独軍俘虜概要 (A〜I)
 
通し番号) 姓(フリガナ) 名前等 (生没年):所属部隊・階級 〔日独戦争での任務・守備位置〕[前職] 事績・足跡等 (俘虜番号・収容所)
 
1) Abelein(アーベライン),Georg:海軍歩兵第3大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代、山越の収容所講習会でフランス語の講師を務めた。【冨田『板東俘虜収容所 −日独戦争と在日ドイツ俘虜』235頁より】板東では劇場委員会に属した。(2766:松山→板東)
2) Ackenhausen(アッケンハウゼン),Wilhelm:国民軍・軍曹。[巡査]。妻と娘は大戦終結まで上海で暮らした。(4469:大阪→似島)
3) Ackermann(アッカーマン),Eduard:国民軍・上等兵。[植字工]。妻は大戦終結まで上海で暮らした。(2135:姫路→青野原)
4) Adamzek(アダムツェク),Franz:オーストリア=ハンガリー帝国2等巡洋艦カイゼリン・エリーザベト(Kaiserin Elisabeth)乗員・2等水兵。久留米時代は演劇活動で、ハウプトマン作の喜劇『同僚クランプトン』に出演した。【津村「久留米俘虜収容所における演劇活動(1)」37-43頁より。以下、久留米の演劇活動に関する事項は、同論文に依拠するものである】。(3193:熊本→久留米→習志野)
5) Adler(アードラー),August:海軍歩兵第3大隊第7中隊・上等歩兵。[建築家]。板東時代、191838日から19日にかけて公会堂で開催された工芸品展に、ジュレ(Syre)と共同で縮尺25分の1の橋を制作・出品した。【『ディ・バラッケ』第1335頁より】また、グリル(Grill)によって製作・印刷された収容所紙幣の原型を作った。(1818:丸亀→板東)
6) Agethen(アゲーテン),Heinrich-1919):海軍東亜分遣隊第1中隊・上等歩兵。191921日、スペイン風邪により習志野で死亡。(1:東京→習志野)
7) Ahl(アール),Heinrich:海軍歩兵第3大隊第5中隊・上等歩兵。923日、流亭で俘虜となり久留米収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された。1915102日、ルント(Lund)、ジン(Sinn)、ツェルナー(Zoellner)の4名で脱走したが3名は同日捕まり、ジンも5日に捕まった。(323:久留米)
8) Ahlers(アーラース),Leonhard:海軍歩兵第3大隊参謀本部先任参謀・退役陸軍大尉。[クルップ鉄鋼会社北京支社長]。(2457:名古屋)
9) Ahrens(アーレンス),Heinrich:海軍歩兵第3大隊第7中隊・上等歩兵。[建設業]。板東時代の1919831日、収容所の北外れに落成した「ドイツ兵墓碑」の施工を担当した。大戦終結後は青島に戻り建設会社を再興した。(1815:丸亀→板東)
10) Albers(アルバース),Carl:海軍歩兵第3大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代、ゴルトシュミット(Goldschmidt)とともに収容所健康保険組合の幹事役を務めた。19189月には、同上保険組合の第7中隊代表理事に選ばれた。(1817:丸亀→板東)
11) Albrecht(アルブレヒト),Fritz:海軍歩兵第3大隊第7中隊・予備伍長。板東時代、収容所通訳の高木繁大尉事務室の書記を務め、面会人がある時は高木大尉とともに立ち会った。(1814:丸亀→板東)
12) Alinge(アーリンゲ),Kurt:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。久留米時代は演劇活動で、クライスト作の喜劇『壊れ甕』等8演目に出演した。(3181:熊本→久留米)
13) Anders(アンデルス),Ernst:海軍歩兵第3大隊参謀本部・陸軍歩兵少佐。〔外方陣地部隊右翼陣地指揮官〕。日独戦争では独軍の主力部隊であるアンデルス支隊を率いて、日本軍の前線部隊と激しい戦闘を繰り広げた。1119日、久留米から青島の堀内文次郎少将に宛てて、青島での配慮に対する感謝の言葉とともに、久留米収容所での厳しい監視・管理に耐えなければならないことを記した書簡を送った。文面最後の発信地としては、久留米の「海兵第3大隊本部にて」と記されている。【堀内『青島攻囲陣中記』155頁】久留米収容所の俘虜代表を務めた。19151115日に起こった真崎甚三郎所長によるベーゼ(Boese)、フローリアン(Florian)両中尉殴打事件では、俘虜の虐待を禁じたハーグ条約を根拠に真崎所長の行為に激しく抗議し、米国大使館員の派遣を要求した。会談にはスクリーバ(Scriba)予備少尉とフォークト(Vogt)予備少尉が、日本の事情通として同席した。191723日、俘虜将校を代表して情報局へ信書の発送を願い出た。支給される俸給と自己貯蓄の取り崩しでは、特に中尉、少尉の生活に困窮を来たしてきたためであった。本国からの補填を申請するため、青島陥落前に上海に逃れたクルーゼン青島高等判事に信書を出したいと願い出たが却下された。(316:久留米)
14) Andrea(アンドレーア),Willy:海軍砲兵中隊・2等水兵。久留米時代の1917128日、横領によりカロルチャク(Karolczak)等の18人から袋叩きにあって負傷した。29日横領罪で懲役4月に処せられて、福岡監獄に収監された。なお、18人の内5人が傷害罪で懲役2月、13人が重営倉1月の処罰を受けた。【『久留米俘虜収容所』(久留米市教育委員会)28頁より】(3191:熊本→久留米)
15) Andreas(アンドレーアス),Wilhelm:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代、大林寺の収容所講習会で日本語の講師を務めた。(2771:松山→板東)
16) Angerstein(アンゲルシュタイン),Max:国民軍・後備伍長。[数学教師]。妻と二人の子は大戦終結まで上海で暮らした。(2775:松山→板東)
17) Anteschwitz(アンテシュヴィッツ),Theodor:所属部隊不明・伍長。[巡査]。妻は大戦終結まで青島に留まった。(4623:大阪→似島)
18) Apitz(アーピッツ),Emil:海軍第1水兵団第9中隊測量船第3号・1等測量手。1019日、東カロリン群島のトラック島で俘虜となり、久留米収容所に送られた。【『欧受大日記』(大正411月上)より】(324:久留米)
19) Arps(アルプス),Ernst:海軍歩兵第3大隊第6中隊・予備伍長。〔湛山堡塁(第1歩兵堡塁)〕。[天津ドイツ中学校教師]。松山時代、公会堂の日曜講演会で「ピン・シアン」と題して二度講演した。板東時代は、板東テニス協会の記録係を務めた。(2767:松山→板東)
20) Arps(アルプス),Wilhelm:海軍歩兵第3大隊第6中隊・後備伍長。板東時代、板東ホッケー協会のコート係を務めた。【二人のアルプスを区別するために、前者はアルプスT、後者はアルプスUと通称された】(2768:松山→板東)
21) Artelt(アルテルト),Max:海軍膠州派遣砲兵大隊・海軍大主計(大尉相当)。〔総督府参謀本部〕。当時44歳。青島からの俘虜輸送船大通丸乗っ取りを計画したが断念した。大阪収容所時代の191594日、調達した和服を纏って人力車で大阪駅に向かい、電車で神戸に行き旅館で一泊、翌5日下関から釜山行きの連絡船に乗船する際に逮捕され、禁固4ヶ月の処罰を受けた。後に再び、エステラー(Esterer)、モーラヴェク(Morawek)及びシャウムブルク(Schaumburg)と共謀して脱走を企て頓挫し、彼を除く三人は1ヶ月の処罰を受けた。更に似島収容所に移ってからもこの4人は脱走を企てが、露見・逮捕され、アルテルトとエステラーは3年、モーラヴェックとシャウムブルクは2年半の刑を受けた。日独講和を受けての特赦で釈放された1920115日まで、広島の吉島刑務所に服役した。ドイツの資料で彼は「脱走王」の異名を付けられた。(3832:大阪→似島)
22) Aspeck(アスペック),Rupert:カイゼリン・エリーザベト乗員・伍長。久留米時代は収容所の音楽活動で、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、弦楽四重奏曲等でヴァイオリンを弾いた。【『久留米俘虜収容所 1914192044頁等より】習志野時代の1919330日と41日の収容所楽団第4回コンサートでは、モーツァルトの「魔笛」等を指揮し、また同年105日、マルフケ(Marufke)のために開催された「謝恩の夕べ」では、二部構成の第一部でドヴォルザークの「ユモレスク」等をピアノ演奏した。(3192:熊本→久留米→習志野)
23) Baacke(バーケ),Wilhelm:海軍東亜分遣隊第1中隊・陸軍歩兵中尉。102日夜から3日未明の台東鎮北方海泊河橋附近での戦闘では、戦死した第1中隊長ヘルツベルク大尉に代わり先任小隊長として中隊の指揮を執った。一時期、チェンチャー(Tschentscher)中尉がその指揮官を務めた。(9:東京→習志野)
24) Bachstein(バッハシュタイン),Albert:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・予備1等砲兵。久留米の演劇活動では、カーン作の1幕物『ダイナミック』等11演目に出演した。(887:福岡→久留米)
25) Bahr(バール),Alwin:海軍膠州派遣砲兵大隊第4中隊・1等機械砲兵補。徳島時代の191610月、ベーマー(Boehmer)、フィッシャー(P.Fischer)、グレックナー(Glöckner)、ヘフト(Hoeft)、ライポルト(Leipold)、マイエ(Maye)の7名で、徳島市の円藤鉄工所に鋳造等の労役で派遣された。18時間、賃金・期間は不明。(4123:大阪→徳島→板東)
26) Bahr(バール),August:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・2等水兵。久留米時代は演劇活動で、ハウプトマン作の『御者ヘンシェル』等5演目に出演した。(896:福岡→久留米)
27) Baehr(ベーア),Karl:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。[商社員]。ウラジオストックの商社クンスト・ウント・アルバース(Kunst & Albers)に勤めていた時に、応召して青島に来た。板東時代の191712月、『ディ・バラッケ』募集の懸賞作文に「グスタフ叔父」で一等賞を受賞して、賞金5円を獲得した。また板東俘虜収容所詩画集『鉄条網の中の四年半』(4½Jahre hinterm Stacheldraht)の短詩を書き、『第6中隊の過去の影絵もしくは不滅なる鉄条網病患者のひらめき』という演劇シナリオも書いた。(2793:松山→板東)
28) Baierle(バイエルレ),J.Maria:カイゼリン・エリーザベト乗員・海軍中尉。〔第15砲台指揮官〕。第15砲台はカイゼリン・エリーザベトの陸揚砲によるもので、偽装充分と思われた。しかし1031日、陸正面から日本軍の猛烈な砲撃を受け、砲員5名が死亡し、バイエルレも重傷を負った。(4481:大阪→似島)
29) Baist(バイスト),Heinrich:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代、191838日から19日にかけて公会堂で開催された絵画・工芸品展の水彩画風景部門に、「冬」(二等賞)、「老木」、「森の神社」、「コスモス」(三等賞)等を出品した。(2792:松山→板東)
30) Barghoorn(バルクホールン),Adolf:海軍歩兵第3大隊第6中隊・予備副曹長。板東時代、徳島演劇グループを結成し、1917710日シラー作の戯曲『群盗』を上演した。1919年には、カイスナー(Keyssner)、ラーン(Laan)、ルードルフ(Rudolf)及びジーモンス(Simons)と共に、日本語文献からの翻訳『国民年中行事』(Das Jahr im Erleben des Volkes)の出版に関わった。(2790:松山→板東)
31) Barth(バールト),Johannes1891-1981):海軍歩兵第3大隊第7中隊・2等歩兵。〔湛山堡塁〕。[商社員]。19126月、ベルリンに本社を置く貿易商社アルンホルト・カルベルク商会Arnhold,Kalberg und Co.)の広東支店に応募して採用され、813日広東に着任した。珠川の中州の沙面島(英仏共同の租界)ではオスカール・マイ(May)と中国人街を好んで散策した。2年間の広東暮らしの後、大戦の勃発により19148月初め青島に向かい、7日到着した。板東時代、収容所病院の一室でA.ヴェルナー(Werner)と同室で過ごした。大戦が終結して19201月、歯科医師前田氏の紹介で神戸の内外貿易に勤めた。ブレーメンに一時帰郷の後東京で貿易商となり、千代夫人と結婚する。1941年、商用のためシベリア鉄道でドイツへ向かう途中独ソ戦が勃発して一時捕虜となるが、釈放されてドイツに帰還した。しかし日本には戻れず4年間家族と離れ、映画会社に勤務した。1945年特殊任務を帯びて、日独間を往復していた潜水艦イ29号でシンガポールに到着、軍用機で日本に戻った。終戦後アメリカ進駐軍により財産没収、ドイツへ強制帰国させられた。5年後再び日本に戻り、以後終生鎌倉に住んだ。『鎌倉時代の歴史と文化』、『日本演劇の歴史』等及び『青島日記』(Tsingtau Tagebuch)、『極東のドイツ人商人』(Als deutscher Kaufmann in Fernost.OAG Tokyo)の著書がある。ドイツ東洋文化研究協会(OAG)の副会長を務めた。(1851:丸亀→板東)
32) Baerwald(ベーアヴァルト),Ernst:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。祖国からの送金や義捐金等による200でピアノを購入して、神戸からドイツに送らせた。(2802:松山→板東)
33) Bauch(バオホ),Johann-1919):海軍膠州派遣砲兵大隊・2等砲兵。1919211日、スペイン風邪により習志野で死亡。(914:福岡→習志野)
34) Bauer(バウアー),Josef-1919):海軍歩兵第3大隊第6中隊・補充後備兵。1919117日久留米で死亡。(3212:熊本→久留米)
35) Bauer(バウアー),Wilhelm Otto-1915):海軍歩兵第3大隊第6中隊・予備2等歩兵。1915123日青島で死亡、青島欧人墓地に埋葬された。(4663:なし)
36) Baum(バウム),Wilhelm:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。928日、浮山山中で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。【なお、浮山は四つの峰からなる連山でその最高峰が「浮山」と称され、そのドイツ名はプリンツ・ハインリヒ山(標高330m)である】(357:久留米)
37) Baumgarten(バウムガルテン),Kurt:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・2等砲兵。板東時代、収容所内の商店街区タパタオで魚料理の店を営んだ。近くの市場から魚を仕入れ、新鮮な鯉料理等を出した。(4131:大阪→徳島→板東)
38) Bäumle(ボイムレ),Eugen:海軍東亜分遣隊第2中隊・2等歩兵。久留米時代は演劇活動で、ハウプトマン作の『御者ヘンシェル』他1演目に出演した。(945:福岡→久留米)
