島(19)、板東(46)、久留米(28
 2)特別事情ヲ有シ日本内地ニ居住希望者:33名:習志野(11)、名古屋(3)、似島(2)、板東(17
 3)一般送還船出発前予メ日本ニテノ解放者:24名:習志野(6)、名古屋(3)、似島(4)、青野原(1
 4)青島ニオケル就職既定者:44名:習志野(5)、名古屋(4)、青野原(2)、似島(16)、板東(14)、久留米(3
 5)特別事情ヲ有シ青島居住希望者:83名:習志野(14)、名古屋(1)、青野原(4)、似島(49)、板東(11)、久留米(8
 6)単独自費デ獨逸ヘ帰還スル者:1名:久留米(1