独軍俘虜概要(2) J〜Q
 
通し番号) 姓(フリガナ) 名前等(生没年):所属部隊・階級 〔日独戦争での任務・守備位置〕[応召前の勤務先・職業] 事績・足跡等  出身地(俘虜番号:収容所)
 
387) Jacob(ヤーコプ),Hermann:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代はエンゲル・オーケストラの一員で、収容所の印刷所から『エンゲル・オーケストラ の生成と発展』の本を出版した。ベルリン出身。(1936:丸亀→板東)
388) Jacobi(ヤコービ),Jacob:海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。大阪収容所は1917219日に閉鎖されたが、同年38日時点で大阪衛戍病院に入院していた。宣誓解放された。下部エルザスのオーバーモデルン出身。(4535:大阪→似島)
389) Jäger(イェーガー),Wilhelm:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代、収容所正門の外のすぐ近くにあった「小松ジャム製造所」の所長を務めた。販売はシュタール(Stahl)が担当した。バルト海沿いのミゼトゥロイ出身。(2939:松山→板東)
390) Jahn(ヤーン),Walter]:海軍膠州砲兵隊第1中隊・予備砲兵伍長。[上海ドイツ総領事館]。ベルリン郊外のテルトウ出身。(4188:大阪→徳島→板東)
391) Jakob(ヤーコプ),Ferdinand:所属部隊不明・階級不明。[巡査]。トイピッツ近郊のトルノウ出身。(2948:松山→板東)
392) Jakobi(ヤコービ),Heinz:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[独亜銀行神戸支店]。ポツダム出身。(2942:松山→板東)
393) Jakoby(ヤコービ),Johann]:国民軍・上等歩兵。[総督府・徴税台帳記録係]。妻ベルタ(Berta)は息子二人娘一人と、大戦終結まで青島に留まった。トリーア近郊のノイマーゲン出身。(2946:松山→板東)
394) Janell(ヤネル),Paul:砲艦ヤーグアル乗員・1等機関兵曹。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ノイブランデンブルク出身。(3410:熊本→久留米)
395) Janson(ヤンゾン),Ludolf:海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備上等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として、日本国内で解放された。ブレーメン出身。(1173:福岡→名古屋)
396) Janssen(ヤンセン),Heinrich:海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハノーファー近郊のヴェスターフーゼン出身。(3938:大阪→似島)
397) Jaschok(ヤショク),Paul:海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。大阪収容所は1917219日に閉鎖されたが、同年38日時点で大阪衛戍病院に入院していた。ヴェストファーレンのレックリングハウゼン出身。(3940:大阪→似島)
398) Jaspersen(ヤスペルセン),Julius]:第3海兵大隊第6中隊・後備陸軍少尉。〔湛山堡塁〕。満州の牛荘(営口)から応召した。シュレースヴィヒのハデルスレーベン出身。(2937:松山→板東)
399) Jasse(ヤッセ),Carl:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジームセン香港支店]。エッセン出身。(2941:松山→板東)
400) Jauch(ヤオッホ),Joh.G.:第3海兵大隊第6中隊・後備2等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。シュヴェンニンゲン出身。(4634:大阪→似島)
401) Jebsen(イェプセン),Walter:第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。[ディーデリヒセン漢口支店]。松山時代の後半、ドイツが負けたら故郷がデンマーク領になることを見込んで、デンマーク語を勉強し直すことを決意したが、一人ではやる気が起こらないと、ヴィーティング(Wieting)を誘って一緒に勉強した。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのイツェホエ(Itzehoe)出身。(2938:松山→板東)
402) Jennewein(イェンネヴァイン),Oscar:第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・上等砲兵。19091210日、中国の福州から従兄弟に宛てて書いた手紙が遺されている【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。トリーア近郊のノインキルヒェン出身。(1738:静岡→習志野)
403) Jensen(イェンゼン),Hans A.]:第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備副曹長。[天津独中学校]。板東時代、1917717日に発足した「収容所保険組合」に第6中隊代表となり、かつ「保険組合」の会長を務めた。シュレースヴィヒのカイトム出身。(2945:松山→板東)
404) Johannsen(ヨハンセン),Jakob:海軍砲兵中隊・1等機関兵曹。18855月から1888年までフレンスブルクに居住、1888年から1910年までリンゲン(Lingen)に居住、19104月から19144月までフレンスブルクに居住【『俘虜ニ関スル書類』より】。フレンスブルク出身。(2943:松山→板東)
405) John(ヨーン),Victor:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ボルネマン商会(F.Bornemann & Co.)香港支店]。ベルリン出身。(2940:松山→板東)
406) Jung(ユング),Wilhelm:海軍砲兵中隊・2等水兵。1916916日、久留米収容所より情報局へ、ユング処罰の件について通報があった。ライン河畔のヴィンデスハイム出身。(3406:熊本→久留米)
407) Junker(ユンカー),Adam:第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。板東時代の191854日、『ヴァレンシュタインの陣営』上演に際して、甲騎兵を華やかに演じた。フランクフルト近郊のグリースハイム出身。(2944:松山→板東)
408) Juergens(ユルゲンス),Willi:国民軍・上等歩兵。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ベルリン出身。(2243:姫路→青野原)
409) Kahle(カーレ),Georg]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[マックス・ネスラー書店Max Noeßler & Co. G.m.b.H.)上海支店]。ハノーファー出身。(2963:松山→板東)
410) Kaiser(カイザー),Friedrich:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、カイザーは191968日に開催されたサッカーの試合で活躍した。キルヒハイム出身。(527:久留米)
411) Kaltenhäuser(カルテンホイザー),Hans:海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等水兵。大戦終結後は、青島における就職既定者として日本国内で解放された。ゾーリンゲン出身。(4548:大阪→似島)
412) Kampczyk(カンプツィク),Rudolf:海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。徳島時代の1916116日、ヤコボフスキー作の一幕物『労働』で、息子ビング役をを演じ、男役も見事に演じることを示した【『徳島新報』第18号(1916123日発行)より】。大戦終結して解放後は、蘭領印度のスラバヤに渡った。シュレージエンのカトヴィッツ出身。(4206:大阪→徳島→板東)
413) Kappler(カップラー),Karl]:国民軍・卒。[カップラー製造R.Kappler & Sohn)]。19159月下旬、俘虜として青島収容所に収容された。大戦終結後は、山東省の省都済南に済南貿易商社を興して輸入業を営み、カッセラ社の代理店ともなって染料の輸入を手がけた。バイエルン出身。(4684:青島→大阪→似島)
414) Kast(カスト),Karl:海軍東アジア分遣隊第2中隊・上等歩兵。[皮革工]。ロイステン出身。(1244:福岡→名古屋)
415) Katzenstein(カッツェンシュタイン),Hermann:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[神戸シュトラウス商会(G.Strauß & Co.)]。ケルン出身。(2970:松山→板東)
416) Keim(カイム),Eugen:海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代の1916127日、ルフ(Ruff)作の3幕劇『戦争花嫁』に、主役の老水先案内隊長ラルゼンの娘役イルゼを演じた【『徳島新報』第19号(1916130日発行)より】。板東時代、タパタオの19号小屋で、時計修理を営んだ。シュヴァーベンのグミュント(Gmünd)出身。(4194:大阪→徳島→板東)
417) Keining(カイニング),Ernst:国民軍・曹長。[ホテル経営者]。元海軍歩兵第3大隊第6中隊の曹長だった。青島開城の際家族と天津に逃れた。19168月、所有家屋の課税問題で天津から青島に入り、その結果俘虜となり、91日大阪に送られた【『戦役俘虜ニ関スル書類』より】。青島でホテル「カイニング」を経営していた。妻の名はマリー(Marie)。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ヴェストファーレンのゾースト(Soest)出身。(4712:大阪→似島)
418) Keiper(カイパー),Georg:第3海兵大隊第7中隊・予備副曹長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。インゴルシュタット出身。(4537:大阪→似島)
419) Keller(ケラー),Florian:海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代の1916130日、ルフ(Ruff)指導による寄席「ミモザ」の第2回上演会が開催された。その折りケラーはブロンナー(Bronner)、シルト(Schild)及びローレンツ(Lorentz)とともにチロルのダンスと歌を披露した。彼らの即興歌と靴底を叩くダンスは喝采を博した【『徳島新報』第19号(1916130日発行)より】。上部バイエルンのツィーゲルハウス出身。(4195:大阪→徳島→板東)
420) Kempf(ケンプ),Conrad:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。[ハンブルク・アメリカ汽船]。板東時代、191844日から6日の三日間、ブランダウ演劇グループによるクライストの『壊れ甕』の上演に際して、書記のリヒト役を小気味よく演じた。【『バラッケ』第2巻、33頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ベルリン出身。(4212:大阪→徳島→板東)
421) Kerl(ケルル),Stefan:第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[中国輸出入銀行会社China Import-Export & Bank Co.)横浜支店]。ハンブルク出身。(2961:松山→板東)
422) Kersten(ケルステン),Hermann]:海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。その「ケルステン日記」は『小野市史』第6巻に訳出されているが、それによるとケルステンは、1913101日に新兵として召集され、輸送船で青島に送られて第3中隊に配属されたとのことである。これまで余り知られていなかった青野原俘虜収容所の様子や俘虜生活が活写されている。神戸の「ドイツ・クラブ」での歓迎会には、トルトゼン(Thordsen)と同じ車に乗り込んで出かけた。その折、家族のいるトルトゼンとは別行動をとり、受け入れ家族に心からのもてなしを受けたと記している。1919年の帰国時には収容所で豚の飼育係りを務めていた。帰国前後から帰国船の中、途中立ち寄る蘭領印度での出来事なども記されている。19191227日の日本出発から63日目にヴィルヘルムスハーフェン港に到着し、その三日後に除隊となった。なお、テッゲ(Willy Tegge)の収容所全景を描いたスケッチが手がかりになって、平成145月末、農家の納屋がかつての青野原収容所の施設であったことが判明した【『小野市史』第6巻第4章「青野ヶ原俘虜収容所と小野」及びインターネット:http://osaka.yomiuri.co.jp/kobe/past/020531.htmyoより】。ケーテン出身。(1241:福岡→青野原)
423) Kessler(ケスラー),Johann:第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代、第27室で洗濯屋を営んだ。ケルン出身。(2955:松山→板東)
424) Kessler(ケスラー),Karl:海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、タパタオの12号小屋でギュンシュマンと家具屋及び大工を営んだ。ザクセン・アンハルト出身。(4197:大阪→徳島→板東)
425) Ketelsen(ケーテルゼン),Johannes F.:国民軍・後備伍長。[裁判所書記官]。妻の名はイーダ(Ida)。シュレースヴィヒ出身。(4543:大阪→似島)
426) Klautke(クラウトケ),Paul]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[青島食肉加工所検査官]。松山時代の19169月、収容所新聞『陣営の火』第133号に、「松山の動物と植物」の記事を寄稿した【安藤/森「陣営の火」178頁】。大戦終結して帰国後、ドイツ・ハノーファーの書肆から、『中国の有用植物と有用動物』を出版した【米澤義彦「ドイツ兵俘虜の見た日本の自然―板東収容所及び松山収容所新聞の記事の分析から―」49頁、所載:『地域社会における外来文化の受容とその展開』】。東プロイセンのグート・カールスホーフ出身。(2971:松山→板東)
427) Kleemann(クレーマン),Eduard1870-)]:第3海兵大隊第5中隊長・陸軍騎兵少佐。〔第3・第4歩兵堡塁中間地区〕。大戦終結後の19191230日、クレーマンを輸送指揮官とする帰還船「豊福丸」は、板東604名、習志野71名、似島39名、名古屋230名の計944名が乗船して神戸の第4埠頭を出発し、1920224日ヴィルヘルムスハーフェン港に到着した。船内では、『帰国航』が第6号まで、絵葉書は2種印刷・発行された。グロッセン=エーリヒ(Grossen-Ehrich)出身。(2949:松山→板東)
428) Klees(クレース),Wilhelm:第3海兵大隊第6中隊・補充予備兵。[カッセラ大阪支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として、日本国内で解放された。ハーナウ近郊のビショフスハイム出身。(3434:熊本→久留米→板東)
429) Kleffel(クレッフェル),Julius]:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。[ザンダー‐ヴィーラー上海支店]。出身不明(『俘虜名簿』では上海)。(1961:丸亀→板東)
430) Kleinerbüschkamp(クライナービュシュカンプ),Karl:海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1916411日、フォーゲルフェンガーの誕生祝に招かれた。その折に食べたウサギの肉が、愛犬シュトロルヒ(Strolch)の肉であったかのように(?)フォーゲルフェンガーの日記に記述されている【『ドイツ兵士の見たニッポン』154頁】。ゾーリンゲン出身。(128:東京→習志野)
431) Kley(クライ),Paul1894-1992)]:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。〔ビスマルク砲台〕。丸亀時代、演劇に必要なかつらを調達した。ドイツ軍青島戦士の最後の生き残りとも言われたクライは、1956年以来ヴェストファーレンのリューデンシャイト(Lüdenscheid)で暮らした。1970926日付けの『リューデンシャイト報知』(Lüdenscheider Nachrichten)には、クライが50年ぶりでライポルト(Leipold)と一緒に板東収容所跡を訪問し、慰霊碑に花輪を捧げる様子を『徳島新聞』の記事を転載して報じた。また1972318日付けの『リューデンシャイト報知』には、鳴門市板東のドイツ館(旧ドイツ館)建設の模様が、同じく『徳島新聞』の記事を転載して報じられているが、クライの思い出話も言及されている。19839月には日本から撮影チームが訪れ、ベートーヴェンの「第九」日本初演の地である、板東の思い出等のインタヴューが行われた。地元の『ヴェストファーレン展望』及び『リューデンシャイト報知』は、その後も毎年クライの誕生日や海軍戦友会の特別表彰の模様を報道した。テューリンゲンのヴァルタースハウゼン出身。(1949:丸亀→板東)
432) Klimant(クリーマント),Gustav]:国民軍・曹長。[青島山林局山林監視官]。板東時代、第8棟(下士官棟)の先任下士官を務めた。妻ペトロネラ(Petronella)は息子と娘の三人で、大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。西プロイセンのツェルスク(Czersk)出身。(2984:松山→板東)
