独軍俘虜概要(2) R〜Z
 
通し番号) 姓(フリガナ) 名前等(生没年):所属部隊・階級 〔日独戦争での任務・守備位置〕[応召前の勤務先・職業] 事績・足跡等  出身地(俘虜番号:収容所)
 
678) Radau(ラーダウ),Max:海軍膠州砲兵隊・後備2等砲兵。妻テレーゼ(Therese)は大戦終結まで、家族七人で青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)。(1443:福岡→青野原)
679) Rademacher(ラーデマッハー),Adolf:第3海兵大隊第7中隊・伍長。丸亀時代、19151230日付けの葉書が神戸からラーデマッハーに届いた。差出人は不明(判読不可)、文面は新年の挨拶状。収容所員の市川元治中尉を示す「いちかわ」の文字入り三角印が押されている【郵趣家三木充氏の所蔵品より】。丸亀時代には、神戸市に住む妻の名倉小松が28回面会に訪れた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。ヴェストファーレンのレートマテ出身。(2043:丸亀→板東)
680) Rademacher(ラーデマッハー),Gustav:第3海兵大隊第7中隊・伍長。丸亀時代、神戸市に住む義姉の名倉小松が面会に訪れた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。このことから、グスタフ(Gustav)は前記アードルフ(Adolf)の弟と考えられる。レートマテ出身。(2044:丸亀→板東)
681) Radseck(ラートゼック),Otto:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[青島警察署事務官]。ポンメルンのトレープリン出身。(3085:松山→板東)
682) Radzuweit(ラートツヴァイト),Friedrich:海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備軍曹。[兵営監守]。妻ジドニー(Sidonie)は娘二人(ともに12歳以下)と大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ランツベルク出身。(3084:松山→板東)
683) Rahaus(ラーハウス),Hermann]:海軍膠州砲兵隊第3中隊・予備火工副曹長。[カルロヴィッツ青島支店]。ハンブルク出身。(4271:大阪→徳島→板東)
684) Ramin(ラミーン),Paul Otto]:第3海兵大隊第7中隊・陸軍中尉。丸亀時代の1916414日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツ将校7名と収容所人員の計17名の集合写真である。ラミーン中尉は、中列の中央、石井所長の後ろである【アダムツェフスキー(Adamczewski)少尉の項を参照】。1916104日、ランセル大尉、シュリーカー中尉、フェッター中尉、シェーンベルク少尉、アダムツェフスキー少尉、キュールボルン少尉とともに丸亀から大分に移送された。ミルデンベルク出身。(2033:丸亀→大分→習志野)
685) Ramming(ラミング),Adam:海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。[麦酒醸造職人]。バイエルンのウンターシュタイナッハ出身。(1415:福岡→青野原)
686) Rappenecker(ラッペンエッカー),Dr.Karl:第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。熊本時代の1915124日、ラッペンエッカーはブッシュ(Busch)、ツァイス(Zeiss)及びある准士官の四人で収容所から脱走した。夜の内に海岸へ20キロの地点まで進んだ。翌朝早くに同罪となることを恐れたシューマン(Paul Schumann)の報告で脱走が分かり、四人はボートで海に漕ぎ出す寸前で警察官に逮捕された。荒縄で繋がって縛られて収容所に連れ戻され、やがて軍法会議で一年の禁固に処せられた。拘禁中は赤茶色の囚人服を着せられた。191511月、大正天皇の即位による恩赦でクリスマスに釈放されて久留米収容所に送られた【Meller,Adolf:Fluchtversuche von Tsingtau-Verteidigern aus japanischem Gewahrsam im Ersten Weltkrieg.より】。『旧保護地及び海外部隊伝統連盟会報第56号』(19774/5月)に、「日本の監獄から」と題した文章を寄せた。その中で、熊本収容所時代に4人の俘虜が脱走を試みて失敗し、数ヶ月の懲役を受けたことを記している【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』216頁】。フライブルク出身。(3607:熊本→久留米→名古屋)
687) Rasenack(ラーゼナック),Wilhelm F.]:第3海兵大隊・予備副曹長。[ザンダー‐ヴィーラー上海支店]。俘虜送還船「豊福丸」船内で発行された新聞『帰国航』第2号は、ラーゼナックの追悼記事を冒頭に掲げた。それによるとラーゼナックは、19201月11日に肺炎のため船内で死亡し、水葬に付された。神戸で乗船した時に既に重い風邪に罹っていた。シンガポールに着く直前の夜に死去した。オーデル河畔のフランクフルト出身。(3083:松山→板東)
688) Rasor(ラーゾル),Otto:第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[カルロヴィッツ漢口支店]。マイン河畔のフランクフルト出身。(3071:松山→板東)
689) Rasmussen(ラスムッセン),Peter:砲艦ヤーグアル乗員・上等兵曹。習志野時代の1916127日、ヤーグアル乗員が全員一室に集まってドイツ皇帝の誕生日を祝った際に、木製のヤーグアルとその乗員の鉄の水兵について講談を行った。宣誓解放された。キール出身。(216:東京→習志野)
690) Raydt(ライト),Ernst]:海軍東アジア分遣隊参謀本部・予備副曹長。習志野時代の19185月、ハム(Hamm)と一緒にシュレーダー(Schröder)【習志野収容所には同姓が三人いて特定不可】にロシア語を週3回習った。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ハノーファー出身。(201:東京→習志野)
691) Raydt(ライト),Felix]:第3海兵大隊第2中隊・予備副曹長。109日、俘虜の第一陣として久留米に到着し、下士卒用の収容先である、久留米市日吉町の大谷派久留米教務所に収容された。4班に分けられた下士卒に対する全般の監督を、フィッシャー(Fischer)副曹長とともに務めた。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのランツェブルク出身。(683:久留米)
692) Redecker(レーデカー),Wilhelm:国民軍・階級不明。[教師]。妻ベルタ(Berta)は大戦終結まで青島に留まった。ビーレフェルト出身。(4581:大阪→似島)
693) Reimers(ライマース),Otto:第3海兵大隊参謀本部・予備陸軍少尉。[オットー・ライマース商会社長]。名古屋収容所ではケーニヒ(Leo König)及びカルクブレンナー(Kalkbrenner)とともに日本語を解する俘虜だった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。横浜在住のドイツ人ヴェルナー・ライマースは実弟で、丸亀及び板東に収容されたエルヴィン・フォン・コッホ(Erwin von Koch)はヴェルナーの義兄に当たる。ハンブルク出身。(2658:名古屋)
694) Reimers(ライマース),Stephan:国民軍・卒。[メルヒャース商会社長]。1915319日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月より。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。ヴェーザー河畔のニーンブルク出身。(4650:大阪→似島)
695) Renkel(レンケル),Paul]:海軍膠州砲兵隊第4中隊・砲兵軍曹長。徳島時代の1915420日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したレンケルは4組(出場者総数21名)の内の第1組に割り振られ、1位で本戦のA級に進出した。ドルトムント出身。(4267:大阪→徳島→板東)
696) Rettberg(レットベルク),Georg O.:第3海兵大隊・予備陸軍中尉。妻パオラ(Paula)は大戦終結まで、子ども二人と(ともに12歳以下)上海で暮らした。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(4428:熊本→大分→習志野)
697) Rex(レクス),Wilhelm:海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。板東時代、第32室で床屋を営んだ。シュレージエンのローラント出身。(4259:大阪→徳島→板東)
698) Richter(リヒター),Bruno:海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備2等機関兵曹。[商人]。モスクワに生まれた。学校時代もモスクワだったことから、ロシア語を流暢に話した。また、パリで生活したこともあってフランス語も習得していた。満州のハルピンから応召した。習志野時代、収容所でフランス語の授業を開き、クリューガー(Karl Krüger)もそこで学んだ。1915915日、他の94名とともに福岡から移送されて習志野収容所に到着した。習志野時代、一時期クリューガー(K.Krüger)と一緒だった。大戦終結後は、特別事情を有することから日本国内での居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。モスクワ出身。(1424:福岡→習志野)
699) Richter(リヒター),Otto:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[上海アストール・ホテル(Astor H.Hotel)]。ザクセン・アンハルトのベルンブルク出身。(2045:丸亀→板東)
700) Richter(リヒター),Paul:国民軍・後備上等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ベルリン出身。(4651:大阪→似島)
701) Richter(リヒター),Rudolf:第3海兵大隊第1中隊・予備伍長。1115日、久留米収容所に収容された。その折、既に収容されていた俘虜たちが蓄音機で「旧友」をかけていた。シュリーター曹長の指揮で行進するリヒターがクルーゲ(Kluge)にはすぐに分かった【クルーゲの項参照】。ヴァンツベック出身。(672:久留米)
702) Richter(リヒター),Walter:国民軍・上等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(2371:姫路→青野原)
703) Ricking(リッキング),Ferdinand:海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。習志野時代の19189月、ハム、ホルヒ、ハスラッハー、リーガーの四阿を建てる際、屋根葺きの仕事をした【ハインリヒ・ハム(Hamm)の項参照】。ノルトライン=ヴェストファーレンのラインベルク出身。(208:東京→習志野)
704) Rickenberg(リッケンベルク),Carl:海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。[電気工]。ハノーファー出身。(1426:福岡→久留米)
705) Riedel(リーデル),Georg Erich1895-1917)]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。〔湛山堡塁〕。[北ドイツ・ロイド汽船プリンツ・アイテル・フリードリヒ号乗員]。1917126日、徳島衛戍病院で死去【『欧受大日記』大正十三年三冊之内其一は、ドイツ人戦没者及びその墓地等に関する資料集成でもある。1920年(大正11年)1221日付けの陸軍省副官松木直亮【元熊本俘虜収容所長で、後に陸軍大将になった】からの照会に対し、翌1921131日付けの第11師団参謀長浅田良逸の回答は、ヘルムート(Hellmuth)と並んで設けられたリーデルの墓碑には、次のドイツ文が刻まれているとの報告をしている。「Hier ruht in Gott Seesoldat Erich Riedel geb.21.4.1895 in Plauen gest.6.12.1917 in Kriegsgefangenschaft in Tokushima」。【なお墓地所在地として記されている徳島県名東郡加茂名町の陸軍墓地は、眉山中腹にあり、今は西部公園と呼ばれている。公園は1989年から三次にわたって整備され、今日では二人の墓碑のほかに「ドイツ兵の墓」、日独両語による「墓碑」及び、ニュルンベルク近郊在住の彫刻家ペーター・クシェル(Peter Kuschel)氏寄贈の「悲しみを超えて」の記念碑がある。参照:石川栄作「二人のドイツ兵墓地」】。20024月、リーデルの甥エバハート・リーデル(Eberhard Riedel)氏が徳島を訪問して、徳島で死亡したドイツ兵俘虜の慰霊祭に出席した【エバハート・リーデル/石川晶子訳「私の日本旅行2002年」、所載:『菩提樹』(徳島日独協会会報)第10号、12頁】。フォークトラントのプラウエン出身。(3072:松山→板東)
706) Rieger(リーガー),Waldemar:海軍砲兵中隊・後備1等焚火兵。ハインリヒ・ハム(Hamm)と親しかった。ハムからロシア語を教えてほしいと頼まれたが、忙しいことからその役はシェーファー(Schäfer)が果たした。1918921日、ハム、ホルヒ(Holch)、ハスラッハー(Hasslacher)及びリーガーの四人の四阿が完成すると、リーガーとハスラッハーは籤で南側の部屋になった【「ハインリヒ・ハムの日記から」より】。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した。ツィッタウ出身。(211:東京→習志野)
707) Riegow(リーゴフ),Franz:海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備2等歩兵。習志野時代の191710月、ハム(Hamm)と日本語の勉強を続けた【「ハインリヒ・ハムの日記から」より】。ハンブルク出身。(210:東京→習志野)
708) Riehle(リーレ),Gerhard:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジームセン香港支店]。デュッセルドルフ出身。(3073:松山→板東)
709) Riesener(リーゼナー),Wilhelm]:第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。1020日、ディール(Diehl)伍長の指揮の下9名で第1歩兵堡塁から浮山所へパトロールに出た。さらにディールとレッチェ(Letsche)の三人で浮山所岬に出て、日本軍の船舶が目印にしているブイ(浮標)を沖合250メートルのところに発見した。リーゼナーは服を脱いでブイまで泳ぎ、決死の覚悟でブイを岸に運び上げた。ドゥイスブルク出身。(673:久留米)
710) Ritsert(リツェルト),Eduard:海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[腸詰製造職人]。シュトゥットガルト出身。(1448:福岡→久留米)
711) Rizzi(リッチ),Giovani:巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。1916109日、ビアンチ(Bianchi)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなく宣誓解放された。ダルマチアのルッシンピッコロ出身。(2377:姫路→青野原→丸亀→板東)
712) Rode(ローデ),Fritz]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[薬剤師]。ケーバライン(Köberlein)の遺品中には、松山時代にローデが脱走したことが記された紙片が含まれている。1915年か1916年の日記の一部と思われるその紙片には、612日付けで次のように書かれている。「夕方9時、軍曹による二度目の点呼。ローデが脱走を企てたのだ。…軍曹がやって来て衛兵達が周辺の田んぼと畑に飛び出ていった時には、ローデはとっくに激しい雨の降る中夜の闇に乗じて姿をくらませていた。10時に再度点呼。他のもの達へすぐさま尋問があり、大がかりな調査。夜は外出禁止。翌午後4時、ローデが宝林寺脇の森の中で捕まった知らせが届く。彼はどうやら泳いで小船にたどり着いたが、錨を揚げることが出来なかったのだ。」【メッテンライター『極東で俘虜となる』45-46頁】。ハノーファー出身。(3076:松山→板東)
