独軍俘虜概要 (J〜P)
 
通し番号) 姓(フリガナ) 名前等 (生没年):所属部隊・階級 〔日独戦争での任務・守備位置〕[前職] 事績・足跡等 (俘虜番号・収容所)
 
325) Jahn(ヤーン),Josef:カイゼリン・エリーザベト乗員・4等按針下士。姫路時代の1915223日、景福寺の収容所からリップスキー(Lippsky)、アレッシ(?)の三名で脱走を企てた。当時22歳だった。(2247:姫路→青野原)
326) Jahn(ヤーン),Karl:海軍砲兵中隊・1等水兵。[食肉加工職人]。習志野時代、1918218日から他の4名のソーセージ職人と、千葉市に新設された農商務省畜産試験場の飯田吉英技師の求めに応じて、ソーセージ造りの秘伝を教えた。この技術は農商務省の講習会を通じて全国の食肉加工業者に伝わり、習志野は日本におけるソーセージ製造の発祥地となった。当初彼は伝授を躊躇ったが、西郷寅太郎所長の熱心な要請に応じて公開した。大戦終結後は、日本内地での契約が成立していたため日本で解放された。(313:東京→習志野)
327) Jahn(ヤーン),Walter:海軍膠州派遣砲兵大隊第1中隊・予備砲兵伍長。板東時代、砲兵大隊スポーツ協会の役員を務めた。(4188:大阪→徳島→板東)
328) Jaehnert(イェーネルト),Fritz:海軍歩兵第3大隊第1中隊・予備副曹長。久留米時代は演劇活動で、マイアー=フェルスター作の『アルト・ハイデルベルク』等6演目に出演した。(3394:熊本→久留米)
329) Jakob(ヤーコプ),Johann1892-1918):海軍歩兵第3大隊第5中隊・2等歩兵。19181114日名古屋で死亡、軍人墓地に埋葬された。(2574:名古屋)
330) Jakoby(ヤコービ),Johann:国民軍・上等歩兵。[徴税台帳記録係]。板東時代、板東俘虜収容所の詳細な地図(625分の1)を作成・印刷した(191941日付け)。今日1葉(Blatt 1)のみが残されている。その地図によれば、タパタオ区域は正門を入って左手の塀沿いにあった。妻と3人の子は大戦終結まで青島に留まった。(2946:松山→板東)
331) Jansen(ヤンゼン),Gustav Adolf1888-1915):海軍野戦砲兵隊・予備副曹長。1915213日名古屋で死亡、軍人墓地に埋葬された。(2576:名古屋)
332) Janssen(ヤンセン),Bernhard:海軍東亜分遣隊第1中隊・伍長。102日、四房山で俘虜となり、久留米収容所に送られた。当時24歳。12日、久留米に到着した時の新聞記者との談話によれば、陸軍に入る前に海軍で勤務し、長崎を訪れたことがあり、日本の風俗等にも多少通じている。俘虜虐待などないことを確信していると語った。【『大正ニュース事典』第1巻、437頁】(517:久留米)
333) Janssen(ヤンセン),Peter:海軍歩兵第3大隊第7中隊・予備伍長。板東時代、収容所合唱団の指揮者を務めた。(1935:丸亀→板東)
334) Jarmuske(ヤルムスケ),Volmar B.:海軍歩兵第3大隊機関銃隊・2等歩兵。久留米時代は演劇活動で、笑劇『チャーリーの叔母』に女役で出演した。(3402:熊本→久留米)
335) Jaspersen(ヤスペルゼン),Julius:海軍歩兵第3大隊第6中隊・後備陸軍少尉。〔湛山堡塁〕。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919826日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ブロイニンゲル(Braeuninger)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、ハンゼン(Hansen)、イェプセン(Jepsen)、カルステンス(Carstens)、ニールゼン(Nielsen)の6名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。ドイツ北部シュレースヴィヒ・ホルシュタインのハーデルスレーベン(後にデンマーク領ハーデルスレーフ)出身。『中国におけるあるドイツ人商人の仕事と冒険』(Do Mau.Arbeit und Abenteuer eines deutschen Chinakaufmanns,Leipzig,Verlag E.A.Seemann,1936)の著書がある。(2937:松山→板東)
336) Jauch(ヤオッホ),Otto:海軍東亜分遣隊第1中隊・2等歩兵。[電気技術者]。妻は大戦終結まで青島に留まった。(109:東京→習志野)
337) Jellovcic(イェロヴチッチ),Anton:カイゼリン・エリ―ザベト乗員・1等水兵。青野原で死亡(年月日不明)。(2254:姫路→青野原)
338) Jensen(イェンゼン),Hans A.:海軍歩兵第3大隊予備榴弾砲兵隊・後備副曹長。板東時代、収容所合唱団でテノールを担当した。(2945:松山→板東)
339) Jepsen(イェプセン),Julius:海軍膠州派遣砲兵大隊第2中隊・2等砲兵。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919826日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ヤスペルセン(Jaspersen)、ブロイニンガー(Braeuninger)、カルステンス(Carstens)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、ハンゼン(Hansen)、ニールセン(Nielsen)の6名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。(3939:大阪→似島→板東)
340) Jock(ヨック),Adolf:海軍膠州派遣砲兵大隊第1中隊・2等砲兵。928日、浮山近くの巫山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(518:久留米)
341) Johannes(ヨハネス),Hugo-1919):海軍膠州派遣砲兵大隊第1中隊・1等砲兵。1919131日、スペイン風邪により習志野で死亡。(1164:福岡→習志野)
342) Johannsen(ヨハンセン),Martin:国民軍・卒。1915920日、青島から大阪収容所に移送された。(4681:大阪→似島)
343) Johannsen(ヨハンセン),Peter:海軍砲兵中隊・2等焚火兵。久留米時代の19198月、在京スイス公使宛に解放に関する信書を出した。1919628日に締結されたヴェルサイユ条約により、ドイツ領からデンマーク領に編入されたアーベンラー(独名アーペンラーデ)出身。(3408:熊本→久留米)
344) John(ヨーン),Hermann:国民軍・卒。1915920日、青島から大阪収容所に移送された。(4682:大阪→似島)
345) Johnson(ヨーンゾン),Rolf:海軍東亜分遣隊第2中隊・予備上等歩兵。バールト(Barth)の中国時代からの知り合いで、アスレチックの体操家だった。父親はデンマーク人であったがドイツの軍隊で働いていた。あるイギリス人娘と結婚することになって初めて自分がドイツ国籍を持たないことを知る。いずれの国籍を選ぶか悩み、最終的にはドイツ国籍を選んだ。結婚して二、三ヶ月後に大戦勃発し、青島に赴き、ドイツ軍部隊で働く。第1次大戦終了後、再び中国に出かけ、まもなくその地で没した。収容所時代から酒を飲みすぎたのが原因と言われた。【Barth:《Als deutscher Kaufmann in Fernost40頁】(1174:福岡→名古屋→板東)
346) Juchheim(ユーハイム),Carl1889-1945):国民軍・卒。1225日にライン河畔の町カウプに13人兄弟の10番目として生まれた。父はビール醸造職人のマイスターだった。シュトラールズントの菓子店で修業し、1908年職業学校を卒業して菓子職人になると、その年青島で菓子店と喫茶店を営むドイツ人に招かれて赴任した。バウムクーヘンを得意とし、ここで菓子職マイスターの資格を得て青島のビスマルク街で菓子店を営んだ。1914728日にニッケル(Nickel)副曹長を証人の一人として結婚式を挙げた。妻の名はエリーゼ(Elise)と言った。青島陥落時はニッケル夫人が二人の幼子を連れてユーハイム家に身を寄せていた。そこへ日本軍兵士三人が家にどかどかと入り込んできた。しかし危害を加えることはなく、ニッケル夫人の二歳の子供に、角のある色とりどりの可愛らしい小さなお菓子を差し出した。エリーゼは機雷を連想して、毒かと思って立ちはだかると、兵士は自ら食べてみせた。兵士が去ったあとで口にするととても甘くておいしいお菓子で、それは「金平糖」であったという。19159月、非戦闘員であったユーハイムに召喚状が届き、俘虜として日本に送られることになり、920日大阪収容所に収容された。やがて114日に息子カール・フランツが青島の病院で生まれたことをユーハイムは収容所で知った。1917218日、大阪収容所から似島収容所に移送された。広島の物産陳列館(現在の原爆ドーム)での俘虜作品展示即売会には、ヴォルシュケ(Wollschke)及びオートマー(Othmer)の勧め・励ましを受けてバウムクーヘンを出品し、市民の好評を博した。戦争終結まじかに、板東収容所の知友グロースマン(Grossmann)に似島や習志野収容所の動静を記した手紙を送った。青島に留まったエリーゼ夫人は困り果てた時幾度となく山田耕三大尉に訴え、その都度親切にしてもらった。大戦が終結しての1920125日、エリーゼは息子カール・フランツを連れて青島から神戸に着いた。ユーハイムはやがて明治屋に就職し、銀座「カフェー・ユーロップ」の製菓主任になった。月給は350円で、当時としては破格の報酬であった。やがて独立して横浜山下町に菓子店「ユーハイム」を開業した。関東大震災で店は倒壊し、1920年神戸三宮に移って再出発した。一時健康を害してドイツに帰国したが再び来日し、第2次大戦中も日本に留まった。194565日の空襲で店は瓦解し、失意の内に814日六甲ホテルで死去した。息子のカール・フランツは第2次大戦に応召し、56日ウィーンで戦死した。戦後店は再建され、妻エリーゼ(1892-1971)の奮闘によって発展し、現在もドイツ菓子の店として広く知られている。【頴田島『カール・ユーハイム物語』等より】(4683:大阪→似島)
347) Kahle(カーレ),Georg:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代、収容所内のタパタオでレストラン「クリスタル・パラスト」(水晶宮)をシューベルト(Schubert)と共同で経営した。(2963:松山→板東)
348) Kahler(カーラー),Franz:海軍砲兵中隊・海軍中尉。〔第4中間地掃射砲台並びに高角砲指揮官〕。鉄道線路上の移動中間掃射砲で、湾堤防上から日本軍に対して榴弾射撃を行った。(116:東京→習志野)
349) Kalkbrenner(カルクブレンナー),Paul1876-):海軍野戦砲兵隊・予備副曹長。[商社員]。ハンブルクの貿易商社カール・ローデ商会の日本代表を務めていた。190212月に来日した。趣意書提出時点では、既に在日17年であった。妻は日本人女性で名前はミキ子といい、その間に三人の子があり、開戦前は横浜市海岸通り43のaに住んでいた。名古屋俘虜収容所を通じて、『獨逸人北海道移住ニ関スル趣意書』(大正8823日付け)を北海道帝国大学へ提出した。日本人に科学的な欧州農業経営を実地に示すために、北海道にドイツ人俘虜よりなる農場を開設する提案であった。「9歳迄家庭教師ニ就キ学ヒ後、ブロヒベツ市ノプロシヤ王国立実業科高等学校ニ入学シ大学入学資格ヲ得タリ、長男トシテ父ノ家業ヲ相続スルノ必要上三ヶ年父ノ農場ニ就キ実地農業ヲ修得セリ、後一年志願兵トシテポムメルン第二砲兵隊ニ入リ試験後、予備将校昇進資格ヲ得タリ、父ノ事業継承迄世界ヲ見ム為メハムブルヒ輸出入業会社ニ二ヶ年半就職ノ後1902年、カール・ローテ会社員トシテ神戸ニ来リ代表委任権ヲ得タリ、1908年カール・ローテ商会ニ属スル東京銀座サスガ商会ノ支配人トナリ世界大戦ニ至ル、戦争中父死シテ遺産悉ク義妹ノ夫ニ帰ス 然ルニ生涯商人タルノ志望ニ非ラス父ノ農業ヲ継承スルノ素志ナリシヲ以テ五ヶ年間ノ俘虜生活中外国移住ノ目的ニテ農業ニ関スル諸種ノ専門ヲ研究セシ、北海道農業企業ノ計画組織者タルト共ニ主催者タル者ナリ 肥料、耕作、及農業、工業ヲ特技トス」【「北海道移住」より】(2607:名古屋)
350) Kalthoff(カルトホフ),Wilhelm:海軍歩兵第3大隊機関銃隊・軍曹。久留米の演劇活動では、喜劇『お似合いの燕尾服』に出演した。(520:久留米)
351) Kammerer(カンメラー),Ernst:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・予備1等無線電信技手。久留米時代の19198月、東京府豊多摩郡渋谷町の合資会社日本無線電信機製造所から情報局へ、無線電信技術を習得していて、解放後雇用を望む者の有無問い合わせに、久留米ではカンメラーを紹介・連絡した。(1211:福岡→久留米)
352) Kappel(カッペル),Willy:海軍砲兵中隊・給与掛2等筆記。松山時代、大林寺の講習会で算数の講師を務めた。(2987:松山→板東)
353) Kappler(カップラー),Carl:国民軍・卒。1915920日、青島から大阪収容所に移送された。大戦終結後、山東省の省都済南で貿易商社を経営した。(4684:青島→大阪→似島)
