青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(4)
独軍俘虜概要
                                  瀬戸 武彦
 
はじめに
 
本稿は、第一次世界大戦時に、当時ドイツの租借地であった中国山東半島の青島(チンタオ)攻防をめぐる戦闘、いわゆる日独戦争での独軍俘虜の事績・足跡等を紹介する資料として、高知大学学術研究報告第50巻人文科学編(平成13年(2001年)1225日発行)に発表したものへ、若干の加筆修正を施したものである。
これまでにも数多くの文献の中で独軍俘虜についての記述ないしは紹介が行われている。俘虜となる以前の青島等各地での生活、日独戦争時の行動、日本各地の収容所での活動、さらに大戦が終結してからの足跡等、俘虜となった人物の紹介は多岐にわたっている。それらを一覧の形にして纏めることが出来れば、青島独軍の実体や青島におけるドイツ人の生活の一端、さらには日本との関わり、また日本の時代状況の一面を多少なりとも浮かび上がらせることが出来るのではないだろうか。それが本資料作成のそもそもの動機である。
本資料では「独軍俘虜」という言葉を用いた。日独戦争における俘虜に対しては従来、「ドイツ人俘虜」、「ドイツ俘虜」また「ドイツ兵俘虜」の言葉が用いられてきた。ここには悩ましい一面がある。日本軍の戦闘相手はドイツ軍及びその同盟国のオーストリア軍であったからである。そのドイツ青島守備軍には当時のドイツ領土の関係から、ポーランド、デンマーク、ベルギー及びフランス系の軍人・兵士がいた。さらに事柄をややこしくしているのは、当時のオーストリア帝国とは正しくは、オーストリア=ハンガリー帝国と呼ばれる多民族国家であったからだ。従ってゲルマン民族であるオーストリア人以外にハンガリー人、ポーランド人、チェコ人、スロヴァキア人、クロアチア人等実に多様な人々がいて、領域内にはイタリア人すら住んでいた。日本軍の俘虜となったオーストリア軍艦カイゼリン・エリーザベト(皇后エリーザベト)の乗員には、そうした多様な軍人・兵士が含まれていたのである。本稿が依拠する最も重要な資料である当時の日本帝国俘虜情報局による『俘虜名簿』も、『獨逸及墺洪國俘虜名簿』となっている。
しかし本資料で「独軍俘虜」の語を選んだのは、第一に日本が最後通牒を発して戦闘国としたのはドイツであったことによる。オーストリア=ハンガリー帝国の艦船には退去・武装解除を勧告し、当初軍艦カイゼリン・エリーザベトもその警告に従った。結局は戦闘に参加したものの、終始独軍の指揮下にあった。第二に青島を含む膠州湾租借地はドイツの保護領であり、そしてなによりも青島をめぐる戦争は、「日独戦争」の語をもって表記されることが通例であることによる。
なお、人名・地名の表記には、慣用表記に従った場合もある。例えばJuchheim(ユッフハイム)はユーハイム、Berlin(ベルリーン)はベルリンと表記した。
 
本資料では以下の方針に基づいて俘虜概要の名簿を作成した。
 
1) 日本帝国俘虜情報局作成の『獨逸及墺洪國俘虜名簿』(大正66月改訂)―以下本稿では単に『俘虜名簿』と略す―に掲載された俘虜を取り上げた。この際の『俘虜名簿』は、防衛庁防衛研究所図書館所蔵と外務省外交資料館所蔵の二点の同名資料を用いた。後者では1920年初頭に、その後に追加されるべき俘虜や死亡した俘虜の死亡年月日が手書きで付け加えられ、新たな宣誓解放、移送先収容所がゴム印で追加押印されている。また俘虜番号の変更もなされていることから、後者を主たる『俘虜名簿』とした。
2) 収容所内ないしは、日本国内及び国外で何らかの活動・行為、または足跡が判明している場合。
3) 青島における戦闘での任務、守備位置が判明している場合。
4) 青島等での応召以前の職業が判明している場合。
5) 家族の消息が判明している場合。
6) 青島あるいはその周辺で死亡して青島欧人墓地等に埋葬されたが、俘虜番号を付された場合。
 
