1) 青島収容所:「開城實施手續規定」の中に、「俘虜委員ハ海泊河以北の諸村落ニ俘虜ヲ収容スヘシ」(『日獨戰史』上巻、1013頁)の記述があるが、具体的な場所、建物等は不明。四方周辺に点在した独軍のバラックを指すかとも推測される。しかし、俘虜移送完了後は若鶴兵営(旧モルトケ兵営)に青島収容所が設けられて、国民軍等の新たな俘虜が一時期収容された。→本文3頁)
2) 宣誓解放:1907年(明治40年)にオランダのハーグで調印され、1912年に公布された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」の第2章俘虜の第10条には、「俘虜ハ其ノ本国カ之ヲ許ストキハ宣誓ノ後解放セラルルコトアルヘシ此ノ場合ニ於テハ本国政府及之ヲ捕エタル政府ニ對シ一身ノ名誉ヲ賭シテ其ノ誓約ヲ厳密ニ履行スルノ義務ヲ有ス」とある。【『俘虜ニ関スル法令及例規』(俘虜情報局発行「日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂」)より】→本文3頁)
3) 『ディ・バラッケ』:『ディ・バラッケ』(Die Baracke)は、板東収容所で1917930日の第1号から19199月号まで、まる2年に亘って発行された俘虜の印刷・発行による収容所新聞。19194月までは毎週日曜に週刊で、19194月から9月の4ヶ月間は月刊で発行された。合計2720頁に及ぶ。その内容は、収用所内で行われたコンサート、演劇、懸賞附き応募作文の優秀作の掲載、俘虜作品展示会の様子などを記した収容所での出来事に留まらず、戦況記事、政治・経済問題、地質学術的論文、徳島の地理・風土、チェスの詰め将棋等多種多様な記事が掲載されている。ドイツ語原文は、ドイツ文字筆記体による手書きを謄写印刷したものである。徳島収容所での『徳島新報』と松山収容所での『陣営の火』発行に携わった人々を中心に発行された。編集委員としては、マルティーン(Martin)中尉、ゾルガー(Solger)予備少尉、ラーハウス(Rahaus)予備火工副曹長、ゴルトシュミット(Goldschmidt)予備副曹長、メラー(Moeller)予備軍曹、マーンフェルト(Mahnfeld)後備伍長の6 名(後に変動あり)。鳴門市ドイツ館史料研究会によって、1918929日分までの2巻が既に翻訳・刊行され、同時にそれぞれラテン文字化したものも刊行されている。→5
4) スペイン風邪:1918年から1919年にかけて世界的に大流行したインフルエンザ。アメリカの兵営に発したとも、中国から発生したともされるが、地球上の人間の約半数が罹患したといわれる。フランスからイギリスに伝播してから、「スペイン風邪」の名で知られるようになった。死者は2500万人を数え、第1次大戦の死者数を上回った。日本でも2500万の罹患者を出し、38万人余が死亡したとされている。【『平凡社 百科事典』より】→6
5) 予備:本資料には、階級名及び所属部隊名として、予備、後備、補充予備及び国民軍の語が頻出する。そこでこれらの用語を、『ディ・バラッケ』第1xxivxxv頁の解説(大和啓祐解説)を借用して説明する。1888年制定のドイツ兵役法によれば、満17歳から満45歳までの男子は在営服務義務もしくは国防義務を負うものと定められ、徴兵検査に無条件あるいは条件付で合格した20歳以上23満未満は現役、23歳以上27歳未満は予備役、27歳以上32歳未満は第一後備役、32歳以上39歳未満は第二後備役、それ以外の者は補充予備役(20歳以上32歳未満)、または第一国民軍役(17歳以上40歳未満)、第二国民軍役(40歳以上45歳未満)に属する。なお、日独戦争の勃発に際して総督府は、191483日(日本時間)に予備、後備、補充予備を召集する動員令を発布した。→11
6) 高木繁(1886-1953):陸軍大尉。後出の徳島及び板東収容所長松江中佐の副官。香川県丸亀市に生まれた。陸軍士官学校卒。松江所長とともに徳島収容所に赴任した。ドイツ語を始めとして、英語、ロシア語、中国語等7ヶ国語に通じていたと言われる。板東収容所閉鎖後は福山連隊等を経て、1929年に陸軍中佐で退役した。退役後は兵庫県外事課、ドイツ系のバイエル薬品勤務を経て、1935年満州のハルピンに渡った。外資系の百貨店秋林洋行に勤務し、日中ソ間の情報戦に従事したとも言われる。終戦後、ソ連軍によってシベリアのバイカル湖東方のチタに抑留され、最後はスベシドロフクス州アザンの病院で病没したとされている。1965年厚生省から、1953430日に死亡したとの公式通知が遺族に届いた。ヴァイオリンをたしなみ、音楽好きであった。【『「第九の里 ドイツ村」』及び『「歓喜」によせて 板東俘虜収容所物語』(読売新聞社徳島支局編纂)より】→11
7) 堀内文次郎:第23旅団長・陸軍少将。幼年学校在学中から日記をつけ始める。号は信水、健筆多弁の人であったと言われている。オーストリア=ハンガリー帝国のレルヒ陸軍少佐(Thodor Edler von Lerch;1869-1945)が日本に初めてスキーの技術を伝えたのは1910年の冬、新潟県高田の第13師団第56連隊の営庭内であったが、その時の連隊長が堀内であった。その後堀内は官民へのスキー術伝播に力を尽くした。青島攻囲戦では、日本軍の主力の一つである左翼隊を指揮して湛山方面の攻撃に当たった。青島陥落後は青島開城交渉委員に任ぜられ、119日の開城規約調印後は危険物除去委員長となった。1111日、台東鎮の村落で露営し、黒パンで凌いでいる独軍将兵に梨を贈った。この日の夕刻、地雷除去に当たっていた日本軍の工兵少尉が油断して地雷に触れ4名が即死し、40数名が負傷した。1114日に挙行された招魂祭では委員長を務めた。127日長崎に凱旋し、翌8日上陸して市内を行進する。出島には凱旋門が設けられていた。【注20のプリューショウの項を参照】『青島攻囲陣中記』を著した。→13
8) 真崎甚三郎(1876-1956):陸軍中佐。陸軍士官学校9期卒。1923年陸士本科長、1926年同校長となり、尊皇絶対の日本主義による教育につとめ、後の2.26事件の首謀者に影響力を与えた。1932年参謀次長になり皇道派の首領と仰がれた。1933年大将、次いで教育総監になったが、1935年林銑十郎陸相により罷免された。このことが2.26事件の誘因となった。1936年の2.26事件では、反乱幇助の容疑で軍法会議に付されたが無罪となった。【『平凡社 百科事典』より】→13
9) Crusen(クルーゼン),Dr.Georg1867-):515日、ハノーファー近郊に生まれた。1886年までハノーファーの学校に通い、ベルリン、ライプチヒ、マールブルクの大学で学ぶ。1895-99年までプロイセンの裁判官試補、1899年フランクフルトの区裁判所裁判官となり、同時に2年半の休暇を認められ日本に赴く。1902年まで東京で内務省及び法務省の顧問及び警察学校ならびに刑務学校の講師を勤める。1902年から1914年まで膠州地区の高等裁判所判事兼独中大学講師を勤めた。1909年結婚し、一男一女をもうけた。【《Degeners Wer ist's ? 》より】日独戦争勃発で戦時応召したが、終結前に家族とともに上海に逃れた。植民地加俸を含めての年俸は約14000マルクで、総督を別格として除くと、青島の官吏で最高額の年俸を受けていた。ビスマルク街(日本時代の万年町19番地)の自宅は3238u(約970坪)の広大な敷地にあり、家屋を含めたその評価額は、19178月時点で3万円と評価された。【『青島経済事情』24頁】『ベルツの日記』上巻(岩波文庫)316頁には、1903715日から27日までベルツが投宿したとの記述がある。また同書下巻79頁(1904521日の項)には、「青島の判事長クルーゼン博士が来訪中である。自分は去年の夏、同氏のもとで客となった。…優れたピアニストである」と記されている。「今日の日本の監獄制度」(『東亜文化協会』、報告集9巻、17-56頁)の論文を発表している。→13