433) Klingebiel(クリンゲビール),Wilhelm:海軍砲兵中隊・2等焚火兵。久留米時代、1918916日から、つちや足袋合名会社に刃物鉄工の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。アルフェルト近郊のフェールステ(Föhrste)出身。(3465:熊本→久留米)
434) Klingmüller(クリングミュラー),Adalbert:第3海兵大隊第2中隊・伍長。[アルンホルト‐カルベルク天津支店]。ベルリン出身。(1939:丸亀→板東)
435) Klingst(クリングスト),Paul:第3海兵大隊・予備上等歩兵。[上海ドイツ総領事館]。板東時代、シミング(Schimming)とタパタオの6号小屋で鋳型製作所を営んだ。大戦終結して解放後は、蘭領印度のバタヴィアに渡った。ザクセンのゲーダ出身。(2983:松山→板東)
436) Klinke(クリンケ),Georg:国民軍・伍長。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。プロイセンのフォルスト出身。(2263:姫路→青野原)
437) Klinke(クリンケ),Kurt:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。久留米時代の191712月、エーベルハルト(Eberhardt)及びエームンツ(Emunds)と収容所交付の発信用紙の売買仲介により、重営倉の処罰を受けた。兵卒1ヶ月分(封書用紙1、葉書1)が40銭で売買されていた【『ドイツ軍兵士と久留米』17頁】。ブランデンブルクのツィーレンツィッヒ(Zielenzig)出身。(1209:福岡→久留米)
438) Klose(クローゼ),Albert:海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。板東時代、第62室で理髪業を営んだ。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのアルトナ出身。(4204:大阪→徳島→板東)
439) Kluge(クルーゲ),Ernst1892-1979)]:第3海兵大隊第2中隊・1年志願上等歩兵。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとクルーゲは、オブリガート・ヴァイオリン担当した。200212月、息子のクリスチアンは父親エルンストの遺品を寄贈した。それは1919123日、久留米高等女学校(今日の明善高校)で演奏されたベートーヴェンの「第九」の様子など撮影した写真である。着物姿の女学生を前にして楽器を手にするオーケストラの面々も写っている【20021229日付け『高知新聞』より】。2003315日に、久留米市教育委員会から発行された『ドイツ軍兵士と久留米』には、クルーゲの日記(ノート三冊に記された、厳密にはドイツに帰還後の「回想記」である)の抄訳が生熊文氏の訳で紹介されている。以下はそれによったクルーゲの足跡等である。日独戦争後、沙子口から貨物船日東丸で門司港に着き、所持金の約450マルクを没収された。久留米への車中では25銭で三段重ねの駅弁を買って食べたとのことである。久留米駅には、立派なドイツ語を話す山本茂中尉が出迎えていた。兵卒用の宿舎では、ハーフェルス(Ernst Hafels;瀬戸「独軍俘虜概要」参照)と同室になり、朝から晩まで紙でこしらえた駒でチェスをした。1115日、歓迎のために蓄音機を回してかけた「旧友」の調べが奏でられる中を、顔見知りのシュリーター(Robert Schlieter)軍曹が第1中隊を率いて久留米に現れ、そこにはリヒター(Rudolf Richter)予備伍長もいた。クルーゲは9月上旬に下士官に推奨されていたが、昇進の知らせが来たのは104日、その時には既に捕虜になっていたのである。宿舎では一応下士官並みに処遇された。やがてシュラム(Richard Schramm;瀬戸「独軍俘虜概要」参照)海軍士官と同室になった。クリスマスが近づくと、収容所では各グループが工夫を凝らした作品の制作に励んだ。クルーゲのグループでは、ツェッペリン号LZ101 の模型を制作した。やがて大晦日になると、山本中尉は俘虜達としこたま酒を飲んで酔っ払った。赤司大尉の11時には就寝することになっているとの命令に、山本中尉は千鳥足で外にいる大尉のもとへ行き、声高な論争を始めた。自力では自室に戻れず、俘虜たちに抱えられて部屋に運ばれた。このことは悪い結果になるのでは、とクルーゲは予感した。久留米収容所での待遇が悪かった原因の一つにクルーゲは、ドイツ人将校たちの無作法で馬鹿な行為を挙げている。最初に帰還する隊が出発した後、将校部屋はめちゃめちゃに壊され、日本人にとって嬉しくない落書きでいっぱいだったとのことである。このことはなお収容所に残っている者達に不快な結果となることも将校連中にはどうでもよかったのだ、との言葉をクルーゲは吐き捨てている。青島に1年滞在し、ヨーロッパ文化をよく理解する山本茂中尉のことは、限りなく好意を寄せて記している。1919123日、久留米女学校に招かれて行ったコンサートについては、その折の様々な様子が詳しく記されている。ドイツには第何次にどの帰還船に乗れるか、また全員が同時期に乗船できずに残留者がある等のことには、解放者達に種々の不安を引き起こしていたこともありありと述べられている。12月の20日から22日には、久留米恵比寿座でオーケストラの客演を要請され、23日にはそのお礼として日本の演劇公演に収容所全体が招待された。191912月のクリスマスは、ヘルビヒ(Helbig)、マル(Marr)及びヴルフ(Wulff)の四人で過ごした。ベルリンのディヒターフェルデ出身。(533:久留米)
440) Klumpp(クルムプ),Adolf:第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。久留米時代、19194月から佐賀県鳥栖町の中村石鹸製造工場に就労し、収容所から自転車で通勤した【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。ヴェストファーレンのリップシュタット出身。(3415:熊本→久留米)
441) Knaack(クナーク),John]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ハンブルク・アメリカ汽船上海支店]。ハンブルク出身。(2965:松山→板東)
442) Kneupelt(クノイペルト),Johann:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[シャム王国鉄路局]。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。レーゲンスブルク出身。(2969:松山→板東)
443) Knibbe(クニッベ),Paul:海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備上等歩兵。[電気技師]。ランゲンザルツァ出身。(1245:福岡→名古屋)
444) Knobel(クノーベル),Gustav:第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。板東時代、クノーベル商会の名で洗濯屋を営んだ。ヴュルテンブルクのオーバーシュターディオン出身。(2976:松山→板東)
445) Knoop(クノープ),Karl]:海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。板東時代の191844日から6日の三日間、ブランダウ演劇グループによるクライストの『壊れ甕』の上演に際して、ループレヒト役を演じた。シュレースヴィヒのバルゲン出身。(4196:大阪→徳島→板東)
446) Knüpfel(クニュップフェル),Erich:海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備砲兵伍長。[卵紛製造工場]。美食家だった。そのせいか常に選り抜きの缶詰を所持し、またそれを売ったりもしていた。エルベ河畔のシャンダウ出身。(1202:福岡→習志野)
447) Köberlein(ケーバライン),Wilhelm1890-1952)]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[クンスト・ウント・アルバース商会ウラジオストック支店]。23歳の時、当時有名だった上記商社の社員として採用されたケーバラインは、19145月にシベリア鉄道でウラジオストックへ赴いた。13日ウラジオストックに着任したが、3ヶ月も経たない81日にドイツがロシアに宣戦布告すると、翌2日には24時間以内の退去を命じられた。83日、「ホウザン丸」で敦賀に向けて出航し、6日に敦賀港に着いた。ウラジオストックとは雲泥の差の町の清潔さに、ケーバラインは郷里を思い出した。大阪、神戸に少し滞在した後上海経由で青島に志願兵として応召した。神戸滞在時、料亭で芸者がドイツの民謡「ムシデン」(Muß i denn)を歌ったことに驚いたとのことである。814日青島に到着し、他の10名のクンスト・ウント・アルバース商会員とともに、海軍歩兵第3大隊の兵営で最初の夜を過ごした。青島では一時総督邸の警備に当たっていた。その折、日本軍の複葉機の襲撃に遭った。1914126日、松山収容所(公会堂)から郷里へ葉書を出した。それが青島包囲後数ヶ月、音信不通のため生死を心配していた両親の元への、日本からの最初の便りである。1915116日、松山城から見た松山市を写した絵葉書(「松山城より兵営を望む」の文字あり)を出した。歩兵第22連隊の兵営と収容所になった公会堂が見られる。ケーバラインは所持していたコニカで、松山及び板東で多くの写真を写し、また板東ではグロッセ(Grosse)と共同で写真屋を営んだ。大戦終結して帰国後の19204月、マインツで一時的に仕事に就き、後に結婚することになるゾフィー(Sophie)を知る。1923年郷里に戻り、娘二人が生まれた。1929年に鉄製品の販売代理店を、1935年には消火器販売代理店を営んだ。第二次大戦時には再び応召したが、防空警察に就いた消火器販売による知識のせいであった。ケーバラインの遺品には、日記、葉書、および数多くの写真がある。1972年に鳴門市板東にドイツ館が落成すると、一部が青島戦友会を通じて寄贈されたが、他の資料は後年ヴュルツブルクのシーボルト博物館に収蔵された。俘虜送還船内で写真の注文を受けたことが、遺品の中の領収書から窺える。【この項は、メッテンライター『極東で俘虜となる』による。なお、遺品中には力士とともに写っている俘虜の姿があり、ケーバライン撮影になるとされている。撮影場所についてはいま一つ判然とはしないが、松山収容所時代と思われる。ティッテル(Tittel)の項参照】。ヴュルツブルク出身。(2972:松山→板東)
448) Koch(コッホ),Erwin von1883-1945):第3海兵大隊第7中隊・副曹長。[ハンブルク・アメリカ汽船香港支店]。丸亀時代、横浜市山下町198番地に住む妻のゲルトルート(Gertrud)は、1915129日から191726日までに23回面会に訪れて来た。丸亀北平山町39に住居を構えたと思われる。1917913日、アメリカ経由でドイツに帰国するため最後の面会に訪れた【『丸亀俘虜収容所記事』及び『丸亀俘虜収容所日誌』より】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(1955:丸亀→板東)
449) Koch(コッホ),Heinrich]:海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。[鍛冶職人]。19141025日コッホが重病に陥ると、樫村弘道所長と山本茂中尉は久留米衛戍病院に赴き、コッホから遺言を聞いたが、それは故国の母親によろしく伝えて欲しいとの一言だった。グラーボウ(Grabow)中尉、ベスラー(Boesler)少尉及び下士2名が病院に駆けつけた【『東京朝日新聞』大正31027日付け記事】。ハンブルク出身。(562:久留米)
450) Koch(コッホ),Johann]:第3海兵大隊第7中隊・後備伍長。板東時代、1917717日に発足した「収容所保険組合」に第7中隊代表となって運営に従事した。バイエルンのブルカースドルフ出身。(1957:丸亀→板東)
451) Koch(コッホ),Lambert]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。ルクセンブルク王国人。板東時代の19181019日、分置所内の争いから、ヘルトレに対してヴァルシェフスキーとともに飲酒の上暴行して、営倉30日の処罰を受けた。ヴァツェラート出身。(2968:松山→板東→習志野)
452) Koch(コッホ),Robert:海軍膠州砲兵隊・予備上等掌砲副兵曹。[アイヒヴェンデ・ウント・シュレーダーEichwende & Schröder Co.)青島支店]。エアフルト県のノルトハウゼン出身。(4216:大阪→徳島→板東)
453) Koch(コッホ),Walter:海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、オール(Ohl)とタパタオの13A小屋で靴屋を営んだ。ザクセンのライスニヒ出身。(4202:大阪→徳島→板東)
454) Köhler(ケーラー),Heinrich:海軍膠州砲兵隊・砲兵伍長。大戦終結後、蘭領印度に渡って官吏になった。ドゥイスブルク出身。(1216:福岡→習志野)
455) Köhler(ケーラー),Wilhelm O.:第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。191910月、習志野収容所で上演されたイプセンの『崩壊する社会』で、造船技師役で出演した。ハノーファー出身。(4387:熊本→大分→習志野)
456) Kohlhepp(コールヘップ),Josef:第3海兵大隊・上等歩兵。[皮革工]。ヴュルツブルク出身。(1264:福岡→名古屋)
457) Kohlunt(コールント),Wolfgang:海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備砲兵伍長。[化学工]。ハイデルベルク出身。(1201:福岡→習志野)
458) Kolster(コルスター),Hans:第3海兵大隊・予備陸軍少尉。遺品中に、191511月に高良内での日本軍将校達と写った写真、高良山麓の庭園での写真、1917年久留米寺院前での写真(遠足か?)、1918年秋の収容所脇の畑で野菜を植えている作業風景の写真、1919618日の黒木の矢部川での沐浴風景、音楽の練習風景の写真等が遺されている【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。ビーレフェルト出身。(3411:久留米)
459) König(ケーニヒ),Ernst:海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。大戦終結後、第4次送還船で下記エーヴァルト(Ewald)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。ポーゼン州ポツォリッツ(Podstolitz)出身。(3952:大阪→似島)
460) König(ケーニヒ),Ewald:海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。大戦終結後、第4次送還船で上記エルンスト(Ernst)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。ポツォリッツ出身。(1220:福岡→青野原)
461) König(ケーニヒ),Jakob1892-1964):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。[電気工]。久留米時代の19191110日、習志野のマイレンダーに宛てて葉書を出した。葉書は(久留米名所)高山彦九郎先生之墓と肖像と記され、墓地と肖像を配した絵葉書である。【マイレンダー(Mailänder)の項参照】。ザールブリュッケンのハイリゲンヴァルト出身。(1258:福岡→久留米)
462) König(ケーニヒ),Leo:第3海兵大隊第6中隊・予備上等歩兵。[売薬業]。収容まもない1125日、名古屋衛戍司令官仙波第3師団長による収容所巡視前に、新聞記者との会見にカルクブレンナー(Kalkbrenner)とともに臨んだ。応召前まで横浜に11年居住し、名古屋にも何度か来た事があり、その度ごとに名古屋ホテルに投宿したと語った。会見終了に際してケーニヒは記者に、日本の新聞の貸し出しを頼み、立会いの中尉から寄贈の許可を得た。名古屋収容所ではライマース(Reimers)少尉及びカルクブレンナーとともに日本語を解する俘虜だった【『新聞集成 大正編年史』大正三年度版下、762-763頁】。1919年に開催された名古屋収容所俘虜製作展覧会のカタログには、名古屋俘虜収容所で「電報通信」という、日本の新聞からの最新ニュースを翻訳して俘虜に知らせる情報誌があったことが記されている。それによると、日本の新聞記事の翻訳に当たったのは、ケーニヒ、シェラー(Scherrer)及びシャル(Schall)の三人だった【校條善夫「名古屋俘虜収容所 覚書U」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号、83頁より】。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。シュテッティン出身。(2578:名古屋)
463) König(ケーニヒ),Paul:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[東亜ロイド新聞]。俘虜番号1959の同姓同名のケーニヒと区別するため、ケーニヒIと称された。ワイマール出身。(1960:丸亀→板東)
464) Konitzky(コニツキー),Ferdinand A.:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジームセン広東支店]。ブレーメン出身。(3433:熊本→久留米→板東)
465) Konopacki(コノパキー),Günther:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。190711月から19138月までフレンスブルクに居住した。両親はすでになく、兄弟が同地に住んでいた【【俘虜ニ関スル書類】より】。フレンスブルク出身。(1207:福岡→久留米)
466) Koepke(ケプケ),Ernst:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジータス-プラムベック青島支店]。メクレンブルク=シュヴェーリンのミロウ近郊クヴァルツォウ出身。(2966:松山→板東)