354) Kardinal(カルディナール),Hermann1892-1918):海軍歩兵第3大隊機関銃隊・2等兵。1918121日名古屋で死亡、軍人墓地に埋葬された。(2593:名古屋)
355) Karius(カーリウス),Friedrich:築城部・築城曹長。松山時代、『陣営の火』編集に加わり、数多くの見事な地図や表を作成した。(2986:松山→板東)
356) Karolczak(カロルチャク),Joseph:海軍砲兵中隊・2等水兵。久留米時代の1917128日、アンドレーア(Andrea)をシュルツェ(Schulze)等仲間18人で袋叩きにして、傷害罪により1月の懲役刑に処せられた。(3463:熊本→久留米)
357) Kaesemann(ケーゼマン),Friedrich:国民軍・上等歩兵。[運送業]。1915920日、青島から大阪収容所に送られた。妻と子は大戦終結まで青島に留まった。(4685:大阪→似島)
358) Kayser(カイザー),Georg von:総督府参謀本部・陸軍少佐。〔総督副官〕。1013日午前10時に東呉家村において行われた、非戦闘員及び中立国民避難のための休戦会談に独軍の軍使として臨んだ。その折り、胸に日本の瑞宝章を付けていた。通訳としてユーバシャール(Ueberschaar)予備中尉が同道したが、日本語を少し話した。協議の折、山田耕三大尉からシュテッヒャー(Stecher)大尉宛ての葉書を託された。また117日の降伏申し入れの際は、ヘーネマン副衛兵長をラッパ手に、ファーベル1等蹄鉄工長を白旗を掲げる旗手に、ウルリヒ軍曹を馬丁に、日本軍本部陣地のある台東鎮に総督の降伏文書を携えて軍使として赴いた。その折り、ウルリヒ軍曹は流弾を受けて死亡した。さらに117日午後4時からモルトケ兵営で行われた青島開城交渉でも、ドイツ側委員の一員になった。(1181:福岡→習志野)
359) Kempe(ケンペ),Paul:総督府参謀本部・陸軍中尉。〔暗号将校〕。当時40歳だった。1110日にモルトケ兵営で行われた神尾司令官とマイアー=ヴァルデック総督の会見では、総督の秘書官として列席した。19151112日、大正天皇即位大典の日に逃亡したが、その際通訳のハック(Hack)が助力した。ハックは事前に「神戸新聞」により連絡船の発着等の日程日時を調べ上げていた。逃走5時間後に門司に到着。フェリーで下関に着き、「三条ホテル」にスウェーデン人を装って投宿した。翌13日午後老朽船「八幡丸」に乗りこんだ。この船を選んだのは、無線設備が無いからであった。18日上海に到着し、逃亡した4名は上海の地で落ち合った。またケンペは上海でシベリアの収容所を脱走してきた将校とも接触し、やがてシベリア鉄道でドイツに行くルートを選択し、上海を出て18日後に晴れてドイツの地にたどり着いた。【Burdick/Moessner:The German Prisoners-Of-War in Japan,1914-1920,26-29頁】(1182:福岡)
360) Kerkhof(ケルクホーフ),Hermann:海軍砲兵中隊・後備2等兵曹。「両名ハ頗ル傲慢不遜ノ態度ニシテ写真撮影セラレ敵国ノ新聞雑誌等ン掲載セラルルガ如キ事アラバ軍人ノ体面上恥辱ナリト主張シ如何ニ訓諭スルモ之ニ服従セズ遂ニ同人等ノ撮影ヲ中止スルノ已ムナキニ至レリ「ケルクホーフ」ハ常ニ粗暴不謹慎ノ言動アルモノ」とされて、ヴェーアハーン(Wehrhahn)とともに重営倉25日に処せられた。【『日独戦書』】(1744:静岡→習志野)
361) Kern(ケルン),Ludwig:海軍膠州派遣砲兵大隊第2中隊・2等砲兵。大阪時代の19151231日の大晦日にシュトルフ(Storf)とともに脱走したが、翌元旦に堤防の上を歩いているところを発見され逮捕、大阪監獄に収監された。この事件のため、127日に予定されたドイツ皇帝誕生日を祝う祝賀会及び音楽会が許可されなかった。(3955:大阪→似島→習志野)
362) Kersten(ケルステン),Hermann:海軍膠州派遣砲兵大隊・2等砲兵。1920228日に喜福丸でヴィルヘルムスハーフェン港に帰国した光景を記した。それによると、「岸壁に集まった子供達はパンを欲しさに叫び声を上げていた。そこで腕いっぱいに抱えたパンを放ると、周囲にいた大人の船員達が子供を押しのけて拾い、がつがつと食べ始めた。その光景を見て愕然となり、甲板の隅に隠れて激しく泣いた」とのことである。【《The German Prisoners-Of-War in Japan,1914-1920108-109頁】(1241:福岡→青野原)
363) Kessinger(ケッシンガー),Friedrich von:海軍歩兵第3大隊長・陸軍歩兵中佐。〔守備隊の陸上戦隊指揮官〕。厳しい態度・姿勢のため、部下達からはあまり好かれてはいなかった。1110日午後2時、青島残留のドイツ兵を引き連れて台東鎮に引き揚げ、日本送還までそこで露営した。名古屋収容所の俘虜代表を務めた。妻と二人の娘は大戦終結まで上海で暮らした。大戦終結してドイツ帰国後、日独戦争前から日本の収容所の様子などを記した『出来事』(Geschichte)を残した。(2577:名古屋)
364) Kessler(ケスラー),Kurt:海軍歩兵第3大隊機関銃隊・副曹長。久留米時代の1917313日、ケスラーから日本赤十字社に「コパイザルサム」薬の送付方の依頼があった、との照会が日赤から俘虜情報局にあった。同薬品は軍医によって差し支えないと判断され、収容所医務室で配剤されることになった。(3441:熊本→久留米)
365) Ketel(ケーテル),Hellmuth1893-1961):海軍砲兵中隊・2等信号兵。[軽巡洋艦エムデン乗員]。ハンブルク郊外に生まれた。大戦終結後、習志野の仲間といくつか事業を起こすが失敗する。その後会津の女性と結婚し、1927年銀座・並木通りに「バー・ラインゴールド(Bar Rheingold)」を開業し、1930年にはその隣にレストラン「ケテル(Ketel)」を開業した。1961年死去。【銀座並木通りの「ケテル」入り口脇の記念板には、「1916年(大正5年)来日」となっているが、俘虜情報局による大正410月調の『俘虜名簿』には、既にその名が収容所名とともに記載されている】(140:東京→習志野)
366) Kettgen(ケットゲン),Johann(-1919):海軍歩兵第3大隊機関銃隊・上等兵。191932日、スペイン風邪により久留米で死亡。(3443:熊本→久留米)
367) Keyssner(カイスナー),Ernst:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代の1919年、バルクホールン、ラーン(Laan)、ルードルフ(Rudolf)及びジーモンス(Simons)と共に、日本語文献からの翻訳『国民年中行事』(Das Jahr im Erleben des Volkes)の出版に関わった。また、板東ホッケー協会のチームのメンバーだった。(2967:松山→板東)
368) Kienningers(キーニンガース),Josef:海軍野戦砲兵隊・予備陸軍少尉。〔要塞車厰第2次指揮官〕。大戦終結後、日本内地での契約が成立して内地解放者となった。(4385:熊本→大分→習志野)
369) Kierdorf(キーアドルフ),Wilhelm:海軍膠州派遣砲兵大隊第4中隊・2等砲兵。板東時代、スポーツクラブ「青年の力」でレスリングをした。(4208:大阪→徳島→板東)
370) Kiesewetter(キーゼヴェッター),J.Paul(-1917):海軍歩兵第3大隊第6中隊・後備2等歩兵。191759日大分で死亡、軍人墓地に埋葬された。(4382:熊本→大分)
371) Kiessling(キースリング),Otto K.:海軍歩兵第3大隊第4中隊・2等歩兵。久留米時代は演劇活動で、トーマ作の農民笑劇『一等車』等14演目に主として女役で出演した。(3435:熊本→久留米)
372) Kirchner(キルヒナー),Reinhold:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(535:久留米)
373) Klautke(クラウトケ),Paul:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。[青島食肉加工所検査官]。松山時代、公会堂の講習会で物理学の講師を務めた。板東では食肉の検査をした。また、工芸品展には付属品付きの養蜂箱を制作・出品した。さらに坂西農養蚕学校に出張して、植物標本の作製方法を指導した。19171126日、「中国の夕べ」で講演を行う。1919124日には、「米と茶の栽培及び養蚕」の写真展を開いた。大戦終結後、帰国に際して板東小学校に植物標本を寄贈した。(2971:松山→板東)
374) Kleemann(クレーマン),Eduard1870-):海軍歩兵第3大隊第5中隊長・陸軍騎兵少佐。〔外方陣地左翼陣地指揮官〕。916日、20名の騎兵と12名のオートバイ隊を率いて李村に赴いたが、すでに日本軍によって李村は占領されていた。その後はその率いる140の兵で、第2歩兵堡塁から第4歩兵堡塁の間の守備に当たった。松山に到着後、収容所まで徒歩で行進させられると、騎兵将校であるからと頑なに馬を要求して実現させた。板東では「板東保険組合」の監査役を務めた。松山及び板東収容所の俘虜代表を務めた。(2949:松山→板東)
375) Kleffel(クレッフェル),Julius:海軍歩兵第3大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代、本部事務室で金銭授受係りを務めた。(1961:丸亀→板東)
376) Klein(クライン),Richard(-1916):海軍歩兵第3大隊第7中隊・後備2等歩兵。191646日大分で死亡、軍人墓地に埋葬された。(4383:熊本→大分)
377) Kleinschmidt(クラインシュミット),Erich:海軍歩兵第3大隊第6中隊・予備陸軍少尉。板東時代、講習会で中国語の新聞を読むコースを開き、中国語辞典を編んで収容所印刷所から出版した。スポーツの関連では、板東ホッケー協会の理事長を務めた。また1919326日、「室内楽の夕べ」が開かれてシューベルトの五重奏「鱒」が演奏された。その折りクラインシュミットはヴィオラを担当した。他は、ガルスター海軍中尉のヴァイオリン、デュムラー海軍大尉のチェロ、クラーゼン伍長のピアノ、ナスート砲兵伍長のコントラバスという編成であった。(2958:松山→板東)
378) Kley(クライ),Paul1894-1992):海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。〔ビスマルク砲台〕。1911年植民地勤務の海軍歩兵大隊に志願し、1913年青島に赴いた。降伏前日に右腕を負傷、丸亀では軽傷者のための病院でしばらく過ごした。大戦終結後は警察官となったが、第2次大戦でソ連の捕虜となり9年間シベリアの収容所で過ごした。ライポルト(Leipold)等と「バンドー会」(当初は80名余の会員があった)を結成しフランクフルトで例会を開いた。大阪万博の折りライポルトと来日し、板東を再訪した。青島ドイツ人俘虜の最後の生存者とも言われたが、1992597歳で死去した。(1949:丸亀→板東)
379) Klimant(クリーマント),Gustav:国民軍・曹長。[山林監視員]。板東時代は「板東収容所営林所長」とも言える役割を担った。自給自足の賄い、製パンに必要な薪を調達するためであった。191824日に初めて近隣の山に入り、伐採の手本を示した。妻と二人の子は大戦終結まで青島に留まった。(2984:松山→板東)
380) Klobucar(クロブツァー),Viktor v.:カイゼリン・エリーザベト乗員・海軍大尉。元オーストリア軍飛行将校。青島を脱出したプリューショウ中尉の友人であった。プリューショウ中尉等数名で、複葉飛行機の製作にあたったが完成に至らず、降伏前に機体を破壊した。負傷したバイエルレ(Baierle)少尉に代わって、第15砲台指揮官になった。191884日、久留米から青野原へ移送された。(3474:熊本→久留米→青野原)
381) Klöckner(クレックナー),Fritz:国民軍・卒。1915920日、青島から大阪収容所に移送された。(4686:大阪→似島)
382) Kluge(クルーゲ),Ernst:海軍歩兵第3大隊第2中隊・1年志願上等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(533:久留米)
383) Knaack(クナーク),John:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代、公会堂での工芸品展に2階建てのメリーゴーランドを制作・出品して注目された。(2965:松山→板東)
384) Knappe(クナッペ),Franz:海軍膠州派遣砲兵大隊・予備砲兵伍長。習志野時代の1919812日、習志野演劇協会によるベネディックス作の喜劇『親戚の情愛』では、娘役で、また同年105日のマルフケのために開催された「謝恩の夕べ」では、二部構成の第二部の演劇でハラーシュタイン作の1幕物茶番劇『射撃手と空クジ』に代理商の役で出演した。(4390:熊本→大分→習志野)
385) Knell(クネル),Friedrich-1919):海軍砲兵中隊・後備2等機関候補生。191885日名古屋へ移送され、19191218日名古屋で死亡、軍人墓地に埋葬された。(3458:熊本→久留米→名古屋)
386) Knoll(クノル),Ernst:海軍歩兵第3大隊第7中隊・上等歩兵。農畜産学士。板東時代、徳島県下各地で農業講演を行った。(1953:丸亀→板東)