713) Rohde(ローデ),Carl:所属部隊不明・階級不明。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】。【なお、インターネット「外国への恐れとあこがれ(商館時代)」よれば(参照:http.//arochan.hp.infoseek.co.jp./shokan2.htm)、1891年に日本を去って青島で活動し、やがて俘虜として日本に戻ることになった「カール・ローデ商会」設立者のカール・ローデは、この項のローデの縁者(年号等から息子か?)とも思われる】。ブレーメン出身。(4586:大阪→似島)
714) Rohde(ローデ),Heinrich:海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ヴェストファーレンのヘルデ出身。(4261:大阪→徳島→板東)
715) Röhreke(レーレケ),Ernst:第3海兵大隊第7中隊・後備上等歩兵。板東時代の191877日、長らくシュラークバルの審判をしていたレーレケは、この日初めて高い審判席に座って大きな拍手を受けた。オシャースレーベン(Oschasleben)出身。(2046:丸亀→板東)
716) Röhreke(レーレケ),Otto:第3海兵大隊第7中隊・後備上等歩兵。[ディーデリヒセン徐州支店]。【上記エルンスト・レーレケ(Ernst Röhreke)とは出身地が同じであることから、身内と思われる】。丸亀収容所時代の所内の様子をまとめて編集したアルバムに、更に板東収容所や青島時代の写真を加えた写真帳が、鳴門市ドイツ館に寄贈され、所蔵されている。【中野正司「画像資料から見た板東俘虜収容所の施設と生活」93頁、所載:『地域社会における外来文化の受容とその展開』】。オシャースレーベン出身。(2047:丸亀→板東)
717) Röllgen(レルゲン),Karl:第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代、第75室で生卵とゆで卵を販売した。ケルン近郊のヴェッセリング出身。(3081:松山→板東)
718) Rosenstein(ローゼンシュタイン),Josef:海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1919727日に上演された習志野寄席(Variete Theater Narashino)の「陽気な未亡人」で、下僕のクニュル役で出演した。オーバーラール(Oberlahr)出身。(1436:福岡→習志野)
719) Rossow(ロッソウ),Carl:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[メルヒャース上海支店]。ブレーメン出身。(3074:松山→板東)
720) Rossut(ロッスト),Karlo]:巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。1916109日、ビアンキ(Bianchi)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなく宣誓解放された。イストリアのチッタノーヴァ出身。(2379:姫路→青野原→丸亀→板東)
721) Roth(ロート),Diederich:第3海兵大隊第4中隊・伍長。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、1919610日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の上級に出場して(出場者は6名)、60?点を獲得して第4位になった。なおロートは、砲丸投げで9.96メートルという飛びぬけた距離を出すなど、目覚しい活躍であったことが特筆された。ブライテンダイヒ出身。(3609:熊本→久留米)
722) Rothkegel(ロートケーゲル),Curt:第3海兵大隊工兵中隊・後備陸軍少尉。[建築家]。青島建設期から建築家として活動した。ビスマルク通り東の丘に建てられた福音派教会堂(工期:1908-1910)の設計者。北京から応召か?大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。低地シュレージエンのザガン(Sagan)出身【『板東収容所俘虜故国住所録』38頁】。(3628:熊本→久留米→板東)
723) Röttgen(レットゲン),Paul]:第3海兵大隊第7中隊・後備軍曹。[巡査]。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。ゲーラ地区のグライツ(Greiz)出身。(1775:静岡→習志野)
724) Rudloff(ルートロフ),Franz:海軍膠州砲兵隊第5中隊・砲兵伍長。1915915日、他の94名とともに福岡から移送されて習志野収容所に到着した。習志野ではクリューガー(Karl Krüger)と同室で、ホッケーチームに属した。大戦終結後は、青島での就職が確定したため日本で解放された。ブレーメン出身。(1425:福岡→習志野)
725) Rudolph(ルードルフ),Karl:守備隊本部・後備曹長。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。ヴェーザー川支流のアラー(Aller)河畔のヴェルデン出身。(4432:熊本→大分→習志野)
726) Rudolph(ルードルフ),Walter:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ青島支店]。ハノーファー近郊のリンデン(Linden)出身。(3075:松山→板東)
727) Ruff(ルフ),Heinrich:海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備1等水兵。徳島時代、収容所で発行された『徳島新報』には、ヒュープナー(Hübner)及びヘンケ(Häncke)とともに印刷技術の面で協力した。また1916127日、ルフ作の3幕劇『戦争花嫁』が上演された。また、130日にはルフ指導による寄席「ミモザ」の第2回上演会が開催された【『徳島新報』第19号(1916130日発行)より】。大戦終結して解放後は、蘭領印度のスラバヤに渡った。ヴェストファーレンのハーゲン出身。(4270:大阪→徳島→板東)
728) Ruge(ルーゲ),Otto1874-):砲兵兵站部・海軍火工中尉。妻フリーダ(Frieda)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。フレンスブルク出身。(4030:大阪→似島)
729) Rühe(リューエ),Ernst:海軍野戦砲兵隊・後備副曹長。[教師]。ランツベルク出身。(3623:熊本→久留米)
730) Rumpel(ルムペル),Albert:第3海兵大隊3中隊・予備伍長。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、1919610日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、64点を獲得して第5位になった。ドレスデン出身。(687:久留米)
731) Runge(ルンゲ),Gustav:第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。久留米時代、1918916日から日本製粉会社久留米支店に労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。トレープニッツのシュロッタウ出身。(3617:熊本→久留米)
732) Rüsch(リュッシュ),Hermann:第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、1919813日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、平泳ぎに出場し462秒で3位になった。メクレンブルク=シュヴェーリンのパルヒム出身。(2035:丸亀→板東)
733) Sachs(ザックス),Ernst:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ上海支店]。マーレヒン(Malehin)出身。(3106:松山→板東)
734) Sandbiller(ザントビラー),Richard:海軍膠州砲兵隊・2等水兵。[電気工]。シュトゥットガルト出身。(1552:福岡→習志野)
735) Sanders(ザンダース),Johannes:海軍野戦砲兵隊・野砲兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。オルデンブルク出身。(2732:名古屋)
736) Sarna(ザルナ),Emil:皇后エリーザベト乗員・1等水兵。姫路時代の1915319日、ヘック(Hoeck)が祖国の祝祭を祝うために買ったビール三本が紛失し、同輩のメッスチル(不詳)に嫌疑をかけたことがきっかけで、ザルナ(Sarna)はヘックと喧嘩を始めた。そこにヘックに味方したスリツフェル(不詳)がナイフでザルナに切りかかった。この事件でスニツフェルとヘックは処罰された【藤原「第一次世界大戦と姫路俘虜収容所」13頁】。ガリチアのクラカウ近郊出身。(2408:姫路→青野原)
737) Sauer(ザウアー),Johann:海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。板東時代、第75室でマインゼン(Meinsen)及びフェッター(Vetter)とともに洗濯屋を営んだ。ヘッセン出身。(4294:大阪→徳島→板東)
738) Schaefauer(シェーファウアー),Friedrich]:第3海兵大隊参謀本部・予備伍長。[シュヴァルツコップ青島支店]。フライブルク出身。(3133:松山→板東)
739) Schäfer(シェーファー),Adolf]:海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等砲手。【ハム(Hamm)の日記には、シェーファーの名が随所に出てくる。ハムとは気が合って親しかったと思われる】。ズィーゲン近郊のノイキルヒェン出身。(241:東京→習志野)
740) Schäfer(シェーファー),Hermann:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[横浜・ベルクマン商会(Bergmann & Co.)]。松山時代は公会堂に収容され、ベーアヴァルト(Bärwald)、エッゲブレヒト(Eggebrecht)及びシュタインフェルト(Steinfeld)の四人で通訳業務に当たった。マールブルク出身。(3108:松山→板東)
741) Schäfer(シェーファー),Kurt:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代の1918611日、「ロシアのシベリア進出」と題して講演した。ゲルリッツ出身。(3110:松山→板東)
742) Schäfer(シェーファー),Willy:第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、19185月の第2回懸賞作文に「アラーフ・コロニア」を応募して、佳作になった。また同年春のテニス・トーナメントのシングルスでは、Bクラス2位になった。更に1919813日に開催された櫛木海岸での水泳大会に出場し、横泳ぎでは41.1秒で1位に、主競泳では138.1秒で2位に、抜き手では40秒で1位になった。ケルン出身。(2054:丸亀→板東)
743) Schaffrath(シャフラート),Heinz:第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・後備2等砲兵。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。アーヘン出身。(1582:福岡→青野原)
744) Schall(シャル),Hans:第3海兵大隊第6中隊・補充予備兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ウルム出身。(2681:名古屋)
745) Schaller(シャラー),Leonhard]:海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。板東時代、タパタオの5号小屋でヴェーバー(Weber)と家具の仕事を営んだ。ロイス(Reuss)のキルシュカウ出身。(4293:大阪→徳島→板東)
746) Scharf(シャルフ),Karl:第3海兵大隊第5中隊・2等水兵。板東時代、ドイツ式ハンドボール協会「壮年」の器具係を務めた。エアフルト出身。(3095:松山→板東)
747) Scharlemann(シャルレマン),Gerhard:海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備砲兵伍長。[商社員]。上海から応召した。習志野時代、クリューガー(Karl Krüger)と同じ部屋に住んだ。年長者グループに属する年齢で、冬季にはリューマチに苦しんだ。妻は大戦終結まで上海で暮らした。大戦終結して解放後は、蘭領印度のペダンに渡った。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(1491:福岡→習志野)
748) Schattschneider(シャットシュナイダー),Franz:海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等筆生。[天津ドイツ領事館]。ポンメルンのパーゼヴァルク出身。(4301:大阪→徳島→板東)
749) Scheck(シェック),Franz:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。丸亀時代の1916226日、レッターマイアー(Rettermeyer)に切りつけて軽傷を負わせ、懲役3ヶ月に処せられた【『俘虜ニ関スル書類』より】。板東時代、第25室で洗濯屋を営んだ。上部バイエルンのベルナウ出身。(2066:丸亀→板東)
750) Scheel(シェール),Wilhelm:国民軍・階級不明。[商人]。妻の名はアウグステ(Auguste)。ハンブルク出身。(4601:大阪→似島)
751) Scheithauer(シャイトハウアー),Alois:第3海兵大隊機関銃隊・2等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。シュレージエンのブラチェ出身。(3694:熊本→久留米)
752) Schellhoss(シェルホス),Hans:築城部・陸軍大尉。191487日の夕方、プリンツ・ハインリヒ・ホテルで妻フランツィスカ(Franziska)と食事を取っていた際、ギムボルン(Gimborn)と出会った。シェルホス大尉は、妻とともに青島で休暇を過ごしていたのであった。習志野時代の191869日、シェルホス大尉が3人の子供連れ夫婦の訪問を受け、その光景には胸に迫るものがあった、とハインリヒ・ハムの日記に記されている。妻フランツィスカは大戦終結まで息子と上海で暮らした。ブラウンシュヴァイク出身。(1584:福岡→習志野)
753) Scherer(シェーラー),Ernst:海軍膠州砲兵隊第2中隊・予備上等掌砲副兵曹。上海から応召か?大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(4065:大阪→似島)
754) Schierwagen(シーアヴァーゲン),Max:海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲工技手。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】。ハインリヒスヴァルデ(Heinrichswalde)出身。(3728:熊本→久留米)
755) Schild(シルト),Richard:海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代の1916127日、ホルトカンプ(Holtkamp)及びクルツケ(Kurzke)の三人で演じた『壊れた鏡』が喝采を博した【『徳島新報』第19号(1916130日発行)より。ホルトカンプについては瀬戸「独軍俘虜概要」参照】。ニーダーバイエルンのオスターホーフェン出身。(4284:大阪→徳島→板東)
756) Schilk(シルク),Friedrich:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ天津支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。シュレージエンのオムラウ出身。(2091:丸亀→板東)
757) Schilling(シリング),Adolf:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代、第53室でビールとタバコの販売をした。ブラウンシュヴァイク出身。(2090:丸亀→板東)
758) Schillo(シロ),Peter1894-1984):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。徳島時代の1915420日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したシロは4組(出場者総数21名)の内の第4組に割り振られ、2位で本戦のA級に進出した。ラインラントのヴァーデルン出身。(4306:大阪→徳島→板東)