 『俘虜名簿』(外務省外交資料館所蔵版)には4715名が記載されているが、本資料で取り上げている俘虜数は905名(前掲拙稿から、「877)のWill(ヴィル)、Heinrich」の一名を削除した)で、全体の19.2%ほどでしかない。俘虜全員となると膨大な紙幅を要することから、事績・足跡等の判明している俘虜に限定した。なお、資料によっては姓のみしか記されず、同姓者が複数存在していて判別が付かなかったり、カタカナによる表記のみで特定出来なかった場合も少なくなかった。
 名簿の作成方法は『俘虜名簿』に準拠しているが、本資料での記載方法にはいくつか違いがある。以下の要領で俘虜概要名簿を作成した。
1) 『俘虜名簿』では将校及び同相当者と下士卒に分けられているが、本稿では区別することなくドイツ語のアルファベット順に掲載し、本稿での通し番号を設けた。
2) 諸事項の配列順は、通し番号、姓(カタカナによるその読み方)、名前等、生没年、所属部隊・階級、任務・守備位置、前職、事績・足跡等、俘虜番号・収容所名とした。(出身地の記載は、不確かな要素が多いと考えて事項からはずした)
3) 将校の階級名では、『俘虜名簿』あるいはドイツ側の資料で「海軍」と規定されている場合のみ海軍将校とした。その他の将校は、海軍歩兵大隊等に属して、形式上は海軍将校であってもその実体が陸軍将校である場合は陸軍の階級とした。例えば、海軍歩兵第3大隊長のケッシンガー大佐は海軍歩兵大佐であるが、実態に合わせて陸軍歩兵大佐とした。なお所属部隊名は、当時の陸軍参謀本部や俘虜情報局等の公的機関を始めとして、多くの関連文献でも実にまちまちの名称で記載されている。「海軍歩兵第3大隊」は『俘虜名簿』の〈V.Seebataillon〉に該当するものである。これにはドイツの文献にも〈Marine Infanterie〉、即ち「海軍歩兵」の語を当てているものもある。本資料では「海軍歩兵」の語を採用した。歩兵堡塁を守備する陸兵が主力で、実体に合うと考えたからである。
上記の関連で、「青島独軍参謀本部並びに部隊編成・配置とその指揮官」を以下に掲げる。なお、武装を解除され俘虜とはなったが、欧州ではまだ戦争が続いていて、収容所内においても軍隊組織が存在していた。つまり、俘虜にとっては依然として軍隊勤務の中にあり、それに応じた俸給も日本側から支給されていた。
 
 表1:青島独軍参謀本部並びに部隊編成・配置とその指揮官(『青島戰史』より)
参謀本部
 膠州総督:A.Meyer-Waldeck(マイアー=ヴァルデック)海軍大佐
副官:G.v.Kayser(カイザー)陸軍少佐
参謀長:L.Saxer(ザクサー)海軍大佐
参謀:W.Freiherr v.Mauchenheim(マウヘンハイム)海軍大尉
情報部長:W.Vollerthun(フォラートゥン)海軍大佐(海軍省膠州課長)
砲兵部長:P.Boethke(ベトケ)海軍中佐
工兵部長:C.Siebel(ジーベル)陸軍少佐
通信兼信号将校:K.Coupette(クーペッテ)陸軍中尉
飛行将校:G.Plüschow(プリューショウ)海軍中尉
暗号将校:P.Kempe(ケンペ)陸軍中尉
  上:W.Trittel(トリッテル)予備陸軍少尉
軍医長:Dr.Foerster(フェルスター)海軍軍医大佐
法務長:G.Wegener(ヴェーゲナー)海軍法務官
民政長:O.Günther(ギュンター)青島民政長官
財政長:C.Knüppel(クニュッペル)海軍財政官
情報部通訳:J.Überschaar(ユーバシャール)予備陸軍中尉
   上:F.Hack(ハック)予備陸軍中尉
 
海軍歩兵第3大隊長:Fr.von Kessinger(ケッシンガー)陸軍中佐
 副官:W.Bringmann(ブリングマン)陸軍中尉
 1中隊長:G.Weckmann(ヴェックマン)陸軍大尉:右地区(第1歩兵堡塁=湛山堡塁)
2中隊長:W.Lancelle(ランツェレ)陸軍大尉:中央地区(第4歩兵堡塁=台東鎮東堡塁)
3中隊長:H.v.Wedel(ヴェーデル)陸軍少佐:左地区(第5歩兵堡塁=海岸堡塁)
4中隊長:E.Perschmann(ペルシュマン)陸軍大尉:右地区(第1・第2歩兵堡塁
中間陣地)
5中隊長:E.Kleemann(クレーマン)陸軍騎兵少佐:中央地区(第3・第4歩兵堡
塁中間陣地)
6中隊長:C.Buttersack(ブッターザック)陸軍中尉:右地区(湛山堡塁)
7中隊長:H.Schulz(シュルツ)陸軍大尉:右地区(第2歩兵堡塁=湛山北堡塁)と中央地区(第3歩兵堡塁=中央堡塁)
 砲兵中隊長:S.v.Saldern(ザルデルン)海軍大尉:左地区
工兵中隊長:E.A.Sodan(ゾーダン)陸軍大尉:中央地区の第23歩兵堡塁中間陣地
野戦砲兵隊長:W.Stecher(シュテッヒャー)陸軍大尉:中間掃射4砲兵陣地(鉄道列車上)
重野戦榴弾砲兵隊長:R.Boese(ベーゼ)陸軍中尉
自働短銃隊長:G.Charrière(シャリエール)陸軍中尉(後日、C.Krull(クルル中     尉)
 機関銃隊長:Fr.F.v.Schlick(シュリック)陸軍中尉
海軍膠州派遣砲兵大隊長:G.Hass(ハス)海軍中佐
 海正面司令官:H.Wittmann(ヴィットマン)海軍大尉          
1中隊長:H.Wittmann(ヴィットマン)海軍大尉(?)
2中隊長:H.Kux(ククス)海軍大尉
3中隊長:R.Duemmler(デュムラー)海軍大尉
4中隊長: S.v.Saldern(ザルデルン)海軍大尉(兼任?)
5中隊長:G.Griebel(グリーベル)海軍中尉
 