10) ヘルツベルク(Graf Klaus von Hertzberg-1914):海軍東亜分遣隊第1中隊長・陸軍歩兵大尉(伯爵)。〔外方陣地右翼陣地指揮官〕。神出鬼没の働きをして日本軍を撹乱した。102日、四房山附近54高地にて戦死。この日の独軍は計25名が戦死した。1012日の戦死者埋葬、負傷者救出のための一時休戦で、日本軍の手により四房山頂に埋葬された。→23
11) アルンホルト・カルベルク社:中国語の社名は瑞記洋行。ハンブルクに本社を置く商社。山東鉱山会社に依存せずに、山東における鉱山採掘の認可を受けた企業集団のリーダーで、?縣南西部の沂水、諸城、日照周辺での金,ダイヤモンド等の金属を含む採掘権を所有した。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、輸出入、海運、代弁業。日独戦争に際しては、オーストリア製シュヴァルツローゼ(Schwarzlose)式機関銃8門(元来は中国政府からの注文品)、弾薬等を総督府に納めた。→31
12) 当時の200円は今日の約160万円(約8000倍)に相当する。なお、当時の為替レートで1円は約2マルク、1ドルは約2円、1ポンドは約10円であった。→32
13) 青島欧人墓地:ビスマルク通りを登り詰めた場所の山道沿いあった。青島で没した第2代総督イェシュケ(Paul Jaeschke,1851-1901)及び禮賢書院の設立者で、植物学者でもあったファーバー(Ernst Faber,1839-1899)の墓碑があった。→35
14) 「タパタオ」:大鮑島(ターパオタオ)という地名は、古くから住んでいた中国人が名づけたことに由来する。そもそもは、小港北西の小さな島の名で、その対岸地区も大鮑島と呼ばれるようになった。青島村の名称由来と同様である。「鮑」とは日本で言えば〈くさやの干物〉のように、一種独特な臭みがある発酵した魚のことを言う。場合によっては独特の漬け汁に浸して置いたものもそう呼ばれた。「アワビ」のことを指すものではない。中国人の商店が多く建ち並び、青島で最も活気のある一画であった。日独戦争後、ドイツ人俘虜が日本各地の収容所に送られたが、その内の一つ板東俘虜収容所では、俘虜達が種々の店を収容所内の一画に開いた。その地区は〈Tapatau〉(タパタオ)と呼ばれた。日本人が「大鮑島」をどのように発音していたのか、残念ながら多くの事例を承知していない。しかし、「ターパオタオ」の音は日本人にとっては発音上困難な面を持っていると思われる。山根楽庵は『寳庫の青島』の中で、「タボ(ポ?)タウ」と記している。多分「…トー」となる発音をしていたと考えられる。参謀本部編纂になる『日獨戰史』下巻の「挿図22」では、大鮑島に「タパトウ」とルビが振られている。板東収容所内で俘虜によって発行された『板東俘虜収容所案内記』(《Adressbuch für das Lager Bando 1917/1918》)及び『板東俘虜収容所案内記』(《Fremdenführer durch das Kriegsgefangenenlager Bando,Japan》)では、一貫して〈Tapatau〉と記されている。俘虜達は〈タパタオ〉(あるいは〈タパトー〉)と発音していたことが推測される。なお、俘虜のヤコービ(Jakoby)が19194月に作製した「板東俘虜収容所要図」では、〈Tapautau〉と記入されている。こうした背景から中庸的ではあるが、「タパタオ」とする表記でもよいのではないだろうか。「タイホートー」の呼び方も知られているが【東京朝日新聞、大正3811日付け記事「膠州灣概観」を参照】、これは公的色彩のある場合の発音と考えられる。青島(チンタオ)も「チントー」と発音する人も多かったが、公的な場合には「セイトー」と発音した。→37
15) フリース(Wolfgang von Fries-1914):海軍歩兵第3大隊第5中隊・予備陸軍少尉。928日ヴァルダーゼー高地攻防で戦死し、日本軍によりヴァルダーゼー山頂に埋葬された。認識票番号は第157であった。朝日新聞従軍記者の美土路春泥(美土路昌一、1886-1973;後に同社社長、さらに全日空会長を務めた)によるフリースにまつわる感動的にして、かつ感傷的な戦況記事がある。【拙稿「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(2)」,110-113頁を参照】なお、春泥は検閲を逃れて記事を発信したことから、時事新報の室伏高信とともに青島退去を命じられた。【『欧受大日記』(大正312月)より】→47
16) ドレンクハーン(Hans Drenckhahn):ジーメンス社東京支社長。日独開戦後、東京、横浜、神戸にドイツの救援委員会が設立されたが、その内の東京の救援委員会の責任者であった。当時、東京市牛込区田町3-21に住んでいた。191410月、最初の俘虜が久留米に到着するとすぐに収容所を訪問した。やがて各地の収容所を訪れ、義捐金、慰問品、新聞雑誌書籍等、更には楽器などを俘虜に届けた。またそうした収容所訪問の折り、各収容所での待遇等を俘虜と対面して聞き取り調査も行い、調査の結果をドイツ本国に報告した。→55
17) リヒャルト・ヴィルヘルム(Richard Wilhelm1873-1930):1873510日、シュトゥットガルトに生まれた。1891年テュービンゲンの福音派上級神学校を経て、バーゼル伝道派教会に入った。1899119日、クリストフ・ブルームハルトの娘ザロメと結婚した。1899年青島に赴き、中国の古典研究に打ちこむとともに、ゾイフェルト(Seufert)及びボーナー(Bohner)【二人については、瀬戸「独軍俘虜概要」参照】を指導して、禮賢書院で中国人の教育に携わった。日独戦争中は赤十字の仕事に従事し、戦後の日本軍占領統治時期には青島在留ドイツ人の代表を務め、ドイツの教会維持に努めつつ説教をした。なお、青島のドイツ人男性のほとんどが国民軍所属として俘虜となった後、ドイツ人社会に残った男性は、ヴィルヘルム以外には独中大学学長代行のヴィルツ教授、トゥチェック総督府立学校長、ヴァイシャー医師(後に追放され、戦後再び青島で医院を開業)等10名足らずで、他は婦女子150名余が残留するだけとなった【『日獨戦争ノ際俘虜情報局設置並獨國俘虜関係雑纂 第十巻 在本邦俘虜ノ家族取締ニ関スル件』より】。妻のザロメは、時に夫リヒャルトの代わりに文化活動の中心的役割を担った。→70
18) ヴァルダーゼー高地:ヴァルダーゼー高地(Walderseehöhe)は、義和団事件の際の列強8カ国連合軍の総司令官ヴァルダーゼー伯爵(Alfred Graf von Waldersee1832-1904)に因む青島郊外の丘陵の名。ヴァルダーゼーは1882年陸軍元帥、1889年にはモルトケの後を襲って参謀総長となり、ビスマルク追い落としには指導的役割を果たした。→74