39) Becher(ベッヒャー),Albert:所属部隊不明・2等歩兵。[巡査]。板東時代、公会堂での絵画と工芸品展覧会に「男達の顔」を出品して好評を得た。妻と二人の子は大戦終結まで上海で暮らした。(2816:松山→板東)
40) Becker(ベッカー),Hermann-1919):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。1919126日、スペイン風邪により習志野で死亡。(34:東京→習志野)
41) Beckers(ベッカース),Leonhard:海軍歩兵第3大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代、スポーツクラブではレスリングをした。(2786:松山→板東)
42) Beermann(ベールマン),Laurentius:海軍東亜分遣隊第3中隊・2等歩兵。習志野時代の1919812日、習志野演劇協会によるベネディクス作の喜劇『親戚の情愛』及び同年105日、マルフケ(Marufke)のために開催された「謝恩の夕べ」で、二部構成の第二部の演劇でハラーシュタイン作の1幕物茶番劇『射撃手と空クジ』の舞台背景を制作した。(1710:静岡→習志野)
43) Behaghel(ベハーゲル),Fritz:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・2等砲兵。習志野時代の1919105日、マルフケのために開催された「謝恩の夕べ」では、二部構成の第二部の演劇でハラーシュタイン作の1幕物茶番劇『射撃手と空クジ』の助手を務めた。【人名表記が『俘虜名簿』と異なっているのは、在ドイツの俘虜研究家ハンス=ヨアヒム・シュミット(Hans-Joachim Schmidt)氏の指摘による】(889:福岡→習志野)
44) Behrens(ベーレンス),August-1915):海軍膠州派遣砲兵大隊・1等水雷砲兵。191517日青島で死亡、青島欧人墓地に埋葬された。(4662:青島)
45) Behrens(ベーレンス),Eduard:測量艦プラーネット(Planet660トン)乗員・1等機関兵曹。19141019日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが111日、ブライトハルト(Breithard)、エーバーライン(Eberlein)、ガウエルケ(Gauerke)、ハルトヴィヒ(Hartwig)、ハッセ(Hasse)、リールシュ(Liersch)、ライエケ(Reieke)及びショルツ(Schortz)の8名とともに宣誓解放された。【大正410月調『俘虜名簿』より】(4666:なし)
46) Belling(ベリング),Carl:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・2等砲兵。久留米時代は演劇活動で、ラウフス作の茶番劇『ペンション・シェラー』に女役で出演した。(890:福岡→久留米)
47) Below(ベーロウ),Hans:海軍東亜分遣隊第1中隊・予備陸軍少尉。919日、柳樹台(別荘地で療養所も在った)で日本軍と激戦を交わした際の独軍指揮官。独軍の陣容は、上記1中隊下士卒14名、海軍歩兵第3大隊第5中隊の将校フリース少尉以下19名、同大隊第4中隊の下士卒5名の計39名であった。19151225日の習志野収容所でのクリスマスコンサートでは、シューベルトの「ロザムンデ間奏曲」をクーロー(Kuhlo)中佐のピアノに合わせてチェロ演奏し、またメンデルスゾーンの「ピアノ三重奏曲第一番」からのアレグロとアンダンテをクーロー中佐のピアノとヴォストマン(Wostmann)軍楽兵曹のヴァイオリンと一緒にチェロ演奏した。(10:東京→習志野)
48) Bergemann(ベルゲマン),Richard:海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊・海軍中尉。1934年、ハンブルクの東亜協会発行の『東亜評論』(Ostasiatische Rundschau)に、大阪、似島の両収容所で一緒だったオートマー(Othmer)のことを、「日本で俘虜となったオートマー博士について」(Mit Dr.Othmer in japanischer Kriegsgefangenschaft)と題して寄稿した。(3839:大阪→似島)
49) Bergwein(ベルクヴァイン),Wilhelm:海軍膠州派遣砲兵大隊・上等掌砲兵曹。〔イルチス(Iltis)山上部砲台指揮官〕。(902:福岡→習志野)
50) Berliner(ベルリーナー),Dr. Siegfried1884-1961):海軍歩兵第3大隊第7中隊・予備副曹長。[東京帝国大学法科大学教師]。1884215日ハノーファーに生まれた。1902年ハノーファーの実科学校を卒業し、同年から1906年までライプチヒ大学およびゲッチンゲン大学で数学、経済学、物理学を学んだ。1905年ゲッチンゲン大学から経済学博士の学位を授与された。1906年にプロシア高等教員試験に合格した後、翌年まで兵役に就き、除隊後アメリカを旅行した。帰国後ライプチヒの公立商業学校で教務事務の仕事に就いた。1908年ライプチヒ大学講師、1909年ライプチヒ高等商業学校で保険数学、統計学および商業経営学の講義を担当した。19134月に東京帝国大学法科大学教師として来日したが、第1次大戦勃発により19148月応召して青島に赴いた。1914108日、山川健次郎東京帝国大学総長から俘虜情報局に、ベルリーナー安否の問い合わせが文書で寄せられた。丸亀収容所時代の1915125日、夫人より東京収容所への収容所替えの申請が俘虜情報局に出されたが不許可となった。板東時代、郡役所で郡長以下の職員及び小・中学校長に講演、徳島商工会議所では「大戦と世界経済の展望」と題して講演を行った。1917523日、「株式会社の資金調達」という題目で講演を開始する。192321日から3ヶ年契約で東京帝国大学に再雇用された。1925年帰国して、38年までライプチヒのドイツ=ロイド生命保険会社に重役として勤めた。また1927年からはライプチヒ商業大学教授を兼任した。1938年アメリカに亡命し、翌1939年にはワシントン特別区のハワード大学教授となり、シカゴなどの保険会社の重役も兼務した。1952年に名誉教授となり、1961年にオレゴン州で没した。著書に『日本の輸入貿易の組織と経営』(Organisation und Betrieb des japanischen Importhandels,Hannover,1920)等がある。【『欧受大日記』、『来日西洋人名事典』、松尾『来日したザクセン関係者』等より】(1841:丸亀→板東)
51) Berndt(ベルント),Alfons-1919):海軍膠州派遣砲兵大隊第4中隊・2等砲兵。1919131日、スペイン風邪により習志野で死亡。(876:福岡→大分→習志野)
52) Berndt(ベルント),Emil:海軍歩兵第3大隊工兵中隊・陸軍工兵大尉。〔参謀本部幕僚・工兵将校〕。(956:福岡→習志野)
53) Bernhardi(ベルンハルディ),Friedrich von18491930):海軍東亜分遣隊・陸軍少尉。習志野時代の1919105日、マルフケ(Marufke)のために開催された「謝恩の夕べ」では、二部構成の第二部の演劇でハラーシュタイン作の1幕物茶番劇『射撃手と空クジ』の舞台監督を務めた。(932:福岡→習志野)
54) Beutner(ボイトナー),Erwin:海軍膠州派遣砲兵大隊・海軍少尉。〔第3砲台指揮官〕。(4119:大阪→徳島→板東)
55) Bieber(ビーバー),Arthur:海軍野戦砲兵隊・予備陸軍少尉。〔第2中間地掃射砲台指揮官〕。191637日、久留米収容所の「謝肉祭コンサート」では指揮者を務めた。19173月、米国シンシナチー市の「ファースト・ナショナルバンク」からジーメンス社の東京支社代表ドレンクハーンを通じて小切手1110ドルが送金され、日本貨幣に換算されて、217647銭が渡された。【『久留米俘虜収容所』29頁】演劇活動としては、ハウプトマン作の喜劇『ビーバーの毛皮』等19演目の演出を担当し、また21演目に出演するなど、久留米の演劇活動では最も活躍した一人である。(3215:熊本→久留米)
56) Biedermann(ビーダーマン),Paul:海軍歩兵第3大隊第1中隊・予備2等歩兵。久留米時代は演劇活動で、レスラー及びレラー作の喜劇『クラブチェアーに座って』に出演した。(355:久留米→板東)
57) Bieger(ビーガー),Albert:海軍歩兵第3大隊第1中隊・上等歩兵。久留米時代は演劇活動で、1幕物『インディアン達』の演出をするとともに、6演目に女役で出演した。宣誓解放された。(333:久留米→青野原)
58) Bier(ビーア),Eduard:海軍歩兵第3大隊第3中隊・陸軍歩兵少尉。926日から27日にかけての一大決戦では、小隊を率いて李村高地に陣を敷いた。(326:久留米)
59) Blaschke(ブラシュケ),Friedrich:海軍歩兵第3大隊工兵中隊・伍長。板東時代、無料水泳教室の教官を務めた。また「我らがチンタオ」(Unser Tsingtau)の詩を書いた。(2804:松山→板東)
60) Bleistein(ブライシュタイン),Georg:海軍歩兵第3大隊第4中隊・予備上等歩兵。久留米時代は演劇活動で、トランディース作の笑劇『彼は夢遊病』他1演目に出演した。宣誓解放された。(3204:熊本→久留米)
61) Bleyhoeffer(ブライヘッファー),Bruno:海軍歩兵第3大隊参謀本部・退役陸軍大尉。〔幕僚砲兵部長〕。[北京中国学堂教官]。日独戦争前、中国軍部隊で教官を勤めていた。(2466:名古屋)
62) Blomberg(ブロムベルク),Wilhelm:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。松山の展覧会での最初の受賞者であり、板東時代には公会堂での絵画と工芸品の展覧会でも、水彩画部門に「雪」を出品して一等賞を受賞した。ブロムベルクが描いた「10枚の収容所スケッチ」の内8枚が現存して、鳴門市ドイツ館に展示されている。(2795:松山→板東)
63) Blume(ブルーメ),Heinrich:港湾局・上等機関兵曹。[機関士]。松山時代、大林寺の収容所講習会で英語の講師を務めた。板東時代の19189月、「板東健康保険組合」代表理事に選ばれた。(2811:松山→板東)
64) Boberg(ボーベルク),Kurt:海軍歩兵第3大隊第3中隊・予備2等歩兵。久留米の演劇活動では、リンダウ作『もう一人の男』の演出を担当するとともに、23演目に出演した。(368:久留米)
65) Bobers(ボーバース),Wilhelm W.v.:海軍歩兵第3大隊第3中隊・予備陸軍少尉。久留米収容所の音楽活動では、ワーグナーの「ローエングリーン」等に出演し、特に191787日の「リヒャルト・ワーグナーの夕べ」では、「ニーベルングの指輪」の中の歌曲独唱で活躍した。演劇活動では、ガイベル作の喜劇『アンドレーア親方』等3演目に出演した(327:久留米)
66) Böcher(ベッヒャー),Karl-1919):海軍歩兵第3大隊第4中隊・上等歩兵。191927日、スペイン風邪により習志野で死亡。(3201:熊本→久留米→習志野)
67) Bodecker(ボーデカー),Karl von:砲艦ティーガー(Tiger)艦長・海軍少佐。後に砲艦ヤーグアルがマティアース(Matthias)大尉の指揮の下青島に到着すると、その艦長になった。(4484:大阪→似島→習志野) 
68) Boehmer(ベーマー),Alwin:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・予備1等機関兵補。徳島時代の191610月、バール、フィッシャー、グレックナー、ヘフト、ライポルト、マイエの7名で徳島市の円藤鉄工所に鋳造等の労役で派遣された。18時間、賃金・期間は不明。(4130:大阪→徳島→板東)
69) Böhmer(ベーマー),Wilhelm-1919):海軍東亜分遣隊第3中隊・後備2等歩兵。クラウス(Kraus)と喧嘩事件を起こした。191922日、スペイン風邪により習志野で死亡。(28:東京→習志野)
70) Bohner(ボーナー),Dr.Hermann1884-1963):海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。[宣教師]。アフリカ黄金海岸アボコビ(現ガーナ)に生まれた。父親は当地の福音教会牧師を勤めていた。シュパイエルのギムナジウム時代、〈ワンダーフォーゲル〉の指導者カール・フィッシャー(Fischer)のあとについてシュヴァルツヴァルト、エールツゲビルゲ等の山歩きをした。テュービンゲン大学で神学と哲学(1903-07)、シュトラースブルク大学でヘブライ学を学び(1911)1914年にエルランゲン大学で哲学博士の学位取得後4月、「統合福音派海外伝道教会」(AEPM)の派遣教師として青島に赴き、長年密かに尊敬していたリヒャルト・ヴィルヘルムの下で教育活動に入った。大戦勃発とともに応召し、上記第6中隊に配属された。戦闘中、「青島最初の砲撃」や「歩哨」と題する詩を作った。やがて先輩牧師W. ゾイフェルト(Seufert)と共に俘虜として日本に送られた。板東時代、収容所印刷所から『絵画についての対話』を出した。191861日、板東収容所においてベートーヴェンの「第九交響曲」が日本国内で初演された際に、「ベートーヴェン、シラー、ゲーテ 第九交響曲に添えて」の講演を行った。また「ドイツの歴史と芸術」の連続講義を33回に亘って行うなど多種多彩な数多くの講演を行った。大戦終結後青島に戻り、ヴィルヘルムの精神を継承して活動した後に再び日本に戻って、大阪外国語学校講師(1922-1951)、教授(1951-1963.6.24)を歴任した。『神皇正統記』、『聖徳太子』、『能作書』等数多くの著作を残した。ヴィルヘルム夫人ザロメの妹ハンナ・ブルームハルト(1883-1971)と結婚し終生日本に住んだ。弟二人も来日し、ゴットロープは高知高等学校、アルフレートは松山高等学校のドイツ語教師を勤めた。1963624日永眠した。神戸再度山の墓地には教え子達が建てた墓碑がある。(2794:松山→板東)
71) Bomsdorf(ボムスドルフ),Johann:海軍歩兵第3大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代、収容所義勇消防団の第1小隊長を務めた。(2799:松山→板東)
72) Boncour(ボンクール),Peter:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。松山収容所時代、フランス大使館から健康状態についての問い合わせがあった。ロートリンゲン出身でフランス名はピエール。ヴェルサイユ講和条約後、宣誓解放された。(2784:松山→板東→習志野)
73) Borcke(ボルケ),Otto von:海軍歩兵第3大隊第3中隊・陸軍歩兵中尉。夫人は一時期東京の帝国ホテルに居住した。(325:久留米)
74) Boese(ベーゼ),Robert:海軍歩兵第3大隊重野戦榴弾砲兵隊長・予備陸軍中尉。[ホテル経営者]。927日午前6時、ヴァルダーゼー(Waldersee)高地北西の口子で、モッデ(Modde)予備少尉とともに日本軍への砲撃を開始する。久留米時代、19151115日の大正天皇即位大典の祝いに、俘虜一人につきビール一本とりんご2個が配布された。しかしベーゼはフローリアン(Florian)中尉とともに日独両国が交戦中であることを理由に拒否すると、激怒した真崎甚三郎所長から殴打された。このことは後に大問題となった。(3218:熊本→久留米)