467) Koralewski(コラレフスキー),Josef:第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・予備伍長。[染料製造業]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。グネーゼン(Gnesen)出身。(1266:福岡→名古屋)
468) Korch(コルヒ),Wilhelm:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[メルヒャース上海支店]。ベルリン出身。(1962:丸亀→板東)
469) Körner(ケルナー),Peter1880-1919)]:海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等焚火兵。習志野時代の19161220日、大分のマイレンダー(Mailänder)に宛てて葉書を出した。葉書は、日本髪の女性が、茶托に載せた蓋付きの茶碗を持っている図柄の写真の絵葉書である。裏面の文面は次の通り。「最良のクリスマスと良き新年を」【マイレンダーの項参照】。1919131日、スペイン風邪で死亡。ザールブリュッケン出身。(1187:福岡→習志野)
470) Kort(コルト),Rudolf1891-1955):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。マイレンダー(Mailänder)が第二次大戦後にコンタクトを取った人物【『クッツホーフから中国、日本へ』55頁】。メクレンブルク出身。(4393:熊本→大分→習志野)
471) Koslowski(コスロヴスキー),Hans von:消防隊本部・電話士。[建築業]。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ダンチヒ出身。(4547:大阪→似島)
472) Kothe(コーテ),Ernst:海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。[パン職人]。ブレーメン出身。(1228:福岡→青野原)
473) Kozer(コーツァー),Erich:海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備伍長。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとコーツァーは、第1ヴァイオリンを受け持った。リューベック出身。(3455:熊本→久留米)
474) Kraft(クラフト),Diederich-1917)]:国民軍・階級不明。大阪収容所は1917219日に閉鎖されたが、クラフトは移送されることなく翌月31日大阪衛戍病院で死亡し、陸軍墓地に埋葬された。書類上は似島での死亡とされた。ハノーファー出身。(4542:大阪→[似島])
475) Krampe(クランペ),Adolf]:第3海兵大隊第7中隊・曹長。[青島山林局]。ポンメルン出身。丸亀時代、感冒で倒れたマックス・ブンゲ(Max Bunge)に代って第7中隊班長を務めた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。ポンメルンのシュメンツィニ出身。(1954:丸亀→板東)
476) Kranz(クランツ),Julius:海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ヘッセンのハイガー(Haiger)出身。(4191:大阪→徳島→板東)
477) Kremer(クレーマー),Joseph:第3海兵大隊第5中隊・1等歩兵。松山時代、収容所新聞『陣営の火』の印刷に従事し、板東でも『日刊電報通信』及び『バラッケ』の印刷に携わった。アーヘン出身。(2953:松山→板東)
478) Kretschmer(クレッチュマー),Alfred:海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備2等信号兵。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ベルリン出身。(3471:熊本→久留米)
479) Kretzschmar(クレッチュマー),Georg:海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。1919121日、流行性感冒のため広島衛戍病院に入院し、126日に同病院で解放された【『戦役俘虜ニ関スル書類』中の附表第六号の「俘虜患者解放者一覧表」より】。ザクセン=アンハルトのロンネブルク出身。(3959:大阪→似島)
480) Kretzschmar(クレッチュマー),Georg:海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[製陶職人]。ベンネヴィッツ(Bennewitz)出身。(1249:福岡→青野原)
481) Krogh(クロー),Martin:国民軍・階級不明。19191028日、スゥエーデン大使に宛てて、中国には家族、財産、仕事もあることから、ドイツへの帰還船に乗せられることなく、自費で青島に出発したい旨の請願書を出した【『俘虜ニ関スル書類』より】。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのゾンダーブルク出身。(4544:大阪→似島)
482) Kropatschek(クロパチェク),Hans W.1878-1935)]:海軍東アジア分遣隊参謀本部・陸軍少尉。[青島ロシア副領事館副領事]。帝国議会議員へルマン・クロパチェク(Hermann Kropatschek)の息子として、ブランデンブルクに生まれた。学校生活を終えると軍隊に入り、1899年少尉になった。1900年から1901年にかけて起こった義和団事件の際には、派遣軍の一員となった。1904年ドイツ参謀本部附きとなったが、1905年青島で商売に従事することになり、傍らロシア副領事館の副領事を務めた。大戦終結して解放後は、1922年まで日本に滞在した。その後郷里に戻り、1935923日イルフェルト(Ilfeld)に没した。ブランデンブルク出身。(4637:大阪→似島)
483) Krug(クルーク),Bertram]:第3海兵大隊第7中隊・後備伍長。[青島山林局]。ベルリン出身。(1952:丸亀→板東)
484) Krüger(クリューガー),August:海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等砲兵。大戦終結後は、特別事情を有することから日本国内での居住を希望した。下部エルザスのアンドラウ出身。(1740:静岡→習志野)
485) Krüger(クリューガー), Karl1892-1980):海軍膠州砲兵隊・砲兵伍長。〔イルチス砲台〕。西プロイセンのトルン(Thorn)近郊のペンザウ(Pensau)村に生まれた。父は指物師の親方であったが、長患いの後若くして亡くなった。9人兄弟の長男だったクリューガーは12歳の時、ポツダムの陸軍孤児院に預けられた。金釦の付いた美しい軍服が着られて、兵士になれることを喜んだ彼は、厳しい訓練をものともしなかった。15歳の時、多くの仲間とは違って職人となることより、軍学校に入ることを選んだ。18歳の時、陸軍と海軍との選択では海外への憧れから後者を選んだ。ククスハーフェン(Cuxhaven)で数ヶ月特別訓練を受けた後、青島に派遣されることになり、1911112日北ドイツ・ロイド汽船ネッカー(Nekar)号でドイツを出発して、31日に青島港に到着した。2年間の勤務の後休養休暇も兼ねていったん帰国し、ククスハーフェンで新兵訓練の任務に就いた。19142月末、ハンブルク・アメリカ汽船パトリーツィア(Patricia)号で再び青島勤務へと赴いた。青島からは俘虜として印度丸で門司港に入った。福岡時代は、北地域の第2棟(2階建て)に住んだ。ハンス・ミリエス(Hans Millies)は同室だった。その2階からは、斜め向かいにある料亭に出入りする芸者を見ることが出来た。それは禁じられていたことではあるが、俘虜の最大の楽しみであった。福岡時代は退屈が俘虜達をなによりも困らせた。時に九州帝国大学や福岡高等工業専門学校の学生・生徒達が料亭で宴会を開き、やがて表の通りに出て、俘虜達に聞こえるように、ドイツ民謡をドイツ語で歌ったりした。福岡時代に知り合いになったオストマン(Ostmann)は、やがて演劇グループを結成し、レッシングの喜劇『ミンナ・フォン・バルンヘルム』を上演した。舞台は第2棟で中庭が観客席だった。その後シラーの『群盗』も上演され、幕間には音楽の演奏もあった。ミリエスはその後毎日のようにヴァイオリンを演奏し、時に音楽に関する講義も行った。福岡時代には、かつてのイルチス砲台守備に当った第4中隊の集合記念写真が残されている。クリューガーも写っているが、マイレンダー(Mailänder)の遺品にもあったことから【マイレンダーの項を参照】、二人は同じ中隊に属したと推測できる。1915915日、レムケ(Lemke)、ルドルフ(Rudolff)等の94名とともに福岡から移送されて習志野収容所に到着した。大戦終結後、19191225日、習志野を出発し、翌26日神戸に着き、28日喜福丸でドイツに向かった。1920年ドイツに帰国後は、エルビングの保安警察に3年勤務した。192321日から裁判所に移った。19231月に結婚し、一男一女をもうけた。1945年には後備衛生副曹長として従軍した。1957年、34年間に及ぶ裁判所を上席検査官で退職して年金生活に入った。年金生活の3年後に妻を亡くして男やもめとなった父親に、軍隊生活の回想記執筆を促したのは息子のユルゲン(Jürgen)で、1970年のことであった。息子のユルゲン・クリューガー氏によって編纂されたその回想記『ポツダムから青島へ』(Von Potsdam nach Tsingtau)は、青島(チンタオ)でのドイツ兵士の生活の様子が生き生きと描写されている。1919年の夏には、習志野収容所で映画上映があったこと、主としてアメリカ映画ではあったが、日本映画そしてドイツによる第一次大戦記録映画の上映もあり、「チャップリン映画」を初めて見たとも記している。また、福岡及び習志野の収容所での出来事や、大戦が終結して帰国する船上・船外の光景も描かれている。日記ではなく、俘虜生活を終えてから50年後の回想記はであるが、貴重な文献となっている。俘虜に対する日本人の好意的な姿勢が読者の目を引く。懲罰のこともごく僅かに触れられているが、それは俘虜達のいたずらや逃亡の企てに起因するものとされている。俘虜にとっての最大の敵は退屈であり、そこで活発な学習、講演、演劇,音楽、体操等の活動が生まれた、と解説のクレープス教授は記している。【フランクフルトの戦友会に出席したとの記述がある。「バンドー会」のことかも知れない。参照:『ポツダムから青島へ』175頁】。1980119日、ブレーマーハーフェン・ゲーステミュンデのキリスト教系老人福祉施設で死亡した。西プロイセンのトルン近郊出身。(1215:福岡→習志野)
486) Krüger(クリューガー),Wilhelm:海軍膠州砲兵隊・後備砲兵伍長。[商船機関士]。習志野時代、カール・クリューガー(Karl Krüger)と同じ部屋に住んだ。カール・クリューガーの仲間達の中では最年長で、結婚していた。ポンメルン出身。(1203:福岡→習志野)
487) Kruschinski(クルシンスキー),Karl:海軍野戦砲兵隊・後備上等兵。大戦終結後、青島で中国人資本による輸出入会社の支配人として勤めた。シュレージエンのピチェン出身。(4386:熊本→大分→習志野)
488) Krusewitz(クルーゼヴィッツ),Georg:砲兵兵站部・1等砲工技手。妻マルガレーテ(Margarete)は子ども三人(いずれも12歳以下)と、大戦終結まで上海で暮らした。東プロイセン出身。(2258:姫路→青野原)
489) Kubernat(クーベルナート),Max:海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1919105日に上演開催された「習志野劇団主宰者マルフケ(Marufke)のための謝恩の夕べ」で、第2部の1幕物の茶番劇「当り籤と空籤」に、マルフケ演じる主役の娘マリー役で出演した。西プロイセン出身。(122:東京→習志野)
490) Kühlborn(キュールボルン),Georg]:第3海兵大隊第7中隊・陸軍少尉。丸亀時代の1916414日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツ将校7名と収容所人員の計17名の集合写真である。キュールボルン少尉は、前列向かって右から二人目である【アダムツェフスキー(Adamczewski)少尉の項を参照】。1916104日、ランセル大尉、ラミーン中尉、シュリーカー中尉、フェッター中尉、シェーンベルク少尉、アダムツェフスキー少尉とともに丸亀から大分に移送された。カッセル出身。(1938:丸亀→大分→習志野)
491) Kuhlo(クーロ),Paul1866-)]:海軍東アジア分遣隊長・陸軍歩兵中佐。〔外方陣地部隊左翼陣地指揮官〕。[北京・天津守備隊司令官]。1915221日付の朝日新聞に、クーロ中佐の手紙が某師団の語学教師によって印刷され、模範的ドイツ語として教材に使われている、との記事が掲載された。在アメリカ婦人義捐団体会長ベルタ・ゲッチュマン(Berta Getzschmann)女史は、日本の習志野収容所のクーロ中佐から再び興味深い手紙を受け取り、その抜粋が「日本からの手紙」と題されて『トリビューン(Tribüne)紙』に掲載された(掲載年月日は不明)。以下はその概要である。「大量の義捐物資再度到着いたしました。一同に成り代わって感謝申し上げます。特に沢山の『ガルテンラウベン(Gartenlauben)』のバックナンバーには一同とても喜び、早速図書室に配架されました。ところでご安心ください、大量の楽譜がきちんと私の手元に届きました。(これらの楽譜は指揮者T.R.レーゼ(Reese)とオマハのドイツ人音楽家達並びにブラフ委員会によって集められたもので、届くのに8ヶ月以上かかりました。)もしこの習志野に相応しい楽器と人員があれば、一部を我々自身のためにここに留めて置いたことでしょう。しかし私どもにはいくつかの弦楽器しか操れないので、本来の目的地である久留米へ送りました。そこではずっと大きなオーケストラが結成されています。彼の地の喜びは大きいことでしょう。(中略)貴女様からも、またアメリカ各地のからも新聞がたくさん届きました。シカゴのドイツ人同胞からは楽器が届けられましたが、恐らくそれは貴女様の呼びかけによるものと思われます。当地では暑い夏が訪れました。残念ながら私どもの緑地には期待していたほどの草花が茂りません。土地は肥沃ではありません。日本は想像されているほどには花芳しき国ではありません。独特の魅力はあります。しかし、3年ほど中国、日本、インド等を旅して1908年にドイツに戻ったとき、我が祖国の広葉樹林と山々の美しさに勝るものはないことが、私にははっきりと分かりました。神よ、じきに再びそれらを眼にすることが出来ますように!しかし私どもはなお耐え忍ばねばなりません」。【上記の新聞記事は、久留米収容所で活躍したオットー・レーマン(Otto Lehmann)の子息ユルゲン・レーマン氏より資料の提供を受けた松尾名誉教授からの教示による。なお、新聞記事が掲載された時期は1915年ないしは1916年の夏と考えられる。即ち、習志野収容所の音楽活動で活躍したハンス・ミリエス(Hans Millies)が、福岡収容所から習志野へ移送された19161022日以前と考えられるからである。しかし、『ドイツ兵士の見た日本』(63頁)には、1916812日の「フランクフター・ツァイトゥング紙」に掲載された習志野の兵士の手紙によると、ドイツ系アメリカ人からの楽器・楽譜等の慰問品のことが触れられているとのことである。クーロ中佐の手紙とも考えられる】。また、ハインリヒ・ハム(Hamm)の日記には、クーロ中佐の名が頻繁に見出されるとのことである【「ハインリヒ・ハムの日記から」所載:『習志野市史研究3』参照】。ビーレフェルト出身。(115:東京→習志野)
492) Kühne(キューネ),Adolf:海軍膠州砲兵隊第1中隊・予備1等焚火兵。久留米時代、19196月から日本製粉株式会社久留米支店に、蒸気機関火夫の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。アポルダ出身。(3468:熊本→久留米)
493) Kühne(キューネ),Karl Hermann1892-1918)]:第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。早くに親の元から離れ、ライプチヒの海軍歩兵隊に応募した。1912102日キールの海軍歩兵第1大隊に入隊し、その後海軍歩兵第3大隊参謀本部に志願して、青島に向かった。1913218日海軍歩兵第3大隊第4中隊に配属され、野戦工兵の特別教育を受けた後長く厨房本部入りし、戦争勃発時も厨房任務に就いていた。やがて銃を手にして、青島陥落の日の朝は塹壕の中にいた。自立と克己心の強い人間で、俘虜生活最初期の頃まだ多くの者が途方に暮れている時に、ヴァイオリンを習うためにヴァイオリン造りを始めた。製作費は義捐金を節約して充てた。一日の時間割はどんな事があっても変更しなかった。午前は英語、スポーツ、ヴァイオリン演奏、午後は速記か数学等で、それから再びスポーツ、徒手体操、そしてヴァイオリンであった。【『バラッケ』第3巻第10号より】。1918124日、スペイン風邪で死亡。ライプチヒ近郊のゲリヒスハイン出身。(3424:熊本→久留米→板東)
494) Küpker(キュプカー),Ewald:海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。板東時代、クルーゼ(G.Kruse)とタパタオの7号小屋で洋服仕立てを営んだ。大戦終結して解放後は、蘭領印度のスラバヤに渡った。東フリースラントのネッセ(Nesse)出身。(4192:大阪→徳島→板東)
495) Kuepper(キュッパー),Wilhelm]:海軍膠州派歩兵隊・予備掌砲副曹長。[ブーフハイスター商会(Buchheister & Co.)上海支店]。ヴェルメルスキルヒェン(Wermelskirchen)出身。(4217:大阪→徳島→板東)
496) Kurz(クルツ),Johann:海軍膠州派歩兵隊第5中隊・戦時志願兵。[麦酒醸造職人]。ヴュテンベルク県のビューラータン出身。(1210:福岡→久留米)
497) Kurzke(クルツケ),Alfred H.:海軍膠州派歩兵隊第4中隊・2等砲兵。[北ドイツ・ロイド汽船プリンツ・アイテル・フリードリヒ号乗員]。徳島時代の191582日(神戸局の消印は1915813日)、ハンブルクの書籍印刷協会宛に葉書を出した。文面は不明【郵趣家三木充氏所蔵品より】。また 1916127日、ホルトカンプ(Holtkamp)及びシルト(Schild)の三人で演じた『壊れた鏡』が喝采を博した【『徳島新報』第19号(1916130日発行)より。ホルトカンプについては瀬戸「独軍俘虜概要」参照】。ハンブルク出身。(4210:大阪→徳島→板東)