759) Schimmel(シンメル),Peter:海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。徳島時代の1915420日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したシンメルは4組(出場者総数21名)の内の第3組に割り振られたが、4位で本戦のB級進出に留まった。板東時代、1917717日に発足した「収容所保険組合」に砲兵大隊代表となって運営に従事した。ヴォルムス出身。(4307:大阪→徳島→板東)
760) Schimming(シミング),Fritz:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。[天津ドイツ郵便局]。板東時代、クリングスト(Klingst)とタパタオの6号小屋で鋳型製作所を営んだ。レチン(Letschin)出身。(3087:松山→板東)
761) Schindler(シントラー),Otto:海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。[パン職人]。ザクセンのオシャッツ近郊ヴェルムスドルフ出身。(1577:福岡→久留米)
762) Schlemper(シュレムパー),Wilhelm:第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。上海から応召か?大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(2679:名古屋)
763) Schlick(シュリック),Friedrich Franz von]:第3海兵大隊機関銃隊・陸軍中尉。戦闘の初期にはメルク(Merck)予備少尉とともに、外方の前線陣地を守った。117日戦闘終了後、ビスマルク兵営の占領・処理のために訪れた歩兵第56連隊第3大隊長中島少佐とマイアー=ヴァルデック総督の身上について語った。ヴァンツベック出身。(2675:名古屋)
764) Schliecker(シュリーカー),Wilhelm]:第3海兵大隊第7中隊・陸軍中尉。〔第2歩兵堡塁指揮官〕。漢口から応召か?丸亀時代の1916414日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツ将校7名と収容所人員の計17名の集合写真である。シュリーカー中尉は、前列向かって石井所長の右となりである【アダムツェフスキー(Adamczewski)少尉の項を参照】。1916104日、ランセル大尉、ラミーン中尉、フェッター中尉、シェーンベルク少尉、アダムツェフスキー少尉、キュールボルン少尉とともに丸亀から大分に移送された。出身地不明(『俘虜名簿』では漢口)。(2050:丸亀→大分→習志野)
765) Schlierbach(シュリーアバッハ),Rudolf:海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。[パン職人]。ビーバー河畔のロートハイム出身。(1537:福岡→久留米)
766) Schlieter(シュリーター),Robert:第3海兵大隊第1中隊・曹長。1115日、久留米収容所に収容された。その折、既に収容されていた俘虜たちが蓄音機で「旧友」をかけていた。中隊を指揮して行進させるその顔は髭面だったが、クルーゲ(Kluge)にはすぐに分かった【クルーゲの項参照】。ヴァイクセルブルク出身。(698:久留米)
767) Schlitter(シュリッター),Bernhard]:第3海兵大隊第7中隊・予備上等歩兵。大戦終結後の19191228日、帰国船ヒマラヤ丸で下記弟フリードリヒ(Friedirch)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。フォークトラントのエルスニッツ近郊ウンターヘルムスグリューン出身。(2683:名古屋)
768) Schlitter(シュリッター),Friedrich]:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。大戦終結後の19191228日、帰国船ヒマラヤ丸で上記兄ベルンハルト(Bernhard)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。ウンターヘルムスグリューン出身。(1517:福岡→久留米)
769) Schlögel(シュレーゲル),Ernst]:第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[中国輸出入銀行会社上海支店]。1914111日午後遅く、日本軍の攻撃が一時止むと、上海時代からの知り合いであるメラー(Meller)とともに衛戍病院の裏手の丘に登り、オーストリアの軍艦カイゼリン・エリーザベトが自沈するのを目撃した【メラー『青島守備軍の運命』25頁】。フライブルク出身。(3100:松山→板東)
770) Schlotterbeck(シュロッターベック),Wilhelm1892-1965):海軍東アジア分遣隊第2中隊・上等歩兵。青野原時代の19191218日、習志野のマイレンダー(Mailänder)に宛てて葉書を出した。それは川べりに大きな柳の木があり、そのたもとに小船二艘、ぼんやり月が浮かんでいる風情のある絵葉書である。【マイレンダーの項参照】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ザールブリュッケン出身。(1557:福岡→青野原)
771) Schmalenbach(シュマーレンバッハ),Wilhelm:海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等水兵。[河用砲艦チンタオ乗員]。板東時代の191844日から6日の三日間、ブランダウ演劇グループによるクライストの『壊れ甕』の上演に際して、産婆のマルテ・ルル役を、得意の声色のレパートリー全てを駆使して演じた。ヴェストファーレンのハーゲン出身。(4302:大阪→徳島→板東)
772) Schmidt(シュミット),Daniel:海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等砲兵。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。ハノーファー近郊のシュターデ出身。(4443:熊本→大分→習志野)
773) Schmidt(シュミット),Felix:海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備砲兵伍長。[ジーメンス東京支店]。習志野時代、クリューガー(Karl Krüger)と同室だった。またユーバシャール(Ueberschaar)博士の下で日本語を学び、スポーツとしてはホッケーをした。テューリンゲンのシュタイナッハ出身。(1492:福岡→習志野)
774) Schmidt(シュミット),Fritz:総督府・1等筆生。福岡時代の1917328日、青野原のヘルケ(Herke)に絵葉書(箱崎八幡宮)を出した【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。ザーレ河畔のゴルビッツ出身。(1586:福岡→習志野)
775) Schmidt(シュミット), Heinrich]:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[庭師]。妻の名はTsune(ツネ?:日本女性と思われる)。丸亀時代の191529日、東京市芝区松本町の会社員の妻辻川英が知人として面会に訪れ、ドイツ語でシュミットの妻や友人のことなどについて30分ほど談話して、みかん、鶏卵、菓子を差し入れた。また、同年321日には、観音寺女学校職員織田シカが菓子二箱を差し入れに来た。織田シカなる人は北京に居るシュミットの妻の知人で、その住所を尋ねに来たのであった【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。また1916211日には、愛媛県の織田仁太郎が尋ねてきて日本語で会話した。二人は8年から9年にかけて北京で花卉商として従事した当時の思い出、数年前に別れてからの双方の身の上や家族に関して話しあった【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。ゴータ出身。(2086:丸亀→板東)
776) Schmidt(シュミット),Rudolph:第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。1918124日、ニューヨーク市ゴールド街C.O.フレックスという人から情報局へ、シュミット宛て金50円交付方の出願があったので転送し、その旨出願人へ通牒された。カッセル出身。(708:久留米)
777) Schmieder(シュミーダー),Hugo:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[マックス・ネスラー書店。マイセン出身。(3113:松山→板東)
778) Schmolke(シュモルケ),Heinrich:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1916926日横浜米国領事館より情報局へ、シカゴ市「ピーター・ファルネー」父子商会の依頼でシュモルケ宛てに薬品入小包2個交付方の照会があり、検閲の上用法を付して転送し、その旨領事館に回答された。東プロイセンのインスターブルク出身。(729:久留米)
779) Schnack(シュナック),Otto:第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。キール出身。(3654:熊本→久留米)
780) Schneider(シュナイダー),Eugen:第3海兵大隊第7中隊・伍長。[元軍楽隊鼓手]。多度津から丸亀まで二列になって行進したとき、メラー(Meller)と並んで歩いた。その折シュナイダーは、見物に集まった群衆から感嘆の声を上げられた。軍楽隊員を示す金色の半月形の肩章が、将軍と思わせたからであった【メラー『青島守備軍の運命』36頁】。ヴュルテンベルクのシュラムベルク出身。(2081:丸亀→板東)
781) Schneider(シュナイダー),Gustav:海軍膠州砲兵隊第2中隊・後備1等掌砲兵曹。[青島警察署]。上部シュレージエン出身。(3725:熊本→久留米→板東)
782) Schober(ショーバー),Max:第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。妻イーダ(Ida)は大戦終結まで、娘(12歳以下)と青島に留まった。低地シュレージエンのラウバン県オーバーシュライバースドルフ出身。(3669:熊本→久留米)
783) Schober(ショーバー),Reinhold:第2工機団・技術秘書官。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。シュテッティン出身。(4653:大阪→似島)
784) Scholl(ショル),Lorenz:海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[腸詰製造職人]。バイエルンのグラーフェンラインフェルト出身。(1561:福岡→青野原)
785) Scholz(ショルツ),Arthur L.:海軍砲兵中隊・2等水兵。1917128日、アンドレーアをペーテルス(Peters)等18名で袋叩きにして負傷させ、27日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。ベルリン出身。(3718:熊本→久留米)
786) Scholz(ショルツ),Gustav:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、第33室で家具屋を営んだ。シュレージエンのペツェルスドルフ出身。(2068:丸亀→板東)
787) Schon(ショーン),Wilhelm:海軍歩兵第3大隊第7中隊・伍長。[上海花卉(Shanghai-Flora)]。ヴィーティング(Wieting)の回想録によれば、ショーンは花卉の分野では名を知られた、心優しい人物だった。ヴィルヘルム皇帝やその他お偉方の食卓を花で飾る際、ショーンが勤めていた会社に注文があると、盛り付けを担当するのはショーンであった【「ルートヴィヒ・ヴィーティングの回想」から;所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』26頁より】。ダンチヒ出身。(2075:丸亀→板東)
788) Schönberg(シェーンベルク),Rudolf v.:第3海兵大隊第2中隊・陸軍少尉。丸亀時代の1916414日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツ将校7名と収容所人員の計17名の集合写真である。シェーンベルク少尉は、中列向かって右端である【アダムツェフスキー(Adamczewski)少尉の項を参照】。1916104日、ランセル(Lancelle)大尉、ラミーン(Ramin)中尉、シュリーカー(Schliecker)中尉、フェッター(Vetter)中尉、アダムツェフスキー(Adamczewski)少尉、キュールボルン(Kühlborn)少尉とともに丸亀から大分に移送された。ザクセンのプルシェンシュタイン出身。(2051:丸亀→大分→習志野)
789) Schöttler(シェットラー),Leopold:海軍砲兵中隊・後備1等水兵。妻(名は不詳であるが、日本人と推測される)は大戦終結まで、二人の子(セウ、タケシともに12歳以下)と上海で暮らした。ブルッフハウゼン出身。(3714:熊本→久留米)
790) Schrader(シュラーダー),Heinrich:第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。[四川鉄道漢口支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放されたが、やがて蘭領印度のバンドンに渡った。。ノイミュンスター出身。(3122:松山→板東)
791) Schramm(シュラム),Richard]:海軍第2工機団測量船第3号・2等機関兵曹。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、1919610日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、63?点を獲得して第7位になった。ザクセンのラースベルク出身。(765:久留米)
792) Schreiber(シュライバー),Walter:海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。徳島時代、富田久三郎等の依頼で富田酪農所、後の「船本牧場」の設計をした。シュレージエンのタルノヴィッツ出身。(4297:大阪→徳島→板東)
793) Schröder(シュレーダー),Hugo August Robert1882-):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等兵曹。[商船高級船員]。習志野時代、シュレーダーは自分を常にフルネームで名乗った。よく笑うので、クリューガー(Karl Krüger)等の仲間から「笑い鳩」のあだ名がつけられていた。クリューガーとは同じ1218日生まれだが、ちょうど10歳年長だった【『ポツダムから青島へ』208頁】。ヴェストファーレンのハム出身。(1490:福岡→習志野)
794) Schröder(シュレーダー),Reinhold:第3海兵大隊第2中隊・副曹長。妻カタリーナ(Katharina)は子供二人(いずれも12歳以下)と大戦終結まで上海で暮らした。ポンメルンのコルベルク出身。(2052:丸亀→板東)
795) Schroeter(シュレーター),Ernst1882-):機雷保管庫・海軍水雷少尉。19141120日姫路に到着早々の光景で、『姫路又新日報』は特に目を引いた事柄として、シュレーター少尉が引き連れた国民兵20人余一行のことを報道した。50歳に達しようかとおぼしき古老兵もいたとのことであった【藤原「第一次世界大戦と姫路俘虜収容所」7頁】。マクデブルク出身。(2393:姫路→青野原)
796) Schrötter(シュレッター),Konrad]:海軍野戦砲兵隊・後備上等砲兵。[朝鮮京城・聖ベネディクト修道院]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。バイエルンのエンスフェルト出身。(3684:熊本→久留米→板東)
797) Schubert(シューベルト),Paul:所属部隊不明・補充予備兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ヴィルヘルムスハーフェン出身。(4608:大阪→似島)
798) Schubert(シューベルト),Rudolf]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[クンスト・ウント・アルバース商会ブラゴヴェシチェンスク支店]。オーバープラニッツ(Oberplanitz)出身。(3120:松山→板東)
799) Schultz(シュルツ),Gerhard]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[アルンホルト-カルベルク広東支店]。ハンブルク出身。(3103:松山→板東)
800) Schultz(シュルツ),Hugo:海軍砲兵中隊・上等兵曹。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。バルト海の島ヴォリン(Wollin)出身。(243:東京→習志野)