75) Boesler(ベスラー),Ernst-1916):海軍歩兵第3大隊第2中隊・後備陸軍歩兵少尉。928日、浮山近くの巫山で日本軍に包囲され、退却を求めて協議を申し出るが武装解除され俘虜となる。グラーボウ(Grabow)中尉等の一隊を含めてこの日下士以下60名が俘虜となった。パウリー(Pauly)軍曹は11人の兵とともに逃れた。その折り俘虜を尋問したのは山田耕三大尉であった。109日、日本への護送可能なグラーボウ中尉等55名とともに俘虜第一陣として門司に到着し、久留米収容所に送られた。【『日獨戰史』402頁等より】1916418日、肺結核兼肋膜炎により久留米で死亡、軍人墓地に埋葬された。(356:久留米)
76) Boethke(ベトケ),Paul:総督府参謀本部幕僚・海軍中佐。〔要塞砲兵部長・砲銃庫兼水雷庫長〕。119日以後の青島開城交渉におけるドイツ側の実務委員として、地雷等の危険物除去に関わった。1120日、すでに日本に渡っていたベトケ夫人から堀内少将宛てに手紙が届いた。それ以前にもすでに数度の通信があった。【『青島攻囲陣中記』144頁等】(858:福岡→習志野)
77) Bötjer(ベーチャ),Otto:海軍膠州派遣砲兵大隊第4中隊・砲兵伍長。解放後、オランダ領バタヴィアに赴いて、その地の警察官になった。ザクサー(Saxer)大佐の署名入り証明書が知られている。(871:福岡→習志野)
78) Boeving(ベーフィング),Richard:海軍歩兵第3大隊第6中隊・予備伍長。板東時代、新板東テニス協会のコート係を務めた。(2791:松山→板東)
79) Brandt(ブラント),Albert:国民軍・卒。19159月下旬に青島収容所に収容され、191610下旬青島から大阪に移送された。(4674:青島→大阪→似島)
80) Brandt(ブラント),Friedrich:海軍歩兵第3大隊参謀本部・1等水兵。板東時代、工芸品展に自動珈琲沸かし機を、またシュルツ(Schulz)と共同で楽器のチェロを制作・出品した。板東ホッケー協会のチームのメンバーだった。(2817:松山→板東)
81) Braun(ブラウン),Fritz:海軍歩兵第3大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代の191855日、「航海生活25年」と題して講演した。(1844:丸亀→板東)
82) Braeuninger(ブロイニンガー),Waldemar1887-):経理局・1等給与掛筆記。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919826日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ヤスペルセン(Jaspersen)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、ハンゼン(Hansen)、イェプセン(Jepsen)、カルステンス(Carstens)、ニールセン(Nielsen)の6名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。(2814:松山→板東)
83) Breithardt(ブライトハルト),Karl:測量艦プラーネット乗員・2等水兵。19141010日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが111日宣誓解放された。(4667:なし)
84) Breternitz(ブレーターニッツ),Robert:海軍歩兵第3大隊工兵中隊・予備陸軍工兵少尉。119日の青島開城交渉ではドイツ側の実務委員として、地雷等の危険物除去に関わった。(3222:熊本→久留米)
85) Brilmayer(ブリルマイアー),Joseph:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・予備海軍少尉。〔第13砲台指揮官〕。似島で死亡(年月日不明)。(3841:大阪→似島)
86) Bringmann(ブリングマン),Wilhelm:海軍歩兵第3大隊副官・陸軍中尉。[高等山林局長]。1118日、局長官舎は日本の青島守備軍旅団司令部に充てられた。(2467:名古屋)
87) Buchenthaler(ブーヘンターラー),Heinz:海軍歩兵第3大隊参謀本部・陸軍大尉。〔給養及び通信将校〕。1916112日、秘密通信を行ったことで処罰を受けた。191911月、ドイツの利益代表を務めるスイス公使に宛てて、オランダ領バタヴィアでの就職に関して斡旋依頼方の信書を出した。(380:久留米)
88) Buchmann(ブーフマン),Wilhelm:海軍膠州派遣砲兵大隊第4中隊・予備1等砲兵。191838日から19日かけて開かれた板東公会堂での絵画と工芸品展覧会で、出品した油絵「海の光景」は最も好評を博し、写真部門の「青島」では一等賞を受賞した。(4124:大阪→徳島→板東)
89) Buehrer(ビューラー),Alfred:海軍歩兵第3大隊第1中隊・予備上等歩兵。19175月、横浜万国宝通銀行から情報局へ、ビューラー宛60円(郵便為替)と信書1通交付の問い合わせがあった。(336:久留米)
90) Bunge(ブンゲ),Karl:国民軍・2等歩兵。板東時代、兄マックス(Max)・ブンゲとともに展覧会で活躍した。(2813:松山→板東)
91) Bunge(ブンゲ),Max1881-1964):海軍歩兵第3大隊第7中隊・曹長。〔第2歩兵堡塁〕。大胆な行動で日本軍の前線を突破して、日本軍陣地を詳細に偵察して報告した。青島陥落前夜部下達に、「我ら進まん祈りに応えて…」の歌を歌うよう励ました。【GottbergDie Helden von Tsingtau108頁】ブンゲ曹長は一兵卒の時代に起こった義和団事件の折りの活躍で、青島のドイツ人社会では知らぬ人のいない人物であった。除隊後も東アジアに留まった。青島のベルリン福音教会教区監督フォスカンプの日記を基にした体験記『包囲された青島から』(《Aus dem belagerten Tsingatu》)にも、しばしばその名が登場する。191838日から19日かけて開催された板東公会堂での絵画と工芸品展覧会において、弟カール(Karl)・ブンゲとともに公会堂を美術ホール風に飾りつけた。自身は油絵「私の両親の家」という、丁寧な作品を出品して三等賞を受賞した。(1842:丸亀→板東)
92) Burhop(ブーアホープ),August:海軍膠州派遣砲兵大隊第4中隊・2等砲兵。19189月、「板東健康保険組合」の第4中隊代表理事に選ばれた。(4126:大阪→徳島→板東)
93) Burmeister(ブーアマイスター),Albert1886-):海軍歩兵第3大隊第5中隊・軍曹。1919823日付けでカルクブレンナー(Kalkbrenner)を代表者として、名古屋俘虜収容所を通じて北海道帝国大学に提出された下記「趣意書」には、次の経歴が記されている。敢えて表記等原文のままにした。「14歳ニシテロイツノ小学校ヲ卒業ス 幼少ヨリ190510月兵役迄農業ニ関スル全テノ実際的方法ノ研究ヲ終エタリ 入隊後ハ乗馬隊於テ養馬ノ方法ヲ実際ト学理トニ就テ修得シ二ヶ年糧秣下士タリキ 耕作、馬畜、家禽飼養ヲ特技トス、乗馬ノ練育ニ就キ特殊ノ技能ヲ有ス」【「獨逸人北海道移住ニ関スル趣意書」より。以下「北海道移住」とのみ記す】(2473:名古屋)
94) Busam(ブーザム),Karl:所属部隊・階級不明。[築港倉庫監督官]。191512日に青島で俘虜となったが、ブーザムは522日、青島収容所を逃亡して上海に逃れ、日本への移送を免れた。【なお191514日、非戦闘員と称した者で予備後備等の軍籍にあった者の一斉大検挙が行われ、92名が新たに俘虜とされた。また、軍に提供した家屋の接収も行われた】(4627:青島)
95) Buschow(ブショーウ),Erwin:海軍歩兵第3大隊第3中隊・伍長。久留米の演劇活動では、レッシング作の喜劇『ミンナ・フォン・バルンヘルム』等の24演目全てに女役で出演した。(359:久留米)
96) Buttersack(ブッターザック),Conrad:海軍歩兵第3大隊第6中隊長・陸軍歩兵中尉。〔歩兵堡塁中間防禦右翼隊指揮官〕。松山時代には、『陣営の火』に都合3回に亘って計50頁に及ぶ、海軍歩兵第3大隊の歴史と活動を紹介した文章を寄稿した。1917615日、板東では「カンネーの戦いについて」の第1回講演を行う。同年921日、「旅順と青島について」の第1回講演を行う。(2777:松山→板東)
97) Büttinghaus(ビュッティングハウス),Karl-1944):海軍膠州派遣砲兵大隊第4中隊・2等砲兵。[食肉加工職人]。大戦終結後、千葉出身の日本女性と結婚した。1925年頃、目黒に東京で最初のソーセージ工場を作り店舗も構えたが、後に神戸に進出した。1944年暮れに死去。1945年の神戸大空襲で店舗は焼失し、戦後再建には至らなかった。(878:福岡→大分→習志野)
98) Büttner(ビュットナー),Hermann:海軍歩兵第3大隊工兵中隊・後備上等工兵。板東時代、公会堂での手工芸品展に蝶の標本採集を出品した。(2807:松山→板東)
99) Carstens(カルステンス),Ernst:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919826日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ヤスペルセン(Jaspersen)、ブロイニンガー(Braeuninger)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、ハンゼン(Hansen)、イェプセン(Jepsen)、ニールセン(Nielsen)の6名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。(2822:松山→板東)
100) Christensen(クリステンセン),Karl:海軍砲兵中隊・1等機関兵曹補。19198月、上海のデンマーク公使宛に送付請求の信書を出し、検閲の上18日に情報局へ転送された。1919628日に締結されたヴェルサイユ講和条約により、ドイツ領からデンマーク領に編入されたアーベンラー(ドイツ語名アーペンラーデ)出身。宣誓解放された。(3255:熊本→久留米)
101) Claasen(クラーゼン),Hermann:海軍歩兵第3大隊第7中隊・後備伍長。板東時代の19189月、「板東健康保険組合」の第7中隊代表理事に選ばれた。また、丸亀蹴球クラブの役員も務めた。1919326日、「室内楽の夕べ」が開かれてシューベルトの五重奏「鱒」が演奏された。その折りクラーゼンはピアノを担当した。編成はガルスター(Galster)海軍中尉のヴァイオリン、デュムラー(Duemmler)海軍大尉のチェロ、クラインシュミット(Kleinschmidt)予備少尉のヴィオラ、クラーゼン伍長のピアノ、ナスート(Nassuth)砲兵伍長のコントラバスであった。(1857:丸亀→板東)
102) Claussnitzer(クラウスニッツァー),Franz1892-1955):海軍歩兵第3大隊第2中隊・上等歩兵。立派なカイゼル髭をたくわえた大男であった。板東時代、俘虜と地元の大工30人で約5ヶ月を要して完成した牧舎の経営に参画した。日本人側の経営者は船本宇太郎と松本清一の二人であった。船本は毎日収容所までクラウスニッツァーを迎えに来た。規則に反することではあるが、天候の悪い時は彼を牧舎に泊めることもあった。船本と一緒に写した写真が残っている。【『「第九の里」ドイツ村』145頁以下】(1855:丸亀→板東)
103) Coordes(コールデス),Hege:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(386:久留米)
104) Cordes(コルデス),Richard:海軍東亜分遣隊・予備陸軍少尉。926日から27日にかけての激戦前、シャウムブルク(Schaumburg)大尉とともに滄口高地で、日本軍が中国人クーリーを使って重砲を据えつける様子を偵察した。習志野時代、習志野劇場によるエルンスト作の喜劇『フラックスマン先生』(上演日付不明)に教育長役で出演した。(968:福岡→習志野)
105) Cordua(コルドゥア),Bruno:海軍歩兵第3大隊・予備陸軍少尉。〔イルチス山下部砲台指揮官〕。(964:福岡→習志野)
106) Coupette(クーペッテ),Karl:総督府・海軍中尉。〔要塞通信兼信号将校〕。117日午前4時、総督の撤去命令を受けてそれまで防備していた信号所を破壊した。全戦闘員の日本送還直前に、日本軍人の略奪行為に関する情報書類を携えて、総督府から日本軍司令部に派遣された。その抗議は日本軍司令部を激怒させ、結局正規の抗議書とはしなという形で決着した。大戦終結してドイツに帰国後、「1914年戦争における青島信号所並びに海岸無線電信設備」の報告書を書いた。(963:福岡→習志野)
107) Cravatzo(クラヴァッツォ),Peter1893-1918):海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。191812日、腸チフスにより板東で死亡。(1856:丸亀→板東)
108) Czogalla(チョガラ),Emil:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。928日、浮山近くの巫山で日本軍に投降し俘虜となり、久留米収容所に送られた。(387:久留米)
109) Dahle(ダーレ),Ernst:海軍歩兵第3大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代、板東テニス協会の会計係を務め、板東ホッケー協会ではチームのメンバーだった。(1870:丸亀→板東)
110) Dahm(ダーム),Hans Wilheln:海軍歩兵第3大隊第6中隊・予備士官候補生。板東時代、板東ホッケー協会の器具係を、板東テニス協会では競技係を務めた。(2825:松山→板東)
111) Daudert(ダオデルト),Arthur:海軍歩兵第3大隊・上等歩兵。大分の遊廓「春日楼」にキュールボルン(Kühlborn)少尉及びナーゲル(Nagel)の三人で登楼し、芸者と夜を過ごした咎で、1918210日禁固30日の処罰を受けた。当時30歳だった。(4344:熊本→大分→習志野)
112) Daniels(ダーニエルス),Kurt:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代、公会堂の日曜講演会で「犯罪補助科学」と題して講演した。(2826:松山→板東)
113) Demartini(デマルティーニ),Peter:カイゼリン・エリーザベト乗員・2等水兵。久留米時代は演劇活動で、『クラブチェアーに座って』に出演した。(3267:熊本→久留米→習志野)
114) Derlien(デルリーン),Charles:海軍膠州派遣砲兵大隊第4中隊・2等砲兵。〔イルチス砲台〕。習志野時代、フリッツ・ルンプ(Rumpf)のスケッチ・絵葉書等を印刷した。1919105日、マルフケのために開催された「謝恩の夕べ」では、二部構成の第二部の演劇でハラーシュタイン作の1幕物茶番劇『射撃手と空クジ』のプログラム印刷を担当した。また同年1130日の帰国前のお別れパーティーで配布したパンフレット「送別会向けビール新聞」(Bierzeitung zur Abschiedsfeier に、マンガ風自画像を載せた。大戦終結後はドイツに帰国せず、オランダ領ジャワの官吏になった。(977:福岡→大分→習志野)