387) Knoop(クノープ),Karl:海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊・1等砲兵。板東時代の191712月、懸賞作文募集に「故郷」で佳作とされ、『バラッケ』に掲載された。(4196:大阪→徳島→板東)
388) Knopf(クノップ),Kurt:海軍歩兵第3大隊第2中隊・予備伍長。928日、浮山で日本軍に投降し俘虜となり、久留米収容所に送られた。久留米の演劇活動では、マイアー=フェルスター作の『アルト・ハイデルベルク』等に出演した。(534:久留米)
389) Knüppel(クニュッペル),Karl Dr.:〔総督府参謀本部〕。[総督府財政長・海軍1等経理監督(大佐相当)]。高等判事、民政長官に次ぐ高額年俸を造船所長とともに受けていた。1114日の全戦闘員の日本送還後も、青島にしばらく留まって残務処理に当った。(4391:熊本→大分→習志野)
390) Koeberlein(ケーバライン),Wilhelm1890-1952):海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。[商人]。1914年、商用でウラジオストックに赴いたところで第1次大戦が勃発し、青島のドイツ守備軍に馳せ参じた。板東時代、収容所内のタパタオで写真屋を営んだ。20017月、出身地ヴュルツブルクのシーボルト博物館で、ケーバラインが板東収容所等で写した写真等で構成された「極東で俘虜となって―日本の収容所におけるドイツ人」と題した展示会が開催された。(2972:松山→板東)
391) Koch(コッホ),Heinrich(-1914):海軍膠州派遣砲兵大隊第1中隊・1等砲兵。[鍛冶職人]。928日ヴァルダーゼー高地で俘虜となったが、負傷していたため久留米衛戍病院に送られ、1025日同病院で死亡、軍人墓地に埋葬された。ハンブルク出身。(562:久留米)
392) Koch(コッホ),Heinrich:海軍歩兵第3大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、丸亀蹴球クラブの役員を務めた。(1941:丸亀→板東)
393) Koch(コッホ),Johann:海軍歩兵第3大隊第7中隊・後備伍長。板東時代、収容所内の商業区域タパタオの村長を務めた。また、「ドイツ兵墓碑」の建設を提唱した。191861日、軍楽曹長ハンゼン(Hansen)によってベートーヴェンの「第九交響曲」が板東収容所内で本邦初演された。その折り、コッホ、ヴェーゲナー(Wegener2等歩兵、シュテッパン(Steppan2等歩兵、フリッシュ(Frisch2等歩兵の四人は第4楽章の「合唱」でソロを受け持った。(1957:丸亀→板東)
394) Koch(コッホ),Lambert:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。ルクセンブルク王国人。アルジェーの外人部隊、モロッコの外人部隊と渡り歩いたが、素行不良で仏印に送られた。老開の国境守備軍に配属されたが脱走し、上海等転々としてドイツ軍に義勇兵として雇われた。日本に送られると、フランス大使館に欧州戦争への従軍を願い出るが却下された。板東ではポーランド人等の反ドイツ人と一緒に分置所に隔離収容された。後宣誓解放された。【『日本人とドイツ人』94頁等】(2968:松山→板東→習志野)
395) Koll(コル),Wilhelm:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代、公会堂の日曜講演会で「新旧神学の違い」と題して講演した。(2964:松山→板東)
396) Kombuechen(コムビューヒェン),Johann:海軍東亜分遣隊第1中隊・2等歩兵。習志野時代、習志野劇場によるエルンスト作の喜劇『フラックスマン先生』に用務員役で出演した。(120:東京→習志野)
397) König(ケーニヒ),Hermann:国民軍・卒。[総督府・職工長]。19159月下旬に青島収容所に収容され、大戦終結後の19191227日、青島収容所から解放された。家族6人が青島に住んでいた。【『俘虜名簿』中ただ一人、収容所が青島となっている人物】(4687:青島)
398) König(ケーニヒ),Paul:海軍歩兵第3大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代、収容所内印刷所から『板東俘虜収容所漫筆』(Plauderei aus dem Kriegsgefangenenlager Bando in Japan)の本を出した。【俘虜番号が1つ違いで、同姓同名にして所属部隊階級、収容所も同じという人物が二人いたために、下記のような記述となった。出身地のみが、ワイマールとドレスデンで異なっている】(1959もしくは1960:丸亀→板東)
399) Koonen(コーネン),Alois:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・1等砲兵。板東時代の19189月、「板東健康保険組合」の砲兵大隊代表理事に選ばれた。(4211:大阪→徳島→板東)
400) Kopp(コップ),Wilhelm:海軍膠州派遣砲兵大隊・海軍大尉。〔会前岬砲台指揮官〕。俘虜として日本に向かう折り、沙子口で輸送船薩摩丸に二匹のダックスフントを連れて乗船した。熊本時代の19141219日、ヘレーネ夫人から同棲願いが出されたが不許可になった。久留米時代、夫人は国分村浦川原の森新別荘に住んだ。19183月スイス公使宛に、独亜銀行清算に伴い送金された625円は元来妻子宛のものが誤送されたとして、12日転送された。同年85日、ガウル中尉、マイアーマン中尉等90名と板東収容所に配置替えになった。3名の夫人達は久留米を引揚げて、しばらく箱根で静養した。その後も皇帝から拝領したと称する犬と一緒で、板東まで連れていった。その犬は板東を描いたスケッチにも登場する。内一匹は収容所長松江大佐の息子にプレゼントされ、「太郎」の名を付けられた。【『日本人とドイツ人』64頁等】(3467:熊本→久留米→板東)
401) Körner(ケルナー),Otto:海軍膠州派遣砲兵大隊第4中隊・2等砲兵。[製靴職人]。板東時代の1918311日、板東町の玉川料理店に女物小紋模様の袷の着物を着て、裏口から押し入りビールを飲ませるよう強要したことで重営倉5日に処せられた。また後に、収容所から800メートル離れた農家の戸をポケットナイフで開けて入り込んだところを住民に発見され、住居侵入と脅迫を伴う逃走で3年の懲役に処せられた。【『日本人とドイツ人』159-160頁より】(4209:大阪→徳島→板東)
402) Körner(ケルナー),Peter-1919):海軍膠州派遣砲兵大隊第1中隊・1等焚火兵。習志野時代の191918日、9日に収容所で演じられた、ハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』に年金生活者役で出演した。その月の131日習志野で死亡。(1187:福岡→習志野)
403) Kotter(コッター),Maximilian:海軍東亜分遣隊第1中隊・2等歩兵。習志野時代、習志野劇場による「トーマの夕べ」で、トーマ作の1幕物田舎茶番劇『一等車』に車掌役で出演した。(121:東京→習志野)
404) Kotzold(コツォルト),Karl:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。928日、浮山近くの巫山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(536:久留米)
405) Krabbel(クラッベル),Heinrich:海軍歩兵第3大隊第3中隊・予備副曹長。久留米時代は演劇活動で、レッシング作の喜劇『ミンナ・フォン・バルンヘルム』等6演目に出演した。(3413:熊本→久留米)
406) Kraft(クラフト),Diederich(-1917):海軍膠州派遣砲兵大隊・2等焚火兵。191731日大阪衛戍病院(鎮台病院)で死亡、真田山陸軍墓地に埋葬された。当時35歳だった。【クラフトの死亡時点では、大阪俘虜収容所はすでに閉鎖され、書類上ではクラフトは似島俘虜収容所に移送されていることになっていた】。墓碑に刻まれていた「俘虜」の二文字は、理由及び年月日は不明であるが、今日削り取られている【この項は次のインターネット情報による:http://www.jttk.zaq.ne.jp/bacas400/sanaboti/kisotishiki/deutsch.htm】。(4542:大阪→[似島])
407) Krämer(クレーマー),Hermann(-1919):海軍膠州派遣砲兵大隊第4中隊・2等砲兵。1919211日スペイン風邪により習志野で死亡。(1194:福岡→大分→習志野)
408) Krampe(クランペ),Adolf:海軍歩兵第3大隊第7中隊・曹長。板東時代、名東郡教育会代表及び同郡小学校教員に、鳥類剥製の技術指導をした。19188月、板東収容所の山外れに完成した「ドイツ兵墓碑」のある墓地の造園を担当した。(1954:丸亀→板東)
409) Krätzig(クレッツィヒ),Curt:海軍歩兵第3大隊第7中隊・伍長。[貸家業]板東時代、丸亀蹴球クラブの役員を務めた。妻は大戦終結まで青島に留まった。(1956:丸亀→板東)
410) Kraus(クラウス),Simon-1919):海軍砲兵中隊・後備2等焚火兵。ヴィルヘルム・ベーマー(Böhmer)と喧嘩事件を起こした。1919126日習志野で死亡。(139:東京→習志野)
411) Krause(クラウゼ),Hermann:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(537:久留米)
412) Krauss(クラウス),Adolf:国民軍・卒。1915920日、青島から大阪収容所に移送された。(4688:大阪→似島)
413) Krauss(クラウス),Jakob:海軍歩兵第3大隊第5中隊・上等歩兵。板東時代、タパタオで薬局を営んだ。19189月には、「板東健康保険組合」の第5中隊代表理事に選ばれた。(2951:松山→板東)
414) Krautwurst(クラウトヴルスト),Fritz:海軍歩兵第3大隊第6中隊・予備上等歩兵。ロシアのウラジオストックから青島に馳せ参じた。(2579:名古屋)
415) Kreike(クライケ),Carl:海軍歩兵第3大隊重野戦榴弾砲兵隊・後備伍長。久留米時代は演劇活動で、マイアー=フェルスター作の『アルト・ハイデルベルク』等3演目に出演した。(3437:熊本→久留米)
416) Kremer(クレーマー),Christian:海軍歩兵第3大隊第3中隊・2等歩兵。1917524日、情報局から各収容所へ伝えられた、製針業に従事したことがあってかつ労役を希望する者の照会に対して、久留米収容所ではクレーマー他3名を届けた。(1262:福岡→久留米)
417) Kretzschmar(クレッチュマー),Ernst:所属部隊不明・1等水兵。1919226日、スイス公使を通じて天津在住の妻を看護したいとの請願書を出した。(4546:大阪→似島)
418) Kretzschmar(クレッチュマー),Otto:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、公会堂での工芸品展に編み靴下を出品した。(1946:丸亀→板東)
419) Kreuzer(クロイツァー),Johann:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、スポーツクラブではレスリングをした。(1950:丸亀→板東)
420) Krewerth(クレーヴェルト),Leonhardt:所属部隊・階級不明。[巡査]。松山時代に山越の日曜講演会で、「刑事警察の鑑識」と題して講演した。(2988:松山→板東)
421) Krieger(クリーガー),Karl:海軍歩兵第3大隊工兵中隊・上等工兵。板東時代、松山ホッケー協会の役員を務め、また無料水泳教室の教官も務めた。(2974:松山→板東)
422) Kropatschek(クロパチェク),Hans W.1878-1935):海軍東亜分遣隊参謀本部・陸軍少尉。[青島ロシア副領事館副領事]。83日に総督府から動員令が発せられると、副領事の職を放棄して青島独軍に参加した。【《The Japanese Siege of Tsingtau53頁】107日の晩、ベルリン福音教会の教区監督フォスカンプの家を訪問していた時、山東省の省都済南が日本軍によって占領されたとの知らせが届いた。山東鉄道並びにその沿線は既に日本軍の支配下にあったことから、その情報は伝書鳩によるものと居合わせたクロパチェクは推測した。兄が神学者だったことでフォスカンプとは親しかった。【VoskampAus dem belagerten Tsingtau45-46頁】妻と二人の子は大戦終結まで青島に留まった。(4637:大阪→似島)
423) Krueck(クリュック),Hermann:海軍歩兵第3大隊第6中隊・予備副曹長。板東時代の19189月、「板東健康保険組合」の第6中隊代表理事に選ばれた。(2960:松山→板東)
424) Krug(クルーク),Bertram:海軍歩兵第3大隊第7中隊・後備伍長。板東時代、「ドイツ兵墓碑」の建設に際して造園を担当した。また、工芸品展には実に1000点にも及ぶ植物並びに種子の標本採集を出品した。(1952:丸亀→板東)
425) Krueger(クリューガー),Willy:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(538:久留米)