801) Schultz(シュルツ),Walter:第3海兵大隊第6中隊・後備伍長。[染料製造業]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ラーデボイル(Radebeul)出身。(1572:福岡→名古屋)
802) Schulz(シュルツ),Otto:海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等機関兵曹。[河用砲艦チンタオ乗員]。板東時代、1918418日に開かれた「中国の夕べ」で、「帝国軍艦チンタオの航海」と題して講演した。西プロイセンのグラウデンツ出身。(4299:大阪→徳島→板東)
803) Schulze(シュルツェ),Gustav-1918)]:海軍膠州砲兵隊第1中隊・砲兵伍長。ノイマイアー(Neumaier)の日記によると、1912年、東アジアへの出発の際、ククスハーフェン駅に花嫁が見送りに来ていて、白いバラを手渡して涙を流したとのことである。19161022日、他の68名とともに福岡から習志野に移送された。1918125日、結核性腹膜炎により習志野で死亡。ベルリン出身。(1465:福岡→習志野)
804) Schurgens(シュルゲンス),Hubert:海軍砲兵中隊・2等水兵。[河用砲艦チンタオ乗員]。ラインラントのファールス出身。(4305:大阪→徳島→板東)
805) Schürholz(シュルホルツ),Wilhelm:第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、1919610日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、77点を獲得して第1位になった。ブランケンバハ出身。(709:久留米)
806) Schütze(シュッツェ),Wilhelm:第3海兵大隊第7中隊・曹長。妻ヘトヴィヒ(Hedwig)は子供(12歳以下)と大戦終結まで上海で暮らした。ポンメルンのグライスヴァルト出身。(2074:丸亀→板東)
807) Schwaff(シュヴァフ),August:国民軍・伍長。[シュヴァルツコップ商会社長]。1915319日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月より。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。なお同年420日、シュヴァフは陸軍省宛に釈放の請願書と損害賠償請求書を提出した。釈放の理由としては、戦役中軍務に服さず、開戦と同時に免除されたこと、国民軍、警察または消防隊等の勤務に従事しなかったことなど5項目を挙げた。損害賠償としては、シュヴァルツコップ商会において、自身が俘虜となることで生じた損害、及び現に生じつつある損害として数十万ドルに達するとしていること。また、自身が冷湿にして風の通る木造営舎に起居することで、健康上の障害を来たしたことを日本政府の責任としている。妻リリー(Lili)は大戦終結まで、こども(12歳以下)と二人上海で暮らした。ハンブルク出身。(4655:大阪→似島)
808) Schweim(シュヴァイム),Arthur:海軍膠州砲兵隊第2中隊・後備1等水兵。妻ヨハンナ(Johanna)は大戦終結まで上海で暮らした。メーメル出身。(4043:大阪→似島)
809) Schwerke(シュヴェルケ),Reinhold]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ上海支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。シュテッティン出身。(3114:松山→板東)
810) Schwitzki(シュヴィツキ),Wilhelm:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919614日付け)によると、シュヴィツキは191961 日に開催されたホッケーの試合に出場したが、そのボールをさばき方は模範的であった。また68日に開かれたサッカーの試合でも活躍し、更には、6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級にも出場して、67?点で第3位になった。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ベルリン郊外のアルトグリーニケ出身。(717:久留米)
811) Scoppwer(スコップヴェーア),Paul1893-1984):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1893911日コットブスに生まれた。大戦終結して帰国後、トリーアで歯科技工士となり、1984315日死亡した。遺品中に浅草本願寺での集合写真が遺されている【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。コットブス出身。(227:東京→習志野)
812) Seckendorff(ゼッケンドルフ),Oscar A.A.Freiherr von1873-1928):第3海兵大隊第7中隊・退役陸軍少尉(男爵)。中国の福州から応召か?静岡時代、ミュルトナー(Müldner)予備少尉と日本の新聞をドイツ語に訳した。それは収容所内で回覧された。出身地不明(『俘虜名簿』では福州)。(1784:静岡→習志野)
813) Seeger(ゼーガ−),Hermann1891-1918)]:第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。〔中隊伝令〕。1913218日、兵員輸送船「ルイーゼ王妃」で青島に来た。最初は機関砲部隊に勤務し、2年目に第2中隊伝令に就いた。日独戦争勃発後、口子街道防備に加わり、四房山への出撃に巡邏隊長として活躍し、1914103日上等歩兵に昇進した。第4歩兵堡塁に日本軍が突撃して来た時、負傷していたにもかかわらず、伝令としての任務に赴こうとした。結局は堡塁指揮官に呼び戻されて中隊に留まり俘虜となった。丸亀時代の1915212日、ヨーハン・ヘルマイ(Johann Hermey)と脱走を企てたが14日に辻村で発見され逮捕、禁錮13ヶ月の刑を受け高松刑務所に収監された【『丸亀俘虜収容所記事』より】。板東時代の19181118日スペイン風邪に罹り、1130日肺炎で死亡した。122日、新設のホールで戦友である牧師ヴァナクス(Wannags)の司式で葬儀が執り行われた。【『バラッケ』第3巻第10号】。ルール(Ruhr)河畔のミュールハイム出身。(2056:丸亀→板東)
814) Segelken(ゼーゲルケン),Bernhard:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代の1918526日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。鉄棒2、平行棒2、鞍馬1、跳び箱1を使用しての体操会であった。ゼーゲルケンは第3組の指導を受け持った【『バラッケ』第2巻、183頁】。ブレーメン出身。(3109:松山→板東)
815) Seidel(ザイデル), Alfred]:国民軍・階級不明。[ザンダー‐ヴィーラー商会社長]。1915319日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月より。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。シュレージエンのヒルシュベルク出身。(4654:大阪→似島)
816) Seidel(ザイデル), Willy]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ローゼンベルガー(G.Rosenberger)天津支店]。ケムニッツ出身。(3111:松山→板東)
817) Senkbeil(ゼンクバイル),Wilhelm:第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。名古屋俘虜収容所に収容中に、落合兵之助が経営する落合化学に、鍍金技術者のマックス(不詳)及びクーヘン(不詳)の通訳として派遣された。やがて落合の依頼を受けて、技術力により優れたエンゲルホルン(Engelhorn)の派遣を実現した。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、落合化学に就職した。落合化学は大正139月には「ゼンクバイル商会」と改称した。ゼンクバイルの帰国の時には、友人であった敷島パンに勤めたフロイントリープ(Freundlieb)夫妻が見送りに来た。故国にはすでに両親もなく、姉一人だったとのことである。ベルリン出身。(2694:名古屋)
818) Setzkorn(ゼッツコルン),Wilhelm:第3海兵大隊予備榴弾砲隊・後備上等歩兵。[機械組立工]。ルール地方出身。(2706:名古屋)
819) Seyffart(ザイファルト),Paul:軍艦グナイゼナウ乗員・2等水兵。習志野時代の1919107日、習志野寄席の第2部で上演されたケルン風茶番劇「むちゃくちゃな夜」の演出を担当した。ハンブルク出身。(1789:静岡→習志野)
820) Sickel(ジッケル),Hugo:海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等水兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハレ河畔のヴェルムリッツ出身。(1521:福岡→久留米)
821) Siebel(ジーベル),Robert-1919)]:海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。19161018日、ベルント(Berndt)等68名とともに、福岡から大分に移送された。191922日、スペイン風邪により習志野で死亡。ジーゲン近郊のゴーゼンバッハ出身。(1482:福岡→大分→習志野)
822) Simonis(ジーモニス),Erich]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[オットー・ライマース神戸支店]。ベルリン出身。(3112:松山→板東)
823) Skupin(スクーピン),Wilhelm:第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。[ディーデリヒセン漢口支店]。上部シュレージエン出身。(2058:丸亀→板東)
824) Sommer(ゾンマー),Eugen:海軍東アジア分遣隊・第3中隊・2等歩兵。大分時代の191631日付けの葉書(宛先不明。コーブレンツ連邦文書館所蔵)によると、下士卒は一日40キロから50キロの行進をしたことを報告している。バイエルンのホーフ出身。(4441:大分→習志野)
825) Sottorf(ゾットルフ),Bernhard:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[上海・フーアマイスター商会]。ハンブルク出身。(2089:丸亀→板東)
826) Spann(シュパン),Alexander1890-)]:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。[独中大学助手]。18901222日ハンブルクのアルトナに生れたが、教育はザーレ河畔のハレで受けた。その地のギムナージウムを出た後、ハレ市近郊の農園で実習を受け、ハレ高等農林に進学した。1910年に同校を終えると上記農園の支配人を務めたが、その後ベルリンとハレの大学で農芸化学を学んだ。191210月、一年志願兵として青島に赴いた。2年後に青島の独中大学の農林学科助手に就任した。久留米収容所では菜園で研究に必要な植物の栽培をし、また久留米収容所雑誌『故国の三角旗』(Heimatswimpel)の主筆を務めた。大戦終結して解放後、九大医学部教授久保井猪之吉の紹介で福岡県幸袋町(現飯塚市)の伊藤農園の顧問になった。192010月から九州帝国大学講師として、医学部の有志にドイツ語とドイツ文化を教え、翌年には農学部で農業発達史の講義を委嘱され、1926年まで担当した。この間19224月から山口高等学校で3年間外国人教師として勤めてドイツ語を教えた。収容所時代に日本語を学んだが、独学によって一層日本語に磨きをかけた。19247月に独力で発行した独文雑誌「Das Junge Japan」(若き日本)は19266月の第210号出で廃刊するまでに全21冊を出したが、日本近代文学の翻訳を数多く発表した。以下に主なものを挙げると、夏目漱石『坊ちゃん』、武者小路実篤『その妹』、菊池寛『藤十郎の恋』(米沢直人共訳)、『恩讐の彼方に』、里見ク『嫉妬』、山本有三『海彦山彦』(内山貞三郎共訳)、国木田独歩『帰去来』がある。『坊ちゃん』は1925年に大阪の共同出版社から上梓された238頁の完訳である。副題として「お人好し」(Ein reiner Tor)が付けられている。シュパンは「『坊ちゃん』を独訳して」という文章で次のように述べている。「夏目漱石氏の坊ちゃんを訳了出版するにあたって、色々の感慨に打たれます。私が、最初これを読んだ時には、其の生彩に富み、溌剌たる独創性の横溢してゐる点で、明治文壇異数の作品であると思ひましたが、自ら其の後教職に就いて、日本に関する研究を積んでからは、所謂『江戸っ子気質』がこれ程巧みに生き生きと描写してあるものは殆ど他に比類を見まいと思ひます。勿論漱石氏の作品中には、より深刻なより偉大なものがあるけれども、坊ちゃんの人間本然的な、闊達にして廉直なしかも同時に優に柔しい性格は独り日本人のみではなく世界万国の人々に同感を起こすものと思はれ増す。…」シュパンはその後一時神戸鉄道病院でドイツ語講師を務めたが、昭和2年再び九州帝国大学講師となり、医学部でドイツ語論文の校閲などの仕事をしたが、翌年の昭和3年には久留米の九州医学専門学校(現久留米大学医学部)にも出講した。翻訳の仕事はこの頃も続け、上海の独文誌『橋』(Die Brücke)に、菊池寛『小野小町』、芥川龍之介『鼻』等の独訳を発表した。1934310日付けで九州帝国大学講師を依願退職後の消息は不明である。一説には、ある事件のために三池港から密かに貨物船で帰国したとも言われているが、真相は不明である【以上は、上村直己熊本大学教授の「『坊ちゃん』独訳者A・スパン」(「熊本大学学報」第550号)から抜粋したものである】。192011日の『福岡日日新聞』には、久保井猪之吉訳になるシュパンの詩「窓の前」が掲載された【松尾名誉教授からの教示による】。ハンブルクのアルトナ出身。(732:久留米)
827) Sperling(シュペルリング),Eduard]:海軍膠州砲兵隊第2中隊・後備砲兵伍長。応召前10年近く北京に暮らし、蒋介石軍の顧問を務めていた。妻は中国人で、中国語を流暢に話した。とがった顎鬚をはやし太鼓腹のシュペルリングは、周囲から中国老人と言われた。19161022日、ミリエス(Millies)、オストマン(Ostmann)等68名とともに福岡から習志野に移された。習志野時代、習志野楽団でティンパニーを受け持った。楽譜が読めなかったシュペルリングは、演奏の際指揮者に左の拳で合図をもらってティンパニーを打ち鳴らした【『ポツダムからチンタオへ』204頁】。ベルリン出身。(1473:福岡→習志野)
828) Spiro(シュピーロ),Wilhelm:海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備機関兵曹長補。似島時代の19193月、広島物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に当って、運営本部の一員として出納係りを務めた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(1488:福岡→大阪→似島)
829) Spohr(シュポーア),Christian W.:海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備軍曹。[宣教師]。東京時代の19141129日、ミサを執り行った。なかなか立派な説教であったが、自身の純潔を褒めすぎた嫌いがある、がハインリヒ・ハム(Hamm)の評だった【「ハインリヒ・ハムの日記から」】。習志野時代、191512月のクリスマスにミサの司式を執り行った【Jäckisch,W.:Das Barackenlager in NARASHINO85頁、所載:(Philatelistische Japan-Berichte116 号】。オスナブリュック出身。(234:東京→習志野)
830) Spöler(シュペーラー),Heinrich-1919)]:海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。大分時代の191857日、板東のラングハイム(Langheim)から葉書を受けた。【マイレンダー(Mailänder)の項参照】。ヴェストファーレンのボルケン出身。(4445:熊本→大分→習志野)
831) Spörl(シュペルル),Simon:海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、第42室で仕立屋を営んだ。オーバーフランケン出身。(4288:大阪→徳島→板東)
832) Sprick(シュプリック),Friedrich:海軍砲兵中隊・2等木工。習志野時代の19189月、ハム、ホルヒ、ハスラッハー、リーガーの四阿を建てる際に、大工仕事をした【ハインリヒ・ハム(Hamm)の項参照】。ウヒテ(Uchte)出身。(256:東京→習志野)