498) Kutt(クット),Paul:国民軍・上等兵。[ヴィンクラー商会Winkler & Co.G.m.b.H.)社長]。1915319日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月より。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。似島時代、リースフェルト(Liessfeldt)とトスパン(Tospann)が共同で、朝日新聞及び毎日新聞の記事をドイツ語に訳したが、時にクットも参加した。複雑な文章の時はオートマー(Othmer)予備少尉が手助けした【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』177頁】。似島時代の19193月、広島物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に当って、アルブレヒト(Albrecht)、ボーテ(Bothe)、ハシュテット(Hastedt)、リースフェルト(Liessfeldt)及びヴェントラー(Wendler)とともに通訳を務めた。宣誓解放された。シュトラースブルク出身。(4638:大阪→似島)
499) Laan(ラーン),Heinrich van der1894-1964)]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。〔湛山堡塁〕。[神戸・ラムゼーガー商会(Ramseger & Co.)]。板東時代、1919813日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、平泳ぎに出場し45秒で2位になった。大戦終結後は一時期ドイツに帰国して、横浜正金銀行ハンブルク支店に勤務した。やがて日本に戻り貿易の仕事に従事した。【なお、本稿作成に当たって種々の教示を受けたディルク・ファン・デア・ラーン(Dirk van der Laan)氏はその子息である。】東フリースラントのエムス河畔のヴェーナー出身。(2996:松山→板東)
500) Lacher(ラッヘル),Johann:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[ジーメンス・シュッケルト社員]。丸亀時代の1915114日、神戸の芦屋に住む妻がこども三人を連れて面会に来た。近々アメリカを経由して帰国するための暇乞いとのことであった【『丸亀俘虜収容所記事』より】。ニュルンベルク出身。(1977:丸亀→板東)
501) Lambrecht(ラムブレヒト),Heinrich:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カッセラ大阪支店]。ハーナウ近郊のビショフスハイム出身。(2997:松山→板東)
502) Lampe(ラムペ),Eugen:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代の1918128日、偶発的逃亡癖から鉄条網の下を潜って出たが、精神病との診断から処罰されなかった。ベルリン郊外のランクヴィッツ出身。(3001:松山→板東)
503) Lancelle(ランセル),Waldemar1871-)]:第3海兵大隊第2中隊・陸軍大尉。〔第4歩兵堡塁(台東鎮堡塁)〕。丸亀収容所に収容されてまもない19141118日、ブンゲ(Bunge)曹長とともに収容所当局に4項目の要求を申し入れた。それは、1)食事ノ量ヲ増スコト 2)麦酒(ビール)ヲ飲マシムルコト 3)酒保ヲ開クコト 4)将校ニハ散歩ノ自由ヲ許スコトの4項目であった。19151229日、丸亀衛戍司令官東正彦大佐の命令に対して、不満の宣言をしたことにより、重謹慎2ヶ月の処罰を受けた。大尉としての月俸も2ヶ月減額された【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。丸亀時代の1916414日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツ将校7名と収容所人員の計17名の集合写真である。ランツェレ大尉は、向かって前列石井所長の右となりである【アダムツェフスキー(Adamczewski)少尉の項を参照】。1916104日、ラミーン中尉、シュリーカー中尉、フェッター中尉、シェーンベルク少尉、アダムツェフスキー少尉、キュールボルン少尉とともに丸亀から大分に移送された。収容中に少佐に昇進した。ベルリン出身。(1963:丸亀→大分→習志野)
504) Land(ラント),Lorenz:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[上海中央車庫(Central Garage)]。ハンブルク出身(『俘虜名簿』では上海)。(1981:丸亀→板東)
505) Lange(ランゲ),Hermann]:第3海兵大隊・後備上等歩兵。大阪収容所は1917219日に閉鎖されたが、同年38日時点で大阪衛戍病院に入院していた。1919121日、流行性感冒のため広島衛戍病院に入院し、126日に同病院で解放された【『戦役俘虜ニ関スル書類』中の附表第六号の「俘虜患者解放者一覧表」より】。テューリンゲンのミュールハウゼン出身。(4639:大阪→似島)
506) Langheim(ラングハイム),Joseph:海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代の191857日、大分のシュペーラー(Spöler)に宛てて葉書を出した。葉書は聖霊降臨祭の挨拶を極彩色で印刷した、見事な図柄の絵葉書である。図柄の文言は次の通り。「徳島近郊板東俘虜収容所より、謹んで聖霊降臨祭のご挨拶を申し上げます。J.ラングハイム至って壮健」(Die herzlichsten Pfingstgrüße aus dem Kriegsgefangenenlager in Bando bei Tokushima sendet bei bester Gesundheit J.Langheim.)。なお、差出人の部分は印刷ではなく、手書きの署名であることから、数多く刷られて、多くの俘虜も同様の絵葉書を、板東から差し出されたものと思われる。下部に「大日本」の漢字が盛り込まれている。裏面の文面欄には通信文はない。板東俘虜収容所俘虜郵便の大きな検閲済み印が押されている。【マイレンダー(Mailänder)の項参照】。ヴェストファーレンのボルケン出身。(4224:大阪→徳島→板東)
507) Langhein(ラングハイン),Heinrich:海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、1919813日に開催された櫛木海岸での水泳大会に出場し、横泳ぎでは412秒で2位に、主競泳では1392秒で3位になった。ハンブルク出身。(4220:大阪→徳島→板東)
508) Laetzsch(レッチュ),Curt]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。1918422日から25日かけて上演された「板東人形劇」の指導をした。また1918526日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。鉄棒2、平行棒2、鞍馬1、跳び箱1を使用しての体操会であった。レッチュは第6組の指導を受け持った【『バラッケ』第2巻、183頁】。ライプチヒ出身。(2999:松山→板東)
509) Lautenbach(ラウテンバッハ),Hans:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[漢口・ラウテンバッハ商会(Lautenbach & Co.)]。フォークトラントのトロイエン出身。(3000:松山→板東)
510) Lechner(レヒナー),Michael1892-1969):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。マイレンダー(Mailänder)は1952年、ザールブリュッケンで偶然レヒナーに出会った。フランスの警察官になっていたレヒナーは、初めはマイレンダーと知り合いであることを快しとしない素振りであった。しかし、少し人目からそれて話をする内に、昔の思い出話が交わされた。やがてマイレンダーはレヒナーを通して、エルザス出身の戦友であるエーミール・ハンス(Emil Hanns)を知った【『クッツホーフから中国、日本へ』55頁】。エルザスのミネルスハイム(Minoersheim)出身。(1291:福岡→習志野)
511) Leffler(レッフラー),Richard1888-):砲艦ヤーグアル乗員・海軍中尉。習志野時代の19159月、ハム(Hamm)の元に届いた「登美村ワイン」一箱が運ばれて開けられた。バーケ(Baacke)大尉やクーロ(Kuhlo)中佐も試飲したと思われる【「ハインリヒ・ハムの日記」より】。1916127日、ヤーグアル乗員が全員一室に集まって、ドイツ皇帝の誕生日を祝った際に祝辞を述べた。1960年ごろ、「チンタオ戦友会」に出席した。ブラウンシュヴァイク出身。(154:東京→習志野)
512) Lehde(レーデ),Max]:第3海兵大隊第2中隊・伍長。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、1919610日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、67?点を獲得して第3位になった。オーデル河畔のフランクフルト近郊ビーゲンブリュック出身。(573:久留米)
513) Lehmann(レーマン),Hellmuth:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ広東支店]。丸亀時代の19151223日、ニューヨーク在住のアメリカ人女性「エル・ベンチング」が面会に訪れた。その女性はレーマンの許婚で、お互いの無事・健康を喜び合い、ニューヨークから神戸までの船旅や俘虜生活についてドイツ語で話し合った。女性はレーマンに西洋剃刀一つと指輪を手渡した【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。1916122日、上海に住むアイスナー(H.Eissner)嬢に葉書を出した。文面は次の通り。「貴女からの手紙、新聞及び小包を受け取りました。どうも有り難うございます。以前通知を受けた品物は届いておりません。フュンステラー(Fünsterer:不詳)を通じてクレームをつけることを勧めます。弟さんがまた病気との事、お気の毒です。良くなりますよう祈っています。無事の旅行と楽しい休暇を。近い再会を願って。」【郵趣家三木充氏の所蔵品より】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ヴュルテンベルクのシュヴェンニゲン出身。(1975:丸亀→板東)
514) Lehmann(レーマン),Hugo K.A.-1919)]:海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備砲兵伍長。[商船船長]。低地ドイツ語を話す商船船長のツィンマーマン(Julius Zimmermann)と親しかったが、レーマンは時にドイツ語とフランス語をごちゃ混ぜにして話した【『ポツダムから青島へ』208頁】。エルザスのゼーハウゼン・アルトマルク出身。(1282:福岡→習志野)
515) Lehmann(レーマン),Otto1892-1971)]:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1892922日、指物師(椅子作り職人)の子としてザクセンのゲリングスヴァルデ(Geringswalde)に生まれた。翌年父親が亡くなると、母は指物師の親方と再婚し、一家はヴァルトハイムに移り住んだ。学校に通っている時代にすでに種々の音楽教育を受け、将来は音楽家になることを決意した。19074月、町の音楽監督の下で音楽修業をし、1910年からはその後任の下で同じ楽団に修業団員として月40マルクを手にする地位を得た。191041日からはドレスデン王立音楽院の給費生となってドレスデンに移り、19133月末まで同学院でヴァイオリン、指揮法、室内楽、合唱法を学んだ。やがて軍楽隊に入ることを考え、1913101日、ククスハーフェンの海軍歩兵隊に入隊し、翌年の112日軍艦パトリーチアで青島に赴き、1914227日に青島に着いた。その年の55日(火)、「1913/1914年度第11回チンタオ・コンサート会」がプリンツ・ハインリヒ・ホテルで開催され、レーマンはヴァイオリンソロを担当した。それは海軍歩兵第3大隊の軍楽隊による演奏で、指揮者は軍楽隊長のヴィレ(O.K.Wille)、ピアノソロは上海のマクダ・フォン・デア・ライテン(Magda von der Leithen)嬢だった。曲目はフンパーディンクの《メルヒェンオペラのための前奏曲;王の子供達》、グリークの《ピアノ協奏曲》、サンサーンスの《交響詩 死の舞踏》、及びハイドンの《交響曲第13番》であった。これは第15回予約制コンサートで、しかも最後の交響曲の夕べと銘打たれている。非予約者の場合の入場料は、ホールで2ドル、バルコンで1ドルであった。夕方9時に開演、10時半終演となっている。なおプログラムには、次回519日は最後の予約制コンサートで、演目はポピュラーと記されている。日独開戦とともに軍楽隊は解散され、レーマンは80名で構成された第1歩兵堡塁に配属された。久留米時代、「久留米収容所楽団」(Die Lager-Kapelle des Kriegsgefangenenlagers Kurume-Japan)を率いて数多くのコンサートを開いた。1915629日付けで、東京銀座の十字屋楽器店からレーマンに宛てたヴィオラとチェロの弦の発送と請求額を示したはがきが現存している。また1916626日付けの独亜銀行神戸支店からレーマン宛の63円送金の書類及び送金票及びさらに、同年106日付けの杉野歯科医院(久留米市両替町25番地)からのレーマン宛320銭の領収書が遺されている。「久留米カレンダー」にスケッチを寄せたヴィルヘルム・シュタイツ(Wilhelm Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、「久留米収容所楽団」のレーマン以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサインも記されているが、レーマンのサインのみがない【レーマンへの寄せ書きと思われる】。1918年の第3回久留米美術・工芸品展覧会のポスターは、趣に溢れたデザインであるが、その中央にはオットー・レーマンの展覧会に対する多大な寄与への感謝の言葉が記されている。191898日には、レーマン指揮による「久留米収容所管弦楽団」(Die Sonntagskonzerte des Kriegsgefangenen-Orchesters Kurume-Japan)の第100回日曜コンサートが開かれた。大戦終結しての帰国後、郷里ヴァルトハイムで休養した後、その町の楽団のコンサートマスターを1927228日まで務めた。その後も郷里で音楽監督等に就き、1930年リンダ・シュレーゲル(Linda Schlegel)と結婚した。以後の音楽家としての生活は必ずしも順調であったわけではなく、妻と子のために安定した生活をすべく音楽家としての職業を断念した。1971524日、郷里ヴァルトハイムで死去した【以上オットー・レーマンの足跡は、息子ユルゲン・レーマン氏より資料の提供を受けた松尾名誉教授からの教示による】。ザクセンのゲリングスヴァルデ出身。(571:久留米)
516) Leitz(ライツ),Josef:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、ライツは191968日に開催されたサッカーの試合で活躍した。シュトゥットガルト出身。(567:久留米)
517) Lemke(レムケ),Fritz:海軍膠州砲兵隊・砲兵軍曹長。1915915日、カール・クリューガー(K.Krüger)、ルードルフ(Rudolff)等93名とともに福岡から習志野に移された。習志野時代、クリューガー(Krüger)及びオストマン(Ostmann)とは浴室で同じ時刻によく出会わした。兵営ではクリューガーの隣に枕を置いていた。またクリューガーと一緒に英語、フランス語の勉強会に出席し、ユーバシャール(Ueberschaar)博士の授業には一人出席して、難しい課題を課せられても、見事に解いていた。自分の四阿(あずまや)の前に立つレムケの写真が現存し、資料に紹介されている【参照:『特別資料展「ドイツ兵の見たNARASHINO ―1915-1920 習志野俘虜収容所」展示品図録』87頁】。シュパンダウ出身。(1288:福岡→習志野)
518) Lemmen(レンメン),Johann:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、レンメンは191968日に開催されたサッカーの試合で活躍した。クレーフェルト出身。(565:久留米)
519) Lennartz(レンナルツ),Mathias:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、レンナルツは191968日に開催されたサッカーの試合で活躍した。リッケラート出身。(569:久留米)
520) Leonhardt(レオンハルト),Karl]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カッセラ上海支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。マイン河畔のフランクフルト出身。(2998:松山→板東)
521) Letsche(レッチェ),Emil:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1020日、ディール(Diehl)伍長の指揮の下9名で第1歩兵堡塁から浮山所へパトロールに出た。さらにディールとリーゼナー(Riesener)の三人で浮山所岬に出て、日本軍の船舶が目印にしているブイ(浮標)を沖合250メートルのところに発見した。レッチェはディールとともに、リーゼナーが服を脱いでブイを岸に運ぶまで身を伏せて警護に当った。【ハインツ・ファン・デア・ラーン『青島回想』(van der Laan,Heinz:Erinnerungen an Tsingtau75頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。プフォルツハイム近郊のフーヘンフェルト出身。(568:久留米)