19) 山田耕三:独立第18師団司令部附・陸軍歩兵大尉。1013日の一時休戦の会談の折り、かつての僚友シュテッヒャー(Stecher)大尉に宛てて、「毎日無事でいるか案じている」との葉書をドイツ側のカイザー少佐に託した。二日後の15日、ドイツ人婦女子等を乗せたマウヘンハイム海軍大尉指揮の船に乗船して膠州に行き、更に山東鉄道に乗り換えて済南まで同道した。また1027日の李村ポンプ所附近での戦闘時には、絵葉書を折ってドイツ側前線に投げた。深夜、ベヒトルスハイム(=マウヘンハイム)大尉がその葉書をビスマルク兵営の参謀本部に持ち帰った。「我々が思いもよらなかった戦闘の中より、心からの挨拶を送る。我が友に神のご加護のあらんことを! 山田大尉」と記されてあり、総督のテーブルの周囲でどっと笑いが生じた。【Otto von GottbergDie Helden von Tsingtau140頁を参照】119日に行われた開城交渉の一員で、神尾司令官とマイアー=ヴァルデック総督との会見では日本側通訳の任に当たり、開城規約調印後は俘虜委員となった。→75
20) フォスカンプ(C.J. Voskamp1859-):ベルギーのアントヴェルペン(Antwerpen)に生まれ、13歳までそこで過ごした。父も宣教師であった。やがてドゥイスブルクのギムナジウムで学んだ。ドイツが膠州租借地を獲得した1898年、青島に伝道の地を移したが、中国での伝道は通算30年に及んだ。ベルリン福音教会の山東地区教区監督として、多くの福音派宣教師を指導した。ヒルデブラント(Hildebrandt)、シュヴァルム(Schwarm)、ヴァナクス(Wannags)の三人は応召兵となり、クンツェとシュラムは衛戍病院で看護人として負傷兵の看護に当った。またエンマ夫人も臨時衛戍病院となった水兵館で看護に当った。ヨアヒム、ゲルハルト、ハンス、マルティーンの四人の息子がいた。戦争終結前に妻とハンス、マルティーンを伴い上海に逃れた。日記をもとにした『包囲された青島から』(Aus dem belagerten Tsingtau.)の他に、『孔子と今日の中国』等の著作がある。→91
21) 『陣営の火』:『陣営の火』(Das Lagerfeuer)は松山俘虜収容所で19161月から翌1917年まで、週刊の形で第150号、第213号の計61回(合冊号があったことによる)発行された。編集委員はマルティーン中尉、ゾルガー予備少尉、ゴルトシュミット予備副曹長であった。1917616日付でスイスのベルン俘虜情報局から外務省に、松山収容所で発行されている《Das Lagerfeuer》の、既刊及び未刊各5部を送ってほしい旨の依頼があり、外務省から情報局にそのことが伝達された。同年719日付けで白川義則俘虜情報局長官は、検閲の結果不都合が発見され、刊行停止としたとの回答を送った【『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独國俘虜関係雑纂』12より】。松山収容所ではタイプライターによるラテン文字での印刷であったが、板東収容所に移ってから、ドイツ文字筆記体によるガリ版で印刷され、今日、それが二冊合本の形で鳴門市ドイツ館に所蔵されている。→96
22) 山本茂:歩兵第11連隊附陸軍歩兵中尉。陸軍士官学校20期卒。ベルリン効外ポツダムのドイツ陸軍士官学校に留学した。19131214日山本中尉が青島訪問を終えるにあたって、マイアー=ヴァルデック総督は特に総督官邸で送別の宴を開いた。1914102日久留米俘虜収容所所員に任命される。当初は京町梅林寺収容所勤務であったが、112日、新設の香霞園収容所勤務に移る。1117日、マイアー=ヴァルデック総督が薩摩丸で門司港に到着した際は久留米から出張して、旧知の総督としばし歓談の後【『東京朝日新聞』、大正31118日付記事「ワ総督来る」を参照】、福岡収容所長久山中佐、熊本収容所長松木中佐の通訳に当たった。福岡に向かう列車にも久山中佐とともに同乗、通訳の任に当たった。1915126日、久留米俘虜収容所所員を免ぜられる。高良内及び久留米俘虜郵便には検閲官としての山本茂印が使われ、今日三種類が判明している。1916512日から1918430日まで士官学校教官を勤め、かつ臨時軍事調査委員(大正4911日軍令乙第12号により設立された)を兼任し、大尉に昇進して19211014日から192228日までは調査委員(第1課所属)となる。ドイツ陸軍士官学校留学時代には、当時少年だったフリッツ・ルンプ(Fritz Rumpf)に日本語を教えた。森鴎外の要請もあって習志野収容所にルンプを訪ねた折は大尉に昇任していた。【鴎外の日記:大正8519日の項「19日。月。晴。…山本茂、…至。…山本言Oskar Karl WeegmannFritz Rumpf之事。」(『鴎外全集』、第35巻、775頁、岩波書店)を参照】→122
23) 松江豊寿(1973-1955):旧会津藩士松江久平と妻ノブの長男として会津に生まれる。1889年、16歳で仙台の陸軍幼年学校入学。1892年陸軍士官学校へ進学し、1894年陸軍歩兵少尉に任官された。1904年大尉となり、韓国駐剳軍司令官長谷川好道大将の副官に任ぜられる。1907年浜松の第67連隊附少佐に昇任。19087月第67連隊大隊長、191111月第7師団副官。19141月中佐に昇進、徳島歩兵第62連隊附、経理委員首座。1914123日徳島俘虜収容所長、後板東俘虜収容所長。松江所長は俘虜に対して可能な限り最大限の配慮を示し、俘虜による自主的な活動や、近隣住民との交流を許した。その人間味溢れる人柄から、松江所長は俘虜から敬意を払われ、慕われもした。このことから板東収容所は模範的収容所と言われることになった。松江所長のこうした俘虜に対する姿勢は、会津の出身であったその出自に起因するとの考え方も広く言われている。後に(1934年)ドイツでかつての俘虜達により「バンドー会」が結成されたのもこのことを如実に示している。鳴門市ドイツ館には元俘虜から様々な資料が寄せられているのもこうした背景がある。192041日第21連隊(島根浜田)連隊長。192228日陸軍少将に昇進、51日予備役入り。1227日付けで第9代若松市長。19265月末、東京世田谷の狛江に敷地2千坪を購入し、屋敷を建てた。1955521日死去。松江豊寿の人となりについて記された文献としては次のものが挙げられる。棟田博『日本人とドイツ人』(『桜とアザミ』の改題)、林啓介『板東ドイツ人捕虜収容所』、田村一郎「「ヒューマニスト所長」を可能にしたもの:「背景」からみた「板東収容所」」、横田新『板東収容所長 松江豊寿』、中村彰彦『二つの山河』(直木賞作品)。→149
24) 東亜ロイド新聞:1886年、中国内のドイツ企業の出資で上海に設立されたドイツ字新聞社。ドイツの利益を代弁する国策的新聞社でもあった。1890年に一時的に財政難に陥ると、ドイツ外務省の肝いりで独亜銀行が補助金を出した。【《Imperialism and chinese Natinoalism. Germany in Shantung,11頁。》】→172