115) Desebrock(デーゼブロック),Hermann:海軍歩兵第3大隊第2中隊・後備伍長。[商社員]。板東時代、191838日から19日の「展覧会」の主催者役を務めた。また9月には「板東健康保険組合」の第2中隊代表理事に選ばれた。板東ホッケー協会のチームのメンバーでもあった。大戦終結後は再び山東省済南に戻り、カルロヴィッツ社(Carlowitz & Co.)の済南駐在代表に復帰した。しかしその時すでに山東省では、ドイツに代わって日本の影響・支配が広がっていて仕事はほとんどなかった。(1859:丸亀→板東)
116) Deutschmann(ドイッチュマン),Adolf:築城部・陸軍工兵少尉。板東時代、スペイン風邪等で死んだ9名のための墓碑、並びに収容所近くの大麻比古神社境内の小川に架けられた「ドイツ橋」の設計をした。(2833:松山→板東)
117) Dieckmann(ディークマン),Dr. Paul:総督府・獣医。大戦終結後は青島居住を希望した。(4343:熊本→大分→習志野)
118) Dietrich(ディートリヒ),Carl:国民軍・卒。1915920日、青島から大阪収容所に移送された。(4675:大阪→似島)
119) Dietrich(ディートリヒ),Ludwig:海軍歩兵第3大隊第3中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、ザレヴスキー(Salewsky)作の笑劇『巨大児』等3演目に出演した。(403:久留米)
120) Dill(ディル),Josef:海軍歩兵第3大隊第1中隊・2等歩兵。1917524日、情報局から各収容所への、製針業に従事していて労役希望者の照会に対して、久留米ではディル他3名を届けた。【『久留米俘虜収容所』30頁より】(388:久留米)
121) Disselhorst(ディッセルホルスト),Rudolf:総督府・1等機関兵曹。習志野時代の1919105日、マルフケのために開催された「謝恩の夕べ」では、二部構成の第二部の演劇でハラーシュタイン作の1幕物茶番劇『射撃手と空クジ』に主役のマルフケが演じる人物の妻の役で、また習志野劇場による「トーマの夕べ」では、トーマ作の1幕喜劇『ロットヒェンの誕生日』に主役のマルフケ演じる大学教授の妻の役で出演した。(998:福岡→大分→習志野)
122) Ditjens(ディートイェンス),Hermann:海軍歩兵第3大隊第2中隊・後備上等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。1915122日、マリー夫人が3歳の子を連れて面会に訪れた。監視・立ち会いには山本茂中尉が当たった。(391:久留米)
123) Dittmann(ディットマン),Ludwig:海軍歩兵第3大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代、「ドイツ兵墓碑」建設に際して石積み工事を担当した。(2832:松山→板東)
124) Dobenecker(ドーベンエッカー),Theodor:海軍東亜分遣隊・陸軍中尉。福岡時代、5名の将校の逃亡事件で調べられ、ケンペ(Kempe)少尉のために上着を盗んだとして3ヶ月の刑に処された。(991:福岡→習志野)
125) Dorn(ドルン),Anton:海軍歩兵第3大隊第2中隊・上等歩兵。腰部貫通銃創及び骨折により、当初は大阪陸軍病院に入院した。(1861:丸亀→板東)
126) Doerr(デル),Christian(-1919):海軍東亜分遣隊第3中隊・2等歩兵。191927日、スペイン風邪により習志野で死亡。(50:東京→習志野)
127) Drachenthal(ドラッヘンタール),Georg P.W.v.:カイゼリン・エリーザベト乗員・海軍少佐。姫路及び青野原収容所の俘虜代表を務めた。1919年になって青野原の代表はドイツ人のゾイフェルト予備副曹長に替わった。(2172:姫路→青野原)
128) Dreyer(ドライアー),Curt:機雷保管庫・海軍水雷大尉。119日の青島開城交渉ではドイツ側の委員を務めた。妻と子は大戦終結まで青島に留まった。(4347:熊本→大分→習志野)
129) Dreyfuss(ドライフース),Arthur:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代、公会堂での収容所講習会でフランス語の講師を務め、板東では収容所内のタパタオに設けられたボーリング場の支配人を務めた。シュトラースブルクの出身であったことから、ヴェルサイユ講和条約締結後に宣誓解放された。フランス名ドレフュス。(2829:松山→板東→習志野)
130) Dücke(デュッケ),Johann-1914):カイゼリン・エリーザベト乗員・操舵水兵。112日ヴァルダーゼー高地で死亡、日本軍によりその地に埋葬された。(4659:なし)
131) Dührkopp(デューアコップ),Ferdinand:海軍歩兵第3大隊第7中隊・2等歩兵。妻と子どもは大戦終結まで済南で暮らした。(1871:丸亀→板東)
132) Dümmler(デュムラー),Richard:海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊長・海軍大尉。〔ビスマルク山砲台指揮官〕。徳島では収容所の俘虜代表を務めた。板東時代、砲兵大隊スポーツ協会の役員を務めた。また1919326日、「室内楽の夕べ」が開かれてシューベルトの五重奏「鱒」が演奏された。その折りデュムラーはチェロを担当した。他は、ガルスター海軍中尉のヴァイオリン、クラインシュミット予備少尉のヴィオラ、クラーゼン伍長のピアノ、ナスート砲兵伍長のコントラバスという編成であった。ドイツに帰国後、日本軍攻城砲の効果についての詳細な記述を残した。【『青島戰史』121頁以下】(4137:大阪→徳島→板東)
133) Dumproff(ドゥムプロフ),Karl:国民軍・階級不明。[巡査]。妻は大戦終結まで上海で暮らした。(4490:大阪→似島)
134) Dunkel(ドゥンケル),Walter-1968):海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代、公会堂の講習会で簿記及び証券の講義を行った。板東時代の191817日、妻(28歳)が面会に訪れた。天津から前日6日に徳島に来ていた。開戦二日前に天津に逃れ、ドイツ政府から支給された月50上海ドルで暮らし、日本にきて居住するための費用を貯めるのに3年半を要した。バルクホールン(Barghoorn)の妻ハンナからしきりに勧められたとのことである。ゲプフェルト(Goepfert)夫人とハンナが借りていた大滝山の寺に旅装を解いた。ユーハイム(Juchheim)夫人とも親しかったといわれる。【『日本人とドイツ人』136-7頁】(2827:松山→板東)
135) Düpper(デュッパー),Matthias:海軍砲兵中隊・1等焚火兵。久留米時代は演劇活動で、ミュラー作の茶番劇『放り出されて』等28演目に主として女役で出演して活躍した。(3265:熊本→久留米)
136) Duerr(デュル),Karl:海軍歩兵第3大隊第3中隊・2等歩兵。926日、李村で俘虜となり久留米収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された。(401:久留米)
137) Eberlein(エーバーライン),Fritz:測量艦プラーネット乗員・1等機関兵曹。1914107日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが111日宣誓解放された。(4668:なし)
138) Ebertz(エーベルツ),Rudolf:海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊・予備砲兵伍長。徳島収容所を脱走して海岸まで行き、鳴門海峡を泳いでとある島にたどり着いた。服を干していたところ、その白い肌に気付いた漁民により通報、逮捕されて収容所に連れ戻された。(4144:大阪→徳島→板東)
139) Eckhardt(エックハルト),Reinhold:糧秣集荷部・後備副曹長。松山時代、大林寺の収容所講習会で英語の講師を務めた。板東時代は公会堂での工芸品展に食肉加工品を出品した。また桧地区の大森重蔵にトマトケチャップの製造法を伝授した。(2842:松山→板東)
140) Eder(エーダー),Paul:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(408:久留米)
141) Ederer(エーデラー),Alois:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代、公会堂の講習会で電気工学を講じた。(2836:松山→板東)
142) Edler(エートラー),Hans E. P.:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。19141220日、ハンブルクの親から東京の海軍省に、息子の生死を問い合わせる手紙が寄せられた。(2839:松山→板東)
143) Eggerss(エッガース),Herbert:海軍歩兵第3大隊予備榴弾砲兵隊・予備伍長。久留米時代は演劇活動で、シェーンタンとガーデルベルク作の喜劇『評議員殿』で女役を演じるなど8演目に出演した。(3279:熊本→久留米)
144) Ehlers(エーラース),Karl:海軍歩兵第3大隊第2中隊・軍曹。板東時代は収容所で、ハイスター(Heister)と共同で風呂屋(シャワー室)を営んだ。(1872:丸亀→板東)
145) Eisenbeiss(アイゼンバイス),Lothar:海軍歩兵第3大隊予備榴弾砲兵隊・予備伍長。久留米時代、191922日の「音楽の夕べ」に出演した。(3280:熊本→久留米)
146) Emmerling(エッマーリング),Peter:海軍歩兵第3大隊第2中隊・伍長。板東時代、工芸品展に真鍮製のシャンデリアを出品して、俘虜仲間に往時の生活を懐かしく偲ばせた。(1873:丸亀→板東)
147) Emoan(エーモアン),Max1887-1915):海軍歩兵第3大隊第4中隊・予備副曹長。1915722日久留米で死亡、軍人墓地に埋葬された。(3268:熊本→久留米)
148) Emunds(エームンツ),Hermann:海軍歩兵第3大隊第1中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、ハウプトマン作の喜劇『同僚クランプトン』等2演目に出演した。(406:久留米)
149) Engel(エンゲル),Paul:海軍歩兵第3大隊第7中隊・2等歩兵。[上海居留地工部局音楽隊員]。ヴァイオリン奏者。隊長はハンス・ミリエス(Millies)であった。19141215日、在上海総領事から外務大臣宛に、上海租界の代表から、指揮者ミリエスとその楽団員であるエンゲル、ガーライス(Gareis)及びプレフェナー(Pröfener)は非戦闘員なので解放せよ、との申し入れがあるとの親書が出されたが、軍籍があることから不許可になった。丸亀時代の1915年に「エンゲル・オーケストラ」を結成した。1917年板東に移された後、松山からの俘虜を加え団員は45人になった。1番札所の霊山寺等で練習し、やがて遍路宿で地元の青年達に楽器のてほどきをした。板東では17回の演奏会、3回のシンフォニー、2回の「ベートーヴェンの夕べ」で指揮を執った。松江豊寿所長の理解もあって徳島市内で出張指導をするようになり、「エンゲル音楽教室」とでも言えるものを開設した。当初場所は公会堂であったが、やがてメンバーの一人であった立木真一の自宅、立木写真家の2階に練習場を移した。エンゲルの帰国に際しては、徳島の一流料亭「越後亭」で何度も送別の宴が開かれた。『青島の戦士』や『シュテッヒャー大尉行進曲』を作曲し、またラムゼーガー(Ramseger)【ラーン(Laan)の項を参照】作曲の『忠臣蔵』の指揮・演奏もするなど、ハンゼン軍楽曹長とともに、板東収容所での音楽活動では多大の功績を果たした。(1880:丸亀→板東)
150) Engelhardt(エンゲルハルト),Paul:海軍歩兵第3大隊第3中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、ヴォッタース作の笑劇『燕尾服のレアンダー』の演出をするとともに女役で出演し、その他含めて37演目に出演する大活躍をした。(410:久留米)
151) Engler(エングラー),Georg:海軍歩兵第3大隊第4中隊・予備副曹長。久留米時代の19178月、ドレスデン市の弁護士から情報局へ、エングラーの祖母死亡による遺産処分の件で、在京スイス公使館から転送方の依頼があり、検閲の上8日に本人へ転送された。(3276:熊本→久留米→名古屋)
152) Ensslin(エンスリン),Carl:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・後備1等機関兵曹。習志野時代の1919524日、習志野合唱協会の「歌曲の夕べ」ではハイメンダール(Heimendahl)少尉、ベヒトルスハイム(Bechtolsheim)大尉【マウヘンハイム(Mauchenheim)大尉の項を参照】及びヴィーダー(Wieder2等歩兵でシュヴァーベン民謡の「選ばれし者」を四重唱し、メンデルスゾーンの「夕べの歌」をベヒトルスハイム大尉と二重唱した。(1003:福岡→習志野)
153) Esterer(エステラー),Maximilian:海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊・予備掌砲副曹長。[技術者]。117日未明、銃火を潜り抜けてビスマルク山頂砲台の自爆を成功させた。アルテルト、モーラヴェク、シャウムブルクの4人で大阪と似島の両収容所から脱走を企て、4人は1ヶ月から3年の刑を受けた。エステラーは大阪時代、脱走を企てないとの誓約書への署名を拒否して、手紙の送信・受領、所内の散歩及び所外への遠足等禁止の制約を受けていた。妻と6人の子は大戦終結まで上海で暮らした。(3886:大阪→似島)
154) Euchler(オイヒラー),Otto:海軍歩兵第3大隊第6中隊・予備副曹長。板東時代の191712月、懸賞作文募集に「晩秋」で二等賞を受賞し、賞金3円を獲得した。1918621日には、「農地改革 社会的困窮からの解放のための考え方」と題して講演し、板東収容所印刷所から『社会問題についての三つの講演』を出版した。191927日には、「柔道、日本の格闘技」の写真展を開いた。(2841:松山→板東)
155) Eulner(オイルナー),Ludwig:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。板東では「ドイツ兵墓碑」の建設にあたって石積み工事を担当した。また工芸品展ではオルロープ(Orlob)及びルートヴィヒ(Ludwig)と共同で、ドイツ軍が西部戦線で捕獲した戦車の模造品を製作・出品した。(1875:丸亀→板東)
156) Evers(エーファース),Hans:国民軍・卒。1915920日、青島から大阪収容所に移送された。(4676:大阪→似島)
157) Fabel(ファーベル),Karl1887-):海軍歩兵第3大隊第5中隊・1等蹄鉄工長。117日の降伏申し入れの際は、軍使カイザー(Kayser)少佐の旗手として白旗を掲げて先導した。松山時代、山越の講習会では会場を大林寺に移して蹄鉄の講習を行った。「本職ハ馬蹄鉄匠及車輌匠多年同職に従事ス1907年ニ乗馬隊ニ入リ1910年春鍛冶工ニ命セラレ1910年ヨリ1911年迄ハノーヴェルノ陸軍蹄鉄学舎ニ入学ス、後ベルリン陸軍蹄鉄学校ノ六ヶ月実地講習ノ蹄鉄試験ニ合格シ青島ニテ蹄鉄工長タリ 鍛冶、獣医薬、馬畜及農用諸機械修繕ヲ特技トス」【「北海道移住」より】(2848:松山→板東)
158) Fabianek(ファビアネク),Rudolf:海軍歩兵第3大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代、松山スポーツクラブの役員を務めた。(2847:松山→板東)