522) Letschert(レッチェルト),Alfons1885-):守備隊本部・曹長。1906年、兵役義務で青島の海軍歩兵第3大隊に配属された。191210月、青島で結婚した。娘が生まれたが、誕生後まもなく死に、青島欧人墓地に埋葬された。青島陥落後、妻は1916年まで青島に留まったが、その後実家のバンベルクに帰還した。1920年にドイツ帰国後はしばらくヴィルヘルムスハーフェンに暮らし、その地で1923年娘ウルズラ(Ursula)が出生した。1930年一家はキールに移った。ヴェスターヴァルト(Westerwald)のバウムバッハ出身。(3007:松山→板東)
523) Lewerenz(レーヴェレンツ),Friedrich:砲兵兵站部・掌砲兵曹長。妻ベティー(Baetty)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ロストック出身。(2291:姫路→青野原)
524) Liedtke(リートケ),Fritz:国民軍・後備1等木工。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。エルベ河畔のアルトナ出身。(4641:大阪→似島)
525) Liessfeldt(リースフェルト),Alfred:海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備副曹長。似島時代、トスパン(Tospann)と共同で、朝日新聞及び毎日新聞の記事をドイツ語に訳した。時にクット(Kutt)も参加し、複雑な文章の時はオートマー(Othmer)予備少尉が手助けした【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』177頁】。似島時代の19193月、広島物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に当って、アルブレヒト(Albrecht)、ボーテ(Bothe)、ハシュテット(Hastedt)、クット(Kutt)及びヴェントラー(Wendler)とともに通訳を務めた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(4551:大阪→似島)
526) Lindenberg(リンデンベルク),Reinhold:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジーメンス‐シュッケルト門司支店]。板東時代、タパタオの80号小屋でシュミットと家具屋を営んだ。ベルリン出身。(2994:松山→板東)
527) Lindner(リントナー),Felix:国民軍・階級不明。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放されたが、やがて蘭領印度のメダンに渡った。ライプチヒ近郊のケチャウ出身。(4556:大阪→似島)
528) Lindner(リントナー),Paul]:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。丸亀時代の1915327日、検閲で所持していた青島地図25枚、同風景画帖10冊を没収された【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。大戦終結後は青島に戻り、輸入会社「パウル・リントナー」を経営した。ピッセン(Pissen)出身。(1978:丸亀→板東)
529) Linke(リンケ),Otto]:国民軍・予備少尉。[鷲屋薬局経営者]。ドイツ・トゥルネン新聞(Deutsche Turn-Zeitung)』の19211020日付け42号に、「日本の似島俘虜収容所」と題してドイツ・トゥルネン連盟に宛てた、青島に所有する施設・預金の問題を訴えたリンケの手紙が載った【山田『俘虜生活とスポーツ』145頁】。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】。ポーゼン出身。(4553:大阪→似島)
530) Lipkau(リープカウ),Walter]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[アルンホルト‐カルベルク北京支店]。ハーフェル河畔のラーテノウ出身。(2993:松山→板東)
531) Litterst(リッテルスト),Theodor:所属部隊不明・階級不明。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。バイエルンのフューリンゲン(Vühringen)出身。(4558:大阪→似島)
532) Lorbach(ロールバッハ),Hubert:第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。板東時代、1919813日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、初心者競技に出場し53秒で2位になった。ラインラントのシュヴェールフェン出身。(2989:松山→板東)
533) Löwenig(レーヴェニヒ),Karl:国民軍・上等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ケルン出身。(4555:大阪→似島)
534) Lübke(リュプケ),Kunibert:第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、第25室でビール販売を営んだ。ポンメルンのヴィルヒョウ出身。(1965:丸亀→板東)
535) Lunz(ルンツ),Johann:海軍歩兵第3大隊第7中隊・2等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。下部フランケン地方のブリュッケナウ出身。(1980:丸亀→板東)
536) Luthmann(ルートマン),Hans]:第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。[中国輸出入銀行会社上海支店]。板東時代の19185月、第2回懸賞作文で「羊飼いアスト」と「最初の通学」の2篇で1等賞を受賞した。ペンネームはアスト・ウント・シャハトで、「羊飼いアスト」は『バラッケ』第2巻第9号(1918526日号)に掲載された。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。エルベ河畔のハルブルク出身(『俘虜名簿』では上海)。(2992:松山→板東)
537) Maass(マース),Gustav:所属部隊・階級不明。[巡査]。ベルリン出身。(3042:松山→板東)
538) Madalencic(マダレンチッチ),Edmondo:巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。1916109日、マラチッチ(Maracic)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなく宣誓解放された。イストリア(今日はクロアチア)のブジェ出身。(2317:姫路→青野原→丸亀→板東)
539) Mahnke(マーンケ),Hermann]:国民軍・卒。[土木建築監督]。妻は四人の娘と大戦終結まで青島に留まった。ポンメルンのシュトラールズント出身。(4690:大阪→似島)
540) Mailänder(マイレンダー),Andreas1892-1980):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。〔イルチス砲台〕。ザールブリュッケン近郊クッツホーフ在住のハンス=ヨアヒム・シュミット(Hans-Joachim Schmidt)氏はインターネット上で、マイレンダーに関する興味深い大量の情報を記している。1985年末、夫妻が前年に購入した家の建替えを行うために、家の整理、片付けをしていたところ、屋根裏部屋から数多くの古い葉書、書類、パンフレット、ポスター、写真の入った長持を見つけた。それらは以前の所有者マイレンダーの遺品であった。シュミット氏はそれら青島及び日本の収容所関連の遺品を、インターネット上で以下の6種に大別している。1)手書きの絵葉書(38点)。これらはマイレンダーが両親及び弟に宛てたもの、弟及び友人・知人から本人に宛てたもの、また日本各地の収容所に収容されていた俘虜から本人宛てのものに区別される。弟のアロイス(Alois)が1914821消印でLandonvillersから差し立てた葉書は、日本軍により陥落した後に青島に届き、1915年初めになってマイレンダーの手元に渡ったと見られる。また特に、19141118日にマイレンダーが両親に宛てた絵葉書は、確認されている俘虜郵便の中でも最初期に属するものである。その内容は次の通りである。「お父さん、お母さん、僕は元気でここ福岡に着きました。お父さん、お母さんもお変わりないことと思います。青島で起こったことについては、新聞で読まれたことでしょう。では、またそのうちに。僕達はこの日本が気に入っています。日本の福岡俘虜収容所にて、2等砲兵マイレンダー」。また知人からの葉書には、スウェーデン等の「Globus」(地球連盟)会員からのものが数通ある。このことからマイレンダーはこの「Globus」の会員であったと推測される。他の収容所俘虜からのものを記すと、ハインリヒ・プリルヴィッツ(Heinrich Prillwitz;徳島収容所)から本人(福岡収容所)宛て、ハインリヒ・エンゲル(Heinrich Engel;大阪収容所)から本人(福岡収容所)宛て、ヨーハン・ベーレン(Johann Behren;大分収容所)から本人(福岡収容所)宛て、ペーター・ケルナー(Peter Körner;習志野収容所)から本人(大分収容所)宛て、ヨーゼフ・ラングハイム(Joseph Langheim;板東収容所)からハインリヒ・シュペーラー(Heinrich Spöler;大分収容所)宛て、ルートヴィヒ・ビューヒ(Ludwig Büch;板東収容所)から本人(習志野収容所)宛て、ヴィルヘルム・マルティーン(Wilhelm Martin;青野原収容所)から本人(習志野収容所)宛て、ヤーコプ・ケーニヒ(Jakob König;久留米収容所)から本人(習志野収容所)宛て、ヴィルヘルム・シュロッターベック(Wilhelm Schlotterbeck;青野原収容所)から本人(習志野収容所)宛てである。2)他の手書き文書(4点)。これは収容所時代の支払い領収書等の他、1918521日に、クッツホーフの父親から東京のジーメンス・シュッケルト社東京支社を通じて、25マルクの送金があり、300マルク=100円の当時の為替レートから、833銭が渡されたことを示す珍しい領収書も遺されている。また、ヨーハン・ヘルマン(Johann Hermann:久留米収容所から解放後に蘭領印度)からクッツホーフの本人宛ての手紙がある。3)写真(11点)。1912年当時の本人の写真。1914年福岡収容所における、イルチス山守備隊だった海軍膠州派遣歩兵大隊第4中隊の集合写真(この中には、クリューガー(K.Krüger)も写っている)。収容所時代の遠足の写真(福岡時代か?)。大戦終結後帰国してからの婚礼の写真(1921年、エンマ・ギール:Emma Gihrと結婚)。1960年当時の自宅の写真等である。4)絵葉書(12点)。青島の破壊された砲台や耶馬溪(大分)の滝と断崖の写真等。5)グラフィック(5点)としては、1918年の習志野でのクリスマス、鉄条網に止まるすずめ、1919年末の喜福丸乗員からの幸運を祈るカードがある。6)催し物のプログラムは24点あり、大分時代の1916年のクリスマス、習志野収容所楽団コンサート、男性合唱団の民謡の夕べ、演劇、体操の夕べ等に関するものである。マイレンダーのこれらの資料は、『クッツホーフから中国、日本へ アンドレーアス・マイレンダーの19121920年にわたるオデッセイの旅』(Von Kutzhof nach China und Japan.Die Odyssee des Andreas Mailänder 1912-1920,von Hans-Joachim Schmidt und Karl Heinz Janson)として2001年に本となった。19161018日、ビアルハ(Bialucha)等68名とともに、福岡から大分に移送され、191888日には習志野へ移送された。また、上掲書によるとマイレンダーは第二次大戦後、エーベリング(Ebeling)、ハンス(Hanns)、ヘス(Höss)、コルト(Kort)、レヒナー(Lechner)及びハンス・フォン・マルティーン(Hans von Martin)中尉とコンタクトを取った。なお、マイレンダーは妻に先立たれ、息子を洪水で亡くすなど、晩年は孤独の内に過ごした。70歳を過ぎた昭和40年代、名古屋に住む日本の女子高生と文通をしたことが、遺された手紙の束から判明した。その女子高生は、習志野市教育委員会生涯学習課の星昌幸氏の調査によって特定された。マイレンダーは習志野時代をしきりに懐かしがっていたとのことである。ザールブリュッケン近郊のクッツホーフ出身。(1332:福岡→大分→習志野)
541) Mallen(マレン),Ernst:第3海兵大隊第6中隊・2等焚火兵。[青島港湾局]。シュヴェッツ(Schwetz)出身。(3034:松山→板東)
542) Mändler(メントラー),Arnold:所属部隊不明・階級不明。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ミュンヘン出身。(4564:大阪→似島)
543) Manitz(マニッツ),Richard:第3海兵大隊第4中隊・後備上等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として、日本内地で解放された。ザクセンのレーバウ(Löbau)出身。(3512:熊本→久留米)
544) Maracic(マラチッチ),Petar:巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。1916109日、ピンスキー(Pinski)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなく宣誓解放された。イストリアのポンテ出身。(2318:姫路→青野原→丸亀→板東)
545) Markl(マルクル),Georg1888-1950):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。[ゲルマニア(青島ビール)醸造所]。ヴュルツブルクに住む姪のロッツェン夫人(Coletta Lotzen)から、マルクルの情報が寄せられた。資料としては、写真6点と葉書数点が遺されている【メッテンライター『極東で俘虜となる』81-82 】。マイン河畔のクニッツカウ出身。(4412:熊本→大分→習志野)
546) Marr(マル),Walther]:第3海兵大隊第2中隊・後備伍長。収容所ではクルーゲ(Kluge)と親しかった。191912月のクリスマスは、ヘルビヒ(Helbig)、クルーゲ及びヴルフ(Wulff)の四人で過ごした。1229日のクルーゲの出発前夜、マルはクルーゲと二人で別れを惜しんだ。解放後は日本に残留した。ハンブルク出身。(597:久留米)
547) Martin(マルティーン),Friedrich:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ香港支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハノーファー出身。(3028:松山→板東)
548) Martin(マルティーン),Hans von1885-1973)]:海軍膠州砲兵隊・海軍中尉。マイレンダー(Mailänder)が第二次大戦後にコンタクトを取った人物【『クッツホーフから中国、日本へ』55頁】。1960年ごろ、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレージエンのローテンブルク出身。(3979:大阪→似島)
549) Martin(マルティーン),Wilhelm:海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916925日(?)、トルトゼン(Thordsen)等90名で青野原に移された。青野原時代の1919616日、習志野のマイレンダー(Mailänder)に宛てて葉書を出した。葉書は上海の中国相互生命保険のビルディングを撮った絵葉書である。【マイレンダーの項参照】。ザールブリュッケン近郊のクヴィルシート出身。(1350:福岡→青野原)
550) Martinovic(マルチノヴィッチ),Rudolf:巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。1916109日、マラチッチ(Maracic)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなく宣誓解放された。ダルマチア(今日はクロアチア)のツァラ出身。(2331:姫路→青野原→丸亀→板東)
551) Matheis(マタイス),Gustav1895-1915)]:海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。1915413日、静岡で死亡。静岡県安倍郡千代田村沓谷(当時)の陸軍埋葬地に埋葬された。この埋葬地には、日独戦争における戦病死下士卒の慰霊碑「大正三、四年戦役戦没戦病死下士卒碑」が建立されている。題字は青島攻囲軍指令官神尾光臣中将の書になる。埋葬地(約2200坪)は、現在も旧陸軍墓地として護られている。『欧受大日記』(大正13年)の「獨逸人戦没者墓地名簿」によれば、墓石は大正7年頃建設され、建設費等は不明とのことである。高さ二尺六寸、幅二尺四寸五分、奥行き九寸の馬蹄型の墓碑には、「Hier ruht der Matrose-Artillerist Gust.Mathais (geb.10.1.95. gest.13.4.15.) in Gott. Er starb den Heldentod fürs Vaterland」(1等砲兵グスターフ・マタイスここに眠る。祖国の英雄として没す)の銘文が刻まれている。階級・氏名・生没年は、馬蹄型の碑の中央に縁取られた十字架内に刻まれている。【墓碑銘は摩耗していて、正確な判読が困難な状態にある。袋井市在住の内野健一氏による判読であることを記しておく。また本項は、内野氏からの教示により見ることが出来た『歩兵第三十四聯隊史』を参考としている】。エットリンゲン(Ettlingen)出身。(1753:静岡)
552) Matthiesen(マティーゼン),Hans:国民軍・水先案内人。マティルデ(Mathilde)夫人は大戦終結まで上海で暮らした。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのデュッペル出身。(4562:大阪→似島)