833) Spurzen(シュプルツェン),Peter:海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代の1916116日、ヤコボフスキー作の一幕物『労働』で女役を演じ、観客にその方面の才能もあることを見せつけた【『徳島新報』第18号(1916123日発行)より】。板東時代の191844日から6日の三日間、ブランダウ演劇グループによるクライストの『壊れ甕』の上演に際して、マルタの娘エーフェ役を演じた。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ラインラントのマイエン出身。(4287:大阪→徳島→板東)
834) Staben(シュターベン),Johannes:総督府・1等按針長。妻マクダレーナ(Magdalena)は大戦終結まで上海で暮らした。ホルシュタインのレンツブルク出身。(3737:熊本→久留米)
835) Stahl(シュタール),Ludwig:総督府・2等焚火兵。板東時代、収容所正門の外のすぐ近くにあった「小松ジャム製造所」の販売を第56室で担当した。所長はイェーガー(Jaeger)であった。ミュンヘン出身。(3138:松山→板東)
836) Stamm(シュタム),Rudolf:第3海兵大隊第4中隊・予備上等歩兵。[鋳型工]。久留米時代、191810月から澤野鉄工場で鋳型の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。エルビング出身。(3660:熊本→久留米)
837) Stecher(シュテッヒャー),Walter1874-1922)]:第3海兵大隊野戦砲兵隊長・陸軍砲兵大尉。〔中間掃射砲地区(鉄道列車上)〕。妻クレール(Claire)は息子と娘の三人で、大戦終結まで上海で暮らした。明治時代に日本に滞在中、日本陸軍の教範『野戦砲兵操典』及び『野戦砲兵射撃教範』を独国大尉クント(不詳)と独訳した。また、松山収容所では非合法の形で新聞『陣営の火』が発行され、1916年に3回に亘って掲載された松山地域を概観する論説が載った。その前書きによると、関連する日本語文献を翻訳したのはシュテッヒャーであった【松尾「ザクセン王国出身の青島捕虜」45頁】。ドレスデン出身。(3132:松山→板東)
838) Steckelberg(シュテッケルベルク),Hans1886-):海軍膠州砲兵隊第4中隊・予備2等砲兵。188611月、ラインラントのランゲンベルクに生まれた。18881月から18982月までシュレースヴィヒのゾンダーベルク(Sonderberg)に居住し、後に家族とともにヴェストファーレンに移住したが、19108月中国に赴いた。母親は191811月に再びゾンダーベルクに移住した【『俘虜ニ関スル書類』より】。シュレースヴィヒ出身。(1487:福岡→大分→習志野)
839) Steen(シュテーン),Heinrich:第3海兵大隊第7中隊・伍長。[上海・ヘットラー商会(Hoettler & Co.)]。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。ハンブルク出身。(2078:丸亀→板東)
840) Steffens(シュテッフェンス),Heinrich]:第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。[横浜・ドイツ学園教師]。板東時代、ヘルマン・ハーケ(Hermann Hake)と二人同室で過ごした。ハーケによれば「真の友人」となった【石川「ベートーヴェン『第九』と板東俘虜収容所」189-190頁】。エッガースミューレン出身。(3098:松山→板東)
841) Steiger(シュタイガー),Karl:国民軍・伍長。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】。ヴュルテンベルク出身。(4597:大阪→似島)
842) Steil(シュタイル),Alwin:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[独亜銀行香港支店]。松山時代の1915315日、シュタイルは両親に宛てて手紙を書いたが、規定の書き方に反したことで、本人に通知されることなく検閲官に没収された。【久留米収容所及び松山収容所では、郵便を出す際にその書き方に厳しい規定を設けた。線をきちんと引いてその上に文字を書かせるようにしたのである。検閲しやすいようにとの考えからと思われる。因みにその手紙には、上海のドイツ人クラブが松山の俘虜達のために、その蔵書の一部を送ったことが記されてある。手紙は今日、コーブレンツの連邦資料館に保存されている。クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』134頁及び179頁】ライン河畔のアルトリップ出身。(3105:松山→板東)
843) Stein(シュタイン),Wilhelm]:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。[ホテル経営]。久留米時代の19161215日、松山のオットー・ヴェルナー(Otto Werner)の母親(未亡人)宛にクリスマスと新年の挨拶を述べた絵葉書を出した【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。ザール河畔のノイキルヒェン出身。(720:久留米→習志野)
844) Steinbach(シュタインバッハ),H.Walter:海軍砲兵中隊・2等水兵。1917128日、アンドレーアをショルツ(Scholz)等18名で袋叩きにして負傷させ、27日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。ライプチヒ出身。(3717:熊本→久留米)
845) Steinfeld(シュタインフェルト),Heinrich]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジーモン‐エーファース商会Simon,Evers Co.G.m.b.H.)神戸支店]。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのダブルスで、ボイスハウゼンと組んでBクラス1位になった【『バラッケ』第2巻、211頁】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。リーグニッツ出身。(3107:松山→板東)
846) Steinhoff(シュタインホフ),Fritz:第3海兵大隊工兵中隊・後備2等工兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ヴェストファーレンのヴェルファー出身。(3130:松山→板東)
847) Steinmetz(シュタインメッツ),Hermann1891-):第3海兵大隊第7中隊・伍長。丸亀時代の1915719日、楽器購入のために市街に赴いた。同年1021日には、高松師範学校外県立4学校の音楽教師の希望により、パウル・エンゲル(Paul Engel)と丸亀高等女学校で試験演奏を行った【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。板東時代、1919813日に開催された櫛木海岸での水泳大会に出場して、横泳ぎでは42.1秒で3位に、主競泳では128.4秒で1位になった。またメドレーリレーでは、ヴィヒェルハウス(Wichelhaus)、フェルチュ(Färtsch)、レーマン(Lehmann;板東にはレーマンが二名いて特定不可)と組んで1位になった。ブレーメン出身。(2082:丸亀→板東)
848) Steitz(シュタイツ),Dr.Wilhelm1891-)]:第3海兵大隊第1中隊・予備陸軍少尉。久留米時代、シュタイツの手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のレーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによって「久留米収容所楽団」の楽団員が受け持ったパートが判明した。シュタイツは1919年用の「久留米カレンダー」に12枚のスケッチを寄せた。マイン河畔のフランクフルト出身。(3644:熊本→久留米)
849) Stephan(シュテファン),Andreas:海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。大戦終結後の19191226日、帰国船豊福丸で下記マティーアス(Matthias)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。ラインラントのヴァインスハイム(Weinsheim)出身。(4298:大阪→徳島→板東)
850) Stephan(シュテファン),Matthias:海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。大戦終結後の19191226日、帰国船豊福丸で下記マティーアス(Matthias)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。ヴァインスハイム(Weinsheim)出身。(4049:大阪→似島)
851) Stephan(シュテファン),Paul:海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。ハインリヒ・ハムの日記によると19183月、勤務に就くのが少し遅れたことで、田中中尉に殴られて倒れそうになった。反抗出来ない俘虜に対するこの態度は、皆を立腹させた。エルンストタール近郊のホーエンシュタイン出身。(232:東京→習志野)
852) Stevens(シュテフェンス),Heinrich:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。板東時代の191844日から6日の三日間、ブランダウ演劇グループによるクライストの『壊れ甕』の上演に際して、農民ファイト・テュンペル役を演じた。ラインラントのレース出身。(4304:大阪→徳島→板東)
853) Stolle(シュトレ),Otto]:第3海兵大隊第7中隊・予備伍長。[オットー・ライマース横浜支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。オルデンブルク出身。(2080:丸亀→板東)
854) Stopsack(シュトップザック),Hermann]:海軍膠州砲兵隊第4中隊・予備2等水兵。19191125日、九州・若松の帝国鋳物株式会社に技師として就職した。月給は350円であった【坂本「久留米俘虜収容所の一側面」(下)5頁】。なお、大阪安治川鉄工場からの鉄工作業技術を持っていて、日本在留就職希望者照会に対する、同年1223日付けの久留米収容所からの回答にもその名がある。メークデシュプルング(Mägdesprung)出身。(3731:熊本→久留米)
855) Strassenburg(シュトラーセンブルク),Wilhelm:第3海兵大隊機関銃隊・2等信号兵。1917128日、アンドレーアをシュタインバッハ(Steinbach)等18名で袋叩きにして負傷させ、27日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。ベルリンのシャルロッテンブルク出身。(3688:熊本→久留米)
856) Streicher(シュトライヒャー),Kuno:海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。[麦酒製造職人]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ブレーナ(Brena)出身。(1532:福岡→青野原)
857) Strietzel(シュトリーツェル),Martin:海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、タパタオの14号小屋でヘフトと鍛冶屋、金属加工を営んだ。シュレージエン出身。(4286:大阪→徳島→板東)
858) Stueben(シュテューベン),Franz]:海軍膠州砲兵隊飛行部隊・1等機関兵曹。徳島時代の1915420日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したシュテューベンは4組(出場者総数21名)の内の第2組に割り振られたが、3位で本戦のB級進出に留まった。ハーゲン出身。(4308:大阪→徳島→板東)
859) Stuhlsatz(シュトゥールザッツ),Johann1891-):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1919121日、流行性感冒のため広島衛戍病院に入院し、126日に同病院で解放された【『戦役俘虜ニ関スル書類』中の附表第六号の「俘虜患者解放者一覧表」より】。ザールブリュッケン出身。(4588:大阪→似島)
860) Suhr(ズーア),Karsten H.]:第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代の191859日、収容所近隣の水車小屋谷への遠足が行われた。『バラッケ』第2巻第8号の「水車小屋谷への遠足」の文章用にその水車小屋のスケッチを寄せた。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのメルドルフ出身。(3004:松山→板東)
861) Surand(ズーラント),Fritz:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。エルビング出身。(2073:丸亀→板東)
862) Symalla(ジュマラ),Max:第3海兵大隊第2中隊・伍長。[天津ドイツ領事館]。ヴェストファーレン地方マルクのブリーゼン出身。(2053:丸亀→板東)
863) Syré(ジュレ),Hermann1882-1962)]:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[建築家]。1901年(あるいは1902年)に膠州に赴き、要塞の建設及び山東鉄道の敷設に従事した。190819日、青島で結婚した。191210月、ドイツ帝国の皇弟ハインリヒ・フォン・プロイセン王子が青島を訪問した際、プリンツ・ハインリヒ・ホテルで歓迎の式典が執り行われた。その折の記念写真をあしらった絵葉書でジュレは兄弟にはがきを出した。記念写真には白い服を着た王子とマイアー=ヴァルデック総督を中心にして、総勢50名ほどが写っている。ジュレは王子のすぐ左隣に立っている。そのはがきの文面は次の通り。「親愛なるアルフレート!ヘルゴラント島からの便り有り難う。元気な様子なによりです。裏面の写真は、陸海軍合同のハインリヒ・フォン・プロイセン王子歓迎式典の時に写したものです。これ以外には特に変わったことはありません。ヘルマンより」【以上、ジュレの足跡に関する記述は、ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。妻メタン(Metan)は娘(11歳)と大戦終結まで済南で暮らした。テューリンゲンのシュロイジンゲン出身。(2083:丸亀→板東)
864) Teintze(タインツェ),Max:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[上海・シェルフ商会(W.Schärff & Co.)]。ベルリン出身。(3145:松山→板東)
865) Temme(テンメ),Ammandus1893-1915)]:第3海兵大隊第2 中隊・2等歩兵。191566日、12指腸虫で死亡した。ドイツの習慣にはなかったために検便を拒否したことも、死亡につながったと言われる。前月初旬から丸亀衛戍病院に入院していたが病状悪化し、3日には青島時代の上官及び同郷人としてランツェレ大尉、バウツ(Bautz)曹長、アンドレ(Andrae)伍長、シュレーダー2等歩兵が見舞った。68日、石井収容所長を始め所員等職員が立会い、俘虜将校以下273名が整列し、法衣を纏った俘虜宣教師ヒルデブラント(Hildebrandt)【瀬戸「独軍俘虜概要」参照】の司式により新教で葬儀が執り行われた。1020日には墓標の竣工がなり俘虜准士官以下255名が参拝し、一周忌は俘虜将校以下が参列して執り行われた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。丸亀市土器町東駒ヶ林の軍人墓地に埋葬された。ノルトライン=ヴェストファーレンのゲルゼンキルヒェン(Gelsenkirchen)出身。(2094:丸亀)
866) Theen(テーン),Theodor]:海軍東アジア分遣隊第1中隊・後備伍長。[商人]。習志野弦楽四重奏団の一員で、チェロを担当した。他の三人はミリエス(第一ヴァイオリン)、ヴォストマン(第二ヴァイオリン)、ハルツェンブッシュ(ヴィオラ)である。ルル(Lulu)夫人はこども(12歳以下)と夫の両親(テーオドール;[商人]、カロリーネ)とともに、大戦終結まで上海で暮らした。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)。(271:東京→習志野)
867) Thiel(ティール),Otto:第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、佐賀日本電機株式会社に電機技師として雇用された。ノインキルヒェン出身。(3746:熊本→久留米)