159) Falkenhagen(ファルケンハーゲン),Ernst:海軍膠州派遣砲兵大隊・海軍中尉。〔イルチス山下部砲台指揮官〕。習志野時代、191935日に開催された「朗読の夕べ」で、ベヒトルスハイム(Bechtolsheim)大尉とハイメンダール(Heimendahl)少尉によるメンデルスゾーンの歌曲の二重唱でピアノの伴奏をした。(1016:福岡→習志野)
160) Falkenhayn(ファルケンハイン),Georg:砲兵部隊・海軍火工大尉。フランツ(Franz)砲兵監督と共同で原寸大の帆船、小船を制作して、公会堂の屋外の庭に展示した。(4150:大阪→徳島→板東)
161) Fammels(ファンメルス),Gerhard:海軍歩兵第3大隊第4中隊・2等歩兵。出身地のオイペン(Eupen)がベルギー領になったために、1920828日に解放された。【今日でも同地区の住民の大多数はドイツ系で、ドイツ語を母語としている】(425:久留米→板東)
162) Faul(ファウル),Ernst:築城部・要塞構築曹長。板東時代の1917715日、「要塞の歴史的発展について」の第1回講演を行う。(3066:松山→板東)
163) Felchnerowski(フェルヒネロフスキー),Clemens:海軍歩兵第3大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、レスリング及びボクシングのためのスポーツクラブ協会「青年の力」の理事長を務めた。収容所内印刷所から出された活動記録に「板東における我等がスポーツ・運動」(Unser Turnen in Bando)の記事も書いた。自身はレスリングをして負傷したことがある。また劇場委員会にも属した。(1882:丸亀→板東)
164) Feuerbach(フォイエルバッハ),Karl:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代、公会堂の講習会で簿記等の講師を務めた。板東時代、松山スポーツクラブの役員をつとめた。(2853:松山→板東)
165) Fiederling(フィーダーリング),Friedrich:海軍歩兵第3大隊工兵中隊・後備伍長。松山時代、山越での収容所講習会でロシア語の講師を務めた。板東では公会堂での工芸品展に砂車小屋を制作・出品して注目を集めた。(2864:松山→板東)
166) Findorff(フィンドルフ),Ernst:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代、公会堂の収容所講習会で英語及び簿記等の講師を務めた。(2851:松山→板東)
167) Fink(フィンク),Walter:海軍歩兵第3大隊機関銃隊・2等歩兵。久留米時代の1917216日、神経衰弱で入院していた衛戍病院から抜け出して捕まった。(3310:熊本→久留米)
168) Fischer(フィッシャー),Andreas:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代、収容所内タパタオで石鹸等を売る店を出した。(2858:松山→板東)
169) Fischer(フィッシャー),Bruno:海軍歩兵第3大隊工兵中隊・予備副曹長。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。久留米の演劇活動では、イプセン作の『国民の敵』等3演目に出演した。(428:久留米)
170) Fischer(フィッシャー),Erich:海軍歩兵第3大隊第4中隊・予備伍長。久留米時代の19199月、フィッシャーから横浜アメリカ総領事宛に、大戦終結後のアメリカ渡航に関する信書が出され、検閲の上情報局へ転送された。(3288:熊本→久留米)
171) Fischer(フィッシャー),Johann:海軍歩兵第3大隊第4中隊・後備兵。久留米時代は演劇活動で、トロイホルツ作の笑劇『ベルリンっ子』等5演目に出演した。(3300:熊本→久留米)
172) Fischer(フィッシャー),Karl1881-1941):海軍歩兵第3大隊・予備副曹長。[東亜ロイド新聞Ostasiatischer Lloyd)]。321日にベルリン郊外のシュテークリッツに生まれた。1897年始め、当時16歳のギムナジウムの生徒だったカール・フィッシャーは、ベルリン大学学生ヘルマン・ホフマンが主催する速記術のサークルに入り、同時にそのサークルが行っていたベルリン郊外の遠足に参加した。その年の6月、外交官となったホフマンの推挙でフィッシャーは遠足のグループ「シュテノグラフィア」の議長に選ばれた。1901年、そのグループは会員のヴォルフ・マイエンの提案で「ワンダーフォーゲル」(Wandervogel)と名づけられた。以後カール・フィッシャーの指導の下でワンダーフォーゲルは拡大の一途を辿った。しかし独裁的な運営からグループ内に反フィッシャー派を生んだ。1904年にグループは二つに割れ、フィッシャーは「古ワンダーフォーゲル」を結成した。19067月、フィッシャーは「ワンダーフォーゲル」運動から身を引き、同年10月海軍歩兵第3大隊に志願した。1年間の兵役に就いた後には、ハレ大学等で習得した中国語を活かして中国に留まる意図であった。1年後には当初の予定通り上海で新聞社に勤務したが、日独戦争勃発により応召して青島に赴いた。松山時代、公会堂で行われたシュトルツェ=シュライム方式の速記術講習会の講師役を務めた。板東時代、『バラッケ』に「191932930日のスポーツと娯楽の夕べ」の記事を寄せている(巻数、年月日は不明)。また競歩大会では、敢えて年配組ではない組に出場して、85名中の58位でゴールインした。【山田『俘虜生活とスポーツ』48頁より】大戦終結後の1920年帰国したが最早「ワンダーフォーゲル」における地位も無く、寂しい晩年を過ごした。1941613日、生地シュテークリッツで没した。(2862:松山→板東)
173) Fischer(フィッシャー),Michael:海軍歩兵第3大隊第1中隊・2等歩兵。デコパージュ(切り貼り絵)の飾り器を残した。飾り器は半球体(直径215センチ、高さ85センチ)で、内側に当時の外国たばこの箱から切り取った赤や銀色のマークがびっしり張られ、底部には女性の姿が描かれている。納めた木箱にはドイツ語と日本語で「製作者 独逸ライン州ウォーリンゲン 海軍歩兵卒ミッヘル・フィッシャー 俘虜当時久留(米)制作」と書かれている。【「西日本新聞夕刊」(平成12522日付)より】(415:久留米)
174) Fischer(フィッシャー),Paul:海軍砲兵中隊・2等焚火兵。久留米時代は演劇活動で、ザレヴスキー(Salewsky)の創作劇『シュタイリヒと息子』等6演目に、主として女役で出演した。(3317:熊本→久留米)
175) Fischer(フィッシャー),Paul:海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代の191610月、バール、ベーマー、グレックナー、ヘフト、ライポルト、マイエの7名で、徳島市の円藤鉄工所に鋳造等の労役で派遣された。1日約8時間、賃金・期間は不明。(4147:大阪→徳島→板東)
176) Fischer(フィッシャー),Richard:海軍歩兵第3大隊機関銃隊・伍長。「14歳にてダウビッツの小学校を卒業し、190910月の兵役迄父の農業に従事し農業の実際方面に精通す、入隊後乗馬隊に在りて養馬の方法を実際的及び学理的に修得せり、耕地牧草、牧場及び水道工事を特技とす」【「北海道移住」より】(2525:名古屋)
177) Fischinger(フィッシンガー),Adolf:海軍歩兵第3大隊第7中隊・伍長。松山時代、日本語を少し話したので仲間達の代理でクリスマス・ツリー等の購入役を務めた。(2860:松山→板東)
178) Flögel(フレーゲル),Wilhelm K.F.1887-1918):海軍砲兵中隊・1等機関兵曹。191885日名古屋へ移送されたが、1123日に死亡、軍人墓地に埋葬された。(3313:熊本→久留米→名古屋)
179) Florian(フローリアン),Paul:海軍東亜分遣隊第2中隊・陸軍中尉。久留米時代、19161115日の大正天皇即位大典の祝いに、俘虜一人につきビール一本とりんご2個が配布された。しかしフローリアンはベーゼ(Boese)中尉とともに日独両国が交戦中であることを理由に拒否すると、激怒した真崎甚三郎所長に殴打された。このことは後に大問題に発展した。(3311:熊本→久留米)
180) Fock(フォック),Peter:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代、公会堂の収容所講習会で4回に亘って英語の講師を務めた。(2854:松山→板東→名古屋)
181) Focken(フォッケン),Charly-1919):海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。1919129日、スペイン風邪により習志野で死亡。(4351:熊本→大分→習志野)
182) Foerck(フェルク),Theodor:海軍歩兵第3大隊第2中隊・後備上等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(416:久留米)
183) Franz(フランツ),Friedrich:兵監及び兵站部・砲兵監督。板東時代、ファルケンハイン大尉と共同で原寸大の帆船、小船を制作して、公会堂の屋外の庭に展示した。(2868:松山→板東)
184) Franz(フランツ),Oskar:海軍歩兵第3大隊第7中隊・上等歩兵。19181228日付けの板東収容所記録によると、東京市入谷町の大橋製釦会社に染色技師として招聘されるために習志野収容所に移送決定との文書が残っている。当時37歳だった。1919922,板東に再び移された。(1884:丸亀→板東→習志野→板東)
185) Franz(フランツ),Otto:海軍膠州派遣砲兵大隊第2中隊・2等砲兵。右大腿部榴散弾弾子盲銃創により、大阪陸軍病院に入院した。(4631:大阪→似島)
186) Freese(フレーゼ),Wilhelm:海軍歩兵第3大隊第6中隊・予備伍長。板東時代、松山スポーツ協会の役員を務めた。(2849:松山→板東)
187) Freisewinkel(フライゼヴィンケル),Karl:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代、公会堂の講習会で製図の講師を務めた。板東時代、公会堂での絵画と工芸品展覧会に、「大麻神社の並木道」と題するペン画を、また玩具コーナーには城・木の兵隊・ノアの箱舟を出品した。(2856:松山→板東)
188) Freundlieb(フロイントリープ),Heinrich:海軍歩兵第3大隊第6中隊・補充予備2等歩兵。[パン職人]。大戦終結後、愛知県半田町の「敷島製パン」に技師長として招聘された。後に神戸北野に自分の店を開いた。(2520:名古屋)
189) Freyenhagen(フライエンハーゲン),Johann:海軍膠州派遣砲兵大隊第1中隊・1等機関兵曹。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919826日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ヤスペルセン(Jaspersen)、ブロイニンガー(Braeuninger)、ハンゼン(Hansen)、イェプセン(Jepsen)、カルステンス(Carstens)、ニールセン(Nielsen)の6名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。(2866:松山→板東)
190) Friedrichsen(フリードリヒゼン),Jacob:海軍砲兵中隊・後備2等掌砲兵曹。1916111日、習志野で脱走未遂事件を起こした。(70:東京→習志野)
191) Frieling(フリーリング),Heinrich:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(417:久留米)
192) Frings(フリングス),Leopold:海軍膠州派遣砲兵大隊第1中隊・1等焚火兵。プリューショウ中尉付き下士卒で、83日飛行機の翼の再組み立てに従事した。(3889:大阪→似島)
193) Frisch(フリッシュ),Franz:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代の191861日、軍楽曹長ハンゼン(Hansen)によって、ベートーヴェンの「第九交響曲」が板東収容所内で本邦初演された。その折り、フリッシュ、ヴェーゲナー(Wegener2等歩兵、シュテッパン(Steppan2等歩兵、コッホ(Koch)伍長の四人は第4楽章の「合唱」でソロを受け持った。(2852:松山→板東)
194) Fritsche(フリッチェ),Julius:国民軍・砲兵軍曹長。妻と娘二人は大戦終結まで上海で暮らした。(4501:大阪→似島)
195) Fritzsche(フリッチェ),Arthur:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・予備伍長。習志野時代、東京京橋の「カフェ・パウリスタ」に洋菓子の指導に出かけた。(1022:福岡→習志野)
196) Fröbel(フレーベル),Karl:海軍歩兵第3大隊第4中隊・2等歩兵。久留米時代は収容所の音楽活動で、「山のあなた」の詩で知られる詩人カール・ブッセの「二つの喜び」等の詩に作曲したり、自ら歌曲を歌ったりもした。(3295:熊本→久留米)
197) Froehlich(フレーリヒ),Karl:海軍歩兵第3大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代、工芸品展に自動噴水の仕掛けによる見事な仕上がりの水槽を製作・出品し、収容所賞第2位に輝いて賞金5円を獲得した。(2865:松山→板東)
198) Froehlich(フレーリヒ),Oskar:カイゼリン・エリーザベト乗員・海軍中尉。日本軍による包囲後、歩兵堡塁中間地区の左翼側でクーネンフェルス(Kuhnenfels)中尉とともに、カイゼリン・エリーザベト乗員の揚陸部隊指揮に当たった。(2179:姫路→青野原)
199) Fydrich(フィードリヒ),Karl:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・砲兵軍曹長。〔第8a砲台指揮官〕。(4149:大阪→徳島→板東)
200) Gabel(ガーベル),Heinrich:海軍歩兵第3大隊第7中隊・上等歩兵。[菓子職人]。板東時代、収容所内の製菓・製パン所(ゲー・バー)の製菓の中心的役割を果たした。また、製菓・製パンを市民に伝授した。教えを受けた一人藤田只之助(後、徳島市の繁華街富田橋北詰にパン屋「ドイツ軒」を、紺屋町にはパンと喫茶の「ドイツ軒出張所」を開業した)に対する、松江所長が証明した修業証明書が今日残っている。(1895:丸亀→板東)
201) Gabriel(ガブリエル),Leo:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。[商社員]。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。妻と二人の子は大戦終結まで青島に留まった。(444:久留米)
202) Gadebusch(ガーデブッシュ),Richard:海軍歩兵第3大隊第1中隊・予備伍長。久留米の演劇活動では、シュニッツラー作『アナトール』の一部分からの脚色になる『アナトールの婚礼の朝』等3演目の演出を担当し、また21演目に出演した。(430:久留米)