426) Krull(クルル),Carl:海軍砲兵中隊・海軍中尉。〔台西鎮並びに衙門砲台守備隊指揮官・日本軍による包囲後は歩兵堡塁中間防備〕。116日夕刻、第2歩兵堡塁攻防の戦闘によるシャリエール中尉の戦死後、海軍歩兵第3大隊自動短銃隊指揮官を兼務し、大港埠頭付近の地雷敷設も担当した。119日の青島開城交渉ではドイツ側の実務委員として、地雷等の危険物除去に関わった。1113日、日本側の開城委員である堀内少将に、日ごろ丹精していた鉢植え一鉢を贈り、翌14日堀内少将から送別に絵葉書を贈られた。(1183:福岡→習志野)
427) Kruse(クルーゼ),Gerhard:海軍歩兵第3大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代、収容所内のタパタオで洋服屋を営んだ。(2957:松山→板東)
428) Kühlborn(キュールボルン),Georg:海軍歩兵第3大隊第7中隊・陸軍少尉。当時29歳。191829日、大分の遊廓「春日楼」に従卒ナーゲル(Nagel)及びダオデルト(Daudert)の三人で登楼し、芸者と夜を過ごした咎で、20日に禁固30日の処罰を受けた。見事な筆跡で「高松市本町長野正」等の日本人名で記帳した。(1938:丸亀→大分→習志野)
429) Kuhlo(クーロ),Paul:海軍東亜分遣隊長・陸軍歩兵中佐。〔外方陣地部隊左翼陣地指揮官〕。[天津守備隊司令官]。東京及び習志野収容所の俘虜代表を務めた。191412月中旬、浅草の本願寺収容所に収容されていたクーロ中佐宛てに、大日本仏教青年会から慰問の書簡が届いた。それに対するクーロ中佐の返書が1229日付けの東京朝日新聞に掲載された。それによると、クーロ中佐は久しく仏教研究に携わり、またドイツに留学して今は著名の士となっている日本人と20年来交友を結んでいるとのことであった。習志野時代の19151225日、収容所のクリスマスコンサートでは「クリスマスの鐘」をピアノ演奏し、またメンデルスゾーンの「ピアノ三重奏曲第一番」からのアレグロとアンダンテを、ベーロウ予備少尉のチェロ、ヴォストマン軍楽兵曹のヴァイオリンに合わせてピアノ演奏した。ドイツ帰国後、『1914731日及び81日の海軍東亜分遣隊の天津並びに北京からの出動報告』と、『1914年青島包囲中の海軍東亜分遣隊活動報告』(《Kurze Beschreibung der Tätigkeit des Ostasiatisches Marine-Detachements während der Belagerung von Tsingtau 1914. 》)を提出した。(115:東京→習志野)
430) Kühne(キューネ),Karl1892-1918):海軍歩兵第3大隊第4中隊・2等歩兵。1918124日、スペイン風邪により板東で死亡。(3424:熊本→久留米→板東)
431) Kuhnenfels(クーネンフェルス),Adalbert Freih. Kuhn von:カイゼリン・エリーザベト乗員・海軍中尉(男爵)。日本軍による包囲後、歩兵堡塁中間地区の左翼側でフレーリヒ(Froehlich)中尉とともに、カイゼリン・エリーザベト乗員の揚陸部隊指揮に当たった。(2265:姫路→青野原)
432) Kühnert(キューネルト),Willy:海軍東亜分遣隊第1中隊・上等歩兵。102日、四房山で俘虜となり久留米収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された。(563:久留米)
433) Kuhr(クーア),Egon:海軍歩兵第3大隊第1中隊・陸軍歩兵中尉。「アンデルス支隊」に属する「クーア小隊」を率いた。927日のヴァルダーゼー高地攻防では、最前線の最右翼を防備した。妻と子は大戦終結まで上海で暮らした。(519:久留米)
434) Kuentzel(キュンツェル),Otto:国民軍・後備副曹長。[総督府立ギムナジウム教師]。松山時代、大林寺の収容所講習会でフランス語及び算数の講師を務めた。妻と子は大戦終結まで青島に留まった。(2985:松山→板東)
435) Kuepper(キュッパー),Wilhelm:海軍膠州派遣砲兵大隊・予備掌砲副曹長。板東時代、砲兵隊スポーツ協会の役員を務めた。(4217:大阪→徳島→板東)
436) Kux(ククス),Herbert:海軍膠州派遣砲兵大隊第2中隊長・海軍大尉。敷設船ラウチング艦長。機雷将校。〔台西鎮砲台指揮官〕。(3949:大阪→似島)
437) Laan(ラーン),Heinrich van der1894-1964):海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。〔湛山堡塁〕。[商社員]。東フリースラントのヴェーア(Weer)に生まれた。銀行業を学んだ後の1913年、神戸で商会を経営していた叔父のラムゼーガー(Hans Ramseger)の誘いで日本に来た。191488日応召して日本を離れ、青島には日本の最後通牒が発せられた前日の14日に着いた。志願兵受付所で手続きをした際の係官ハーケ(Hake)とは、互いに東フリースラント出身の同郷人であることが判り、親交を深めた。ゾルガー(Solger)予備少尉指揮の第3小隊に属した。戦争の当初はツィンマー(Zimmer)とともにビスマルク兵営で、本部警備隊に食事やコーヒーを運ぶ任務に就いたが、その後湛山堡塁に移った。112日の未明410分前に第6中隊の湛山兵営から電話で、第2小堡塁の電信状態についての調査依頼が湛山堡塁に来ると、ラーンは進んでその任務に赴いた。松山時代、『陣営の火』編集に際して、公会堂での厄介な雑事を引き受けて貢献した。板東時代は、収容所倉庫での物品の受け付けに際しての通訳を務めた。大戦終結後はハンブルクの銀行の横浜支店に勤務した。1921年に松山、板東時代に一緒だったマイスナー(Meissner)が経営するライボルト(Leybold)商会に入った。1923OAGの書記に就任したが、関東大震災の後関西に移住し、196443日に死去するまで関西で暮らした。1945年までライボルト商会と密接なシュミッツ(Schmitz)商会で、ドイツからの機械輸入に従事した。第二次大戦後、神戸と和歌山のアメリカ進駐軍石油施設で5年間働いた後、1951年から再び機械輸入の仕事に戻った。1952年に神戸総領事館が新設されるまで、プフリューガー(Pflüger)等とともに、一時的に差し押さえられていた神戸ドイツ人学校の資産管理に当たった。ラムゼーガー夫妻やボーナー(Bohner)の墓もある神戸・再度山の外国人墓地に埋葬された。『チンタオの思い出』(《Erinnerungen an Tsingtau》)の回想記を残したが、それは叔父ラムゼーガーの50歳の誕生日をきっかけに、191712月に板東で執筆され、自身の手で装丁されたものである。1919年、バルクホールン、カイスナー、ルードルフ(Rudolf)及びジーモンス(Simons)と共に、日本語文献からの翻訳『国民年中行事』(Das Jahr im Erleben des Volkes)の出版に関わった。(2996:松山→板東)
438) Lancelle(ランツェレ),Waldemar1871-):海軍歩兵第3大隊第2中隊長・陸軍歩兵大尉。〔第4歩兵堡塁(台東鎮東堡塁)指揮官〕。前記指揮官は後にゾーダン(Sodan)大尉に変った。丸亀時代は収容所の俘虜代表を務めた。(1963:丸亀→大分→習志野)
439) Lange(ランゲ),Hermann:海軍歩兵大第3隊第4中隊・後備上等歩兵。左大腿部銃創及び骨折、右大腿部中央砲弾破片盲貫銃創により、日本移送当初は大阪陸軍病院に入院した。(4639:大阪→似島)
440) Langjahr(ラングヤール),Karl:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・予備2等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(582:久留米)
441) Laengner(レングナー),Martin:国民軍・上等歩兵。青野原で死亡(年月日不明)。(2297:姫路→青野原)
442) Langrock(ラングロック),Karl E.:海軍膠州派遣砲兵大隊第4中隊・2等砲兵。板東時代、収容所内のタパタオで、G.シュルツ(Schulz)と共同で錠前屋を営んだ。また工芸品展には、二人共同で鉄製のシャンデリアを出品した。(4227:大阪→徳島→板東)
443) Lassota(ラッソタ),Theofil:海軍歩兵第3大隊工兵中隊・後備伍長。大戦終結後、日本が経営することになった山東鉄道沿線の坊子鉱山に指導者として雇われた。(4399:熊本→大分→習志野)
444) Laetzsch(レーチュ),Curt:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代、公会堂の絵画と工芸品展覧会に「バンドーの山々」を出品して油絵部門の二等賞に、水彩画では鉄条網も描き込んだ「風景」で一等賞になった。(2999:松山→板東)
445) Lau(ラウ),Franz:海軍歩兵第3大隊第3中隊・2等歩兵。19151020日、衛兵に煉瓦を投げて負傷させた。その罪で118日懲役5年の刑を受け、福岡監獄に収監された。(580:久留米)
446) Lau(ラウ),Paul:海軍歩兵第3大隊第3中隊・2等工兵。左臀部榴弾破片創により大阪陸軍病院に入院した。(4550:大阪→似島)
447) Lauenstein(ラウエンシュタイン),Arthur1888-1916):海軍歩兵第3大隊第6中隊・予備2等歩兵。[貿易商]。召集前は朝鮮の仁川で貿易業を営んでいた。1916116日松山衛戍病院で肺炎のため死亡、軍人墓地(現在はロシア人墓地と呼ばれている)に埋葬された。長兄は英領地中海マック島に、次兄は西南アフリカに英国の俘虜として収容された。(2995:松山)
448) Lehde(レーデ),Max:海軍歩兵第3大隊第2中隊・伍長。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に収容された。久留米の演劇活動では、笑劇『燕尾服のレアンダー』等2演目に女役で出演した。(573:久留米)
449) Lehmann(レーマン),Ewald:国民軍・中尉補。〔第2国民軍小隊長〕。(4554:大阪→似島)
450) Lehmann(レーマン),Hugo K.A.-1919):海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・後備砲兵伍長。[商船船長]。191978日習志野で死亡。(1282:福岡→習志野)
451) Lehmann(レーマン),Otto1892-1971):海軍歩兵第3大隊第1中隊・2等歩兵。元オーボエ奏者。1915613日、自らが主宰する「レーマン楽団」による第一回プロムナード・コンサートが開催された。曲目は軽快で大衆的なものが多かった。『久留米行進曲』等の作曲もした。また上記楽団は収容所の「交響楽団」の常連メンバーでもあった。フォークト(Vogt)と並んで久留米の音楽活動では特に指揮で大活躍した。(571:久留米)
452) Leipold(ライポルト),Eduard1892-1978):海軍膠州派遣砲兵大隊第4中隊・1等砲兵。日本への移送当時カメラを所持していて、後に板東収容所の様子などを数多くフィルムに納め、そのアルバム帖を鳴門市ドイツ館に寄贈した。徳島時代の191610月、徳島市の円藤鉄工所に鋳造・ダライバンの労役に、バール、ベーマー、フィッシャー、グレックナー、ヘフト、マイエの7名で派遣された。1日約8時間、賃金・期間不明。大戦終結後は郷里ザクセンのコーブルクの機械工場に勤めた。1934年、郷里出身の戦友15人に呼びかけて、「バンドーを偲ぶ会」を結成した。この呼びかけには、バイエルン州やヘッセン州在住の元俘虜も参加し、80人を超える会に発展した。やがてパウル・クライ(Kley)やヘルマン・ヴァルター(Walter)を幹事とする「バンドー会」として、フランクフルトで毎年定期的に会合を開くまでに至った。1970年に開催された大阪万博の折り来日し、パウル・クライ氏と一緒に板東を再訪した。1972年鳴門市にドイツ館が完成するとアルバム帖を寄贈した。当時、西ドイツのコーブルク市(出身地)に住んだ。インタヴューに応じて、俘虜時代に関する多くの談話を残した。(4226:大阪→徳島→板東)
453) Leist(ライスト),Benedikt:海軍歩兵第3大隊第7中隊・伍長。板東時代、収容所内のタパタオでアイスクリーム屋を営んだ。(1976:丸亀→板東)
454) Lendrich(レントリヒ),Eduard:海軍東亜分遣隊参謀本部・海軍少主計(少尉相当)候補。習志野時代の191918日と9日、収容所で演じられたハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』に財産家役で出演した。また同年35日に開催された「朗読の夕べ」では、ガイベル作「吟遊詩人の歌」及び古い説話の「天のベット」を朗読した。さらに同年8月に上演されたイプセン作の『幽霊』の演出を担当した。(149:東京→習志野)
455) Leonhardt(レオンハルト),Karl:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代、公会堂の日曜講演会で「お茶の色について」と題して講演した。(2998:松山→板東)
456) Liebmann(リープマン),Ludwig:海軍膠州派遣砲兵大隊第2中隊・2等砲兵。19166月初旬、ペルシュケ(Poerschke)と大阪収容所から脱走したが逮捕され、禁固2年の刑を受けて大阪監獄に収監された。同年9月仮出所したが12月に取り消された。(3975:大阪→似島)