25) プリューショウ(Gunther Plüschow1886-1931):海軍膠州派遣砲兵大隊附・海軍中尉。メクレンブルク州のシュベーリン出身。青島の中国人からは「青島の鳥人」とも「青島の鳥王」とも呼ばれた。左腕には「竜」の刺青をしていた。19138月、それまでの騎兵中隊所属から飛行部隊に異動となり、青島勤務となる。その後3ヶ月余をキールで過ごし、191411日にベルリンに赴く。翌2日にヨハニスタール(ドイツ最初の飛行場)に出かける。21日からは毎日練習に励み、2月末、高度5500メートルの当時の世界最高記録を樹立した。19143月上旬に6年振りで青島に赴任する。オーストリア海軍飛行大尉クロブツァーと水上飛行機の組み立てを行ったが、プロペラが湿気の多い青島に合わず、各種プロペラ11種を製作した。ドイツ軍唯一の飛行機で日本軍陣地を偵察し、時に空中戦を行った。総督の命を受けて116日午前6時、日の出とともに上海へ向けて飛行機で青島を脱出した。最後に握手をした人物は親友のアイエ海軍中尉(※1)であった。給油で着陸した江蘇省海州近郊で、中国官憲により機体没収の通告を受け機体を破壊・炎上させ、陸路上海へ向かった。上海からさらに南京に赴いた際には駅頭に、S90号艦長ブルンナー大尉(※2)を始めとして、乗組員が出迎えた。125日上海発サンフランシスコ行きの汽船モンゴリア号に乗船し、128日長崎港に寄港、検査・検閲を受けるが食中毒を装い逃れた。「余が以前から知っている長崎の陸地を船内から眺めた。…青島からの凱旋軍を迎える満艦飾で港も町も飾られていた。船内には青島を退去させられたドイツ人も大勢いた」【若林欽・広政幸助訳『青島から飛び出して』170頁】更に神戸、横浜に寄港してホノルルを経由してアメリカ本土に着いた。ホノルル港には南洋から来たドイツの巡洋艦ガイエルが抑留されて停泊していた。191512日サンフランシスコを去り、28日ジブラルタルに到着するが、露見して俘虜となる。イギリスのプリマスに着き、そこからさらに汽船でドチェスター(Dochester)に行き上陸。ロンドン近郊のメイドゥンヘッド(Maidenhead)、更にはホーリーポート(Holyport)の収容所を経て51日、ダービーに近いロングイートンにあるドニングトン・ホール(Donington Hall)の将校俘虜収容所に入れられる。月給として120マルク(約60円)を支給された。191574日逃亡し、熟知していたロンドンを数日彷徨して、オランダの貨物船プリンツェス・ユリアナ号の救難用ボートに忍び込み、オランダの港に着く。713日ベルリンに帰還して、ドイツ皇帝から「鉄十字章功1級」が贈られた。上記著作は70万部のベストセラーとなり、プリューショウ中尉は英雄として称えられた。1919年に軍籍から離れ、民間飛行家、映画のアナウンサー等の仕事をしつつ、幾つかの著作を執筆した。1931128日アルゼンチンで、複葉二人乗りの「チンタオ」号を操縦中に墜落事故を起こして死亡した。妻のイーゾト(Isot)に亡夫を偲んだ『ドイツ海軍軍人にして飛行家グンター・プリューショウ』の回想記がある。
1Aye(アイエ),Julius-1914):海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊・海軍中尉。〔ビスマルク山頂砲台指揮官〕。117日未明、山頂砲台自爆後、観測所に派遣された同中尉は、日本軍工兵隊の襲撃に対して抜剣して応戦したが、無数の切り傷を負って戦死。青島欧人墓地に埋葬された。プリューショウ海軍中尉の親友であった。
2Brunner(ブルンナー),Helmut von:駆逐艦S90号艦長・海軍大尉。1017日、総督より上海ないしは中立港へ脱出して、石炭及び糧食を調達すべく出動命令を受ける。午後7時青島港を出港し、1130分日本の艦船を発見して魚雷を発射、高千穂を沈没させ、翌午前5時ごろ青島南方海岸に接岸・自爆させ、中国官憲に逮捕された。やがて南京に送られるが、拘禁中の待遇は決して悪くはなかった。1111日、飛行機で脱出してきたプリューショウ中尉を南京停車場に他の乗組員とともに出迎えた。→192
26) 神尾光臣(1855-1927):青島攻囲軍司令官・陸軍中将。信州諏訪郡岡谷郷に生まれた。幼名信次郎。1874103日陸軍教導団に入って武学生となり、1877年の西南戦争には曹長として従軍した。187921日陸軍少尉に任ぜられる。以後、清国公使館附武官、近衛歩兵第3連隊長、第1及第10師団参謀長、歩兵第22旅団長、遼東守備軍参謀長、清国(天津)駐屯軍司令官、関東都督府参謀長、第9及第18師団長を歴任して、独立第18師団長(青島攻囲軍司令官)となる。陸軍内で、三本指にはいる中国通と言われた。19141126日付けで、上記の職を解かれ、青島守備軍司令官に就任。19141218日青島から東京駅に凱旋した。その日がちょうど東京駅開業式の日であった。1915324日付けで東京衛戍総督に転出、1915624日大将に昇任、714日男爵に叙せられ、8月退役した。次女安子は19093月有島武郎に嫁ぎ三男をもうけたものの、191712227歳で病死した。有島武郎の『死其前後』は妻安子の病状・病中等を題材にした戯曲である。→233)
27) モルトケ兵営:モルトケ山の東、プリンツ・ハインリヒ山(浮山)の麓に建設費約50万マルクで建てられた。騎兵中隊、機関銃隊、工兵中隊、海軍野戦砲兵隊の兵営で、日本の占領・統治時代は若鶴兵営と呼ばれた。→240
28) 水兵館(Seemannshaus;水師飯店) 1898年、ハインリヒ皇弟が東洋艦隊司令官として青島に滞在した折り、その設立が発案された。設立の目的は下士官、守備隊員及び艦隊乗組員のリクレーション並びに休息所を提供するためであった。設計は東アジア地域在住の建築家に公募された。18981018日着工(礎石)、1902年完成。日本の占領・統治時代は軍事法廷として用いられた。→240
29) プリンツ・ハインリヒ・ホテル(Hotel Prinz Heinrich):青島のヴィルヘルム皇帝海岸通りに1899年に建設された。同ホテルは青島と格別にゆかりのある皇弟ハインリヒ(※)に因む、青島随一の豪華なホテルであった。花崗岩を用いた3階建ての白亜のホテルは、その豪華さで東京の帝国ホテル、横浜のグランドホテルに遜色ないとも言われた。部屋数40室で、他にヴェランダ、テラス、婦人室、倶楽部室、読書室、控室、舞台を備えたホールがあった。1ヶ月の滞在費100ドル(約160万円)から150ドル(240万円)であった。パーティー、舞踏会が繰り広げられ、演奏会や演劇が開催されることもあった。日独戦争中は仮設野戦病院に充てられた。なお、アウグステ・ヴィクトリア湾に臨む海岸ホテルもその経営になり、そこでも歩兵第3大隊や膠州砲兵大隊の軍楽隊によるクラッシク、ポピュラーの演奏会が、冬期には週に2回開催された。
※ プリンツ・ハインリヒ(Prinz Heinrich von Preussen1862-1929):ドイツ帝国皇弟。189855日、巡洋艦隊を率いて膠州湾入港、青島の衙門に宿泊、滞在した。928日、青島築港のC.フェーリング建設会社の工事事務所で、山東鉄道の起工式の鍬入れを行った。1879年(明治12年)5月末来日、61日には上野精養軒で在京ドイツ人(ベルツ、ナウマン、バイル、ネットー、シュルツェ)の名で歓迎の小宴が開かれた。当時親王は16歳と6ヶ月であった。【『ベルツの日記』岩波文庫(上)81頁を参照】同年1117日には京都を訪れた。1899630日、東洋艦隊司令官として軍艦ゲフィオン(Gefion)を従えて旗艦ドイッチュラントで横浜に来航、ドイツ公使、領事、神奈川県知事は御乗艦まで出迎え、皇居附属邸の玄関では閑院宮戴仁が出迎えた。青島を度々訪問し、1912年の訪問終了に際しては、「『もし日本人が来ても、持ち堪えるように』との陽気な言葉を残したが、やがてそれは現実となった」【Laan,Heinz van der:Erinnerungen an Tsingtau.12頁】→318