海軍東亜分遣隊長:P.Kuhlo(クーロ)陸軍中佐
1中隊長:Graf v.Hertzberg(ヘルツベルク)陸軍大尉 :左地区(第4・第5歩兵堡塁中間陣地)
2中隊長:O.Schaumburg(シャウムブルク)陸軍大尉:左地区(第6歩兵堡塁)
3中隊長:H.v.Strantz(シュトランツ)陸軍大尉:第1中隊と同じ陣地
 
動員国民軍指揮官:L.Wiegand(ヴィーガント)陸軍中尉
1国民軍小隊長:H.Walter(ヴァルター)中尉補
2国民軍小隊長:E.Lehmann(レーマン)中尉補
 
4) 階級は日独戦争終結時点でのものとし、下士卒の階級には海軍及び陸軍の呼称を省いた。階級名は、参考文献に掲げた諸官階表におおむね依拠した。
5) 俘虜の多くは収容所の整理・統合等で、収容所替えを経験している。その場合は矢印→で移送先を示した。
なお、当初収容された収容所を俘虜番号順別に示すと、以下のようになる。
 
   1Agethen,H.)〜 315Zilosko,H.)… 東京(但し、1081名は青島で死亡:314名)
   316Anders,E.)〜 852Zoepke,G.)… 久留米(537名)
   853Adler,N.)〜 1702Zschöckner,W.)… 福岡(850名)
   1703Ahe,E.v.d.)〜 1809Zimmermann,W.)… 静岡(107名)
   1810Adamczewski,B.)〜 2133Zimmermann,E.)… 丸亀(324名)
   2134Allenstein,O.)〜 2456Zecha,J.)… 姫路(323名)
   2457Ahlers,L.)〜 2765Zimmermann,H.)… 名古屋(309名)
   2766Abelein,G.)〜 3180Zimmermann,K.)… 松山(415名)
   3181Alinge,K.)〜 3831Zielaskiwitz,K.)… 熊本(651名)
   3832Artelt,M.)〜 4117Ziolkowski,W.)… 大阪(286名)
   4118Auer,A.A.)〜 4323Wieser,R.)… (大阪※→)徳島(206名)
   4324Altenbach,Th.)〜 4464Zahn,H.)… (熊本※→)大分(141名)
   4465Anstoltz,Chr.)〜 4709Walther,Hugo)… 大阪(245名;但し、46271名は青島収容所から逃走、4659から4664までの6名は青島およびその周辺で死亡、4665から4673までの9名は西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが宣誓解放され、46871名は大戦終結まで青島収容所に収容されたままであった)
    その他上記に含まれないケース
   4710Strempel,Walter)… 久留米
   4711Morawek,Rudolf Edler v.)… 大阪
   4712Keining,Ernst)… 大阪
   4713Ivanoff,Valentin D.)… 大阪
   4714Wegner,Ferdinand)… 青野原
   4715Günther,Otto)… 板東
    ※(3週間前後のごく短期間)
6)年号は原則として西暦を用いた。なお、青島における日独戦争関連の出来事で年月日を示す際は、1914年の西暦を省略した。
7) 注で触れている人名・事項等は太字とした。さらに注の各項目末尾には、当該個所が判りやすいように矢印(→)で通し番号を示した。なお、注における人物紹介にあたっては、当時の状況等との関連及び理解のために、かなりの字数を用いた場合がある。
8) 出典、参考文献を記した場合、及び関連参考事項等は【 】で示した。俘虜の事績・足跡等の記述に当たって参考とした文献は本資料末尾に記したが、概要の中で該当文献及びその個所を、必ずしも全てに亘って明示しているものではない。一つの文献だけに依拠した訳ではなく、場合によっては相当数の文献からの抽出であり、また煩雑さを避けることも考慮した。しかし、明らかなる引用(その場合は「」で括ってある)の場合は明示した。
9) 概要の中には、中国の地名が多く出てくることから、資料末尾に関連図を5葉掲げた。