868) Thiele(ティーレ),Johannes1890-1974):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[金銀細工師]。1916925日(?)、トルトゼン(Thordsen)等90名で青野原に移された。大戦終結後の19209月、結婚のためにツィッタウ市役所に書類を提出した【松尾「「ドイツ牧舎」(徳島板東)指導者クラウスニッツァーの生涯」99頁】。ツィッタウ出身。(1607:福岡→青野原)
869) Thies(ティース),Bruno:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのシングル(ハンディ付き)Aクラス2位になった【『バラッケ』第2巻、211頁】。ブレーマーハーフェン出身。(2098:丸亀→板東)
870) Thies(ティース),Heinrich]:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[上海ドイツ郵便局]。85日の夜10時半に友人のギムボルン(Gimborn)と一緒に青島に向けて上海を出発した。86日朝7時南京着、87日朝6時に青島に到着した。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのダブルス(ハンディ付き)で、アルプスTと組んでAクラス2位になった【『バラッケ』第2巻、211頁】。また同年625日、収容所内「タパタオ」の市長選挙が行われ、決戦投票の結果ティースの22票に対して、ハークが44票を獲得して新市長に選出された。ブレーメン地区のユンツェン出身。(2096:丸亀→板東)
871) Thilo(ティーロ),Friedrich]:第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。[山林局長代理]。妻エルナ(Erna)は大戦終結まで上海で暮らした。ホルシュタイン出身。(4079:大阪→似島)
872) Thomsen(トムゼン),Oswald:第3海兵大隊参謀本部・予備陸軍少尉。静岡時代の1915413日、俘虜情報局に横浜のオットー・ライマース商会のヴェルナー・ライマースより、トムゼン訪問の願い書が提出された【『欧受大日記』(大正十一年一月綴り)より】。ハンブルク出身。(1791:静岡→習志野)
873) Thordsen(トルトゼン),Thomas:海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1916925日(?)、ティーレ(Thiele)等90名で青野原に移された。トルトゼンと同じ部隊で、収容所も一緒であったケルステン(Kersten)の日記には、トルトゼンに言及した部分がある。それによると青野原時代、6羽のチャボと1羽の雄鶏を飼う許可を得、後にはチャボの代わりに普通の産卵鶏を買う許可も得た。また、神戸の「ドイツ・クラブ」での歓迎会に出席するため休暇を得ての神戸行きが、時間的に極めて困難であると、司令官等に粘り強く交渉した。【『小野市史』第6825頁】。妻は子どもと神戸で暮らしていた。神戸から応召したものと思われる。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(1597:福岡→青野原)
874) Thron(トゥローン),Karl:第3海兵大隊工兵大隊・2等工兵。[北ドイツ・ロイド汽船プリンツ・アイテル・フリードリヒ号乗員]。プロイセンのプレッサ(Plessa)出身。(3146:松山→板東)
875) Thurm(トゥルム),Max:第3海兵大隊第6中隊・補充予備兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ザクセン・アルテンブルク出身。(4449:熊本→大分→習志野)
876) Tiefensee(ティーフェンゼー),Dr.Franz]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[独中大学講師・中国語学者]。板東時代、『日刊電報通信』のために中国からのニュースを翻訳した【『バラッケ』第2巻、82頁】。グロス・オッテンハーゲン(Gross-Ottenhagen)出身。(3143:松山→板東)
877) Tiemann(ティーマン),Theodor:海軍野戦砲兵隊・上等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有することから日本国内での居住を希望した。ブレーメン出身。(1793:静岡→習志野)
878) Tiesel(ティーゼル),Kurt:第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1918916日から、つちや足袋合名会社に木綿漂白の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。ゲーラ出身。(784:久留米)
879) Timm(ティム),Johannes]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ハンブルク・アメリカ汽船青島支店]。ハンブルク出身。(3142:松山→板東)
880) Tittel(ティッテル),Hans]:第3海兵大隊第7中隊・副曹長。[上海ドイツ郵便局]。板東時代の1919年、ティッテルは収容所内の印刷所から、『相撲図説 日本の格闘技』を出版した。『丸亀俘虜収容所日誌』によれば、丸亀時代の1915521日、収容所の別院門前広場で相撲興行が行われた。文書からは不明であるが、見物が許されたとなれば、この相撲見物が上記出版のきっかけになったと思われる【この相撲興行は、引退直後の常陸山一行かとも考えられる。常陸山は俘虜慰問のために四国での興行を行った。しかし地元香川新報の上述の日付前後には相撲興行の記事はない、とのことである。前年の19141122日の香川新報には、興行中の太刀山一行中の45名が、収容所前広場で運動中の俘虜の前に姿を見せ、その図体の大きいことに驚いた俘虜達の「俘虜関取に驚嘆す」の記事が掲載されていることを、「丸亀ドイツ兵俘虜研究会」の赤垣洋氏より教示を受けた】。1919813日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、背泳ぎに出場して451秒で2位になった。ブレスラウ出身。(2095:丸亀→板東)
881) Tjardes(チャルデス),Hero:海軍砲兵中隊・2等水兵。1917128日、アンドレーアをシュトラーセンブルク(Strassenburg)等18名で袋叩きにして負傷させ、27日久留米軍事法廷で懲役2月に処せられた。オルデンブルクのイェーファ出身。(3756:熊本→久留米)
882) Tolle(トレ),Constanz:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ウラジオストック・ランゲリューチェ商会]。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ゲッティンゲン出身。(3144:松山→板東)
883) Tolle(トレ),Gustav:第3海兵大隊第2中隊・副曹長。[カルロヴィッツ上海支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(2093:丸亀→板東)
884) Tomaszewski(トマツェフスキー),Wladislaus:海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。板東時代、第42室で洗濯屋を営んだ。ポーゼン出身。(4309:大阪→徳島→板東)
885) Tospann(トスパン),Ernst:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。似島時代、リースフェルト(Liessfeldt)と共同で、朝日新聞及び毎日新聞の記事をドイツ語に訳した。時にクット(Kutt)も参加し、複雑な文章の時はオートマー(Othmer)予備少尉が手助けした【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』177頁】。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。ハーメルン出身。(4080:大阪→似島)
886) Traeder(トレーダー),Fritz:海軍膠州砲兵隊第2中隊・予備1等砲兵。[灯台守]。妻の名はエミーリエ(Emilie)。ポンメルンのベルクラント出身。(4076:大阪→似島)
887) Treuke(トロイケ),Richard]:国民軍・卒。〔イルチス砲台〕。[ヴィンクラー商会Winckler & Co.)青島支店・簿記係]。当時43歳で、日本人妻との間に子供が三人いた。大阪時代、他のドイツ人と折り合いが悪く、マックス・ツィンマーマン(Max Zimmermann;本名はヤン・パホルチックでポーランド人)とともに隔離所に容れられた【『俘虜ニ関スル書類』より】。1916109日、ツィンマーマンとともに大阪から丸亀に移送された。板東時代の19191122日、分置所から復帰したがナイフで自殺未遂を図った。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。ベルリン出身。(4705:大阪→丸亀→板東)
888) Ulbrich(ウルブルヒ),Ernst:海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[電気工]。久留米時代の191810月から、つちや足袋合名会社に織物機械据付及び修繕の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。ヴェストファーレンのグローナウ出身。(1618:福岡→久留米)
889) Ulrich(ウルリヒ),Walter:第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。久留米時代、1918916日からつちや足袋合名会社に、ミシン機械類修繕の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。テューリンゲンのアポルダ出身。(3761:熊本→久留米)
890) Unger(ウンガー),Herbert:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。板東時代、191939日から16日にかけて開催された「懸賞九柱戯大会」で、カール・ベーア(Karl Baehr)及びフェルヒネロフスキー(Felchnerowski)とともに主催者を務めた。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ケムニッツ出身。(4313:大阪→徳島→板東)
891) Uerscheln(ユルシェルン),Matthias:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。エンジニアとして電気会社に勤めていた。兄弟が8人いた。大戦終結して帰国後、バーバラと結婚した。その息子のヘルマン・ユルシェルンの娘で、東京在住のガブリエレ内藤氏によると、祖父のユルシェルンは久留米では絵を描いたり、スポーツをしたりして過ごしたとのことである。サッカーは特に好きで、地元の日本人に教えることもあったとのことである。軍服姿の写真が紹介されている【『ドイツ軍兵士と久留米』150頁】。デュッセルドルフ近郊のコルシェンブロイヒ出身。(792:久留米)
892) Vahldick(ファールディック),Otto:所属部隊・階級不明。[青島警察署巡査]。ブラウンシュヴァイクのヴァルベルク出身。(3154:松山→板東)
893) Valder(ファルダー),Peter:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[カルロヴィッツ青島支店]。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。青島で貿易会社を興し、カルロヴィッツ社の代理店として営業した。ケルン出身。(2120:丸亀→板東)
894) Veidt(ファイト),Richard:軍艦シャルンホルスト(Scharnhorst)乗員・2等焚火兵。第一次大戦が勃発し、シャルンホルストがドイツ東洋艦隊司令官シュペー中将に率いられて太平洋へと出撃した際、病気で総督府衛戍病院に入院していた。シャルンホルストはイギリスとのフォークランド沖海戦で撃沈された。ファイトは俘虜とはなったが海戦での戦死を免れた。メーメル地方のシュメッツ出身。(1798:静岡→習志野)
895) Vennewitz(フェネヴィッツ),Oskar:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代、1919813日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、背泳ぎに出場して534秒で3位になった。デトモルト出身。(2106:丸亀→板東)
896) Vetter(フェッター),Dr.Friedrich1881-1957):第3海兵大隊第2中隊・陸軍中尉。丸亀時代の1916414日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツ将校7名と収容所人員の計17名の集合写真である。フェッター中尉は、前列向かって左端である【アダムツェフスキー(Adamczewski)少尉の項を参照】。1916104日、ランセル(Lancelle)大尉、ラミーン(Ramin)中尉、シュリーカー(Schliecker)中尉、シェーンベルク(Schönberg)少尉、アダムツェフスキー(Adamczewski)少尉、キュールボルン(Kühlborn)少尉とともに丸亀から大分に移送された。ラインプファルツのランダウ出身。(2101:丸亀→大分→習志野)
897) Vetter(フェッター),Kurt:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代、第75室でマインゼン(Meinsen)及びザウアー(Sauer)とともに洗濯屋を営んだ。エルベ河畔のケーニヒシュタイン出身。(2105:丸亀→板東)
898) Violet(ヴィオレ),Frederic]:第3海兵大隊第7中隊・副曹長。[ジーメンス‐シュッケルト大阪支店]。ベルリン出身。(2104:丸亀→板東)
899) Vissering(フィッセリング),Carl E.]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ロイター‐ブレッケルマン(Reuter,Bröckelmann & Co.)上海支店]。リューネブルク出身。(3151:松山→板東)
900) Vockerodt(フォッケロート),Eduard-1974)]:第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備上等砲兵。[アルンホルト‐カルベルク天津支店]。ハンブルク出身。(3771:熊本→久留米→板東)
901) Vogelfänger(フォーゲルフェンガー),Christian1896-1980)]:砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。生家はデュッセルドルフ市内で食料品店を営んでいた。フォーゲルフェンガーは二種類の『日記』を遺した。今日、習志野教育委員会に所蔵されている『日記』は、俘虜収容所及び俘虜に関する郵便資料等の収集研究家であるイェキッシュ氏所蔵のコピーになるものである。一つは東京及び習志野の収容所において手書きで記された。青島での戦闘、両収容所での出来事を日誌風に書き記したものである。1916年の大晦日で一応終わっている。もう一つは、帰国後にタイプ打ちで記された、回想録風のものである。記述の期間は先のものと概ね同じであるが、解放の朝から豊福丸での帰国の模様、デュッセルドルフの自宅に帰り着く場面が追加されている。【『ドイツ兵士の見たニッポン』より】。1916411日の日記には、ハーゲン(Hagen)に誕生祝をしてもらったことが記されている。その折に食べたウサギの肉が、愛犬シュトロルヒ(Strolch)の肉であったかのように(?)フォーゲルフェンガーは日記に記している【『ドイツ兵士の見たニッポン』154頁】。なお、フォーゲルフェンガーの日記には、習志野収容所の吉岡量平軍医のことが、「今までに出会った一番の好人物」(『ドイツ兵士の見たニッポン』155頁)と記されている。また日記の一部が、ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページに掲載されている。デュッセルドルフ出身。(281:東京→習志野)
902) Voget(フォーゲット),Franz:海軍東アジア分遣隊第2中隊・上等歩兵。[パン職人]。ヴェストファーレンのオスターフェルト出身。(1629:福岡→青野原)
903) Vogt(フォークト), Dr.Karl1878-1960)]:海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備陸軍少尉。[弁護士・弁理士]。父親に勧められてベルリン大学で主として日本語と法律を学び、音楽史や対位法も学んだ。1914121日付け「九州日日」新聞の記事によると、シーメンス事件の弁護人を務めたとのことである。フォークト予備少尉は金には不自由せず、金遣いが荒かったとのことである。日本語に堪能であったので、出入りの塩山呉服店に絹の綿入れ寝巻きと布団を注文し、物産陳列場見学の折には、座布団を買い込んだ【『新聞集成 大正編年史』大正三年度版下、787頁及び788頁より】。久留米収容所の音楽活動においてフォークトは、レーマン及びヘルトリングと並ぶ存在であった。久留米市民たちの「共鳴音楽会」はフォークトの指導を受けていた。後半生は神奈川県二宮町に住み、その地に没した。ザーレ河畔のニーンブルク出身。(3772:熊本→久留米)