30) 西郷寅太郎(1866-1919):歩兵第1連隊附歩兵中佐から東京収容所長を経て、習志野収容所長となる。西郷隆盛の長男で、明治天皇の思し召しで1885年(明治18年)18歳の時、ポツダムにあったドイツ陸軍士官学校に留学し、在独期間は13年に及んだ。1902年(明治35年)に父隆盛の名誉回復なり、侯爵に列せられた。なお、俘虜の待遇に関しての西郷所長の談話が残っている。西郷中佐の談「俘虜の月給はクーロー中佐の183円を筆頭として中尉47円、少尉40円、準士官40円、下士以下は日給30銭の規定なるが、右はいずれも我国軍人の各官等に準拠せるものにて、佐官尉官等は当該官等中の第三等級を以って標準となしたるなり。之は日露戦争の当時露国俘虜待遇法と何等異なる所なくいずれも俘虜を遇するにあくまで武人の面目を保たしむるを目途とせる俘虜取扱規定に拠れるものなり。尚右月給中将校以上の者は該月給の範囲内にて衣食住其の他一切の費用を自弁するの義務を有し下士以下は各給料の範囲内を以って当方にて一切の賄いをなし与え、衣食以外の間食又は嗜好品たるみかん、ビスケット、コーヒー、煙草等は希望により適宜現品にて支給する規定なり。以上の如き俘虜収容待遇に要する一切の費用は平和克復後即ち欧州戦乱終息の後において独逸政府之が賠償の義務を有する事勿論にして償金還付時期の戦後一年の後なりや将二年の後なりや不明なるも戦敗の結果疲弊せる独逸が一時に償金還付をなし能はざる節は一定の期間を約して漸次に賠償の義務を果たすこととなるべし」。【19141126日付け『東京朝日新聞』の記事「俘虜待遇の規定」による】191911日午後4時、スペイン風邪で死去。習志野収容所での二人目のスペイン風邪による犠牲者であった。東京・港区の青山墓地(1種イ1121/223番)に墓所がある。→326
31) ウルリヒ(Friedrich Ullrich-1914):海軍野戦砲兵隊・軍曹。〔給養係長〕。1914117日、軍使カイザー少佐の馬丁として台東鎮の日本軍部隊に赴く途中、流弾を受けて死亡し、青島欧人墓地に埋葬された。当時一部ではドイツ軍降伏による戦争終結を知らずに、まだ銃撃戦が行われていた。→358
32) シャリエール(Georg Charrière-1914):海軍歩兵第3大隊工兵中隊・陸軍工兵中尉。116日夕刻、第2歩兵堡塁攻防で重傷を負い、2日後の8日死亡。青島欧人墓地に埋葬された。フライブルク出身。→426
33) ビスマルク兵営:ビスマルク兵営:ビスマルク山の南西の麓に、1903年に建設費約75万マルクで建てられた。花崗岩の石造り3階建てで、「コ」の字形に配置されていた。海軍歩兵第3大隊(除く騎兵中隊)の兵営で、日本の占領・統治時代は万年兵営と呼ばれた。→437
34) 衛門砲台:衛門(ヤーメン)とは、清の時代まで存在した中国の役所。青島にドイツ時代にも残っていた中国の建造物は、衛門と明の時代の建造になる道教の寺院天后宮の二つのみであった。今日は後者のみが存在する。→482
35) 松田池:松山市郊外の山越地区、来迎寺前の道を挟んでやや南東に広がっていた池。山越地区は昔から水利の便が悪かった。そこで明治1117日池の普請が開始され、1510月に完成した。総面積約1万坪、水面積7330坪、水深66尺、総工費154965銭、延べ作業人員47149人であった。昭和50年に埋め立てられて、松山商科大学(現松山大学)の運動場となった。→515
36) ベーア(E. Behr):神戸のドイツ人商人。友人達を訪問するために頻繁に板東収容所を訪れた。戦争でドイツの子ども用図書が入手困難になり、自分の子どものために童話を書いた。それが収容所印刷所から出版された。収容所の内外で好評となり、初版400部はたちまち売り切れ、第2版は1150部刷られた。→518
37) 総督府衛戍病院:総督府のある総督山北東の敷地約2万坪の広大な土地に、1898年起工し、300万マルクの巨費を投じて1902年に完成した。小児病棟、婦人病棟、結核病棟、精神科病棟等を含む15棟から成り、病床数は最終的には301床となった。医師の数は院長を含めて6名で、いずれも海軍軍医であった。それまでは病院としては民営の「ファーバー病院」(1901年開業、医師1名)があるのみで、入院・手術の用がある場合は横浜の「ドイツ海軍衛戍病院」(※)に搬送されていた。後に李村、四方、即墨、膠州等に診療所を設けて出張診療した。日露戦争当時、約200名のロシア軍負傷兵が旅順から逃げ延びて、ここで治療を受けたとも言われる。日本のよる占領・統治時代の1915年、青島療病院として一般に開放し、翌年青島病院となる。
※ドイツ海軍衛戍病院:1878年横浜市街の外側、山手居留地40/41番に建設され、33年間存続したが19111231日に閉鎖された。病院は海から約50メートルの高さの、いわゆる「ブラフ(山の手)」にあり、周囲には外国人の庭園付きヴィラが心地よい風を受けて立ち並んでいた。1876年(明治9年)定礎、開院は187861日。煉瓦造り(一部木造)で、設計はフランス人建築家レスカスによる。注1)一等病室4部屋、二等病室3部屋、三等病室48部屋があった。1899年には手術室が設けられた。当時の陣容は、外科医長1名、検査官1名、薬剤師2名、日本人職員7名であった。義和団事件の頃には療養所が併設され、将校用10室と兵卒用40室が設けられた。青島に総督府衛戍病院が建設されて閉鎖された。33年間に受け入れた患者数は3357名、内1669名は陸軍並びに海軍軍人であった。民間のドイツ人750名、その他の国籍者は938名であった。最も繁忙であったのは1880-1881年で、その間の入院患者数は181名。18977月(または8月)からは郵便業務も行った。最初は5,10,20pfgの切手及び5pfgの葉書が配備された。1901年からは3及び50pfgの切手の配備もなされた。また在中国局切手の持ち込み使用も認められた。使用例は極めて希少である。参考:『日本郵趣百科年鑑』(1984年)、「H.Böddicker:Deutsche Marine-Schiffspost Yokohama,Japan berichte」及び『ベルツの日記』(上、219頁)。
1)レスカスは、1877年フランス土木技師協会誌へ、「地震の面からみた日本の建築構造と建築構造一般についての研究」を寄稿している。その中で、煉瓦造建築の耐震補強法を提唱し、このドイツ海軍衛戍病院や横浜三菱社の建築に実施している【『横浜もののはじめ考』101-102頁、横浜開港資料館、1988325日】。→532
38) 高橋写真館:ドイツ時代から海岸通に近い山東路で営業していた。店主は、その高度な撮影技量、ウイットに富んだ話術、誰の心にもすぐに伝わる善意で、青島在住ドイツ人に親しまれていた。旅行で青島を訪れるドイツ人は必ず立ち寄って記念写真を撮り、青島や周辺を写した絵葉書を購入したという。青島の風景・建造物や軍人・兵士の写真を多く写したことからドイツでは、店主は日本軍のスパイとして働いたとの推測もされている。→541
39) 山東鉱山会社:山東鉱山会社は18991010日、資本金1200万マルクでベルリンに設立された。設立母体は山東鉄道と同じ独亜銀行等14の民間企業による民営会社で、いわば山東鉄道とは兄弟会社であった。189836日に締結された独清条約による、山東鉄道と津浦鉄道沿線15キロ以内の鉱山採掘権に基づいている。坊子、博山、黌山等の鉱山を所有していたが、採算の点では必ずしも良くはなかった。そこでドイツ政府は、坊子、博山、黌山及び金嶺鎮を除く他の鉱山は、19131231日をもって中国政府に返還した。→554