553) Matz(マッツ),Erich:第3海兵大隊予備榴弾砲隊・後備伍長。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)。(2617:名古屋)
554) Mau(マウ),Konrad:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ハンブルク・アメリカ汽船上海支店]。ホルシュタインのカルテンキルヒェン出身。(3031:松山→板東)
555) Mau(マウ),Kurt:海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ベルリン出身。(3993:大阪→似島)
556) Mayer(マイアー),Paul:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[青島郵便局]。ロートリンゲン出身。(3036:松山→板東)
557) Mechelke(メヒェルケ),Paul:海軍膠州砲兵隊第1中隊・砲兵伍長。チェスが好きで強かった。習志野時代、収容所の数学の勉強グループでの最強の打ち手だった。ケーニヒスベルク出身。(1317:福岡→習志野)
558) Mechtersheimer(メヒテルスハイマー),Carl:海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備砲兵伍長。生家はヴュルテンベルクの牧師館であった。習志野時代、クリューガー(Karl Krüger)と同じ部屋に住んだ。牧羊犬ほどの大きさの真っ黒い犬を飼っていた。ハイデルベルク出身。(1333:福岡→習志野)
559) Meie(マイエ),Albert:海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。第2次大戦後、旧青島戦士の会でパヴェルツィヒ(Pawelzig)と氏名不詳の三人で写った写真が現存している【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のインターネットより】。アルトナ出身。(3538:熊本→久留米)
560) Meier(マイアー),Richard:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[北京電灯会社(Pkg Electr.Light Co.)]。ハノーファー出身。(3024:松山→板東)
561) Meinsen(マインゼン),Wilhelm:第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。板東時代、1917717日に発足した「収容所保険組合」に第5中隊代表となって運営に従事した。また、第75室でザウアー(Sauer)及びフェッター(Vetter)とともに洗濯屋を営んだ。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ヴェストファーレンのペテルスハーゲン出身。(3019:松山→板東)
562) Meiser(マイザー),Martin:第3海兵大隊第2中隊・伍長。[独亜銀行青島支店]。丸亀時代の1915128日、官憲の求めにより護送員の歩兵第12連隊斉藤弥平太中尉と共に青島に赴き、1226日に丸亀に戻った【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。【青島に赴いた理由は不明。ギュンター民政長官の例(瀬戸「独軍俘虜概要」参照)を除くと、収容中の俘虜が青島に赴いた例を他には見ない。極めて稀有なケースと思われる。独亜銀行の資産・帳簿に関することかと推測される】。ライプチヒ出身(『俘虜名簿』では青島)。(1983:丸亀→板東)
563) Meißner(マイスナー),Kurt](1885-1976):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。〔イルチス砲台〕。[ライボルト機械商会L.Leybold & Co.)東京支店]。ハンブルク出身。(3025:松山→板東)
564) Meller(メラー),Wilhelm:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[上海・テルゲ・ウント・シュレーター商会(Telge & Schroeter)]。【メラーの以下の足跡は、息子のアードルフ・メラー(Adolf Meller)氏の後記文献に依拠した】。大戦勃発後の191486日、上海から鉄道で南京、済南と乗り継ぎ、青島に向かった。上海からの列車には、「マルコ・ポーロ号」乗員のイタリア人8人が乗り込んでいた。内一人はフランス語を話し、彼の言によれば北京に赴き、そこから青島に向かって「プリンツ・アイテル・フリードリヒ号(Prinz Eitel Friedrich)」に乗り組むとのことであった。メラーは88日正午過ぎ青島に着き、翌日身体検査を受けた。軍医からは極度の近視で、かつ右目の瞳孔が右上部にずれているとの診断を下された。当初は第6中隊に配属されたが、戦闘後に第7中隊へ配属換えになった。9月下旬のある夜、小さな穴に落ちて足を怪我したが、それでも3週間あまり戦闘勤務に就いた。やがて足が膨れ上がり、1020総督府衛戍病院に運ばれたが、日本軍の攻撃のため衛戍病院は閉鎖されていて、補助病院となっていたプリンツ・ハインリヒ・ホテルにすぐに移された。111日の午後遅く、一時日本軍の砲撃が止むと、新鮮な空気を吸うために、上海からの知り合いであるシュレーゲル(Schlögel)予備伍長とともに衛戍病院裏の丘に登った。二人はオーストリアの軍艦カイゼリン・エリーザベトが自沈するのを目撃した。1112日に沙子口から貨物船「福洋丸」で日本に向かった。朝日ビール2本に船内では1ドル支払った。多度津から丸亀までは二列になって行進させられたが、メラーはシュナイダー(Eugen Schneider)伍長と並んで歩いた。丸亀収容所では中国語のグループ授業に参加した。その折の授業風景と本を積み重ねた机の前に座るメラーの写真が遺されている。板東収容所に移ってからも中国語の勉強を続けたが、ある時軍医から眼をいたわらないと失明する恐れがあると言われ、以後中国語の勉強をあきらめて、出来るだけ屋外の緑に眼を向けるようにした。そんなことから伐採の仕事には積極的に参加した。メラーの19191224日のクリスマスイヴの日の日記には、「今夜は部屋の静かな片隅で、ハリー・メラー(Harry Möller)とグスタフ・アルスレーベン(Gustav Alsleben)の三人で、メラー(Möller)のウサギを食べる」との記述がある。メラーは板東収容所で発行された新聞『バラッケ』や、送還船「豊福丸」内で発行された新聞『帰国航』を保存して遺した【メラー『青島守備軍の運命』より】。ボルンシュテート(Bornstedt)出身。(1998:丸亀→板東)
565) Menn(メン),Gustav:海軍東アジア分遣隊・上等歩兵。[指物師]。ドルトムント出身。(1364:福岡→名古屋)
566) Mersiovsky(メルジオフスキー),Alfred:第3海兵大隊第4中隊・予備上等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ザクセンのバウツェン出身。(3511:熊本→久留米)
567) Merten(メルテン),Ernst:第3海兵大隊第7中隊・伍長。[アルンホルト・カルベルク漢口支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。イルメナウ出身。(1992:丸亀→板東)
568) Metzger(メッツガー),Peter:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[横浜・ホフマン‐ラ・ロッシュ商会(F.Hoffmann-La Roche & Co.)]。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。マンハイム出身。(3026:松山→板東)
569) Metzner(メッツナー),Paul:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジームセン上海支店]。当初ジームセン社の上海支店から、毎月400円の仕送りを受けていた。松山時代の1915113日、逃亡を企てた。小船で瀬戸内海を渡って広島に逃れるつもりであったが失敗した。やはり逃亡を企てて重禁錮2年の刑に処されたローデ(Rode)とともに、天長節の恩赦で解放された。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡ったが、1922年時点ではすでに故国に帰還していた。ベルリン出身。(3027:松山→板東)
570) Meyer(マイアー),Constantin]:第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。[ディーデリヒセン上海支店]。ハンブルク出身。(3522:熊本→久留米→習志野)
571) Meyer(マイアー), Friedrich:海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備伍長。[商社員]。「ハインリヒ・ハムの日記」によると、マイアーは大戦前ロシアのリバウ(Libau)で、ある商社に勤めていた。習志野時代の1918518日、ハムと一緒に散歩をするの中で、リバウ、キエフ、リガ、オデッサなどでいいワインの店が作れるだろうと話して、ハムに戦争終結後の仕事への思いを抱かせた。バイエルンのヴィンツハイム出身。(158:東京→習志野)
572) Meyer(マイアー), Heinrich:第3海兵大隊第6中隊・後備上等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。リューネブルク出身。(4642:大阪→似島)
573) Meyer(マイアー), Paul:海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備伍長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ブラウンシュヴァイク出身。(1362:福岡→名古屋)
574) Meyer(マイアー),Wilhelm:海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代の1915420日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したマイアーは4組(出場者総数21名)の内の第3組に割り振られ、2位で本戦A級に進出した【『徳島新報』1915425日第4号より】。【『俘虜名簿』では「Mayer」となっているが、上記綴りの間違いと思われる】。ケルン出身。(4231:大阪→徳島→板東)
575) Meyer-Waldeck(マイアー=ヴァルデック),Alfred1864-1928)]:膠州総督・海軍大佐。191561日、妻のハンナ(Hanna)は息子のハンス(Hans11歳)及び長女ヘルタ(Hertha8歳)、次女ダックマル(?;7歳)とともにドイツに帰国するため上海を発ち、長崎に寄航した。上陸は許可されなかった。翌日横浜を経由してアメリカに向かうべく長崎を発った。なお、ドイツ人医師4名と看護人55名も乗船していた【『新聞集成 大正編年史』大正4年上800頁】。大戦終結後の1920325日、第2家族船「南海丸」で神戸を出発し、青島に立ち寄って523日(24日?)にハンブルクに到着した。サンクトペテルブク出身。(1635:福岡→習志野)
576) Michalkowski(ミヒャルコフスキー),Karl von:第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。[メルヒャース上海支店]。ブレーメン出身。(587:久留米→板東)
577) Miedtank(ミートタンク),Max1892-1980):海軍東アジア分遣隊・2等歩兵。ロッセン村に生まれ、ロマッチュ市で没した【松尾「「ドイツ牧舎」(徳島板東)指導者クラウスニッツァーの生涯」100頁】。ザクセンのロッセン出身。(1360:福岡→久留米)
578) Mierswa(ミールスヴァ),Hans:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[ディーデリヒセン上海支店]。ザールブリュッケンのフェルキンゲン出身。(2002:丸亀→板東)
579) Mileck(ミレック),Bernhard:第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。ハンブルク出身。(2618:名古屋)
580) Millies(ミリエス),Hans1883-1957)]:海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備2等軍楽手。[上海居留地工部局管弦楽団副指揮者]。19101020日、前記音楽隊に加入した【「1912年版上海工部局年次報告書」より】。福岡時代、収容所北部地区の第2棟に居住した。クリューガー(Karl Krüger)と同室であった。オストマン(Ostmann)の指導により、やがて演劇グループが結成され、レッシングの喜劇『ミンナ・フォン・バルンヘルム』、シラーの『群盗』が上演され、幕間にはミリエス指導による音楽の演奏もあった。収容所ではやがて毎日のようにヴァイオリンを弾き、時に音楽に関する講義も行った。19161022日、オストマン(Ostmann)、シュペルリング(Sperling)等の68名とともに福岡から習志野に移送された。習志野弦楽四重奏団の一員で、第一ヴァイオリンを担当した。他の三人はヴォストマン(第二ヴァイオリン)、ハルツェンブッシュ(ヴィオラ)、テーン(チェロ)である。【なお、ミリエスが習志野収容所時代に書き残した「閉じておくれ僕の眼を」の楽譜が、子孫の手で2002年に習志野市に届けられ、市の依頼でソプラノ歌手鮫島有美子氏による再演が実現した。リサイタルで歌われた後にCD『祈り〜アメイジング・グレイス』に収められている】。キール出身。(1335:福岡→習志野)
581) Mladeck(ムラデク),Kurt]:第3海兵大隊第6中隊・伍長。[クンスト・ウント・アルバース商会ウラジオストック支店]。リューベック出身。(3023:松山→板東)
582) Möbius(メービウス),Emil:海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。大阪収容所は1917219日に閉鎖されたが、同年38日時点で大阪衛戍病院に入院していた。ザクセンのメルゼブルク・ザンダースドルフ出身。(3998:大阪→似島)
583) Möller(メラー),Ernst:第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。[クンスト・ウント・アルバース商会ウラジオストック支店]。板東時代、第36室でビール販売を営んだ。ラウエンブルクのザンデスネーベン出身。(3032:松山→板東)
584) Moeller(メラー),Gustav]:第3海兵大隊・予備副曹長。〔湛山堡塁〕。[カルロヴィッツ漢口支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ロストック出身。(3035:松山→板東)
585) Möller(メラー),Harry:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[独亜銀行青島支店]。ヴィルヘルム・メラー(Wilhelm Meller)の19191224日のクリスマスイヴの日の日記には、「今夜は部屋の静かな片隅で、ハリー・メラー(Harry Möller)とグスタフ・アルスレーベン(Gustav Alsleben)の三人で、メラー(Möller)のウサギを食べる」との記述がある【メラー『青島守備軍の運命』67頁】。ハンブルク出身。(3029:松山→板東)
586) Möller(メラー),Wilhelm:海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。久留米時代、191810月から日本足袋株式会社に、織物機械修理の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。メービスブルク出身。(1361:福岡→久留米)
587) Moslener(モスレナー),Friedrich:築城部・陸軍築城大尉。妻エラ(Ella)は子供(12歳以下)と二人、大戦終結まで上海で暮らした。ハンブルク出身。(614:久留米)
588) Mucks(ムクス),Walter:第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。[天津フォーゲルスベルク(A.Vogelsberg)]。板東時代の1918526日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。鉄棒2、平行棒2、鞍馬1、跳び箱1を使用しての体操会であった。ムクスは第4組の指導を受け持った【『バラッケ』第2巻、183頁】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ゲーラ出身。(3033:松山→板東)
589) Mühlich(ミューリヒ),Heinrich:海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備砲兵伍長。[上海独中医療技術専門学校・舎監]。応召の数年前まで、膠州砲兵大隊に配属されていた。兵役終了後上海の上記学校に勤務した。ヴァイオリンとピアノをこなし、習志野楽団ではコントラバスを担当した。習志野時代、クリューガー(Karl Krüger)とは親しく付き合った。朝は上等なコーヒーを入れて飲み、クリューガーはその相伴に与った。東プロイセンのインスターベルク出身。(1334:福岡→習志野)
590) Müldner(ミュルトナー),Heinrich:第3海兵大隊・予備陸軍少尉。静岡時代、ゼッケンドルフ(Seckendorf)退役少尉と日本の新聞をドイツ語に訳した。それは収容所内で回覧された。ニーダーツヴェーレン出身。(1758:静岡→習志野)
591) Mülleneisen(ミュレンアイゼン),Heinrich:第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。19193月に発行された『久留米詩文集』に、ミュレンアイゼンの「榴弾磨きの女工」の小詩が掲載され、『バラッケ』に紹介された【『バラッケ』第3巻第26号より】。192012日の『福岡日日新聞』には、医学博士久保井猪之吉訳になるミュレンアイゼンの詩「爆弾工女」が掲載された【松尾名誉教授からの教示による】。ヴェストファーレンのボッホルト出身。(613:久留米)