203) Galster(ガルスター),Max:海軍砲兵中隊・海軍中尉。久留米時代、ベートーヴェンやメンデルスゾーンのピアノ演奏等の音楽活動で活躍した。板東時代の1919326日、「室内楽の夕べ」が開かれてシューベルトの五重奏「鱒」が演奏された。その折りガルスターはヴァイオリンを担当した。他は、デュムラー海軍大尉のチェロ、クラインシュミット予備少尉のヴィオラ、クラーゼン伍長のピアノ、ナスート砲兵伍長のコントラバスという編成であった。(3343:熊本→久留米→板東)
204) Gareis(ガーライス),Max:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。[上海居留地工部音楽隊員]。19141215日、在上海総領事から外務大臣宛に、上海租界の代表から、指揮者ミリエスとその楽団員であるエンゲル、ガーライス及びプレフェナーは非戦闘員なので解放せよとの申し入れがあったが、軍籍があることから不許可になった。(2874:松山→板東)
205) Gauerke(ガウエルケ),Gustav:測量艦プラーネット乗員・2等兵曹。19141010日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが111日宣誓解放された。(4669:なし)
206) Gaul(ガウル),Karl:海軍歩兵第3大隊・陸軍歩兵中尉。926日の決戦では、機関銃隊、野戦砲兵隊を率いて滄口高原に布陣した。元来は歩兵第35連隊附歩兵中尉。ドイツ陸軍大学卒で、参謀本部附となり日本に留学した。奈良第53連隊附きの時に日独国交断絶となり、日本の情勢偵察のため大阪、奈良、神戸を転々として青島に赴き青島ドイツ軍に加わった。福寿丸で19141115日門司港に着いた。奈良連隊見学時の連隊長岡澤慶三郎大佐【茨城県出身。陸士11期、陸大12期卒。大正3911日少将に昇進、77月中将となった。『陸海軍将官人事総覧』陸軍篇、芙蓉書房、89頁】は少将に昇進して、熊本第11連隊長となり再会を楽しみにしている、との談話が新聞に掲載された。久留米時代、シャルロッテ(Charlotte)夫人(当時27歳)は国分村刈原に住んだ。191885日コップ(Kopp)中尉、マイアーマン(Meyermann)中尉等とともに板東に移送された。(3323:熊本→久留米→板東)
207) Gebhardt(ゲープハルト),Otto:海軍歩兵第3大隊第1中隊・2等歩兵。久留米収容所では歌曲を作曲し、演奏でも活躍した。また演劇活動では、シェーンヘル作の悲劇『信仰と故郷』に出演した。(438:久留米)
208) Geldmacher(ゲルトマッハー),Wilhelm:海軍歩兵第3大隊第1中隊・上等歩兵。久留米の演劇活動では、リンダウ作の『もう一人の男』に出演した。宣誓解放された。(432:久留米)
209) Gendarme(ジャンダルム),Julius:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・2等砲兵。フランス大使館を通して、フランス語の新聞購読希望申請が出された。191512月、宣誓解放された。(1064:福岡→久留米)
210) Georg(ゲーオルク),Isolap:砲艦ヤーグアル(Jaguar)乗員・2等水兵。東カロリン群島のポナペ島原住民。労働者としてポナペ島から青島の造船所に送られた。日独戦争勃発とともに砲艦ヤーグアルに乗り組んだが最終的に俘虜となった。【『ドイツ兵士の見たNARASHINO91頁より】(85:東京→習志野)
211) Georgi(ゲオルギ),Paul1892-1918):海軍歩兵第3大隊機関銃隊・上等兵。19181126日名古屋で死亡、軍人墓地に埋葬された。(2542:名古屋)
212) Geschke(ゲシュケ),Hans:海軍歩兵第3大隊第7中隊・2等歩兵。[商人]。板東時代、収容所内のタパタオで写真屋を営んだ。(1901:丸亀→板東)
213) Glasmacher(グラースマッハー),Hans-1919):海軍歩兵第3大隊第4中隊・2等砲兵。191924日、スペイン風邪により習志野で死亡。(1059:福岡→大分→習志野)
214) Gleixner(グライクスナー),Ludwig:海軍膠州派遣砲兵大隊第4中隊・2等砲兵。1976415日にウーレンフート(Uhlenhuth)に手紙を送っている。(1060:福岡→大分→習志野)
215) Glöckner(グレックナー),Adolf:海軍膠州派遣砲兵大隊第1中隊・後備砲兵軍曹長。徳島時代の191610月、バール、ベーマー、フィッシャー、ヘフト、ライポルト、マイエ、の7名で徳島市の円藤鉄工所にダライバン(=旋盤)の労役で派遣された。1日約8時間、賃金・期間は不明。(4165:大阪→徳島→板東)
216) Göbel(ゲーベル),Carl:海軍歩兵第3大隊第5中隊・軍曹。「14歳にしてヘルスドルフの小学校を卒業し190710月の兵役まで父の農業を補助し農業の実際方面を修得す、農職に特別の趣味を有するを以て入隊後乗馬隊に入り養馬の方法を実際的及学理的に修得す、14歳より17歳迄ヘルスドルフの工業補修学校に通学せり耕作を以て特技とす」【「北海道移住」より】(2538:名古屋)
217) Göbel(ゲーベル),Heinrich:海軍歩兵第3大隊第3中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、シュニッツラー作『アナトール』の一部分を脚色した『別れの晩餐』等2演目に出演した。(446:久留米)
218) Goebel(ゲーベル),Otto:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・1等砲兵。板東時代、板東町萩原の黒田庫之助の家できゅうりの西洋式漬物(ピクルス)の方法を伝授した。また、隣町坂西の尾崎秋太郎にもピクルス及びトマトの栽培法を伝授した。ほぼ毎日通い、やがて婚礼にも招かれて軍服の正装で出席した。(4162:大阪→徳島→板東)
219) Gödecke(ゲーデッケ),Hermann:海軍砲兵中隊・海軍中尉。〔青島市要塞火工長〕。(3905:大阪→似島)
220) Goldschmidt(ゴルトシュミット),Richard:海軍歩兵第3大隊第5中隊・予備副曹長。松山時代の191512月、所持金検査で預金額5000円の松山市52銀行の通帳所持が判明した。故国の親から6000円の送金を受け、内1000円は既に使い果たしていた。マルティーン(Martin)中尉及びゾルガー(Solger)予備少尉とともに『陣営の火』の編集に当たった。板東では『バラッケ』編集部員となるが後に退任した。「板東保険組合」の幹事役をアルバース(Albers)と共に務め、19189月には新たに第5中隊代表理事に選ばれた。1919628日には、イプセン作『社会の柱石』上演に際しては演出を担当した。(2871:松山→板東)
221) Goll(ゴル),Hermann-1915):海軍歩兵第3大隊第1中隊・曹長。[巡査]。191597日大阪衛戍病院(鎮台病院)で急性盲腸炎により死亡した。所属将校1名と友人1名の立会いの下に解剖され確認された。99日、大阪の新教教会で牧師の司式のもとに葬儀が執り行われた。大阪の俘虜27名が参列する中、真田山陸軍墓地に土葬された。当時29歳だった。墓碑に刻まれていた「俘虜」の二文字は、理由及び年月日は不明であるが、今日削り取られている【この項は次のインターネット情報による:http://www.jttk.zaq.ne.jp/bacas400/sanaboti/kisotishiki/deutsch.htm】。(4509:大阪)
222) Gomille(ゴミレ),Paul1889-1918):海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。1918129日、スペイン風邪により板東で死亡。(1890:丸亀→板東)
223) Gomolka(ゴモルカ),Theofill-1916):カイゼリン・エリーザベト乗員・2等水兵。1916617日青野原で死亡、姫路軍人墓地に埋葬された。(2204:姫路→青野原)
224) Goepfert(ゲプフェルト),Arthur:海軍歩兵第3大隊工兵中隊・予備陸軍少尉。松山時代は來迎寺の将校収容所に収容された。夫人は日独戦争の1年余前から東京市麻布区新竜土町に住んでいた。191512日、夫人は5歳になる娘を連れて面会に訪れた。板東では鶏、豚を飼育し、競歩大会、水泳大会に出場した。なお、冷蔵庫を造り、モーターボートまで製作した。「バンドー会」の会員で晩年はミュンヒェンに住んだ。(2880:松山→板東)
225) Grabow(グラーボウ),Hans:海軍野戦砲兵中隊・陸軍中尉。〔山東頭歩哨長〕。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となった。同日俘虜となったのは他にベスラー少尉、下士・兵卒等60名であった。【『日獨戰史』403頁】パオリー軍曹は11名の兵とともに逃れた。その折り俘虜の尋問に当たったのは山田耕三大尉であった。109日、日本への護送可能なベスラー少尉等55名とともに俘虜第一陣として門司に到着し、久留米収容所に送られた。19141111日、梅林寺から日吉町に向かう途中衛兵とトラブルを起こし、重謹慎の処罰を受けた。アンネリーゼ(Anneliese)夫人は国分村刈原にガウル中尉夫人シャルロッテと一緒に住んだ。(456:久留米)
226) Gradinger(グラーディンガー),Friedrich:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。1962年に日本語ローマ字とドイツ語なまりの日本語の混じった手紙を松山に送った。(2875:松山→板東)
227) Gradl(グラードゥル),Franz:海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊・1等砲兵。板東時代、収容所内の「タパタオ」で煙草屋を営んだ。(4155:大阪→徳島→板東)
228) Graf(グラーフ),Jacob:海軍歩兵第3大隊・2等歩兵。久留米時代は演劇活動で、トーマ作の農民笑劇『一等車』等2演目に出演した。(3335:熊本→久留米→板東)
229) Grallert(グララート),Hans-1917):海軍膠州派遣砲兵大隊第1中隊・1等砲兵。1917812日似島で死亡。(4518:大阪→似島)
230) Graenzer(グレンツァー),Walther:海軍野戦砲兵隊・陸軍砲野兵中尉。日独戦争の初期には予備野戦砲兵隊を率いて、シュテッヒャー(Stecher)大尉とともに外方陣地の前線に配置された。戦闘末期には測候所に移された射撃観測所で、卓越した射撃指揮を執った。【『青島戰史』52頁】(2535:名古屋)
231) Graul(グラウル),Karl:海軍歩兵第3大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、工芸品展に銅製の「ワーグナーの顔」を出品して,Cグループの一等賞を受賞した。(4151:大阪→徳島→板東)
232) Gregorczyk(グレーゴルチック),Johann:海軍歩兵第3大隊工兵中隊・伍長。板東時代、無料水泳教室の教官を務めた。(2881:松山→板東)
233) Grevsmühl(グレーフスミュール),Hans1888-):国民軍・予備1等砲兵。[発電所機械技手]。1912年から青島発電所に勤務していた。191514日の一斉捜索で検挙・逮捕され、青島収容所に収容された。同月30日に神尾光臣司令官宛に、軍籍に就いていなかったことを理由に解放するようにとの抗議書を提出した。大阪収容所に送られてからも1915830日に、解放するようにとの抗議書を提出した。(4633:青島→大阪→似島)
234) Griebel(グリーベル),Gottfried:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・海軍中尉。〔第1a砲台指揮官〕。(3894:大阪→似島)
235) Griessmeyer(グリースマイヤー),Albert:総督府・海軍3等経理監督(少佐相当)。大分時代の19177月、その論文《Die seekriegsrechtliche Bedeutung von Flottenstützpunkten》が俘虜情報局によって『海戰法規上ニ於ケル海軍根拠地ノ價値』の題名で翻訳された。習志野時代は、191935日に開催された「朗読の夕べ」でトーマ作の「あるヨーゼフ・フィッシャーの手紙」を朗読し、また同年73日の文化・体育祭では、第4部の演劇で上演の指揮を執った。(4369:熊本→大分→習志野)
236) Grill(グリル),Max:海軍歩兵第3大隊参謀本部・上等歩兵。[商人]。19198月頃、板東の収容所で1円の玩弄紙幣1000枚を作製し、所内で流通させた。小額紙幣不足がその理由で、5枚ないしは10枚で正規の紙幣と交換した。俘虜達から大いに重宝され、また本人は何の儲けも得なかったことから、善意によるものされて不問に付された。数枚が現存している。印刷、色彩、意匠の点で日本の紙幣より抜群に優れていた。表の上方に「ラーガーゲルト(収容所貨幣)」の文字、左方に鷲と鉄十字、右方に1円とあり、下方にローマ字と日本文字で板東と書かれてある。収容所内でのみ通用し、いつでも兌換と記され、マックス・グリルのサインとハンコが捺してある。裏面は透かし風に大きな二羽の鷲が描かれ、臨時紙幣とあり、下に小銭不足を補うための発行と記されている。【棟田『日本人とドイツ人』268-269頁】(2888:松山→板東)
237) Grille(グリレ),Paul:海軍歩兵第3大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、公会堂での工芸品展に、ハイル(Heil)と共同でドイツの古楽器リュートを制作・出品した。(1887:丸亀→板東)
238) Grosse(グロッセ),Friedrich:海軍膠州派遣砲兵大隊第4中隊・1等砲兵。板東時代、収容所内のタパタオで写真屋を営んだ。(4161:大阪→徳島→板東)
239) Grossmann(グロスマン),Heinrich:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。[商社員]。神戸北野のドイツ貿易商館イリス商会に10年勤務していた。西山リョウという内縁の妻がいて、日本語に堪能であったが、関西弁だった。リョウは1918713日、板東に最初の面会に訪れた。板東時代、管理棟本部事務室の通訳を務め、またティッテル(Tittel)と共著で板東収容所印刷所から、『日本の小学校読本解説(12巻)』を出した。19189月には、「板東健康保険組合」の第2中隊代表理事に選ばれた。解放まじかのある時、知友のユーハイム(Juchheim)から手紙を受け取る。その手紙には、大戦終結後にアジアに残るために似島では日本語、中国語学習が盛んであること、また習志野収容所の俘虜は、大戦終結後に北海道移住を希望するものが多いといったことが記してあった。(1889:丸亀→板東)