457) Liersch(リールシュ),Richard:測量艦プラーネット乗員・2等水兵。1914107日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが111日宣誓解放された。(4672:なし)
458) Liessmann(リースマン),Rudolf:海軍砲兵中隊・後備上等兵。板東時代、劇場委員会に所属した。(3003:松山→板東)
459) Lindner(リントナー),Paul:海軍歩兵第3大隊第7中隊・上等歩兵。大戦終結後は青島に戻り、輸入会社「パウル・リントナー」を経営した。(1978:丸亀→板東)
460) Linel(リーネル),Leo-1919):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。191924日スペイン風邪により習志野で死亡。(152:東京→習志野)
461) Linke(リンケ),Otto:国民軍・予備少尉。大戦終結後は青島に戻り、再び医薬品輸入会社「オットー・リンケ」を経営した。(4553:大阪→似島)
462) Linke(リンケ),Robert:海軍歩兵第3大隊工兵中隊・軍曹。板東時代、収容所の炊事部1の下士官を務めた。(3002:松山→板東)
463) Linne(リンネ),Ernst:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・戦時志願兵。久留米時代は演劇活動で、喜劇『教育者フラックスマン』等7演目に出演した。(1287:福岡→久留米)
464) Lipinski(リピンスキー),Hans:海軍膠州派遣砲兵大隊第2中隊・海軍中尉。〔游内山特殊砲台指揮官〕。(3969:大阪→似島)
465) Lipkan(リープカン),Walter:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代、大林寺の収容所講習会で英語及びフランス語の講師を務めた。(2993:松山→板東)
466) Lippsky(リップスキー),Franz:カイゼリン・エリ−ザベト乗員・3等下士。姫路時代の1915223日、ヤーン、アレッシ(?)の三人で景福寺の収容所から脱そうを企てた。当時22歳だった。宣誓解放された。(2300:姫路→青野原)
467) List(リスト),Georg:海軍歩兵第3大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代、収容所内のタパタオでマイヤー(Meyer)と共同で卵、キャンデー、きゅうり、果物を売る店を営んだ。(3005:松山→板東)
468) Löffler(レッフラー),Hermann:国民軍・卒。1915920日、青島から大阪収容所に移送された。(4689:大阪→似島)
469) Lohmeyer(ローマイヤー),August:海軍膠州派遣砲兵大隊・1等水兵。[食肉加工職人・マイスター]。大戦終結後、ハム・ソーセージの会社「デリカテッセン」を設立して成功し、やがて銀座にレストラン「ローマイヤー」を開いた。日本人女性と結婚した。「ロースハム」という言葉の考案者と言われる。(3502:熊本→久留米)
470) Lorenz(ローレンツ),Fritz:海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、収容所内のタパタオで靴修繕屋を営んだ。(4219:大阪→徳島→板東)
471) Luczeck(ルチェック),Franz:海軍膠州派遣砲兵大隊第2中隊・砲兵軍曹長。習志野で死亡(年月日不明)。(1277:福岡→[習志野])
472) Ludwig(ルートヴィヒ),Max:海軍歩兵第3大隊第5中隊・上等歩兵。板東時代、工芸品展にオイルナー(Eulner)及びオルロープ(Orlob)と共同で、ドイツ軍が西部戦線で捕獲した戦車の模造品を制作・出品した。(2990:松山→板東)
473) Lührs(リュールス),Julius1892-):軍艦グナイゼナウ(Gneisenau)乗員・2等水兵。病気のために残留していた東カロリン群島のポナペ島で俘虜となり、ツァッハ(Zach)とともに東京収容所に送られた。(114:東京→習志野)
474) Lund(ルント),Peter E.:海軍歩兵第3大隊・2等歩兵。久留米時代の1915102日、ツェルナー、アール、ジン4名で脱走したが3名は同日捕まり、ズィンも5日に捕まった。宣誓解放された。(3490:熊本→久留米)
475) Lütgens(リュトゲンス),Dr. Alfred:海軍東亜分遣隊・予備少尉。習志野時代、19198月に上演されたイプセン作の『幽霊』にアルヴィング夫人役で出演した。(1301:福岡→習志野)
476) Luthmann(ルートマン),Hans:海軍歩兵第3大隊第6中隊・予備副曹長。板東時代、191712月の懸賞作文に「平和な時代の戦争」を応募して佳作になった。また絵画と工芸品展覧会には写真による風景部門に「両親の家」を出品して二等賞を受賞した。(2992:松山→板東)
477) Mahnfeldt(マーンフェルト),Rudolf:海軍歩兵第3大隊第7中隊・後備伍長。板東時代の191771日、「Uボート戦について」の講演を行った。また「ドイツ近代史」の連続講義を31回に亘って行うなど多種多彩な数多くの講演を行った。『バラッケ』編集部員を務めた。(1993:丸亀→板東)
478) Mahnke(マーンケ),Hermann:国民軍・卒。1915920日、青島から大阪収容所に移送された。(4690:大阪→似島)
479) Majunke(マーユンケ),Karl:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、「ドイツ兵墓碑」の建設に際して石積み工事を担当した。(1989:丸亀→板東)
480) Makoviz(マコヴィッツ),Richard:カイゼリン・エリーザベト艦長・海軍大佐。19191228日喜福丸で横浜を出航して帰国の途に着いた。ドイツのヴィルヘルムスハーフェン到着からオーストリアへの帰国風景を報告書として残した。それによると、ドイツでは大歓迎であったにもかかわらず、オーストリアでは帝国が瓦解して見向きもされなかったといわれる。(1315:福岡→習志野)
481) Marr(マル),Walther:海軍歩兵第3大隊第2中隊・後備伍長。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(597:久留米)
482) Martin(マルティーン),Hans von:海軍膠州派遣砲兵大隊・海軍中尉。〔衙門砲台指揮官〕。1917218日、大阪から似島に収容所替えで移る際、鳥篭を提げながら梅田駅まで歩いて異彩を放った。(3979:大阪→似島)
483) Martin(マルティーン),Robert:海軍野戦砲兵隊・陸軍少尉。松山時代、ゾルガー予備少尉及びゴルトシュミット予備副曹長とともに『陣営の火』の編集に当り、また板東では『バラッケ』の編集に当たった。(3014:松山→板東)
484) Marufke(マルフケ),Hans R.M.:総督府・予備伍長。習志野時代、習志野演劇協会監督を務めた。191918日と9日、収容所で演じられたハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』等の演出を担当した。同年35日に開催された「朗読の夕べ」では、ミュンヒハウゼン作の「スヴェンダラントの漁師」を朗読した。812日の習志野演劇協会によるベネディクス作の喜劇『親戚の情愛』及びエルンスト作の喜劇『フラックスマン先生』(上演年月日不明)の演出をするなど、習志野における演劇活動では最も活躍した。1919105日には、「ハンス・マルフケのための謝恩の夕べ」が開催された。二部構成になる音楽と演劇の夕べで、第二部の演劇では、自身がハラーシュタイン作の1幕の茶番劇『射撃手と空クジ』の演出をするとともに主役を演じた。(1762:静岡→習志野)
485) Matheis(マテーイス),Gustav-1915):海軍膠州派遣砲兵大隊第2中隊・1等砲兵。1915413日静岡で死亡、軍人墓地に埋葬された。(1753:静岡)
486) Mathiesen(マティーゼン),Eduard:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・2等砲兵。福岡時代、逃亡未遂を起こしたモッデ(Modde)少尉付き卒であった。取り調べを受けたが、本人はリュウーマチに苦しんでいて、モッデのためにレインコートを買った事実のみ認め、逃亡の事は知らなかったと述べた。またモッデも単独による行動であったと陳述した。(1338:福岡→青野原)
487) Matthias(マティーアス),Fritz:ヤーグアル艦長・海軍大尉。731日の夕刻、ヤーグアル艦長に任命されたばかりのマティーアス大尉は、上海から英仏露の艦船を避けながら翌81日朝青島に辿りついた。117日未明の2時半に、青島独軍最後の軍艦ヤーグアルを自沈させた。静岡収容所の俘虜代表を務めた。習志野時代、誕生日に元ヤーグアル乗員から砲艦ヤーグアルの模型を贈られた。(1764:静岡→習志野)
488) Matutat(マトゥタート),Paul:海軍歩兵第3大隊第4中隊・2等砲兵。久留米時代は演劇活動で、クリーク作の笑劇『困惑の花嫁』等8演目に出演した。(1351:福岡→久留米)
489) Matzen(マッツェン),Heinrich:海軍歩兵第3大隊第1中隊・予備上等歩兵。久留米の演劇活動では、リンダウ作『もう一人の男』に女役で出演した。宣誓解放された。(586:久留米)
490) Mauchenheim(マウヘンハイム),W.Frhr.v.:総督府参謀・海軍大尉(男爵)。通称ベヒトルスハイム(Bechtolsheim)。戦死者埋葬、負傷者救出のための一時休戦を取り決める会談が1013日に東呉家村で行われた。その折り、ドイツ人婦女子等の避難も合意された。15日に避難船が用意され、その指揮官を勤めた。胸には日本の旭日章を付けていた。それはかつて伊集院五郎海軍大将がキール軍港を視察した際に、案内役を果たしたことから授与されたものであった。【『青島戰記』94頁】日本側では山田耕三大尉が避難船に乗船して塔埠頭まで行き、さらに膠州からは山東鉄道を使い済南まで同道した。「1027日の李村ポンプ所附近での戦闘時に、山田大尉はかつての僚友シュテッヒャー(Stecher)大尉に宛てて、絵葉書を折ってドイツ側前線に投げた。深夜、ベヒトルスハイム大尉がその葉書をビスマルク兵営の参謀本部に持ち帰る。…『我々が思いもよらなかった戦闘の中より、心からの挨拶を送る。わが友に神のご加護のあらんことを! 山田大尉』と記されてあり、総督のテーブルの周囲でどっと笑いが生じた」【《Die Helden von Tsingtau140頁】習志野時代の191935日に開催された「朗読の夕べ」では、ハイメンダール少尉とメンデルスゾーンの歌曲を二重唱した。また524日の習志野合唱協会による「歌曲の夕べ」では、ゲーテの詩になるレーヴェ作曲の「魔王」を独唱し、またエンスリン、ハイメンダール及びヴィーダーの四人でシュヴァーベン民謡の「選ばれし者」を四重唱し、メンデルスゾーンの「夕べの歌」をエンスリンと二重唱した。その他演劇にも出演した。(859:福岡→習志野)
491) Maurer(マウラー),Werner:海軍野戦砲兵隊・海軍中尉。〔要塞車厰第1次指揮官〕。松山時代の191512月、製菓所を設立する際に中心的役割を果たし、これが後の板東での製菓・製パン所(ゲー・バー)に繋がった。また山越の講習会では軍事学を講じた。(3012:松山→板東)
492) Maus(マウス),Karl:海軍砲兵中隊・2等水兵。久留米時代の1917128日、W.アンドレーアを仲間18人で殴打し、傷害罪により1月の懲役刑を受けた。(3535:熊本→久留米)
493) May(マイ),Oskar:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。[商社員]。開戦前、広東近くの英仏共同租界沙面島でバールト(Barth)と一時期一緒であったが、バールトとは別の商社に勤めていた。板東収容所でもバールトとは一緒になった。板東近くの坂西農業学校で、フェルヒナロフスキー(Felchnerowski)およびルードルフ【Karl Rudorffか、あるいは Walter Rudolphか?】の三人で体操の実地指導をした。第2次大戦中にベルリンで偶然バールトに出会ったという。その兄は中国人女性と結婚して二人の娘があったが、その内の一人ヘレーネ・マイ(Helene May)は東京のドイツ人の間で有名だった。【《Als deutscher Kaufmann in Fernost,S.4119892月、娘のエーリカは夫と25歳になる息子を伴ってかつての板東収容所を訪問した。【横田『板東俘虜収容所長 松江豊寿』134頁】(3030:松山→板東)
494) Maye(マイエ),Erich:海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊・1等砲兵。徳島時代の191610月、バール、ベーマー、フィッシャー、グレックナー、ヘフト、ライポルトの7名で徳島市の円藤鉄工所に鋳造等の労役で派遣された。18時間、賃金・期間は不明。(4229:大阪→徳島→板東)
495) Meckel(メッケル),Heinrich:海軍歩兵第3大隊第7中隊・2等歩兵。「ドイツ兵墓碑」の建設に際して石積み工事を担当した。(2001:丸亀→板東)
496) Mehlis(メーリス),Peter-1919):海軍東亜分遣隊第1中隊・2等歩兵。1919131日習志野で死亡。(157:東京→習志野)