592) Müller(ミュラー),Barthoromäus:第3海兵大隊工兵中隊・後備上等工兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ニュルンベルク出身。(4643:大阪→似島)
593) Müller(ミュラー),Carl:第3海兵大隊第7中隊・後備副曹長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ユープツェン(Uebzen)出身。(4409:熊本→大分→習志野)
594) Müller(ミュラー),Hermann]:第3海兵大隊第7中隊・伍長。[テルゲ‐シュレーター天津支店]。ライプチヒ出身。(1991:丸亀→板東)
595) Müller(ミュラー),Johannes:海軍膠州砲兵隊第1中隊・予備1等砲兵。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ベルリン出身。(3981:大阪→似島)
596) Müller(ミュラー),John:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[ディーデリヒセン上海支店]。ハンブルク出身。(1995:丸亀→板東)
597) Müller(ミュラー),Leopold:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。収容中に、久留米収容所の日常生活を、24種のカリカチュアでスケッチした『久留米のぞき箱』(Kurumer Guckkasten)を著した。出版年は不明。アイゼナハ出身。(590:久留米)
598) Müller(ミュラー),Ludwig:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[天津・ブーフマイスター商会(Buchmeister & Co.)]。オッフェンバハ出身。(2003:丸亀→板東)
599) Müller(ミュラー),Willy:第3海兵大隊工兵中隊・2等坑道工兵。ユーハイム(Juchheim)が去った後の「カフェー・ユーロップ」を引き受け、「ジャーマン・ベーカリー」として再出発させた【『ドイツ兵士の見たニッポン』118頁】。ゾーリンゲン県のオーリングス出身。(1763:静岡→習志野)
600) Münch(ミュンヒ),Wilhelm J.:海軍東アジア分遣隊第2中隊・軍曹。久留米時代の1916117日から19193月末まで、第18師団は俘虜を雇用して山砲兵第3大隊の拡張敷地の盛り土及び土塁用土の採取・運搬、並びに同敷地用砂利敷の地均し作業を行った。総監督は軍曹のファルケ(Falke)であったが、ミュンヒは土木技師として参加した。また1918916日から、日本製粉株式会社久留米支店で製粉の労役に出た。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』23-24頁】。ドレスデン出身。(1356:福岡→久留米)
601) Musfeld(ムスフェルト),Hans:第3海兵大隊第1中隊・後備2等歩兵。大分時代、大阪新聞と朝日新聞から記事をドイツ語に訳して、収容所の廊下に貼り出した。19184月までは、ヨーロッパの新聞の購読等は禁じられていなかったが、政治的状況が先鋭化すると、それが禁じられたからであった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(4404:熊本→大分→習志野)
602) Nack(ナック),Kurt]:第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。久留米に移って2ヶ月後の1915822日付けによる、大阪市東区の三木楽器店からの領収書がオットー・レーマン(Otto Lehmann)の遺品に残されている。内容は、チェロの弦他代金360銭となっている。シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のレーマン以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとナックは、第1ヴァイオリンを受け持った。19193月に発行された『久留米詩文集』にナックの抒情詩が掲載され、抒情詩部門の二等賞に輝いた。192011日の『福岡日日新聞』には、医学博士久保井猪之吉訳になるナックの詩「懐郷」等が掲載された【松尾名誉教授からの教示による】。シュテッティン出身。(3542:熊本→久留米)
603) Naumann(ナウマン),Walter:第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。リューネブルク出身。(2636:名古屋)
604) Neidhöfer(ナイトヘファー),Michel:海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。[染料製造業]。トリーア近郊のルーヴァー出身。(1371:福岡→久留米→習志野)
605) Neumann(ノイマン),Friedrich:第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。[ヴァインベルガー商会C.Weinberger & Co.)神戸支店]。メクレンブルク‐シュヴェーリンのパリヒム出身。(3046:松山→板東)
606) Neumann(ノイマン),Max:第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。丸亀時代の19151115日、手工芸品制作心得者として他の5名とともに、高松工芸学校備付器械見学のために同校に赴き、191619日から建築技師のアードラー(Adler)【瀬戸「独軍俘虜概要」参照】とともに前記工芸学校に通勤することになった【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。板東時代、第47室で家具屋を営んだ。ザクセンのノイゲルスドルフ出身。(2006:丸亀→板東)
607) Neuneier(ノイナイアー),Peter:第3海兵大隊工兵中隊・予備伍長。[漢口ドイツ郵便局]。コーブレンツ近郊のクロイツナッハ出身。(3049:松山→板東)
608) Neunert(ノイナート),Fritz:海軍東アジア分遣隊第3中隊・軍曹。習志野時代の191851日、ハム(Hamm)に若い鳩のつがいをあげた【ハインリヒ・ハムの項参照】。コトブス県のシュプレンブルク出身。(167:東京→習志野)
609) Newiger(ネーヴィガー),Walter:国民軍・上等兵。姫路時代、ドイツ人下士卒が収容された船場本徳寺本堂裏には、ライン河畔の古城を模した噴水が俘虜たちによって製作された。永らく人々の記憶から忘れられていたが、ディルク・ファン・デア・ラーン(Dirk van der Laan)氏による調査の模様が新聞で報じられて(平成14425日付け『朝日新聞』)、日の目をみるようになった。モニュメントは、高さ1.3メートル、円錐形をしていて、基礎部分は2メートル四方の花崗岩の延石で固められられいる。姫路市史編集室の調査で、大正4年(1915年)99日付けの『神戸又新日報』には、「景福寺収容中のワルタピーがコンクリートと鉄線で作り上げたライン河畔の古城塞は、実に精巧を極めたもので、これは記念の為景福寺に残していくそうだ」との記述があることが判明した。モニュメントの背部には「W.N.」のイニシャルが刻まれている。藤原龍雄氏等の調査により、「W.N.」のイニシャルを持つ俘虜は2名いたが、ネーヴィガーであるとほぼ断定するに至った。噴水の階段状の滝ノ下には金魚が泳いでいたとのことである【藤原「第一次世界大戦と姫路俘虜収容所」より】。ローゼンベルク出身。(2340:姫路→青野原)
610) Nickchen(ニクヒェン),Wilhelm:総督府・1等電信兵曹。その「日記」がイェキッシュ氏所蔵で遺されている。ベルリンのノイケルン出身。(2338:姫路→青野原)
611) Nicolai(ニコライ),Friedrich:国民軍・伍長。[ハンブルク・アメリカ汽船社長(?)]。1915319日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月より。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。妻の名はエンマ(Emma)。メクレンブルク=シュヴェーリンのグレーフェスミューレン出身。(4645:大阪→似島)
612) Niesen(ニーゼン),Peter:海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。[電気工]。ケルン出身。(1376:福岡→名古屋)
613) Nitschke(ニーチュケ),Richard]:第3海兵大隊第1中隊・伍長。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとニーチュケは、トロンボーンを受け持った。ブレスラウ出身。(618:久留米)
614) Nitze(ニーツェ),Carl:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[神戸・レッカー商会(P.Recker & Co.)]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(3048:松山→板東)
615) Noecker(ネッカー),Franz:第3海兵大隊工兵中隊・後備2等工兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ヴェストファーレンのグローナウ出身。(3011:松山→板東)
616) Nöllner(ネルナー),Karl:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジータス‐プラムベック天津支店]。ハンブルク出身。(3047:松山→板東)
617) Noltemeyer(ノルテマイアー),Erich]:第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。[ランゲリューチェ商会ウラジオストック支店]。ハノーファー出身(『俘虜名簿』ではウラジオストック)。(2005:丸亀→板東)
618) Nommensen(ノメンセン),Richard:海軍膠州砲兵隊・2等機関兵曹。[商船機関士]。クリューガー(K.Krüger)によれば、ノメンセンは習志野時代、何もしないし、何も学ぼうとしなかった唯一の人物だった。食事等で起き上がらざるを得ない時以外は、ベッドの上で常に寝ていた。ハンブルクのペトラウ(Pötrau)出身。(1375:福岡→習志野)
619) Noppeney(ノッペナイ),Philipp-1919)]:海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。19161018日、ジーベル(Siebel)等68名とともに、福岡から大分に移送された。1919128日、スペイン風邪により習志野で死亡。アーヘン出身。(1369:福岡→大分→習志野)
620) Nuss(ヌス),Franz:海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。板東時代、第31室で床屋を営んだ。マインツ出身。(4241:大阪→徳島→板東)
621) Offermann(オッファーマン),Heinrich:海軍膠州砲兵隊第4中隊・予備1等砲兵。徳島時代の1915420日、チェス選手権試合が開催された。オッファーマンは4組(出場者総数21名)の内の第2組に割り振られ、1位で本戦A級に進出した。1960年ごろ、「チンタオ戦友会」に出席した。ハノーファー近郊のノイランダーモーア出身。(4246:大阪→徳島→板東)
622) Ohl(オール),Hermann:海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。板東時代の191844日から6日の三日間、ブランダウ演劇グループによるクライストの『壊れ甕』の上演に際して、司法顧問官ヴァルター役を演じた【『バラッケ』第2巻、33頁】。また、タパタオの13A小屋でコッホ(Walter Koch)と靴屋を営んだ。2003511日付けの『エッケルンフェルデ新聞』(Eckernförde Zeitung)は、オールの板東収容所時代の手記や写真、『バラッケ』等の遺品に触れて、板東収容所が比類ない人道的な待遇でドイツ人を処遇したことを伝えている。それらの遺品は遺族にあたるハインリヒ・ローズィア(Heinrich Rosier)氏の目に留まったことから発したものである。オールの手記には、演劇、コンサート、スポーツ等や、ベートーヴェンの『第九』の演奏、指揮者へルマン・ハンゼンやパウル・エンゲル等へ数多くの言及がされているとのことである。ローズィア氏はこれらの遺品を当地のリーゼビー(Rieseby)博物館に寄贈するとのことである【このオールに関しての情報は、四国学院大非常勤講師の小阪清行氏が「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」のメール会報18号に寄せた記事から得たものである】。シュレースヴィヒのアルヌム出身。(4247:大阪→徳島→板東)
623) Ohlen(オーレン),Ernst:第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。板東時代、19185月の第2回懸賞作文に、「ボーケンブレン」を応募して佳作になった。また、第26室で蜂蜜販売を営んだ。メルドルフ出身。(3052:松山→板東)
624) Oldhaber(オルトハーバー),Gustav:第2工機団第4中隊・1等需品兵曹。板東時代、1917717日に発足した「収容所保険組合」に、旧松山収容所の大林寺収容所代表となり、かつ「保険組合」の会計を務めた。【『板東収容所俘虜故国住所録』によれば、「水雷艇S90」の乗組員とされている】。ヴィルヘルムスハーフェン出身。(3058:松山→板東)
625) Oelsner(エルスナー),Bruno:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[北ドイツ・ロイド汽船]。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ダルムシュタット出身。(3054:松山→板東)
626) Onken(オンケン),Johann:第2工機団・後備木工。[税関吏]。妻の名はヘレーネ(Helene)。ブレーマーハーフェン出身。(4420:熊本→大分→習志野)
627) Opfer(オプファー),August:海軍砲兵中隊・1等焚火兵。1917128日、アンドレーアをカロルチャク等18名で袋叩きにして負傷させ、27日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。ハルブルク出身。(3562:熊本→久留米)
628) Oppel(オッペル),Wilhelm(‐1918)]:第3海兵大隊第2中隊・後備2等歩兵。[屠畜職マイスター]。応召時は妻と青島に住んでいた。19181123日、名古屋で死亡、軍人墓地に埋葬された。エルバーフェルト出身。(2641:名古屋)
629) Orlob(オルロープ),Philipp1880-)]:第3海兵大隊第2中隊・副曹長。[独中大学]。妻の名はミルトレート(Mildred)。ボイレン・アイヒスフェルト(Beuren Eichsfeldt)出身(『俘虜名簿』では青島)。(2010:丸亀→板東)
630) Oertel(エルテル),Ferdinand]:国民軍・卒。大阪収容所は1917219日に閉鎖されたが、同年38日時点で大阪衛戍病院に入院していた。シュレージエンのロスバハ出身。(4694:大阪→似島)
631) Ostmann(オストマン),Karl:海軍膠州砲兵隊・砲兵伍長。19161022日、ミリエス(Millies)、シュペルリング(Sperling)等の68名とともに福岡から習志野に移された。習志野時代にクリューガー(Karl Krüger)と一緒に写した写真がクリューガーの『ポツダムから青島へ』に紹介されている。上述の書によると、オストマンは福岡時代、演劇のグループを結成して、レッシングの喜劇『ミンナ・フォン・バルンヘルム』やシラーの『群盗』の上演を行っている。習志野時代、クリューガー及びレムケ(Lemke)とは浴室で同じ時刻によく出会ったとのことである。オルデンブルク出身。(1383:福岡→習志野)
632) Östmann(エストマン),Walter:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ヴィンクラー商会神戸支店]。ケオスリン(Keoslin)出身。(3056:松山→板東)
633) Ostermann(オスターマン),Hans:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ランゲリューチェ商会ウラジオストック支店]。1960年ごろ、「チンタオ戦友会」に出席した。ホルシュタインのピンネベルク出身。(3055:松山→板東)
634) Othmer(オートマー),Dr.Wilhelm]:第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備陸軍少尉。[独中大学教授]。似島時代、リースフェルト(Liessfeldt)とトスパン(Tospann)が共同で、朝日新聞及び毎日新聞の記事をドイツ語に訳した。時にクット(Kutt)も参加したが、複雑な文章の時はオートマーが手助けした【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』177頁】。妻と二人の子は大戦終結まで青島で暮らした。なお、青島に残ったオートマー夫人を始め総督府の高級官吏及び知識階級者の夫人達の動静は、中国学者にして宣教師リヒャルト・ヴィルヘルムRichard Wilhelm)の妻ザロメの日記で僅かながら窺い知ることが出来る【これに関しては、新田義之『リヒャルト・ヴィルヘルム伝』の第12章「世界大戦と青島」を参照】。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】。ハノーファー出身。(4005:大阪→似島)
635) Otho(オート),Almin:第3海兵大隊第7中隊・伍長。妻マリー(Marie)は14歳の息子と大戦終結まで済南で暮らした。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ドレスデン出身。(2012:丸亀→板東)
636) Otte(オッテ),Heinrich:海軍東アジア分遣隊第2中隊・伍長。[指物師]。大戦終結して解放後は、蘭領印度のスラバヤに渡った。ボーデンフェルデ近郊のヴァームベック出身。(1385:福岡→久留米)