240) Günther(ギュンター),Otto:枢密参事官・総督府民政長官。父親は園丁師であった。モルトケ山の北西地区(日本統治時代の軽藻町23番地)の自宅は2479u(約700坪)の広大な敷地にあった。年俸は植民地加俸を含めて約13000マルクで、これは総督を別格として除くと、総督府官吏の中でクルーゼン高等判事に次ぐ高額であった。19144月末、北京で開催された独中鉄道会社の細部協議委員会に、済南駐在領事及び独亜銀行天津支店長とともに青島代表として参加した。これは済寧・開封間の開?鉄道と芝罘・?縣間の煙?鉄道の新たな鉄道建設の協議で、424日に合意に達したが、大戦勃発で烏有に帰した。117日のモルトケ兵営での青島開城交渉にはドイツ側の一員として加わった。当時44歳だった。19151113日、青島警察監房の独居房に収監された。青島での尋問調書が残されている。【参照:『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂 第11巻』】慢性気管支炎と疝通を患い、精神的にも痛手を受けていた。1918520日西京丸で青島出発、24日神戸着、25日徳島着、26日板東収容所に到着した。19181113日から数回、歯痛のため徳島市中通町の宮井歯科医院に看護卒同道で通院した。院長の宮井義也医師は東京歯科医専を出たばかりの25歳の若い医師であったが、ドイツ語が堪能で、俘虜達は通院を楽しみにした。同年126日、青島司令部からの召還命令で青島に移送された。別れに際してギュンターは、愛用の銀飾りのほどこしてあるステッキを松江所長に贈った。なおギュンター夫人ゲルトルート(Gertrud)は青島に残留した婦人達を指導して、傷病兵看護や炊事等に当たった。また青島陥落時には、衛戍病院となっていた水兵館の扉の前に立って建物の中の人々を日本兵から守った。日本軍による包囲の間、気丈な夫人はあらゆる不安を背負い込んだ人々の母親の役を務め、日本軍によって包囲された町で、ドイツ人達の要求を果敢にかつ粘り強く勝ち取ったと言われる。夫人と二人の娘は大戦終結まで青島に留まった。【右番号は俘虜番号中の最大番号である】(4715:板東)
241) Guenther(ギュンター),Paul:海軍歩兵第3大隊第1中隊・軍曹。久留米時代は演劇活動で、エルンスト作の喜劇『教育者フラックスマン』に出演した。(429:久留米→板東)
242) Guse(グーゼ),Karl A.:海軍膠州派遣砲兵大隊・掌砲兵曹長。敷設船ラウチング(Lauting)乗員。英駆逐艦ケンネット敷設の機雷に触れたラウチングの自力入港で目覚しい功績を果たし、ククス(Kux)艦長より讃辞を受けた。(3353:熊本→久留米)
243) Gutmann(グートマン),Ernst:海軍東亜分遣隊・予備陸軍少尉。19141027日、東京市京橋区築地の岸夫人(ドイツ人)から俘虜情報局に、口頭による安否の問い合わせがあった。19172月、横浜正金銀行より俘虜情報局へ、グートマン宛の銀行小切手による65786銭の交付願いがあった。(3342:熊本→久留米)
244) Habersang(ハーバーザング),Friedrich:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。[宣教師]。松山時代、公会堂での収容所講習会で中国語の講師を務めた。(2916:松山→板東)
245) Hachmeister(ハッハマイスター),Alfred:国民軍・卒。1915920日、青島から大阪収容所に移送された。(4677:大阪→似島)
246) Hack(ハック),Dr. Friedrich-1949):総督府参謀本部通訳・予備陸軍中尉。法学博士。[満鉄社員]。1912年から大戦勃発まで、南満州鉄道東京支社の調査部に勤務し、総裁の後藤新平の秘書を勤めていた。当時28歳だった。福岡収容所では通訳を務めた。191618日の軍事法廷で、ケンペ(Kempe)、ザクセ(Sachsse)、シュトレーラー(Straehler)、モッデ(Modde)の4名の逃亡を助けたかどで懲役18ヶ月の判決を受けたが、後に13ヶ月に減刑された。日本の地理、習慣、民族性に通じていたことが、逃亡手助けに威力を発揮した。大戦終結後は一時日本に残留したが、やがてドイツに帰国して、クルップ社の駐日代表だったアードルフ・シンチンガーと「シンチンガー・ハック社」を設立し、軍需品ブローカーとして日本海軍ベルリン事務所と密接な関係を持ち、1936年の日独防共協定締結に際しては重要な役割を果たした。(1154:福岡→習志野)
247) Hack(ハック),Wilhelm:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、丸亀蹴球クラブの役員を務めた。(1908:丸亀→板東)
248) Hafels(ハーフェルス),Ernst:海軍歩兵第3大隊第2中隊・1年志願上等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(478:久留米→名古屋)
249) Hagemann(ハーゲマン),Harald-1919):海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・2等砲兵。19151224日と191637日付けの、ハンブルクの恋人に宛てた2通の手紙が知られている。191922日スペイン風邪により習志野で死亡。(1105:福岡→習志野)
250) Hagemann(ハーゲマン),Wilhelm:海軍歩兵第3大隊工兵中隊・伍長。板東時代の191712月、懸賞作文募集に「コルドルフへの僕の初めての旅」で三等賞を受賞し、賞金2円を獲得した。(2918:松山→板東)
251) Hahn(ハーン),Mathias:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降し俘虜となり、久留米収容所に送られた。久留米の演劇活動では、喜劇『娘との結婚』等8演目に出演した。(480:久留米)
252) Hake(ハーケ),Gustav:海軍膠州派遣砲兵大隊・予備火工副曹長。久留米時代は演劇活動で、ハウプトマン作の喜劇『ビーバーの毛皮』等12演目に主として女役で出演した。(1109:福岡→久留米)
253) Hake(ハーケ),Hermann:海軍歩兵第3大隊第6中隊・副曹長。815日、前日青島に着いたばかりのラーン(Laan)が志願兵受付所で手続きをした際の係官だった。互いに東フリースラント出身の同郷人であることが判り、親交を深めた。松山時代、公会堂における収容所講習会で英語の講師を務めた。板東では第2ヴァイオリンのレッスンを受けてやがてオーケストラに加わり、1919年にはベートーヴェンの「交響曲第6番〈田園〉」演奏の一員になった。(2900:松山→板東)
254) Halbritter(ハルプリッター),Robert:国民軍・階級不明。似島で死亡(年月日不明)。(4527:大阪→似島)
255) Hallier(ハリーア),Kurt:海軍東亜分遣隊第3中隊・予備副曹長。久留米時代は演劇活動で2演目に出演したが、シェーンヘル作の悲劇『信仰と故郷』等11演目の演出で活躍した。(1142:福岡→久留米)
256) Hamann(ハーマン),Kurt:海軍歩兵第3大隊第3中隊・予備副曹長。114日、監視長として防備していた海岸堡塁北方の海泊河右岸の小堡塁を攻撃されて、23名の部下とともに俘虜となった。【『青島戦記』142頁】(1147:福岡→久留米)
257) Hamm(ハム),Heinrich:海軍東亜分遣隊第3中隊・2等砲手。1912年駐独公使青木周蔵からの依頼もあって、ワイン醸造技師として山梨県北巨摩郡登美村に招聘された。習志野時代の1919524日、習志野合唱協会の「歌曲の夕べ」ではマルフケ、エリヒ(Oellig)及びシェーファー(Schäfer)の4人でクローマー作の「森の泉のほとりで」を四重唱した。大戦終結後、帰国した郷里で1913年に自分が製造して送ったワインに出会ったという。【『ドイツ兵士の見たNARASHINO102頁】(93:東京→習志野)
258) Hannasky(ハンナスキー),Otto:海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊・予備2等砲兵。板東時代は収容所内の食肉加工係を務め、また御用商人経営の牧舎に雇用された。公会堂での工芸品展には食肉加工品を出品した。(4173:大阪→徳島→板東)
259) Hansen(ハンゼン),Hermann R.1886-1927):海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊軍楽隊長・軍楽曹長。徳島時代、「徳島オーケストラ」を結成した。板東時代の191861日、板東収容所における徳島オーケストラ第2回コンサートで、日本におけるベートーヴェンの「第九交響曲」が初演されたが、その時の指揮を執った。その折りに第4楽章の「合唱」でソロを受け持ったのは、ヴェーゲナー(Wegener2等歩兵、シュテッパン(Steppan2等歩兵、フリッシュ(Frisch2等歩兵及びコッホ(Koch)伍長の四人であった。弦楽オーケストラと吹奏楽団の二つの楽団を率いて、休みない活動を続け、パウル・エンゲルとともに板東収容所での音楽活動で多大の功績を果たした。月刊『バラッケ』の19198月号には、筆名「M」による「シュレースヴィヒ人の出発」という記事が載せられた。その中で筆者は、特にハンゼンについて、「収容所の中でもっとも功績があり、またもっとも皆に好かれた人物の一人である」と記している。【冨田『板東俘虜収容所』164-167頁より】1919826日、出身地の帰属を問う州民投票のため宣誓解放され、ブロイニンゲル(Braeuninger)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、ヤスペルセン(Jaspersen)、イェプセン(Jepsen)、カルステンス(Carstens)、ニールセン(Nielsen)の6名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。(4185:大阪→徳島→板東)
260) Harasim(ハーラジム),Karl:海軍歩兵第3大隊第4中隊・予備伍長。久留米時代の1919128日、ハーラジムから在京チェコスロヴァキア代理公使宛信書(内容は中国渡航の件)が送付され、検閲の上久留米から情報局へ転送された。(3360:熊本→久留米)
261) Hardel(ハルデル),Hans:海軍歩兵第3大隊第7中隊・上等歩兵。大戦終結後は青島に戻り、自動車修理工場を経営した。(1923:丸亀→板東)
262) Haertle(ヘルトレ),Thaddaeus1888-1968):海軍歩兵第3大隊第3中隊・1年志願2等歩兵。西プロイセンのポーゼン州(今日はポーランド)の出身。久留米時代、ドイツ人将校に反抗して3ヶ月の重傷を負った。連合国寄りであったため孤立し、迫害も受けた。丸亀時代には日本人憲兵に反抗して、営倉に閉じ込められた。板東に移される際、ドイツ人と同じ列車に乗せられることに抵抗し、縛られて荷車で運ばれた。板東では連合国寄りの数名と共に、収容所から1キロ離れた成就院分置所に隔離収容された。大戦終結後ヨーロッパに帰ったが、やがて日本に戻り日本人女性と結婚して高松に住んだ。(491:久留米→丸亀→板東)
263) Hartmann(ハルトマン),Hans:青島船渠・上級造船技師。[青島船渠工厰長]。その指揮の下で、砲艦ルックス(Luchs)、イルチス、コルモラン(Cormoran)及び駆逐艦タークー(Taku←太沽)、敷設艦ラウチングが928日夜から29日朝にかけて膠州湾に沈められた。更に1029日には砲艦ティーガー、111日には巡洋艦カイゼリン・エリーザベトを自沈させた。妻と二人の子は大戦終結まで上海で暮らした。(1155:福岡→習志野)
264) Hartwig(ハルトヴィヒ),Rhinhold:測量艦プラーネット乗員・2等焚火兵。1914107日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが111日宣誓解放された。(4671:なし)
265) Hartzenbusch(ハルツェンブッシュ),Josef:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・後備2等機関兵曹。[自動車運転手]。妻と子は大戦終結まで上海で暮らした。大戦終結後、日本内地での契約成立のため内地解放を希望した。(1099:福岡→習志野)
266) Hashagen(ハースハーゲン),Hans:海軍膠州派遣砲兵大隊・海軍中尉。〔砲台指揮官〕。その砲撃によって英艦トライアンフは損傷を受け、修理のため長崎、さらには横浜に向かった。この艦は結局1915年春、ダーダネルス沖でドイツの潜水艇によって撃沈された。(4377:熊本→大分→習志野)
267) Hass(ハス),Gustav:海軍膠州派遣砲兵大隊長・海軍中佐。〔海正面堡塁指揮官〕。1917131日、上海滞在中のクルーゼン元青島高等判事に宛てて大阪収容所から手紙を出した。その内容は、収容所での給与に関する事であった。将校は日本の将校と同額の給与、つまり少尉は40円、中尉は5475銭を受けているが、少なくとも75円は必要というのがハスの見解であった。その内訳としては、食事代に35円、下士卒手当てに3円、肌着5円、暖房及び入浴設備代3円、靴修繕費5円、衣服10円、医療衛生費3円、新聞書籍費6円。ただ比較のために挙げると、東京の兵器廠に務める役人は110時間勤務で月額40円から44円である、との報告をしている。【Bauer,Wolfgang:Tsingtau 1914 bis 1931,50頁】大戦終結してドイツに帰国後、『青島攻防戦における海正面堡塁の活動』の報告書を書いた。(4525:大阪→似島)
268) Hasse(ハッセ),名前は不明:測量艦プラーネット乗員・2等水兵。19141010日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが111日宣誓解放された。(4670:なし)
269) Hasselbach(ハッセルバッハ),Johann(1891-):海軍東亜分遣隊第2中隊・2等歩兵。「14歳にしてシュインスベルヒ小学校を卒業し三ヶ年煉瓦職を学ぶ、1912101日入隊迄父の農業に従事し凡ての方面を実地に修得せり、土木業(煉瓦業、建築業、パンストーブ、煉瓦製造業等)耕地羊豚畜業を特技とす」【「北海道移住」より】(1132:福岡→名古屋)
270) Hauer(ハウアー),Heinrich:海軍歩兵第3大隊第1中隊・上等歩兵。久留米収容所の音楽活動では、19191119日の「メンデルスゾーンの夕べ」で、ペーベル(Poebel)と「渡り鳥の別れの歌」等を二重唱した。(462:久留米)
271) Haupt(ハウプト),Wilhelm:所属部隊・階級不明。[印刷・出版業]。似島時代、収容所内に2ヶ所あった石版印刷所の内の1ヶ所はハウプト指導の下で、特に収容所展覧会のカタログの表紙と挿入の絵を、実に粋で見事な出来栄えに印刷した。(4532:大阪→似島)
272) Haus(ハウス),Hermann:海軍砲兵中隊・2等水兵。習志野時代の1919812日、習志野演劇協会によるベネディクス作の喜劇『親戚の情愛』に召使役で出演した。(94:東京→習志野)
273) Hauten(ホーテン),Josef van:海軍歩兵第3大隊第6中隊・後備伍長。[食肉加工職人]。青島時代からユーハイム(Juchheim)と知り合いだった。大戦終結後明治屋に就職した。やがて菓子職人ユーハイムを製菓主任、ヴォルシュケ(Wollschke)をソーセージ製造主任、ヴァン・ホーテンを喫茶部主任兼支配人とする「カフェー・ユーロップ」が銀座の尾張新町17番地に開店した。なお、同店は横浜に本店を持つ明治屋の経営になるものであった。(4372:熊本→大分→習志野)
274) Hayn(ハイン),Max:海軍歩兵第3大隊第7中隊・副曹長。板東時代、公会堂での工芸品展に、パンジング(Pansing)と寄木細工の床と電気の灯る居心地のよさそうな人形部屋を製作・出品した。(1919:丸亀→板東)
275) Hebting(ヘープティング),Georg:海軍野戦砲兵隊・2等砲兵。松山時代、山越の収容所講習会で英語、フランス語の講師を務めた。(2925:松山→板東)