40) 食肉加工所:官営の施設で1904年に起工し、19066月に完成、翌7月から業務を開始した。建設費として85万マルクを要した、東洋一の設備であった。5300余坪の広大な敷地には、検査場、処理場、厩舎、消毒室、冷蔵庫のほかに研究室もあった。ドイツ人所員は6名、中国人雇用者20名。冬季における輸出用の一日あたりの処理数は400頭、青島市用の一日の平均は、牛40頭、豚40頭、山羊20頭であった。1907年の輸出額は約65238マルクであったのが、1913年には226334マルクにまでと3倍強に達し、総督府における重要な財源となりつつあった。→564
41) 独中大学:1908年青島に設立された。創設費64万マルク(内訳:ドイツ政府60万マルク、中国政府4万マルク)で、1911年から1913年にかけて校舎の建設がなされた。開校式は19091025日に行われた。予科と本科からなり、予科は修業年限5年で、中等・高等を折衷したものだった。本科は法政、医科、農林、工科の4学科からなり、修業年限は法政と農林が3年、医科と工科は4年であった。校内には図書館、博物館、翻訳局等の施設があった。特に図書館には独、英,仏等の図書1294冊、漢書5058冊が所蔵されていた。【なお、独中大学の概要については、瀬戸「ドイツによる青島経営」を参照】。→565
42) 福島安正(1852-1919):陸軍大将。陸軍きっての情報将校。信州に生まれた。慶応元年江戸に出て講武所に入り、オランダ兵式を学んだ後大学南校で苦学勉励した。1869年(明治2年)司法省に翻訳官として勤務、1874年語学力を買われて陸軍省文官になり、ついで武官に転じて1881年陸軍中尉になった。参謀本部勤務と外国派遣(中央アジア、トルコ、ペルシャ、アラビア、インド等)を繰り返した。1887年陸軍少佐の時駐在武官としてベルリンに赴任、帰国の際(9293年)シベリアを単騎横断して勇名を馳せた。義和団事件では臨時派遣隊司令官となり、太沽城塞攻撃の混成大隊司令官を務めた。1889年から1906年迄の長期に亘って参謀本部情報部長、日露戦争時は満州軍参謀、戦後の1906年参謀次長、1907年男爵となり、1912年関東都督、1913年大将になった。中尉から少将までの30年間を情報将校一筋で通した【『大日本人名辭書』等より】。191481日、マイアー=ヴァルデック総督を訪問し帰途に着くや、翌2日ドイツ総督府は青島に戒厳令を布き、3日には予備・後備等を召集する動員令を発布した。→576
43) 『帰国航』:板東収容所の俘虜たちがドイツ本国に送還され、神戸からヴィルヘルムスハーフェンまで豊福丸で帰航中、船内で発行した船内新聞。週刊で6号まで発刊され、合計116ページであった。最終の6号には、「さらば習志野」の詩が掲載された。→601
44) イルチス兵営:イルチス山の南西の麓に、1899-1901年に建てられた。建設費は約95万マルクだった。ヴェランダ風のテラスを持つ2階建てで、夏の熱さを凌ぐための構造であった。海軍膠州派遣砲兵大隊の兵営で、日本の占領・統治時代は旭兵営と呼ばれた。→622
45) 独亜銀行:1889212日、当時のドイツの有力銀行であるドイツ銀行、北ドイツ銀行、メンデルスゾーン銀行、ダルムシュタット銀行、バイエルン抵当銀行等13行による出資500万テール(約2250万マルク)でベルリンに設立された。本店は上海に置き、支店としてはベルリン、ハンブルク、カルカッタ、シンガポール、香港、広東、漢口、北京、天津、済南、青島、横浜、神戸の13支店を置いた。中国語の銀行名は徳華銀行。青島商工会議所の会員会社だった。青島の独亜銀行の建物は、1899-1901年にヴィルヘルム皇帝海岸通りに建てられた。日本には横浜と神戸の二ヶ所に支店を置いたが、前者は関東大震災を期に閉鎖され、神戸からもその数年後に撤退した。→628
46) リーデゼル(Gottfried Frhr.von Riedesel zu Eisenbach-1914):海軍歩兵第3大隊第5中隊・予備陸軍少尉(男爵)。[北京駐在外交官]。元近衛第3槍騎兵隊所属。918日李村郊外白沙河畔の戦闘で、日本軍騎兵隊に突撃して壮絶な死を遂げ、青島欧人墓地に埋葬された。ドイツ軍にとっての最初の痛ましき損失ともいわれた【W.Vollerthun:Der Kampf um Tsingtau.98頁以下を参照】。なおこの戦闘では、日本軍の騎兵第22連隊第3中隊長佐久間善次大尉も戦死した。【瀬戸「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(2)」,109-110頁を参照】→665
47) ジームセン商会:中国語の社名は禅臣洋行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、銀行、船舶代理(Ocean Steam Ship 代理店)、火災海上生命保険、輸出入。大港近くの一画(日本占領・統治時代の葉桜町6789番地)に、6184u(約1800坪)の地所を所有していた。また、アルフレート・ジームセン(Alfred Siemssen)名では計13963u(約4200坪)を所有していたが、民有地としては唯一、いずれも日本の青島守備軍により押収された。総督府に軍の施設として提供したことによる。→738
48) ロルケ(Eduard Rollke):青島船渠技手。プリューショウ中尉のために水上複葉機の製作に当たった。戦争終結前に上海に逃れた。→779
49) メラー(Erich von Moeller-1914):河用砲艦チンタオ(213トン)艦長・海軍大尉。83日、チンタオの乗組員に対して、「この小さな艦で敵と戦うことは及びもつかない。諸君はなんとしても青島に辿りつくように」との言葉を贈って、自身は5人の部下と小さな船でドイツに向かった。インド洋を渡り、アラビア半島の海岸に着き、コンスタンチノープルまであと200マイルのところでベドウィンに襲撃されて、部下達とともに死亡した。【The Japanese Siege of Tsingtau.39頁より】→859
 
参考文献(概ね発行年代順に掲げた)
 
1) Behme,Dr.F.and Krieger, Dr.M.:Guide to Tsingtau and its Surroundings.W.Edition with 9 Maps a plan of the town and 86 Illustrations.Wolfenbüttel,1910.
2) Mohr,Friedrich Wilhelm:Die Pachtgebiete in China.Die Organisation ihrer Verwaltung und Rechtspflege.Inaugural-Dissertation zur Erlangung der juristischen Doktorwürde der hohen Juristischen Fakultät der Königlichen Universität zu Marburg.,Robert Neske,Leipzig,1913.
3) 『新刊詳密 膠州灣附近地圖』、大和石印局出版部編纂、大正39月。
4) 『山東省鉱業資料』、南満州鉄道株式会社鉱業部鉱務課、大正3118日。
5) 山根楽庵『寳庫の青島』、玉樹香文堂出版部、大正3121日。
6) 『山東及膠州湾』、東亜同文会調査編纂部、大正31223日。
7) 『青島戦記』、朝日新聞合資会社、大正4115日。
8) Gottberg,Otto von:Die Helden von Tsingtau.Verlag Ullstein,Berlin,1915.