497) Meissner(マイスナー),Kurt1885-1976):海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。〔イルチス砲台〕。父親はハンブルクの出版社主で、カール・マルクスの著書を初めて出版したことで知られるオットー・マイスナーであった。ハンブルク大学で学んだ後1906年、ジーモン・エーヴェルト商会の日本駐在員として来日、20歳だった。滞日8年余の時点で応召し、日本の最後通牒が発せられた815日に青島に到着した。日本語は堪能で、当初は松山の大林寺に収容され、そこの収容所講習会で日本語の講師を務めた。板東では本部主計事務室で松江所長の通訳をした。板東収容所内印刷所から『日本語日常語教科書』、『日本地理』、『日本日常語授業』を出した。大戦終結後も日本に滞在し、神田伯竜の講談で知られた『阿波狸合戦』等を独訳し、他に『日本におけるドイツ人の歴史』の著作もある。1920年から1945年まで25年間、OAG(ドイツ東洋文化研究協会)の指導的な地位にあった。1963年秋帰国して、郷里ハンブルクに帰った。(3025:松山→板東)
498) Mengeringhausen(メンゲリングハウゼン),Heinrich-1915):海軍歩兵第3大隊第2中隊・伍長。191527日青島で死亡、青島欧人墓地に埋葬された。(4664:青島)
499) Menke(メンケ),Eduard:総督府・海軍2等筆記。板東時代、板東クリケット協会「壮年」の主将を務めた。(3040:松山→板東)
500) Merchel(メルヒェル),Friedrich:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、公会堂での工芸品展に木製のダックスフント及び農場を制作・出品した。(1988:丸亀→板東)
501) Merck(メルク),Karl:海軍歩兵第3大隊機関銃隊・予備陸軍少尉。戦闘の初期にはシュリック(Schlick)中尉とともに、外方の前線陣地を守った。19178月、ニューヨーク市のメルク商会から、メルク宛に200円の金券交付方の依頼があった。メルクには頻繁に送金があった。久留米時代は演劇活動で、イプセン作『国民の敵』等3演目全てに女役で出演した。(3526:熊本→久留米)
502) Metz(メッツ),Heinrich:海軍膠州派遣砲兵大隊・2等砲兵。19191129日付けの妹宛の絵葉書が現存している。それには「愛する妹へ 戦争が終わって、自由になれる日が近づいてきました。帰還前にもう一度美しい日本の絵葉書をおくりたい。…」等のことが書かれている。【『ドイツ兵士が見たNARASHINO37頁】(4414:熊本→大分→習志野)
503) Meutzner(モイツナー),Walther:海軍歩兵第3大隊4第中隊・予備副曹長。習志野時代、191935日に開催された「朗読の夕べ」でロイターとタルノーの詩を朗読した。(4406:熊本→大分→習志野)
504) Meyer(マイアー),Christoph:海軍歩兵第3大隊第5中隊・2等歩兵。板東収容所内のタパタオではリスト(List)と共同で卵、キャンデー、果物、野菜などを売る店を営んだ。(3021:松山→板東)
505) Meyer(マイアー),Constantin:海軍歩兵第3大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。習志野時代、191935日に開催された「朗読の夕べ」で、ハンス・オストヴァルトの「レーバルト クルケルト −グロッグの平和」を朗読した。また習志野劇場による「トーマの夕べ」では、トーマ作の1幕物田舎茶番劇『一等車』に主役の商人役で出演した。(3522:熊本→久留米→習志野)
506) Meyer(マイアー),Eduard:海軍野戦砲兵隊・予備中尉。松山時代、山越の収容所講習会で中国語の講師を務めた。(3013:松山→板東)
507) Meyer-Waldeck(マイアー=ヴァルデック),Alfred1864-1928):膠州総督・海軍大佐。18641127日、ロシアのサンクトペテルブルクに生まれた。父クレーメンス・フリードリヒ・マイアー・フォン・ヴァルデック(Clemens Friedrich Meyer von Waldeck)はサンクトペテルブルク大学のドイツ文学教授であった。10歳の時父親は退職し、一家はハイデルベルクに移り住んだ。大学で1年間歴史学を学んだ後海軍に入った。1908年に青島に赴任して1911年まで総督府参謀長を務めた。1898年にはヨハンナ・ナイと結婚し、12女をもうけた。1911819日、トゥルッペル総督の後任として第4代膠州総督に就任、植民地加俸、交際費等を含めた年俸は5万マルクであった。身長190センチの長躯で胸幅厚く、白髪まじりの山羊髭をたくわえた風貌はロシアの将軍を思わせた。水泳と馬術がめっぽう好きであった。【《The Japanese Siege of Tsingtau18頁より】19141110日、モルトケ兵営において青島攻囲軍司令官神尾光臣中将と会見した。その折り神尾中将は、日本陸軍がドイツ陸軍からこれまでに受けた指導に感謝の意を表し、日本の政策上不本意ながら青島を攻撃したこと、また日本軍に多大の損失が出るほどドイツ軍の防備の優れたことを語った。これに対してヴァルデック総督は、日本軍の武勇を称えたと言われる。妻子は開戦後に北京に逃れた。1114日、俘虜となるべく日本に向かった。それは奇しくも17年前に、ドイツ東洋艦隊が青島を占領した日と同じ日付であった。1117日午前920分、御用船薩摩丸で門司港に到着した。服装は、黒の海軍帽、紺地にダブルの金釦を付け、四線の太い金線のある正服を着用。黒のネクタイを結び、同じ紺地のズボンに茶褐色の革の脚袢を着け、長靴を穿いていた。出迎えに来た旧知の山本茂中尉と面談した。今回で来日4度目、3年前の3度目の来日の際奈良で雷雨にあったと語った。【参照:総督の談話『東京朝日新聞』19141118日付】福岡での収容宿舎は、福岡赤十字社支部であった。この建物は旧福岡藩時代の台場跡のあった洲崎海岸に在り、瀟洒にして広壮、眺望絶佳で玄海灘を望み、眼下に西公園、向かいは物産館、市塵を離れた所に在った。日本の大佐の月給に相当する280円を月俸として支給された。1915129日、支給された給与から150円を大分収容所の俘虜のために寄付した。1918325日、習志野に移送された。収容中に少将に昇任した。1920325日、マイアー=ヴァルデック元総督等を乗せた帰還船南海丸は、残留していた最後の家族(150人)を乗せるため青島に寄港した。『青島の武装と包囲』(Bericht über die Armierung und Belagerung)の報告書を残した。(1635:福岡→習志野)
508) Meyermann(マイアーマン),Bruno:海軍歩兵第3大隊・予備中尉。[青島測候所長]。熊本収容所時代の19153月、天津から夫人と家族の入国申請があり許可された。久留米時代、マイアーマン夫人は国分村浦川原の森新別荘にリーデルシュタイン夫人と一緒に住んだ。子供が二人いた。191887日、マイアーマンはコップ中尉、ガウル中尉等71名とともに板東に移送された。その際夫人はコップ夫人、ガウル夫人とともに避暑のため箱根で過ごした。(3507:熊本→久留米→板東)
509) Michelmann(ミッヒェルマン),Heinrich:海軍歩兵第3大隊工兵中隊・2等工兵。久留米時代は演劇活動で、モーザー及びミンク作の笑劇『第六感』等11演目に、主として女役で出演した。(3527:熊本→久留米→板東)
510) Millies(ミリエス),Hans1883-1974):海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・後備2等軍楽手。ベルリンに生まれた。ベルリンでヴァイオリンをヨーゼフ・ヨアヒムに学んだ後、上海共同租界オーケストラのコンサートマスター兼副指揮者に就いた。パウル・エンゲルはその楽団員であった。19141215日、在上海総領事から外務大臣宛に、上海租界の代表から、指揮者ミリエスとその楽団員であるエンゲル、ガーライス及びプレフェナーは非戦闘員なので解放せよとの申し入れがあったが、軍籍があることから不許可になった。習志野時代の19171031日、ユーバーシャール(Ueberschaar)との共同で「宗教改革400年記念の夕べ」を主催した。二部構成の音楽会と言えるもであるが、合間に「1517年から1917年のドイツ人」の題のユーバーシャールによる講演もあった。「ミリエス楽団」を結成し、191939日には「ハンス・ミリエス・コンサート」を開いた。演奏曲目は、ベートーヴェン『ヴァイオリン協奏曲』(ピアノ伴奏:ハイメンダール少尉)、サン・サーンス『序奏とロンド・カプリチオーソ』(ピアノ伴奏:アルフォンス・ヴェルダー2等歩兵)、シューマン『トロイメライ』、シューベルト『アヴェ・マリア』、サラサーテ『チゴイネルヴァイゼン』(以上のピアノ伴奏:ヴェーデル(Wedel)少佐)であった。宣誓解放されての帰国後、キールやリューベックの交響楽団でコンサートマスターを務めたが、リューベックでは若き日のフルトヴェングラーの下でも活動した。1925年音楽学校を設立し、1933年には州立音楽学校の校長となった。リューベックに没した。【この項は、息子のハンス・ミリエス氏(父親と同名)から直接情報を得た坂本永氏(習志野市教育委員会)からの教示による】(1335:福岡→習志野)
511) Milz(ミルツ),Josef:海軍歩兵第3大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代、収容所で俘虜相手の風呂屋を開業した。収容所の東北隅の空き地で、間口三間、奥行四間の平屋建て。休息所、脱衣場、浴場、釜焚場に区画し、建築費は諸器具を含めて約1200円であった。シャワー一回六銭六厘で、アルサス出身の二人をマッサージ師として雇っていた。1919522日、火災で全焼した。損害は約2000円に及んだといわれる。【『日本人とドイツ人』209頁】(1996:丸亀→板東)
512) Mittag(ミッターク),Ernst:海軍歩兵第3大隊第5中隊・2等歩兵。928日、李村で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(612:久留米)
513) Mladeck(ムラデク),Kurt:海軍歩兵第3大隊第6中隊・予備伍長。板東時代の1918614日、「シベリア」と題して講演した。(3023:松山→板東)
514) Modde(モッデ),Friedrich:海軍膠州派遣砲兵大隊・予備海軍砲兵少尉。〔第11及び第11a砲台指揮官〕。当時年齢は40代前半であった。福岡時代の19151120日に収容所から逃亡した。自称米国人フランク・ダヴュルミラーを装ったが、関釜連絡船上で嫌疑をかけられ拘束、22日に福岡収容所に護送された。(1316:福岡→習志野)
515) Mohr(モーア),Bernhard:海軍歩兵第3大隊・予備少尉。松山時代、その所持するタイプライターは『陣営の火』の原稿打ち込みに終日活動した。ミュラー少尉と共同でビール、サイダーの空き箱、空き瓶や竹で木製ポンプを組み立てて、來迎寺収容所前の松田池から配水して噴水をこしらえた。また新案の体操18種を考案した。(3008:松山→板東)
516) Mohr(モーア),Dr. jur. Friedrich Wilhelm1881-):海軍歩兵第3大隊・予備歩兵少尉。ライン河畔ノイヴィート(Neuwied)郡のエンゲルス(Engers)に生まれた。1895年からノイヴィートのギムナジウムに通い、1903年から7学期間ボン、ベルリン、マールブルク大学で法律を勉強した。ベルリンでは2年間中国語を学び、修得した。19069月、カッセルの地方上級裁判所の1審判事補試験に合格し、その年の101日、ケルンのライン第5師団第65歩兵連隊に1年志願兵として応召した。190741日、ヴィルヘルムスハーフェンの海軍歩兵第3大隊本部に配属された。さらに同年426日膠州へ派遣され兵役義務終了後、膠州総督府の司法官試補兼通訳官となる。1911年に『膠州保護地便覧』(《Handbuch für das Schutzgebiet Kiautschou,Tsingtau 1911)を編纂・出版した。19123月予備歩兵少尉に編入され、191364日財政通訳官に任じられた。同年66日、マールブルク大学での博士取得口述試問に合格。学位論文は『中国における諸租借地』(《Die Pachtgebiete in China》, Leipzig 1913)であった。その後総督府勤務を離れて、省都済南所在の中国山東省製塩公司監督官となった。久留米収容所時代、夫人は国分村浦川原の森新別荘に住んだ。大戦終結して帰国後、1920年から1921年まで法務省のベルリン移住局に勤務し、1922年からはハンブルク=ブレーメン東亜協会の事務局長を務めた。(3508:熊本→久留米→習志野)
517) Moll(モル),Karl:海軍歩兵第3大隊第1中隊・2等歩兵。19191025日、山嘉商店からの紡績、織物、鉱山、開墾、山林等に関する技術を持つ俘虜の照会にあたって、久留米収容所ではカール・モルを紹介した。(593:久留米)
518) Moeller(メラー),Gustav:海軍歩兵第3大隊・予備副曹長。[商人]。〔湛山堡塁〕。板東時代、ゴルトシュミットに代わって『バラッケ』編集部員になった。また公会堂で開催された絵画と工芸品展覧会のポスターとパンフレット部門では、縦横無尽の活躍をした。またE.ベーアの『三つの童話』(Drei Märchen)の装丁をし、ケーニヒの『板東俘虜収容所漫筆』の挿絵を描いた。(3035:松山→板東)
519) Möller(メラー),Karl:海軍歩兵第3大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代、公会堂での工芸品展に楽器のツィターを制作・出品した。(1994:丸亀→板東)