276) Heil(ハイル),Albrecht:海軍歩兵第3大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代、収容所内のタパタオで薬局を営んだ。また公会堂での工芸品展に、グリレ(Grille)と共同でドイツの古楽器リュートを制作・出品した。(1930:丸亀→板東)
277) Heimann(ハイマン),Paul:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代、公会堂での収容所講習会でスペイン語の講師を務め、また板東では191848日の「中国の夕べ」では、「トンキン(東京)とユンナン(雲南)」の討論会を主宰した。(2915:松山→板東)
278) Heimendahl(ハイメンダール),Hans:ヤーグアル乗員・海軍少尉。習志野時代、収容所内に自作の四阿を建てた。また19151225日のクリスマスコンサートでは、シューベルトの「ロザムンデ間奏曲」をベーロウ予備少尉のチェロと一緒に、またヴェーバーの「舞踏への勧誘」及び「ジョスランの子守唄」はゼーバッハ(Seebach)少尉とピアノ演奏した。更に1919524日、習志野合唱協会の「歌曲の夕べ」ではエンスリン(Ensslin)、ベヒトルスハイム(Bechtolsheim)大尉及びヴィーダー(Wieder)でシュヴァーベン民謡の「選ばれし者」を四重唱した。(96:東京→習志野)
279) Heims(ハイムス),Karl:海軍歩兵第3大隊第2中隊・予備伍長。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(479:久留米)
280) Heinrich(ハインリヒ),Paul Hermann:国民軍・上等歩兵。[洋服屋]。青島のフリードリヒ街213番地で紳士服・軍服を扱う洋服店を営んでいた。【Behme and Krieger:Guide to Tsingtau and its Surroundings.190頁の広告より】大戦終結後、再び青島に戻り紳士用品店を開いた。(2216:姫路→青野原)
281) Heinrich(ハインリヒ),Xaver:海軍歩兵第3大隊第3中隊・2等歩兵。[仕立て職マイスター]。(1148:福岡→久留米)
282) Heintze(ハインツェ),Lothar:海軍野戦砲兵隊・後備陸軍中尉。〔タオベンクッペ(Taubenkuppe)砲台指揮官〕。(3370:熊本→久留米)
283) Heinzel(ハインツェル),Arthur Walfried:国民軍・補充予備兵。1915920日、青島から大阪収容所に移送された。(4678:大阪→似島)
284) Heister(ハイスター),Gerhard:海軍歩兵第3大隊第2中隊・伍長。板東時代、収容所でエーラース(Ehlers)と共同で風呂屋(シャワー室)を営業した。(1903:丸亀→板東)
285) Helgen(ヘルゲン),Wilhelm:ヤーグアル乗員・2等水兵。東カロリン群島のポナペ島原住民。労働者としてポナペ島から青島の造船所に送られた。日独戦争勃発とともに砲艦ヤーグアルに乗り組んだが最終的に俘虜となった。【『ドイツ兵士の見たNARASHINO91頁より】(305:東京→習志野)
286) Hellmuth(ヘルムート),Jean(1895-1916):海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・2等砲兵。191697日、徳島の陸軍衛戍病院で肺結核のため死亡、病院裏山に埋葬された。今日、眉山中腹の徳島陸軍病院跡にシュミーデル(Schmiedel)の墓と並んでその墓がある。(4182:大阪→徳島)
287) Helm(ヘルム),Wilhelm1891-1951):海軍歩兵第3大隊・予備伍長。久留米時代の1916719日、タオディーン(Taudien)と逃亡してすぐに捕まったが、そのことが収容所と警察の対立を生むことになった。重営倉30日に処せられた。(3368:熊本→久留米→青野原)
288) Helmers(ヘルマス),Johann:海軍歩兵第3大隊第3中隊・予備伍長。久留米の演劇活動では、マイアー=フェルスター作の『アルト・ハイデルベルク』等10演目に出演した。(485:久留米)
289) Henssler(ヘンスラー),Hermann:国民軍・卒。1915920日、青島から大阪収容所に移送された。(4679:大阪→似島)
290) Hentschel(ヘンチェル),Hermann:海軍野戦砲兵隊・副衛兵長。習志野時代の191918日と9日、収容所で演じられたハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』に娘役で出演した。(2923:松山→板東→習志野)
291) Henze(ヘンツェ),Wilhelm:海軍歩兵第3大隊参謀本部・予備伍長。松山時代、山越の収容所講習会でフランス語の講師を務めた。板東時代は公会堂での絵画と工芸品展覧会に、「踊り子」等の水彩画を出品した。(2926:松山→板東)
292) Hertling(ヘルトリング),Georg Freih.von:海軍歩兵第3大隊第1中隊・陸軍少尉(男爵)。久留米の音楽活動としては、1915年夏から1916年夏まで収容所内の「交響楽団」の指揮を執り、またフォークト(Vogt)やツァイス(Zeiss)とともに収容所の音楽教育にも携わった。交響曲や室内楽曲を作曲し、1919220日には自分の作品で構成したコンサートを企画した。なお1918125日、収容所最後のシンフォニー・コンサートが開かれベートーヴェンの「第九」が全曲演奏されたが、その折りの指揮者ではないかとの推測もされている。【インターネットによる「『第九』事始め(中)」より】演劇活動では、ガーデベルク作の笑劇『シメク家』の演出を担当した。(459:久留米)
293) Hess(ヘス),Hermann:海軍歩兵第3大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代の1919年、収容所内印刷所から『俘虜生活の真面目歌と戯れ歌』(Ernste und heitere Gedichte aus der Kriegsgefangenschaft)を出した。(1917:丸亀→板東)
294) Hildebrandt(ヒルデブラント),Alfred:海軍歩兵第3大隊第7中隊・2等歩兵。〔第2歩兵堡塁(湛山北堡塁)〕。[宣教師]。ベルリン福音教会・膠州地区の若き宣教師で、第1次大戦争勃発とともに青島守備軍に志願した。(1929:丸亀→板東)
295) Hildebrandt(ヒルデブラント),Reinhold1881-1920):海軍歩兵第3大隊第6中隊・1等機関兵曹。192015日、スペイン風邪により板東で死亡。(2901:松山→板東)
296) Hinney(ヒンナイ),Wilhelm:海軍歩兵第3大隊第7中隊・後備伍長。似島時代、『似島収容所新聞』の編集長を務めた。(4522:大阪→似島)
297) Hinz(ヒンツ),Carl:海軍歩兵第3大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代、工芸品展にノルウェー風を模したリュックサックを制作・出品した。(1915:丸亀→板東)
298) Hirsch(ヒルシュ),Albin:海軍歩兵第3大隊第5中隊・伍長。松山時代に山越の講習会で、シュトルツェ=シュライム方式の速記の講師を務めた。「オーベルンドルフノ小学校卒業後、三ヶ年車匠業ヲ学ヒ190910月乗馬隊ニ入隊スル迄車匠及車輌製作者トシテ従業セリ、車匠(農具、農作車等ノ製造)ヲ特技トス」【「北海道移住」より】(2895:松山→板東)
299) Hirschberger(ヒルシュベルガー),Paul:海軍歩兵第3大隊第1中隊・軍曹。日本語が上手だった。久留米の演劇活動では、笑劇『彼は夢遊病』等14演目に出演した。19198月、東京市麹町の有楽町聯合商会貿易部から情報局へ、オーバーシューズ調製の技術を持つ者の問い合わせが各収容所にあり、久留米ではヒルシュベルガーを出願人として通知した。大戦終結後「大阪角一護謨」に勤めたが、1923年にゼールバッハ(Selbach)が帰国すると、その日本ゴム株式会社に後任として移った。当時は「日本ゴム」と「日華ゴム」が競い合っていた。彼は地下足袋の底を二重ゴムにする技術を考案し、これで日本ゴムは業績を伸ばした。193210月、日本足袋(株)を退社した。(460:久留米)
300) Hlavica(フラヴィツァ),Adolf:カイゼリン・エリーザベト乗員・4等檣帆下士。久留米時代には演劇活動で、ハウプトマン作の喜劇『同僚クランプトン』に出演した。(3391:熊本→久留米→青野原)
301) Hofe(ホーフェ),Paul v.:海軍東亜分遣隊第1中隊・2等歩兵。102日、四房山で俘虜となり久留米収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された。(506:久留米)
302) Hofenfels(ホーフェンフェルス),Hermann Freih.von:海軍歩兵第3大隊参謀本部・陸軍中尉(男爵)。〔参謀本部〕。19141231日、夫人が面会のため久留米を訪れ、翌年19日に面会が許可された。(458:久留米)
303) Hoffmeyer(ホフマイヤー),Karl:海軍歩兵第3大隊第5中隊・軍曹。板東時代、収容所の製菓・製パン所(ゲー・バー)では製パンの中心的役割を果たした。(2894:松山→板東)
304) Hoeft(ヘフト),Max:海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊・1等砲兵。徳島時代の191610月、バール、ベーマー、フィッシャー、グレックナー、ライポルト、マイエの7名で徳島市の円藤鉄工所に鋳物等の労役で派遣された。18時間、賃金・期間は不明。(4170:大阪→徳島→板東)
305) Hohn(ホーン),Eduard:海軍膠州派遣砲兵大隊第4中隊・2等砲兵。板東時代、工芸品展に計算尺およびラケート(Raket)と共同による写真の引き延ばし機を製作・出品した。またミュラー(Mueller)少尉の企画によるルンプ(Rumpf)少尉とホーンの住宅モデルが、収容所賞第3位に輝いて賞金3円を獲得した。(4178:大阪→徳島→板東)
306) Holstein(ホルシュタイン),Franz:海軍歩兵第3大隊第3中隊・予備上等兵。『久留米収容所俘虜文集』(Dichtungen von Kriegsgefangenen des Lagers Kurume-Japan)の印刷を担当した。(490:久留米)
307) Holstein(ホルシュタイン),Walter von:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代、収容所内のタパタオで写真屋を営んだ。また191838日から19日の「展覧会」では主催者役を務めた。(2903:松山→板東)
308) Holtkamp(ホルトカンプ),Hans:海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊・1等砲兵。徳島時代に「徳島演劇協会」を結成し、板東では演芸会開催時にリースマン(Liessmann)と共に裏方で活躍した。(4168:大阪→徳島→板東)
309) Homann(ホーマン),Hugo:海軍歩兵第3大隊参謀本部・補充予備兵。松山時代、山越の日曜講演会で「マーガリン製造」と題して講演した。(2928:松山→板東)
310) Hoenemann(ヘーネマン),Richard:海軍野戦砲兵隊・副衛兵長。117日、降伏申し入れに向かう軍使カイザー(Kayser)少佐のラッパ手として、日本軍本部陣地のある台東鎮に赴いた。(2922:松山→板東)
311) Hopp(ホップ),Alfred:海軍歩兵第3大隊工兵中隊・予備陸軍工兵少尉。[中国ジーメンス北京支店・技師]。119日の青島開城交渉ではドイツ側の実務委員として、地雷等の危険物除去に関わった。(3377:熊本→久留米)
312) Hoppe(ホッペ),Max:海軍歩兵第3大隊第1中隊・2等歩兵。928日、ヴァルダーゼー高地で俘虜となり久留米収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された。(469:久留米)
313) Hubbe(フッベ),Fritz1887-1918):海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・予備1等水兵。1918621日、板東収容所の北東に位置する樋殿(ヒドノ)谷伐採場脇のすり鉢型の溜め池で、沐浴中に心臓麻痺を起こして溺死した。(4179:大阪→徳島→板東)
314) Huebner(ヒュープナー),Max:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・1等砲兵。板東時代、大麻地区周辺の植物採集を行い、また板東小学校の下村一衛教諭に採集法も指導した。(4181:大阪→徳島→板東)
315) Huehn(ヒューン),Gustav:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(481:久留米)
316) Hülsenitz(ヒュルゼニッツ),Rudolf:海軍歩兵第3大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代、ムッテルゼー(Muttersee)と共同で『1920年用故郷カレンダー』(Heimatkalender 1920)を石版印刷した。(1925:丸亀→板東)
317) Humpich(フムピヒ),Fritz:海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊・砲兵軍曹長。板東時代、収容所炊事部2の下士官を務めた。(4166:大阪→徳島→板東)
318) Hundertmark(フンデルトマルク),Carl:国民軍・卒。[プリンツ・ハインリヒ・ホテル支配人]。1915920日、青島から大阪収容所に送られた。妻と4人の子は大戦終結まで青島に留まった。(4680:大阪→似島)
319) Hunzelmann(フンツェルマン),Albert1887-):海軍東亜分遣隊第3中隊・軍曹。「14歳ニシテノルトハイムノ小学校ヲ卒業シ後三ヶ年乳精教習所ニ於テ乳精乾酪製法ヲ学ヒ190710月ノ兵役迄乳精技手トシテ従事シ後独立乳精場ヲ経営ス、精乳製法チーズ製法、牛畜、豚畜ヲ特技トス」【「北海道移住」より】(1143:福岡→名古屋)
320) Huse(フーゼ),Hermann:海軍歩兵第3大隊第3中隊・軍曹。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(483:久留米)
321) Ibler(イブラー),Franz:海軍東亜分遣隊第1中隊・2等歩兵。習志野時代、習志野劇場による「トーマの夕べ」で、トーマ作の1幕物田舎茶番劇『一等車』に運転手役で出演した。(106:東京→習志野)
322) Imberg(イムベルク),Richard:海軍東亜分遣隊・2等歩兵。久留米時代は演劇活動で、イプセン作の『国民の敵』に出演した。(1160:福岡→久留米)
323) Iserlohe(イーゼルローエ),Paul:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(513:久留米)
324) Ivanoff(イヴァノフ),Valentin D.1891-):国民軍・卒。191654日、Wladislaw Kofflerという名のオーストリア人と称して青島に流れてきた。ロシア語以外ほとんど理解しなかった。【『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独國俘虜関係雑纂』より】『俘虜名簿』で唯一「釈放」と記載されている人物。(4713:大阪→似島)