9) 『山東概観』、通信局長田中次郎(発行者)、大正4723日。
10) 『俘虜名簿』、俘虜情報局、大正410月調(久留米市文書館所蔵)。
11) 『南洋新占領地視察報告』、文部省専門学務局、大正5331日。
12) 『大正三年 日獨戰史』、上下二巻、付図及び写真帳、参謀本部編纂、偕行社、大正51220日。
13) 『獨逸及墺洪国 俘虜名簿』、日本帝国俘虜情報局、大正66月改訂(防衛研究所図書館所蔵)。
14) 『獨逸及墺洪国 俘虜名簿』、日本帝国俘虜情報局、大正66月改訂(外務省外交資料館所蔵)。
15) 『青島経済事情』、野村徳七商店調査部、大正695日。
16) 『大正三年乃至九年戦役俘虜ニ関スル書類』(防衛研究所図書館所蔵)
17) 『自大正三年至大正九年戦時書類』(同上)
18) 『陸軍省 歐受大日記』(同上)
19) 「獨國陸軍官階表」、「獨國海軍官階表」、「澳洪國海軍官階表」(同上)
20) 『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独國俘虜関係雑纂』21冊(外務省外交資料館所蔵)
21) Plüschow,Gunther:Die Abenteur des Fliegers von Tsingtau.Meine Erlebnisse in drei Erdteilen.Im DeutschenVerlag,Berlin,1938(cp.1916).
22) Voskamp,C.J.:Aus dem belagerten Tsingtau.9.Auflage,Buchhandlung der Berliner evang.Missionsgesellschaft,Berlin,1917.
23) グンテル・プリッショー著、若林 欽/広政幸助訳『青島から飛び出して』、洛陽堂、大正7125日。
24) 堀内文次郎『青島攻囲陣中記』、目白書院、大正7423日。
25) Fremdenführer durch das Kriegsgefangenenlager Bando,Japan,Hrsg.von der Lagerdruckrei Bando,August 1918.
26) 『青島経営ニ関スル獨国ノ諸法令』、青島守備軍民政部編、第3版。大正71030日。
27) 『青島港』、一万分の一、原田汽船株式会社青島支店刊行(青島所沢町1番地)、大正86月。
28) 「獨逸人北海道移住ニ関スル趣意書」、名古屋俘虜収容所、大正8年。
29) 『青島新市街圖』、青島博文堂書店、大正10年訂正版。
30) Vollerthun,Waldemar:Der Kampf um Tsingtau.Eine Episode aus dem Weltkrieg 1914/1918 nach Tagebuchblättern.Verlag von S.Hirzel in Leipzig,1920.
31) Schmiedel,Otto(Professor am Gymnasium zu Eisenach):Die Deutschen in Japan,Leipzig,1920.
32) 『大日本人名辭書』、大日本人名辭書刊行會、大正15320日。
33) Vogt, Karl:Handelsgesetzbuch für Japan.2.Aufl.Carl Heymanns Verlag,Berlin,1927.
34) Der Krieg zur See 1914-1918. Die Kämpfe der kaiserlichen Marine in den Deutschen Kolonien.Hrsg.vom Marine-Archiv ,Verlag von G.Mittler & Sohn,Berlin,1935.
35) Degeners Wer ist's ? ,Verlag Hermann Degener,1935.
36) 『青島戰史』―獨逸海軍本部編纂1914年乃至1918年海戰史、海軍省教育局、東京・双文社印刷、昭和101225日。
37) 『通商破壊戦記』、フランツ・ヨーゼフ著、今村 甫訳、財団法人日本機動艇協会「舵」発行所、昭和175月。
38) 『デモ 私立ッテマス』、株式会社ユーハイム、昭和39年。
39) 『月星ゴム90年史』、月星ゴム株式会社、昭和42年。
40) 才神時雄『松山収容所』、中公新書、中央公論社、昭和44年。
41) 頴田島一ニ郎『カール・ユーハイム物語 ―菓子は神さま』、新泉社、1973年。
42) 八木浩「H.・ボーネルと今日の日本学の課題」、所載:『日本語・日本文化』第4号(大阪外国語大学)、1975.
43) Burdick,Charles B.:The Japanese Siege of Tsingtau.Archon Books,1976.
44) Schmidt,Vera:Die deutsche Eisenbahnpolitik in Shantung 1898-1914.,Otto Harrassowitz,Wiesbaden,1976.
45) Korth,Georg:Wandervogel,1896-1906.dipa-Verlag,Frankfurt/M,2.Aufl.1978.
46) 『ベルツの日記』()及び()、トク・ベルツ編・菅沼竜太郎訳、岩波文庫、1979年改訳第1刷。
47) Schrecker,John E.:Imperialism and Chinese Nationalism.Germany in Shantung.Harvard University Press,Second Printing,1980.
48) 冨田弘「ドレンクハーン報告書 −日独戦争と在日ドイツ俘虜」、豊橋科学技術大学人文・社会工学系紀要『雲雀野』第3号、1981年。
49) 坂本夏男「久留米俘虜収容所の一側面」(上)、(下)、『久留米工業高等専門学校研究報告』第31号及び32号、昭和54年。
50) Burdick,Charles/Moessner,Urusula:The German Prisoners-Of-War in Japan, 1914-1920.University Press of America,1984.
51) C.バーディック/U.メスナー/林啓介『板東ドイツ人捕虜物語』、海鳴社、1982年(昭和56年)430日。
52) 『ドイツ俘虜の郵便』―日本にあった収容所の生活、吉田景保訳注、日本風景社、昭和57520日。
53) 『日本郵趣百科年鑑』1984年、財団法人日本郵趣協会、1984420日。
54) Barth,Johannes:Als deutscher Kaufmann in Fernost.Bremen-Tsingtau-Tokyo 1891-1981.Erich Schmidt Verlag,1984.
55) :Tsingtau Tagebuch,OAG akutuell,1985.
56) 『平凡社 大百科事典』、平凡社、1984112日。
57) 山下肇「鳴門板東のドイツ村」(1)〜(3)、所載:『ノイエ・インフォーマ(Neue Informa)』、第910-12号、株式会社サンポスト、198510-12月。
58) 『大正ニュース事典』、毎日コミュニケーションズ、1986年。
59) 『横浜もののはじめ考』、横浜開港資料館、1988325
60) Du verstehst unsere Herzen gut-Fritz Rumpf(1888-1949)im Spannungsfeld der deutsch-japanischen Kulturbeziehungen.Japanisch-Deutsches Zentrum Berlin,1989.
61) Plüschow,Gunther:Silberkondor über Feuerland.Hans Georg Prager Verlag,1989.
62) 『朝日新聞〈復刻版〉』、日本図書センター、19891125日。
63) Hoevermann,Otto:Ostasienfahrt.Hrsg.v.Kurt Jürgen.Husum,1900.
64) 田村一郎「「ヒューマニスト所長」を可能にしたもの:「背景」からみた「板東俘虜収容所」」、鳴門教育大学社会系教育講座・芸術系教育講座、19903月。
65) 『バウムクーヘンに咲く花 ―ユーハイム70年の発展と軌跡』、株式会社ユーハイム、平成3101日。
66) 富田弘『板東俘虜収容所』―日独戦争と在日ドイツ俘虜、法政大学出版局、19911218日。
67) 『鶏肋―大和啓祐教授退官記念随筆集』(高知大学人文学部独文研究室編)、1992年。
68) 横田新『板東俘虜収容所長 松江豊寿』、歴史春秋社、1993415日。
69) 林啓介『「第九」の里ドイツ村』―『板東俘虜収容所』改訂版、井上書房、平成512月。
70) 中村彰彦『二つの山河』:『別冊 文藝春秋』207号所載、平成641日。
71) 上山安敏『世紀末ドイツの若者』、講談社学術文庫、1994810日。
72) 新田義之『リヒアルト・ヴィルヘルム伝』、筑摩書房、1994121日。
73) 『ドイッチュラント』、Societäts-Verlag,NO.2/95 J1.1995.