637) Otten(オッテン),Nikolaus:第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代、第28室でタバコ販売を営んだ。オイペン出身。(3053:松山→板東)
638) Ottens(オッテンス),Rudolf:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ディーデリヒセン上海支店]。キール出身。(3057:松山→板東)
639) Pansing(パンジング),Paul]:第3海兵大隊第7中隊・副曹長。[メルヒャース香港支店]。ブレーメン出身。(2023:丸亀→板東)
640) Parenzan(パレンツァン),Marko:巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。1916109日、ロッスト(Rossut)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなく宣誓解放された。イストリアのピラノ出身。(2366:姫路→青野原→丸亀→板東)
641) Paul(パウル),Alfred:第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代、収容所のサッカー場の脇に60uの耕作地を所有して、野菜を栽培した。多くの者達がスポーツの出来ない雨天を嘆くとき、パウルは喜々としてサッカー場を横切って肥やしを運んだ。肥料はクラウスニッツァー(Claussnitzer)の酪農場から調達した。【『バラッケ』第2巻、67-71頁】。コーブレンツ出身。(3060:松山→板東)
642) Paulsen(パウルゼン),Lorenz:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。丸亀時代の1915824日、歯痛が激しいために受診願いを出し、丸亀市富屋町岡歯科医院へ出かけた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。ヴァンツベック出身。(2030:丸亀→板東)
643) Pawelzig(パヴェルツィヒ),Hans:海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。第二次大戦後、旧青島戦士の会でマイエ(Meie)と氏名不詳の三人で写った写真が現存している【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のインターネットより】。ダンツィヒ出身。(3597:熊本→久留米)
644) Paysen(パイゼン),Wilhelm:第3海兵大隊第7中隊・予備伍長。18933月から190041日までシュレースヴィヒのグリュックスブルク(Glücksburg)近郊のノイキルヒェン(Neukirchen)に居住し、フレンスブルク高等実業学校に190341日から190641日まで通学した【『俘虜ニ関スル書類』より】。ランゲンフェルデ(Langenfelde)出身。(4450:熊本→大分→習志野)
645) Pech(ペヒ),Paul:第3海兵大隊第4中隊・伍長。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、1919610日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の上級に出場して(出場者は6名)、73?点を獲得して第1位になった。上部シュレージエン出身。(3571:熊本→久留米)
646) Pechbrenner(ペヒブレンナー),Max:砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。1916411日、フォーゲルフェンガーの誕生祝に招かれた。その折に食べたウサギの肉が、愛犬シュトロルヒ(Strolch)の肉であったかのように(?)フォーゲルフェンガーの日記に記述されている【『ドイツ兵士の見たニッポン』154頁】。ケーニヒスベルク出身。(197:東京→習志野)
647) Peger(ペーガー),Robert:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等兵曹。19161122日横浜米国領事館より情報局へ,ペーガー宛て40円(金券)と信書1通交付方の願い出があり、転送するとともに同領事館へその旨回答された。ゴータ出身。(3595:熊本→久留米)
648) Perle(ペルレ),Emil:海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。板東時代、タパタオの19号小屋で家具屋を営んだ。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡ったが、1922年時点ではすでに故国に帰還していた。東プロイセン出身。(4250:大阪→徳島→板東)
649) Pestel(ペステル),Willy:海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとペステルは、第2ヴィオラを受け持った。グライツ出身。(1404:福岡→久留米)
650) Peters(ペーテルス),Adolf:第3海兵大隊第2中隊・2等麺麭工。1917128日、アンドレーアをグローベ(Grobe)等18名で袋叩きにして負傷させ、27日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。ヴィルヘルムスハーフェン近郊のアルデンブルク出身。(3568:熊本→久留米→習志野)
651) Pfennig(プフェニッヒ),Georg:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[上海税関]。宣誓解放された。エルザスのアルテッケンドルフ出身。(3062:松山→板東)
652) Piastowski(ピアストウスキー),Franz:海軍砲兵中隊・2等水兵。大阪収容所は1917219日に閉鎖されたが、同年38日時点で大阪衛戍病院に入院していた。西プロイセン出身。(4573:大阪→似島)
653) Pielke(ピールケ),Hans:第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(3570:熊本→久留米)
654) Pietsch(ピーチュ),Karl:海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等水兵。徳島時代の1915420日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したピーチュは4組(出場者総数21名)の内の第4組に割り振られたが、5位に終わり本戦のB級進出に留まった。ブレスラウ出身。(4254:大阪→徳島→板東)
655) Pinski(ピンスキー),Bruno:巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等水兵。1916109日、ロッスト(Rossut)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなく宣誓解放された。イストリアのトリエステ出身。(2368:姫路→青野原→丸亀→板東)
656) Plätschke(プレチュケ),Guido]:第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。大戦終結後、済南で輸出入等の仕事に従事した。【ヴォルフガング・バウアー『青島(チンタオ)1914年から1931年』(Bauer ,Wolfgang:Tsingtau 1914 bis 1931230頁】。ブレスラウ出身。(4423:熊本→大分→習志野)
657) Platte(プラッテ),Hermann:海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[指物師]。コースヴィヒ(Coswig)出身。(1405:福岡→名古屋)
658) Ponsel(ポンゼル),Hugo:第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。その「日記」がイェキッシュ氏所蔵で遺されている。ブラント河畔のノイゼス出身。(2647:名古屋)
659) Poppeck(ポッペク),Gustav]:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、第35室で「ハリー」靴店を営んだ。ヴェストファーレンのビューア出身。(2017:丸亀→板東)
660) Pozar(ポーツァル),Isidor:巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等水兵。1916109日、ツリアーニ(Zulliani)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなく宣誓解放された。イストリアのフイウミツェロ出身。(2367:姫路→青野原→丸亀→板東)
661) Prahl(プラール),Alfred]:第3海兵大隊・2等歩兵。19193月に発行された『久留米詩文集』に、プラールの抒情詩「クライストの墓にて」等7編と、叙事詩「ハンス・フンデルトゲズィヒトの生活からの夜景」等2編が掲載され、前記2編はそれぞれが抒情詩部門と叙事詩部門の一等賞に輝いた。1919年にカール・フォークト(Karl Vogt)作曲の『四つの歌』の内の「夕べのヴァイオリン」を歌った。ベルリン出身。(662:久留米)
662) Prahm(プラーム),Jelleus:海軍砲兵中隊・2等信号兵曹。[商船船長]。習志野時代、クリューガー(K.Krüger)と同室だった。クリューガーによれば、プラームは大柄でブロンドの髪をし、落ち着いた知的な人物だった。東フリースラントのレーア出身。(192:東京→習志野)
663) Praschma(プラシュマ),Cajus Graf1874-1948)]:海軍野戦砲兵隊・退役陸軍中尉。〔要塞車厰第3次指揮官〕。[税関吏]。父フリードリヒ・グラーフ・プラシュマ・フォン・ビルカウ男爵(Friedrich Graf Praschma,Freiherr von Bilkau)と、母エリーザベト・グレーフィン・ツー・シュトルベルク=シュトルベルク(Elisabeth Gräfin zu Stolberg-Stolberg)との間に、上部シュレージエンのファルケンベルクに生まれた。1899年末に中国に赴き、中国の軍学校及び税関に勤務した。1909年、ロンドンで英国女性アイリス・キングスコートゥ(Iris Kingscote)と結婚して中国に戻った。大戦前に息子二人が生まれた。大戦終結して帰国後、退役大尉となり、その後娘一人と息子一人が生まれた。上部シュレージエンのファルケンベルク出身。(3581:熊本→久留米→習志野)
664) Precht(プレヒト),Karl1893-1985):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。[パン職人]。息子のヴィリー・プレヒト(Willi Precht)氏によれば、プレヒトはパン職人の家庭に生まれた。ヴュッルツブルクのフランクフルト街にあったパン屋テレーゼで徒弟修業した。その後フランクフルト、ケルン、ヴィースバーデン、ハノーファーで職人として働いた。191310月ククスハーフェンで海軍兵士として訓練を受けて、19141月青島に赴いた。プレヒトが収容所から祖国ドイツに送った手紙が今日いくつか遺されている。プレヒトは父親の遺品から、1918年末に似島収容所から姉妹に宛てた自分の手紙を発見したが、その内容は以下である。「僕はその後も変わりありません。今はサッカー、ファウストバル、テニスで時間をつぶしています。以前はさらに畑仕事もしていましたが、それは戦略的理由から再び禁じられています。…僕たちも直に故郷へ戻れるでしょう。というのもたった今平和条約が締結されたことを知ったからです」。大戦終結して帰国後、プレヒトはパン職人から方向転換して、煉瓦職人になった。第二次大戦中はニュルンベルクで煉瓦職として働いたが、1945316日の大空襲で家が完全に破壊された。プレヒトの海軍時代の思い出の品は、時に道具箱に、時にジャガイモ入れとなっても空襲でも焼けずに残った海軍箱だけであるという。日本に対する熱い思いを終生抱き、息子によれば、ヴュルツブルクで日本人旅行客を見かけると、おぼつかない日本語で話しかけたという。もし飛行機恐怖症でなかったならば、必ずや日本にまた一度でかけたであろうとも息子のヴィリー氏は語っている。「日本人は世界で一番清潔好きだ。なにしろ毎日風呂に入る」との言葉を家族はよく耳にしたとも語っている。1972年、ヴュルツブルクでの最後の青島戦友会には、友人にして同じく戦友のヴィリッヒ(Willig)と出席した。【この項は、メッテンライター『極東で俘虜となる』84-86頁による 】。下部フランケン出身。(4011:大阪→似島)
665) Prediger(プレーディガー),Karl]:第3海兵大隊第7中隊・副曹長。[青島山林局]。丸亀時代の1915417日、神戸在住の知人が犬一匹を連れて収容所を訪れ、プレーディガーへのその犬の交付を願い出た。その犬はそもそもプレーディガーの飼い犬で、病気のために神戸の知人に預けてあったものだった。規定の手続き後に交付された【『丸亀俘虜収容所日誌』より。なお、丸亀収容所では、犬の交付願いが数件あり、一時期犬を飼うことが流行ったが、829日をもって犬の飼育は一切認められなくなった】。板東時代の1918625日、収容所内タパタオの市長選挙が行われた際に、開票役を演じた。ハンブルク出身。(2022:丸亀→板東)
666) Preissel(プライセル),Johann:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[中国ジーメンス漢口支店]。ニュルンベルク出身。(3061:松山→板東)
667) Preissler(プライスラー),Richard:海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。[指物師]。マイセン出身。(1398:福岡→習志野)
668) Preuss(プロイス),Alwin:海軍砲兵中隊・2等掌水雷兵曹。久留米時代の191911月に撮られたプロイスのスナップ写真が遺されている【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。ブレスラウ出身。(3587:熊本→久留米)
669) Preusse(プロイセ),Paul:海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等機関兵曹。『ドイツ・トゥルネン新聞(Deutsche Turn-Zeitung)』の1917419日付け16号に、「大阪(日本)からの手紙」と題して、プロイセからの同新聞編集部への感謝と催し物について述べた手紙と、また同年816日付けの33号には、似島への移転とそこでの活動状況を知らせる友人宛ての手紙が掲載された【山田『俘虜生活とスポーツ』145頁】。ザクセンのピルナ出身。(4009:大阪→似島)
670) Prillwitz(プリルヴィッツ),Heinrich:海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。徳島時代の19141226日、福岡のマイレンダー(Mailänder)に宛てて葉書を出した。葉書は徳島新町橋の眉山を背景とした風景写真の絵葉書で、3センチ四方角の「徳島俘虜収容所之印」、「検閲済」の印、福岡俘虜収容所の検閲印、さらにはカタカナの「クリス」印が押されている【収容所員の栗栖中尉の印と思われる】。文面は次の通り。「君からの葉書受け取った。有難う。葉書からは元気そうだが、僕も元気だ。残念なことに大阪ではなくて、徳島にいる。ではさようなら」【マイレンダーの項参照】。ザーレ河畔のベルンブルク出身。(4249:大阪→徳島→板東)
671) Prinz(プリンツ),Walter]:海軍膠州砲兵隊第3中隊・砲兵軍曹長。徳島時代の1915420日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したプリンツは4組(出場者総数21名)の内の第1組に割り当てられたが、5位に終わり本戦のB級進出に留まった。板東時代の1918526日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。その折り、壮年組の徒手体操とゲームを指導して、大会を活気づけた。ラインラントのメンヒェングラートバハ出身。(4248:大阪→徳島→板東)
672) Pröfener(プレーフェナー),Johannes]:第3海兵大隊第4中隊・後備2等歩兵。[上海居留地工部局管弦楽団員]。1906117日、前記音楽隊に加入した【「1912年版上海工部局年次報告書」より】。ハンブルク出身。(4017:大阪→似島)
673) Protze(プロッツェ),Arthur Richard1888-1978):総督府・1等砲工。1914731日から19141110日までの青島での戦闘経過を記した日記と、191912月から19202月までのドイツへの帰国航を記した日記の断片が残されていて、娘のローゼマリー・オクセンドルフ(Rosemarie Ochsendorf)から鳴門市ドイツ館に寄贈された。テューリンゲンのツェラ出身。(1412:福岡→大分→習志野)
674) Pügner(ピュークナー),Robert]:第3海兵大隊第7中隊・後備伍長。[イェプセン商会広東支店]。ドレスデン出身。(2024:丸亀→板東)
675) Quaas(クヴァース),Emil:海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。1919121日、流行性感冒のため広島衛戍病院に入院し、126日に同病院で解放された【『戦役俘虜ニ関スル書類』附表第六号の「俘虜患者解放者一覧表」より】。ザクセンのランベルツヴァルト出身。(4018:大阪→似島)
676) Quedenbaum(クヴェーデンバウム),Heinrich:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ウラジオストック・ランゲリューチェ商会]。ハンブルク出身。(3067:松山→板東)
677) Quinten(クヴィンテン),Rudolf:海軍膠州砲兵隊第3中隊・予備1等砲兵。板東時代の191852日、東久邇稔彦王が四国旅行で徳島に立ち寄った際、急遽撫養で俘虜による作品展示会が特別に開催された。その折クヴィンテンが制作出品した皇帝とヒンデンブルクの焼絵肖像2枚が買い上げられた。東京の家のホールに飾るためと言われた。他に、ボーン、グヌシュケ、ヘフトの作品も買い上げられた。コーブレンツ近郊のマイエン出身。(4255:大阪→徳島→板東)