520) Möller(メラー),Paul:国民軍・卒。1915920日、青島から大阪収容所に移送された。(4691:大阪→似島)
521) Möllers(メラース),Hermann:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。928日、浮山近くの巫山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。久留米の演劇活動では、喜劇『クラブチェアーに座って』に出演した。(599:久留米)
522) Moltrecht(モルトレヒト),Paul:海軍歩兵第3大隊第2中隊・軍曹。板東時代、収容所内に「モルトレヒト合唱団」(60名)を結成して指揮者を務めた。1917526日、マンドリン合奏団第1回コンサートを開催した。(1982:丸亀→板東)
523) Moog(モーク),Fritz:海軍歩兵第3大隊第2中隊・上等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(598:久留米)
524) Moos(モース),Nikolaus:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(600:久留米)
525) Morawek(モーラヴェク),Rudolf Edler v.1882-):オーストリア野砲兵第17連隊・陸軍砲兵大尉(卿)。シベリアの収容所から脱走して、中国、アメリカを経由して本国に帰ったが、やがて満州のハルピン市内を流れる松花江の鉄橋爆破の任務に就いた。資金の10万円は上海のオーストリア領事館に預けられ、横浜港に入ったところで逮捕された。1915223日に行われた第2回目の尋問調書が残されている。アルテルト、エステラー、シャウムブルクの4人で大阪と似島の両収容所から二度にわたって脱走を企て、4人は1ヶ月から2年半の刑を受けた。(4711:大阪→似島)
526) Mros(ムロース),Heinrich:国民軍・卒。[ホテル経営]。1915920日、青島から大阪収容所に送られた。妻は大戦終結まで上海で暮らした。(4692:大阪→似島)
527) Müller(ミュラー),F.M.Eugen:国民軍・卒。1915920日、青島から大阪収容所に移送された。(4693:大阪→似島)
528) Müller(ミュラー),Hermann:海軍歩兵第3大隊第7中隊・伍長。板東時代、丸亀蹴球クラブの役員を務めた。(1991:丸亀→板東)
529) Müller(ミュラー),Otto:海軍歩兵第3大隊第3中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、ガイベル作の『アンドレーア親方』他1演目に出演した。(604:久留米)
530) Müller(ミュラー),Otto Friedrich-1914):海軍歩兵第3大隊第4中隊・後備上等兵。19141227日青島で死亡、青島欧人墓地に埋葬された。(4661:青島)
531) Mueller(ミュラー),Wilhelm:海軍野戦砲兵隊・予備少尉。〔第3a中間地掃射砲台指揮官〕。松山収容所ではシュテッヒャー(Stecher)大尉から日本語を習った。またB.モーア(Mohr)予備少尉とともにビール、サイダーの空き箱、空き瓶や竹で木製ポンプを組み立てて、來迎寺収容所前の松田池から配水して噴水をこしらえた。板東では、公会堂での絵画と工芸品展覧会にモノクローム画部門に「日本の風景」、その模写の部に「ヒンデンブルクの顔」等を出品した。また同少尉の企画によるルンプ(Rumpf)少尉とホーン(Hohn2等砲兵の住宅モデルは、収容所賞第3位に輝いて賞金3円を獲得した。19188月に完成した「ドイツ兵墓碑」の設計を担当した。(3015:松山→板東)
532) Müllerskowski(ミュラースコフスキー),Friedrich:海軍歩兵第3大隊飛行部隊・海軍少尉。青島独軍保有の飛行機二機の内、「E1号(旧式ル式)」を操縦したが、82日墜落して重傷を負う。青島陥落まで総督府衛戍病院に入院していた。(3520:熊本→久留米)
533) Muendel(ミュンデル),Harry:海軍膠州派遣砲兵大隊・海軍少佐。ボーデカー少佐の後を受けて、砲艦ヤーグアル艦長となる。大阪及び似島収容所の俘虜代表を務めた。(3978:大阪→似島)
534) Mussmann(ムスマン),Heinrich:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、公会堂での工芸品展にマンドリンを制作・出品した。(1986:丸亀→板東)
535) Muttelsee(ムッテルゼー),Wilhelm:海軍歩兵第3大隊第4中隊・2等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。191887日板東に移送された。詩画集『鉄条網の中の四年半』のスケッチを担当し、またヒュルゼニッツ(Hülsenitz)と共同で『1920年用故郷カレンダー』を制作した。(611:久留米→板東)
536) Nack(ナック),Kurt:海軍歩兵第3大隊第3中隊・上等歩兵。久留米時代に収容所のコンサートでは、メンデルスゾーンの四重奏曲等の演奏で活躍した。また演劇活動では、『二つの条件』を創作して自ら演出した。(3542:熊本→久留米)
537) Nagel(ナーゲル),Georg:海軍砲兵中隊・2等水兵。久留米時代は演劇活動で、ガーデベルク作の笑劇『シメク家』等4演目に女役で出演した。また『久留米収容所俘虜文集』の印刷に際しては、シュルツ(W.Schulz)と共に協力した。宣誓解放された。(3552:熊本→久留米)
538) Nagel(ナーゲル),Richard:海軍歩兵第3大隊・上等歩兵。大分時代の1918210日、キュールボルン少尉及びダオデルトと大分の遊廓「春日楼」に登楼して、芸者と夜を過ごした咎で禁固30日に処せられた。当時26歳だった。(4416:熊本→大分→習志野)
539) Naroska(ナロスカ),Gustav:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(628:久留米)
540) Nassuth(ナスート),Georg:海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊・砲兵伍長。板東時代の1919326日、「室内楽の夕べ」が開かれてシューベルトの五重奏「鱒」が演奏された。その折りナスートはコントラバスを担当した。他は、ガルスター海軍中尉のヴァイオリン、デュムラー海軍大尉のチェロ、クラインシュミット予備少尉のヴィオラ、クラーゼン伍長のピアノという編成であった。(4239:大阪→徳島→板東)
541) Neumaier(ノイマイアー),Jacob:海軍膠州派遣砲兵大隊第4中隊・1等砲兵。〔イルチス砲台〕。827日早朝、日本艦隊の出現を最初に目撃して報告した。191912月、ドイツへ帰国するために乗船した喜福丸は、青島在住の俘虜家族を乗せるために青島に寄港した。ノイマイアーは万年山と名を変えたかつてのビスマルク山や欧人墓地等変貌した青島の街を五年振りに歩き、その折りに昔からあった高橋写真館に立ち寄った。ドイツ人と親しかったことから、日本軍にあらぬ嫌疑を掛けられたりしたのではとノイマイアーは気遣った。しかし店主はばつの悪そうな顔をした。その背後に何か不誠実なものを感じ取ったノイマイアーは急ぎ店を出たという。【《The German Prisoners-Of-War in Japan,1914-1920107頁】(1368:福岡→大分→習志野)
542) Nickel(ニッケル),Otto:海軍歩兵第3大隊機関銃隊・副曹長。青島でカール・ユーハイムの結婚式の証人をつとめた。当時30歳で子どもが二人いた。青島陥落後、ニッケル夫人はユーハイム家に身を寄せた。日本人兵士三人がどかどかと家に入り込んできたが、危害は加えずニッケルの2歳の子供に、角のある可愛らしい、色とりどりのきれいな見知らぬお菓子を差し出した。ユーハイム夫人は機雷を連想して、毒でも入っているかもしれないと立ちはだかって拒んだ。兵士は幾つか口に入れて食べて見せ、にっこり笑ってそのお菓子を残して立ち去った。後で夫人達が食べてみると、甘いおいしいお菓子で、それは「金平糖」であった。ニッケルは久留米の演劇活動で、スコヴァネク作『山番小屋で』等21演目に出演し、またビヨルソン作『新婚の二人』等6演目の演出もするなどの活躍をした。(636:久留米)
543) Niederau(ニーデラウ),Peter:海軍歩兵第3大隊第1中隊・2等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(627:久留米)
544) Nielsen(ニールゼン),Hans:海軍歩兵第3大隊第7中隊・上等歩兵。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919826日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ヤスペルゼン(Jaspersen)、ブロイニンガー(Braeuninger)、カルステンス(Carstens)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、ハンゼン(Hansen)、イェプセン(Jepsen)の6名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。(2008:丸亀→板東)
545) Nitschke(ニーチュケ),Richard:海軍歩兵第3大隊第1中隊・伍長。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された。収容所の音楽活動では、主として室内楽の演奏で活躍した。(618:久留米)
546) Nöckler(ネックラー),Gustav:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・2等砲兵。久留米時代は演劇活動で、ハウプトマン作の喜劇『同僚クランプトン』に出演した。(1372:福岡→久留米)
547) Nohl(ノール),Heinrich:ヤーグアル乗員・2等水兵。郷里ゾーリンゲンのグライフラートに住む妹に宛てた、富士山をあしらった絵葉書による1917830日付けの誕生祝いの便りが残っている。(172:東京→習志野)
548) Noltemeyer(ノルテマイヤー),Erich:海軍歩兵第3大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、工芸品展に出品したヨット製作ではその労作が評価された。(2005:丸亀→板東)
549) Noppeney(ノッペナイ),Philipp-1919):海軍膠州派遣砲兵大隊第4中隊・2等砲兵。1919128日、スペイン風邪により習志野で死亡。(1369:福岡→大分→習志野)
550) Nordmann(ノルトマン),Franz:総督府経理部・2等筆記。松山時代、大林寺の講習会でシュトルツェ=シュライ方式の速記を講じた。(3051:松山→板東)
551) Nottbusch(ノットブッシュ),Wilhelm:海軍歩兵第3大隊第4中隊・2等歩兵。[パン職人マイスター]。(4567:大阪→似島)
552) Nowak(ノーヴァク),Karl-1917):海軍東亜分遣隊第3中隊・2等歩兵。1917210日習志野で死亡。(168:東京→習志野)
553) Oberhauser(オーバーハウザー),Max:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(640:久留米)
554) Odermann(オーダーマン),Albert:海軍歩兵第3大隊工兵中隊・予備陸軍工兵少尉。[山東鉱山会社技師長]。青島開城後の実務協議にドイツ側委員として加わった。久留米時代の19151031日、消灯後に蝋燭を灯して衛兵及び宿直将校ともめる。翌111日重禁固30日の処罰を受けた。(3561:熊本→久留米)
555) Öhler(エーラー),Walther:海軍砲兵中隊・海軍少尉。〔モルトケ山88糎速射砲指揮官〕。88糎速射砲は日本軍に長いこと探知されずにいたが、117日未明についに発見され、集中砲火を浴びて破壊された。(177:東京→習志野)
556) Oellig(エリッヒ),Josef:海軍東亜分遣隊第2中隊・2等歩兵。習志野時代の1919524日、習志野合唱協会の「歌曲の夕べ」ではマルフケ、ハム及びシェーファーの四人でクローマー作の「森の泉のほとりで」を四重唱した。(176:東京→習志野)
557) Oelweiner(エールヴァイナー),Ludwig:カイゼリン・エリーザベト乗員・1等水兵。久留米時代は演劇活動で、コツェブー作の喜劇『ドイツの小都市市民』等3演目に出演した。(3564:熊本→久留米→習志野)
558) Onodi(オーノディ),Michael-1919):カイゼリン・エリーザベト乗員・2等水兵。ハンガリー人。1919919日、スペイン風邪により青野原で死亡、姫路軍人墓地に埋葬された。(2138:姫路→青野原)
559) Oppel(オッペル),Wilhelm-1918):海軍歩兵第3大隊第2中隊・後備2等歩兵。19181123日名古屋で死亡,軍人墓地に埋葬された。(2641:名古屋)
560) Orlob(オルロープ),Philipp:海軍歩兵第3大隊第2中隊・副曹長。板東時代、工芸品展にオイルナー(Eulner)及びルートヴィヒ(Ludwig)と共同で、ドイツ軍が西部戦線で捕獲した戦車の模造品を制作・出品した。(2010:丸亀→板東)