904) Vollerthun(フォラートゥン),Waldemar1869-1929)]:総督府参謀本部・海軍大佐。〔情報部長〕。[海軍省膠州課長]。大戦終結後の19191228日、フォラートゥン少将(収容中に昇任)を輸送指揮官とする帰還船「喜福丸」は、習志野557名、似島64名、久留米98名、青野原222名の計941名が乗船して神戸第4埠頭から出発し、翌年12日青島に立ち寄って、荷物及びドイツ市民と官吏を収容して、192038日、ヴィルヘルムスハーフェン港に到着した。西プロイセン出身。(1619:福岡→習志野)
905) Wacker(ヴァッカー),Adolf:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[香港・ベーデカー商会(Baedecker & Co.)]。ハンブルク出身。(3168:松山→板東)
906) Wacker(ヴァッカー),Carl:海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備上等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有することから日本国内での居住を希望した。テューリンゲンのルードルシュタット出身。(4460:熊本→大分→習志野)
907) Wagner(ワーグナー),Georg]:第3海兵大隊第2中隊・伍長。109日、俘虜の第一陣として久留米に到着し、下士卒用の収容先である、久留米市日吉町の大谷派久留米教務所に収容された。4班に分けられた内の第2班の班長を務めた。ハノーファー出身。(816:久留米)
908) Wagner(ワーグナー),Jacob]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[メルヒャース漢口支店]。ブレーメン出身。(3166:松山→板東)
909) Walter(ヴァルター),Berthold:第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1916929日、久留米収容所より情報局へ、ヴァルター他1名の処罰について通報があった。ブレスラウ出身。(1687:福岡→久留米)
910) Walter(ヴァルター),Hugo1868-)]:国民軍・卒。191483日の総督府による動員令発布時点では17歳未満であった。いったんは俘虜を免れたが、軍服を着た記念写真が発見され、尋問の結果俘虜と宣告された。母親と弟妹5人がいて扶養の要ありとみなされ、一時自宅居住を許され、1916131日に大阪収容所へ収容された【『戦役俘虜ニ関スル書類』より】。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。ククスハーフェン出身。(4709:大阪→似島)
911) Walther(ヴァルター),Paul:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[ジームセン青島支店]。丸亀時代の191525日、多度津町の商人大島吉平と斉藤佳都の二名が面会に訪れ、日本語で会話を交わし10円を寄贈した【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。ドレスデン近郊のドーナ出身。(2129:丸亀→板東)
912) Waluschewski(ヴァルシェフスキー),Theophil]:海軍砲兵中隊・2等焚火兵。ポーランド人。1916109日、ヘルトレ(Haertle)とともに久留米から丸亀に移送された。板東時代の19181019日、分置所内の争いからヘルトレに対してコッホとともに飲酒の上暴行して、障子を破損し営倉20日の処罰を受けた。ヴァイクセル河畔のクルム(Kulm)出身。(3811:熊本→久留米→丸亀→板東)
913) Walzer(ヴァルツァー),Viktor1872-1956):所属部隊不明・後備伍長。[為替仲介業]。ダルムシュタットの大手化学薬品取扱商社メルク(Merck)に勤務していた。27歳のとき、ロンドンに渡り、その後青島に赴き為替仲介の仕事に就いた。青島では長崎出身の日本女性ウメさんと家庭を持ち、時子と照子の娘二人をもうけた。しかし第一次大戦が勃発して、日独の戦争も始まると一家は離れ離れに引き裂かれた。似島俘虜収容所から解放されたヴァルツァーは、なぜか長崎に住むウメとの接触をしないままドイツ本国に帰国した。帰国後は、リムブルク(Limburg)の姪夫婦の近くに住んだ。姪夫婦の間に生まれた娘ゲルトルート(Gertrud Wetzel1928-)からは“おじいさん”と呼ばれるようになった。1938年、ヴァルツァーと姪夫婦一家はグラーツに引っ越したが、1945年グラーツから追放されると、ヴァルツァーは郷里のメッテンドルフ(Mettendorf)に戻った。1956年頃、メッテンドルフ近郊の村ヴァックスヴァイラー(Waxweiler)で没したが、メッテンドルフのヴァルツァー家の墓地に埋葬された。ヴァルツァーの遺品中には、大阪収容所時代のアルバムがあり、それには本人の写真二枚があることが判明している。【ヴァルツァーの生涯の一端が判明したきっかけは、平成121月に習志野市教育委員会によって開催された「特別史料展 ドイツ兵士の見たNARASHINO」であった。史料展を訪れた三井悠二氏は、ウメさんが後に再婚した人との間に生れた方だった。やがて三井氏は母親ウメさんの先夫が俘虜であったことを思いだし、異父姉の時子さんから「ワルチェル」という名前、及び広島の近くの収容所にいたという話を聞き及んだ。その話をきいた星昌幸氏(習志野市教育委員会)によって上記二点を手がかりに、ヴァルツァーであることが突き止められた。照子さんの娘、すなわちヴァルツァー孫娘に当たる篠田和絵さんの手元には、大阪収容所から差し出された手紙が遺品として遺されていた。また天津の「シュトラオホ商会(Strauch & Co.Ltd.)」からウメさんに宛てた、ヴァルツァーが似島収容所に収容されていることを伝える手紙も遺されている。やがて篠田和絵さん自身のルーツへの強い思いが前記のヴァルツァーの経歴・足跡の判明に至った。判明に至るその過程には、篠田和絵さんの友人石井晴美氏や、星昌幸氏及びドイツの俘虜研究者ハンス=ヨアヒム・シュミット氏の支援と熱意があった。特にシュミット氏の探索によって上記ドイツの縁者が判明した。大戦終結して解放後、ヴァルツァーは何故か単身ドイツに帰国し、二人の子供をもうけたウメとはその後関わりを持たなくなったと思われる。しかしドイツに戻ったヴァルツァーは結婚することなく、子供をもうけることもなかった。参照:星昌幸「ワルチェルさんのこと」(所載:『青島戦ドイツ兵俘虜収容所』研究、青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究会)】。ラインラントのメッテンドルフ出身。(4618:大阪→似島)
914) Wannags(ヴァナクス),Martin]:第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。〔第2歩兵堡塁〕。[宣教師]。丸亀時代の1915117日、准士官以下に対して宗教講和を行った【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。板東時代の1918122日、スペイン風邪で死亡した戦友ゼーガー(Seeger)の葬儀で、感動的で心にしみわたる追悼の言葉を述べた。【『バラッケ』第3巻第10号】。東プロイセンのグルムベルン出身。(2122:丸亀→板東)
915) Wassermann(ヴァッサーマン),Albert:第3海兵大隊第7中隊・副曹長。1915812日、ドレークカンプ(Drögkamp)伍長とともに麺麭製造見学のため、収容所納入業者の丸亀市大西商会に赴いた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。テューリンゲン出身。(2116:丸亀→板東)
916) Wassermann(ヴァッサーマン),Georg:国民軍・副曹長。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ベルリン出身。(4614:大阪→似島)
917) Waetke(ヴェトケ),Wilken:海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備上等兵。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。エルベ河畔のアルトナ出身。(1674:福岡→名古屋)
918) Weber(ヴェーバー),Adolf:第3海兵大隊・後備曹長。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ベルリンのシュパンダウ出身。(4657:大阪→似島)
919) Weber(ヴェーバー),Friedrich:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。徳島時代の1915420日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したヴェーバーは4組(出場者総数21名)の内の第1組に割り振られ、3位で本戦のA級に進出した。バーデン州のリンクス出身。(4319:大阪→徳島→板東)
920) Weber(ヴェーバー),Josef]:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。徳島時代の1915420日、開催されたチェス選手権試合において、4組(出場者総数21名)の内の第1組に出場し、2位で本戦A級に進出した。板東時代、タパタオの5号小屋でシャラー(Schaller)と家具の仕事を営んだ。ヴェストファーレンのレックリングハウゼン出身。(4321:大阪→徳島→板東)
921) Weber(ヴェーバー),Willy:第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[漢口・中国ジャワ輸出商会(China Java Export Co.)]。デュッセルドルフ出身。(3163:松山→板東)
922) Wegener(ヴェーゲナー),Georg]:総督府。[海軍法務官・総督府法務長]。妻ルーツィエ(Lucie)は大戦終結まで、子ども三人と上海で暮らした。カッセル出身。(1636:福岡→習志野)
923) Wegener(ヴェーゲナー),Hermann]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ロイター・ブレッケルマン広東支店]。板東時代の1918421日、F.フリッシュ(Frisch)とクラーゼン(Claasen)と共同で「歌の夕べ」を開催して仲間達に感動を与えた。ヴェーゲナーはメンデルスゾーンの「春の歌」及び「いざ、さらに飲まん」を独唱した。また1918811日、「収容所体操クラブ」の「ヤーン祭」では、熱気に満ちた躍動的な開会宣言の言葉を述べた【『バラッケ』第2巻、87頁及び411頁】。ブレーメン出身。(3169:松山→板東)
924) Wegener(ヴェーゲナー),Joseph:第3海兵大隊機関銃隊・上等兵。久留米時代、191810月から久留米市通町の本村治兵衛工場で、麺麭及び洋菓子製造の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。ヴェストファーレンのポルズム出身。(3802:熊本→久留米)
925) Wegner(ヴェークナー),Ferdinand]:キール第9師団歩兵第85連隊・伍長。『大正三年乃至九年 戦役俘虜ニ関スル書類』に次の記述がある。「大正七年四月十九日奉天ニ於テ飢餓ニ迫リ同地帝国警察官憲ニ保護ヲ願出テタル独逸国下士「フエルヂナンド、ウエーグネル」ト云フ者アリ同人ハ二年以前「リガ」附近ニ於テ露国ノ俘虜ト為リ西伯利ニ収容中再度戦線ニ立ツニ至ル虞アルヲ厭ヒテ脱走シタルモノナルモ途中所持金ニ欠乏シ奉天附属地ナル我警察署ニ願出テタルヲ以ッテ我邦ニ俘虜トシテ収容スルコトトシ関東都督府ヨリ青野原俘虜収容所ニ護送シ来リ同地ニ収容ノ手続キを了シタリ」。【従ってヴェークナーは、日独戦争には直接的な関わりを持たなかった】。ハノーファー出身。(4714:青野原)
926) Weigel(ヴァイゲル),Karl:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。シュレージエンのザガン出身。(2124:丸亀→板東)
927) Weinholz(ヴァインホルツ), Dr.Fritz]:第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。[独亜銀行漢口支店]。板東時代、新板東テニス協会のテニス小屋(収容所脇の借上地にあった)管理人を務めた。オーデル河畔のフランクフルト出身。(2109:丸亀→板東)
928) Weise(ヴァイゼ),Richard:第3海兵大隊第7中隊・伍長。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。ベルリン出身。(2117:丸亀→板東)
929) Weissenborn(ヴァイセンボルン),Hermann]:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとヴァイセンボルンは、コントラバスを受け持った。ザクセンのヴォルビス県ハインローデ出身。(809:久留米)
930) Weitz(ヴァイツ),Franz:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[上海・ガレルス‐ベルナー商会]。リューネブルク出身。(2126:丸亀→板東)
931) Weller(ヴェラー),Adam:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等焚火兵。[電気工]。エルランゲン近郊のヴェラーシュタット出身。(1655:福岡→久留米)
932) Welter(ヴェルター),Hans:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[ロイター‐ブレッケルマン商会上海支店]。ハンブルク出身。(2127:丸亀→板東)
933) Wendler(ヴェントラー),Gustav:海軍膠州砲兵隊第4中隊・予備砲兵伍長。似島時代の19193月、広島物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に当って、アルブレヒト(Albrecht)、ボーテ(Bothe)、ハシュテット(Hastedt)及びクット(Kutt)リースフェルト(Liessfeldt)とともに通訳を務めた。また美術部門の写真では大阪収容所の写真20点を出品した。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(4110:大阪→似島)
934) Wendt(ヴェント),Emil:海軍砲兵中隊・2等焚火兵。1917128日、アンドレーアをチャルデス(Tjardes)等18名で袋叩きにして負傷させ、27日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。シュテッティン出身。(3813:熊本→久留米)
935) Werkmeister(ヴェルクマイスター),Karl]:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。19151021日消印で、東京銀座の十字屋楽器店からのヴェルクマイスター宛に出荷案内書が出された。内容はヴァイオリン、ヴィオラ、バスの弦発送と請求で、2140銭の10パーセント引きになっている【松尾名誉教授より教示を受けた、オットー・レーマン(Otto Lehmann)遺品中より】。プファルツのランダウ出身。(817:久留米)
936) Werner(ヴェルナー),Otto:第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。青島時代の1912928日を初めとして三通の母親宛の葉書、及び松山時代の1916123日付けの母親からの葉書、191696日付けの兄弟からの葉書が遺されている。また、神戸のヤーコプ・クラウス(Jakob Kraus)から板東のヴェルナー宛の葉書も存在している【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。ザールラントのノインキルヒェン出身。(3159:松山→板東)
937) Werner(ヴェルナー),Willy:海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。習志野時代、自分の四阿(あずまや)の前で戦友と立っている写真が現存して、資料に紹介されている【『特別資料展「ドイツ兵の見たNARASHINO ―1915-1920 習志野俘虜収容所」展示品図録』54頁】。フレンスブルク出身。(1667:福岡→習志野)
938) Werner(ヴェルナー),Wilhelm]:海軍東アジア分遣隊・後備副曹長。〔第8a砲台〕。板東時代、グロースマンとともに『日刊電報通信』及び『バラッケ』に戦況等ニュースの記事執筆を担当した【『バラッケ』第2巻、82頁】。ベルリン出身。(4322:大阪→徳島→板東)
939) Wessoly(ヴェッソリー),Rudolf:第3海兵大隊第2中隊・後備上等歩兵。一般送還船出発前に予め日本で解放された。ルクセンブルク出身。(1801:静岡→習志野)