74) 志村章子『ガリ版文化を歩く』―謄写版の百年、新宿書房、1995130日。
75) 『来日西洋人名事典』増補改訂普及版、武内 博編著、日外アソシエーツ、1995131日。
76) 瀬戸武彦「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(1)―膠州湾占拠から青島の建設まで―」、所載:『高知大学学術研究報告』第44巻、19951225日。
77) Leutner,Mechthild(Hrsg.):Musterkolonie Kiautschou.Akademie Verlag 1997.
78) 棟田博『日本人とドイツ人』―人間マツエと板東俘虜誌、光人社NF文庫、19971010日。(『桜とアザミ』(光人社、昭和495月)の改題)
79) 『第7回企画展 ドイツ人俘虜と久留米』(久留米市教育委員会・平成9111日〜1115日。会場:久留米市役所2 くるみホール)。
80) 山田理恵『俘虜生活とスポーツ ―第一次大戦下の日本におけるドイツ兵俘虜の場合―』、不昧堂出版、平成10122日。
81) Die Baracke. Zeitung für das Kriegsgefangenenlager Bando,Japan.,Band 1.Neu transkribierte Jubiläumsausgabe zum 50 jährigen Bestehen der Stadt NARUTO.鳴門市、平成10331日。
82) 『ディ・バラッケ』第1巻、「板東俘虜収容所新聞」、鳴門ドイツ館資料研究会訳、平成10331日。
83) 松尾展成「来日したザクセン関係者」、所載:『岡山大学経済学会雑誌』 30巻第1号、19986月。
84) Hinz,Hans-Martin und Lind,Chrisoph:Tsingtau.Ein Kapitel deutscher Kolonial-geschite in China 1897-1914,(Deutsches Historisches Museum,Ausstellungskatalog),Berlin 1998.
85) Krebs,Gerhard:Der Chor der Gefangenen:Die Verteidiger von Tsingtau in japanischen Lagern.In:Ein Kapitel deutscher Kolonialgeschichte in China 1897-1914,(Deutsches Historisches Museum Ausstellungskatalog),Berlin 1998.
86) 『久留米俘虜収容所 19141920』:「久留米市文化財調査報告書第153集」(久留米市教育委員会)、平成11331日。
87) Laan,Heinz van der:Erinnerungen an Tsingtau.Die Erlebnisse eines deuschen Freiwilligen aus dem Krieg in Ostasien 1914.Hrsg.Rolf-Harald Wippich,OAG Tokyo,1999.
88) 『特別史料展 ドイツ兵の見たNARASHINO 1915-1920習志野俘虜収容所』、習志野市教育委員会生涯学習部社会教育課、平成111225日。
89) 瀬戸武彦「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(2)日独戦争とドイツ人俘虜」、所載:『高知大学学術研究報告』第48巻、19991227日。
90) 『特別資料展 ドイツ兵の見たNARASHINO ―習志野俘虜収容所/19151920』(「パンフレット」:主催:習志野教育委員会;平成12115日〜130日;会場:ザ・クレストホテル津田沼)。
91) 『どこにいようと、そこがドイツだ』、鳴門市ドイツ館、平成123月。
92) 『「歓喜」によせて 板東俘虜収容所物語』、読売新聞徳島版(200051626日)掲載記事の集成パンフレット。読売新聞社徳島支局、20006月。
93) 津村正樹「久留米俘虜収容所における演劇活動(1)」、所載:『九州大学言語文化研究院 言語文化論究』No.12. 平成128月。
94) Bauer,Wolfgang:Tsingtau 1914 bis 1931.Iudicium Verlag,München,2000.
95) 瀬戸武彦「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(3)ドイツによる青島経営」、所載:『高知大学学術研究報告』第49巻、20001225日。
96) 斎藤聖ニ『日独青島戦争 大正三年日独戦史』別巻2,ゆまに書房、2001325日。
 
あとがき
 
本稿の「はじめに」において触れているように、この資料は平成131225日発行のものに若干手を加えたものである。論文提出時期はその年の9月末日であった。その後、国内外でいくつもの重要な文献・資料が刊行され、また筆者が新たに入手した資料も数多く存在する。ここ10年ほど、日本及びドイツにおいて俘虜関係の文献が続々と刊行されている、と言っても過言ではない。しかしながら、今回はそれらをまだ十分に活かすまでには至っていない。例えば、クリューガー(Karl Krüger)、マイレンダー(Mailänder)及びメラー(Wilhelm Meller)についてはこの資料ではまったく触れていない。またクラウスニッツァー(Franz Clausnitzer)、ハインリヒ・ハム(Heinrich Hamm)、エルンスト・クルーゲ(Ernst Kluge)、オットー・レーマン(Otto Lehmann)等の場合は、ごく僅かの言及に留まっている。この資料に加えることも考えたが、他の俘虜との関連も多いことから、次回の続編に譲らざるをえなかった。ただし、既に言及している俘虜について、その生没年が判明した場合はそれを付け加えることにした。筆者はこの資料の続編を目下作成中である。誤りや記載漏れの事柄も多いと思われるので、各位からのご指摘、ご教示を頂ければ幸甚である。
 
なお、本資料作成に際しては、防衛庁防衛研究所図書館、外務省外交資料館、ドイツ東洋文化研究協会(OAG)、株式会社ユーハイム本部企画室、財団法人日本郵趣協会、横浜開港資料館、久留米市教育委員会文化財保護課堤 諭吉氏、習志野市教育委員会生涯学習部社会教育課米沢弘実氏、坂本 永氏及び星 昌幸氏、鳴門市ドイツ館館長田村一郎氏、岡山大名誉教授松尾展成氏、徳島大名誉教授後藤健次氏、九大教授津村正樹氏、藤田保健衛生大非常勤講師重岡宣明氏、内野健一氏の諸機関・諸氏から資料・情報の提供、また教示等を受けたことを記して感謝申し上げる。
 また先般、ドイツのザールラント州クッツホーフ(Kutzhof)在住の俘虜研究家ハンス=ヨアヒム・シュミット(Hans-Joachim Schmidt)氏から、40数名に及ぶ俘虜人名の綴りについて指摘を受けた。4700名余の『俘虜名簿』作成が急がれたことから生じた誤りであろうとのことでもあるが、筆者の単純な誤りも多かった。より正確な綴りに近づけられたのは、ひとえにシュミット氏の教示によるものであることを記す次第である。
更に、続編では文献として大いに参照する予定である、ドイツ・ルートヴィッヒスハーフェン在住の生熊 文(いくま あや;アヤ・プスター)氏による数編の訳業を、人名表記に関して参考とさせて戴いたことも記しておく。
 
最後に、拙稿「独軍俘虜概要」がこの度ホームページに掲載されることになった遠因を作り、折に触れては熱心にこうした方法を勧めて下さった星 昌幸氏、また春3月に丸亀を訪問した後、労をいとわずホームページ作成を積極的に推進し、想像もつかなかったほどにたちまち実現して下さった、丸亀俘虜研究会の小阪清行氏及び赤垣 洋氏に深甚の謝意を表します。
                          (平成1556日記)