561) Oertel(エルテル),Adolf:海軍砲兵中隊・2等水兵。[理髪師]。(178:東京→習志野)
562) Oertel(エルテル),Ferdinand:国民軍・卒。1915920日、青島から大阪収容所に移送された。(4694:大阪→似島)
563) Ortlepp(オルトレップ),Theodor:要塞構築部・築城曹長。久留米時代にの演劇活動で、ケルナー作の悲劇『トーニー』等3演目の演出を担当し、また14演目に出演した。(3563:熊本→久留米)
564) Oster(オスター),Franz:海軍歩兵第3大隊飛行部隊・飛行士。[工作機械工場経営・民間飛行家]。青島の小港南西で発電所の隣、食肉加工所の北に飛行機工場及び格納庫を所有していた。所有する「70馬力メルツェデス旧式ル式」は、日独戦争直前に総督府に買上げられた。827日、故障していた飛行機を修理して自ら操縦するが機体は墜落して、破損したが本人は無事であった。大分時代、命令違反・反抗で禁固20日間に処せられた(年月日は不明)。妻は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後、青島に戻り工作機械会社を再興した。(4421:熊本→大分→習志野)
565) Othmer(オートマー),Dr. Wilhelm:海軍歩兵第3大隊予備榴弾砲兵隊・予備陸軍少尉。[独中大学教授・中国語学者]。大阪収容所に俘虜第一陣として収容されるや、多くの俘虜がまだ途方に暮れている最中、ただちに中国語の研究を続行した。このことは多くの俘虜達に刺激を与え、やがて次々に講習会が開催されるようになり、大阪収容所はさながら「学校収容所」になったと、収容所で一緒だったベルゲマン(Bergemann)中尉は書き記している。【《Du verstehst unsere Herzen gut63頁より】オートマーは講習会で教えるだけではなく、自らも学習の手本を示すべく日本語の勉強に打ちこんだ。小学校の国語読本から初めて、平仮名・片仮名を覚え、中国語の素養を生かして『漢字林』から漢字を習得し、『万葉集』にまで及んだ。大阪収容所、やがて移った似島収容所は、青島を中心とした中国での商売を営んでいた俘虜が多かったが、そうした商人達は折に触れオートマーの部屋に種々の相談に訪れた。似島時代のユーハイムもその一人で、広島の物産陳列館での俘虜作品展示即売会にバウムクーヘンを出品するよう勧められ、かつ励まされた。オートマー自身は講演、研究及び勉学以外では、似島でもっぱら野菜作りに励んだ。妻と二人の子は大戦終結まで青島に留まった。(4005:大阪→似島)
566) Oetmann(エートマン),Arthur1889-):海軍東亜分遣隊第3中隊・予備上等歩兵。「15歳迄バルメンノ実業学校ニアリテ一年志願兵資格試験ニ合格シテ後三年間商業ヲ学ヒタリ、然レ共幼少ヨリ兵役ニ来ル迄親戚ノ農場ニ在リテ農業ニ精通シテ農業ニ趣味深ク俘虜生活中学理的ニ農業ノ各方面ニ就キ研究シタリ、1912101日ヨリ1913930日迄チルニニ一年志願兵タリ、羊牧ト養蜂ヲ特技トス」【「北海道移住」より】(1387:福岡→名古屋)
567) Pansing(パンジング),Paul:海軍歩兵第3大隊第7中隊・副曹長。板東時代、公会堂での工芸品展に、ハイン(Hayn)副曹長と寄木細工の床と電気の灯る居心地のよさそうな人形部屋を製作・出品した。(2023:丸亀→板東)
568) Pape(パーペ),Otto:所属部隊不明・後備2等機関兵曹。[鉄道機関士]。似島で死亡(年月日不明)。(4647:大阪→似島)
569) Patitz(パーティツ),Richard:国民軍・伍長。[巡査]。元巡査や兵士の中国人スパイに日本軍の偵察をさせた。その際、情報の信憑性を確保するため、常に二人を1日ないしは2日違いでほぼ同じルートを探らせた。二人が出会って相談し、偽の報告をしないようなルートを考えた。二人の情報がほぼ合致すると、報酬として一人1ドルが与えられた。時にはプリューショウ中尉による空からの偵察も、その際の参考にされた。妻と子どもは大戦終結まで青島に留まった。(4574:大阪→似島)
570) Patzig(パッツィヒ),Conrad:海軍膠州派遣砲兵大隊・海軍中尉。〔第12砲台指揮官〕。イルチス地区の空き別荘にプリューショウ中尉と一緒に住んだ。コック等の中国人使用人を三人雇っていた。(4008:大阪→似島)
571) Paulsen(パウルゼン),Arthur:海軍歩兵第3大隊第1中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、茶番劇『放り出されて』に出演した。また『久留米収容所俘虜文集』の印刷に携わった。(653:久留米)
572) Pauly(パオリー),Karl-1918):海軍歩兵第3大隊第2中隊・軍曹。928日に浮山周辺で日本軍に包囲され、グラーボウ中尉等60名が俘虜となったが、その折りパオリー軍曹は、11名の部下とともに逃れた。1918326日久留米で死亡。(3567:熊本→久留米)
573) Pepperhoff(ペッパーホフ),Wilhelm:海軍膠州派遣砲兵大隊第5中隊・2等兵曹。久留米時代の191711月、ペッパーホフから広東のオランダ領事館宛の信書(私物の被服取り寄せに関する内容)があり、検閲の上久留米から情報局へ転送された。(3596:熊本→久留米→名古屋)
574) Perschmann(ペルシュマン),Erich:海軍歩兵第3大隊第4中隊長・陸軍大尉。〔外方陣地部隊右翼陣地〕。日本軍による青島包囲以前は、李村街道の守備を任ぜられ、李村河沿いの下流一帯の守備に当たった。熊本収容所の俘虜代表を務めた。(3569:熊本→久留米)
575) Peus(ポイス),Julius:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(659:久留米)
576) Pfeiffer(プファイファー),Dr. Heinrich Moritz F.:海軍歩兵第3大隊参謀本部獣医長・1等獣医。81日青島を訪問した福島安正大将の騎馬(蒙古馬)がカーキー色に彩色されていると、騎兵中隊の兵士の間にその真似をすることが流行った。プファイファーは獣医の立場から、彩色は馬にとって良くないと警告したが、誰一人その言に耳を傾ける者はいなかった。【《The Japanese Siege of Tsingtau205頁より】(3566:熊本→久留米)
577) Pflüger(プフリューガー),Georg:海軍歩兵第3大隊第7中隊・上等歩兵。第二次大戦後の1952年に神戸総領事館が新設されるまで、ラーン(Laan)等と共に一時的に接収されていたドイツ人学校の資産管理に当たった。(2028:丸亀→板東)
578) Philippi(フィリッピ),Albert:海軍東亜分遣隊第1中隊・2等歩兵。102日、四房山で俘虜となり久留米収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された。(667:久留米)
579) Philipps(フィリップス),Lorenz1892-1918):海軍歩兵第3大隊工兵中隊・2等工兵。19181125日名古屋で死亡、軍人墓地に埋葬された。(2653:名古屋)
580) Pieck(ピーク),Werner:海軍砲兵中隊・予備2等兵曹。久留米時代は演劇活動で、ハウプトマン作の喜劇『同僚クランプトン』他1演目に出演した(3586:熊本→久留米)
581) Pietzcker(ピーツカー),Hans:海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代、公会堂の日曜講演会で「造船について」及び「魚雷と潜水艦」と題して講演した。板東ではバルクホールン(Barghoorn)と演劇グループを結成し、1917710日にシラーの戯曲『群盗』を上演し、1919218日にはゲーテの『エグモント』上演の演出を担当した。(3064:松山→板東)
582) Plätschke(プレチュケ),Guido:海軍歩兵第3大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。大戦終結後、青島のある中国人大地主と雇用について協議をした。(4423:熊本→大分→習志野)
583) Pluemmen(プリュンメン),Hermann:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。928日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。(658:久留米)
584) Poebel(ペーベル),Fritz:海軍歩兵第3大隊第3中隊・上等歩兵。久留米時代は演劇活動で、フルダ作の喜劇『二人きりで』等11演目に主として女役で出演した。19191017日の「収容所楽団と四重唱クラブの共演コンサート」で、『さまよえるオランダ人』より「舵取りの歌」等をテノール独唱した。宣誓解放された。(665:久留米→板東)
585) Pönitz(ペーニッツ),Erich-1919):海軍歩兵第3大隊第4中隊・2等歩兵。191982日肺結核により久留米で死亡。(3578:熊本→久留米)
586) Poppeck(ポッペク),Gustav:海軍歩兵第3大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、公会堂での工芸品展に編み靴下を出品した。(2017:丸亀→板東)
587) Porsch(ポルシュ),Hermann:海軍東亜分遣隊第1中隊・2等歩兵。習志野時代の191918日と9日、収容所で演じられたハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』に年金生活者の妻役で出演した。また同年105日、マルフケのために開催された「謝恩の夕べ」では、二部構成の第二部の演劇でハラーシュタイン作の1幕物茶番劇『射撃手と空クジ』で、料理女の役で出演した。(186:東京→習志野)
588) Poerschke(ペルシュケ),Hermann:海軍野戦砲兵隊・2等野砲兵。19166月初旬にリープマン(Liebmann)と大阪収容所を脱走したが逮捕され、禁固2年の刑を受けた。同年9月に仮出所した。ポーランド人であったことから後に宣誓解放された。(4571:大阪→似島)
589) Pospich(ポスピッヒ),Friedrich:海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊・2等砲兵。大阪収容所時代に脱走を企てて逮捕され,191575日に禁固26月に処せられて大阪監獄に収監された。(4016:大阪→似島)
590) Potter(ポッター),Karl-1919):国民軍・卒。19151011日付けの俘虜情報局による追加名簿では、収容所先が青島となっている。191611月初旬に青島から大阪収容所に送られた。19197月(日にちは不明)似島で死亡。妻のエリーザベトは大戦終結まで青島に留まった。(4695:青島→大阪→似島)
591) Prahl(プラール),Alfred:海軍歩兵第3大隊第3中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、ケルナー作の喜劇『夜番』等6演目に出演した。(662:久留米)
592) Praschma(プラシュマ),Cajus Graf1874-1948):海軍野戦砲兵隊・退役陸軍少尉。〔要塞車厰第3次指揮官〕。[税官吏]。久留米時代、夫人は国分村浦川原の森新別荘に子供二人と住んだ。19183月スイス公使宛に、独亜銀行清算に伴い送金された625円は元来妻子宛のものが誤送されたとして、12日転送された。同年86日習志野に移送された。(3581:熊本→久留米→習志野)
593) Prediger(プレーディガー),Karl:海軍歩兵第3大隊第7中隊・予備副曹長。板東時代、収容所周辺の山林における伐採作業では、午前のクリーマント(Klimant)の後を受けて午後の指揮を執った。(2022:丸亀→板東)
594) Preiss(プライス),Walter:海軍砲兵中隊・2等焚火兵。習志野時代の191918日、9日に収容所で演じられた、ハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』に女中役で出演した。(194:東京→習志野)
595) Prinz(プリンツ),Walter:海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊・砲兵軍曹長。板東時代、砲兵大隊スポーツ協会の役員を務めた。(4248:大阪→徳島→板東)
596) Pröfener(プレフェナー),Johannes:海軍歩兵第3大隊第4中隊・後備2等歩兵。[上海居留地工部音楽隊員]。19141215日、在上海総領事から外務大臣宛に、上海租界の代表から、指揮者ミリエスとその楽団員であるエンゲル、ガーライス及びプレフェナーは非戦闘員なので解放せよとの申し入れがあったが、軍籍があることから不許可になった。(4017:大阪→似島)
597) Puchert(プッヘルト),Wilhelm1892-):海軍東亜分遣隊第2中隊・2等歩兵。名古屋で死亡(年月日不明)、軍人墓地に埋葬された。(1407:福岡→名古屋)
598) Pügner(ピュークナー),Robert:海軍歩兵第3大隊第7中隊・後備伍長。板東時代、収容所の合唱団でバスを担当した。(2024:丸亀→板東)
599) Pupke(プープケ),Friedrich:海軍歩兵第3大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代、工芸品展に自動表示装置付きの雨量測定器を製作・出品した。(2029:丸亀→板東)