940) Westphal(ヴェストファール),Erich:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。[中国ジーメンス上海支店]。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのダブルスで、エルトニス上級書記官と組んでBクラス2位になった【『バラッケ』第2巻、211頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度のバンドンに渡った。ポンメルン出身。(2114:丸亀→板東)
941) Wex(ヴェックス),Friedrich]:海軍東アジア分遣隊第2中隊・後備伍長。[製薬会社員]。【『俘虜名簿』における俘虜番号は「1880」となっているが、正しくは「1800」である】。ベルリン出身。(1800:静岡→習志野)
942) Wichelhaus(ヴィッヒェルハウス),Hermann]:第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。板東時代、1919813日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、平泳ぎに出場し42秒で1位になった。またメドレーリレーでは、フェルチュ(Färtsch)、シュタインメッツ(Steinmetz)、レーマン(Lehmann;板東にはレーマンが二名いて特定不可)と組んで1位になった。ヴッパータールのエルバーフェルト出身。(3158:松山→板東)
943) Wied(ヴィート),Emil:海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。大阪収容所は1917219日に閉鎖されたが、同年38日時点で大阪衛戍病院に入院していた。ヴェストファーレンのジーゲン出身。(4613:大阪→似島)
944) Wiegand(ヴィーガント),Leopold Otto Amadeus]:国民軍・陸軍中尉。〔動員国民軍指揮官〕。1880年の2歳の時から189912月までフレンスブルクに居住【『俘虜ニ関スル書類』より】。1920123日、他の6名ととも青島に居住するために台北丸で出発した【『小野市史』438頁】。フレンスブルク出身。(2449:姫路→青野原)
945) Wiersbitzki(ヴィルスビツキー),August:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等焚火兵。[電気工]。ボイテン郡オルツェゴウ出身。(1657:福岡→久留米)
946) Wieser(ヴィーザー),Rudolf]:第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。[独亜銀行天津支店]。徳島時代の1915420日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したヴィーザーは4組(出場者総数21名)の内の第4組に割り振られ、1位で本戦のA級に進出した。ニュルンベルク出身。(4323:大阪→徳島→板東)
947) Wiesner(ヴィースナー),Paul:海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。[ハンブルク・アメリカ汽船]。シュレージエン出身。(4320:大阪→徳島→板東)
948) Wiest(ヴィースト),Richard]:海軍砲兵中隊・1等焚火兵。久留米時代の19161217日、青野原のヘルケ(Herke)に絵葉書(久留米名所としての歩兵第56連隊の正門前を写した写真)を出した【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。ベルリン出身。(3809:熊本→久留米)
949) Wieting(ヴィーティング),Ludwig:第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[エードゥアルト・マイアー商会Eduard Meyer & Co.)天津支店]。丸亀収容所時代の所内の様子をまとめて編集したアルバムが、鳴門市ドイツ館に寄贈され、所蔵されている。また、1968年(昭和43年)33日、ドイツ館に1万円を寄付した【中野正司「画像資料から見た板東俘虜収容所の施設と生活」93頁及び西田素康「現代によみがえる板東俘虜収容所」109頁;所載:『地域社会における外来文化の受容とその展開』】。1970年のクリスマスの折り、ヴィーティングは娘と孫に「回想録」を贈った。2003年、鳴門市によるブラウンシュヴァイクでの「『第九』里帰り公演」の折に、ヴィーティングの娘インゲマリー・フォン・ハレンさんから上述の「回想録」の一部がドイツ館に寄贈された。それは「第1次世界大戦―1914年の夏と秋」と「日本 1914年―1920年」の2章である。前章では、青島への応召から堡塁での防禦の様子、直属の上官ショーン(Schon)の人物像が記されている。また、日本軍の攻撃から逃れる際に一人遅れて自陣の地下壕に辿り着き、既に死者として登録されてしまい、そのことが正規ルートでブレーメンの父親の元に通知されたこと、しかしそれが届いたときには、日本で俘虜となって無事であることを知っていたことな度が記述されている。次章では、丸亀収容所での過密状態や、所内「犯罪クラブ」とでもいうものの存在について触れている。丸亀時代は「アルフォンス」というあだ名で呼ばれていたが、あだ名で呼び合うことが一般的であった、と記している。板東時代の記述としては、イエプセン(Jebsen)とデンマーク語の勉強をし、後にブレーメンのコーヒー会社「カフェー・ハーク」のデンマーク語のパンフレットの翻訳をしたことが記されている。なお、ヨハネス・バルト(Johannes Barth)とは、少年の頃からの友人で同窓生であることがこの「回想録」から判明した。ブレーメン出身。(2131:丸亀→板東)
950) Wild(ヴィルト),Gerhard:第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとヴィルトは、フルートを受け持った。ラインラントのヴァイスヴァイラー出身。(808:久留米)
951) Will(ヴィル),Heinrich:海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[鋳型工]。久留米時代、191810月から澤野鉄工場で鋳型の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。エーリングハウゼン出身。(1679:福岡→久留米)
952) Willers(ヴィラース),Fritz:海軍膠州砲兵隊第2中隊・砲兵伍長。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。ヴェストファーレンのミンデン出身。(1642:福岡→名古屋)
953) Willig(ヴィリッヒ),Georg1890-1981):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。義理の娘ロッテ(Lotte Willig)によると、ククスハーフェンで海軍兵士としての訓練を受けた後、19131月に青島に赴いた。1938年以来ヴュルツブルクに住み、ドイツ帝国鉄道(後の連邦鉄道)の機関士として働いた。1972年、ヴュルツブルクでの最後のチンタオ戦友会には、友人にして同じく戦友のプレヒト(Karl Precht)と出席した。戦友との集まりには生涯きちんと出席した。日本の収容所時代を記念するものは、生前中すでに散逸して失われた【メッテンライター『極東で俘虜となる』84-85 】。リムブルク出身。(1670:福岡→名古屋)
954) Wilms(ヴィルムス),Walther:第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。丸亀時代の191684日、ヴェーザー河畔の町(判読不可)175番地のH.Wilms(ヴィルムス)宛てに絵葉書を出した。図柄は、丸亀の将校収容所を写した写真である。写真には門の奥、建物の前に立つ三人の将校(?)と衛兵、衛兵詰め所脇に立つ白い服の巡査(?)、及び塀の脇に置かれた自転車一台が写っている。文面はごく簡単な挨拶状【郵趣家三木充氏の収蔵品より】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡ったが、1922年時点ではすでに故国に帰還していた。プロイセンのゲーステミュンデ出身。(2113:丸亀→板東)
955) Wingert(ヴィンゲルト),Walter:海軍砲兵中隊・2等焚火兵。久留米時代の1917128日、アンドレーアをカロルチャク等18名で袋叩きにして負傷させ、27日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。また、19196月からは日本製粉株式会社久留米支店に、蒸気機関火夫の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。シュテッティン出身。(3814:熊本→久留米)
956) Witt (ヴィット),Ludwig A.:国民軍・階級不明。19191029日、大戦終結後は従来勤めていた上海のH.C.Augusteslenという、デンマークの会社に就職したい旨の手紙をスイス公使に出した。青島就職既定者として日本国内で解放された。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのゾンダーブルク出身。(4616:大阪→似島)
957) Wodarz(ヴォダルツ),Robert:海軍膠州砲兵隊第3中隊・副曹長。大阪収容所は1917219日に閉鎖されたが、同年38日時点で大阪衛戍病院に入院していた。シュレージエン出身。(4656:大阪→似島)
958) Wolf(ヴォルフ),Hermann Ernst Oskar1885-1938):第3海兵大隊第3中隊・予備2等歩兵。ドイツでは化学の勉強をして製薬会社に勤め、1910年ないし1912年頃ウラジオストックへ行き、大戦勃発で応召し青島に赴いた。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。1920年始めにドイツに帰国したが、ドイツの経済事情悪化で就職が難しく、南海丸を日本へ返す仕事に応募して、再び日本に来た。貿易の仕事に従事した後、鋼鉄の勉強をしたのち二枚刃の安全剃刀を製作した。そのブランド名は頭文字からとったH-Wと呼ばれ、カタカナで「ハーヴェー」と書かれていたとのことである。1928年、大阪出身の日本女性「カシマ志を」と結婚した。ヴォルフはヴァイオリンが得意で、久留米オーケストラの指揮や合唱団の指揮をした。二人が出会ったのは、「カシマ志を」の琴演奏リサイタルであったと、娘のハーサ・W.ロジャースさんは語っている。合唱団を指揮する様子や、収容所の建物脇のベンチに本を広げて座るヴォルフの写真がロジャースの元に遺されている。19304月頃、脳卒中で4ヶ月寝たきりになった。剃刀製造会社は閉鎖・倒産のやむなきに至った。193811月二度目の脳卒中に倒れ、二日後に他界した。日本ではほとんどを神戸市の青谷町に住んだ。1966年、妻の「志を」はハーサの住むアメリカへ渡り、1968年11月に癌で他界した【ハーサ・W.ロジャーズ/安達康子訳「父、ヘルマン・エルンスト・オスカー・ヴォルフ」より。所載:『ドイツ軍兵士と久留米』142-144頁】。ハンブルク出身。(824:久留米)
959) Wölk(ヴェルク),Max]:第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。〔湛山堡塁〕。[青島ドイツ郵便局]。東プロイセンのピラウ出身。(3164:松山→板東)
960) Wolkenhauer(ヴォルケンハイマー),Gustav:第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。1918122日、久留米からブレーメンの家族に宛てて、久留米収容所をスケッチした絵葉書を送った【W.イェキッシュ氏所蔵】。アラー(Aller)河畔のヴェルデン出身。(806:久留米)
961) Worms(ヴォルムス),Ernst:海軍野戦砲兵隊・軍曹。板東時代、第7棟の3室で理髪業を営んだ。ザクセンのツァイト出身。(3172:松山→板東)
962) Wössner(ヴェスナー),Albert:第3海兵大隊第5中隊・後備軍曹。[巡査]。妻ベルタ(Berta)は息子(12歳以下)と二人青島に留まった。自分の四阿(あずまや)の前に立つヴェスナーの写真が現存し、資料に紹介されている【『特別資料展「ドイツ兵の見たNARASHINO ―1915-1920 習志野俘虜収容所」展示品図録』87頁】。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。ヴュルテンブルクのロムバッハ出身。(1803:静岡→習志野)
963) Wostmann(ヴォストマン),Hermann]:海軍東アジア分遣隊・後備副曹長。習志野弦楽四重奏団の一員で、第二ヴァイオリンを担当した。他の三人はミリエス(第一ヴァイオリン)、ハルツェンブッシュ(ヴィオラ)及びテーン(チェロ)である。ブランデンブルク出身。(303:東京→習志野)
964) Wulff(ヴルフ),Andreas:第3海兵大隊第4中隊・後備2等歩兵。191912月のクリスマスは、クルーゲ(Kluge)、マル(Marr)及びヘルビヒ(Helbig)の四人で過ごした。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(3789:熊本→久留米)
965) Wunderlich(ヴンダーリヒ),Alexader]:海軍東アジア分遣隊・後備副曹長。[ベンク・ウント・クレッチュマー青島支店]。ノルトライン=ヴェストファーレンのイーゼルローン出身。(3175:松山→板東)
966) Zabel(ツァーベル),Adolf:海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ブレーメン出身。(1696:福岡→青野原)
967) Zimmer(ツィンマー),Karl]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。〔湛山堡塁〕。[ディーデリヒセン上海支店]。ツェルフェルト(Zerfeld)出身。(3180:松山→板東)
968) Zimmermann(ツィンマーマン),Heinrich:第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。送還船の豊福丸船内で発行された新聞『帰国航』の最終号に、次の詩を寄せて幾分切ない雰囲気を漂わせた。「我らの誇れる旗が降ろされるまで、己が持ち場で耐え抜いた我々を、運命はいまや東へ西へと散り散りにする」【メッテンライター『極東で俘虜となる』77頁】。バーデンのネッカルゲミュント出身。(2765:名古屋)
969) Zimmermann(ツィンマーマン),Julius:海軍砲兵中隊・2等信号兵曹。[商船船長]。習志野時代、クリューガー(K.Krüger)と同室だった。小柄でずんぐり太っていた。クリューガーによると、両手をいつもポケットに入れて歩き、人をからかうのが好きだった。ニーダーザクセンのオスト‐グローセフェーン(Ost-Grossefehn)出身。(312:東京→習志野)
970) Zimmermann(ツィンマーマン),Max]:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。本名はヤン・パホルチック(Jan Pacholczyk)というポーランド人。1916109日、トロイケ(Treuke)とともに大阪から丸亀に移送された。後に板東で宣誓解放された。ドレスデン近郊のグリンメンハウゼン出身。(4116:大阪→丸亀→板東)
971) Zimmermann(ツィンマーマン),Peter:海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。久留米時代、1918916日から日本足袋株式会社に、綿織物の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。メンヒェングラートバハ出身。(1701:福岡→久留米)
972) Zöffel(ツェッフェル),Werner:海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。久留米時代、1918916日から日本足袋株式会社に、木綿織物の労役で出向いた。労働時間18時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。ザクセンのクリミチャウ(Crimmitschau)出身。(1699:福岡→久留米)
973) Zoepke(ツェプケ),Gustav1872-):海軍1等書記官。[独中大学事務局長]。妻ミンナ(Minna)はこども二人と大戦終結まで上海で暮らした。キール出身。(852:久留米)
974) Zug(ツーク),Kurt:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[天津・テルゲ‐シュレーダー商会]。ライプチヒ出身。(3179:松山→板東)
975) Zulliani(ツリアーニ),Pietro:巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等水兵。1916109日、デスコヴィック(Descovvick)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなく宣誓解放された。イストリアのグラード出身。(2455:姫路→青野原→丸亀→板東)